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第2話 辺境の村で再出発
昼下がりのフェルネ村は、光がやわらかい。
山の稜線からこぼれる日差しが畑の麦の穂を照らし、黄金色に揺れている。鳥の声と、遠くで牛の鳴く声。それらがすべて溶け合って、まるで世界がのんびり呼吸しているようだった。
私は宿の縁側に腰をおろし、パンの耳をかじっていた。表面がこんがり焼けていて、中はふんわり。昨日の夜、女将さんが「余りもんだけど」と言って包んでくれたものだ。かみしめるたびに小麦の甘さが広がり、思わず目を閉じた。
「……最高」
ぽつりとつぶやく声が、風にさらわれていった。
王都ではこんなふうに食べる時間なんてほとんどなかった。朝は会議、昼は依頼の準備、夜は報告書。パンは常に片手で食べるもので、味わう暇もなかった。
けれど、今は違う。誰もせかさない。何も求められない。――それだけで、胸の奥が温かくなる。
「ミナさーん!」
声をかけられて振り向くと、宿の裏庭で遊んでいた小さな女の子が手を振っていた。
「おばあちゃんが呼んでるよー!」
「あ、うん、今行くね」
女将さんは宿の厨房に立って、麦粉をこねていた。腕まくりをした手元が力強い。
「おはようさん。パン、口に合ったかい?」
「とっても。ありがとうございます」
「それはよかった。ところでね、ミナさん。あんた、帳簿が得意なんだって?」
「え?」
「村長がね、あんたのこと褒めてたよ。数字がすらすら読める人なんて、こっちじゃ貴重だからって」
「あ、ああ……少し見ただけですけど」
「まったく、あの人、すぐ頼るんだから。でも助かるのよ。うちの村、誰も計算得意じゃないんだから」
女将さんは笑いながら粉をこね続ける。その手の動きが、どこか母親のように見えて、胸が少しだけ締めつけられた。
「ねえ、ミナさん。あんた、これからどうするつもり?」
「……そうですね。とりあえず、ここでゆっくり暮らそうかなって思ってます」
「そうかい。あんた、顔が穏やかになったよ」
「そう見えます?」
「うん。最初に来たときは、まるで世界中の仕事を背負ってる顔してたけど、今は人間の顔に戻った」
女将さんの言葉に、思わず吹き出してしまった。
「たぶん、ここの空気がよかったんですね」
「そうだねぇ。この村は“働かないこと”を、誰も悪く言わないからね」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
店を出て村の通りを歩く。
通りと言っても、馬車が一台通れるかどうかの土の道。両脇には石造りの家が並び、屋根には干し草と花が積まれている。
家の前で洗濯物を干している老夫婦が手を振ってくれた。私は軽く会釈して通り過ぎる。
村人の誰もが、穏やかな顔をしていた。
王都では見たことのない種類の笑顔。
「……いい場所だな」
思わず呟いた。
村のはずれに小川が流れている。澄んだ水の音が、心を撫でるようだった。
手を伸ばして水をすくい、指先で冷たさを確かめる。
その瞬間、胸の奥にひとつの考えが浮かんだ。
――この場所なら、やり直せるかもしれない。
私は川辺の石に腰かけ、草の上にノートを広げた。
ノートの表紙には、かつて王都のギルドで使っていた印が刻まれている。
ページをめくると、空白が続いていた。
そこに、私はゆっくりとペンを走らせた。
「フェルネ村・再出発計画」
書いた瞬間、自分で吹き出した。
「計画って、もうやめたんじゃなかったっけ……」
そう言いながらも、ペン先は止まらなかった。
私の頭の中には、自然とやることのリストが浮かぶ。
村の経理整理、倉庫の在庫確認、道の舗装――そして、村人全員のスケジュール調整。
――タスク登録完了。
頭の中で、かすかな電子音が鳴った気がした。
スキル《プロジェクトマネージャー》が、また勝手に動き出したのだ。
目を閉じると、頭の中に青いウィンドウが浮かぶ。
【新規プロジェクト:「フェルネ村発展支援」】
【進行率:0%】
「あー……勝手に始まってる……」
私は額に手を当てて笑った。
もうやめたいのに、やめられない。
体が“段取り”を求めてしまう。
でも、今度は違う。
誰かに命令されて動くんじゃなく、自分の意思で動ける。
それなら、少しくらいはいいかもしれない。
ノートに書き込んだ文字を見つめながら、ふと思う。
――あのパーティーのときも、こうしてリストを作ってたな。
けれど、彼らはそのリストの意味を知らなかった。
私はいつも裏で調整し、期限を守らせ、損失を防いでいた。
誰も見ない場所で支えて、誰にも感謝されなかった。
でも、今は違う。
誰かのためじゃなく、私自身のために書いている。
そう思うと、胸が少しだけ熱くなった。
「よし。まずは、昼寝しよう」
ペンを置いて大の字に寝転ぶ。
青空がまぶしくて、目を細めた。
雲がゆっくり流れていく。風が髪を揺らし、草のにおいが鼻をくすぐる。
――なんて贅沢な時間だろう。
「ミナさん!」
遠くから声がして、上半身を起こした。
村長が、息を弾ませながらこちらへ向かってくる。
「どうしました?」
「悪いが、ひとつ頼みがあるんじゃ!」
「え?」
「村の倉庫がな、在庫整理のまま放置されておって、誰も手をつけとらんのだ。あんた、ちょっと見てくれんか?」
「私でいいんですか?」
「うむ。数字がわかる人がいなくてな……。ほら、見てくれ、この惨状を!」
案内された倉庫の中は、混沌そのものだった。
麻袋、樽、木箱が山のように積まれ、どれもラベルが faded。
中には麦、塩、革、工具、薬草……。
何がどこにあるのか、まるで把握できない。
「これは……見事なカオスですね」
思わずため息をつくと、村長が困ったように頭をかいた。
