殿下に寵愛されてませんが別にかまいません!!!!!

さら

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第11話 王都からの黒い手


 夜明け前、村はまだ眠りの中にあった。鳥のさえずりが薄暗い空気を震わせるころ、私は畑に出て水を汲んでいた。桶を揺らす音が心地よく、澄んだ空気を吸い込むと、胸の奥まで清らかになる。

 けれど、その静寂を破るように、不意に背後で枝を踏む音がした。振り返ると、林の影に数人の男たちが潜んでいる。黒い外套、鋭い視線――ただの旅人ではない。私は息を呑み、桶を握る手に力を込めた。

 「……リリアナ、下がれ」
 いつの間にかセドリックが背後に立っていた。灰色の瞳は月明かりを受けて鋭く光り、剣の柄に手をかける。
 「誰の差し金だ」
 沈黙の後、男たちのひとりが薄笑いを浮かべた。
 「殿下のお心遣いだ。我らはただ迎えに来ただけ……」

 その言葉に村の空気が一瞬にして張り詰める。


 騎士団長の鋭い一喝が響いた。
 「退け。ここは俺の管轄だ」
 「団長殿。我らは王太子の命を受けている。そちらに従う理由はない」
 男たちの目は挑発的で、剣の柄にかけた手がゆらりと揺れる。私は胸が凍りつきそうになったが、セドリックが一歩前に出た。

 「命令だろうと関係ない。彼女が望まぬなら、誰ひとり指一本触れさせん」
 その声音には揺るぎない力があった。男たちは一瞬ひるみ、互いに顔を見合わせた。

 「……覚えておけ。殿下の寵愛は絶対だ」
 吐き捨てるように残し、彼らは馬に飛び乗って夜の闇に消えていった。

 私はその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。心臓は激しく打ち、呼吸が浅くなる。
 「大丈夫か」
 セドリックが私の肩を支える。その手の温かさに涙が滲みそうになる。
 「……怖かった。でも、私はここを離れません」
 「そうだ。それでいい」
 彼は低く呟き、私の背をそっと撫でた。


 一方その頃、王都の広間では。カトリーヌが豪奢な椅子に腰かけ、唇に笑みを浮かべていた。
 「失敗? まあ、当然ね。あの女は意地が強いもの」
 「しかし殿下、騎士団長が……」
 報告を受けたアルベルトの碧眼が怒りに燃えた。
 「セドリック……あの男が邪魔をするのか」

 「殿下。あの方を引き裂くのは容易いこと。ご命令いただければ」
 カトリーヌの扇がゆらりと揺れる。
 「よい。だが俺自ら確かめる必要がある。リリアナが本当に俺を忘れたのか……」
 その声には執着と焦燥が混じっていた。

 遠く離れた村では、私は窓辺に座り、夜明けの光を眺めていた。守られることを望んでいないはずなのに、セドリックの背に寄りかかった瞬間の安堵が、まだ胸に残っている。

 「……どうして、こんなに心が揺れるの」
 呟きは誰にも届かず、朝の光の中に消えていった。



第12話 殿下の視察


 夏の陽が眩しく、村の空は青く澄みきっていた。畑のカモミールは白い花弁を広げ、風が吹くたびに波のように揺れる。私は額の汗を拭いながら鍬を動かし、土の柔らかさを確かめていた。

 「リリアナお姉ちゃん!」
 子どもたちが駆け寄り、花束を差し出してくる。ミントやラベンダーを混ぜた香りがふわりと広がった。
 「ありがとう。とてもいい香りね」
 小さな手を握りしめ、私は心の奥が温かく満たされるのを感じた。

 だがその穏やかな時間は、不意に響いた蹄の音で破られた。村の入口から豪奢な馬車が近づいてくる。御者台には王家の紋章が掲げられ、陽光を受けて眩しく光っていた。村人たちがざわめき、家から次々と顔を出す。

 「まさか……」
 胸が冷たくなる。扉が開き、黄金の髪を陽にきらめかせた男が姿を現した。アルベルト殿下。かつての婚約者が、まるで狩人のような眼差しでこちらを見ていた。


