悪役令嬢ですが、ヒロインより先に幸せを掴みます

さら

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第一話 目覚めた朝、破滅ルートとはお別れします

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 目が覚めた瞬間、わたしは二度目の人生を思い出していた。
 朝靄のなかで天蓋のレースが揺れる。香りのよい蜜蝋の灯り、窓辺に生けられた白薔薇、鏡台には母に選ばれた真珠の髪飾り。すべてが、前世の平凡なマンションにはなかったもの――そして、ゲームの画面で見た“悪役令嬢クラリッサ”の寝室そのままだ。

 「……覚えてしまったのね、全部」

 唇に出た声は、思ったより落ち着いていた。
 王太子殿下の婚約者、公爵家の令嬢クラリッサ・ベルトラム。入学式、序列争い、清らかな“ヒロイン”との対立。やがて公開の場で断罪され、家名に傷を付け、国外追放――それが、物語で決められていた彼女の運命。わたしはその“彼女”になって、ベッドの縁をそっと撫でる。

 「でも、物語は選べるはず」

 ベルを鳴らすと、侍女のメアリが足早にやって来た。
 「おはようございます、お嬢様。ご気分は?」
 「上々よ。まずは薄い朝粥と、レモンを絞った白湯をお願い」
 「まあ、珍しい……いつもはショコラとブリオッシュを」
 「今日からは、少し軽やかに生きたいの」

 軽やかに――つまり、争わないこと、見栄を張らないこと、足を止めてしまうほどの嫉妬に、わたしの時間を渡さないこと。
 わたしは鏡の前に座り、睫毛の影の落ち方まで観察した。美貌は、武器にも、呪いにもなる。ならばわたしは、柔らかな包み紙のようにそれを扱えばいい。誰も傷つけず、わたし自身を守るために。

 「本日の装いはどうなさいます?」
 「灰青のドレスを。装飾は控えめに、襟は詰めて、手袋は白の薄手。……それから、指輪は外すわ」

 メアリの手が一瞬だけ止まった。
 ――王太子殿下から賜った婚約指輪。王家の紋章を刻んだ宝石は、朝の光に虹を散らしている。
 「お嬢様……ご気分を害されたことが?」
 「いいえ。ただ、今日のわたしには、少し眩しすぎるの」

 外した指輪は黒いビロードの小箱に伏せた。これは衝動ではない。結び目を、ほどく準備だ。ほどくと決めたのは、誰かに勝つためじゃない。わたしがわたしのままで、穏やかに生きるため。

 朝粥の湯気が静かに立ちのぼる間、机に向かって手紙をしたためた。
 ――宰相補佐殿へ。公爵家令嬢クラリッサ・ベルトラムより。
 体調を鑑み、学院の公式行事および王太子殿下のご婚約者としての露出を当面控えたい旨。医師の診断書は後日添えること。必要ならば、婚約の見直しの場を正式に願い出る覚悟があること。
 文面は丁寧に、けれど曖昧さを残さないように。紙の端を押さえる指先が、わずかに汗ばむ。ペン先を持ち上げて深呼吸をひとつ。落ち着きなさい、大げさにしない。わたしは騒ぎたいのではない。ただ、物語の柵から静かに降りたいだけ。

 昼前、母が部屋に入ってきた。
 「まあ、クラリッサ。その色、とても似合うわ」
 「ありがとう、お母様。今日は、少し控えめにしてみたの」
 母はわたしの頬に手を添え、わずかに眉を寄せた。「その箱は?」
 「預けておきたいの。しばらくは、指に重みがないほうが歩きやすいと思って」
 「……あなたの決めたことなら、尊重するわ」母の声は穏やかだった。「けれど、歩きやすさの代わりに、寒さを覚える日もあるのよ」
 「そのときは、ショールを増やすわ。わたしは冷え性だもの」

 母は声を立てずに笑った。昔から、わたしの皮肉は家族のあいだだけで通じる。
 「午後は王宮の冬庭で、小規模の茶会があるわ。王妃殿下のお声がけ。無理なら断ってもいいのだけれど」
 茶会。噂の渦の中心で、笑顔だけを配る催し。物語の“導入”にふさわしい場所。
 「行きます。――挨拶だけ、して早めに引き上げますわ」

 馬車の窓に映る自分の横顔は、いつもより遠い。王都の石畳は、昨夜の雪で淡く濡れて、馬蹄の音が柔らかく響いた。冬庭の温室へ続く回廊は、柑橘の葉の匂いと白い光で満ちている。客人の衣擦れ、笑い声、誰かの噂話。
 「ご機嫌麗しゅう、クラリッサ様」「まあ、その色目が清らか」
 褒め言葉は飴のようで、甘いけれど歯にくっつく。わたしは飴の紙をしずかにたたむみたいに、短い挨拶で受け取っていく。

