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第3話 働かない生活を始めてみた
朝、窓を開けると、空気が甘い。
夜露がまだ葉の先に残っていて、陽が当たるたびに小さな虹がきらめく。
フェルネ村の朝は、王都とはまるで別の世界みたいだった。
遠くからは牛の鳴き声、風に運ばれてくるパンの匂い、そして木々のざわめき。
――目を覚ますだけで、幸せになれる。
「ミナさん、起きた?」
扉を叩く声に振り向くと、宿の女将さんが顔を出した。
「今日はいい天気だよ。のんびり散歩でもしてきたらどうだい?」
「はい。そうします」
そう答えながら、私は自分でも驚くくらい自然に笑っていた。
“働かない生活”と決めて三日。けれど、じっとしているのが性に合わないらしい。
ノートに予定を書かないようにしようと思っていたのに、いつのまにか朝起きた時間や食べたパンの種類をメモしている。
「……OLの習性、抜けないなあ」
小さく笑って、外へ出た。
村の道は、まだ朝靄に包まれていた。
土の上に残る夜の冷たさが、足の裏を心地よく冷やしてくれる。
あぜ道を歩けば、麦畑の向こうに羊が見える。
白い毛が朝日に照らされて輝いていた。
「おはよう」
思わず声をかけると、羊がゆっくり顔を上げて「めぇ」と鳴いた。
なんだか返事をもらったようで、少し嬉しくなった。
村の中央にある井戸の前では、子どもたちが集まっていた。
「おはよう、ミナさん!」
「おはよう。今日も元気だね」
「うん! これから水くみに行くの!」
「えらいね。気をつけてね」
「はーい!」
元気な声が響き渡り、心がやわらかくなる。
私はそのまま井戸のそばのベンチに腰を下ろした。
「働かない」って、こういうことなんだな。
何もしないで、ただ時間が流れていく。
風の音と笑い声が、何よりのBGMになる。
最初は少し罪悪感があった。
“何かしていないと、置いていかれる”って、体が覚えてしまっているから。
でも今は、少しずつ慣れてきた。
時計も、スケジュールも、締め切りもない時間。
それが、こんなにも穏やかなんて。
「ミナさーん!」
声を上げて駆けてきたのは、昨日の女の子――エマだった。
髪を二つ結びにして、ほっぺたが真っ赤。
「パン屋さんのお手伝いに行くの! ミナさんも来て!」
「え、でも私、手伝わない生活をしてるから……」
「いいの! 食べるだけでいいよ!」
強引に手を引かれ、そのままパン屋の軒先まで連れていかれた。
店の中では、焼きたてのパンが山のように並んでいた。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「おはようございます」
店主の青年が、粉まみれの手で頭を下げた。
「昨日は倉庫の整理を手伝ってくださったとか。助かりました」
「いえ、私はもう“お休み中”ですから」
「そうですか。でも、ぜひパンを試してみてください」
差し出された丸いパンを受け取る。
手のひらにじんわり伝わる熱。
かじると、外はカリッと、中はふんわり。
「……おいしい」
「だろ? フェルネの水と小麦は最高なんです」
店主が誇らしげに笑った。
「パンを焼くって、毎日大変じゃないですか?」
「ええ。でも、朝日が昇るたびに生地をこねてると、不思議と疲れないんですよ。昨日と同じことをしてるのに、毎日違うんです」
その言葉を聞いて、私は少し考えた。
毎日同じようで違う日々。
それは私がかつて一番望んでいたものかもしれない。
会社も、ギルドも、毎日が「同じ」だった。
誰かの顔色を見て、空気を読んで、決まりきった台本どおりに動く。
だから、どんなに働いても、日々が重なって見えていた。
けれど、ここでは違う。
同じ朝でも、風の匂いが違う。光の加減も違う。
それだけで、今日という一日が、特別に感じられる。
「ミナさん、これ、持って帰って」
「え、いいんですか?」
「今日の余り物です。うちのパンは日持ちしないから」
紙袋を受け取りながら、胸が温かくなる。
「ありがとうございます。また来ますね」
「ええ、いつでも」
パン屋を出ると、村の広場では市場が開かれていた。
野菜、布、木工品。
人々の声が重なり合い、穏やかな活気に包まれている。
「おや、ミナ殿!」
村長が手を振っていた。
「昨日の畑、見たかね? もう芽が出始めとるぞ!」
「えっ、もうですか?」
「早いだろう? あんたが配置を変えてくれたおかげで、陽当たりが良くなったんじゃ」
「それは……うれしいです」
「うむ。この村は長いこと“変わらない”ままだった。あんたが来てから、少しずつ変わっていってるよ」
村長の目が細められる。
「でも、それは良い変化です。誰も無理をしてないのに、前に進んでる」
「無理をしない進歩、か。いい言葉じゃな」
その会話を聞いて、心の奥にあたたかい光が灯った。
私はずっと、“無理をすること”が当たり前だと思っていた。
努力しなきゃ、認められない。
頑張らなきゃ、居場所がない。
けれどこの村では、頑張らなくても受け入れられる。
人を動かすのは、力でもスキルでもなく、“笑顔”なのかもしれない。
市場を歩いていると、どこからか声が聞こえた。
「おーい、ミナさん!」
振り向くと、農夫の男が手を振っている。
「こないだ倉庫を直してくれてありがとうな! おかげで仕事が楽になった!」
「いえ、私、もう働かないって決めたので……」
「ははは! 働かないのに村の働き口を全部整えるとは、器用だな!」
「……そう言われると、そうですね」
私もつい、笑ってしまった。
夕暮れになると、村の鐘が鳴った。
その音を聞くと、なぜだか胸が締めつけられる。
どこかで、昔の記憶が揺れる。
