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第6話 ざまあの宴
〇
晩餐会の熱気は、やがて社交界全体を飲み込んでいった。
王太子が「婚約者」として名指しした令嬢――それが子爵家の娘、レティシア・アルバーンだという事実は、王都のすみずみまで瞬く間に広がり、貴族たちの噂話は一晩中止まることがなかった。朝が明けても街の通りには人々が集まり、「本当に婚約するのか?」「王妃教育はどうなる?」「あの子爵家が王家の一族に?」と、さまざまな憶測が飛び交っていた。
そんな騒ぎの渦中にあっても、わたしは落ち着いていた。
……いや、正直に言えば、胸の奥はまだざわついていた。殿下と共に歩む未来を受け入れる覚悟は固まっている。けれど、「この先、自分がどう生きていくべきか」という重みが、ゆっくりと心に沈んでいくのを感じていた。
朝の光が差し込むサロンで、わたしは一通の封書を手にしていた。王宮からの正式な文書――“婚約者候補としての教育課程”への参加要請だった。
刺繍、礼儀作法、政治学、外交儀礼、王室の歴史……その内容は膨大で、読むだけで気が遠くなりそうだ。それでも、自然と口元には微笑みが浮かんでいた。
「昔は、どれだけ努力しても“無駄”って言われていたのに……」
「今は、その努力が未来を形作る鍵になりますわね」
メアリが紅茶を注ぎながら言う。彼女の声には誇らしさがにじんでいた。
「レティシア様、社交界は今日、完全にひっくり返りましたよ。昨日まであなたを笑っていた方々が、今はあなたに近づこうと必死です」
「……そう。あの方々が?」
「ええ。“アルバーン家と縁を結ぶ”ことがどれほどの意味を持つか、皆、ようやく気づいたようです」
思わず苦笑が漏れた。あれほど嘲笑し、遠巻きにしていた人々が、今は「旧知の仲」を装って手紙を送ってくる。その掌返しの速さは滑稽で、かつて傷つけられた心が、今はただ冷静にそれを見下ろしていた。
◇
その日の午後。
久しぶりに社交サロンへ顔を出すと、室内は妙な緊張に包まれていた。わたしの姿を見つけた瞬間、貴族たちは一斉に立ち上がり、深々と礼をする。以前なら、わたしが入っても誰ひとりとして目を合わせようとしなかったのに――今ではまるで王族の前に立っているかのような態度だった。
「レティシア様、本日はお目にかかれて光栄ですわ」
「先日の晩餐会、感動いたしました。殿下と並ばれるお姿、まさに“王妃の風格”でした」
「ぜひ一度、我が家の茶会にもいらしていただけませんか?」
次から次へと浴びせられる言葉は、どれも甘く、耳触りが良い。けれど、それが本心ではないことなど、もうわかっている。
――彼らは、わたしそのものを見ているのではない。わたしの“後ろ”にある王太子を見ているのだ。
「ありがたいお言葉ですわ。でも、今は王宮の課程が忙しくて、なかなかお時間が取れませんの」
そう言って微笑むと、人々は一層慌てたように「またの機会に」「必ずご連絡ください」と口々に言った。
――かつて「存在しない者」として扱われたわたしが、今や彼らの一挙手一投足を左右している。
その現実が、皮肉にも痛快だった。
◇
そして、彼女――セリーヌ・グラントがその場に現れたのは、そんな喧騒の中だった。
扉が開き、場の空気がぴんと張り詰める。
かつて社交界の中心にいた彼女が、今や誰にも声をかけられず、一人で歩いてくる。かつての威圧感はなく、どこか影を背負ったような姿だった。ドレスは豪華でも、その立ち居振る舞いには自信の欠片もない。
「……ごきげんよう、皆様」
静まり返った空間で、セリーヌの声だけが虚しく響く。誰も応えない。人々は目を逸らし、あからさまに距離を取った。かつて彼女の取り巻きだった令嬢たちも、別の輪に移って話に夢中なふりをしている。
「……どうして……」
彼女が絞り出すように呟くのが聞こえた。
その声は、もはや怒りや憎しみではなかった。困惑と、戸惑いと、深い絶望が混じったものだった。
「ごきげんよう、セリーヌ様」
