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第4話 夜の書斎で
夕食を終えて自室に戻ったものの、胸の奥が妙に熱く、眠るにはまだ早い気がしていた。窓の外には月明かりが静かに差し、庭の噴水が銀色の輪郭を描いている。柔らかなベッドに横たわっても、まぶたの裏でさっきの食卓の光景が何度も蘇った。あたたかな料理、笑顔、そして「姫君だ」と囁いた彼の声。思い出すたびに胸が跳ねて、眠気は遠のくばかりだった。
うずうずする落ち着かなさに耐えきれず、そっと部屋を抜け出した。廊下は夜用のランプが灯され、オレンジの光が石壁を柔らかく照らしている。足音を殺して歩くと、遠くで紙をめくる音がかすかに響いた。好奇心に導かれて進むと、大きな扉の隙間から灯りが漏れていた。
「……失礼します」
小さな声で呟き、扉を軽く押す。中に広がっていたのは、壁一面を本棚で埋め尽くした書斎だった。革張りの背表紙が整然と並び、机の上には燭台がいくつも置かれ、紙束と羽ペンが広がっている。その机に座っていたのは、やはりレオンハルトだった。
「みなみ?」
彼は顔を上げ、驚きと共に微笑を浮かべた。
「眠れないのですか」
「……はい。なんだか落ち着かなくて」
「よければ、こちらへ」
彼が手で示した椅子に腰を下ろすと、木の香りとインクの匂いが鼻をくすぐった。机の上には領地の地図や帳簿が広がり、細かい文字が整然と並んでいる。
「お仕事中だったのでは?」
「ええ、明日の会議のために少しだけ。ですが、あなたが来てくれたなら、こちらのほうが大事です」
「そんな……私はただの客人なのに」
「客人だからこそ大事にするのです。けれど、私にとってはそれ以上かもしれません」
さらりと告げられ、心臓が高鳴る。彼はすぐに視線を帳簿に戻したが、その頬にかすかな赤みが差しているのを見逃さなかった。
「……文字を読むのは得意ですか?」
「はい。前の世界でも、書類を扱う仕事ばかりしていましたから」
「なら、試しにこちらを」
彼が差し出したのは村の収穫記録だった。私は受け取り、慣れた手つきで目を走らせる。数字の並び、記号、書き込み。気づけば社畜時代の感覚が蘇り、自然と眉を寄せていた。
「ここの数字、前の行と合いません。記録の誤りでは?」
「……さすがだ。私も気になっていたが、見抜くのが早い」
褒められると同時に、胸に冷たい痛みが走った。気づけばまた「役に立たなきゃ」と思っている自分がいた。私は慌てて記録を閉じる。
「す、すみません! 勝手に仕事みたいなことを……」
「謝らなくていい。むしろ助かりました。ただ……」
「ただ?」
「みなみ、ここでは無理をしないでください。あなたの力を借りたい気持ちはある。しかし、それ以上に、あなたには安らいでいてほしい」
真剣な声に、胸が震える。彼の瞳は蝋燭の光を映し、深く澄んでいた。
「安らぐことが、役に立つことになるのでしょうか」
「なります。私にとっては、あなたが笑ってくれることが一番の力です」
その言葉に、熱いものが目頭にこみ上げる。けれど涙を見せるのは恥ずかしくて、私はうつむきながら笑った。
「……変ですね。泣きそうなのに、嬉しくて」
「それでいいのです。泣いても笑っても、あなたが素直でいてくれることが嬉しい」
静かな時間が流れた。外では風が枝を揺らし、窓越しに月が顔を覗かせている。机に置かれた本の影が、私と彼の間に柔らかく揺れ動いていた。
「今夜はもう遅い。部屋まで送ろう」
「いえ、歩けます」
「なら、せめて途中まで」
そう言って立ち上がった彼の背は大きく、頼もしさを帯びていた。私は本棚を振り返り、再び机に戻ってくる光景を思い浮かべながら、彼と並んで歩き出した。
廊下に差すランプの光が二人の影を寄り添わせ、夜の静けさに溶けていった。