会社のチャイム、ギルドの終了ベル。
いつも“終わり”を告げる音だった。
でも今は、“今日も平和だった”と知らせてくれる音だ。
私は空を見上げて、オレンジ色の雲に微笑んだ。
――働かないって、難しい。
だけど、悪くない。
村の家々から、夕飯の香りが漂ってくる。
煮込みスープ、焼き野菜、ハーブティー。
私は宿へと歩きながら、そっと胸の中で呟いた。
「この世界では、“幸せ”を仕事にしよう」
夕陽が沈み、夜が静かにフェルネを包みこんでいった。
△
夜、宿の食堂に戻ると、テーブルにはランプの明かりがゆらめいていた。
女将さんがスープの鍋をかき混ぜていて、店の中は香ばしい香りで満たされている。
「おかえり、ミナさん。今日はよく歩いたみたいだねえ」
「ええ、村をぐるっと一周してきました。あちこちに花が咲いていて、すごくきれいで」
「だろう? 春先に植えたやつさ。ここの土地は水がいいから、なんでもすぐ育つんだよ」
女将さんは微笑んで、木の椀にスープをよそってくれた。
「さ、食べな。今夜は野菜のポタージュさ」
スプーンを口に運ぶと、ほのかに甘くて、舌にやさしい。
ああ――生きている、って感じる。そんな味だった。
「村の子どもたちが、ミナさんが来てから元気になったって言ってたよ」
「え? 私、特に何もしてませんよ?」
「いやあ、してるさ。笑ってる。あんたが笑ってるだけで、みんなうれしいのさ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にじわっと熱が広がった。
笑うだけで誰かの役に立てる――そんな世界があるなんて、想像したこともなかった。
食事を終えたあと、私は宿の裏に出た。
夜風がやさしく吹き抜ける。空には満天の星。
昼間にあれほどにぎやかだった村も、今は静まり返っていて、虫の声だけが響いていた。
ランプの灯りを手に、私は庭のベンチに腰を下ろす。
少し離れた畑のほうでは、風に揺れる麦の葉が銀色に光っていた。
「……本当に、働かなくてもいいんだな」
思わず小さくつぶやく。
口にした言葉が、まだ少し信じられない。
だって、私の人生はいつだって「働くこと」から逃れられなかったから。
中学、高校、会社。
いつも「頑張ること」が評価の基準だった。
周りに合わせて、期待に応えて、空気を読んで。
そうしないと、生き残れない世界だった。
その延長線上で、異世界に来ても私は“頑張ること”しかできなかった。
――なのに。
今の私は、何もしなくても、ここにいられる。
怒鳴られることも、比べられることも、評価されることもない。
「存在するだけでいい」なんて、そんな奇跡みたいな生活が、本当にあったなんて。
気がつくと、目の端がにじんでいた。
頬を伝う涙を指で拭って、笑う。
「だめだな、私。泣き虫だ」
そのとき。
――ピコン。
頭の中で、またあの電子音が鳴った。
「え……?」
目の前にふわりと青いウィンドウが浮かび上がる。
【スキル《プロジェクトマネージャー》の自動補助が発動しました】
【新規プロジェクト:「休む勇気の習得」】
【進行率:0% → 5%】
「……は?」
思わず吹き出してしまった。
「なにそれ、どういうスキルなの?」
スクリーンの文字は淡々と続く。
【サブタスク1:一日中働かずに過ごす 進行率:25%】
【サブタスク2:罪悪感を感じずに休む 進行率:12%】
【サブタスク3:心から笑う 進行率:75%】
【報酬:幸福度上昇+安息】
「……AIにまで見張られてる気分だわ」
でも、不思議と嫌じゃなかった。
このスキルは、きっと私の心のどこかを見ている。
“働きすぎて壊れた人間”を、休ませようとしてくれているのかもしれない。
私はウィンドウを閉じ、深呼吸した。
夜風が髪を撫で、麦の香りがふわりと漂う。
遠くで、犬の遠吠えがひとつ響いた。
「……いい夜だ」
つぶやいた言葉が、静かな空に溶けていく。
ベンチの背もたれにもたれ、空を見上げた。
星が数え切れないほどあって、ひとつひとつがきらきらと輝いている。
その光を見ていると、不思議と眠くなってくる。
あくびをひとつして、目を閉じた。
――夢を見た。
大きなオフィス。書類の山。
時計の針が進む音。
周囲の人たちは無表情でパソコンを打ち続けている。
私はその中で、一枚の紙を持って立っていた。
『退職届』。
震える手でそれを机に置くと、誰も何も言わなかった。
ただ、時計の音だけが鳴り響く。
その音が、どんどん早くなっていく。
“チクタク、チクタク、チクタク――”
「ミナさん!」
はっとして目を開けると、エマが私の腕を揺すっていた。
「もう朝だよ!」
「……あ、え? 寝てた?」
「うん! 庭で寝ちゃってたよ!」
「そっか……」
陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
どうやら本気で眠ってしまっていたらしい。
「ミナさん、お顔がすごく幸せそうだったよ」
「ほんと?」
「うん! きっといい夢見てたんだね!」
私は小さく笑って、エマの頭を撫でた。
「うん。たぶん、そうだね」
宿の中に戻ると、女将さんが朝食の支度をしていた。
「おはよう、寝心地はどうだった?」
「最高です。人生でいちばんよく眠れました」
「それはよかった。あんた、やっと“ここの時間”に馴染んできたね」
「“ここの時間”?」
「そうさ。フェルネの時間は、人間の時間とは違うのよ。ここでは“今日”しか存在しないの」
「……今日しか、存在しない」
「そう。昨日も、明日も考えない。ただ今日を生きる。それが、この村の暮らしさ」
女将さんの言葉に、胸がじんと温かくなった。
そうか――この村では、“スケジュール”なんていらないんだ。