 王太子殿下の姿は、温室のいちばん明るい場所にあった。群れの中心。
 「クラリッサ、来ていたのか」
 呼ばれて、わたしは一歩だけ進む。
 「殿下。ご機嫌麗しゅう」
 視線が指先――指輪のない左手――に落ちる。
 「体調は?」
 「ええ。……今日は、人込みが少し眩しくて」
 殿下はわずかに逡巡して、すぐに社交の微笑に戻った。「無理はするな。席を用意させよう」
 「お気遣い感謝いたします。――すぐに、失礼いたしますわ」
 驚きが彼の瞳に波紋のように広がった。けれど、止めない。止めないでくれて、ありがたい。わたしは群れからそっと離れ、温室の端へと歩いた。

 柑橘の樹の影で、侍従がグラスを差し出す。琥珀色の果実酒を、ひと口。甘さが喉を通り過ぎようとした、そのとき――
 裾に小さな重み。見下ろすと、温室の管理猫らしい灰色の猫が、わたしのドレスの裾をふみふみしていた。
 「まあ」
 猫はまるで「ここが安全」と言うみたいに、座って目を細める。おかしくて、少しだけ笑った。柔らかい気持ちは、いつでも不意打ちだ。わたしはグラスを持ち直し――そして、ほんの少し、手元をすべらせた。

 琥珀が白い手袋にこぼれる。
 「あ」
 侍女が慌てて布を探すより速く、一枚のハンカチが差し出された。上質なリネンの白。端には控えめな銀糸の刺繍。

 「強くは拭かないほうがいい。布が毛羽立つ」
 声は低く、よく通る。わたしは顔を上げた。
 見知らぬ男性がいた。漆黒というよりは、光を含んだ深い茶の髪。目の色は、淡い金に緑を溶かしたような、不思議な明るさ。その瞳に、わたしは一瞬、自分の姿が小さく映っているのを見た。
 「ありがとうございます」
 「こちらへ」男性は温室の柱の影を指さした。「人目から離れたほうが、手袋を外しやすい」
 礼儀正しい、けれど距離の詰め方に迷いがない。
 わたしは頷き、侍女とともに柱の影に移動する。男性はわたしの手を取らない。ただ、さりげなく人の視線を遮る位置に立った。人というものは、守ろうとするとき、少しだけ背が高く見える。

 「……助かりました」手袋を外し、ハンカチでそっと押さえる。
 「白は、似合う」
 唐突なひと言に、わたしは瞬きをした。「色の話、でしょうか」
 「ええ。白を汚さない人は滅多にいない。汚してしまっても、恥じない人はもっと少ない」
 「わたしは、こぼしましたけれど」
 彼は口元でわずかに笑った。冗談を言うとき、目は静かになる。
 「こぼすことと、零すことは違う」
 「哲学的ですね」
 「そうですか?」
 会話は短く、軽い。にもかかわらず、その場だけ温度が変わったように感じられた。柑橘の匂いに混じって、冬の空気の澄んだ匂いがする。温室のガラスが光って、遠くで笑い声が弾ける。

 メアリが替えの手袋を持ってきて、わたしは手を包んだ。
 「ハンカチは、洗ってお返しします」
 「差し上げます」男性は短く言って、視線を少しだけ落とした。「“助けられた借り”は、重い。わたしは軽いものを渡すのが好きだ」
 「……では、ありがたく」
 彼は会釈をして、群れのほうへ戻りかける。わたしは思わず呼び止めた。
 「お名前を、伺っても?」
 男性は振り返って、少し考えるふうを見せた。名乗ろうとした唇が、ふっと上がる。
 「――この次にお会いできたら」
 それだけ残して、彼は光のほうへ消えていった。

 「お嬢様、今の方は……」
 「さあ。けれど、丁寧な方だったわね」
 わたしはハンカチを見た。白の端に、控えめな銀糸。刺繍は獅子の横顔――この国の紋章ではない。
 胸の奥が、少しだけ騒いだ。
 物語から降りたくて、静けさを選んだはずなのに、別の物語が手を差し伸べてくることがある。わたしはそれを、拒まない。拒む理由が見つからない。

 茶会の挨拶を短く終えて、早めに退席した。馬車の窓に、冬の陽が淡く差し込む。膝の上には、白いハンカチ。わたしの左手の薬指は、軽い。
 軽さは、自由の重さと背中合わせだ。けれど今は、それでいい。
 帰宅してすぐ、宰相補佐宛ての手紙を封蝋で閉じた。赤い蝋が、真っ直ぐに固まる。揺れない、ためらわない。わたしはベルを鳴らし、使いに渡す。

 「メアリ」
 「はい、お嬢様」
 「今夜は、温かいスープを。塩は控えめに。……それから、白い花を一輪、寝室に」
 「畏まりました」
 白は、似合う――あの人はそう言った。似合うかどうかはわからない。けれど白は、はじまりの色だ。
 窓の外で雪が小さく降りはじめる。わたしはハンカチを丁寧に畳んで、机の引き出しのいちばん手前に置いた。

 その人の名を、レオンハルトというのだと知るのは、もう少し先の話だ。
 物語の台本は捨てた。けれど、新しい出会いの台詞は、もう喉の奥に用意されている。
 ――ヒロインより先に、わたしが幸せを掴むために。次の頁を、ゆっくりめくる準備はできている。
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