わたしが声をかけると、彼女ははっとしたようにこちらを向いた。その瞳の奥には、プライドの欠片がまだ残っているものの、それを支える力はもうほとんど残っていなかった。
「……あなた、来ると思っていなかったわ」
「ええ、わたしもあなたがここにいるとは思わなかったもの」
「皆、急に冷たくなったのよ。昨日まで笑顔で話しかけてきたのに、今日は誰も……」
「そういうものですわ、社交界は。上に立つ者には群がり、落ちた者には背を向ける。あなたが一番よく知っていたはずです」
セリーヌは言葉を失い、唇を噛んだ。その姿は、かつて高みからわたしを見下ろしていた“公爵令嬢”のそれではなかった。
彼女はただの一人の少女として、初めて“孤独”と“恐怖”という現実に向き合っていた。
「……あなた、わたしを笑いに来たの?」
「いいえ。わたしは、あなたのようにならないためにここに立っているのです」
その言葉に、セリーヌの瞳が大きく揺れた。
“ざまあ”という言葉が頭をよぎる。しかしそれは、復讐の快楽でも、憎しみの報いでもなかった。
――これは、過去との決別だ。
わたしが踏みつけられた過去に、堂々と背を向けるための瞬間だった。
「あなたがどんな言葉を投げても、わたしはもう揺らぎません。だって、わたしはわたしを誇れるから」
「……誇れる?」
「ええ。あなたに嘲られても、蔑まれても、わたしは諦めなかった。それが、わたしという人間ですわ」
沈黙が落ちた。誰もが息を呑んで、その場面を見守っている。かつて“笑い者”だった少女が、今は“笑う者”を見下ろしている――その逆転の構図が、社交界全体に鮮烈な印象を残していた。
セリーヌはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて視線を落とし、何も言わずにその場を去っていった。背中は小刻みに震え、涙をこらえているのが遠目にもわかった。
――これが、彼女の“ざまあ”だ。
嘲笑と優越の上に築いた王座が、音を立てて崩れ去る瞬間。
そして、それを見届けたわたしの心は、不思議なほど穏やかだった。
◇
サロンを出て馬車に乗り込むと、夕暮れの街が広がっていた。
茜色の空の下で、わたしは小さく息を吐く。
過去は、もう追いかけてこない。傷も、涙も、今のわたしを形作る大切な“軌跡”だ。
隣には、手を差し伸べてくれた彼がいる。
そして、未来は今、この手の中にある。
――ざまあ、なんて言葉では足りない。
これは、“自分自身の勝利”なのだ。
馬車は静かに走り出し、わたしはまっすぐ前を見据えた。
もう振り返らない。過去を超えた先で、わたしは本当の幸せを掴むのだから。
△
社交界での“逆転劇”が広く知れ渡ったことで、わたしの名前は一夜にして王都中に広がった。街を歩けば見知らぬ人々が振り返り、使用人たちは道を譲り、商人たちは笑顔で頭を下げる。昨日まで石ころのように踏まれていた存在が、今や“未来の王妃候補”として扱われている――その変化は滑稽で、同時に少しだけ怖くもあった。
人の評価は、かくも簡単にひっくり返る。
だが、そんなことはもうわたしの中心ではなかった。大切なのは“他人の評価”ではなく、“自分がどう生きるか”だと、ようやく心から理解できたからだ。
◇
春が過ぎ、季節は初夏へと向かっていた。
王宮では次期国王の即位を控え、準備が進んでいる。式典には世界各国の使節が集い、各地の貴族が顔を揃える――その場で、アレクシス殿下は正式に「婚約者」を発表すると決めていた。
わたしもまた、その日を前に忙しくなっていた。王妃としての教育課程は日を追うごとに難しくなり、朝から晩まで学ぶことばかりだ。礼儀作法や舞踏、歴史や外交の知識だけでなく、民の声を聞く姿勢や王族の倫理観までもが問われる。
それは“ただの恋”では決して届かない、未来への覚悟を試されているようだった。
「本当に大変そうですわね」
メアリが紅茶を注ぎながら、少し心配そうにわたしを見つめる。
「ええ。でも、不思議とつらくはありません。大変ではあるけれど、すべてが“自分のため”になる気がするの」
「昔のあなたなら、こんな日々は想像もしていなかったでしょうね」
