無能扱いされ、パーティーを追放されたOL、実はチートスキル持ちでした。戻ってきてくれ、と言ってももう遅い。田舎でゆったりスローライフ。 

さら

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第3話 働かない生活を始めてみた

 朝、窓を開けると、空気が甘い。
 夜露がまだ葉の先に残っていて、陽が当たるたびに小さな虹がきらめく。
 フェルネ村の朝は、王都とはまるで別の世界みたいだった。
 遠くからは牛の鳴き声、風に運ばれてくるパンの匂い、そして木々のざわめき。
 ――目を覚ますだけで、幸せになれる。

 「ミナさん、起きた?」
 扉を叩く声に振り向くと、宿の女将さんが顔を出した。
 「今日はいい天気だよ。のんびり散歩でもしてきたらどうだい?」
 「はい。そうします」
 そう答えながら、私は自分でも驚くくらい自然に笑っていた。
 “働かない生活”と決めて三日。けれど、じっとしているのが性に合わないらしい。
 ノートに予定を書かないようにしようと思っていたのに、いつのまにか朝起きた時間や食べたパンの種類をメモしている。
 「……OLの習性、抜けないなあ」
 小さく笑って、外へ出た。

 村の道は、まだ朝靄に包まれていた。
 土の上に残る夜の冷たさが、足の裏を心地よく冷やしてくれる。
 あぜ道を歩けば、麦畑の向こうに羊が見える。
 白い毛が朝日に照らされて輝いていた。
 「おはよう」
 思わず声をかけると、羊がゆっくり顔を上げて「めぇ」と鳴いた。
 なんだか返事をもらったようで、少し嬉しくなった。

 村の中央にある井戸の前では、子どもたちが集まっていた。
 「おはよう、ミナさん!」
 「おはよう。今日も元気だね」
 「うん! これから水くみに行くの!」
 「えらいね。気をつけてね」
 「はーい!」
 元気な声が響き渡り、心がやわらかくなる。
 私はそのまま井戸のそばのベンチに腰を下ろした。

 「働かない」って、こういうことなんだな。
 何もしないで、ただ時間が流れていく。
 風の音と笑い声が、何よりのBGMになる。
 最初は少し罪悪感があった。
 “何かしていないと、置いていかれる”って、体が覚えてしまっているから。
 でも今は、少しずつ慣れてきた。
 時計も、スケジュールも、締め切りもない時間。
 それが、こんなにも穏やかなんて。

 「ミナさーん!」
 声を上げて駆けてきたのは、昨日の女の子――エマだった。
 髪を二つ結びにして、ほっぺたが真っ赤。
 「パン屋さんのお手伝いに行くの! ミナさんも来て!」
 「え、でも私、手伝わない生活をしてるから……」
 「いいの! 食べるだけでいいよ!」
 強引に手を引かれ、そのままパン屋の軒先まで連れていかれた。

 店の中では、焼きたてのパンが山のように並んでいた。
 香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 「おはようございます」
 店主の青年が、粉まみれの手で頭を下げた。
 「昨日は倉庫の整理を手伝ってくださったとか。助かりました」
 「いえ、私はもう“お休み中”ですから」
 「そうですか。でも、ぜひパンを試してみてください」
 差し出された丸いパンを受け取る。
 手のひらにじんわり伝わる熱。
 かじると、外はカリッと、中はふんわり。
 「……おいしい」
 「だろ? フェルネの水と小麦は最高なんです」
 店主が誇らしげに笑った。

 「パンを焼くって、毎日大変じゃないですか?」
 「ええ。でも、朝日が昇るたびに生地をこねてると、不思議と疲れないんですよ。昨日と同じことをしてるのに、毎日違うんです」
 その言葉を聞いて、私は少し考えた。
 毎日同じようで違う日々。
 それは私がかつて一番望んでいたものかもしれない。
 会社も、ギルドも、毎日が「同じ」だった。
 誰かの顔色を見て、空気を読んで、決まりきった台本どおりに動く。
 だから、どんなに働いても、日々が重なって見えていた。
 けれど、ここでは違う。
 同じ朝でも、風の匂いが違う。光の加減も違う。
 それだけで、今日という一日が、特別に感じられる。

