美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた魔王様と一緒に田舎でのんびりスローライフ

さら

文字の大きさ
4 / 17

2-2

しおりを挟む


 眠った記憶があるのに、「寝た」と意識した瞬間がない。気づいたとき、私は肩にかけられていた毛布の内側で、ぼんやりと半分だけ目を開けていた。木の天井板が見える。節の模様がいくつもあって、ひとつは犬の横顔に見えるし、もうひとつは海老天みたいな形をしている。私はそれを意味もなくじっと眺めて、ああ私いま天井を安心して眺めてるんだなって思った。会社の寮の天井なんて、見上げても蛍光灯しかなかったし、明日何時に起きなきゃって時計とにらめっこしてただけだった。いまは時計もない。代わりに、湯気の匂いがしている。

「起きた?」

 低い声が、そっと耳に届く。私は目だけゆっくり動かして、テーブルの向こう側を見る。ルゼルがいた。キッチンの場所からこちらをのぞいている。髪はさっきまでより少し乱れていて、指でざっと後ろに撫でつけただけって感じ。生成りのシャツの袖を肘までまくってて、前をゆるく開けたベストの隙間から、鎖骨のラインがちょっと見える。なんかずるい。いや朝からずるいとかじゃない。もう夕方なのか朝なのかわからないけど、とりあえずずるい。

「……ちょっとだけ寝ました」

「うん、三十分くらい」

「三十分……」

 三十分という単語に、なんとも言えない安心が走る。長すぎて迷惑ではない。短すぎて可哀想でもない。ちょうどいい長さ。そう判断できるラインを、ちゃんと見てくれたんだなって思うと、胸の奥がまたじんとする。ちょっと泣きそうになるのを、私はあわてて無言で飲みこんだ。もう何回目なんだろう今日。

「はい、これ」

「これ?」

「お茶」

「お茶……!」

 私は反射的に体を起こす。毛布がふわっと肩からずり落ちて、慌てて胸元を押さえる。ブラウスのボタンは乱れてはない。セーフ。ルゼルが持ってきたのは、木のカップだった。表面が手のあとみたいにやわらかく磨かれていて、指にすべっとなじむ。カップからは、ふわっと、緑っぽい香りがたちのぼっていた。さっきから部屋に漂ってるハーブの匂いよりも、もう少し丸い。森の草っていうより、乾いた草と花のあいだみたいな香り。

「これはね、レーンっていう葉っぱを乾かしたやつ。ここの村だとよく飲む。緊張がほぐれるよ」

「……いただきます」

「どうぞ」

 私はそっと、カップに口をつけた。熱すぎない。ぬるい、よりは少しあつい、ああこれ“ちょうどいい”の温度だ。舌にひっかからない程度のあたたかさ。味は……ちょっと草。いや草って言い方はひどいな。でも、なんだろう、ほんの少しだけ甘い。砂糖じゃない、もっと乾いた甘さ。枯れ草を抱きしめたときにほのかにする、田舎の納屋の匂いを、そのままお湯に溶かしたみたいな。田舎の納屋に抱きしめられたことなんてないけど、たぶんこんな感じ。で、飲み込んだあと、喉のあたりがゆっくりゆるむ。肩が、ひゅーって落ちる。力が抜けた。

「……おいしい……」

「よかった」

「なんか、やさしい味」

「それは褒め言葉でいい?」

「いいです」

「やった」

「なにその子どもみたいなリアクション」

「ほめられると嬉しいんだよ」

「それはずるいなあ……」

 私は両手でカップを包んだまま、きゅっと肩をすくめる。木のカップって、こういうふうに手に持ったとき、熱がじわっと移ってくるんだな。陶器と違って、あたたかいのが長持ちしてくれる感じがする。私はもう一口飲んで、吐息を小さく漏らした。緊張が溶けていくたびに、逆に頭の奥がじんじんしてくる。泣いたあと特有の、頭の芯がふやけたみたいなだるさ。眠気も、恥ずかしさも、安心も、まぜこぜだ。

「……あの……」

「ん?」

「たぶんいま、目とか鼻とか、ひどいことになってますよね私」

「うん、ちょっと赤い」

「うわああ言わないで……!」

「でもかわい──」

「可愛いって言ったらこのお茶ぶっかけますからね!?」

「脅迫だ」

「防衛策です!」

「……じゃあ、“がんばった跡が残ってる”って言う」

「……」

 それはそれで、さらに危険な言葉だった。胸のど真ん中にずしっとくる。私は言葉を詰まらせて、どうにかごまかそうとカップをもう一口飲んだ。あたたかい。これはズルい。すごくズルい。お茶までズルい。

「でね」

「はい」

「本当は、まだ休んでてもよかったんだけど」

「……うん?」

「お客さんが来た」

「えっ」

 私はカップを持ったまま、ほぼ本能的に姿勢を正した。背すじがぴんと伸びる。この動きは条件反射だ。会社で「佐伯さん、お客さん来てるからお茶お願い」って言われたときのやつだ。完全に染みついてる。自分でもびっくりする。体が覚えてるってこういうことか。

「お客さん?」

「うん。村の子ども」

「子ども?」

「うん」

「村の子どもも“お客さん”なんですか?」

「大事なお客さんだよ。うちはよく使われるから」

「使われる?」

「“ルゼルー! これ直してー!”とか“ルゼル! これ見て!”とか“ルゼル! ねえ聞いて!”とか、そういうの」

「ああ……」

「それでね、いま玄関の前で“入っていい?”って聞いてる。いつもは勝手に入ってくるんだけど、今日は“知らないひとがいるから”って」

 私の心臓が、きゅっと一段跳ねた。知らないひと。それ、つまり私。私はカップをそっとテーブルに置いて、毛布を整えた。目元を指で押さえる。なるべく腫れを落ち着かせようと、軽く押す。会社員時代に習得した「昼休みに泣いたあと午後の会議に出なきゃいけないときの応急処置」スキルが、こんなところで役に立つなんて思わなかった。異世界でも社畜スキルは腐らない。うれしくない。

「……私は、どう振る舞えば……?」

「普通でいいよ」

「普通ってなんですか?」

「由香の普通」

「それ一番わからないやつ」

「じゃあ、笑ってくれると嬉しい」

「笑う……」

「うん。無理にじゃなくて、“こんにちは”って笑って言ってくれたら、それだけでたぶん大丈夫」

「……」

 私は、ごくりと唾を飲んだ。大丈夫かな、私。初対面の子ども相手に、ちゃんと笑えるかな。いま顔、腫れてるし。目、真っ赤だし。うまくやらなきゃって思うと、失敗する。私はそういうタイプだ。会議でも、“絶対ミスできない”って場面でこそ手が震えて、コップ倒したりする。深呼吸。吸って、止めて、吐く。ルゼルと一緒にやったやつを思い出す。肩が少しおちる。声に、少しだけ力が戻る。