私は深呼吸をした。
今日も働かない。
けれど、今日をしっかり生きよう。
テーブルに並べられた焼きたてのパンから湯気が上がる。
それを見つめながら、私は心の中で静かに呟いた。
――「休むこと」も、ちゃんとした仕事のひとつ。
笑みがこぼれた瞬間、頭の中でまた音がした。
【サブタスク1:完了】
【サブタスク2:進行率:80%】
【サブタスク3:完了】
【プロジェクト:「休む勇気の習得」進行率:90%】
私はスプーンを置き、空を見上げて微笑んだ。
「あと少しで、ちゃんと“休める”ね」
その日の朝、フェルネ村にやわらかな風が吹いた。
まるで誰かが「よく頑張ったね」と言ってくれているように、優しい風だった。
◇
その日も、フェルネの空は穏やかに晴れていた。
畑の端を吹き抜ける風が柔らかく、村全体を包みこむように流れていく。
私は宿の庭で椅子に腰かけ、パンの欠片をちぎって鳥に投げていた。
白い羽の小鳥が群れになって降りてきて、私の足元でついばんでいる。
「……ほんとに、働いてないなあ」
小さく呟くと、自分で可笑しくなって笑った。
“何もしない”というのは、意外と難しい。
仕事をしない時間に、何をしていいかわからない。
けれど、こうして何もせずに風を感じているだけで、心の中の硬いものが少しずつ溶けていく気がした。
宿の扉が開いて、女将さんが顔を出した。
「ミナさーん。村の子たちが、川辺でピクニックするんだって。行ってみたらどうだい?」
「え、ピクニック?」
「そう。働かない日には遊ぶのさ。村の掟みたいなもんだよ」
「掟ですか……いい掟ですね」
女将さんは声を立てて笑った。
私は布の鞄にパンと水を詰め、川へ向かった。
村の西側にあるフェルネ川は、ゆるやかに蛇行して流れており、岸辺には野花が咲き乱れている。
子どもたちが靴を脱いで水の中を走り回り、太陽の光が水面で跳ね返る。
そのきらめきが、まるで時間そのものが遊んでいるように見えた。
「ミナさーん!」
エマが駆け寄ってきて、濡れた足で私のスカートをつかんだ。
「ほら見て! 魚が取れたよ!」
「ほんとだ。上手だね」
「うん! でもすぐ逃げちゃった!」
笑い声が響き、胸の奥がぽかぽかした。
王都での生活には、こんな瞬間はなかった。
目の前の小さな幸せを感じることすら、忘れていた気がする。
川辺の石に腰かけ、足先を水に浸す。
冷たいけれど、心地よい。
風が吹き抜けて、髪を揺らした。
「……贅沢だな」
心の底からそう思った。
しばらくすると、村長が木陰から現れた。
「おお、ミナ殿。今日は仕事をせんのか?」
「ええ、今日は“仕事をしない日”なんです」
「ははは、いいことじゃ。フェルネでは“怠ける日”こそ豊かさの証とされておるからな」
「豊かさの……証?」
「そう。働かなくても食える。それがこの村の誇りなんじゃ。みんなで助け合って、誰かが倒れても、誰も困らん。それが“強さ”というもんじゃ」
村長の言葉は、ゆっくりと私の胸に染み込んだ。
働かないことが、怠惰ではなく“余裕”だなんて。
王都では、そんな考え方をしたこともなかった。
「ミナ殿。あんたはここに来てから、少しずつ変わっとるのう」
「そうでしょうか」
「うむ。前は眉のあいだにシワがあった。今は、それが消えとる」
私は思わず額に手を当てて笑った。
「たぶん、風が吹いて伸ばしてくれたんですよ」
「ははは、うまいこと言うのう」
村長も笑って、川辺の石に腰を下ろした。
ふと、川面に映る自分の顔を見た。
そこには、少し日焼けして、柔らかく笑っている自分がいた。
「……知らない顔だな」
思わず呟いた。
会社員でも、冒険者でもない。
ただ“ひとりの人間”としての顔。
それが、こんなにも穏やかに見えるなんて。
空を見上げると、雲がゆっくり流れていく。
時計の針がない世界。
急ぐ理由も、争う理由もない。
“生きる”という言葉が、ただ呼吸することと同じ意味を持つ場所。
「ミナ殿」
「はい?」
「王都に戻りたいと思うことは、もうないか?」
少しの沈黙のあと、私は静かに首を振った。
「ありません。戻っても、きっと同じことの繰り返しです。あの世界では、私の居場所は仕事の中にしかなかった。でも……」
「でも?」
「今は違う。ここでは、“仕事の外”に私がいます」
村長は満足そうに目を細めた。
「それでいい。人間、仕事を失って初めて、自分を取り戻すもんじゃ」
その言葉に、胸の奥で何かがふっとほどけた。
日が傾き、川辺が金色に染まっていく。
エマたちが手をつないで歌を歌いながら帰っていく。
私はその光景を見送りながら、そっと立ち上がった。
――この村でなら、何もせずに幸せでいられる。
それだけで十分だった。
宿に戻ると、女将さんが窓を開けて、風を入れていた。
「おかえり。今日はよく日に当たったろう?」
「はい。少し焼けたかもしれません」
「それが一番の健康の証拠さ」
女将さんは笑い、机に置かれた小さな袋を指差した。
「村長が持ってきたよ。“これを渡しといてくれ”って」
中をのぞくと、乾いたラベンダーの花束が入っていた。
メモが添えられている。
《働かないことも、立派な仕事じゃ。フェルネの教えを忘れるな》
私は花束を胸に抱き、目を閉じた。
ほのかな香りが鼻をくすぐる。
「……はい、忘れません」
その夜。
ベッドに横たわった私の頭の中で、再び光が瞬いた。
【プロジェクト:「休む勇気の習得」完了】
【報酬:心の自由】
小さく笑って、ウィンドウを閉じた。
「ありがとう、AIさん。やっと、休めたよ」
窓の外には、満天の星空。
その光の下で、私は静かに眠りについた。
――明日もまた、何もしないで生きていこう。
フェルネの夜は、限りなく穏やかに更けていった。