「十年前からこのままでな。誰も仕分けできんのだ」
「十年……!」
私は手を伸ばし、ひとつの袋を持ち上げた。
――ピコン。
耳の奥で電子音。視界に光のラインが浮かび、タスクが展開される。
【プロジェクト開始:フェルネ倉庫在庫整理】
【メンバー:1名(ミナ)】
【推定完了時間:12時間】
「おお……」
思わず笑みがこぼれる。
この感覚。久しぶりに感じる“やるべきことが見える”安心感。
「村長さん、今日中に終わります」
「な、何!? ひとりでか?」
「はい。システム――いえ、スキルの力を使えば余裕です」
私は袖をまくり、倉庫の中に踏み込んだ。
光の矢印が次々に浮かび、効率的な動線を表示していく。
手が勝手に動く。体が自然に動く。
麻袋を積み替え、樽を並べ、古い帳簿を更新していく。
まるで“働く”ということそのものが、心を癒やすみたいだった。
夕方になり、倉庫の中が見違えるように整った。
並んだ樽、整列した棚。すべての在庫が整理され、リストが完了。
ウィンドウが光を放つ。
【プロジェクト完了率:100%】
【評価:S】
【報酬:達成感+安堵】
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
報酬が“達成感”って、どこまで社会人脳なんだろう。
でも、悪くない。
「ミナさん! 本当に終わったのか!?」
村長が駆け込んできて、整理された棚を見て、目を丸くした。
「す、すごい……十年分の在庫が、こんなにきれいに……!」
「これで村の備蓄、かなり使いやすくなりますよ」
「恩人だ! 本当に恩人だ!」
村長は両手を取って何度も頭を下げた。
「そんな、大げさですよ」
「大げさじゃない! 今日からあんたは“ミナ殿”だ!」
「やめてください、恥ずかしいですって!」
笑い声が倉庫に響く。
その音が、心の奥をくすぐるようにあたたかかった。
――ああ、来てよかった。
私はふと、倉庫の窓から見える空を見上げた。
夕焼けが、山の端を金色に染めている。
風が吹き抜けて、髪を揺らした。
そのとき、胸の中で小さな決意が芽生えた。
――この村で、もう一度生きてみよう。
◇
日が沈むころ、フェルネ村の空は桃色に染まり、畑の端で子どもたちが笑い声を上げていた。
麦の穂を追いかけて走るその姿を見ながら、私は倉庫の前に立ち、今日一日の疲れを胸の奥で味わっていた。体の奥がじんわりと温かい。疲れはあるけれど、いやな重さじゃない。どこか満たされている。
村長が駆け寄ってきて、まだ信じられないような顔で私を見た。
「ほんとに……ほんとに今日一日で片づけちまったのか? 十年、誰も手をつけられなかったんだぞ!」
「ええ。ちょっとだけコツがあるんです」
「ちょっとって……これをちょっとで済ませられる人間がいるかね!」
村長は大笑いしながら頭をかいた。
「ミナ殿、あんたはすごい! まるで精霊が宿ってるみたいだ!」
「精霊なんて、そんな……」
笑いながらも、胸の奥がほんのり熱くなった。
仕事を褒められるなんて、いつぶりだろう。
王都では、何をしても「当然」「裏方だから」と言われてきた。
でもここでは、「ありがとう」と言ってもらえる。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「報酬を渡さねばな」
村長が棚の奥から小袋を持ってきて、手のひらに乗せた。中には銀貨が数枚。
「そんな、受け取れません」
「いやいや、村の恥になる。働いた分はもらってくれ」
押しつけられるように渡され、私は仕方なく受け取った。
袋の温もりが、胸の奥にずしんと染みた。
――“対価”をもらうのが、こんなにも穏やかで優しいことだなんて。
倉庫を出ると、空には最初の星が瞬いていた。
私はふと立ち止まり、夜風を吸い込んだ。
草の香り。土の湿り。遠くの家からは、スープのにおいが漂ってくる。
「……なんて静かなんだろ」
王都の夜は喧騒と灯りで満ちていた。けれど、ここには、ただ穏やかな音だけがある。
村の広場では、子どもたちが焚き火のまわりで歌を歌っていた。
その輪の中に、私の姿を見つけたのか、一人の女の子が駆け寄ってくる。
「ミナさん、手伝ってくれてありがと!」
「え?」
「おじいちゃんがね、今日からパンがいっぱい作れるって言ってたよ!」
「あら、それはよかったわね」
「うん! ミナさんが“魔法”使ってくれたんだって!」
女の子の無邪気な言葉に、思わず笑ってしまった。
「魔法じゃないの。ただの“お仕事”だよ」
「おしごと……?」
「そう。働くことって、誰かが笑うためにやることなんだよ」
そう言いながら、自分でその言葉に少し驚いた。
昔の私が聞いたら、苦笑するだろう。
でも今は、その言葉が自然に口から出た。
「ミナさんも笑ってる!」
「そうかな?」
「うん! きょうの星みたい!」
女の子が指差した空には、青白い光がひとつきらりと輝いていた。
「……ほんとだ」
宿に戻ると、女将さんが湯を沸かして待っていた。
「おかえり。聞いたよ、倉庫を片づけたって? 村長が大騒ぎしてたよ」
「ええ、ちょっと働きすぎちゃいました」
「いいじゃないの。ここは働いても働かなくても、怒る人はいないんだから」
女将さんは笑いながら、湯気の立つマグカップを差し出した。
「ハーブティーさ。よく眠れるよ」
「ありがとうございます」
マグを両手で包みこむと、指先がじんわり温まる。
香りはやわらかく、少し甘い。
「……なんだか、夢みたいですね」
「夢だと思うなら、覚めないようにしなさいな」
女将さんの目が、静かに笑っていた。
その夜、私は小さな部屋のベッドに横たわりながら、天井を見つめた。
今日一日で、いくつもの人と話した。