 「久しいな、リリアナ」
 低く響く声に、村人たちが一斉にひざまずいた。私は立ち尽くしたまま、唇を固く結ぶ。

 「殿下……なぜここに」
 「お前が本当に幸せだと言うなら、この目で確かめに来た」
 彼の碧眼が射抜くように私を捉える。その視線に、背筋が冷たくなった。

 「私は……」
 言葉を続けようとした瞬間、灰色の影が割って入った。セドリックだ。彼は剣に手をかけ、鋭く睨みつける。
 「殿下。ここは村です。武力をちらつかせてまで何をなさるおつもりか」
 「セドリック。お前が彼女を庇っていると聞いていたが……まさかここまでとは」
 殿下の声には嘲笑が混じる。

 村人たちは緊張し、ざわめきが広がる。私は必死に声を張り上げた。
 「殿下! 私はここで暮らすことを選びました。どうかもう、私に構わないでください!」

 沈黙が落ちた。殿下の表情に、初めて苦々しい影が走る。


 「リリアナ。お前は本当に俺を捨てるのか」
 殿下の低い声が夕暮れの広場に響く。私は唇を噛みしめ、しかし迷いなく頷いた。
 「はい。私は殿下の寵愛を望んでいません」
 「……ふん。強がりだ」
 殿下の瞳が怒りに揺れる。だがその瞬間、セドリックが一歩前に出た。

 「強がりではない。俺が保証する」
 灰色の瞳が真っ直ぐに殿下を射抜く。二人の視線が火花を散らし、村の空気が張り詰めた。

 「お前ごときが口を挟むな!」
 殿下が声を荒げると、馬車の護衛兵たちが剣に手を伸ばした。村人たちが息を呑み、子どもたちが母親の影に隠れる。

 私は胸の奥で叫んでいた――どうしてこんなことに。私が望んだのはただ、花を育てて穏やかに暮らす日々だったのに。

 「殿下!」
 必死に声を張り上げる。
 「私はここで生きます! もし本当に私を思ってくださるなら、その選択を尊重してください!」

 沈黙の中、殿下の碧眼が大きく揺れた。だが次の瞬間、彼は冷たく笑った。
 「……ならば証明してみせろ。その笑顔が本物かどうかをな」

 言い残し、殿下は馬車へ戻った。村には重い余韻だけが残された。

 私は胸の奥で、花の香りとともに不安が絡み合うのを感じていた。
 殿下の影は、まだ私たちを離してはくれない――。


第13話 迫る策謀


 殿下の馬車が去った後も、村には重苦しい空気が漂っていた。広場に残った人々は互いに顔を見合わせ、誰も口を開こうとしない。子どもたちでさえ笑顔を失い、母親の手を握りしめていた。私は胸の奥が締め付けられるように痛み、唇を噛んで立ち尽くした。

 「リリアナ、大丈夫か」
 セドリックがそっと肩に手を置いた。その声は穏やかだったが、眼差しの奥には警戒の色が消えていなかった。
 「はい……でも、村の皆さんにまで迷惑をかけてしまいました」
 「迷惑じゃない。殿下がここまで来るとは誰も予想していなかったんだ」
 彼は鋭く周囲を見渡し、護衛の副団長ルーカスに合図を送った。
 「警邏を強化する。殿下が再び強硬策に出ない保証はない」
 「了解しました」
 ルーカスが頷き、村人たちへ声を掛けて回る。

 私は深呼吸し、心を落ち着けようとした。畑のカモミールは風に揺れ、変わらず静かに花を開いている。その姿に勇気をもらいながら、胸の奥で小さく呟いた。
 「私は……ここを離れない」


 その頃、王都の宮殿。豪奢な広間では、殿下アルベルトが苛立ちを隠さず歩き回っていた。カトリーヌが椅子に腰掛け、扇で口元を隠している。
 「リリアナめ。俺に逆らい、あの男と共にいるとは……」
 「殿下。あの女を放置すれば、民心はますます彼女に傾きますわ。今ですら『健気に耐えた元婚約者』などと噂されているのです」
 「ふん……」
 殿下は歯噛みし、拳を握った。

 宰相オスカーが慎重に進み出る。
 「殿下、強硬策はお控えください。騎士団長セドリック殿を敵に回せば、国の治安に亀裂が入ります」
 「ならばどうしろと言う!」
 殿下の声が広間に響き渡る。カトリーヌは扇を閉じ、紅い唇で冷たく笑った。
 「方法はございますわ。彼女の名誉を傷つければよろしいのです。健気な令嬢だという評判を地に落とせば、誰も庇えなくなる」