「……がんばります」

「うん。じゃあ、入っておいでー」

 ルゼルが玄関のほうに声をかけた。すぐに、ぱたぱたぱた、と小さな足音が近づく。ドドドッっていう勢いじゃない。控えめな、でも落ち着ききれてない、期待のこもった足音。私は思わず膝の上で手をそろえた。お客さま対応モード。いやこれ子ども相手にお客さまモードってどうなの、って冷静な自分がつっこむけど、体はもう勝手にそうなってるから止められない。

 玄関のところから、ちょこん、と顔がのぞいた。年齢は……小学校低学年くらい? いやこっちの世界に小学校の概念があるかわからないんだけど、たぶん六歳か七歳くらいの、ちいさな女の子。日焼けした小麦色の肌。髪は明るい栗色で、肩のあたりでばさっと切られて、ところどころ寝癖みたいに跳ねている。丸い瞳は蜂蜜みたいな色で、ぱちぱちと大きく瞬きしている。薄い布のワンピースに、裾のほうに小さなほつれがあるのが見えて、思わず「縫ってあげたい」と職業病が反応する。

「ルゼル~……あ、ほんとに知らないひといる……」

「いるよ」

「わぁ……」

 女の子は私を見て、じーっと固まった。その顔には、警戒半分、好奇心半分、あとほんのちょっとだけ不安がまじっている。私は慌てて口角を上げた。営業スマイルじゃなくて、もうちょっとやわらかい笑顔を意識する。営業スマイルは“買ってください”って顔だから、子どもには向いてない。子どもってそういうのめっちゃ敏感だし。友達の甥っ子で学んだやつ。

「……こんにちは」

 声が、ちゃんと出た。我ながらちょっと驚く。私は胸の上で軽く両手をそろえたまま、ていねいに頭を下げる。敬語はこの世界の子どもに通じるのかっていう問題はあるけど、礼儀は、どこの世界でも悪い印象にはならないと信じたい。

「はじめまして。私はユカっていいます」

 少しだけ間があった。女の子は、私の顔をじーっと見て、それから、ほんのり眉を下げた。

「……泣いてた?」

「っ」

 核心ストレートパンチきた。私は言葉につまる。女の子はおそるおそる一歩中に入ってきて、でもまだ玄関から完全には離れない。いつでも逃げられるようにっていう距離感。えらい。自衛本能が高い。たぶんこの世界で子どもが生きるってそういうことなんだろう。

「えっと……」

 私は一瞬だけ目を泳がせて、それから小さく笑った。うまくごまかすよりも、正直に言ったほうが、この子には伝わりやすい気がした。

「ちょっと、がんばったので」

「がんばった?」

「うん。がんばったら、泣いちゃった」

「そっか」

 女の子はこくんとうなずいた。納得はしたらしい。よかった。そこで予想外のことが起きた。彼女はちょこちょこと近づいてきて、ためらいがちに、私のそばまで来て、毛布のはしっこをぎゅっとつまんだ。

「がんばったひとは、やさしくしないとだめって、リーヤ(たぶんお母さんか保護者?)が言ってた」

「……」

「だから、やさしくするね」

 私の喉の奥が一気に熱くなる。ちょっと待って。待って。いまの攻撃はずるい。いまのはずるい。なにそのセリフ、心臓に直接くるんだけど。かわいいっていう言葉は私に禁じられているのに、私はいま目の前のちいさな生き物に対して「かわいい!!」って叫びたくてどうしようもないんですけど。ずるい。世界はずるい。

「ありがとう……すごく、やさしいね……」

「うん!」

 女の子は胸を張った。毛布をつまんでいた指がぱっとはなれて、かわりに両手を腰に当てる。自信満々ポーズ。私は、胸の奥がじわんとあたたかくなるのをどうにか抑えながら、そっと訊いた。

「お名前、聞いてもいい?」

「ミラ! ミラ=エルネっていうの! ミラでいいよ!」

「ミラちゃん」

「ちゃん?」

「うん、ミラちゃんって呼んでもいい?」

「いい!」

「ありがとう、ミラちゃん」

 あ。だめ。いまのだけで私、だいぶ持っていかれた。もう“この子が泣いたら私は世界を燃やす”っていう謎の母性みたいな感情が芽生えた。早い。展開が早い。出会って一分でこれ。やばい。やばいんだけど、でも、悪くない。というか、すごく、いい。

 ミラは一通り私の顔を観察すると、くるっとルゼルのほうに振り返った。

「ルゼルー!」

「なに」

「このひと、やさしい!」

「うん、知ってる」

「このひと、ここにいるの?」

「いるよ。今日からだよ」

「ほぁ~~!」

 ミラは目をまんまるにして、信じられないものを見たみたいな顔をした。次の瞬間、彼女は勢いよく私のほうを向き直って、テーブルにどん、と何かを置いた。麻袋。両手で抱えてきたらしい。ずっしりしている。小麦粉の袋くらいのサイズ。

「これあげる!」

「えっ」

「うちのパン! きょうの朝のやつ! まだあったかいよ!」

「えっ、ええっ、これ、いいの……?」

「いいの! あたらしいひとにはパンあげるの! リーヤがそうしなさいって言ってた!」

 パン。パンの袋。私はさっき馬の上で「パンがうまい」と言われてすでに人生観が揺れた身だ。ここにきてまたパン。なんなの、パンってこの世界で挨拶代わりなの? 名刺みたいなもんなの? パン名刺なの? でも麻袋を抱えてきた小さな腕がぷるぷるしていて、今まさに「がんばった」あとであることが一目でわかって、私は「返す」という選択肢を即座に消した。返したらこの子の“がんばった”を否定しちゃう。それは絶対にイヤだ。

「ありがとう、ミラちゃん」

「うん!」

「すごくうれしい。すごくうれしいから、ちゃんと食べるね」

「たべて!」

「うん。……一緒に、食べる?」

 自分で口にしてから、あ、これルゼルの「一緒に食べるルール」そのまんまだ、と気づいた。たぶんこの村では普通なのかもしれない。でも私にはまだ新しい。だから、声がほんの少しだけ震えていたと思う。ミラは一瞬、ぽかんとして、それから花が咲いたみたいに顔じゅうで笑った。