 「ミナさん、これ、持って帰って」
 「え、いいんですか?」
 「今日の余り物です。うちのパンは日持ちしないから」
 紙袋を受け取りながら、胸が温かくなる。
 「ありがとうございます。また来ますね」
 「ええ、いつでも」

 パン屋を出ると、村の広場では市場が開かれていた。
 野菜、布、木工品。
 人々の声が重なり合い、穏やかな活気に包まれている。
 「おや、ミナ殿!」
 村長が手を振っていた。
 「昨日の畑、見たかね? もう芽が出始めとるぞ!」
 「えっ、もうですか?」
「早いだろう? あんたが配置を変えてくれたおかげで、陽当たりが良くなったんじゃ」
 「それは……うれしいです」
 「うむ。この村は長いこと“変わらない”ままだった。あんたが来てから、少しずつ変わっていってるよ」
 村長の目が細められる。
 「でも、それは良い変化です。誰も無理をしてないのに、前に進んでる」
 「無理をしない進歩、か。いい言葉じゃな」

 その会話を聞いて、心の奥にあたたかい光が灯った。
 私はずっと、“無理をすること”が当たり前だと思っていた。
 努力しなきゃ、認められない。
 頑張らなきゃ、居場所がない。
 けれどこの村では、頑張らなくても受け入れられる。
 人を動かすのは、力でもスキルでもなく、“笑顔”なのかもしれない。

 市場を歩いていると、どこからか声が聞こえた。
 「おーい、ミナさん!」
 振り向くと、農夫の男が手を振っている。
 「こないだ倉庫を直してくれてありがとうな! おかげで仕事が楽になった!」
 「いえ、私、もう働かないって決めたので……」
 「ははは! 働かないのに村の働き口を全部整えるとは、器用だな!」
 「……そう言われると、そうですね」
 私もつい、笑ってしまった。

 夕暮れになると、村の鐘が鳴った。
 その音を聞くと、なぜだか胸が締めつけられる。
 どこかで、昔の記憶が揺れる。
 会社のチャイム、ギルドの終了ベル。
 いつも“終わり”を告げる音だった。
 でも今は、“今日も平和だった”と知らせてくれる音だ。
 私は空を見上げて、オレンジ色の雲に微笑んだ。

 ――働かないって、難しい。
 だけど、悪くない。

 村の家々から、夕飯の香りが漂ってくる。
 煮込みスープ、焼き野菜、ハーブティー。
 私は宿へと歩きながら、そっと胸の中で呟いた。

 「この世界では、“幸せ”を仕事にしよう」

 夕陽が沈み、夜が静かにフェルネを包みこんでいった。



 夜、宿の食堂に戻ると、テーブルにはランプの明かりがゆらめいていた。
 女将さんがスープの鍋をかき混ぜていて、店の中は香ばしい香りで満たされている。
 「おかえり、ミナさん。今日はよく歩いたみたいだねえ」
 「ええ、村をぐるっと一周してきました。あちこちに花が咲いていて、すごくきれいで」
 「だろう? 春先に植えたやつさ。ここの土地は水がいいから、なんでもすぐ育つんだよ」
 女将さんは微笑んで、木の椀にスープをよそってくれた。
 「さ、食べな。今夜は野菜のポタージュさ」
 スプーンを口に運ぶと、ほのかに甘くて、舌にやさしい。
 ああ――生きている、って感じる。そんな味だった。

 「村の子どもたちが、ミナさんが来てから元気になったって言ってたよ」
 「え? 私、特に何もしてませんよ?」
 「いやあ、してるさ。笑ってる。あんたが笑ってるだけで、みんなうれしいのさ」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にじわっと熱が広がった。
 笑うだけで誰かの役に立てる――そんな世界があるなんて、想像したこともなかった。

 食事を終えたあと、私は宿の裏に出た。
 夜風がやさしく吹き抜ける。空には満天の星。
 昼間にあれほどにぎやかだった村も、今は静まり返っていて、虫の声だけが響いていた。
 ランプの灯りを手に、私は庭のベンチに腰を下ろす。
 少し離れた畑のほうでは、風に揺れる麦の葉が銀色に光っていた。

