婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される

さら

文字の大きさ
2 / 12

第2話 土と笑顔と、名前の奥にあるもの

 夜が明ける頃、東の空は紫から橙へ、ゆっくりと染み込むように色を変えていった。畑の上には薄い靄が立ちこめ、しっとりと湿った藁が冷たく光っている。クラリスは肩に木槌を担ぎ、杭を束ねて畑の中央へ運んだ。背中のシャツに朝露が沁み、ほんのりと冷たい。

「今日は一本、増やす」
 昨夜の自分に言い聞かせたとおり、畝を増やす。畑は息をするように広がり、心もその分広がっていく気がした。杭を一本、畝の端に立て、木槌を構える。振り下ろした瞬間、音が澄んだ朝に弾んだ。

「おはようございます」
 低く優しい声が背中から届いた。振り返ると、レオンが木桶を抱えて立っていた。白いシャツの上に、今日は淡い茶のベストを羽織っている。整えられた前髪が、霧に濡れてやや艶を増していた。

「本当に来てくださったんですね」
「約束ですから」
 レオンはにっこり笑い、杭を一本抜き取ると、迷いなく畝の反対側に立った。木槌を受け取り、重さを確かめるように上下させる。

「腕は頼りないですけど……」
「頼りないどころか、私よりずっと様になってます」
「じゃあ、試してみます」
 振り下ろすたび、木槌の音が谷に響いた。レオンは息を切らしながらも、目を輝かせて杭を打ち込んでいく。クラリスは隣で杭を支えながら、自然と笑みが零れた。

「泥だらけの王子さま、ですね」
「え?」
「いえ……」
 思わず口を滑らせ、クラリスは慌てて口を押さえた。レオンは怪訝そうに首を傾げたが、すぐにふっと笑って「悪くない呼び名ですね」と肩を揺らした。

 杭がすべて打ち終わる頃、霧は晴れ、陽光が畑全体に降り注いでいた。汗ばんだレオンの額に光がきらりと映り、クラリスはふいに視線を逸らした。心臓の鼓動が土の奥から響いてくるみたいに強く感じられた。


 畑仕事を終えたふたりは、小屋の前で木の椅子に腰掛けて休んでいた。クラリスは水差しを差し出し、レオンは喉を鳴らして飲む。その仕草がやけに自然で、まるで昔からここにいたように見えた。

「クラリスさん」
「はい?」
「僕のこと、もっと呼びやすい名前で呼んでください」
「呼びやすい名前……?」
「市場ではレオンと名乗りましたけど、本当は――」
 そこで言葉を切り、彼は少しだけ俯いた。影が睫毛の下に落ちる。クラリスは直感的に、この青年が抱えているものが軽くはないと感じた。

「もし、話したくないのなら無理に聞きません」
「……ありがとう。でも、知ってほしいんです」
 レオンは顔を上げ、真っ直ぐにクラリスを見た。その瞳は灰色の奥に光を宿し、決意を湛えていた。

「僕の本当の名は、レオニール・エルンスト・アストリア。王国の、第三王子です」
 風が一瞬、止まったように感じられた。鳥の鳴き声も遠ざかり、クラリスは呆然と青年を見つめる。

「お……王子……?」
「はい。肉料理と祝宴と規則に囲まれて、窮屈な宮廷にいる王子です。でも、僕の心を満たすのは土と野菜だけだった」
 レオニールは自嘲気味に笑った。クラリスは胸の奥で何かが弾けるのを感じ、思わず両手を膝に置いて深く息を吸い込む。

「どうして……どうしてそんな方が、私の畑に?」
「本当に、美味しかったからです。あなたの野菜が。あなたの手が込められているのがわかったから」
 彼の言葉はまっすぐで、揺るぎがなかった。クラリスは震える声で返す。

「でも……私、貴族を失ったただの農家です」
「だからこそ、話せた。肩書きのない、あなた自身と」
 レオニールの灰色の瞳が、まるで曇りのない朝空のように澄んでいた。クラリスの胸に、熱いものが込み上げてくる。


 その日、クラリスは畑に戻り、ラディッシュを抜きながらレオニールの横顔を思い出していた。泥にまみれながら杭を打つ姿。名前を打ち明けるときの真剣な瞳。そして「あなたの野菜が美味しい」と言った声。

 籠いっぱいに赤い実を詰め、小屋へ戻ると、レオニールが椅子に座って待っていた。両手で膝を包み、少し緊張しているように見える。

「クラリスさん」
「はい」
「どうか、僕の正体を……しばらくは秘密にしていただけませんか」
 静かな頼みだった。クラリスはしばし言葉を探し、それから微笑んだ。

「もちろん。王子であろうと、レオンさんはレオンさんです」
 その一言に、彼の肩の力が抜けるのが見えた。レオニールは安堵の笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。

「ありがとう。あなたにだけは、素直でいられる」
 クラリスは胸の奥が温かくなるのを感じ、籠の中の赤を見下ろした。陽光に照らされたラディッシュは、まるで心臓の鼓動のように鮮やかだった。

 畑に吹く風がふたりを包み、静かな約束のように草を揺らしていた。
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】帳簿係の地味令嬢、商会の不正を見抜いて王宮に見出されました。

