婚約者を妹に寝取られ王都を追放された私絶望の果てで出会った無口な王弟殿下に「俺だけの妻に」と誓われ一途で過保護な寵愛に包まれながら第二の人生

さくら

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 王都へ入ってからの日々は、まるで長い夢の続きのようだった。
 朝から晩まで人の声が響き、白い石畳の上を馬車が行き交う。見上げれば塔の先に旗が揺れ、通りの両脇には商人の笑い声と子どもの歌声が混じっていた。
 けれど、私の胸の奥にはまだ、あの静かな森の記憶が残っていた。雪の音、薪の匂い、ルシアンの背中。すべてが心の奥にやわらかく沈んでいる。

 彼は王都に戻ってからすぐに執務を始めた。
 玉座の間で多くの臣下に迎えられ、兄王に正式に復帰を命じられたとき、彼は一言も誇らしげなことを言わなかった。
 ただ、私の方を見て、微かに頷いただけ。
 ——それが彼のすべての返答だった。

 王弟としての務めを果たす彼の姿を、私は遠くから見守った。
 その姿は堂々としていて、まるで別人のように思えた。
 けれど、夜になって二人きりになると、彼はいつもと同じように無口で、私が差し出すお茶を黙って受け取る。

「……今日も大変だったんですね」

「大したことはない」

「顔が疲れてます」

「お前がそう言うなら、そうなんだろう」

 小さな会話。
 でもそのたびに、私は胸の奥がじんわりと温かくなる。
 彼は変わっていない。どんな立場になっても、あの森にいた頃のままのルシアンなのだ。

 ◇

 ある夜、彼が書斎に籠っているときだった。
 私は廊下を歩き、扉の前で立ち止まる。
 中からは紙をめくる音と、時折ペン先が走る音が聞こえた。

 ——こんなに遅くまで働いて、倒れてしまわないだろうか。

 そう思いながら、扉を軽く叩く。

「ルシアンさん、少しだけ入ってもいいですか?」

「入れ」

 短い返事。
 扉を開けると、彼は机の上に散らばる書類を片付けていた。
 火の灯りが頬を照らし、影を深く落としている。

「まだ休まないんですか?」

「あと少しだ」

「……あなたがそう言うと、だいたい朝までですよ」

「……そうだったか」

 ほんの少しだけ口元が緩む。
 私は彼の隣に椅子を引き、湯気の立つカップを置いた。

「これ、ハーブティーです。森で摘んだ月草がまだ少し残っていて」

「懐かしいな」

「ええ。あの頃は静かでしたね」

「静かすぎた。……でも、悪くなかった」

 彼の声が柔らかくなる。
 私は思わず微笑んだ。

「また、いつか行きましょう。あの森に」

「……行けるだろうか」

「きっと」

 彼が目を伏せ、カップに口をつける。
 湯気が頬を撫で、彼の表情が少しだけ和らいだ。

「お前がいると、妙に落ち着く」

「それは褒め言葉ですか?」

「もちろんだ」

 その短い会話の中に、確かな幸福があった。
 夜の静けさが戻り、外の風の音だけが聞こえる。

 彼がペンを置き、私の方を見た。

「——王城の生活に、まだ慣れないだろう」

「ええ、少しだけ。でも……大丈夫です。あなたがいるから」

 その言葉に、彼の表情がわずかに動いた。
 そして、小さく頷く。

「……そうか」

 それだけで十分だった。
 彼の「そうか」は、どんな言葉よりも温かく感じられる。

 ◇

 季節は春へと移り変わった。
 王都の街路には花が咲き、広場では音楽隊の笛が鳴る。
 人々の笑い声の中に、かすかに甘い花の香りが漂う。

 ある日の午後、私は城の庭に出た。
 陽光がまぶしく、草の上を風が通り抜けていく。
 遠くで騎士たちの訓練の声が響き、鳥のさえずりが混ざる。

 ふと、背後で足音がした。
 振り返ると、ルシアンが立っていた。
 いつもの黒い服ではなく、淡い灰の上着に白い手袋。
 その姿が、光の中でやけに眩しく見えた。

「こんなところで何をしている」

「日向ぼっこです。あなたは?」

「探した」

「探して……くださったんですか?」

「お前が見えないと、落ち着かん」

 頬が熱くなる。
 彼はそんなつもりで言っていないのだろうけれど、言葉の端々があまりにも不器用で優しい。

「……それは、嬉しいです」

「そうか」

 彼が隣に立つ。
 しばらく二人で空を見上げた。白い雲が流れ、青空が果てしなく広がっている。

「エリシア」

「はい?」

「俺は、王都に戻ってからもずっと考えていた」

「何を、ですか?」

「森での日々のことを」

 彼の声が風に溶けるように穏やかだった。

「お前と過ごしたあの時間が、俺を人間に戻した。……もう一度、ああいう日々を過ごせると思うか?」

「はい。いつでも」

「王族の務めがあっても?」

「務めの隙間にでも。たとえ一日だけでも、あなたと一緒に過ごせたら、それで十分です」

 ルシアンがわずかに目を見開く。
 そして、静かに笑った。
 それは、王都に戻って初めて見せた笑顔だった。

「……それなら、約束しよう」

「約束?」

「いつかまた、森へ行く。お前とふたりで」

「ええ。絶対に」

 風が吹き、彼の髪が揺れる。
 その光景があまりに美しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 私はその手をそっと握った。

「これからどんな日々が待っていても、私はあなたの妻であり続けます」

「そして俺は、お前の夫だ」

 ふたりの手が重なり、光の中で影がひとつに溶けた。
 鳥が鳴き、風が花を運ぶ。
 世界がまるごと祝福しているようだった。

 森の静寂も、王都の喧騒も、すべてが今、ふたりの道へとつながっている。

 その道の先に、まだ知らない季節が待っているとしても——

 私はもう、迷わない。

 彼の手の温もりを胸に抱きながら、そっと目を閉じた。

 そして、静かに微笑む。

 ——これは、終わりではなく、始まり。
 愛と寵愛に包まれた、ふたりの新しい人生の幕開けだった。
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