「たべるーーー!!」

「音量!」

「ごめん!」

「許す!」

 私は笑って、テーブルの上を慌てて片づける。紙束は片側に寄せて、インク壺はこぼさないようにふたをして、羽ペンを布の上にそっと寝かせて。木のテーブルの真ん中を空ける。こういうときの段取りの早さは完全に会社の会議準備のそれだ。いつ上役が「すぐ会議する」って言い出しても対応できるように、机の上を一瞬でお茶会場にするスキル。まさか異世界の湖畔の家でも発動するとは。

「ルゼル、木の板ってこれかな、まな板? パン切るやつ?」

「そうそう、それ」

「ナイフはどれですか。あ、これか。え、これ刃長いな。ちょっと怖いなこれ。私、指切らない自信ないんですけど」

「大丈夫、俺がやる」

「お願いします」

 ルゼルはすっと手を伸ばし、私と入れ替わるみたいにテーブルの前に立った。その動きに、思わず見とれる。なんというか、無駄がない。静かな大人の動き。パン袋を受け取って、麻紐をほどいて、中から丸いパンをいくつか取り出す。あ、これ、さっき市場で食べたやつに似てる。表面がカリッとしてて、ハーブの点々が練りこんである。触れた瞬間、まだほんのりあたたかい湯気がふわっと立った。

「わぁ……いいにおい……」

「でしょ!」

 ミラが誇らしげに胸を張る。ルゼルはその様子を横目で見て、口元だけふっと笑ってから、手慣れた動きでパンを半分に切った。カリッという音。中はふわふわで、うすい湯気がたちのぼる。ちょっとだけハーブとチーズみたいな匂いがする。ミラの家、パン屋って言ってたっけ。おいしいやつ確定じゃん。

「はい、由香」

「あ、ありがとうございます」

「はい、ミラ」

「ありがと!」

「はい、俺」

「自分で言いましたね今」

「公平にね」

「公平ってそういう……」

 私は笑いながら、ちぎったパンを手に持った。ふわふわ。指先に、湯気のしっとりしたあたたかさがまとわりつく。口元に近づける。鼻に香りがぶわっときて、さっきよりもチーズっぽいコクが強いのがわかる。ひとくち、そっと噛む。外側はやっぱり少しカリッとしてて、中はもちっとしてて、ハーブの香りがふわっと広がって、そこにミルクっぽいまろやかさが重なる。舌の上でゆっくり溶けていく。うわ、なにこれ。

「……おいし……」

「でしょ!?」

 ミラがすぐさま食い気味に被せてくる。私は即座にうなずいた。

「すっごくおいしい……すごい……」

「えっへん!」

 ミラは胸をそらして、ぷるぷる腕を震わせる。誇らしさ100%。私は、笑いながら、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていくのを感じる。ほんとにあたたかい。パンがあったかいからだけじゃない。誰かと同じものを食べて、「おいしいね」って言えるこの感じ。これ、いつぶりだろうって考えると、ちょっとだけ胸がぎゅっとなった。私はパンをもう一口食べて、その気持ちをごまかした。

「ユカ、ユカは、なにができるの?」

「え?」

「ユカは、なにしてくれるひと? ルゼル、『ユカはすごいんだよ~』って言ってた」

「ちょっと待ってルゼルさん?」

「うん?」

「なにを広めてるんですかあなたは」

「事実を」

「事実かぁ……」

 ミラは目をきらきらさせて、テーブルの端にぺたんと座りこんだ。足をぶらぶらさせながら、パンを大きくかじる。あ、パンくずがテーブルに落ちる。あとで拭かなきゃ。私の庶務センサーが反応する。

「たとえば、ユカは、紙をきれいにするひとだよって言ってた」

「紙をきれいにするひと」

「うん!」

「ああ……」

 私はちょっと笑ってしまった。紙をきれいにするひと。言い方はめちゃくちゃ素朴だけど、間違ってはない。うん、間違ってない。わかりやすいなこの説明。

「うん。紙をきれいにするのは得意かも」

「あと、いどをなおすの、てつだってくれるって!」

「井戸?」

「うん! いど! みずでるとこ!」

「あ、うん、井戸は知ってます」

「しってるの!? すごい!」

「えっすごいポイントそこ!? いやまあ知ってます……」

「いど、こわれてるから、こわいの」

 ミラの足が、ぶらぶらしながら少し弱くなった。さっきまでとちがうトーンの声。私は自然と、そっちをちゃんと向く。テーブルに肘をついて、身を少し乗り出す。ミラはパンを持ったまま、ちょっとだけ目を伏せた。

「みず、にごってるの。においがするの。リーヤが“あんまりのまないで”っていうから、あたし、あんまりのんでない」

「それは……困るね」

「うん。こわいの。ちいさいこ、いっぱいのむから」

「ちいさいこ?」

「うん、ベラとか、ミコとか。あたしよりちいさい」

「ああ……」

 子どもは、体が小さいほど、汚れた水でお腹を壊しやすい。頭の片隅に、会社の防災訓練で聞いた話が浮かぶ。避難所では、子どもとお年寄りの脱水に特に注意しろ、とか、そういうやつ。私の胃のあたりが、ぎゅっとなった。

「だから、なおしたいの。いど。でも、いどはこわいの。ふかいから。おちたらしぬって、みんないうの」

「……」

「ルゼル、おちないでね」

 ミラが真剣な顔でルゼルをにらんだ。ルゼルは「落ちないよ」と即答した。その即答が、いつもみたいに軽くない。ちょっとだけ低くて、ちゃんと約束の形をしている。ミラはその返事に満足したようにこくこくとうなずいた。それから、ぱっと顔を上げて、私に向き直る。

