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第7話 街歩きと小さな救出劇
〇
翌朝、王宮での重苦しい空気がまだ胸に残っていたが、アルベルトは唐突に「外に出よう」と告げた。政務に追われる宰相が、自ら街歩きを提案するなんて思いもしなかった。私が目を丸くすると、彼は灰色の瞳を細めて言った。
「外の空気を吸え。ここは牢ではない」
「……はい」
返事をした瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
邸から街までは馬車でしばらく。窓の外には石造りの建物が並び、行き交う人々の声が溢れていた。市場に入ると、果物や布地、香辛料の匂いが混ざり合い、鮮やかな声が飛び交う。私は思わず目を輝かせ、店先を覗き込んだ。
「綺麗……」
色とりどりの布を手に取ると、店主の女が笑顔で広げて見せてくれる。私は胸が弾んだが、隣に立つアルベルトは相変わらず涼やかな顔で、人々の視線を集めていた。
群衆の中で囁き声が混じる。
「あれが宰相閣下の奥方か」
「ずいぶん可憐な……」
その声に頬が熱くなり、私は俯いた。だがアルベルトは気にも留めず、私に布を渡して言った。
「君の好きな色を選べ」
「え、でも……」
「家計を心配する必要はない。これは君の裁量だ」
断言され、私は勇気を出して淡い青の布を指さした。彼は無言で支払いを済ませ、私の手に袋を載せた。
その時だった。背後から男たちの大声が近づき、私の腕に突然、荒々しい手が伸びた。
「お嬢さん、いい布だな。俺たちに見せてみろよ」
にやつく顔、酒臭い息。私は瞬間的に身を固くした。周囲の人々がざわめき、距離を取る。恐怖が喉を塞いだ。
だが次の瞬間、私の手首を掴んでいた力はするりと消え、男の体が後ろに引き倒された。アルベルトがいつの間にか間に入り、灰色の瞳で鋭く睨みつけていた。
「下がれ」
その声は氷の刃のように鋭く、群衆のざわめきすら凍りついた。男たちは青ざめて口ごもり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
私は震える指を胸に当て、息を整えようとした。アルベルトは振り返り、私の肩に大きな手を置く。
「怪我はないか」
「……はい。でも、怖かった……」
「当然だ。だが、君に触れる者は誰も許さない」
その低い宣言が、周囲の喧騒よりも強く響いた。胸の奥に新しい鼓動が生まれ、私は彼の灰色の瞳を見返すことしかできなかった。
△
市場のざわめきが再び戻り、人々は何事もなかったかのように行き交い始めた。けれど私の足はまだ震えていて、袋を抱える腕に力が入らなかった。アルベルトはそれを見て、私から袋を受け取り、片手で軽々と持った。
「……すみません」
「謝罪はいらない。恐怖は自然な反応だ」
彼は短く言い、私を連れて近くの菓子屋に入った。甘い匂いと焼きたての温もりが広がり、心の張りつめた糸が少し緩んだ。
「ここで少し休め」
彼は席を選び、私を座らせると、店主に声をかけて温かい菓子とミルクを頼んだ。私は両手でカップを包み、口に運ぶ。甘さが舌に広がり、震えが少しずつ収まっていく。視線を上げると、アルベルトが黙ってこちらを見ていた。
「……私、役に立てていないのでは」
「立つ必要はない。君は守られるべき立場だ」
「でも、それでは……ただの足手まといに」
言葉を遮るように、彼の手が私の手に重なった。大きくて温かい掌。驚きに声を失ったまま、私は彼を見つめる。
「足手まといではない。君がいることで、私は動ける。意味はそれで十分だ」
胸が熱くなり、目が潤む。私は必死に涙をこらえ、微笑もうとした。だが彼は気づいたように、手をそっと離し、代わりに菓子を皿に移して差し出した。
「甘さは心を落ち着かせる。食べろ」
「……はい」
一口かじると、外は香ばしく、中は柔らかい。熱が舌から胸へ広がり、先ほどの恐怖は少しずつ遠ざかっていった。
店を出ると、夕暮れが街を橙色に染めていた。私は袋を抱え直し、歩きながら言葉を探した。
「……私、もっと強くならなければ」
「強さは必要ない。ただ、君は君でいればいい」
その即答に、胸がじんわりと熱くなる。彼の隣を歩くだけで、足取りが軽くなる気がした。
◇
邸に戻る頃には、街の灯りがひとつ、またひとつと灯っていた。馬車を降りると、庭の緑が夜気に包まれ、星々が瞬いている。私は袋を大事に抱え、扉を開けてくれる執事に笑顔を見せた。
居間で袋を開けると、淡い青の布が月光を受けて輝いた。私は指で撫で、胸の奥に温かな波を感じる。アルベルトが横に立ち、布を手に取った。
「君に似合う」
「……そう、思いますか」
「間違いない」
短い言葉なのに、胸がいっぱいになった。私は視線を落とし、布を抱きしめる。
その夜、寝室で布を机に置き、蝋燭の明かりに透かしてみた。青い影が壁に映り、まるで今日一日の記憶を刻むようだった。呼び鈴には触れなかった。もう鳴らさずとも、彼の言葉が灯りとなって胸に残っているから。
――「君に触れる者は誰も許さない」。
その宣言が耳の奥で繰り返され、私の眠りを守るように響き続けた。瞼を閉じると、恐怖よりも温もりが強く残り、私は静かに夢へと落ちていった。