笑った。感謝された。働いた。
それだけのことなのに、心が満たされている。
――王都では、こんな気持ち、味わったことがなかった。
眠りにつく直前、耳の奥で小さな音がした。
ピコン。
【プロジェクト「フェルネ村発展支援」進行率:12%】
【タスク:農作物管理 新規追加】
「……また勝手に……」
苦笑しながら、私は目を閉じた。
でも、悪くない。
誰かに命じられた仕事じゃない。
自分で決めて、自分で動いて、自分で幸せを感じている。
もし、これを“無能”と呼ぶなら、――それでいい。
窓の外で、風がそっと鳴った。
その音を子守歌みたいに聞きながら、私は深く眠りに落ちていった。
フェルネ村での、ゆるやかな新生活が、静かに始まった。
△
翌朝。
外の空気は澄み切っていて、夜露の香りがほんのり残っていた。
私は宿の前で伸びをしながら、空を仰ぐ。青空は果てしなく広く、山の稜線の上には、まだ薄い霧がかかっていた。
深呼吸すると、胸の奥に新しい空気が満ちていく。まるで肺の中だけじゃなく、心まで洗われるような感覚。
「おはよう、ミナ殿」
背後から声をかけられ、振り返ると村長が立っていた。
「おはようございます。朝早いですね」
「年を取ると寝ていられんのじゃ。あんたも早いのう」
「なんだか、勝手に目が覚めちゃって」
「はは、いいことじゃ。働かなくても、朝を迎えると体が“今日も何かできる”って思うんだ。人間ってのは、そうできておる」
村長の言葉に、私は自然と笑みを返した。
確かに、昨日の倉庫整理の疲れは残っているのに、体が軽い。仕事を終えたあとの心地よい疲労――それがまだ、じんわり残っている。
「今日も何か手伝おうかと思ってます」
「本当にいいのか? もう、ゆっくりしてても誰も文句は言わんぞ」
「うーん……“ゆっくり”って、意外と難しいんですよ」
「はは、働き者の言うことじゃ」
村長が笑いながら杖で地面をとんとんと突いた。
「なら、あんたに頼みたいことがもう一つある。今度は村の畑の配置を見直してほしいんじゃ」
「畑の配置、ですか?」
「うむ。この村は長年同じ区画で耕しておるから、土地が痩せてきてのう。だが、誰もどうやって直せばいいのかわからん。あんたなら、何か思いつくかもしれんと思ってな」
「……なるほど」
私は顎に手をあてて考えた。
畑の配置、土壌の疲弊、労働分担。頭の中にデータのような文字列が浮かんでいく。
すると、またいつものように視界の端に青いウィンドウが現れた。
【新規タスク作成:フェルネ村農地最適化】
【進行率:0%】
【推定完了時間:36時間】
――やっぱり出た。
私は苦笑しながらも、そのウィンドウを閉じなかった。
これはきっと、私の“癖”のようなものだ。
「いいですよ、やってみます」
「おお、頼もしい!」
村長とともに畑へ向かうと、広い土地が目の前に広がった。
麦、豆、じゃがいも、ハーブ。
一見すると豊かそうだけれど、歩いてみると微妙な違和感がある。
区画が不規則で、日当たりが悪い場所や、水はけの悪い箇所が混ざっている。
「なるほど、確かに効率が悪いですね」
「そうじゃろ? けど、昔からこうやって耕してきたから、今さら変えるのも勇気がいるんじゃ」
「変えるのは大変ですけど、少し工夫すれば――」
私はしゃがみこみ、地面の土を手でつかんだ。
指の間からこぼれる粒子が、さらさらと風に舞う。
「ここの土、悪くないですよ。水を通しすぎてるだけです」
「ほう?」
「畑の境目に石を並べて水の流れを調整すれば、もう少し均等になります。あと、日陰の畑はハーブや豆に変えた方がいいかも」
「そんなことまでわかるのか!」
「数字みたいなもので。問題点を並べると、解決策が見えてくるんです」
頭の中では、すでに図面のようなイメージが浮かんでいた。
青いラインが畑の区画を示し、動線を矢印で描く。
「ふむ……」
私は立ち上がり、指先で空をなぞるようにして仮想の線を描いた。
その動きに呼応するように、スキルの光がふわりと広がる。
【自動最適化プラン生成中……】
【フェルネ村農地配置案を作成しますか?】
「……はい」
視界に浮かんだ新しいウィンドウが輝き、畑全体を俯瞰した地図が立体的に展開された。
風にきらめくその光景に、村長が目を丸くする。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
「スキルの可視化です。ちょっとした“作業支援”みたいなものですよ」
「ま、まるで神の奇跡じゃ……!」
「奇跡じゃなくて、地道な“調整”です」
私はそう言って笑った。
畑にいた村人たちが騒ぎを聞きつけて集まってきた。
「うわあ、なにこれ! 光ってる!」
「すげえ……地面に地図が出てる!」
「ミナさん、魔法使いだったの!?」
「ち、違います! ただの事務職です!」
慌てて手を振ると、子どもたちが笑いながら真似をした。
「じむしょくー! じむしょくー!」
なんだそれ。
笑いながらも、胸の奥があたたかくなった。
こんなふうに笑われるのは、悪くない。
「よし、みんな! 明日から区画の移動を始めるぞ!」
村長の声が畑に響き渡る。
「ミナ殿の指示どおりに動くんだ!」
「は、はい!」
農民たちが一斉に動き出した。
スキルの光が、村人たち一人ひとりの上にやさしく灯る。
【タスク割当完了】
【進行率:3% → 18%】
私はその光景を見ながら、胸の中で静かに息をついた。
――働くって、こういうことだったんだな。
誰かを助けるために、自分の力を使う。
その力が、笑顔や声になって返ってくる。
それが、こんなにもあたたかいものだなんて。
「ミナ殿」
村長の声に振り向くと、彼は両手を腰に当てて満足げに頷いていた。