「ユカも、おちないでね」

「えっ、私も?」

「うん! だって、いどなおすっていってたもん!」

「私は井戸の中に入るって一言も言ってないんですけどルゼルさん!?」

「俺も言ってないよ。ミラの脳内で由香がもう現場監督扱いになってるだけだよ」

「現場監督ってあなたが言い出したやつですよね絶対!!」

「よく覚えてるね」

「覚えてますよ!!」

 私は慌てて両手をぶんぶん振った。ミラはきょとんとして、逆にちょっと不満そうに頬をふくらませる。

「ユカ、いどなおしてくれないの?」

「え、いや、直したい気持ちはあります! すごくあります! むしろ全力で直したい気持ちはあるんですけど!」

「あるの!?」

「あるの!」

「わぁー!!」

「だからそんなに喜ぶとプレッシャーがーーー!」

「ミラ、期待させすぎないで」

「してないもん! ちょっとだけだもん!」

「ちょっとの基準どこなのそれ!?」

 ルゼルは肩をゆるくすくめて、パンをひとくちかじった。ああずるい。パンかじる動作すら絵になる。なんなのこの人。犯罪だろ。

「でも、そうだね」

 パンを飲みこみながら、ルゼルが少し真面目な声に戻る。テーブルに肘をつき、指先で軽くリズムをとりながら、私を見た。

「由香、落ち着いたら、井戸を見にいこう」

「……うん」

「まだ今日は無理しなくていい。でも、たぶん明日か、明後日には、みんなに紹介して、そのときに“井戸整える人”って顔をしてくれると助かる」

「“井戸整える人”の顔ってどんな顔ですか」

「きりっとして、“水場は任せてください”って目」

「具体的なようで全然具体的じゃないんですけど」

「大丈夫、由香はそういう顔できるよ。いまちょっとなってる」

「なってません!!!」

「なってるなってる」

「ミラまでうなずかないでミラ!!」

「なってるよ~、かっこいい~」

「ミラちゃんかわ……っ、あっ、いま『かわいい』って言いかけたのはパンのことですパンのことですミラちゃんのことじゃないです」

「パンかわいいの?」

「うんパンかわいい! すごくかわいいパン! この丸さ、めっちゃかわいい!!!」

「ほんと!?」

「ほんとほんと!!」

 危なかった。自分で設けた「かわいい禁止ルール」がこんなに自分の首を締めるなんて思わなかった。これやっぱりダメだ。次から別ルールにしよう。「かわいい禁止」は負荷が高い。いやでも、いま口走ったらたぶん泣く。ミラにも、ルゼルにも、そしてなにより私自身が。だからまだがんばる。

 パンをもぐもぐしながら、私はふと、あることに気づいた。というか、いまさら気づいて驚いた。私は、いま、初対面の子どもと、テーブルでパンを分けて食べてる。泣いたあとで。泣いたことを責められずに。泣いたことを、当たり前みたいに受け入れられて。そのうえで「一緒に食べよ」って誘ってもらえて。……これって、すごいことなんじゃないかな、と胸のどこかがぽんと光る。

「ミラ」

「なに!」

「ありがとうね、ほんとに」

「へ?」

「パンもそうだし、やさしくしてくれたのも、すごくうれしかった。私、さっきまでちょっと、こわかったんだけど、ミラが来てくれたから、すごく安心した」

「…………」

 ミラは、ぱちぱちとまばたきをした。ぽかん、と口をあける。そのまま、わたわたと両手で頬をおさえた。頬がむにっと押されて、ふくれた栗まんじゅうみたいになる。かわ……いやパンがかわいいパンがかわいい。

「か、か、かわ……」

「かわ?」

「かわ……」

 ミラは真っ赤になって両手で顔を隠した。私の言葉が予想外にストレートすぎたらしい。かわいい。いやパン。パンかわいい。パン。

「ミラ、どうしたの」

「な、な、な、なんでもないーーー!!」

「なんでもないそうです」

「うん。なんでもないらしいね」

 ルゼルは、肩をふるわせて笑いをこらえていた。彼が笑いを押し殺すと、喉の奥で低い音が鳴る。なんかそれだけでずるい。なんかずるい。なんかもうずるいって言いすぎて語彙がなくなってきた。語彙を補充したい。語彙スタックほしい。

 ミラはパンを両手で抱えなおすと、むんっと立ち上がった。決意の表情。ちいさいのに、妙に責任感ある顔をするあたり、本当にこの子、村の中ではもうしっかり者なんだろうなってわかる。

「じゃあ、あたし、いどうえにいく!」

「ん?」

「いど! いどにいって、“ユカがなおすかも”っていうの!」

「ちょっと待ってストップストップストップ!!」

 私は椅子から半分飛び上がった。膝がガタンって音を立てる。ミラは勢いそのまま玄関に向かいかけてる。ルゼルも苦笑しながら片手を伸ばして、ミラのフード……というか肩口の布をそっとつまんでひきとめた。子猫の首根っこをやさしくつまむみたいなやつ。ミラは「むー!」とふくれる。

「まだ“なおすかも”じゃないよ。ちゃんと『助けてくれる』にしていいよ」

「ややこしいこと言うなーーー!!!」

「ややこしいこと言わないでください!? ハードル上げないでください!? 今の私“井戸のとこでバケツ整理します”くらいの気持ちなんですけど!? “村の命の水源を救う救世主”みたいな顔されたら明日から肩こりますよ!?」

「救世主、いい響きだね」

「よくない!! 本当にやめて!!」

 ルゼルはおかしそうに目を細め、それからちゃんと真面目な声に切り替えて、ミラに向き直った。

「ミラ。いいかい。まだ“なおす”は言わないで」

「うん」

「『ユカっていうおねえさんが、いどを見にくるよ』って言って」

「うん」

「それから、『みんな、いまのままぐちゃぐちゃにしないでね』って言って」

「ぐちゃぐちゃにしないでね」

「そうそう」

「わかった!」

 ミラは拳をぎゅっと握りしめた。使命感120%。その姿がなんかもう、戦場に向かう小隊長みたいで、私は笑いそうになった。いや戦場ってバトルない設定だからやめよう。イメージ的に。

「ミラ」

「なにー?」

「足、走らないでね。転ぶとパンつぶれるから」

「あっそうだ! パン!」

「パンは命より大事だもんね」

「パンは命よりだいじじゃないよ! でもだいじ!!」

「正しくは“パンはパンの命より大事”くらいかな」

「それなに!?」

「ごめん私もわからない!」

 ミラはわーわー言いながらも、とても丁寧に麻袋を抱え直し、そろそろと玄関に向かった。ちゃんと“走らないでね”って言ったら本当に走らないの、すごい。素直。いい子。大好き。いやパンが。パンが大好き。

 玄関でぱたぱたとサンダルっぽいものをつっかけて、ドアのところでもう一度だけ振り返る。

「ゆかー! またくるからねー!」

「うん! 待ってるね!」

「うんーっ!」

 ミラは全力で手をぶんぶん振って、戸口から飛び出していった。外の光が一瞬だけ部屋に差しこんで、湖からのきらきらが床を走る。ドアが閉まると、部屋の中はふたたび木の匂いとハーブの匂いに満たされた。

