9 / 9
9
しおりを挟む
王都へ入ってからの日々は、まるで長い夢の続きのようだった。
朝から晩まで人の声が響き、白い石畳の上を馬車が行き交う。見上げれば塔の先に旗が揺れ、通りの両脇には商人の笑い声と子どもの歌声が混じっていた。
けれど、私の胸の奥にはまだ、あの静かな森の記憶が残っていた。雪の音、薪の匂い、ルシアンの背中。すべてが心の奥にやわらかく沈んでいる。
彼は王都に戻ってからすぐに執務を始めた。
玉座の間で多くの臣下に迎えられ、兄王に正式に復帰を命じられたとき、彼は一言も誇らしげなことを言わなかった。
ただ、私の方を見て、微かに頷いただけ。
——それが彼のすべての返答だった。
王弟としての務めを果たす彼の姿を、私は遠くから見守った。
その姿は堂々としていて、まるで別人のように思えた。
けれど、夜になって二人きりになると、彼はいつもと同じように無口で、私が差し出すお茶を黙って受け取る。
「……今日も大変だったんですね」
「大したことはない」
「顔が疲れてます」
「お前がそう言うなら、そうなんだろう」
小さな会話。
でもそのたびに、私は胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼は変わっていない。どんな立場になっても、あの森にいた頃のままのルシアンなのだ。
◇
ある夜、彼が書斎に籠っているときだった。
私は廊下を歩き、扉の前で立ち止まる。
中からは紙をめくる音と、時折ペン先が走る音が聞こえた。
——こんなに遅くまで働いて、倒れてしまわないだろうか。
そう思いながら、扉を軽く叩く。
「ルシアンさん、少しだけ入ってもいいですか?」
「入れ」
短い返事。
扉を開けると、彼は机の上に散らばる書類を片付けていた。
火の灯りが頬を照らし、影を深く落としている。
「まだ休まないんですか?」
「あと少しだ」
「……あなたがそう言うと、だいたい朝までですよ」
「……そうだったか」
ほんの少しだけ口元が緩む。
私は彼の隣に椅子を引き、湯気の立つカップを置いた。
「これ、ハーブティーです。森で摘んだ月草がまだ少し残っていて」
「懐かしいな」
「ええ。あの頃は静かでしたね」
「静かすぎた。……でも、悪くなかった」
彼の声が柔らかくなる。
私は思わず微笑んだ。
「また、いつか行きましょう。あの森に」
「……行けるだろうか」
「きっと」
彼が目を伏せ、カップに口をつける。
湯気が頬を撫で、彼の表情が少しだけ和らいだ。
「お前がいると、妙に落ち着く」
「それは褒め言葉ですか?」
「もちろんだ」
その短い会話の中に、確かな幸福があった。
夜の静けさが戻り、外の風の音だけが聞こえる。
彼がペンを置き、私の方を見た。
「——王城の生活に、まだ慣れないだろう」
「ええ、少しだけ。でも……大丈夫です。あなたがいるから」
その言葉に、彼の表情がわずかに動いた。
そして、小さく頷く。
「……そうか」
それだけで十分だった。
彼の「そうか」は、どんな言葉よりも温かく感じられる。
◇
季節は春へと移り変わった。
王都の街路には花が咲き、広場では音楽隊の笛が鳴る。
人々の笑い声の中に、かすかに甘い花の香りが漂う。
ある日の午後、私は城の庭に出た。
陽光がまぶしく、草の上を風が通り抜けていく。
遠くで騎士たちの訓練の声が響き、鳥のさえずりが混ざる。
ふと、背後で足音がした。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
いつもの黒い服ではなく、淡い灰の上着に白い手袋。
その姿が、光の中でやけに眩しく見えた。
「こんなところで何をしている」
「日向ぼっこです。あなたは?」
「探した」
「探して……くださったんですか?」
「お前が見えないと、落ち着かん」
頬が熱くなる。
彼はそんなつもりで言っていないのだろうけれど、言葉の端々があまりにも不器用で優しい。
「……それは、嬉しいです」
「そうか」
彼が隣に立つ。
しばらく二人で空を見上げた。白い雲が流れ、青空が果てしなく広がっている。
「エリシア」
「はい?」