 「……本当に、働かなくてもいいんだな」
 思わず小さくつぶやく。
 口にした言葉が、まだ少し信じられない。
 だって、私の人生はいつだって「働くこと」から逃れられなかったから。

 中学、高校、会社。
 いつも「頑張ること」が評価の基準だった。
 周りに合わせて、期待に応えて、空気を読んで。
 そうしないと、生き残れない世界だった。
 その延長線上で、異世界に来ても私は“頑張ること”しかできなかった。
 ――なのに。

 今の私は、何もしなくても、ここにいられる。
 怒鳴られることも、比べられることも、評価されることもない。
 「存在するだけでいい」なんて、そんな奇跡みたいな生活が、本当にあったなんて。
 気がつくと、目の端がにじんでいた。
 頬を伝う涙を指で拭って、笑う。
 「だめだな、私。泣き虫だ」

 そのとき。
 ――ピコン。
 頭の中で、またあの電子音が鳴った。
 「え……?」
 目の前にふわりと青いウィンドウが浮かび上がる。
 【スキル《プロジェクトマネージャー》の自動補助が発動しました】
 【新規プロジェクト:「休む勇気の習得」】
 【進行率:0% → 5%】
 「……は?」
 思わず吹き出してしまった。
 「なにそれ、どういうスキルなの?」

 スクリーンの文字は淡々と続く。
 【サブタスク1:一日中働かずに過ごす 進行率:25%】
 【サブタスク2:罪悪感を感じずに休む 進行率:12%】
 【サブタスク3:心から笑う 進行率:75%】
 【報酬:幸福度上昇+安息】
 「……AIにまで見張られてる気分だわ」
 でも、不思議と嫌じゃなかった。
 このスキルは、きっと私の心のどこかを見ている。
 “働きすぎて壊れた人間”を、休ませようとしてくれているのかもしれない。

 私はウィンドウを閉じ、深呼吸した。
 夜風が髪を撫で、麦の香りがふわりと漂う。
 遠くで、犬の遠吠えがひとつ響いた。
 「……いい夜だ」
 つぶやいた言葉が、静かな空に溶けていく。

 ベンチの背もたれにもたれ、空を見上げた。
 星が数え切れないほどあって、ひとつひとつがきらきらと輝いている。
 その光を見ていると、不思議と眠くなってくる。
 あくびをひとつして、目を閉じた。

 ――夢を見た。

 大きなオフィス。書類の山。
 時計の針が進む音。
 周囲の人たちは無表情でパソコンを打ち続けている。
 私はその中で、一枚の紙を持って立っていた。
 『退職届』。
 震える手でそれを机に置くと、誰も何も言わなかった。
 ただ、時計の音だけが鳴り響く。
 その音が、どんどん早くなっていく。
 “チクタク、チクタク、チクタク――”

 「ミナさん!」
 はっとして目を開けると、エマが私の腕を揺すっていた。
 「もう朝だよ!」
 「……あ、え? 寝てた?」
 「うん! 庭で寝ちゃってたよ!」
 「そっか……」
 陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
 どうやら本気で眠ってしまっていたらしい。
 「ミナさん、お顔がすごく幸せそうだったよ」
 「ほんと?」
 「うん! きっといい夢見てたんだね!」
 私は小さく笑って、エマの頭を撫でた。
 「うん。たぶん、そうだね」

 宿の中に戻ると、女将さんが朝食の支度をしていた。
 「おはよう、寝心地はどうだった?」
 「最高です。人生でいちばんよく眠れました」
 「それはよかった。あんた、やっと“ここの時間”に馴染んできたね」
 「“ここの時間”?」
 「そうさ。フェルネの時間は、人間の時間とは違うのよ。ここでは“今日”しか存在しないの」
 「……今日しか、存在しない」
 「そう。昨日も、明日も考えない。ただ今日を生きる。それが、この村の暮らしさ」
 女将さんの言葉に、胸がじんと温かくなった。
 そうか――この村では、“スケジュール”なんていらないんだ。