 ……しん、とした。

 ミラの声と足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は自分の胸に手を当てた。鼓動が、じん、としている。あの子、すごいな。あの年齢で、あんなふうに“やさしくするね”って言えるの、すごいな。あの素直さ、あのまま大きくなってくれたらいいな。でも現実はそう簡単じゃないんだろうな、っていう予感もある。井戸の水の話をするときの顔、あれは“小さい子たちは危ないから”っていう、守る側の顔だった。六歳七歳であの顔をするのは、正直つらい。でも、それでも、あの子はちゃんと笑う。笑ってパンを渡す。ああ、この村、なんか、もう好きだなって思ってしまうの、早すぎるかな。

「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 私は、肺の奥に残ってたなにかをぜんぶ吐き出すみたいな、長い長い息を吐いた。上半身がテーブルにかくっと倒れこみそうになって、額を腕にのせる。木の感触がひんやりして気持ちいい。

「つ、つかれた……」

「おつかれさま」

「えらい……ちいさい子どもって、すごいエネルギー……」

「うん。ミラは特にね。台風みたいな子だから」

「台風……わかる……」

「でも、由香、ちゃんと笑えてたよ」

「えっ」

「ちゃんと『こんにちは』って言えたし、ちゃんと“ありがとう”も言えた。上出来」

「……本当ですか」

「本当」

「……よかったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 私は再びふにゃっと椅子に沈んだ。体の力がふしぎなくらい抜けていく。さっきのお茶も効いてるし、泣いて疲れてパン食べて満たされたし、人とちゃんと会話できたし、褒められたし、安全って言われたし。……なんだろう、いまのこの感覚。なんて言えばいい? ゆるい。やわらかい。あたたかい。ああ、これか――“安心”。たぶん、これが安心なんだ。私はいま知った。二十六歳にしてやっと、「安心」という実物を手でさわった。そういう感じ。

「で」

「で?」

「由香」

「はい」

「さっそくで悪いんだけど」

「はい!? なんですかこの“さっそくで悪いんだけど”っていう上司ムーブは!? やめてください心の準備が!!」

「仕事をお願いしてもいい?」

「はっきり言ったーーー!!」

 私は両手で顔を覆った。もう、なんなのこの元・魔王。容赦がない。やわらかい空気に甘やかして油断させたあとに“仕事お願い”って来るの、完全に有能マネージャーのやり口なんですけど。ああ、でも、ちゃんと「お願い」って言った。命令じゃない。そこはすごく大事なラインだ。私の心は、そのラインにすごく敏感になっている。命令されるのは嫌いだけど、頼られるのはうれしい。わがままかもしれないけど、それが本音なんだと、今日だけで何度もわかった。

「えっと……どんな仕事でしょうか……」

「これ」

 ルゼルは、テーブルの脇から一枚の紙を取り出した。さっきの在庫まとめよりも、紙が厚い。羊皮紙っぽい手触り。書いてある字は、他のメモよりもずっと整っていた。たぶんルゼル自身の字だ。細くてすっとしてて、読みやすい。私は思わず感心する。字がきれいな男は信用できる、っていうわけじゃないけど、字がきれいだと頭の中の整理がうまいイメージがある。偏見だけど。

「“請願書”」

「せいがんしょ?」

「うん。王国に出す書類」

 心臓が一瞬で冷えた。王国。その単語が持ってる意味は、まだ半日も経ってないのに、私の中でずいぶん重い。王様。聖女。追い出し。無能。あの白い石の城壁。私を見なかった視線。それらが一気に思い出されて、喉がきゅっと締まる。

「……王国って、あの、さっきの?」

「うん」

「そこに、なにを“請願”するんですか」

「“この村は、もうこれ以上税を増やさないでください”っていうお願い」

「…………」

 私の思考が、一瞬止まった。そうか。税。そうだ。ここは異世界で、王国で、封建社会っぽいやつというのはあの鎧とマントでなんとなく察してるけど、その中でこの村はどうやって生きてるんだろうって、そこまでちゃんと考えきれてなかった。私の視線が紙に落ちる。書類には、さらっとした綺麗な字で、いくつかの項目が並んでいた。読みやすい。というか、私が読めるように書かれているんだと思う。すごいな。気配りが過剰。

「ここ最近、王都から役人が来てさ」

 ルゼルの声色は、さっきより少し低かった。でも怒りっていうより、疲れに近い。

「“休戦の維持にはお金がかかるから”っていう名目で、地方の村にも税を上乗せするって話になってる。戦争しないための費用をみんなで出そうってことなんだろうけど、ここの村は正直、これ以上は無理なんだ。作ってるのは主に食べ物で、ほとんどが自給ぶんで消える。余剰を出すには、食べるぶんを削るしかない」

「……」

「それをそのまま『無理ですー』って言っても、あいつらは“みんな無理って言うんだよね”って笑って終わるだけだから、ちゃんと紙にして、数字にして、持っていかなきゃいけないんだ」

「……数字に」

「うん。どれくらい作って、どれくらい食べて、どれくらい余って、去年と今年でどう変わったか。病気やけがで働けない人は何人いるか。あと、井戸が今こういう状態だから、これ以上水を汲みに行く距離がのびると高齢者と子どもへの負担が上がって、“労働力”が減るってこととかね」

「……」

「それを、ちゃんと、わかるように並べたい」

「……」

「俺もやってみたんだけど、どうしても主観が混ざっちゃうんだよ。“これ大変なんだよ!? わかる!?”って言いたくなっちゃう。そうすると、役人は“感情論”って切り捨てる」

「わかる……」

「わかる?」

「わかる。めっちゃわかる」

 私は思わず身を乗り出した。胸の奥が、変な意味で熱くなる。そうだ。これ、私がずっとやってきたやつに似てる。プロジェクトで「この納期無理です」って言うと、「無理って言われても困るんだよね~」って返されるやつ。だから「無理」って言うのをやめて、「現時点でのリソースは〇人日で、必要な作業量は△人日です。この差分を埋める案は三つです」って紙にするんだ。そうすると、相手は「感情論」って言えない。言わせない。ああ、なんだろう、この胸のざわざわ。これは、もしかして――やる気?