 殿下の碧眼がぎらりと光る。
 「……それだ」
 不穏な策が静かに動き始めていた。


 数日後。村に奇妙な噂が広がり始めた。
 「リリアナ様は殿下を裏切ったのだって」
 「騎士団長を誘惑して、地位を狙っているらしい」
 村人たちは困惑した顔で私を見つめ、子どもたちさえ口を噤むようになった。私は心臓が冷たくなるのを感じながらも、必死に笑みを作った。

 「そんなこと、あるわけありません」
 けれど声は震えていた。

 マリアが肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
 「気にするんじゃないよ。根も葉もない噂なんて、すぐに消えるさ」
 「でも……村の人たちに迷惑を……」
 「それでも、あんたの誠実さを見てる人は必ずいる」

 その言葉に救われた気がしたが、胸の奥の不安は消えなかった。夕暮れ、畑に立つと、セドリックが黙って隣に現れた。

 「噂のことは聞いた。だが気にするな。君がどういう人間か、俺は知っている」
 「……ありがとうございます」
 その灰色の瞳に見つめられると、涙が零れそうになる。

 (私は寵愛なんて要らない。けれど――こんなにも心が揺れるのは、どうして)

 風に揺れる花々は、静かにその問いに答えを与えぬまま、夕陽を浴びて輝いていた。



第14話 噂の渦と揺れる決意


 夏の陽射しは強く、村の畑に立つだけで汗が流れた。私は麦わら帽子を深くかぶり、膝をついて雑草を抜いていた。土に触れると心が落ち着く――けれど、今日はどうしても胸の奥がざわついていた。

 「リリアナさん、本当なのかい?」
 隣で水桶を持っていた農夫のトムが、遠慮がちに口を開いた。
 「殿下を裏切って騎士団長を誑かしたって噂……」
 その言葉に、胸がぎゅっと縮む。顔を上げると、彼は慌てて手を振った。
 「いや、俺は信じちゃいない! ただ、村の中に広がってて……」
 「大丈夫です。信じていただけているなら、それで」
 笑顔を作ったものの、心臓は痛むように脈打っていた。

 遠くで子どもたちが駆け寄ってきた。
 「リリアナお姉ちゃん、畑手伝う!」
 その無邪気な声に救われ、私は鍬を渡して小さな手を導いた。けれど背後で交わされる大人たちの囁きは耳に残る。

 (殿下の影が、まだ追ってきている……)


 昼過ぎ、マリアの家に戻ると、セドリックが待っていた。鎧の肩には薄い埃が積もり、長い警邏を終えたばかりなのだろう。

 「リリアナ、噂のことは聞いた」
 「ええ……皆さんに迷惑をかけてしまって」
 「迷惑じゃない。殿下が仕組んだことだ。君を孤立させるために」
 彼の灰色の瞳が怒りに揺れる。

 「俺は決して許さない。殿下が王子だろうと関係ない」
 「でも……」
 私は視線を落とす。彼が殿下に逆らえば、その立場を危うくする。それだけは望んでいない。
 「セドリックさんが傷つくのは嫌です」
 その一言に彼は言葉を失い、しばらく私を見つめていた。やがて低い声で呟く。
 「……なら、なおさら俺は退けない。君が笑っていられるなら、それでいい」

 胸が熱くなる。誤解だと思いながらも、その真剣さに心が揺さぶられる。


 一方、王都。豪奢な広間でアルベルト殿下は杯を握りしめていた。
 「リリアナはまだ従わぬか……」
 「殿下。噂は着実に広まっております。庶民の支持もやがて揺らぎましょう」
 カトリーヌが扇を閉じ、満足げに微笑む。