「そうね……“何をしても無駄”だと思っていたあの頃からは、ずいぶん遠くまで来たわ」
カップに口をつけながら、ふと窓の外を見る。青空が広がり、街の鐘が昼を告げていた。
――この道の先に、彼と共に歩む未来がある。
そう信じられることが、今のわたしにとって何よりの力になっていた。
◇
そのころ、セリーヌ・グラントは別の場所で、まったく違う現実を生きていた。
かつて「社交界の華」と呼ばれた彼女は、今ではどの茶会にも招かれず、親しかった令嬢たちも皆、距離を置いていた。新しい縁談の話は一切来ず、家の評判も下がる一方だ。商会との取引も減り、父の顔には深い皺が刻まれていく。
「セリーヌ……お前があの場で余計なことを言わなければ、こんなことにはならなかった」
父の声は怒りではなく、失望に満ちていた。
それが彼女の胸に何よりも重く響く。
「……わたくしは、間違っていなかったわ。あんな、子爵家の娘が王妃になるなんて――」
「現実を見ろ。今やアルバーン家の方が、我が家よりもずっと“上”だ」
その一言が、セリーヌの心を粉々に砕いた。
かつて見下していた相手が、自分の頭上に立っている――それは、彼女が最も恐れていた未来だった。
孤独の中で、彼女は初めて“自分が失ったもの”を理解し始める。
それは殿下の信頼でも、社交界での地位でもない。“人としての誇り”だった。
誰かを貶めることでしか自分を保てなかったその心が、今、最も空虚な形で自分自身を蝕んでいた。
◇
即位式の前夜。王宮では晩餐会が開かれ、国内外からの賓客が集まっていた。殿下と並んで歩くと、視線が一斉に向けられる。昔のような嘲笑ではなく、今は憧れと尊敬と、そして少しの嫉妬が混じった視線だ。
「緊張していますか?」
「ええ、少し。でも……不思議と怖くはありません」
「それは、あなたが自分の力でここまで来たからです。私が手を差し伸べただけでは、今日のあなたにはなれなかった」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
わたしは殿下の手を見つめ、そして強く握り返した。
「……ありがとうございます。殿下のおかげで、わたしは自分を好きになれました」
「ならば、今度は私の番です。あなたと共に歩むことで、私も自分を誇れる王になります」
言葉のひとつひとつが、未来への約束のように響いた。
この道は決して楽ではないだろう。王妃となれば、政治的な圧力も、周囲の嫉妬も、終わることはない。だがそれでも――隣に彼がいるなら、どんな苦難も恐れる理由はなかった。
◇
晩餐会の終盤、会場の片隅で一人の影がわたしを見つめていた。
セリーヌだった。誰も声をかけず、誰も近づかない場所で、彼女だけがぽつんと立ち尽くしている。
その瞳は、怒りでも憎しみでもなく、どこか“後悔”に似た色を帯びていた。
やがて彼女は、ゆっくりと頭を下げた。言葉はない。ただ、かつての自分がどれほど傲慢だったかを、ようやく理解したという沈黙の謝罪だった。
それを見て、わたしはほんの少しだけ微笑んだ。もう彼女を憎む気持ちはなかった。ただ、あの頃の自分と彼女の両方に「お疲れさま」と言いたかった。
――ざまあ、という言葉の本当の意味は“勝つこと”じゃない。
“過去の自分”を超えて、“未来の自分”として立っていること。
そして今、わたしは確かにその場所に立っていた。
◇
翌日、即位式が行われた。王太子アレクシス・ヴァルデンが新たな国王として戴冠し、その隣には正式な婚約者として紹介されたわたしがいた。
人々の歓声と鐘の音が鳴り響く中、彼はそっと手を差し出す。
「――共に、歩んでくれますか?」
「ええ。いつまでも、どこまでも」
手と手が重なった瞬間、あの日の涙も、嘲笑も、痛みも、すべてが“糧”へと変わった。
もう“いじめられっこ”だったわたしはいない。
今ここにいるのは、誇りを胸に抱き、未来へと歩み出すひとりの女性だ。
そしてその隣には、最愛の人がいる――。
それが、わたしのすべての答えだった。