「ルゼル」

「うん?」

「これ、私やります」

 自分でも驚くくらい、即答だった。ルゼルの赤茶色の瞳が、わずかに見開かれる。それから、ほんの一瞬の空白。彼の肩から、すっと力が抜けるのが見えた。息を吐いた、っていうより、“張ってたものを下ろした”って感じだ。そんな顔を見せるんだな、この人。なんかちょっと意外だった。いや、うれしいんだけど。

「……本当に?」

「はい」

「負担にならない?」

「なります。めっちゃなると思います」

「なるんだ」

「なります。でも、やります」

「なんで?」

「なんでって言われると、カッコいい理由が出てこないんですけど……」

 私はちょっと視線を落とした。紙の上に並んだ行。そこに書かれた「村の人の数」「井戸の状態」「冬の備蓄」。一個一個が、もう“物語”っていうより“暮らし”なんだなって、直感でわかる。これ、誰かが雑に扱ったら、たぶん私怒る。勝手に怒る。そんな自分に、いま驚いてる。

「……これ、むかつくからです」

「むかつく?」

「はい。こういうのを、“はいはい感情ね”って流されるの、むかつくじゃないですか。むかつきません?」

「むかつく」

「むかつきますよね」

「むかつく」

「だから、ちゃんと並べたいんです。ちゃんと並べて、“はいはい感情ね”って言わせないようにして、“これ読んでから言ってくださいね”って突きつけたいんです」

「……」

「で、もしそれでも相手が“いや~でも国も大変だからさ~”って言ってくるなら、“じゃああなたのところの数字もください”って言いたいです」

「強いね」

「いやそこはまだ妄想ですけど。でも、言いたい」

「うん」

「それに」

 私は、ほんの少しだけ、声を落とした。胸の奥の正直なやつを、そのまま口にしたい。でもこれは、ちょっと照れるやつ。だから、ちょっとだけ声を小さくする。

「私、ここにいたいので」

 ルゼルが、目を瞬いた。私は慌てて続ける。勢いでいかないとたぶん恥ずかしさで爆発する。

「ここにいたいって思ったから、ここがなくなったら困るんです。税で村が干からびて、みんな出ていくとか、嫌なんです。井戸の水がダメになって、子どもたちがお腹壊すのも嫌なんです。嫌なものは嫌です。だから、できることはやりたいんです。それだけです。別にカッコいい理由とかじゃないです。地味で庶務的で、すごく私っぽい理由です。すみません。なんか地味で」

 言いながら、指が少し震えた。あ、やばい、また泣くやつこれ。何回泣けば今日一日が終わるの? 私の涙腺どうなってるの? これ明日には干からびてミイラになるの? 異世界初日からドライフラワー化とか嫌なんだけど。

「由香」

「は、はいすみませんなんかテンション高くて……」

「ありがとう」

「う、っ」

「うん。ありがとう」

「い、いえあの、その、やめてくださいその“ありがとう”はほんとずるい……」

「ずるい?」

「ずるいです……」

「そっか」

「そっかじゃないです……」

 私は半分テーブルに突っ伏しながら、机の木目に額を押しつけた。木が冷たくて気持ちいい。頭の熱が少し下がる。呼吸が整う。心臓が、ちょっとゆっくりになる。

「でも本当に、やりますよ?」

「うん」

「ただ、私たぶんこの世界の数字の書き方とか通貨とかぜんぜんわからないので、そこは教えてください」

「もちろん」

「あと、私ひとりじゃ集計できないところは手伝ってください」

「もちろん」

「あとあと、これはたぶんけっこう時間かかると思うので、“今日中に出せ”とかって言われると普通に泣きますけど大丈夫ですか」

「大丈夫。そんなこと言わない」

「ほんとに?」

「ほんとに。俺、そういうこと言わない。言ったら由香が俺のこと嫌いになるでしょ」

「なりませんけども!」

「ならないんだ」

「……なりません……多分……」

「多分か」

「でも、好き度が下がるとは思います」

「好き度?」

「いまのは聞かなかったことにしてください」

「聞いちゃったんだけどなあ」

「聞かないでください!!!」

 顔から火が出そうになって、私は勢いよく顔を上げて、両手をばたばた振った。ルゼルは、なんというか、満足そうに目を細めて、ひとつだけ素直な「うん」とうなずいた。それがずるい。ずっとずるい。今日一日ずるいって何回言ったかわからない。メモにとっておきたい。後で“ずるいカウンター”をつけよう。『ルゼルずるい記録表』とか作りたい。インクで。表形式で。「時刻」「発言」「ずるい度」とか。いやそれはさすがに嫌がられるかな。いやでもやりたい。やりたいことがいっぱい出てくるの、なんか久しぶりだな。

「じゃ、決まりだね。請願書は由香と一緒にまとめる。井戸は由香が現場監──」

「やめてって言いましたよね!?」

「現場とりまとめ役」

「それもほぼ同じなんですけど!?」

「まあまあ」

「まあまあで片づけないでください!」

「で、明日、村のみんなに紹介する」

「紹介……」

「うん。『由香だよ。これからこの家に住むよ。だからよろしくね』って」

「“住むよ”って、もう既成事実化されてません?」

「既成事実だよ。だってもう住んでるし」

「住んでるってまだ椅子に座っただけなんですけど私」

「椅子に座れるってことはもう住んでるってことだよ」

「論理が強引……!」

「それと、寝床もちゃんと用意してあるから」

「寝床」

「うん。由香の部屋」

「わたしの……」

 胸の奥が、ぎゅむっと掴まれたみたいになった。息が、浅くなる。いま、“私の部屋”って言った? この世界で? この家に? 私の?

「……あるんですか」

「あるよ」

「どこですか」

「奥の扉。右側のほう」

「奥の扉……」

「今はちょっと、前にいた子の荷物が残ってるから、それを片づけてからね。捨てるんじゃなくて、ちゃんと預かり箱にしまって、渡すべき人に渡す。勝手に捨てるのはいやだから」

「……」

 胸が、ほんのりきゅっと痛くなる。でも、それはいやな痛みじゃない。なんていうんだろう、すこし絞られて、そこに血が流れはじめるみたいな痛み。ああ、そうか。この人はそういうふうに場所を扱うんだ。誰かが使った場所を「はい次の人用にまっさらにしました」って消したりしない。ちゃんと「いたよ」って残して、それでも「いまは君の場所だよ」って分けてくれる。そういうやり方なんだ。それ、ずるい。いやもう語彙。ほんとに語彙。