 私は深呼吸をした。
 今日も働かない。
 けれど、今日をしっかり生きよう。

 テーブルに並べられた焼きたてのパンから湯気が上がる。
 それを見つめながら、私は心の中で静かに呟いた。

 ――「休むこと」も、ちゃんとした仕事のひとつ。

 笑みがこぼれた瞬間、頭の中でまた音がした。
 【サブタスク1:完了】
 【サブタスク2:進行率:80%】
 【サブタスク3:完了】
 【プロジェクト:「休む勇気の習得」進行率:90%】

 私はスプーンを置き、空を見上げて微笑んだ。
 「あと少しで、ちゃんと“休める”ね」

 その日の朝、フェルネ村にやわらかな風が吹いた。
 まるで誰かが「よく頑張ったね」と言ってくれているように、優しい風だった。



 その日も、フェルネの空は穏やかに晴れていた。
 畑の端を吹き抜ける風が柔らかく、村全体を包みこむように流れていく。
 私は宿の庭で椅子に腰かけ、パンの欠片をちぎって鳥に投げていた。
 白い羽の小鳥が群れになって降りてきて、私の足元でついばんでいる。

 「……ほんとに、働いてないなあ」
 小さく呟くと、自分で可笑しくなって笑った。
 “何もしない”というのは、意外と難しい。
 仕事をしない時間に、何をしていいかわからない。
 けれど、こうして何もせずに風を感じているだけで、心の中の硬いものが少しずつ溶けていく気がした。

 宿の扉が開いて、女将さんが顔を出した。
 「ミナさーん。村の子たちが、川辺でピクニックするんだって。行ってみたらどうだい?」
 「え、ピクニック?」
 「そう。働かない日には遊ぶのさ。村の掟みたいなもんだよ」
 「掟ですか……いい掟ですね」
 女将さんは声を立てて笑った。

 私は布の鞄にパンと水を詰め、川へ向かった。
 村の西側にあるフェルネ川は、ゆるやかに蛇行して流れており、岸辺には野花が咲き乱れている。
 子どもたちが靴を脱いで水の中を走り回り、太陽の光が水面で跳ね返る。
 そのきらめきが、まるで時間そのものが遊んでいるように見えた。

 「ミナさーん!」
 エマが駆け寄ってきて、濡れた足で私のスカートをつかんだ。
 「ほら見て! 魚が取れたよ!」
 「ほんとだ。上手だね」
 「うん! でもすぐ逃げちゃった!」
 笑い声が響き、胸の奥がぽかぽかした。
 王都での生活には、こんな瞬間はなかった。
 目の前の小さな幸せを感じることすら、忘れていた気がする。

 川辺の石に腰かけ、足先を水に浸す。
 冷たいけれど、心地よい。
 風が吹き抜けて、髪を揺らした。
 「……贅沢だな」
 心の底からそう思った。

 しばらくすると、村長が木陰から現れた。
 「おお、ミナ殿。今日は仕事をせんのか?」
 「ええ、今日は“仕事をしない日”なんです」
 「ははは、いいことじゃ。フェルネでは“怠ける日”こそ豊かさの証とされておるからな」
 「豊かさの……証?」
 「そう。働かなくても食える。それがこの村の誇りなんじゃ。みんなで助け合って、誰かが倒れても、誰も困らん。それが“強さ”というもんじゃ」
 村長の言葉は、ゆっくりと私の胸に染み込んだ。
 働かないことが、怠惰ではなく“余裕”だなんて。
 王都では、そんな考え方をしたこともなかった。

 「ミナ殿。あんたはここに来てから、少しずつ変わっとるのう」
 「そうでしょうか」
「うむ。前は眉のあいだにシワがあった。今は、それが消えとる」
 私は思わず額に手を当てて笑った。
 「たぶん、風が吹いて伸ばしてくれたんですよ」
 「ははは、うまいこと言うのう」
 村長も笑って、川辺の石に腰を下ろした。

 ふと、川面に映る自分の顔を見た。
 そこには、少し日焼けして、柔らかく笑っている自分がいた。
 「……知らない顔だな」
 思わず呟いた。
 会社員でも、冒険者でもない。
 ただ“ひとりの人間”としての顔。
 それが、こんなにも穏やかに見えるなんて。

