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第五話 図書館の邂逅
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それから数日、わたしは社交の場を避けるようにして、屋敷で静かに過ごした。噂は広がり続けているだろうが、耳を塞いでしまえばただの風だ。王太子殿下からは再びの呼び出しもなく、代わりに日々の手紙すら寄越さない。沈黙は、硝子の微笑みよりも冷たい。けれど、わたしの心を覆うのは恐怖ではなかった。むしろ、指輪を外した指は軽く、自由を知った手は新しい頁をめくろうとしていた。
その頁に書き込むため、ある朝わたしは王立図書館へと足を運んだ。
冬の光を受けた石造りの外壁は重厚で、何世代もの学者や文人が出入りした歴史を物語っている。高いアーチの扉をくぐると、冷たい空気の中に紙と革の匂いが溶け込んでいた。
「クラリッサ様、ようこそ」
顔なじみの司書が迎えてくれる。わたしは軽く挨拶を返し、奥の閲覧室へと進んだ。天井近くまで積み上げられた書架、磨かれた机、静謐な空気。まるで別の世界に迷い込んだようだ。
席に着き、読みかけの歴史書を開く。けれど文字を追う瞳は、別のものを探していた。白いハンカチと濃紺の詩集が、脳裏で重なっている。
「……落ち着かないわね」
そのとき、不意に低い声が背後から届いた。
「やはり、ここにいらした」
振り返ると、立っていたのはレオンハルトだった。長身の影が書架の間に伸び、金と緑の混じる瞳が穏やかに笑っている。
「殿下……」
「昨日、司書に尋ねてみた。最近、公爵令嬢がよく訪れていると聞いたものだから」
「わたしの行動を探るなんて、物好きですのね」
「興味深い方だから」
率直すぎる言葉に、頬がわずかに熱を帯びる。彼は机の向かいに腰を下ろし、静かに本を置いた。それは地理の書物で、各地の地図や風土が丁寧に記されている。
「旅に憧れているのですか?」
「ええ。生まれた国を出ることなく一生を終える者は多い。けれど、世界を見たいと願う者も確かにいる。――あなたはどうです?」
「わたしは……」言いかけて、唇を閉じる。
悪役令嬢として断罪され国外追放。ゲームの中ではそれが“旅”の始まりだった。だが、今のわたしはそれを望まない。ただ、自分の意思で世界を見たいと思っている。
「……鳥籠の外に、少し憧れているかもしれません」
「鳥籠?」
「ええ。王宮も社交界も、美しく磨かれた籠のようなものです。光を受けてきらめくけれど、羽を伸ばすには狭すぎる」
レオンハルトの瞳がわずかに細められた。「あなたは思ったより、ずっと自由を求めている」
「そう見えます?」
「見える。指輪を外した日から」
思わず息を呑む。なぜ知っているのか。彼は笑みを深めた。
「噂は王都じゅうを駆け巡っている。けれど、噂に怯えずにここへ来る。その姿は、籠を壊そうとする鳥のようだ」
その言葉に、胸の奥で何かが解ける。わたしは彼から目を逸らし、机に視線を落とした。
「……自由を求めることは、わがままなのでしょうか」
「わがままは、人を傷つけてまで欲を通すこと。あなたの望みは違う」
「では、何と呼びます?」
「生きること」
簡潔で力強い答えに、心臓が跳ねた。殿下の「必要だ」という言葉よりも、はるかに深くわたしの心を震わせる。
◇
しばらく本を開いたまま、互いに言葉を交わさずに過ごした。沈黙は不快ではなく、むしろ心地よい。紙をめくる音と、遠くで司書が本を整える気配だけが響く。
やがて、レオンハルトが立ち上がった。
「そろそろ失礼する。……これを」
差し出されたのは、一枚の書き写し。地図の端に小さな印がいくつもついている。
「旅に出るとき、必ず立ち寄るべき場所だと、旅人が教えてくれた」
「わたしに?」
「ええ。あなたが行くときのために」
わたしは震える指でそれを受け取った。まだ旅に出るつもりなどない。それでも、未来に差し出された贈り物のように感じられた。
「……ありがとうございます」
「また会いましょう、クラリッサ嬢」