「……見ていいですか」

「もちろん。案内するよ」

「案内、してもらっていいですか」

「うん」

 私は椅子から立ち上がった。足が少しふわふわする。緊張と、泣いたあとのだるさと、パンの満足感と、これから自分の場所を見るっていう高揚と、いろんなものがぜんぶ混ざって、膝がちょっとだけ笑ってる。こわい。でも、行きたい。行ける。大丈夫。私はぎゅっと拳を握ってから、ルゼルのあとについて、奥の扉に向かった。

 扉は、木でできていて、手作り感がある。取っ手の部分には、誰かの指が何度も触ったであろう小さな艶がついている。その艶の横に、かすかに爪でつけたような小傷が見える。生活のキズ。そこをルゼルがそっと押す。扉が、きぃ、と小さな音を立てて開く。

「ここ」

 差しこむ光は、さっきの居間より少しやわらかい。窓がひとつあって、そこから湖の光がまるい形で床に落ちている。部屋は広くはない。でも、狭いとも思わない。木のベッドがひとつ。厚めの布団。ふかふかというより、しっかりした弾力のある感じ。ベッドの横には、小さな木の箱が二段分くらい重ねてあって、それが即席の棚になっている。上には、小さなガラス瓶がふたつ。中には乾いた小さな花と、小石。部屋の隅には、布の束が入った籠。そして、壁には、釘にかけられた一枚の白い布があり、そこに手縫いの花の刺繍がしてあった。乱れた糸。ちょっと歪んだ花びら。決して上手じゃない。でも、すごく、あたたかい。

 私は、その場で、足が止まった。喉がひゅっと鳴る。胸の奥が、ぎゅっと絞られる。目の端がまた熱くなる。もうやだ、今日何回泣けばいいの。泣きすぎて脱水するんじゃないの私。井戸の心配する前に自分の水分確保したほうがいいのでは。いやでも、これ、反則でしょ。ズルいでしょ。こんなの。

「……これは」

「由香の部屋」

「……」

「まだ、ちゃんと片づけきれてないけど。前にいた子の残りもあるし。花の刺繍はその子の。石と花の瓶は置いていくって言ったから、いまはここにある。でも、ベッドと棚と、窓と、壁と、床と、空気と、光は、もう由香の」

「空気と光まで込みなんですか」

「うん。そこはけっこう大事だから」

「……」

「気に入らないところあったら言って。変えるから」

「……………」

「由香?」

「……やばいので、ちょっと待ってください……」

「うん」

「いま口を開くとたぶん変な声が出ます……」

「変な声?」

「カエルがつぶされるみたいな声が出ます……」

「それはそれで聞いてみたいけど」

「聞かないでください!!!」

 私は両手で顔を押さえた。熱い。目の奥が灼けるみたいに熱い。あぶない。涙腺、フル稼働。いやもう涙腺が本日残業モードに入っている。労基が来るやつ。泣かないと決めたのに、いや決めてないけど、もう無理。だって、これ。これ。“私の部屋”。“私のベッド”。“ここにいていい”っていう空間が、物理的に存在してる。鍵もつけられるって、たぶん言ったらつけてくれるんだろう。誰かに勝手にどかされる心配もしなくていい。会社の仮眠室みたいに、「そこいま使うからどいて」って言われない。私の荷物を勝手にいじられない。勝手に捨てられない。勝手に「ここ、もう他の人に使わせるから」って言われない。

 胸の中心が、ゆっくりほどけていく。いままでゴムでぐるぐる巻きにされて、形だけ保ってたものが、ほどけて、柔らかくなって、ちゃんと“私の中身”になっていく感じ。ああ、これ、あぶない。泣く。泣く。泣く……いや、泣いてる。もう泣いてる。止まらない。

「……っ、あの、すみ、ません……」

「なにが?」

「毎回毎回泣いててすみません……異世界初日からこんなに泣く予定じゃなかったんですけど……」

「うん」

「あと、こんなにいっぱいもらってばっかりで、なんも返してないのに、部屋とか、仕事とか、パンとか、ミラちゃんとか……」

「うん」

「なんか……なんかその……」

 私は、顔を押さえたまま、絞り出すみたいに言葉を吐き出した。

「ぜんぶ、すごく、ほしいやつなので……」

「……」

「ほしいものばっかり、いっぺんに来てるから、頭が、追いついてなくて……あの、すごい、です……」

「……そっか」

「はい……」

「そっか」

 ルゼルは、少しだけ笑った。その笑いは、いつもの薄い笑いじゃない。胸の奥からふわっと浮かんできた、あたたかい小さな火みたいな笑いだった。私はその火を、手のひらでそっとあたためたい衝動にかられて、でもいまは涙で忙しいから無理で、代わりにうずくまるみたいに肩をすくめた。

「由香」

「はい……」

「おかえり」

 心臓が止まった。ほんとうに、一瞬だけ、止まった。呼吸も止まった。世界の音が、すべて一瞬で遠ざかった。湖のきらめきも、木のきしむ音も、ハーブの匂いも、ぜんぶ背景にすっと下がって、目の前の言葉だけが、どん、と胸に落ちた。

「……っ、……あの、それはずるい……」

「ずるい?」

「ずるい……」

「そっか」

「そっかじゃないです……っ……」

 もう無理だった。私はその場で、完全に崩れた。膝から力が抜けて、ベッドの端にどさっと座りこんで、両手で顔を覆ったまま、声を殺そうとしても殺しきれない小さな嗚咽が漏れた。泣き声をこらえると、喉が痛い。目が熱い。鼻がつまって、息がしにくい。でも、それでも、泣くのを止めたくなかった。これは、なんというか、ずっと止めてた分の請求書みたいなものだから。いま泣かなかったら、たぶん後で心が壊れるから。だから、これは必要経費。メンテナンス。さっき言われたとおり。泣くのはメンテナンス。うん。メンテナンス。

 ルゼルは、私が泣いてるあいだ、何も言わなかった。また何も言わなかった。代わりに、ベッドの逆側、少し距離を置いたところに静かに腰を下ろした。近すぎない。遠すぎない。すぐ触れられる距離じゃないけど、すぐ声が届く距離。部屋の真ん中に、ふたりぶんの呼吸が、やわらかく溜まる。