「この村はあんたに救われたよ。わしら、今までずっと“できない”理由ばかり探してきた。けど、あんたは“できる方法”を見つけてくれた」
「そんな、私はただ、整理しただけです」
「整理ができる人間は、世界を整える人間だ」
その言葉が、心に染みた。
「……ありがとうございます」
日が傾くころ、畑には新しい区画が形になり始めていた。
整列した畝、均等な道。風が吹くたびに、麦の葉がそろって揺れる。
その光景を見て、私は小さくつぶやいた。
「きれい……」
スキルウィンドウがふわりと光る。
【プロジェクト進行率:58%】
【評価:A】
【報酬:達成感+幸福度上昇】
私はそのまま笑って、光を閉じた。
あたりには、夕陽と風の音、そして人々の笑い声だけが残った。
――もう、王都には戻らない。
その言葉が、心の奥から静かに浮かび上がった。
私は手を胸に当て、柔らかく微笑んだ。
フェルネ村での、私の新しい日常が、今、確かに根づき始めていた。
◇
夜が訪れると、フェルネ村はしんと静まり返った。
昼間のにぎわいが嘘みたいに、風の音だけが耳に残る。畑から戻った私は、宿の裏庭にあるベンチに腰をおろし、ランプをひとつ灯した。オレンジ色の明かりが、私の膝の上に置いたノートを照らす。
ノートの表紙には、昼間に付いた土の指跡が残っている。
今日の出来事を記録しようと思ったのだ。もう職務報告書を書く義務なんてないけれど、なぜか手が勝手に動く。
「フェルネ村農地再配置――進行率六〇%」
そう書きながら、思わず小さく笑ってしまった。
「まだスキルに縛られてるなあ、私」
でも、悪くない。スキルが働いている間、私は生きている実感を得られる。数字や進捗という目に見える形で、世界と繋がっていられる。それが、心を落ち着かせてくれるのだ。
ページを閉じて顔を上げると、空いっぱいに星が瞬いていた。
この村では、夜空が近い。手を伸ばせば、指先で掴めそうなくらい。
「……東京のオフィス街じゃ、絶対見えなかったな」
思わず口にした言葉が、夜気に溶けていった。
王都にいたときも、似たようなことを考えた夜があった。
ギルドの報告書をひとりで書いていた深夜。窓の外の街灯を見ながら、「このままでいいのかな」って。
だけど、その問いにはいつも答えを出せなかった。
「働くこと」=「認められること」だと信じていたから。
“誰かの役に立つ”ことだけが、自分の存在価値なんだと思っていた。
「でも、違ったんだね」
フェルネの人たちは、私が何をしてもしなくても、笑ってくれる。
私がただそこにいるだけで、「ミナさん」と名前を呼んでくれる。
そんなことだけで、心が救われるなんて――昔の私には、信じられなかった。
「おや、まだ起きてたのかね」
声に振り向くと、女将さんが湯気の立つカップを持って立っていた。
「ハーブティーのおかわり。今夜は特別ブレンドさ」
「ありがとうございます」
カップを受け取ると、ふわっとラベンダーの香りが広がった。
「昼間は大活躍だったそうじゃないか。村中、あんたの話でもちきりだよ」
「そんな、大したことじゃ……」
「謙遜するんじゃないよ。十年も手がつけられなかった畑を一日で整えたなんて、誰も信じちゃいない」
女将さんはにっこり笑い、私の隣に腰を下ろした。
「村長がね、“ミナ殿はこの村に神を呼んだ”って言ってたよ」
「やめてくださいよ、それ……照れます」
「ふふ、いいことだよ。あんたみたいに真面目に働く人がこの村に来てくれたのは、神様のご加護さ」
しばらく二人で、言葉を交わさずに夜空を見上げていた。
虫の声が遠くで鳴き、火の粉がぱち、と弾ける音がする。
「……ねえ、女将さん」
「ん?」
「“働く”って、何なんでしょうね」
「難しいことを聞くねえ」
女将さんはしばらく黙ってから、静かに口を開いた。
「誰かのために何かをすることさ。でも、見返りを求めたら、それは“労働”になる。見返りを求めずにできるなら、それは“生き方”になる」
「……生き方、か」
「そう。あんたのは後者だよ。誰かの顔を思い浮かべて動く人は、みんなそうだ」
女将さんの言葉に、胸の奥がほんのり熱くなった。
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。あんたが来てから、村が少し明るくなった」
「……そんなことないですよ」
「あるさ。だって、みんな“できるんだ”って顔になったもの」
沈黙が、心地よかった。
ランプの光に照らされた庭先に、小さな白い花が揺れている。
私はその花を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ここで、暮らしていけたらいいな」
「暮らせばいいじゃないか。誰も追い出したりしないさ」
女将さんは立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
「明日は市場の日だよ。行っておいで。みんなに顔を見せてあげな」
「はい」
そのまま、女将さんは宿の中に戻っていった。
私はひとり残され、カップの底に残ったハーブティーを飲み干した。
空気がひんやりと肌を撫で、遠くでフクロウが鳴く。
星空の下、胸の奥でひとつの小さな願いが生まれた。
――この場所で、もう一度“生きる”ことを始めよう。
そう決めた瞬間、頭の中でウィンドウが光った。
【プロジェクト:「フェルネ村再生計画」進行率:100%】
【タスク完了報酬:幸福度+∞】
私は思わず笑ってしまった。
「……なんか、やりすぎ」
誰にともなく呟いて、ランプの火を消した。
暗闇の中でも、夜空の星はまだ輝いていた。
その光は、私の未来をほんのりと照らしてくれているように見えた。
そして私は、そっと目を閉じた。
――明日もまた、きっといい日になる。
静かな夜が、穏やかに流れていった。