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晩餐会の熱気は、やがて社交界全体を飲み込んでいった。
王太子が「婚約者」として名指しした令嬢――それが子爵家の娘、レティシア・アルバーンだという事実は、王都のすみずみまで瞬く間に広がり、貴族たちの噂話は一晩中止まることがなかった。朝が明けても街の通りには人々が集まり、「本当に婚約するのか?」「王妃教育はどうなる?」「あの子爵家が王家の一族に?」と、さまざまな憶測が飛び交っていた。
そんな騒ぎの渦中にあっても、わたしは落ち着いていた。
……いや、正直に言えば、胸の奥はまだざわついていた。殿下と共に歩む未来を受け入れる覚悟は固まっている。けれど、「この先、自分がどう生きていくべきか」という重みが、ゆっくりと心に沈んでいくのを感じていた。
朝の光が差し込むサロンで、わたしは一通の封書を手にしていた。王宮からの正式な文書――“婚約者候補としての教育課程”への参加要請だった。
刺繍、礼儀作法、政治学、外交儀礼、王室の歴史……その内容は膨大で、読むだけで気が遠くなりそうだ。それでも、自然と口元には微笑みが浮かんでいた。
「昔は、どれだけ努力しても“無駄”って言われていたのに……」
「今は、その努力が未来を形作る鍵になりますわね」
メアリが紅茶を注ぎながら言う。彼女の声には誇らしさがにじんでいた。
「レティシア様、社交界は今日、完全にひっくり返りましたよ。昨日まであなたを笑っていた方々が、今はあなたに近づこうと必死です」
「……そう。あの方々が?」
「ええ。“アルバーン家と縁を結ぶ”ことがどれほどの意味を持つか、皆、ようやく気づいたようです」
思わず苦笑が漏れた。あれほど嘲笑し、遠巻きにしていた人々が、今は「旧知の仲」を装って手紙を送ってくる。その掌返しの速さは滑稽で、かつて傷つけられた心が、今はただ冷静にそれを見下ろしていた。
◇
その日の午後。
久しぶりに社交サロンへ顔を出すと、室内は妙な緊張に包まれていた。わたしの姿を見つけた瞬間、貴族たちは一斉に立ち上がり、深々と礼をする。以前なら、わたしが入っても誰ひとりとして目を合わせようとしなかったのに――今ではまるで王族の前に立っているかのような態度だった。
「レティシア様、本日はお目にかかれて光栄ですわ」
「先日の晩餐会、感動いたしました。殿下と並ばれるお姿、まさに“王妃の風格”でした」
「ぜひ一度、我が家の茶会にもいらしていただけませんか?」
次から次へと浴びせられる言葉は、どれも甘く、耳触りが良い。けれど、それが本心ではないことなど、もうわかっている。
――彼らは、わたしそのものを見ているのではない。わたしの“後ろ”にある王太子を見ているのだ。
「ありがたいお言葉ですわ。でも、今は王宮の課程が忙しくて、なかなかお時間が取れませんの」
そう言って微笑むと、人々は一層慌てたように「またの機会に」「必ずご連絡ください」と口々に言った。
――かつて「存在しない者」として扱われたわたしが、今や彼らの一挙手一投足を左右している。
その現実が、皮肉にも痛快だった。
◇
そして、彼女――セリーヌ・グラントがその場に現れたのは、そんな喧騒の中だった。
扉が開き、場の空気がぴんと張り詰める。
かつて社交界の中心にいた彼女が、今や誰にも声をかけられず、一人で歩いてくる。かつての威圧感はなく、どこか影を背負ったような姿だった。ドレスは豪華でも、その立ち居振る舞いには自信の欠片もない。
「……ごきげんよう、皆様」
静まり返った空間で、セリーヌの声だけが虚しく響く。誰も応えない。人々は目を逸らし、あからさまに距離を取った。かつて彼女の取り巻きだった令嬢たちも、別の輪に移って話に夢中なふりをしている。
「……どうして……」
彼女が絞り出すように呟くのが聞こえた。
その声は、もはや怒りや憎しみではなかった。困惑と、戸惑いと、深い絶望が混じったものだった。
「ごきげんよう、セリーヌ様」
わたしが声をかけると、彼女ははっとしたようにこちらを向いた。その瞳の奥には、プライドの欠片がまだ残っているものの、それを支える力はもうほとんど残っていなかった。