 少しして、私の呼吸がなんとか落ち着いてきたころ。涙はまだ完全には止まってないけど、肩の震えは小さくなってきたころ。ルゼルが、ごく自然な声で言った。

「由香」

「ひっ……はい……」

「ひとつ、大事なことだけ言っとくね」

「は、い……」

「君は、“ここにいていい”」

 涙腺が、最後の一撃をくらった。ダメ押しだ。とどめだ。私は、声にならない声を、ぐしゃぐしゃの顔のまま、なんとか返す。

「……あ、りがとう、ございます……」

「うん」

「がんばります……」

「うん。がんばらなくてもいいけど、がんばりたいなら、それもいい」

「がんばりたいです……」

「うん」

「だから、明日も、ここにいてもいいですか……」

「もちろん」

「明後日も……」

「もちろん」

「そのつぎも……」

「もちろん」

「よかったぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「ふふ」

 ルゼルの笑い声が、部屋の木の壁にやわらかく響いた。その音は、私の胸の中で、さっきまで泣いていた場所に、静かに染みこんでいった。そこが、あたたかく満たされていくのを感じる。満たされるって、こういう感じなんだ。隙間が埋まって、呼吸が深くなって、足の裏がちゃんと床を感じて、世界に自分の重さがあるってわかる感じ。――なんだ、私、ぜんぜん“無能”じゃないじゃん、って、ちょっとだけ思えた。

 しばらく、ふたりとも黙った。私は涙を拭い、ぐずぐずした鼻をごまかし、深呼吸を何度もした。ルゼルはそのあいだ、ただそこにいて、窓から入る湖の光を眺めていた。窓の外では、水面が、きらきらと揺れている。時間は止まらないのに、この部屋の中だけは、ちょっとだけ止まってくれているみたいな、不思議な安心があった。

 泣き疲れた私の頭が、ふわっと重くなっていく。まぶたがまたおちていく。ベッドの端に座ったまま、こくり、と体が前に倒れそうになる。まずい。落ちる。これ落ちるやつ。寝落ち第二ラウンド。私はかろうじて目をこじあけて、ルゼルのほうを見る。

「……ルゼル」

「うん?」

「これ、寝ていいやつですか……?」

「うん。寝ていい」

「ここで寝ていいんですか……?」

「うん。ここは由香の場所だよ」

「……」

「大丈夫。俺、ちゃんといるから」

「……」

「おやすみ、由香」

「……おやすみなさい、ルゼル……」

 私はそっと、ベッドの上に身を横たえた。布団は、少しだけ陽の匂いがした。外に干した布の匂い。どこか懐かしい、夏休みの昼寝みたいな匂い。まぶたが、その匂いに誘われるみたいに、すとんと落ちた。最後に聞こえたのは、湖の水の揺れる音と、家の木が小さく鳴る音と、すぐそばの誰かのやさしい呼吸の音だった。私はその音に包まれながら、静かに意識を手放した。今日は、泣きながらじゃなくて眠れる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい

金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。 私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。 勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。 なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。 ※小説家になろうさんにも投稿しています。

王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。 そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった! ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――? 意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。

【完結】辺境伯の溺愛が重すぎます~追放された薬師見習いは、領主様に囲われています~

深山きらら
恋愛
王都の薬師ギルドで見習いとして働いていたアディは、先輩の陰謀により濡れ衣を着せられ追放される。絶望の中、辺境の森で魔獣に襲われた彼女を救ったのは、「氷の辺境伯」と呼ばれるルーファスだった。彼女の才能を見抜いたルーファスは、アディを専属薬師として雇用する。

【完結】そして異世界の迷い子は、浄化の聖女となりまして。

和島逆
ファンタジー
七年前、私は異世界に転移した。 黒髪黒眼が忌避されるという、日本人にはなんとも生きにくいこの世界。 私の願いはただひとつ。目立たず、騒がず、ひっそり平和に暮らすこと! 薬師助手として過ごした静かな日々は、ある日突然終わりを告げてしまう。 そうして私は自分の居場所を探すため、ちょっぴり残念なイケメンと旅に出る。 目指すは平和で平凡なハッピーライフ! 連れのイケメンをしばいたり、トラブルに巻き込まれたりと忙しい毎日だけれど。 この異世界で笑って生きるため、今日も私は奮闘します。 *他サイトでの初投稿作品を改稿したものです。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

無自覚人たらしマシュマロ令嬢、王宮で崇拝される ――見た目はぽっちゃり、中身は只者じゃない !

恋せよ恋
ファンタジー
 富豪にして美食家、オラニエ侯爵家の長女ステファニー。  もっちり体型から「マシュマロ令嬢」と陰口を叩かれる彼女だが、  本人は今日もご機嫌に美味しいものを食べている。  ――ただし、この令嬢、人のオーラが色で見える。  その力をひけらかすこともなく、ただ「気になるから」と忠告した結果、  不正商会が摘発され、運気が上がり、気づけば周囲には信奉者が増えていく。  十五歳で王妃に乞われ、王宮へ『なんでも顧問』として迎えられたステファニー。  美食を愛し、人を疑わず、誰にでも礼を尽くすその姿勢は、  いつの間にか貴族たちの心を掴み、王子たちまで惹きつけていく。  これは、  見た目はぽっちゃり、されど中身は只者ではないマシュマロ令嬢が、  無自覚のまま王宮を掌握していく、もっちり系・人たらし王宮譚。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 エール📣いいね❤️励みになります! 🔶表紙はAI生成画像です🤖

大好きだった旦那様に離縁され家を追い出されましたが、騎士団長様に拾われ溺愛されました

Karamimi
恋愛
2年前に両親を亡くしたスカーレットは、1年前幼馴染で3つ年上のデビッドと結婚した。両親が亡くなった時もずっと寄り添ってくれていたデビッドの為に、毎日家事や仕事をこなすスカーレット。 そんな中迎えた結婚1年記念の日。この日はデビッドの為に、沢山のご馳走を作って待っていた。そしていつもの様に帰ってくるデビッド。でもデビッドの隣には、美しい女性の姿が。 「俺は彼女の事を心から愛している。悪いがスカーレット、どうか俺と離縁して欲しい。そして今すぐ、この家から出て行ってくれるか?」 そうスカーレットに言い放ったのだ。何とか考え直して欲しいと訴えたが、全く聞く耳を持たないデビッド。それどころか、スカーレットに数々の暴言を吐き、ついにはスカーレットの荷物と共に、彼女を追い出してしまった。 荷物を持ち、泣きながら街を歩くスカーレットに声をかけて来たのは、この街の騎士団長だ。一旦騎士団長の家に保護してもらったスカーレットは、さっき起こった出来事を騎士団長に話した。 「なんてひどい男だ!とにかく落ち着くまで、ここにいるといい」 行く当てもないスカーレットは結局騎士団長の家にお世話になる事に ※他サイトにも投稿しています よろしくお願いします

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

処理中です...