「俺は、王都に戻ってからもずっと考えていた」
「何を、ですか?」
「森での日々のことを」
彼の声が風に溶けるように穏やかだった。
「お前と過ごしたあの時間が、俺を人間に戻した。……もう一度、ああいう日々を過ごせると思うか?」
「はい。いつでも」
「王族の務めがあっても?」
「務めの隙間にでも。たとえ一日だけでも、あなたと一緒に過ごせたら、それで十分です」
ルシアンがわずかに目を見開く。
そして、静かに笑った。
それは、王都に戻って初めて見せた笑顔だった。
「……それなら、約束しよう」
「約束?」
「いつかまた、森へ行く。お前とふたりで」
「ええ。絶対に」
風が吹き、彼の髪が揺れる。
その光景があまりに美しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
私はその手をそっと握った。
「これからどんな日々が待っていても、私はあなたの妻であり続けます」
「そして俺は、お前の夫だ」
ふたりの手が重なり、光の中で影がひとつに溶けた。
鳥が鳴き、風が花を運ぶ。
世界がまるごと祝福しているようだった。
森の静寂も、王都の喧騒も、すべてが今、ふたりの道へとつながっている。
その道の先に、まだ知らない季節が待っているとしても——
私はもう、迷わない。
彼の手の温もりを胸に抱きながら、そっと目を閉じた。
そして、静かに微笑む。
——これは、終わりではなく、始まり。
愛と寵愛に包まれた、ふたりの新しい人生の幕開けだった。
朝から晩まで人の声が響き、白い石畳の上を馬車が行き交う。見上げれば塔の先に旗が揺れ、通りの両脇には商人の笑い声と子どもの歌声が混じっていた。
けれど、私の胸の奥にはまだ、あの静かな森の記憶が残っていた。雪の音、薪の匂い、ルシアンの背中。すべてが心の奥にやわらかく沈んでいる。
彼は王都に戻ってからすぐに執務を始めた。
玉座の間で多くの臣下に迎えられ、兄王に正式に復帰を命じられたとき、彼は一言も誇らしげなことを言わなかった。
ただ、私の方を見て、微かに頷いただけ。
——それが彼のすべての返答だった。
王弟としての務めを果たす彼の姿を、私は遠くから見守った。
その姿は堂々としていて、まるで別人のように思えた。
けれど、夜になって二人きりになると、彼はいつもと同じように無口で、私が差し出すお茶を黙って受け取る。
「……今日も大変だったんですね」
「大したことはない」
「顔が疲れてます」
「お前がそう言うなら、そうなんだろう」
小さな会話。
でもそのたびに、私は胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼は変わっていない。どんな立場になっても、あの森にいた頃のままのルシアンなのだ。
◇
ある夜、彼が書斎に籠っているときだった。
私は廊下を歩き、扉の前で立ち止まる。
中からは紙をめくる音と、時折ペン先が走る音が聞こえた。
——こんなに遅くまで働いて、倒れてしまわないだろうか。
そう思いながら、扉を軽く叩く。
「ルシアンさん、少しだけ入ってもいいですか?」
「入れ」
短い返事。
扉を開けると、彼は机の上に散らばる書類を片付けていた。
火の灯りが頬を照らし、影を深く落としている。
「まだ休まないんですか?」
「あと少しだ」
「……あなたがそう言うと、だいたい朝までですよ」
「……そうだったか」
ほんの少しだけ口元が緩む。
私は彼の隣に椅子を引き、湯気の立つカップを置いた。
「これ、ハーブティーです。森で摘んだ月草がまだ少し残っていて」
「懐かしいな」
「ええ。あの頃は静かでしたね」
「静かすぎた。……でも、悪くなかった」
彼の声が柔らかくなる。
私は思わず微笑んだ。
「また、いつか行きましょう。あの森に」
「……行けるだろうか」
「きっと」
彼が目を伏せ、カップに口をつける。
湯気が頬を撫で、彼の表情が少しだけ和らいだ。
「お前がいると、妙に落ち着く」
「それは褒め言葉ですか?」
「もちろんだ」
その短い会話の中に、確かな幸福があった。
夜の静けさが戻り、外の風の音だけが聞こえる。
彼がペンを置き、私の方を見た。
