姉に婚約者を寝取られた私、兄に婚約者を寝取られた貴族様と旅行中に仲良くなり、結婚することになりました。いまさら戻ってきてなんて言われても困り

さら

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第1話 失恋者の休暇申請

 朝の王都は、昨夜降った雨の名残で石畳がぬめり、街路樹の葉先から水滴がひとつずつ落ちていた。離宮管理局の建物は、濡れた空を映す大きな硝子窓が並び、開館前から人の列が蛇のように伸びている。私は列の最後尾に並ぶと、指先で手帳の角を擦り、予定表の空白を眺めて深く息を吐いた。空白は自由のはずなのに、そこに立っている自分はずいぶん心細い。胸の内側に、雨粒ほどの小さな痛みがいくつも当たっては、やがて溶けていく。

 列が少しずつ動き、石畳の染みが足元から遠ざかる。出入口の傍には、待合のための小さな丸テーブルがいくつか置かれ、利用した誰かが置き忘れた陶器のカップがひとつ、把手の付け根が小さく欠けたまま残されていた。欠け口の白さが妙に目に痛く、視線を離そうとしても吸い寄せられる。カップは割れてはいない。けれど、もう完全な形でもない。それでも、そこに在る。私はそれを見ながら、自分の形のことを考えないふりをした。考えないふりは、考えるよりずっと難しい。

 前の人との間合いが詰まり、私は慌てて半歩前に出る。気づけば、私のすぐ後ろに並ぶ青年が傘の先端を器用にたたみ、雫を人の迷惑にならぬよう靴底で受け止めていた。濃い青灰の瞳は、列の進み具合を静かに追い、肩の力の抜けた姿勢が、彼がここに来るのが初めてではないことを示している。誰にも話しかけない沈黙は、威圧ではなく礼儀としてそこにあった。

「――失礼、足元に水が跳ねました」

 彼は短く言って、私の靴先にかかった小さな飛沫を指先で示した。

「大丈夫です。ありがとうございます」

「よかった」

 それだけのやり取りのあいだにも列は進み、扉が開いて、室内の涼しい風が外気と混ざる。私は自分の番が来るまで、手帳を閉じたり開いたりし、指先が落ち着かないのをどうにか見えないようにしていた。手帳の紙は湿気を含み、めくる音がいつもよりやわらかい。紙が柔らかくなると、心も折れやすくなるのだろうか、そんなことを思う。

 受付の大机に座る若い文官が、窓口札を掛け替えながら声を張った。薄金の前髪の奥で眼鏡が光る。

「次の方、保養地申請の方は窓口二番へどうぞ」

 呼ばれて、私は一歩を踏み出す。手帳と身分証、そして主治医からの簡単な推薦状を差し出す。文官は名を確認し、必要事項に素早く記入してから、旅程表のひな形を裏返して私に向けた。名札には「リュカ」とある。

「滞在希望地は?」

「グリュン温泉保養地を……一週間ほど」

「理由の欄は“心身休養のため”でよろしいですか」

「はい」

「同意事項に署名を。入湯税、滞在税は現地清算。馬車は本日正午発があります」

「正午……お願いします」

 ペン先が紙を走る音が大きく聞こえる。手が震えているわけではないのに、線がわずかに波打つのは、私が今ここにあることにまだ身体が驚いているからだろう。リュカは書類を束ねると、落ち着いた声にほんの少しの柔らかさを混ぜた。

「――ゆっくりなさってください」

「ありがとうございます」

 署名を終えて身を引くと、背後の気配が一歩、前に出た。先ほどの青年だ。彼も窓口に身分証を差し出し、彼の声は私の耳に届く範囲だけ静かに響く。

「保養地、グリュンで」

「滞在期間は?」

「未定。まずは一週間」

 未定、という言葉の奥に、どれほどの言葉が折り畳まれているのだろう。私は待合のテーブルへ移動し、欠けたカップの隣に腰を下ろした。カップの縁に指を触れないよう、慎重に。空のカップは軽い。軽さに中身の欠落を思い、私は視線を窓に逃がす。硝子の外には、人々の傘と、濡れて濃くなった緑。

「こちら、申請書の控えです。馬車の券は、正午便が残り二席」

 リュカの声が背中から聞こえ、次いで紙が差し出される気配。私は立ち上がり、同じタイミングで振り返った青年と目が合った。彼の手にも、同じ色の馬車券。

「……同じ便、のようですね」

「ええ。世の中、よくある偶然だと思います」

「そうかもしれません」

 そこで会話は切れて、互いに礼を交わし合う。彼は私から適切な距離を保ったまま、待合の片隅に移動し、濡れた傘布を折り目に沿って丁寧にたたみ直した。几帳面すぎない几帳面さ――その手つきに、心の端がわずかに温かくなる。乱れたものを結び直す所作を見ると、なぜだか胸の呼吸が整うのだ。

「……失礼。ひとつだけ」

 彼が少しだけ近づき、視線をテーブルの欠けたカップへと落とした。

「そのカップ、縁が鋭い。もしよろしければ、こちらを」

 差し出されたのは、受付の脇に積まれた紙コップ。彼は自分の分も一枚取り、軽く指で形を整える。

「ありがとうございます。危ないかもしれませんね」

「見ていると、触れてしまうことがあるから」

「ええ、そうですね」

 短い会話の間に、耳の奥のざわめきが少し遠のく。知らない人の言葉が、必要以上に踏み込まないでいてくれると、それだけで救われる瞬間がある。名を名乗らずとも、礼を尽くす。私は紙コップの縁を指でなぞり、鋭さのない滑らかさに、小さな安堵を覚えた。

 正午の鐘が遠くで一つ鳴り、窓口上部の掲示板に「本日正午発 グリュン保養地行き 発券中」と赤い札が掛かる。ロビーに差し込む光が、雲間からわずかに明るさを増した。人々がそれぞれの事情を抱えたまま、それぞれの紙片を握りしめ、扉の方へ動き出す。空の椅子がいくつも残り、欠けたカップだけがテーブルの真ん中で取り残されていた。

「では――良い旅を」

 青年が短くそう言い、軽く会釈する。私も同じように頭を下げる。

「あなたも、どうか」

 言葉がそれ以上増えないうちに、私は馬車券をしっかりと握り直し、扉の方へ歩き出した。廊下の先で振り返ると、彼もまた同じ方向に歩みを向けている。掲示板の札は変わらず赤く、行き先はひとつ。正午便の乗り場へ続く矢印が、濡れた石の上で静かに光っていた。
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