ブラック企業から異世界転移した私、辺境伯様に拾われて「仕事は禁止、甘やかすのが俺の仕事だ」と言われて困っています

さら

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第23話 雨の午後の二人きり
 屋敷の窓を叩く雨は、昼を夜に変えるほど濃かった。空は灰色に覆われ、雷鳴も遠くでかすかに唸る。私はサロンの大きな椅子に身を沈め、毛布にくるまれていた。外の世界は水音で塗りつぶされ、ここだけが切り取られたような静寂を持っている。暖炉には火が入り、オレンジ色の揺らぎが壁紙の模様を揺らしていた。

 扉が開き、アレクシスが入ってくる。外套を脱ぎ、軽く肩を払う仕草も無駄がなく、雨粒の冷たささえ彼の動きを際立たせていた。彼は私の正面に腰を下ろし、低い声で言った。

「外はしばらく止みそうにない」
「……ここに閉じ込められたみたいですね」
「閉じ込めるのは得意だ」

 軽口のように聞こえるのに、声の奥には確かな本気が潜んでいた。私は思わず笑ってしまい、毛布を握る指先が熱を持つ。

「困った人ですね。甘やかすだけじゃなくて、閉じ込めるなんて」
「君を困らせることが、私の唯一の悪徳だ」

 彼は手元のティーカップを差し出し、湯気が二人の間に漂った。私は受け取り、唇を寄せる。舌の上に広がる温かさが、体の奥まで溶かしていく。

「こうして二人きりでいると、余計に……」
「余計に?」
「何もしていない自分が、目立つ気がします」

 胸の奥の罪悪感がまた顔を出し、私は視線を伏せた。けれどアレクシスは躊躇なく言い切った。

「何もしていないからこそ、君がここにいると実感できる」
「……そんな理屈、ずるい」
「ずるさも私の仕事だ」

 彼の目が火の明かりを映し、深い湖のように揺れる。私は心臓の鼓動を数えながら、視線を逸らせなかった。外の雨は強さを増し、世界を閉ざす。その音が二人をさらに近づけていた。

第24話 「癒やすのが俺の願い」
 雨の日は夜まで続いた。私たちは暖炉の前に座り、炎の音を聞きながら過ごしていた。アレクシスは膝の上に本を広げていたが、ページはほとんど進まない。彼の視線は本ではなく、ずっと私を見ていたからだ。

「そんなに見ていたら、穴が空きます」
「空いたら、私が塞ぐ」

 その即答に、胸が熱くなった。私は慌てて毛布を引き寄せ、顔を隠す。彼の声は低く、穏やかで、心の奥まで届いてしまう。

「ミサキ。私の願いはひとつだけだ」
「願い?」
「君を癒やすこと。それ以外に、望みはない」

 言葉は炎の揺らぎと一緒に、私の中に広がっていく。喉の奥が詰まり、返事が出てこない。過去の自分が「癒やされる価値なんてない」と囁いてくるけれど、その声は火の音にかき消された。

「……そんなふうに言われたこと、ありません」
「なら、初めてを与えられて光栄だ」

 彼は冗談のように微笑むが、目は真剣だった。私は視線を落とし、毛布の端を強く握った。指先に残る力が、どうしようもなく心を温めていた。

「私、まだ癒やされている途中です」
「途中でいい。終わりを急ぐ必要はない」

 その言葉に救われ、私は肩の力を抜いた。雨の音が少し遠くなり、炎の明かりが心の奥に灯った。

第25話 「ここにいてもいいのかも」
 翌朝、雨は上がり、庭は水滴に覆われていた。葉の先から雫が落ちるたびに、小さな音が響き、世界が目を覚ましていく。私はサロンの窓辺に立ち、その光景を見ていた。