 空を見上げると、雲がゆっくり流れていく。
 時計の針がない世界。
 急ぐ理由も、争う理由もない。
 “生きる”という言葉が、ただ呼吸することと同じ意味を持つ場所。

 「ミナ殿」
 「はい?」
 「王都に戻りたいと思うことは、もうないか?」
 少しの沈黙のあと、私は静かに首を振った。
 「ありません。戻っても、きっと同じことの繰り返しです。あの世界では、私の居場所は仕事の中にしかなかった。でも……」
 「でも?」
 「今は違う。ここでは、“仕事の外”に私がいます」
 村長は満足そうに目を細めた。
 「それでいい。人間、仕事を失って初めて、自分を取り戻すもんじゃ」
 その言葉に、胸の奥で何かがふっとほどけた。

 日が傾き、川辺が金色に染まっていく。
 エマたちが手をつないで歌を歌いながら帰っていく。
 私はその光景を見送りながら、そっと立ち上がった。

 ――この村でなら、何もせずに幸せでいられる。
 それだけで十分だった。

 宿に戻ると、女将さんが窓を開けて、風を入れていた。
 「おかえり。今日はよく日に当たったろう?」
 「はい。少し焼けたかもしれません」
 「それが一番の健康の証拠さ」
 女将さんは笑い、机に置かれた小さな袋を指差した。
 「村長が持ってきたよ。“これを渡しといてくれ”って」
 中をのぞくと、乾いたラベンダーの花束が入っていた。
 メモが添えられている。
 《働かないことも、立派な仕事じゃ。フェルネの教えを忘れるな》

 私は花束を胸に抱き、目を閉じた。
 ほのかな香りが鼻をくすぐる。
 「……はい、忘れません」

 その夜。
 ベッドに横たわった私の頭の中で、再び光が瞬いた。
 【プロジェクト:「休む勇気の習得」完了】
 【報酬:心の自由】

 小さく笑って、ウィンドウを閉じた。
 「ありがとう、AIさん。やっと、休めたよ」

 窓の外には、満天の星空。
 その光の下で、私は静かに眠りについた。
 ――明日もまた、何もしないで生きていこう。

 フェルネの夜は、限りなく穏やかに更けていった。



 翌朝。まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた。
 部屋の中は静かで、窓から吹き込む風がカーテンをゆっくり揺らしている。鳥の声と、遠くの牛の鳴き声が重なり合って、眠気をそっと溶かしていった。

 私はベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
 昨日、あんなに「何もしない」を堪能したのに、目が覚めるともう“今日をどう過ごそうか”と考えてしまう。
 “休むことを学ぶ”というスキルを自分に課しているのに、どうしても手が動くのを止められない。
 癖、というより性分だ。

 起き上がって鏡を見ると、頬が少し赤く焼けていた。
 「……ちゃんと人間っぽくなってる」
 王都にいたころは、顔色なんて気にしたこともなかった。
 寝不足とストレスで、いつも青白い顔。
 鏡の中の私は、誰かの指示待ちをする部下のようだった。
 けれど今は、少し違う。
 顔に血が通っていて、目の奥にも光が宿っている。
 “自分で生きてる”顔だ。

 階下に降りると、女将さんがパンを焼いていた。
 「おはよう。今日は麦パンだよ。昨日の豆スープも残ってるけど食べるかい?」
 「はい、いただきます」
 パンをちぎってスープに浸すと、優しい香りが鼻をくすぐる。
 味は素朴で、少し塩気があって、心が落ち着く。
 これを“ごちそう”と呼ばずして何と呼ぶのだろう。

 「そういえば、村の東の森に小さな湖があるんだよ」と女将さんが言った。
 「静かでいい場所さ。みんな“考えごとをするならあそこ”って言う」
 「……考えごと、ですか」
 「そう。何もしない日が続くと、人は考え出すのさ。次に何をしたいかをね」
 女将さんの言葉に、胸の奥が少しざわめいた。