◇
翌朝。まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた。
部屋の中は静かで、窓から吹き込む風がカーテンをゆっくり揺らしている。鳥の声と、遠くの牛の鳴き声が重なり合って、眠気をそっと溶かしていった。
私はベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
昨日、あんなに「何もしない」を堪能したのに、目が覚めるともう“今日をどう過ごそうか”と考えてしまう。
“休むことを学ぶ”というスキルを自分に課しているのに、どうしても手が動くのを止められない。
癖、というより性分だ。
起き上がって鏡を見ると、頬が少し赤く焼けていた。
「……ちゃんと人間っぽくなってる」
王都にいたころは、顔色なんて気にしたこともなかった。
寝不足とストレスで、いつも青白い顔。
鏡の中の私は、誰かの指示待ちをする部下のようだった。
けれど今は、少し違う。
顔に血が通っていて、目の奥にも光が宿っている。
“自分で生きてる”顔だ。
階下に降りると、女将さんがパンを焼いていた。
「おはよう。今日は麦パンだよ。昨日の豆スープも残ってるけど食べるかい?」
「はい、いただきます」
パンをちぎってスープに浸すと、優しい香りが鼻をくすぐる。
味は素朴で、少し塩気があって、心が落ち着く。
これを“ごちそう”と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
「そういえば、村の東の森に小さな湖があるんだよ」と女将さんが言った。
「静かでいい場所さ。みんな“考えごとをするならあそこ”って言う」
「……考えごと、ですか」
「そう。何もしない日が続くと、人は考え出すのさ。次に何をしたいかをね」
女将さんの言葉に、胸の奥が少しざわめいた。
――次に、何をしたいか。
私は“もう何もしない”と決めてここに来た。
でも、本当にそれでいいのかな?
心の奥のどこかが、小さく疼いている気がする。
食事を終えて、私は湖へ向かった。
東の森は、木々が密集していて、風の通り道が少し冷たい。
鳥の羽音、木の葉の擦れ合う音、そして水の滴る音が、心を穏やかに包みこむ。
やがて木々の間から視界が開け、湖が見えた。
陽光を映して、鏡のように静かに輝いている。
水面には雲の影が浮かび、ゆっくりと形を変えて流れていった。
私は湖畔の石に腰かけて、靴を脱ぎ、足を水に浸した。
冷たい。けれど、嫌じゃない。
心の奥の熱を、やさしく冷ましてくれるような感覚だった。
「……あの頃の私が、ここを見たらなんて言うかな」
ぽつりと独り言が漏れた。
“そんな暇があるなら次の会議資料を作れ”って、きっと眉をひそめるだろう。
“夢見てる暇はない”って、パソコンの前で自分を叱っていた私。
その姿を思い出して、ふっと笑ってしまった。
「ねえ、アイリス」
無意識に名前を呼んでいた。
――あのときの、私のAIアシスタント。
今はもう通信も途絶えているけれど、あの声は今も頭の中に残っている。
“効率的に行動しましょう。タスクを整理しますか?”
“次の会議まであと十五分です”
“無理をしないでください、ミナ”
最後の言葉だけが、なぜかとても優しかった。
「ねえ、私、ちゃんと“無理しない”で生きてるよ」
湖面に向かってそう呟く。
すると風が吹いて、水面が細かく揺れた。
まるで、“よくやった”って言われた気がして、目の奥が熱くなった。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「ミナさん、こんなところにいたのか」
振り返ると、村長が立っていた。
「どうしたんですか?」
「畑のほうでみんなが“今日の天気は最高だ”って言ってな。どうせなら、湖の魚を焼こうって話になっとる。夕方、みんなで宴を開くから、来てくれ」
「宴……?」
「うむ。畑の新しい配置で収穫量が増えた祝いじゃ。あんたのおかげだ」
私は思わず苦笑した。
「でも私、もう働かないって決めたんですけど」
「働いてないよ。笑ってただけじゃろ?」
「……確かに」
「それでええんじゃ。笑ってるだけで人が動く。それは、あんたが王都で身につけた“本物のスキル”なんじゃろう」
村長の言葉に、胸がぐっと締めつけられた。
“笑うことがスキル”――そんな考え方、初めて聞いた。
でも、今の私にはそれが一番しっくりくる。
ここでは、笑うことも仕事のひとつなのだ。
「……行きます。ちゃんと参加しますね」
「そうこなくちゃ!」
村長は満足げに笑い、杖をつきながら帰っていった。
私はもう一度湖を見つめた。
波紋がゆらゆらと広がり、空を映している。
その鏡の中に映る自分は、もう“無能扱いされたOL”ではなかった。
肩の力が抜けた、穏やかな笑顔の女。
「……これが、私の“再スタート”か」
呟きながら、立ち上がった。
夕方、村の広場には人が集まっていた。
焚き火のまわりでパンとスープの香りが漂い、笑い声があふれる。
子どもたちは歌い、大人たちは杯を掲げ、風がその音を運んでいく。
その中心で、私はただ笑っていた。
火の光が頬を照らし、心の奥まで温かい。
――私はもう、“働かなくていい”。
けれど、私の存在が誰かの笑顔を生んでいる。
それなら、それだけで十分だ。
焚き火の火がぱちりとはじけ、夜空に火の粉が散った。
その光のひとつひとつが、まるで星みたいに輝いていた。
“無能”だと笑われた日々も、“追放”された夜も。
すべては、この静かな幸福へとつながっていたのだと思う。
私はそっと目を閉じ、火の音を聞いた。
――これが、働かないことの“ごほうび”。
フェルネの夜は、やさしく更けていった。
