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第6話 恋と未来とパンの香り
〇
夜が明けると、村は昨夜の襲撃の痕跡を片付けるために総出で動き出していた。折れた槍、散らばった刃、崩れた柵。血の跡は土に吸い込まれ、早朝の霧とともに薄れていく。それでも人々の表情は沈んではいなかった。竜王の咆哮が魔を退け、辺境伯の兵と宰相の剣が村を守った。誰もが胸を張り、「自分たちは守られている」と確信していた。
私はといえば、夜通し震えていた手をもう一度竃にかざし、粉袋を抱き寄せた。恐怖に押し潰されそうでも、パンを焼くことだけはやめられない。むしろ、焼かなければ心が壊れてしまいそうだった。こね台に広げた粉を水でまとめ、掌に力を込める。祈りはまだ、私の中にあった。
「セラ、もう立ち上がっているのか」
扉の向こうから声がした。鎧を脱ぎ、外套だけを羽織った辺境伯が立っていた。昨夜の戦で血に濡れたはずの彼の瞳は、今日も鋼色に澄んでいる。
「皆が待っています。今日こそ、パンを食べたいと」
「……そうか。君は強いな」
辺境伯はそう言い、ほんの僅かに唇を緩めた。その笑みは兵士たち以上に私の胸を震わせた。
「私にできるのは、パンを焼くことだけですから」
「それで十分だ。兵も、村人も、私自身も……君のパンで心を保っている」
彼の言葉に、胸の奥の空洞がひとつ埋まったような気がした。
△
昼。焼きあがったパンを並べると、村人たちが次々に集まり、笑顔で銅貨を差し出していった。子どもたちは頬張りながら声を上げる。
「ねえ! 痛かった膝が、昨日より楽になった!」
「うちのお父ちゃん、夜中に咳しなかったんだ!」
笑い声に包まれ、涙がにじんだ。私はうつむきながら布巾で目元を拭った。そんなとき、長衣の裾を翻し、宰相ライナルトが現れた。
「今日も賑わっているな」
「宰相様!」
「よせ、宰相などという肩書きはここでは邪魔だ。ただの一人の常連客だ」
彼はいつものように丸パンを手に取り、ゆっくりと噛んだ。顎の動きとともに眼差しが柔らかくなり、眼鏡の奥で光が揺れる。
「……君のパンは、理屈を越えて人の心を解きほぐす。王都の机上で腐っている貴族たちに食わせてやりたいものだ」
「そんなに効きますか?」
「効く。私が保証しよう。昨日、刃を交えた後の疲労も、今朝は驚くほど軽かった」
彼は微笑み、声を潜めて続けた。
「セラ、君がいる限り、この村は国の未来を変える火種になる。だが同時に、君自身が最も狙われる」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。けれどライナルトの瞳は真剣で、どこか切なげだった。
「私は……守りたい」
その一言に、鼓動が早鐘を打った。
◇
夕刻。空が茜に染まる頃、丘の向こうから巨大な影が近づいてきた。竜王だ。村人たちは恐れることなく手を振り、子どもたちは「パンだ! パンを持ってきて!」と声を上げる。
竜王はゆっくりと降り立ち、私に視線を注いだ。
「セラ。今日の分はあるか」
「はい。竜王様のために、特別に焼きました」
私は籠を差し出す。竜王は慎重にそれを摘み、牙の間に運んだ。咀嚼とともに鱗が淡く光り、やがて満足そうに目を細めた。
「良い。……人の女、汝は不思議だ。我の心の炎を静め、眠りを深める」
「私のパンが役に立つなら、嬉しいです」
「役立つどころか、我は汝を失いたくないとすら思う。……人の女を愛でるなど、竜王の矜持に反するはずだが」
村人たちが息を呑んだ。私の頬は熱くなり、言葉を失った。辺境伯は険しい顔で、ライナルトはわずかに目を伏せる。空気が張り詰めた。
「セラ」
辺境伯が口を開いた。
「私も、君を失いたくない」
短くも強い言葉。その眼差しは真剣で、私の心を貫いた。
そしてライナルトがゆっくりと顔を上げ、笑みを浮かべる。
「全く、竜王も辺境伯も。……ならば私も言おう。君は私にとって不可欠だ。知略では覆せぬほどに」
胸がいっぱいになった。竃の火よりも熱いものが、心の奥で燃えている。けれど私は、三人の視線を受け止めながら、微笑んだ。
「……ありがとうございます。でも、私はまだ答えを出せません。ただ……パンを焼き続けたい。それだけは、はっきりしています」
沈黙。やがて三人が同時に頷いた。辺境伯は唇を引き結び、ライナルトは静かに笑い、竜王は満足そうに鼻を鳴らした。
その夜、小屋の竃で焼かれたパンは、村人と兵士と宰相と竜王に分けられた。皆が輪になり、同じ香りを分け合う。
私はその光景を見つめながら思った。追放された聖女が開いた小さなパン屋は、いつしか村を、国を、竜をも巻き込み、大きな絆を生み出しているのだと。
空には星が瞬き、遠くで竜王の寝息が響く。私の胸の奥では、まだ答えの出ない想いが揺れている。けれど、それでいい。明日もまた、パンを焼けばいいのだから。
パンの香りに包まれて、私は静かに目を閉じた。
終わり