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翌朝、王宮での重苦しい空気がまだ胸に残っていたが、アルベルトは唐突に「外に出よう」と告げた。政務に追われる宰相が、自ら街歩きを提案するなんて思いもしなかった。私が目を丸くすると、彼は灰色の瞳を細めて言った。
「外の空気を吸え。ここは牢ではない」
「……はい」
返事をした瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
邸から街までは馬車でしばらく。窓の外には石造りの建物が並び、行き交う人々の声が溢れていた。市場に入ると、果物や布地、香辛料の匂いが混ざり合い、鮮やかな声が飛び交う。私は思わず目を輝かせ、店先を覗き込んだ。
「綺麗……」
色とりどりの布を手に取ると、店主の女が笑顔で広げて見せてくれる。私は胸が弾んだが、隣に立つアルベルトは相変わらず涼やかな顔で、人々の視線を集めていた。
群衆の中で囁き声が混じる。
「あれが宰相閣下の奥方か」
「ずいぶん可憐な……」
その声に頬が熱くなり、私は俯いた。だがアルベルトは気にも留めず、私に布を渡して言った。
「君の好きな色を選べ」
「え、でも……」
「家計を心配する必要はない。これは君の裁量だ」
断言され、私は勇気を出して淡い青の布を指さした。彼は無言で支払いを済ませ、私の手に袋を載せた。
その時だった。背後から男たちの大声が近づき、私の腕に突然、荒々しい手が伸びた。
「お嬢さん、いい布だな。俺たちに見せてみろよ」
にやつく顔、酒臭い息。私は瞬間的に身を固くした。周囲の人々がざわめき、距離を取る。恐怖が喉を塞いだ。
だが次の瞬間、私の手首を掴んでいた力はするりと消え、男の体が後ろに引き倒された。アルベルトがいつの間にか間に入り、灰色の瞳で鋭く睨みつけていた。
「下がれ」
その声は氷の刃のように鋭く、群衆のざわめきすら凍りついた。男たちは青ざめて口ごもり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
私は震える指を胸に当て、息を整えようとした。アルベルトは振り返り、私の肩に大きな手を置く。
「怪我はないか」
「……はい。でも、怖かった……」
「当然だ。だが、君に触れる者は誰も許さない」
その低い宣言が、周囲の喧騒よりも強く響いた。胸の奥に新しい鼓動が生まれ、私は彼の灰色の瞳を見返すことしかできなかった。
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市場のざわめきが再び戻り、人々は何事もなかったかのように行き交い始めた。けれど私の足はまだ震えていて、袋を抱える腕に力が入らなかった。アルベルトはそれを見て、私から袋を受け取り、片手で軽々と持った。
「……すみません」
「謝罪はいらない。恐怖は自然な反応だ」
彼は短く言い、私を連れて近くの菓子屋に入った。甘い匂いと焼きたての温もりが広がり、心の張りつめた糸が少し緩んだ。
「ここで少し休め」
彼は席を選び、私を座らせると、店主に声をかけて温かい菓子とミルクを頼んだ。私は両手でカップを包み、口に運ぶ。甘さが舌に広がり、震えが少しずつ収まっていく。視線を上げると、アルベルトが黙ってこちらを見ていた。
「……私、役に立てていないのでは」
「立つ必要はない。君は守られるべき立場だ」
「でも、それでは……ただの足手まといに」
言葉を遮るように、彼の手が私の手に重なった。大きくて温かい掌。驚きに声を失ったまま、私は彼を見つめる。
「足手まといではない。君がいることで、私は動ける。意味はそれで十分だ」
胸が熱くなり、目が潤む。私は必死に涙をこらえ、微笑もうとした。だが彼は気づいたように、手をそっと離し、代わりに菓子を皿に移して差し出した。
「甘さは心を落ち着かせる。食べろ」
「……はい」
一口かじると、外は香ばしく、中は柔らかい。熱が舌から胸へ広がり、先ほどの恐怖は少しずつ遠ざかっていった。
店を出ると、夕暮れが街を橙色に染めていた。私は袋を抱え直し、歩きながら言葉を探した。
「……私、もっと強くならなければ」
「強さは必要ない。ただ、君は君でいればいい」
その即答に、胸がじんわりと熱くなる。彼の隣を歩くだけで、足取りが軽くなる気がした。
◇
邸に戻る頃には、街の灯りがひとつ、またひとつと灯っていた。馬車を降りると、庭の緑が夜気に包まれ、星々が瞬いている。私は袋を大事に抱え、扉を開けてくれる執事に笑顔を見せた。
居間で袋を開けると、淡い青の布が月光を受けて輝いた。私は指で撫で、胸の奥に温かな波を感じる。アルベルトが横に立ち、布を手に取った。
「君に似合う」
「……そう、思いますか」
「間違いない」
短い言葉なのに、胸がいっぱいになった。私は視線を落とし、布を抱きしめる。
その夜、寝室で布を机に置き、蝋燭の明かりに透かしてみた。青い影が壁に映り、まるで今日一日の記憶を刻むようだった。呼び鈴には触れなかった。もう鳴らさずとも、彼の言葉が灯りとなって胸に残っているから。
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