朝、窓を開けると、空気が甘い。
夜露がまだ葉の先に残っていて、陽が当たるたびに小さな虹がきらめく。
フェルネ村の朝は、王都とはまるで別の世界みたいだった。
遠くからは牛の鳴き声、風に運ばれてくるパンの匂い、そして木々のざわめき。
――目を覚ますだけで、幸せになれる。
「ミナさん、起きた?」
扉を叩く声に振り向くと、宿の女将さんが顔を出した。
「今日はいい天気だよ。のんびり散歩でもしてきたらどうだい?」
「はい。そうします」
そう答えながら、私は自分でも驚くくらい自然に笑っていた。
“働かない生活”と決めて三日。けれど、じっとしているのが性に合わないらしい。
ノートに予定を書かないようにしようと思っていたのに、いつのまにか朝起きた時間や食べたパンの種類をメモしている。
「……OLの習性、抜けないなあ」
小さく笑って、外へ出た。
村の道は、まだ朝靄に包まれていた。
土の上に残る夜の冷たさが、足の裏を心地よく冷やしてくれる。
あぜ道を歩けば、麦畑の向こうに羊が見える。
白い毛が朝日に照らされて輝いていた。
「おはよう」
思わず声をかけると、羊がゆっくり顔を上げて「めぇ」と鳴いた。
なんだか返事をもらったようで、少し嬉しくなった。
村の中央にある井戸の前では、子どもたちが集まっていた。
「おはよう、ミナさん!」
「おはよう。今日も元気だね」
「うん! これから水くみに行くの!」
「えらいね。気をつけてね」
「はーい!」
元気な声が響き渡り、心がやわらかくなる。
私はそのまま井戸のそばのベンチに腰を下ろした。
「働かない」って、こういうことなんだな。
何もしないで、ただ時間が流れていく。
風の音と笑い声が、何よりのBGMになる。
最初は少し罪悪感があった。
“何かしていないと、置いていかれる”って、体が覚えてしまっているから。
でも今は、少しずつ慣れてきた。
時計も、スケジュールも、締め切りもない時間。
それが、こんなにも穏やかなんて。
「ミナさーん!」
声を上げて駆けてきたのは、昨日の女の子――エマだった。
髪を二つ結びにして、ほっぺたが真っ赤。
「パン屋さんのお手伝いに行くの! ミナさんも来て!」
「え、でも私、手伝わない生活をしてるから……」
「いいの! 食べるだけでいいよ!」
強引に手を引かれ、そのままパン屋の軒先まで連れていかれた。
店の中では、焼きたてのパンが山のように並んでいた。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「おはようございます」
店主の青年が、粉まみれの手で頭を下げた。
「昨日は倉庫の整理を手伝ってくださったとか。助かりました」
「いえ、私はもう“お休み中”ですから」
「そうですか。でも、ぜひパンを試してみてください」
差し出された丸いパンを受け取る。
手のひらにじんわり伝わる熱。
かじると、外はカリッと、中はふんわり。
「……おいしい」
「だろ? フェルネの水と小麦は最高なんです」
店主が誇らしげに笑った。
「パンを焼くって、毎日大変じゃないですか?」
「ええ。でも、朝日が昇るたびに生地をこねてると、不思議と疲れないんですよ。昨日と同じことをしてるのに、毎日違うんです」
その言葉を聞いて、私は少し考えた。
毎日同じようで違う日々。
それは私がかつて一番望んでいたものかもしれない。
会社も、ギルドも、毎日が「同じ」だった。
誰かの顔色を見て、空気を読んで、決まりきった台本どおりに動く。
だから、どんなに働いても、日々が重なって見えていた。
けれど、ここでは違う。
同じ朝でも、風の匂いが違う。光の加減も違う。
それだけで、今日という一日が、特別に感じられる。
「ミナさん、これ、持って帰って」
「え、いいんですか?」
「今日の余り物です。うちのパンは日持ちしないから」
紙袋を受け取りながら、胸が温かくなる。
「ありがとうございます。また来ますね」
「ええ、いつでも」
パン屋を出ると、村の広場では市場が開かれていた。
野菜、布、木工品。
人々の声が重なり合い、穏やかな活気に包まれている。
「おや、ミナ殿!」
村長が手を振っていた。
「昨日の畑、見たかね? もう芽が出始めとるぞ!」
「えっ、もうですか?」
「早いだろう? あんたが配置を変えてくれたおかげで、陽当たりが良くなったんじゃ」
「それは……うれしいです」
「うむ。この村は長いこと“変わらない”ままだった。あんたが来てから、少しずつ変わっていってるよ」
村長の目が細められる。
「でも、それは良い変化です。誰も無理をしてないのに、前に進んでる」
「無理をしない進歩、か。いい言葉じゃな」
その会話を聞いて、心の奥にあたたかい光が灯った。
私はずっと、“無理をすること”が当たり前だと思っていた。
努力しなきゃ、認められない。
頑張らなきゃ、居場所がない。
けれどこの村では、頑張らなくても受け入れられる。
人を動かすのは、力でもスキルでもなく、“笑顔”なのかもしれない。
市場を歩いていると、どこからか声が聞こえた。
「おーい、ミナさん!」
振り向くと、農夫の男が手を振っている。
「こないだ倉庫を直してくれてありがとうな! おかげで仕事が楽になった!」
「いえ、私、もう働かないって決めたので……」
「ははは! 働かないのに村の働き口を全部整えるとは、器用だな!」
「……そう言われると、そうですね」
私もつい、笑ってしまった。
夕暮れになると、村の鐘が鳴った。
その音を聞くと、なぜだか胸が締めつけられる。
どこかで、昔の記憶が揺れる。
会社のチャイム、ギルドの終了ベル。
いつも“終わり”を告げる音だった。
でも今は、“今日も平和だった”と知らせてくれる音だ。