昼下がりのフェルネ村は、光がやわらかい。
山の稜線からこぼれる日差しが畑の麦の穂を照らし、黄金色に揺れている。鳥の声と、遠くで牛の鳴く声。それらがすべて溶け合って、まるで世界がのんびり呼吸しているようだった。
私は宿の縁側に腰をおろし、パンの耳をかじっていた。表面がこんがり焼けていて、中はふんわり。昨日の夜、女将さんが「余りもんだけど」と言って包んでくれたものだ。かみしめるたびに小麦の甘さが広がり、思わず目を閉じた。
「……最高」
ぽつりとつぶやく声が、風にさらわれていった。
王都ではこんなふうに食べる時間なんてほとんどなかった。朝は会議、昼は依頼の準備、夜は報告書。パンは常に片手で食べるもので、味わう暇もなかった。
けれど、今は違う。誰もせかさない。何も求められない。――それだけで、胸の奥が温かくなる。
「ミナさーん!」
声をかけられて振り向くと、宿の裏庭で遊んでいた小さな女の子が手を振っていた。
「おばあちゃんが呼んでるよー!」
「あ、うん、今行くね」
女将さんは宿の厨房に立って、麦粉をこねていた。腕まくりをした手元が力強い。
「おはようさん。パン、口に合ったかい?」
「とっても。ありがとうございます」
「それはよかった。ところでね、ミナさん。あんた、帳簿が得意なんだって?」
「え?」
「村長がね、あんたのこと褒めてたよ。数字がすらすら読める人なんて、こっちじゃ貴重だからって」
「あ、ああ……少し見ただけですけど」
「まったく、あの人、すぐ頼るんだから。でも助かるのよ。うちの村、誰も計算得意じゃないんだから」
女将さんは笑いながら粉をこね続ける。その手の動きが、どこか母親のように見えて、胸が少しだけ締めつけられた。
「ねえ、ミナさん。あんた、これからどうするつもり?」
「……そうですね。とりあえず、ここでゆっくり暮らそうかなって思ってます」
「そうかい。あんた、顔が穏やかになったよ」
「そう見えます?」
「うん。最初に来たときは、まるで世界中の仕事を背負ってる顔してたけど、今は人間の顔に戻った」
女将さんの言葉に、思わず吹き出してしまった。
「たぶん、ここの空気がよかったんですね」
「そうだねぇ。この村は“働かないこと”を、誰も悪く言わないからね」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
店を出て村の通りを歩く。
通りと言っても、馬車が一台通れるかどうかの土の道。両脇には石造りの家が並び、屋根には干し草と花が積まれている。
家の前で洗濯物を干している老夫婦が手を振ってくれた。私は軽く会釈して通り過ぎる。
村人の誰もが、穏やかな顔をしていた。
王都では見たことのない種類の笑顔。
「……いい場所だな」
思わず呟いた。
村のはずれに小川が流れている。澄んだ水の音が、心を撫でるようだった。
手を伸ばして水をすくい、指先で冷たさを確かめる。
その瞬間、胸の奥にひとつの考えが浮かんだ。
――この場所なら、やり直せるかもしれない。
私は川辺の石に腰かけ、草の上にノートを広げた。
ノートの表紙には、かつて王都のギルドで使っていた印が刻まれている。
ページをめくると、空白が続いていた。
そこに、私はゆっくりとペンを走らせた。
「フェルネ村・再出発計画」
書いた瞬間、自分で吹き出した。
「計画って、もうやめたんじゃなかったっけ……」
そう言いながらも、ペン先は止まらなかった。
私の頭の中には、自然とやることのリストが浮かぶ。
村の経理整理、倉庫の在庫確認、道の舗装――そして、村人全員のスケジュール調整。
――タスク登録完了。
頭の中で、かすかな電子音が鳴った気がした。
スキル《プロジェクトマネージャー》が、また勝手に動き出したのだ。
目を閉じると、頭の中に青いウィンドウが浮かぶ。
【新規プロジェクト:「フェルネ村発展支援」】
【進行率:0%】
「あー……勝手に始まってる……」
私は額に手を当てて笑った。
もうやめたいのに、やめられない。
体が“段取り”を求めてしまう。
でも、今度は違う。
誰かに命令されて動くんじゃなく、自分の意思で動ける。
それなら、少しくらいはいいかもしれない。
ノートに書き込んだ文字を見つめながら、ふと思う。
――あのパーティーのときも、こうしてリストを作ってたな。
けれど、彼らはそのリストの意味を知らなかった。
私はいつも裏で調整し、期限を守らせ、損失を防いでいた。
誰も見ない場所で支えて、誰にも感謝されなかった。
でも、今は違う。
誰かのためじゃなく、私自身のために書いている。
そう思うと、胸が少しだけ熱くなった。
「よし。まずは、昼寝しよう」
ペンを置いて大の字に寝転ぶ。
青空がまぶしくて、目を細めた。
雲がゆっくり流れていく。風が髪を揺らし、草のにおいが鼻をくすぐる。
――なんて贅沢な時間だろう。
「ミナさん!」
遠くから声がして、上半身を起こした。
村長が、息を弾ませながらこちらへ向かってくる。
「どうしました?」
「悪いが、ひとつ頼みがあるんじゃ!」
「え?」
「村の倉庫がな、在庫整理のまま放置されておって、誰も手をつけとらんのだ。あんた、ちょっと見てくれんか?」
「私でいいんですか?」
「うむ。数字がわかる人がいなくてな……。ほら、見てくれ、この惨状を!」
案内された倉庫の中は、混沌そのものだった。
麻袋、樽、木箱が山のように積まれ、どれもラベルが faded。
中には麦、塩、革、工具、薬草……。
何がどこにあるのか、まるで把握できない。
「これは……見事なカオスですね」
思わずため息をつくと、村長が困ったように頭をかいた。
「十年前からこのままでな。誰も仕分けできんのだ」
「十年……!」
私は手を伸ばし、ひとつの袋を持ち上げた。