 背後からアレクシスが近づき、静かに言った。
「よく眠れたか」
「ええ、驚くくらい」
「それが一番の成果だ」

 私は笑い、窓に手を添えた。庭に差し込む光が、まるで「ここにいていい」と告げているように思えた。胸の奥で固く絡まっていた糸が、ひとつほどけていく。

「……私、本当にここにいてもいいのかもしれません」
「“かもしれない”ではなく、“いるべきだ”」

 アレクシスの言葉は静かに響き、背中を押した。私は振り返り、彼の瞳を見つめた。視線は強く、でも優しい。

「信じてみます。少しずつ」
「十分だ」

 私の声はかすかに震えていたが、彼は満足そうに頷いた。庭の雫が光を受けて弾け、世界が祝福しているように見えた。

第26話 王都からの使者
 昼過ぎ、屋敷に王都からの馬車が到着した。重厚な紋章が刻まれた扉が開き、使者アルノーが降り立つ。背筋を伸ばしたその姿は、空気を鋭く張り詰めさせた。私は廊下の陰から覗き見し、胸の鼓動を抑えようと深呼吸した。

 大広間での挨拶は形式的だった。アルノーは書簡を差し出し、辺境伯に縁談を勧める旨を述べる。アレクシスは微動だにせず、それを受け取った。

「王都は、領主の婚姻を重視しております」
「知っている。しかし、私の決定に口を挟ませはしない」

 短い言葉に、空気が凍りつく。私は陰から見守るしかなく、心臓が痛いほど鳴っていた。自分の存在が、彼にとって負担になっているのではないか――不安が胸を締め付ける。

 アルノーが去った後、私はそっと近づいた。
「……私のせいで、迷惑をかけていませんか」
「君のせいではない。むしろ、君がいるから拒絶できる」

 その答えに、胸が熱くなる。彼の決意は私のためにある。けれど同時に、その重さに押し潰されそうにもなった。

第27話 揺れる不安
 その夜、私は寝台に横たわりながら眠れずにいた。月光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭を淡く浮かび上がらせる。頭の中では、昼の使者の言葉が繰り返される。王都が望むものと、私がここにいること――両立していいのだろうか。

 扉が開き、アレクシスが入ってきた。
「眠れないのか」
「……考えすぎて」
「考えるより、私を信じろ」

 彼は寝台の端に腰を下ろし、私の手を取った。その温もりが、不安を静かに溶かしていく。

「私が必要とするのは君だけだ。王都の望みなど、知ったことではない」
「でも……」
「でもも何もない」

 強い声に、私は胸が震えた。涙が込み上げるのを隠そうとしたが、彼は気づいていた。彼の指が私の涙を拭い、低い声で告げる。

「君が不安でいることの方が、私には耐えられない」

 その言葉に、胸の奥で硬いものが崩れ落ちた。私は彼の手を握り返し、瞳を閉じた。不安は完全には消えない。けれど彼となら、揺れながらも進める気がした。

第28話 「必要なのは君だけ」
 翌朝、陽が差し込む食堂で、アレクシスは淡々と朝食を取っていた。私は向かいに座り、まだ少し迷いを抱えたままパンをちぎっていた。沈黙が落ち着かなくて、私は勇気を出して問いかけた。

「……本当に、必要なのは私だけですか」
「何度でも言おう。必要なのは君だけだ」

 即答に、心が跳ねた。彼はパンを置き、真っ直ぐ私を見つめる。視線は一切の迷いを許さない。

「君が笑うときも、泣くときも、ここにいるだけでいい。それ以上は求めない」
「……そんなに簡単に言われると、余計に重く感じます」
「なら、重さを私が持つ」

 彼の言葉は鋼のように揺るがなかった。私は目を伏せ、パンの欠片を指で弄んだ。胸の奥に温かさと痛みが同時に広がり、涙が滲んだ。

「信じていいんですよね」
「信じろ。命令だ」

 私は小さく笑い、頷いた。重さはまだ残っている。けれど、その重さごと抱えてもらえるのなら、前へ進めると思えた。
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