夏灯みかん
恋愛
王都の商工会議所で働く、地味な帳簿係エミリー。 真面目に記録をつけることだけが取り柄の彼女は、同僚から軽く扱われ、雑用を押しつけられる日々を送っていた。 そんなある日――エミリーは、孤児院への配給物資の記録に、わずかな“ズレ”があることに気づく。 数量は合っている。 だが、なぜか中身の重量だけが減っている。 違和感を覚えたエミリーは、自ら倉庫へ足を運び、現物を確認する。 そこで見つけたのは、帳簿では見えない“静かな不正”だった。 しかしその矢先――不正の責任を押しつけられ、職場から追い出されそうになってしまう。 それでもエミリーは諦めない。ただ一つ、自分が積み上げてきた“記録”を信じて。 「では、正式な監査をお願いいたします」 やがてその記録は、王宮の政務監査官リオンの目に留まり―― 隠されていた不正はすべて暴かれる。 そして、彼女を軽んじていた者たちは、その代償を支払うことになる。 これは、地味で目立たなかった一人の帳簿係が、 “正しく記録した”ことで不正を暴き、王宮に見出されるまでの物語。

【完結】氷の王太子に嫁いだら、毎晩甘やかされすぎて困っています

22時完結
恋愛
王国一の冷血漢と噂される王太子レオナード殿下。 誰に対しても冷たく、感情を見せることがないことから、「氷の王太子」と恐れられている。 そんな彼との政略結婚が決まったのは、公爵家の地味な令嬢リリア。 (殿下は私に興味なんてないはず……) 結婚前はそう思っていたのに―― 「リリア、寒くないか?」 「……え?」 「もっとこっちに寄れ。俺の腕の中なら、温かいだろう?」 冷酷なはずの殿下が、新婚初夜から優しすぎる!? それどころか、毎晩のように甘やかされ、気づけば離してもらえなくなっていた。 「お前の笑顔は俺だけのものだ。他の男に見せるな」 「こんなに可愛いお前を、冷たく扱うわけがないだろう?」 (ちょ、待ってください! 殿下、本当に氷のように冷たい人なんですよね!?) 結婚してみたら、噂とは真逆で、私にだけ甘すぎる旦那様だったようです――!?

聖女の座を追われた私は田舎で畑を耕すつもりが、辺境伯様に「君は畑担当ね」と強引に任命されました

さら
恋愛
 王都で“聖女”として人々を癒やし続けてきたリーネ。だが「加護が弱まった」と政争の口実にされ、無慈悲に追放されてしまう。行き場を失った彼女が選んだのは、幼い頃からの夢――のんびり畑を耕す暮らしだった。  ところが辺境の村にたどり着いた途端、無骨で豪胆な領主・辺境伯に「君は畑担当だ」と強引に任命されてしまう。荒れ果てた土地、困窮する領民たち、そして王都から伸びる陰謀の影。追放されたはずの聖女は、鍬を握り、祈りを土に注ぐことで再び人々に希望を芽吹かせていく。  「畑担当の聖女さま」と呼ばれながら笑顔を取り戻していくリーネ。そして彼女を真っ直ぐに支える辺境伯との距離も、少しずつ近づいて……?  畑から始まるスローライフと、不器用な辺境伯との恋。追放された聖女が見つけた本当の居場所は、王都の玉座ではなく、土と緑と温かな人々に囲まれた辺境の畑だった――。

婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜

夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」 婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。 彼女は涙を見せず、静かに笑った。 ──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。 「そなたに、我が祝福を授けよう」 神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。 だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。 ──そして半年後。 隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、 ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。 「……この命、お前に捧げよう」 「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」 かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。 ──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、 “氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。

家族から虐げられた令嬢は冷血伯爵に嫁がされる〜売り飛ばされた先で温かい家庭を築きます〜

香木陽灯
恋愛
「ナタリア! 廊下にホコリがたまっているわ! きちんと掃除なさい」 「お姉様、お茶が冷めてしまったわ。淹れなおして。早くね」 グラミリアン伯爵家では長女のナタリアが使用人のように働かされていた。 彼女はある日、冷血伯爵に嫁ぐように言われる。 「あなたが伯爵家に嫁げば、我が家の利益になるの。あなたは知らないだろうけれど、伯爵に娘を差し出した家には、国王から褒美が出るともっぱらの噂なのよ」   売られるように嫁がされたナタリアだったが、冷血伯爵は噂とは違い優しい人だった。 「僕が世間でなんと呼ばれているか知っているだろう? 僕と結婚することで、君も色々言われるかもしれない。……申し訳ない」 自分に自信がないナタリアと優しい冷血伯爵は、少しずつ距離が近づいていく。 ※ゆるめの設定 ※他サイトにも掲載中

「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い

腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。 お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。 当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。 彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。

【結婚式当日に捨てられました】身代わりの役目は不要だと姉を選んだ王子は、隣国皇帝が私を国ごと奪いに来てから後悔しても手遅れです。

唯崎りいち
恋愛
結婚式当日、私は“替え玉”として捨てられた。 本物の姉が戻ってきたから、もう必要ないのだと。 けれど—— 私こそが、誰も知らなかった“本物の価値”を持っていた。 世界でただ一人、すべてを癒す力。 そして、その価値を知るただ一人の人が、皇帝となって私を迎えに来る。 これは、すべてを失った少女が、本当に必要とされる場所へ辿り着く物語。

地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです

阿里
恋愛
「君は地味で、将来の役に立たない」 そう言われ、幼なじみの婚約者にあっさり捨てられた侯爵令嬢の私。 社交界でも忘れ去られ、同情だけを向けられる日々の中、私は王宮の文官補佐として働き始める。 そこで出会ったのは、権力争いを嫌う変わり者の王弟殿下。 過去も噂も問わず、ただ仕事だけを見て評価してくれる彼の隣で、私は静かに居場所を見つけていく。 そして暴かれる不正。転落していく元婚約者。 「君が隣にいない宮廷は退屈だ」 これは、選ばれなかった私が、必要とされる私になる物語。