 ――次に、何をしたいか。
 私は“もう何もしない”と決めてここに来た。
 でも、本当にそれでいいのかな?
 心の奥のどこかが、小さく疼いている気がする。

 食事を終えて、私は湖へ向かった。
 東の森は、木々が密集していて、風の通り道が少し冷たい。
 鳥の羽音、木の葉の擦れ合う音、そして水の滴る音が、心を穏やかに包みこむ。
 やがて木々の間から視界が開け、湖が見えた。
 陽光を映して、鏡のように静かに輝いている。
 水面には雲の影が浮かび、ゆっくりと形を変えて流れていった。

 私は湖畔の石に腰かけて、靴を脱ぎ、足を水に浸した。
 冷たい。けれど、嫌じゃない。
 心の奥の熱を、やさしく冷ましてくれるような感覚だった。

 「……あの頃の私が、ここを見たらなんて言うかな」
 ぽつりと独り言が漏れた。
 “そんな暇があるなら次の会議資料を作れ”って、きっと眉をひそめるだろう。
 “夢見てる暇はない”って、パソコンの前で自分を叱っていた私。
 その姿を思い出して、ふっと笑ってしまった。

 「ねえ、アイリス」
 無意識に名前を呼んでいた。
 ――あのときの、私のAIアシスタント。
 今はもう通信も途絶えているけれど、あの声は今も頭の中に残っている。
 “効率的に行動しましょう。タスクを整理しますか?”
 “次の会議まであと十五分です”
 “無理をしないでください、ミナ”
 最後の言葉だけが、なぜかとても優しかった。

 「ねえ、私、ちゃんと“無理しない”で生きてるよ」
 湖面に向かってそう呟く。
 すると風が吹いて、水面が細かく揺れた。
 まるで、“よくやった”って言われた気がして、目の奥が熱くなった。

 そのとき、背後から足音が聞こえた。
 「ミナさん、こんなところにいたのか」
 振り返ると、村長が立っていた。
 「どうしたんですか?」
 「畑のほうでみんなが“今日の天気は最高だ”って言ってな。どうせなら、湖の魚を焼こうって話になっとる。夕方、みんなで宴を開くから、来てくれ」
 「宴……?」
 「うむ。畑の新しい配置で収穫量が増えた祝いじゃ。あんたのおかげだ」
 私は思わず苦笑した。
 「でも私、もう働かないって決めたんですけど」
 「働いてないよ。笑ってただけじゃろ?」
 「……確かに」
 「それでええんじゃ。笑ってるだけで人が動く。それは、あんたが王都で身につけた“本物のスキル”なんじゃろう」
 村長の言葉に、胸がぐっと締めつけられた。

 “笑うことがスキル”――そんな考え方、初めて聞いた。
 でも、今の私にはそれが一番しっくりくる。
 ここでは、笑うことも仕事のひとつなのだ。

 「……行きます。ちゃんと参加しますね」
 「そうこなくちゃ!」
 村長は満足げに笑い、杖をつきながら帰っていった。

 私はもう一度湖を見つめた。
 波紋がゆらゆらと広がり、空を映している。
 その鏡の中に映る自分は、もう“無能扱いされたOL”ではなかった。
 肩の力が抜けた、穏やかな笑顔の女。

 「……これが、私の“再スタート”か」
 呟きながら、立ち上がった。

 夕方、村の広場には人が集まっていた。
 焚き火のまわりでパンとスープの香りが漂い、笑い声があふれる。
 子どもたちは歌い、大人たちは杯を掲げ、風がその音を運んでいく。
 その中心で、私はただ笑っていた。
 火の光が頬を照らし、心の奥まで温かい。

 ――私はもう、“働かなくていい”。
 けれど、私の存在が誰かの笑顔を生んでいる。
 それなら、それだけで十分だ。

 焚き火の火がぱちりとはじけ、夜空に火の粉が散った。
 その光のひとつひとつが、まるで星みたいに輝いていた。

 “無能”だと笑われた日々も、“追放”された夜も。
 すべては、この静かな幸福へとつながっていたのだと思う。

 私はそっと目を閉じ、火の音を聞いた。
 ――これが、働かないことの“ごほうび”。

 フェルネの夜は、やさしく更けていった。
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