私は空を見上げて、オレンジ色の雲に微笑んだ。
――働かないって、難しい。
だけど、悪くない。
村の家々から、夕飯の香りが漂ってくる。
煮込みスープ、焼き野菜、ハーブティー。
私は宿へと歩きながら、そっと胸の中で呟いた。
「この世界では、“幸せ”を仕事にしよう」
夕陽が沈み、夜が静かにフェルネを包みこんでいった。
△
夜、宿の食堂に戻ると、テーブルにはランプの明かりがゆらめいていた。
女将さんがスープの鍋をかき混ぜていて、店の中は香ばしい香りで満たされている。
「おかえり、ミナさん。今日はよく歩いたみたいだねえ」
「ええ、村をぐるっと一周してきました。あちこちに花が咲いていて、すごくきれいで」
「だろう? 春先に植えたやつさ。ここの土地は水がいいから、なんでもすぐ育つんだよ」
女将さんは微笑んで、木の椀にスープをよそってくれた。
「さ、食べな。今夜は野菜のポタージュさ」
スプーンを口に運ぶと、ほのかに甘くて、舌にやさしい。
ああ――生きている、って感じる。そんな味だった。
「村の子どもたちが、ミナさんが来てから元気になったって言ってたよ」
「え? 私、特に何もしてませんよ?」
「いやあ、してるさ。笑ってる。あんたが笑ってるだけで、みんなうれしいのさ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にじわっと熱が広がった。
笑うだけで誰かの役に立てる――そんな世界があるなんて、想像したこともなかった。
食事を終えたあと、私は宿の裏に出た。
夜風がやさしく吹き抜ける。空には満天の星。
昼間にあれほどにぎやかだった村も、今は静まり返っていて、虫の声だけが響いていた。
ランプの灯りを手に、私は庭のベンチに腰を下ろす。
少し離れた畑のほうでは、風に揺れる麦の葉が銀色に光っていた。
「……本当に、働かなくてもいいんだな」
思わず小さくつぶやく。
口にした言葉が、まだ少し信じられない。
だって、私の人生はいつだって「働くこと」から逃れられなかったから。
中学、高校、会社。
いつも「頑張ること」が評価の基準だった。
周りに合わせて、期待に応えて、空気を読んで。
そうしないと、生き残れない世界だった。
その延長線上で、異世界に来ても私は“頑張ること”しかできなかった。
――なのに。
今の私は、何もしなくても、ここにいられる。
怒鳴られることも、比べられることも、評価されることもない。
「存在するだけでいい」なんて、そんな奇跡みたいな生活が、本当にあったなんて。
気がつくと、目の端がにじんでいた。
頬を伝う涙を指で拭って、笑う。
「だめだな、私。泣き虫だ」
そのとき。
――ピコン。
頭の中で、またあの電子音が鳴った。
「え……?」
目の前にふわりと青いウィンドウが浮かび上がる。
【スキル《プロジェクトマネージャー》の自動補助が発動しました】
【新規プロジェクト:「休む勇気の習得」】
【進行率:0% → 5%】
「……は?」
思わず吹き出してしまった。
「なにそれ、どういうスキルなの?」
スクリーンの文字は淡々と続く。
【サブタスク1:一日中働かずに過ごす 進行率:25%】
【サブタスク2:罪悪感を感じずに休む 進行率:12%】
【サブタスク3:心から笑う 進行率:75%】
【報酬:幸福度上昇+安息】
「……AIにまで見張られてる気分だわ」
でも、不思議と嫌じゃなかった。
このスキルは、きっと私の心のどこかを見ている。
“働きすぎて壊れた人間”を、休ませようとしてくれているのかもしれない。
私はウィンドウを閉じ、深呼吸した。
夜風が髪を撫で、麦の香りがふわりと漂う。
遠くで、犬の遠吠えがひとつ響いた。
「……いい夜だ」
つぶやいた言葉が、静かな空に溶けていく。
ベンチの背もたれにもたれ、空を見上げた。
星が数え切れないほどあって、ひとつひとつがきらきらと輝いている。
その光を見ていると、不思議と眠くなってくる。
あくびをひとつして、目を閉じた。
――夢を見た。
大きなオフィス。書類の山。
時計の針が進む音。
周囲の人たちは無表情でパソコンを打ち続けている。
私はその中で、一枚の紙を持って立っていた。
『退職届』。
震える手でそれを机に置くと、誰も何も言わなかった。
ただ、時計の音だけが鳴り響く。
その音が、どんどん早くなっていく。
“チクタク、チクタク、チクタク――”
「ミナさん!」
はっとして目を開けると、エマが私の腕を揺すっていた。
「もう朝だよ!」
「……あ、え? 寝てた?」
「うん! 庭で寝ちゃってたよ!」
「そっか……」
陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
どうやら本気で眠ってしまっていたらしい。
「ミナさん、お顔がすごく幸せそうだったよ」
「ほんと?」
「うん! きっといい夢見てたんだね!」
私は小さく笑って、エマの頭を撫でた。
「うん。たぶん、そうだね」
宿の中に戻ると、女将さんが朝食の支度をしていた。
「おはよう、寝心地はどうだった?」
「最高です。人生でいちばんよく眠れました」
「それはよかった。あんた、やっと“ここの時間”に馴染んできたね」
「“ここの時間”?」
「そうさ。フェルネの時間は、人間の時間とは違うのよ。ここでは“今日”しか存在しないの」
「……今日しか、存在しない」
「そう。昨日も、明日も考えない。ただ今日を生きる。それが、この村の暮らしさ」
女将さんの言葉に、胸がじんと温かくなった。
そうか――この村では、“スケジュール”なんていらないんだ。
私は深呼吸をした。
今日も働かない。
けれど、今日をしっかり生きよう。
テーブルに並べられた焼きたてのパンから湯気が上がる。