「……あなた、来ると思っていなかったわ」
「ええ、わたしもあなたがここにいるとは思わなかったもの」
「皆、急に冷たくなったのよ。昨日まで笑顔で話しかけてきたのに、今日は誰も……」
「そういうものですわ、社交界は。上に立つ者には群がり、落ちた者には背を向ける。あなたが一番よく知っていたはずです」
セリーヌは言葉を失い、唇を噛んだ。その姿は、かつて高みからわたしを見下ろしていた“公爵令嬢”のそれではなかった。
彼女はただの一人の少女として、初めて“孤独”と“恐怖”という現実に向き合っていた。
「……あなた、わたしを笑いに来たの?」
「いいえ。わたしは、あなたのようにならないためにここに立っているのです」
その言葉に、セリーヌの瞳が大きく揺れた。
“ざまあ”という言葉が頭をよぎる。しかしそれは、復讐の快楽でも、憎しみの報いでもなかった。
――これは、過去との決別だ。
わたしが踏みつけられた過去に、堂々と背を向けるための瞬間だった。
「あなたがどんな言葉を投げても、わたしはもう揺らぎません。だって、わたしはわたしを誇れるから」
「……誇れる?」
「ええ。あなたに嘲られても、蔑まれても、わたしは諦めなかった。それが、わたしという人間ですわ」
沈黙が落ちた。誰もが息を呑んで、その場面を見守っている。かつて“笑い者”だった少女が、今は“笑う者”を見下ろしている――その逆転の構図が、社交界全体に鮮烈な印象を残していた。
セリーヌはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて視線を落とし、何も言わずにその場を去っていった。背中は小刻みに震え、涙をこらえているのが遠目にもわかった。
――これが、彼女の“ざまあ”だ。
嘲笑と優越の上に築いた王座が、音を立てて崩れ去る瞬間。
そして、それを見届けたわたしの心は、不思議なほど穏やかだった。
◇
サロンを出て馬車に乗り込むと、夕暮れの街が広がっていた。
茜色の空の下で、わたしは小さく息を吐く。
過去は、もう追いかけてこない。傷も、涙も、今のわたしを形作る大切な“軌跡”だ。
隣には、手を差し伸べてくれた彼がいる。
そして、未来は今、この手の中にある。
――ざまあ、なんて言葉では足りない。
これは、“自分自身の勝利”なのだ。
馬車は静かに走り出し、わたしはまっすぐ前を見据えた。
もう振り返らない。過去を超えた先で、わたしは本当の幸せを掴むのだから。
△
社交界での“逆転劇”が広く知れ渡ったことで、わたしの名前は一夜にして王都中に広がった。街を歩けば見知らぬ人々が振り返り、使用人たちは道を譲り、商人たちは笑顔で頭を下げる。昨日まで石ころのように踏まれていた存在が、今や“未来の王妃候補”として扱われている――その変化は滑稽で、同時に少しだけ怖くもあった。
人の評価は、かくも簡単にひっくり返る。
だが、そんなことはもうわたしの中心ではなかった。大切なのは“他人の評価”ではなく、“自分がどう生きるか”だと、ようやく心から理解できたからだ。
◇
春が過ぎ、季節は初夏へと向かっていた。
王宮では次期国王の即位を控え、準備が進んでいる。式典には世界各国の使節が集い、各地の貴族が顔を揃える――その場で、アレクシス殿下は正式に「婚約者」を発表すると決めていた。
わたしもまた、その日を前に忙しくなっていた。王妃としての教育課程は日を追うごとに難しくなり、朝から晩まで学ぶことばかりだ。礼儀作法や舞踏、歴史や外交の知識だけでなく、民の声を聞く姿勢や王族の倫理観までもが問われる。
それは“ただの恋”では決して届かない、未来への覚悟を試されているようだった。
「本当に大変そうですわね」
メアリが紅茶を注ぎながら、少し心配そうにわたしを見つめる。
「ええ。でも、不思議とつらくはありません。大変ではあるけれど、すべてが“自分のため”になる気がするの」
「昔のあなたなら、こんな日々は想像もしていなかったでしょうね」
「そうね……“何をしても無駄”だと思っていたあの頃からは、ずいぶん遠くまで来たわ」