――ピコン。
耳の奥で電子音。視界に光のラインが浮かび、タスクが展開される。
【プロジェクト開始:フェルネ倉庫在庫整理】
【メンバー:1名(ミナ)】
【推定完了時間:12時間】
「おお……」
思わず笑みがこぼれる。
この感覚。久しぶりに感じる“やるべきことが見える”安心感。
「村長さん、今日中に終わります」
「な、何!? ひとりでか?」
「はい。システム――いえ、スキルの力を使えば余裕です」
私は袖をまくり、倉庫の中に踏み込んだ。
光の矢印が次々に浮かび、効率的な動線を表示していく。
手が勝手に動く。体が自然に動く。
麻袋を積み替え、樽を並べ、古い帳簿を更新していく。
まるで“働く”ということそのものが、心を癒やすみたいだった。
夕方になり、倉庫の中が見違えるように整った。
並んだ樽、整列した棚。すべての在庫が整理され、リストが完了。
ウィンドウが光を放つ。
【プロジェクト完了率:100%】
【評価:S】
【報酬:達成感+安堵】
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
報酬が“達成感”って、どこまで社会人脳なんだろう。
でも、悪くない。
「ミナさん! 本当に終わったのか!?」
村長が駆け込んできて、整理された棚を見て、目を丸くした。
「す、すごい……十年分の在庫が、こんなにきれいに……!」
「これで村の備蓄、かなり使いやすくなりますよ」
「恩人だ! 本当に恩人だ!」
村長は両手を取って何度も頭を下げた。
「そんな、大げさですよ」
「大げさじゃない! 今日からあんたは“ミナ殿”だ!」
「やめてください、恥ずかしいですって!」
笑い声が倉庫に響く。
その音が、心の奥をくすぐるようにあたたかかった。
――ああ、来てよかった。
私はふと、倉庫の窓から見える空を見上げた。
夕焼けが、山の端を金色に染めている。
風が吹き抜けて、髪を揺らした。
そのとき、胸の中で小さな決意が芽生えた。
――この村で、もう一度生きてみよう。
◇
日が沈むころ、フェルネ村の空は桃色に染まり、畑の端で子どもたちが笑い声を上げていた。
麦の穂を追いかけて走るその姿を見ながら、私は倉庫の前に立ち、今日一日の疲れを胸の奥で味わっていた。体の奥がじんわりと温かい。疲れはあるけれど、いやな重さじゃない。どこか満たされている。
村長が駆け寄ってきて、まだ信じられないような顔で私を見た。
「ほんとに……ほんとに今日一日で片づけちまったのか? 十年、誰も手をつけられなかったんだぞ!」
「ええ。ちょっとだけコツがあるんです」
「ちょっとって……これをちょっとで済ませられる人間がいるかね!」
村長は大笑いしながら頭をかいた。
「ミナ殿、あんたはすごい! まるで精霊が宿ってるみたいだ!」
「精霊なんて、そんな……」
笑いながらも、胸の奥がほんのり熱くなった。
仕事を褒められるなんて、いつぶりだろう。
王都では、何をしても「当然」「裏方だから」と言われてきた。
でもここでは、「ありがとう」と言ってもらえる。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「報酬を渡さねばな」
村長が棚の奥から小袋を持ってきて、手のひらに乗せた。中には銀貨が数枚。
「そんな、受け取れません」
「いやいや、村の恥になる。働いた分はもらってくれ」
押しつけられるように渡され、私は仕方なく受け取った。
袋の温もりが、胸の奥にずしんと染みた。
――“対価”をもらうのが、こんなにも穏やかで優しいことだなんて。
倉庫を出ると、空には最初の星が瞬いていた。
私はふと立ち止まり、夜風を吸い込んだ。
草の香り。土の湿り。遠くの家からは、スープのにおいが漂ってくる。
「……なんて静かなんだろ」
王都の夜は喧騒と灯りで満ちていた。けれど、ここには、ただ穏やかな音だけがある。
村の広場では、子どもたちが焚き火のまわりで歌を歌っていた。
その輪の中に、私の姿を見つけたのか、一人の女の子が駆け寄ってくる。
「ミナさん、手伝ってくれてありがと!」
「え?」
「おじいちゃんがね、今日からパンがいっぱい作れるって言ってたよ!」
「あら、それはよかったわね」
「うん! ミナさんが“魔法”使ってくれたんだって!」
女の子の無邪気な言葉に、思わず笑ってしまった。
「魔法じゃないの。ただの“お仕事”だよ」
「おしごと……?」
「そう。働くことって、誰かが笑うためにやることなんだよ」
そう言いながら、自分でその言葉に少し驚いた。
昔の私が聞いたら、苦笑するだろう。
でも今は、その言葉が自然に口から出た。
「ミナさんも笑ってる!」
「そうかな?」
「うん! きょうの星みたい!」
女の子が指差した空には、青白い光がひとつきらりと輝いていた。
「……ほんとだ」
宿に戻ると、女将さんが湯を沸かして待っていた。
「おかえり。聞いたよ、倉庫を片づけたって? 村長が大騒ぎしてたよ」
「ええ、ちょっと働きすぎちゃいました」
「いいじゃないの。ここは働いても働かなくても、怒る人はいないんだから」
女将さんは笑いながら、湯気の立つマグカップを差し出した。
「ハーブティーさ。よく眠れるよ」
「ありがとうございます」
マグを両手で包みこむと、指先がじんわり温まる。
香りはやわらかく、少し甘い。
「……なんだか、夢みたいですね」
「夢だと思うなら、覚めないようにしなさいな」
女将さんの目が、静かに笑っていた。
その夜、私は小さな部屋のベッドに横たわりながら、天井を見つめた。
今日一日で、いくつもの人と話した。
笑った。感謝された。働いた。
それだけのことなのに、心が満たされている。
――王都では、こんな気持ち、味わったことがなかった。
