家族から邪魔者扱いされた私が契約婚した宰相閣下、実は完璧すぎるスパダリでした。仕事も家事も甘やかしも全部こなしてきます

さら

文字の大きさ
9 / 30

第9話 初めての口づけ未遂

 緊急の知らせがあった翌日、邸の中は普段よりも慌ただしかった。文官や使者が入れ替わり立ち替わり訪れ、書簡の束が机の上に積み重なる。私は廊下の隅からその様子を見つめ、彼の背中が疲れを見せぬまま筆を走らせる姿に圧倒されていた。

 午後、ようやく執務が一段落すると、アルベルトは私を庭へと誘った。高台から見下ろす街並みは、茜色に染まってゆく。涼しい風が吹き抜け、緑の葉を揺らすたびに日中のざわめきが洗い流されるようだった。
「緊張が解けただろう」
「はい。……こうして外に出ると、ようやく呼吸が深くなります」
 私は柵に手を置き、広がる景色に目を細めた。

 風に揺れる髪が頬にかかり、それを整えようとした瞬間、アルベルトの指が先に伸びた。
「動くな」
 低い声に従い、私は瞬きを止める。指先が頬をかすめ、乱れた髪を耳に掛ける。その仕草の一つ一つが、私の鼓動をかき立てた。
「……美しい」
 小さな囁きが、胸の奥に熱を走らせる。

 目が合った瞬間、時間が止まったように思えた。距離は近く、風に運ばれる彼の息遣いまで感じられる。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに響き、逃げ場を失った私はただ見上げることしかできなかった。

 その瞬間、足音が廊下から響き、執事が声をかけた。
「閣下、急ぎの文が――」
 アルベルトは一瞬だけ瞳を細め、私から距離を取った。冷徹な仮面が瞬時に戻り、私は頬に残る熱を抱えたまま立ち尽くす。


 執事が去った後、庭に残された静寂は、先ほどまでの緊張を余計に濃くしていた。私は視線を逸らし、胸を押さえた。
「……危うく」
「契約を逸脱するところだった」
 アルベルトは柵に肘を置き、夕陽を背にして低く言った。声は冷静だが、わずかに滲む熱が耳に残る。

「嫌では……ありませんでした」
 勇気を振り絞って告げると、彼の灰色の瞳が一瞬揺らいだ。だがすぐに冷徹さを取り戻し、短く答える。
「そうであっても、今はまだ契約だ」
 その割り切りの強さに、私は胸を掴まれるような感覚を覚えた。

 沈黙の中、風が二人の間を通り抜ける。私は布の裾を握りしめ、視線を下ろした。契約婚――そう、これは形式。けれど、心はもう形式を超え始めているのではないか。

「……私たちは、どこまでを契約と呼べばいいのでしょう」
 問いかけは自分自身へのものでもあった。アルベルトは答えず、ただ私の横顔を見つめた。視線の重さに耐えられず、私は歩き出す。彼は何も言わず、ただ静かに後をついてきた。


 夜、寝室の窓から見える星はどれも瞬き、冷たい空に散らばっていた。私はベッドに腰を下ろし、今日の出来事を反芻していた。頬に触れた指先の感触、唇に近づいた気配――。心臓はまだ落ち着かず、呼び鈴を握る手が汗ばんでいる。

 扉の向こうから気配がした。ノックの音はなく、ただ足音が立ち止まる。しばしの静寂の後、低い声が響いた。
「休め。……君の眠りを妨げるつもりはない」
 去っていく足音に、私は布団を強く握りしめた。

 唇に触れそうで触れなかった距離。それが余計に胸を熱くさせる。契約――その言葉が私を縛りながらも、心は自由に彼を求めていた。

 蝋燭を吹き消すと、闇の中で鼓動だけがやけに大きく響く。眠りに落ちるまで、あの未遂の瞬間が何度も脳裏に蘇り、私の胸を揺らし続けた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』

富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間―― 目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。 そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。 一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。 選ばれる側から、選ぶ側へ。 これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。

婚約者を譲れと姉に「お願い」されました。代わりに軍人侯爵との結婚を押し付けられましたが、私は形だけの妻のようです。

ナナカ
恋愛
メリオス伯爵の次女エレナは、幼い頃から姉アルチーナに振り回されてきた。そんな姉に婚約者ロエルを譲れと言われる。さらに自分の代わりに結婚しろとまで言い出した。結婚相手は貴族たちが成り上がりと侮蔑する軍人侯爵。伯爵家との縁組が目的だからか、エレナに入れ替わった結婚も承諾する。 こうして、ほとんど顔を合わせることない別居生活が始まった。冷め切った関係になるかと思われたが、年の離れた侯爵はエレナに丁寧に接してくれるし、意外に優しい人。エレナも数少ない会話の機会が楽しみになっていく。 (本編、番外編、完結しました)

突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。

橘ハルシ
恋愛
 ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!  リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。  怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。  しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。 全21話(本編20話+番外編1話)です。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

還俗令嬢のセカンドスローライフ

石田空
恋愛
「神殿にいたんだから大丈夫だろう。頑張れ」 「神殿育ちは万能調味料じゃありませんけど??」 幼い頃から、流行病が原因で顔に斑点があり、「嫁のもらい手はいないだろう」とシルヴィはそのまんま神殿に放り込まれていた。 そんな中、突然実家に呼び戻され、訳あり伯爵の元に嫁ぐように言われる。 呪われている土地だからとおそれられているため、姉は流行病(仮病)で別荘に籠城してしまい、神殿育ちなら大丈夫だろうと、そこに送られてしまうこととなった。 しかしそこの伯爵様のジルは、農民たちに混じって元気に田畑を耕している人だった。 「神殿出身だったら、なにやら特産品はつくれないかい?」 「ええっと……待っててくださいね……」 呪われている土地と呼ばれる謎と、町おこしで、彼女のセカンドライフはせわしない。 サイトより転載になります。

結婚相手が見つからないので家を出ます~気づけばなぜか麗しき公爵様の婚約者(仮)になっていました~

Na20
恋愛
私、レイラ・ハーストンは結婚適齢期である十八歳になっても婚約者がいない。積極的に婿探しをするも全戦全敗の日々。 これはもう仕方がない。 結婚相手が見つからないので家は弟に任せて、私は家を出ることにしよう。 私はある日見つけた求人を手に、遠く離れたキルシュタイン公爵領へと向かうことしたのだった。 ※ご都合主義ですので軽い気持ちでさら~っとお読みください ※小説家になろう様でも掲載しています

婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される

さら
恋愛
婚約破棄された元伯爵令嬢クラリス。 慰謝料代わりに受け取った金で田舎の小さな土地を買い、農業を始めることに。泥にまみれて種を撒き、水をやり、必死に生きる日々。貴族の煌びやかな日々は失ったけれど、土と共に過ごす穏やかな時間が、彼女に新しい幸せをくれる――はずだった。 だがある日、畑に現れたのは野菜好きで有名な第三王子レオニール。 「この野菜は……他とは違う。僕は、あなたが欲しい」 そう言って真剣な瞳で求婚してきて!? 王妃も兄王子たちも立ちはだかる。 「身分違いの恋」なんて笑われても、二人の気持ちは揺るがない。荒れ地を畑に変えるように、愛もまた努力で実を結ぶのか――。

行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました

鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。 けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。 そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。 シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。 困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。 夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。 そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。 ※他投稿サイトにも掲載中