それを見つめながら、私は心の中で静かに呟いた。
――「休むこと」も、ちゃんとした仕事のひとつ。
笑みがこぼれた瞬間、頭の中でまた音がした。
【サブタスク1:完了】
【サブタスク2:進行率:80%】
【サブタスク3:完了】
【プロジェクト:「休む勇気の習得」進行率:90%】
私はスプーンを置き、空を見上げて微笑んだ。
「あと少しで、ちゃんと“休める”ね」
その日の朝、フェルネ村にやわらかな風が吹いた。
まるで誰かが「よく頑張ったね」と言ってくれているように、優しい風だった。
◇
その日も、フェルネの空は穏やかに晴れていた。
畑の端を吹き抜ける風が柔らかく、村全体を包みこむように流れていく。
私は宿の庭で椅子に腰かけ、パンの欠片をちぎって鳥に投げていた。
白い羽の小鳥が群れになって降りてきて、私の足元でついばんでいる。
「……ほんとに、働いてないなあ」
小さく呟くと、自分で可笑しくなって笑った。
“何もしない”というのは、意外と難しい。
仕事をしない時間に、何をしていいかわからない。
けれど、こうして何もせずに風を感じているだけで、心の中の硬いものが少しずつ溶けていく気がした。
宿の扉が開いて、女将さんが顔を出した。
「ミナさーん。村の子たちが、川辺でピクニックするんだって。行ってみたらどうだい?」
「え、ピクニック?」
「そう。働かない日には遊ぶのさ。村の掟みたいなもんだよ」
「掟ですか……いい掟ですね」
女将さんは声を立てて笑った。
私は布の鞄にパンと水を詰め、川へ向かった。
村の西側にあるフェルネ川は、ゆるやかに蛇行して流れており、岸辺には野花が咲き乱れている。
子どもたちが靴を脱いで水の中を走り回り、太陽の光が水面で跳ね返る。
そのきらめきが、まるで時間そのものが遊んでいるように見えた。
「ミナさーん!」
エマが駆け寄ってきて、濡れた足で私のスカートをつかんだ。
「ほら見て! 魚が取れたよ!」
「ほんとだ。上手だね」
「うん! でもすぐ逃げちゃった!」
笑い声が響き、胸の奥がぽかぽかした。
王都での生活には、こんな瞬間はなかった。
目の前の小さな幸せを感じることすら、忘れていた気がする。
川辺の石に腰かけ、足先を水に浸す。
冷たいけれど、心地よい。
風が吹き抜けて、髪を揺らした。
「……贅沢だな」
心の底からそう思った。
しばらくすると、村長が木陰から現れた。
「おお、ミナ殿。今日は仕事をせんのか?」
「ええ、今日は“仕事をしない日”なんです」
「ははは、いいことじゃ。フェルネでは“怠ける日”こそ豊かさの証とされておるからな」
「豊かさの……証?」
「そう。働かなくても食える。それがこの村の誇りなんじゃ。みんなで助け合って、誰かが倒れても、誰も困らん。それが“強さ”というもんじゃ」
村長の言葉は、ゆっくりと私の胸に染み込んだ。
働かないことが、怠惰ではなく“余裕”だなんて。
王都では、そんな考え方をしたこともなかった。
「ミナ殿。あんたはここに来てから、少しずつ変わっとるのう」
「そうでしょうか」
「うむ。前は眉のあいだにシワがあった。今は、それが消えとる」
私は思わず額に手を当てて笑った。
「たぶん、風が吹いて伸ばしてくれたんですよ」
「ははは、うまいこと言うのう」
村長も笑って、川辺の石に腰を下ろした。
ふと、川面に映る自分の顔を見た。
そこには、少し日焼けして、柔らかく笑っている自分がいた。
「……知らない顔だな」
思わず呟いた。
会社員でも、冒険者でもない。
ただ“ひとりの人間”としての顔。
それが、こんなにも穏やかに見えるなんて。
空を見上げると、雲がゆっくり流れていく。
時計の針がない世界。
急ぐ理由も、争う理由もない。
“生きる”という言葉が、ただ呼吸することと同じ意味を持つ場所。
「ミナ殿」
「はい?」
「王都に戻りたいと思うことは、もうないか?」
少しの沈黙のあと、私は静かに首を振った。
「ありません。戻っても、きっと同じことの繰り返しです。あの世界では、私の居場所は仕事の中にしかなかった。でも……」
「でも?」
「今は違う。ここでは、“仕事の外”に私がいます」
村長は満足そうに目を細めた。
「それでいい。人間、仕事を失って初めて、自分を取り戻すもんじゃ」
その言葉に、胸の奥で何かがふっとほどけた。
日が傾き、川辺が金色に染まっていく。
エマたちが手をつないで歌を歌いながら帰っていく。
私はその光景を見送りながら、そっと立ち上がった。
――この村でなら、何もせずに幸せでいられる。
それだけで十分だった。
宿に戻ると、女将さんが窓を開けて、風を入れていた。
「おかえり。今日はよく日に当たったろう?」
「はい。少し焼けたかもしれません」
「それが一番の健康の証拠さ」
女将さんは笑い、机に置かれた小さな袋を指差した。
「村長が持ってきたよ。“これを渡しといてくれ”って」
中をのぞくと、乾いたラベンダーの花束が入っていた。
メモが添えられている。
《働かないことも、立派な仕事じゃ。フェルネの教えを忘れるな》
私は花束を胸に抱き、目を閉じた。
ほのかな香りが鼻をくすぐる。
「……はい、忘れません」
その夜。
ベッドに横たわった私の頭の中で、再び光が瞬いた。
【プロジェクト:「休む勇気の習得」完了】
【報酬:心の自由】
小さく笑って、ウィンドウを閉じた。
「ありがとう、AIさん。やっと、休めたよ」
窓の外には、満天の星空。
その光の下で、私は静かに眠りについた。
――明日もまた、何もしないで生きていこう。
フェルネの夜は、限りなく穏やかに更けていった。
◇
翌朝。まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた。