眠りにつく直前、耳の奥で小さな音がした。
ピコン。
【プロジェクト「フェルネ村発展支援」進行率:12%】
【タスク:農作物管理 新規追加】
「……また勝手に……」
苦笑しながら、私は目を閉じた。
でも、悪くない。
誰かに命じられた仕事じゃない。
自分で決めて、自分で動いて、自分で幸せを感じている。
もし、これを“無能”と呼ぶなら、――それでいい。
窓の外で、風がそっと鳴った。
その音を子守歌みたいに聞きながら、私は深く眠りに落ちていった。
フェルネ村での、ゆるやかな新生活が、静かに始まった。
△
翌朝。
外の空気は澄み切っていて、夜露の香りがほんのり残っていた。
私は宿の前で伸びをしながら、空を仰ぐ。青空は果てしなく広く、山の稜線の上には、まだ薄い霧がかかっていた。
深呼吸すると、胸の奥に新しい空気が満ちていく。まるで肺の中だけじゃなく、心まで洗われるような感覚。
「おはよう、ミナ殿」
背後から声をかけられ、振り返ると村長が立っていた。
「おはようございます。朝早いですね」
「年を取ると寝ていられんのじゃ。あんたも早いのう」
「なんだか、勝手に目が覚めちゃって」
「はは、いいことじゃ。働かなくても、朝を迎えると体が“今日も何かできる”って思うんだ。人間ってのは、そうできておる」
村長の言葉に、私は自然と笑みを返した。
確かに、昨日の倉庫整理の疲れは残っているのに、体が軽い。仕事を終えたあとの心地よい疲労――それがまだ、じんわり残っている。
「今日も何か手伝おうかと思ってます」
「本当にいいのか? もう、ゆっくりしてても誰も文句は言わんぞ」
「うーん……“ゆっくり”って、意外と難しいんですよ」
「はは、働き者の言うことじゃ」
村長が笑いながら杖で地面をとんとんと突いた。
「なら、あんたに頼みたいことがもう一つある。今度は村の畑の配置を見直してほしいんじゃ」
「畑の配置、ですか?」
「うむ。この村は長年同じ区画で耕しておるから、土地が痩せてきてのう。だが、誰もどうやって直せばいいのかわからん。あんたなら、何か思いつくかもしれんと思ってな」
「……なるほど」
私は顎に手をあてて考えた。
畑の配置、土壌の疲弊、労働分担。頭の中にデータのような文字列が浮かんでいく。
すると、またいつものように視界の端に青いウィンドウが現れた。
【新規タスク作成:フェルネ村農地最適化】
【進行率:0%】
【推定完了時間:36時間】
――やっぱり出た。
私は苦笑しながらも、そのウィンドウを閉じなかった。
これはきっと、私の“癖”のようなものだ。
「いいですよ、やってみます」
「おお、頼もしい!」
村長とともに畑へ向かうと、広い土地が目の前に広がった。
麦、豆、じゃがいも、ハーブ。
一見すると豊かそうだけれど、歩いてみると微妙な違和感がある。
区画が不規則で、日当たりが悪い場所や、水はけの悪い箇所が混ざっている。
「なるほど、確かに効率が悪いですね」
「そうじゃろ? けど、昔からこうやって耕してきたから、今さら変えるのも勇気がいるんじゃ」
「変えるのは大変ですけど、少し工夫すれば――」
私はしゃがみこみ、地面の土を手でつかんだ。
指の間からこぼれる粒子が、さらさらと風に舞う。
「ここの土、悪くないですよ。水を通しすぎてるだけです」
「ほう?」
「畑の境目に石を並べて水の流れを調整すれば、もう少し均等になります。あと、日陰の畑はハーブや豆に変えた方がいいかも」
「そんなことまでわかるのか!」
「数字みたいなもので。問題点を並べると、解決策が見えてくるんです」
頭の中では、すでに図面のようなイメージが浮かんでいた。
青いラインが畑の区画を示し、動線を矢印で描く。
「ふむ……」
私は立ち上がり、指先で空をなぞるようにして仮想の線を描いた。
その動きに呼応するように、スキルの光がふわりと広がる。
【自動最適化プラン生成中……】
【フェルネ村農地配置案を作成しますか?】
「……はい」
視界に浮かんだ新しいウィンドウが輝き、畑全体を俯瞰した地図が立体的に展開された。
風にきらめくその光景に、村長が目を丸くする。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
「スキルの可視化です。ちょっとした“作業支援”みたいなものですよ」
「ま、まるで神の奇跡じゃ……!」
「奇跡じゃなくて、地道な“調整”です」
私はそう言って笑った。
畑にいた村人たちが騒ぎを聞きつけて集まってきた。
「うわあ、なにこれ! 光ってる!」
「すげえ……地面に地図が出てる!」
「ミナさん、魔法使いだったの!?」
「ち、違います! ただの事務職です!」
慌てて手を振ると、子どもたちが笑いながら真似をした。
「じむしょくー! じむしょくー!」
なんだそれ。
笑いながらも、胸の奥があたたかくなった。
こんなふうに笑われるのは、悪くない。
「よし、みんな! 明日から区画の移動を始めるぞ!」
村長の声が畑に響き渡る。
「ミナ殿の指示どおりに動くんだ!」
「は、はい!」
農民たちが一斉に動き出した。
スキルの光が、村人たち一人ひとりの上にやさしく灯る。
【タスク割当完了】
【進行率:3% → 18%】
私はその光景を見ながら、胸の中で静かに息をついた。
――働くって、こういうことだったんだな。
誰かを助けるために、自分の力を使う。
その力が、笑顔や声になって返ってくる。
それが、こんなにもあたたかいものだなんて。
「ミナ殿」
村長の声に振り向くと、彼は両手を腰に当てて満足げに頷いていた。
「この村はあんたに救われたよ。わしら、今までずっと“できない”理由ばかり探してきた。けど、あんたは“できる方法”を見つけてくれた」
「そんな、私はただ、整理しただけです」