去っていく背中を見送りながら、わたしは胸に手を当てた。王太子殿下と過ごす時間では感じられなかった温かさが、心の奥に広がっている。
机の上には地図の写し。引き出しには白いハンカチ。積み重なる小さな贈り物が、未来の物語を少しずつ形作っている。
――悪役令嬢クラリッサは、鳥籠の外を夢見る娘になりつつあった。
その頁に書き込むため、ある朝わたしは王立図書館へと足を運んだ。
冬の光を受けた石造りの外壁は重厚で、何世代もの学者や文人が出入りした歴史を物語っている。高いアーチの扉をくぐると、冷たい空気の中に紙と革の匂いが溶け込んでいた。
「クラリッサ様、ようこそ」
顔なじみの司書が迎えてくれる。わたしは軽く挨拶を返し、奥の閲覧室へと進んだ。天井近くまで積み上げられた書架、磨かれた机、静謐な空気。まるで別の世界に迷い込んだようだ。
席に着き、読みかけの歴史書を開く。けれど文字を追う瞳は、別のものを探していた。白いハンカチと濃紺の詩集が、脳裏で重なっている。
「……落ち着かないわね」
そのとき、不意に低い声が背後から届いた。
「やはり、ここにいらした」
振り返ると、立っていたのはレオンハルトだった。長身の影が書架の間に伸び、金と緑の混じる瞳が穏やかに笑っている。
「殿下……」
「昨日、司書に尋ねてみた。最近、公爵令嬢がよく訪れていると聞いたものだから」
「わたしの行動を探るなんて、物好きですのね」
「興味深い方だから」
率直すぎる言葉に、頬がわずかに熱を帯びる。彼は机の向かいに腰を下ろし、静かに本を置いた。それは地理の書物で、各地の地図や風土が丁寧に記されている。
「旅に憧れているのですか?」
「ええ。生まれた国を出ることなく一生を終える者は多い。けれど、世界を見たいと願う者も確かにいる。――あなたはどうです?」
「わたしは……」言いかけて、唇を閉じる。
悪役令嬢として断罪され国外追放。ゲームの中ではそれが“旅”の始まりだった。だが、今のわたしはそれを望まない。ただ、自分の意思で世界を見たいと思っている。
「……鳥籠の外に、少し憧れているかもしれません」
「鳥籠?」
「ええ。王宮も社交界も、美しく磨かれた籠のようなものです。光を受けてきらめくけれど、羽を伸ばすには狭すぎる」
レオンハルトの瞳がわずかに細められた。「あなたは思ったより、ずっと自由を求めている」
「そう見えます?」
「見える。指輪を外した日から」
思わず息を呑む。なぜ知っているのか。彼は笑みを深めた。
「噂は王都じゅうを駆け巡っている。けれど、噂に怯えずにここへ来る。その姿は、籠を壊そうとする鳥のようだ」
その言葉に、胸の奥で何かが解ける。わたしは彼から目を逸らし、机に視線を落とした。
「……自由を求めることは、わがままなのでしょうか」
「わがままは、人を傷つけてまで欲を通すこと。あなたの望みは違う」
「では、何と呼びます?」
「生きること」
簡潔で力強い答えに、心臓が跳ねた。殿下の「必要だ」という言葉よりも、はるかに深くわたしの心を震わせる。
◇
しばらく本を開いたまま、互いに言葉を交わさずに過ごした。沈黙は不快ではなく、むしろ心地よい。紙をめくる音と、遠くで司書が本を整える気配だけが響く。
やがて、レオンハルトが立ち上がった。
「そろそろ失礼する。……これを」
差し出されたのは、一枚の書き写し。地図の端に小さな印がいくつもついている。
「旅に出るとき、必ず立ち寄るべき場所だと、旅人が教えてくれた」
「わたしに?」
「ええ。あなたが行くときのために」
わたしは震える指でそれを受け取った。まだ旅に出るつもりなどない。それでも、未来に差し出された贈り物のように感じられた。
「……ありがとうございます」
「また会いましょう、クラリッサ嬢」
去っていく背中を見送りながら、わたしは胸に手を当てた。王太子殿下と過ごす時間では感じられなかった温かさが、心の奥に広がっている。
机の上には地図の写し。引き出しには白いハンカチ。積み重なる小さな贈り物が、未来の物語を少しずつ形作っている。
――悪役令嬢クラリッサは、鳥籠の外を夢見る娘になりつつあった。
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