部屋の中は静かで、窓から吹き込む風がカーテンをゆっくり揺らしている。鳥の声と、遠くの牛の鳴き声が重なり合って、眠気をそっと溶かしていった。
私はベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
昨日、あんなに「何もしない」を堪能したのに、目が覚めるともう“今日をどう過ごそうか”と考えてしまう。
“休むことを学ぶ”というスキルを自分に課しているのに、どうしても手が動くのを止められない。
癖、というより性分だ。
起き上がって鏡を見ると、頬が少し赤く焼けていた。
「……ちゃんと人間っぽくなってる」
王都にいたころは、顔色なんて気にしたこともなかった。
寝不足とストレスで、いつも青白い顔。
鏡の中の私は、誰かの指示待ちをする部下のようだった。
けれど今は、少し違う。
顔に血が通っていて、目の奥にも光が宿っている。
“自分で生きてる”顔だ。
階下に降りると、女将さんがパンを焼いていた。
「おはよう。今日は麦パンだよ。昨日の豆スープも残ってるけど食べるかい?」
「はい、いただきます」
パンをちぎってスープに浸すと、優しい香りが鼻をくすぐる。
味は素朴で、少し塩気があって、心が落ち着く。
これを“ごちそう”と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
「そういえば、村の東の森に小さな湖があるんだよ」と女将さんが言った。
「静かでいい場所さ。みんな“考えごとをするならあそこ”って言う」
「……考えごと、ですか」
「そう。何もしない日が続くと、人は考え出すのさ。次に何をしたいかをね」
女将さんの言葉に、胸の奥が少しざわめいた。
――次に、何をしたいか。
私は“もう何もしない”と決めてここに来た。
でも、本当にそれでいいのかな?
心の奥のどこかが、小さく疼いている気がする。
食事を終えて、私は湖へ向かった。
東の森は、木々が密集していて、風の通り道が少し冷たい。
鳥の羽音、木の葉の擦れ合う音、そして水の滴る音が、心を穏やかに包みこむ。
やがて木々の間から視界が開け、湖が見えた。
陽光を映して、鏡のように静かに輝いている。
水面には雲の影が浮かび、ゆっくりと形を変えて流れていった。
私は湖畔の石に腰かけて、靴を脱ぎ、足を水に浸した。
冷たい。けれど、嫌じゃない。
心の奥の熱を、やさしく冷ましてくれるような感覚だった。
「……あの頃の私が、ここを見たらなんて言うかな」
ぽつりと独り言が漏れた。
“そんな暇があるなら次の会議資料を作れ”って、きっと眉をひそめるだろう。
“夢見てる暇はない”って、パソコンの前で自分を叱っていた私。
その姿を思い出して、ふっと笑ってしまった。
「ねえ、アイリス」
無意識に名前を呼んでいた。
――あのときの、私のAIアシスタント。
今はもう通信も途絶えているけれど、あの声は今も頭の中に残っている。
“効率的に行動しましょう。タスクを整理しますか?”
“次の会議まであと十五分です”
“無理をしないでください、ミナ”
最後の言葉だけが、なぜかとても優しかった。
「ねえ、私、ちゃんと“無理しない”で生きてるよ」
湖面に向かってそう呟く。
すると風が吹いて、水面が細かく揺れた。
まるで、“よくやった”って言われた気がして、目の奥が熱くなった。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「ミナさん、こんなところにいたのか」
振り返ると、村長が立っていた。
「どうしたんですか?」
「畑のほうでみんなが“今日の天気は最高だ”って言ってな。どうせなら、湖の魚を焼こうって話になっとる。夕方、みんなで宴を開くから、来てくれ」
「宴……?」
「うむ。畑の新しい配置で収穫量が増えた祝いじゃ。あんたのおかげだ」
私は思わず苦笑した。
「でも私、もう働かないって決めたんですけど」
「働いてないよ。笑ってただけじゃろ?」
「……確かに」
「それでええんじゃ。笑ってるだけで人が動く。それは、あんたが王都で身につけた“本物のスキル”なんじゃろう」
村長の言葉に、胸がぐっと締めつけられた。
“笑うことがスキル”――そんな考え方、初めて聞いた。
でも、今の私にはそれが一番しっくりくる。
ここでは、笑うことも仕事のひとつなのだ。
「……行きます。ちゃんと参加しますね」
「そうこなくちゃ!」
村長は満足げに笑い、杖をつきながら帰っていった。
私はもう一度湖を見つめた。
波紋がゆらゆらと広がり、空を映している。
その鏡の中に映る自分は、もう“無能扱いされたOL”ではなかった。
肩の力が抜けた、穏やかな笑顔の女。
「……これが、私の“再スタート”か」
呟きながら、立ち上がった。
夕方、村の広場には人が集まっていた。
焚き火のまわりでパンとスープの香りが漂い、笑い声があふれる。
子どもたちは歌い、大人たちは杯を掲げ、風がその音を運んでいく。
その中心で、私はただ笑っていた。
火の光が頬を照らし、心の奥まで温かい。
――私はもう、“働かなくていい”。
けれど、私の存在が誰かの笑顔を生んでいる。
それなら、それだけで十分だ。
焚き火の火がぱちりとはじけ、夜空に火の粉が散った。
その光のひとつひとつが、まるで星みたいに輝いていた。
“無能”だと笑われた日々も、“追放”された夜も。
すべては、この静かな幸福へとつながっていたのだと思う。
私はそっと目を閉じ、火の音を聞いた。
――これが、働かないことの“ごほうび”。
フェルネの夜は、やさしく更けていった。
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