 だが殿下の瞳には焦りが宿っていた。
 「……それでも、なぜだ。あの女の笑顔が頭から離れぬ」
 杯の中で揺れる赤い葡萄酒に、自らの影を見つめる。

 その頃、村では。私は畑に立ち、夕暮れの風に吹かれながら花々を見つめていた。噂に心を削られながらも、根を張る小さな命が確かにここにある。

 「私は……逃げない。ここで生きる」
 呟いた声は、風に乗って村の空へ溶けていった。



第15話 揺らぐ村と守る誓い


 噂は思った以上の速さで村を覆っていった。広場の井戸端で女たちが囁き、子どもたちでさえ大人の言葉を真似して口にする。

 「殿下を裏切ったんだって」
 「騎士団長に媚びてるんだって」

 その言葉を聞くたびに胸が冷たくなる。私は否定しようと口を開きかけるが、結局笑顔でごまかすしかなかった。

 「大丈夫よ。ただの噂だから」

 けれど、目の奥に疑いを宿したままの視線は痛いほど突き刺さった。

 マリアが肩を抱き寄せる。
 「気にするんじゃないよ。土を見てごらん。花は噂なんか気にせず咲く」
 「……はい」
 私は畑の小さな花に触れ、心を落ち着けようとした。


 その日の夕方、村の広場に騎士団の兵たちが集まった。セドリックが前に立ち、低い声で告げる。
 「村に広がっている噂は虚偽だ。彼女は何もしていない。騎士団長として、俺が保証する」

 力強い言葉に村人たちがざわめく。けれど、その中にはなお疑わしげに腕を組む者もいた。私は人々の間に立ち、頭を下げた。
 「ご心配をおかけして申し訳ありません。でも、私は皆さんと同じように畑を耕し、暮らしたいだけです」

 沈黙が流れた後、子どもたちが駆け出してきて私の裾を掴んだ。
 「お姉ちゃんは優しいよ! ぼくたちにお花を教えてくれる!」
 その声に人々の表情が和らぎ、少しずつ空気がほどけていった。

 けれど、最後まで鋭い視線を残した者もいる。噂の根は、確実に残っていた。


 夜。私はマリアの家で灯りを見つめていた。疲れた体を椅子に預けると、扉が静かに開き、セドリックが入ってきた。

 「……守れなくてすまない」
 「そんなこと……守っていただいてます。今日も」
 「いや。君に疑いの目が向けられるのを止められなかった」

 彼の声は苦く、拳が強く握りしめられていた。私は立ち上がり、思わずその手を取った。
 「セドリックさん。私は大丈夫です。噂なんかより、花や畑や子どもたちの笑顔が真実ですから」
 彼の瞳が驚いたように揺れ、それから静かに細められた。

 「……やはり君は強い。けれど、だからこそ俺は君を守りたい」
 灰色の瞳が夜の灯に照らされ、真剣さが滲み出ていた。

 胸の奥が熱くなり、言葉が出ない。私はただ頷き、手を放せずにいた。
 寵愛など望まぬはずだったのに――彼の言葉は、確かに心を揺らしていた。

 遠い王都では、殿下アルベルトが報告を聞きながら杯を砕かんばかりに握りしめていた。
 「セドリックが彼女を公然と庇っただと……!」
 碧眼に宿る炎は、もはや執着ではなく狂気に近かった。

 その影は、確実に村へ忍び寄ろうとしていた。



第16話 殿下の策動


 翌朝、空はどんよりと曇り、湿った風が村を撫でていた。畑のハーブたちも、まるで重たい雲に押し沈められているかのようにしょんぼりと首を垂れている。私は鍬を握りながらも、昨日から続く不安を振り払えずにいた。

 「リリアナさん」
 背後から声がして振り向くと、セドリックが立っていた。鎧は着けず、簡素な上着姿だが、鋭い眼差しは変わらない。
 「王都から新しい報せが届いた。殿下は近日中に大規模な祝宴を開くそうだ」
 「祝宴……」
 「そこで、君が殿下を裏切った証人を立てるつもりらしい」

 胸が冷たくなる。根も葉もない噂を事実に仕立て上げる――それが殿下の狙い。
 「……私を追い詰めるために」
 「だが安心しろ。俺が必ず阻止する」
 彼の強い声に、ほんの少し救われる。けれど同時に、不安は消えない。殿下は王太子。力の差は歴然だ。


 一方、王都の宮殿。煌びやかなシャンデリアの下で、殿下アルベルトがカトリーヌを伴い、重臣たちを前にしていた。
 「彼女を放ってはおけぬ。あの女が健気などという虚像を信じ、民が彼女に傾いては国の威信に関わる」
 「殿下のお言葉の通りに」
 重臣たちが頭を垂れる。