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夜が明けると、村は昨夜の襲撃の痕跡を片付けるために総出で動き出していた。折れた槍、散らばった刃、崩れた柵。血の跡は土に吸い込まれ、早朝の霧とともに薄れていく。それでも人々の表情は沈んではいなかった。竜王の咆哮が魔を退け、辺境伯の兵と宰相の剣が村を守った。誰もが胸を張り、「自分たちは守られている」と確信していた。
私はといえば、夜通し震えていた手をもう一度竃にかざし、粉袋を抱き寄せた。恐怖に押し潰されそうでも、パンを焼くことだけはやめられない。むしろ、焼かなければ心が壊れてしまいそうだった。こね台に広げた粉を水でまとめ、掌に力を込める。祈りはまだ、私の中にあった。
「セラ、もう立ち上がっているのか」
扉の向こうから声がした。鎧を脱ぎ、外套だけを羽織った辺境伯が立っていた。昨夜の戦で血に濡れたはずの彼の瞳は、今日も鋼色に澄んでいる。
「皆が待っています。今日こそ、パンを食べたいと」
「……そうか。君は強いな」
辺境伯はそう言い、ほんの僅かに唇を緩めた。その笑みは兵士たち以上に私の胸を震わせた。
「私にできるのは、パンを焼くことだけですから」
「それで十分だ。兵も、村人も、私自身も……君のパンで心を保っている」
彼の言葉に、胸の奥の空洞がひとつ埋まったような気がした。
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昼。焼きあがったパンを並べると、村人たちが次々に集まり、笑顔で銅貨を差し出していった。子どもたちは頬張りながら声を上げる。
「ねえ! 痛かった膝が、昨日より楽になった!」
「うちのお父ちゃん、夜中に咳しなかったんだ!」
笑い声に包まれ、涙がにじんだ。私はうつむきながら布巾で目元を拭った。そんなとき、長衣の裾を翻し、宰相ライナルトが現れた。
「今日も賑わっているな」
「宰相様!」
「よせ、宰相などという肩書きはここでは邪魔だ。ただの一人の常連客だ」
彼はいつものように丸パンを手に取り、ゆっくりと噛んだ。顎の動きとともに眼差しが柔らかくなり、眼鏡の奥で光が揺れる。
「……君のパンは、理屈を越えて人の心を解きほぐす。王都の机上で腐っている貴族たちに食わせてやりたいものだ」
「そんなに効きますか?」
「効く。私が保証しよう。昨日、刃を交えた後の疲労も、今朝は驚くほど軽かった」
彼は微笑み、声を潜めて続けた。
「セラ、君がいる限り、この村は国の未来を変える火種になる。だが同時に、君自身が最も狙われる」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。けれどライナルトの瞳は真剣で、どこか切なげだった。
「私は……守りたい」
その一言に、鼓動が早鐘を打った。
◇
夕刻。空が茜に染まる頃、丘の向こうから巨大な影が近づいてきた。竜王だ。村人たちは恐れることなく手を振り、子どもたちは「パンだ! パンを持ってきて!」と声を上げる。
竜王はゆっくりと降り立ち、私に視線を注いだ。
「セラ。今日の分はあるか」
「はい。竜王様のために、特別に焼きました」
私は籠を差し出す。竜王は慎重にそれを摘み、牙の間に運んだ。咀嚼とともに鱗が淡く光り、やがて満足そうに目を細めた。
「良い。……人の女、汝は不思議だ。我の心の炎を静め、眠りを深める」
「私のパンが役に立つなら、嬉しいです」
「役立つどころか、我は汝を失いたくないとすら思う。……人の女を愛でるなど、竜王の矜持に反するはずだが」
村人たちが息を呑んだ。私の頬は熱くなり、言葉を失った。辺境伯は険しい顔で、ライナルトはわずかに目を伏せる。空気が張り詰めた。
「セラ」
辺境伯が口を開いた。
「私も、君を失いたくない」
短くも強い言葉。その眼差しは真剣で、私の心を貫いた。
そしてライナルトがゆっくりと顔を上げ、笑みを浮かべる。
「全く、竜王も辺境伯も。……ならば私も言おう。君は私にとって不可欠だ。知略では覆せぬほどに」
胸がいっぱいになった。竃の火よりも熱いものが、心の奥で燃えている。けれど私は、三人の視線を受け止めながら、微笑んだ。
「……ありがとうございます。でも、私はまだ答えを出せません。ただ……パンを焼き続けたい。それだけは、はっきりしています」
沈黙。やがて三人が同時に頷いた。辺境伯は唇を引き結び、ライナルトは静かに笑い、竜王は満足そうに鼻を鳴らした。
その夜、小屋の竃で焼かれたパンは、村人と兵士と宰相と竜王に分けられた。皆が輪になり、同じ香りを分け合う。
私はその光景を見つめながら思った。追放された聖女が開いた小さなパン屋は、いつしか村を、国を、竜をも巻き込み、大きな絆を生み出しているのだと。
空には星が瞬き、遠くで竜王の寝息が響く。私の胸の奥では、まだ答えの出ない想いが揺れている。けれど、それでいい。明日もまた、パンを焼けばいいのだから。
パンの香りに包まれて、私は静かに目を閉じた。
終わり
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