「整理ができる人間は、世界を整える人間だ」
その言葉が、心に染みた。
「……ありがとうございます」
日が傾くころ、畑には新しい区画が形になり始めていた。
整列した畝、均等な道。風が吹くたびに、麦の葉がそろって揺れる。
その光景を見て、私は小さくつぶやいた。
「きれい……」
スキルウィンドウがふわりと光る。
【プロジェクト進行率:58%】
【評価:A】
【報酬:達成感+幸福度上昇】
私はそのまま笑って、光を閉じた。
あたりには、夕陽と風の音、そして人々の笑い声だけが残った。
――もう、王都には戻らない。
その言葉が、心の奥から静かに浮かび上がった。
私は手を胸に当て、柔らかく微笑んだ。
フェルネ村での、私の新しい日常が、今、確かに根づき始めていた。
◇
夜が訪れると、フェルネ村はしんと静まり返った。
昼間のにぎわいが嘘みたいに、風の音だけが耳に残る。畑から戻った私は、宿の裏庭にあるベンチに腰をおろし、ランプをひとつ灯した。オレンジ色の明かりが、私の膝の上に置いたノートを照らす。
ノートの表紙には、昼間に付いた土の指跡が残っている。
今日の出来事を記録しようと思ったのだ。もう職務報告書を書く義務なんてないけれど、なぜか手が勝手に動く。
「フェルネ村農地再配置――進行率六〇%」
そう書きながら、思わず小さく笑ってしまった。
「まだスキルに縛られてるなあ、私」
でも、悪くない。スキルが働いている間、私は生きている実感を得られる。数字や進捗という目に見える形で、世界と繋がっていられる。それが、心を落ち着かせてくれるのだ。
ページを閉じて顔を上げると、空いっぱいに星が瞬いていた。
この村では、夜空が近い。手を伸ばせば、指先で掴めそうなくらい。
「……東京のオフィス街じゃ、絶対見えなかったな」
思わず口にした言葉が、夜気に溶けていった。
王都にいたときも、似たようなことを考えた夜があった。
ギルドの報告書をひとりで書いていた深夜。窓の外の街灯を見ながら、「このままでいいのかな」って。
だけど、その問いにはいつも答えを出せなかった。
「働くこと」=「認められること」だと信じていたから。
“誰かの役に立つ”ことだけが、自分の存在価値なんだと思っていた。
「でも、違ったんだね」
フェルネの人たちは、私が何をしてもしなくても、笑ってくれる。
私がただそこにいるだけで、「ミナさん」と名前を呼んでくれる。
そんなことだけで、心が救われるなんて――昔の私には、信じられなかった。
「おや、まだ起きてたのかね」
声に振り向くと、女将さんが湯気の立つカップを持って立っていた。
「ハーブティーのおかわり。今夜は特別ブレンドさ」
「ありがとうございます」
カップを受け取ると、ふわっとラベンダーの香りが広がった。
「昼間は大活躍だったそうじゃないか。村中、あんたの話でもちきりだよ」
「そんな、大したことじゃ……」
「謙遜するんじゃないよ。十年も手がつけられなかった畑を一日で整えたなんて、誰も信じちゃいない」
女将さんはにっこり笑い、私の隣に腰を下ろした。
「村長がね、“ミナ殿はこの村に神を呼んだ”って言ってたよ」
「やめてくださいよ、それ……照れます」
「ふふ、いいことだよ。あんたみたいに真面目に働く人がこの村に来てくれたのは、神様のご加護さ」
しばらく二人で、言葉を交わさずに夜空を見上げていた。
虫の声が遠くで鳴き、火の粉がぱち、と弾ける音がする。
「……ねえ、女将さん」
「ん?」
「“働く”って、何なんでしょうね」
「難しいことを聞くねえ」
女将さんはしばらく黙ってから、静かに口を開いた。
「誰かのために何かをすることさ。でも、見返りを求めたら、それは“労働”になる。見返りを求めずにできるなら、それは“生き方”になる」
「……生き方、か」
「そう。あんたのは後者だよ。誰かの顔を思い浮かべて動く人は、みんなそうだ」
女将さんの言葉に、胸の奥がほんのり熱くなった。
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。あんたが来てから、村が少し明るくなった」
「……そんなことないですよ」
「あるさ。だって、みんな“できるんだ”って顔になったもの」
沈黙が、心地よかった。
ランプの光に照らされた庭先に、小さな白い花が揺れている。
私はその花を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ここで、暮らしていけたらいいな」
「暮らせばいいじゃないか。誰も追い出したりしないさ」
女将さんは立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
「明日は市場の日だよ。行っておいで。みんなに顔を見せてあげな」
「はい」
そのまま、女将さんは宿の中に戻っていった。
私はひとり残され、カップの底に残ったハーブティーを飲み干した。
空気がひんやりと肌を撫で、遠くでフクロウが鳴く。
星空の下、胸の奥でひとつの小さな願いが生まれた。
――この場所で、もう一度“生きる”ことを始めよう。
そう決めた瞬間、頭の中でウィンドウが光った。
【プロジェクト:「フェルネ村再生計画」進行率:100%】
【タスク完了報酬:幸福度+∞】
私は思わず笑ってしまった。
「……なんか、やりすぎ」
誰にともなく呟いて、ランプの火を消した。
暗闇の中でも、夜空の星はまだ輝いていた。
その光は、私の未来をほんのりと照らしてくれているように見えた。
そして私は、そっと目を閉じた。
――明日もまた、きっといい日になる。
静かな夜が、穏やかに流れていった。
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