 カトリーヌが紅い唇を歪めて微笑む。
 「証人はすでに用意してございますわ。リリアナが密かに騎士団長を誘惑していた、と語る者たちを」
 「よくやった」
 殿下の碧眼に危うい光が宿る。
 「真実など不要だ。俺が望む形こそが真実だ」

 その言葉を聞いた宰相オスカーは深く目を伏せ、胸中で嘆息した。


 村の夕暮れ。私はマリアの家で乾燥させた薬草を束ねていた。窓の外で風が鳴り、灯火が揺れる。胸のざわめきが消えず、束ねる手が震えている。

 「……怖いのね」
 マリアが静かに言った。私は思わず手を止める。
 「ええ。殿下の力は大きすぎます」
 「でも忘れちゃいけないよ。村の人たちは、あんたの茶を飲んで救われてる。子どもたちは、あんたの畑を誇りに思ってる」
 その言葉に涙が滲む。

 外で馬蹄の音がした。戸口を開けると、セドリックが真剣な顔で立っていた。
 「リリアナ。覚悟してくれ。殿下は必ず次の手を打ってくる」
 「……はい」
 胸の奥に芽生える不安と同時に、彼の言葉が温もりを与えてくれる。

 寵愛なんていらないと、ずっと思っていた。けれど――。
 彼の「守る」という声だけは、なぜか心の根に沁み込んでいくのだった。


第17話 広がる罠


 朝靄がまだ村を包んでいるうちに、私は畑に出ていた。花々は夜露を纏い、静かに息づいている。小さなカモミールの白が広がる景色は、まるで星空が地に降りたようだった。私はしゃがみ込み、土の温もりを掌に確かめる。

 けれど、村の空気はどこか重苦しかった。井戸端で囁き合う女たちの声、酒場から聞こえてくる男たちの噂――どれもが私の名を含んでいた。
 「殿下を裏切ったんだとさ」
 「騎士団長を利用してるって……」

 胸が痛む。私は必死に笑顔を保ちながら畑に集中した。けれど、子どもたちまでもが好奇の目を向けると、どうしようもなく心が軋む。

 「リリアナさん」
 背後から声がした。セドリックだ。彼の灰色の瞳は、いつも以上に険しい。
 「また噂が広がっている。王都から流されたものだ」
 「……殿下の」
 「そうだ。だが俺がいる。安心しろ」
 その言葉に胸が熱くなり、同時に不安も広がる。彼が庇えば庇うほど、殿下の怒りは強まるのではないか――。


 その頃、王都の宮廷。アルベルト殿下は豪奢な椅子に腰かけ、重臣たちを見下ろしていた。
 「民の間でリリアナの評判を地に落とすのだ。『裏切りの令嬢』と呼ばせろ」
 「はっ」
 重臣たちが頭を下げる。

 カトリーヌが扇を閉じ、妖艶に微笑んだ。
 「殿下。証人たちは用意できております。リリアナが夜な夜な騎士団長と密会していたと語る者たちを」
 「よし。それで十分だ」
 殿下の碧眼がぎらつく。
 「俺を拒んだ女が幸せでいられるはずがない。必ず証明してやる」

 その言葉に、宰相オスカーは眉をひそめた。だが口には出せない。王国の均衡を揺るがす火種が、静かに燃え広がっていた。


 夕刻。私はマリアの家で薬草茶を煎じていた。湯気と共に立ち上る香りは心を落ち着けるはずなのに、胸のざわめきは消えない。

 「……私、どうすればいいのでしょう」
 思わず零すと、マリアは真剣な目で私を見た。
 「逃げないことさ。花を咲かせるには、根を張らなきゃならない。噂なんか風で飛ぶ。でも、あんたが揺らいだら本当に負けだよ」

 その言葉に力を得た瞬間、扉が開いた。セドリックが立っていた。
 「リリアナ。殿下は次の一手を打つ。偽の証人を用意していると情報が入った」
 「そんな……!」
 「だが俺が必ず守る。君の真実は俺が証明する」