夕食を終えて自室に戻ったものの、胸の奥が妙に熱く、眠るにはまだ早い気がしていた。窓の外には月明かりが静かに差し、庭の噴水が銀色の輪郭を描いている。柔らかなベッドに横たわっても、まぶたの裏でさっきの食卓の光景が何度も蘇った。あたたかな料理、笑顔、そして「姫君だ」と囁いた彼の声。思い出すたびに胸が跳ねて、眠気は遠のくばかりだった。
うずうずする落ち着かなさに耐えきれず、そっと部屋を抜け出した。廊下は夜用のランプが灯され、オレンジの光が石壁を柔らかく照らしている。足音を殺して歩くと、遠くで紙をめくる音がかすかに響いた。好奇心に導かれて進むと、大きな扉の隙間から灯りが漏れていた。
「……失礼します」
小さな声で呟き、扉を軽く押す。中に広がっていたのは、壁一面を本棚で埋め尽くした書斎だった。革張りの背表紙が整然と並び、机の上には燭台がいくつも置かれ、紙束と羽ペンが広がっている。その机に座っていたのは、やはりレオンハルトだった。
「みなみ?」
彼は顔を上げ、驚きと共に微笑を浮かべた。
「眠れないのですか」
「……はい。なんだか落ち着かなくて」
「よければ、こちらへ」
彼が手で示した椅子に腰を下ろすと、木の香りとインクの匂いが鼻をくすぐった。机の上には領地の地図や帳簿が広がり、細かい文字が整然と並んでいる。
「お仕事中だったのでは?」
「ええ、明日の会議のために少しだけ。ですが、あなたが来てくれたなら、こちらのほうが大事です」
「そんな……私はただの客人なのに」
「客人だからこそ大事にするのです。けれど、私にとってはそれ以上かもしれません」
さらりと告げられ、心臓が高鳴る。彼はすぐに視線を帳簿に戻したが、その頬にかすかな赤みが差しているのを見逃さなかった。
「……文字を読むのは得意ですか?」
「はい。前の世界でも、書類を扱う仕事ばかりしていましたから」
「なら、試しにこちらを」
彼が差し出したのは村の収穫記録だった。私は受け取り、慣れた手つきで目を走らせる。数字の並び、記号、書き込み。気づけば社畜時代の感覚が蘇り、自然と眉を寄せていた。
「ここの数字、前の行と合いません。記録の誤りでは?」
「……さすがだ。私も気になっていたが、見抜くのが早い」
褒められると同時に、胸に冷たい痛みが走った。気づけばまた「役に立たなきゃ」と思っている自分がいた。私は慌てて記録を閉じる。
「す、すみません! 勝手に仕事みたいなことを……」
「謝らなくていい。むしろ助かりました。ただ……」
「ただ?」
「みなみ、ここでは無理をしないでください。あなたの力を借りたい気持ちはある。しかし、それ以上に、あなたには安らいでいてほしい」
真剣な声に、胸が震える。彼の瞳は蝋燭の光を映し、深く澄んでいた。
「安らぐことが、役に立つことになるのでしょうか」
「なります。私にとっては、あなたが笑ってくれることが一番の力です」
その言葉に、熱いものが目頭にこみ上げる。けれど涙を見せるのは恥ずかしくて、私はうつむきながら笑った。
「……変ですね。泣きそうなのに、嬉しくて」
「それでいいのです。泣いても笑っても、あなたが素直でいてくれることが嬉しい」
静かな時間が流れた。外では風が枝を揺らし、窓越しに月が顔を覗かせている。机に置かれた本の影が、私と彼の間に柔らかく揺れ動いていた。
「今夜はもう遅い。部屋まで送ろう」
「いえ、歩けます」
「なら、せめて途中まで」
そう言って立ち上がった彼の背は大きく、頼もしさを帯びていた。私は本棚を振り返り、再び机に戻ってくる光景を思い浮かべながら、彼と並んで歩き出した。
廊下に差すランプの光が二人の影を寄り添わせ、夜の静けさに溶けていった。
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