カップに口をつけながら、ふと窓の外を見る。青空が広がり、街の鐘が昼を告げていた。
――この道の先に、彼と共に歩む未来がある。
そう信じられることが、今のわたしにとって何よりの力になっていた。
◇
そのころ、セリーヌ・グラントは別の場所で、まったく違う現実を生きていた。
かつて「社交界の華」と呼ばれた彼女は、今ではどの茶会にも招かれず、親しかった令嬢たちも皆、距離を置いていた。新しい縁談の話は一切来ず、家の評判も下がる一方だ。商会との取引も減り、父の顔には深い皺が刻まれていく。
「セリーヌ……お前があの場で余計なことを言わなければ、こんなことにはならなかった」
父の声は怒りではなく、失望に満ちていた。
それが彼女の胸に何よりも重く響く。
「……わたくしは、間違っていなかったわ。あんな、子爵家の娘が王妃になるなんて――」
「現実を見ろ。今やアルバーン家の方が、我が家よりもずっと“上”だ」
その一言が、セリーヌの心を粉々に砕いた。
かつて見下していた相手が、自分の頭上に立っている――それは、彼女が最も恐れていた未来だった。
孤独の中で、彼女は初めて“自分が失ったもの”を理解し始める。
それは殿下の信頼でも、社交界での地位でもない。“人としての誇り”だった。
誰かを貶めることでしか自分を保てなかったその心が、今、最も空虚な形で自分自身を蝕んでいた。
◇
即位式の前夜。王宮では晩餐会が開かれ、国内外からの賓客が集まっていた。殿下と並んで歩くと、視線が一斉に向けられる。昔のような嘲笑ではなく、今は憧れと尊敬と、そして少しの嫉妬が混じった視線だ。
「緊張していますか?」
「ええ、少し。でも……不思議と怖くはありません」
「それは、あなたが自分の力でここまで来たからです。私が手を差し伸べただけでは、今日のあなたにはなれなかった」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
わたしは殿下の手を見つめ、そして強く握り返した。
「……ありがとうございます。殿下のおかげで、わたしは自分を好きになれました」
「ならば、今度は私の番です。あなたと共に歩むことで、私も自分を誇れる王になります」
言葉のひとつひとつが、未来への約束のように響いた。
この道は決して楽ではないだろう。王妃となれば、政治的な圧力も、周囲の嫉妬も、終わることはない。だがそれでも――隣に彼がいるなら、どんな苦難も恐れる理由はなかった。
◇
晩餐会の終盤、会場の片隅で一人の影がわたしを見つめていた。
セリーヌだった。誰も声をかけず、誰も近づかない場所で、彼女だけがぽつんと立ち尽くしている。
その瞳は、怒りでも憎しみでもなく、どこか“後悔”に似た色を帯びていた。
やがて彼女は、ゆっくりと頭を下げた。言葉はない。ただ、かつての自分がどれほど傲慢だったかを、ようやく理解したという沈黙の謝罪だった。
それを見て、わたしはほんの少しだけ微笑んだ。もう彼女を憎む気持ちはなかった。ただ、あの頃の自分と彼女の両方に「お疲れさま」と言いたかった。
――ざまあ、という言葉の本当の意味は“勝つこと”じゃない。
“過去の自分”を超えて、“未来の自分”として立っていること。
そして今、わたしは確かにその場所に立っていた。
◇
翌日、即位式が行われた。王太子アレクシス・ヴァルデンが新たな国王として戴冠し、その隣には正式な婚約者として紹介されたわたしがいた。
人々の歓声と鐘の音が鳴り響く中、彼はそっと手を差し出す。
「――共に、歩んでくれますか?」
「ええ。いつまでも、どこまでも」
手と手が重なった瞬間、あの日の涙も、嘲笑も、痛みも、すべてが“糧”へと変わった。
もう“いじめられっこ”だったわたしはいない。
今ここにいるのは、誇りを胸に抱き、未来へと歩み出すひとりの女性だ。
そしてその隣には、最愛の人がいる――。
それが、わたしのすべての答えだった。
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