 灰色の瞳に宿る強い光を見て、胸が震える。寵愛なんていらないはずだった。けれど、彼の言葉は花の根に水を注ぐように心に沁みた。

 外の夜風が窓を揺らし、遠くで犬の吠える声がした。
 嵐は、確実に近づいていた。


第18話 証言という刃


 村の朝は、夏の陽光に包まれて明るく始まった。子どもたちは川で水遊びをし、大人たちは畑に出て忙しく働いている。けれど、笑い声の裏には薄い影が差していた。私に向けられる視線が、以前よりも鋭くなっているのを感じるのだ。

 「リリアナ様、殿下を裏切ったって……」
 耳に入るのは、子どもが母親に囁く声。母親は慌てて口を押さえたが、胸は痛んだ。

 私は畑に膝をつき、芽吹いたハーブを撫でながら心を落ち着けようとする。
 (私はただ、この花と共に暮らしたいだけなのに……)

 その時、広場で大声が響いた。
 「王都からの知らせだ!」
 村人たちが集まる中、使者が巻物を広げた。
 「リリアナ・エルンストは殿下を裏切り、騎士団長を誑かしたとの証言が王都に届けられた!」

 ざわめきが広がる。私は息を呑み、体が冷たくなる。


 村人たちの視線が一斉に私へ注がれる。疑惑、不安、そして恐れ。耐えきれず口を開こうとした瞬間、鋭い声が割って入った。
 「それは虚言だ!」

 セドリックだった。灰色の瞳が怒りに燃え、剣の柄に手をかけて立ち上がる。
 「証言などいくらでも作れる。だが、俺が見てきたリリアナは違う。彼女は誠実で、この村を愛している」

 広場に沈黙が落ちた。セドリックの言葉は重く響いたが、使者は鼻で笑った。
 「団長殿。殿下の命に逆らうおつもりか」
 「殿下だろうと間違いは正す」
 鋭い声に、村人たちがどよめく。

 私は慌ててセドリックの腕を掴んだ。
 「お願いです、やめてください! これ以上争えば、あなたの立場が危うくなります」
 「構わない」
 即答だった。その強さに胸が震える。


 一方、王都の広間。アルベルト殿下は豪奢な椅子に腰を掛け、報告を受けていた。
 「……セドリックが庇ったと?」
 「はい、殿下。公衆の面前で強く否定を」
 殿下の碧眼に怒りの火が宿る。
 「セドリック……あの男、ますます目障りだ」

 カトリーヌが扇を揺らし、妖艶に微笑んだ。
 「殿下、あの女は必ず弱点を見せますわ。庶民の中で暮らす限り、孤立させるのは容易いこと」
 「よかろう。次はさらに強い圧をかける。彼女が笑顔でいられるか、見ものだ」

 その頃、私は自室の窓辺に座り、夜の闇を見つめていた。
 「寵愛なんていらない……それなのに」
 守ると告げるセドリックの声が胸に残り、涙が滲む。

 遠い王都から迫る刃のような影が、確実に村を覆いつつあった。



第19話 孤立の試練


 朝の光が差し込んでも、村の空気は重苦しかった。広場の井戸端で女たちが水を汲みながら、私の名を囁く声が耳に刺さる。
 「殿下を裏切ったんだって」
 「騎士団長に取り入ってるんだろう」
 笑い声に混じる嘲りが、胸を突き刺した。

 私は畑に膝をつき、芽吹いたハーブを手で撫でる。香りは優しいのに、心はざわついて落ち着かない。
 (どうして……ただ花を育てたいだけなのに)

 その時、子どもたちが駆け寄ってきた。
 「リリアナお姉ちゃん、昨日の薬草茶また飲みたい!」
 無邪気な声に救われ、私は笑顔を作る。
 「もちろん。今夜、温かいのを淹れてあげる」
 けれど、その背後で大人たちが小声で交わす言葉は、やはり耳から離れなかった。


 昼過ぎ。マリアの家で薬草を束ねていると、扉を叩く音がした。開けると、村の長老が険しい顔で立っていた。
 「リリアナ殿。噂がこれ以上広がれば、村の名誉にも関わる。しばらく表に出るのを控えてはどうか」
 胸が締め付けられる。私は必死に声を整えた。
 「……私に非はありません。だからこそ隠れるわけには」
 「だが……」
 長老は言葉を飲み込み、重くうなずいて去っていった。

 私は肩を落とす。背後でマリアがため息をついた。
 「まったく。殿下の思うつぼじゃないか」
 「……わかっています。でも、どうすれば」
 「強く根を張るんだよ。嵐に揺れる花ほど、美しく咲くもんだ」
 その言葉に少し救われた。けれど胸の奥の不安は消えなかった。

 その夜。外を巡回していたセドリックが戻り、私の前に立った。
 「長老が君に言ったことは知っている。だが、隠れる必要はない。君は堂々としていろ」
 「でも……村の皆さんに迷惑を……」
 「迷惑などではない。君が笑っていることが、この村の力になる」
 彼の言葉は真っ直ぐで、胸の奥を温かく揺らした。


 一方、王都の広間。アルベルト殿下は報告を受けて、碧眼を細めていた。
 「村で孤立し始めていると?」
 「はい、殿下。住人の心に疑念が芽生えております」
 殿下の唇が冷たく歪む。
 「良い兆しだ。だがまだ足りぬ。あの女を本当に追い詰めるのはこれからだ」

 カトリーヌが隣で笑みを深める。
 「殿下、次は彼女自身の口から『罪』を認めさせればよろしいのです」
 「……ほう」
 殿下の瞳に危うい光が宿る。

 その夜、私は眠れぬまま窓辺に座っていた。月明かりが畑を照らし、花々が静かに揺れている。
 「私は……逃げない。どんな噂に覆われても」
 けれど心の奥で、小さな恐怖の芽が確かに根を張っていた。


第20話 仕組まれた罠


 朝の空気は澄んでいたが、村の人々の表情はどこか曇っていた。広場を歩くと、ひそひそ声が耳に届く。
 「やっぱり、殿下を裏切ったのかもしれない」
 「騎士団長と親しくしているのは事実だしな」

 心臓が締め付けられる。私は畑に向かい、土に触れることで気持ちを落ち着けようとした。けれど、どんなに深呼吸しても胸のざわめきは消えなかった。

 「リリアナ」
 背後から低い声がした。セドリックだった。
 「王都から怪しい動きがある。数日中に新たな使者が来るだろう」
 「また……?」
 彼は頷き、鋭い瞳で遠くを見据える。
 「奴らは必ず証言を突きつけてくる。君を陥れるための罠だ」

 私は拳を握りしめた。
 (どうして……どうして殿下はここまで)
 胸の奥に小さな炎が灯る。逃げるわけにはいかない。


 数日後。広場に人々が集められた。王都からの使者たちが馬を連ね、中央に立つ。彼らは巻物を掲げ、声高に読み上げた。
 「王太子殿下の名において告げる。リリアナ・エルンストは殿下を裏切り、騎士団長を誑かしたとの証言が複数寄せられた!」

 人々がどよめき、私の周囲に疑念の視線が注がれる。息が詰まりそうになった。

 「虚言だ!」
 セドリックの声が鋭く響く。
 「彼女は潔白だ。俺が共に過ごし、見てきた」
 だが使者は冷笑を浮かべる。
 「殿下を侮辱するのか、団長殿。証人は王都の貴族だ。そちらの言葉など比べるまでもない」

 空気が張り詰め、村人たちが不安げに顔を見合わせる。私は必死に声を上げた。
 「皆さん、どうか信じてください! 私は殿下を裏切ってなどいません!」
 だがその声は、波立つ疑念にかき消されてしまった。


 一方、王都の広間。アルベルト殿下は報告を聞きながら杯を手にしていた。
 「村で疑念が広がったと?」
 「はい。民はリリアナ様を疑い始めています」
 殿下の碧眼が細められ、冷たい光が宿る。
 「良い。もっと広げろ。彼女が孤立するまで、徹底的に」

 カトリーヌが扇を揺らし、微笑む。
 「殿下。彼女は必ず耐えきれず、こちらに縋って参りますわ」
 「ふん……だが、もしあの女が最後まで抗うなら――」
 殿下は杯を卓に叩きつけ、赤い葡萄酒が飛び散った。
 「その時は力ずくででも連れ戻す」

 その夜。私は家の灯りの下で震える手を胸に当てていた。
 「私は……絶対に屈しない」
 小さく呟いた声は、夜風に消えていったが、心の奥で確かな決意に変わりつつあった。
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