「——王城の生活に、まだ慣れないだろう」
「ええ、少しだけ。でも……大丈夫です。あなたがいるから」
その言葉に、彼の表情がわずかに動いた。
そして、小さく頷く。
「……そうか」
それだけで十分だった。
彼の「そうか」は、どんな言葉よりも温かく感じられる。
◇
季節は春へと移り変わった。
王都の街路には花が咲き、広場では音楽隊の笛が鳴る。
人々の笑い声の中に、かすかに甘い花の香りが漂う。
ある日の午後、私は城の庭に出た。
陽光がまぶしく、草の上を風が通り抜けていく。
遠くで騎士たちの訓練の声が響き、鳥のさえずりが混ざる。
ふと、背後で足音がした。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
いつもの黒い服ではなく、淡い灰の上着に白い手袋。
その姿が、光の中でやけに眩しく見えた。
「こんなところで何をしている」
「日向ぼっこです。あなたは?」
「探した」
「探して……くださったんですか?」
「お前が見えないと、落ち着かん」
頬が熱くなる。
彼はそんなつもりで言っていないのだろうけれど、言葉の端々があまりにも不器用で優しい。
「……それは、嬉しいです」
「そうか」
彼が隣に立つ。
しばらく二人で空を見上げた。白い雲が流れ、青空が果てしなく広がっている。
「エリシア」
「はい?」
「俺は、王都に戻ってからもずっと考えていた」
「何を、ですか?」
「森での日々のことを」
彼の声が風に溶けるように穏やかだった。
「お前と過ごしたあの時間が、俺を人間に戻した。……もう一度、ああいう日々を過ごせると思うか?」
「はい。いつでも」
「王族の務めがあっても?」
「務めの隙間にでも。たとえ一日だけでも、あなたと一緒に過ごせたら、それで十分です」
ルシアンがわずかに目を見開く。
そして、静かに笑った。
それは、王都に戻って初めて見せた笑顔だった。
「……それなら、約束しよう」
「約束?」
「いつかまた、森へ行く。お前とふたりで」
「ええ。絶対に」
風が吹き、彼の髪が揺れる。
その光景があまりに美しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
私はその手をそっと握った。
「これからどんな日々が待っていても、私はあなたの妻であり続けます」
「そして俺は、お前の夫だ」
ふたりの手が重なり、光の中で影がひとつに溶けた。
鳥が鳴き、風が花を運ぶ。
世界がまるごと祝福しているようだった。
森の静寂も、王都の喧騒も、すべてが今、ふたりの道へとつながっている。
その道の先に、まだ知らない季節が待っているとしても——
私はもう、迷わない。
彼の手の温もりを胸に抱きながら、そっと目を閉じた。
そして、静かに微笑む。
——これは、終わりではなく、始まり。
愛と寵愛に包まれた、ふたりの新しい人生の幕開けだった。
33
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
私は愛する人と結婚できなくなったのに、あなたが結婚できると思うの?
あんど もあ
ファンタジー
妹の画策で、第一王子との婚約を解消することになったレイア。
理由は姉への嫌がらせだとしても、妹は王子の結婚を妨害したのだ。
レイアは妹への処罰を伝える。
「あなたも婚約解消しなさい」
氷の公爵家に嫁いだ私、実は超絶有能な元男爵令嬢でした~女々しい公爵様と粘着義母のざまぁルートを内助の功で逆転します!~
紅葉山参
恋愛
名門公爵家であるヴィンテージ家に嫁いだロキシー。誰もが羨む結婚だと思われていますが、実情は違いました。
夫であるバンテス公爵様は、その美貌と地位に反して、なんとも女々しく頼りない方。さらに、彼の母親である義母セリーヌ様は、ロキシーが低い男爵家の出であることを理由に、連日ねちっこい嫌がらせをしてくる粘着質の意地悪な人。
結婚生活は、まるで地獄。公爵様は義母の言いなりで、私を庇うこともしません。
「どうして私がこんな仕打ちを受けなければならないの?」
そう嘆きながらも、ロキシーには秘密がありました。それは、男爵令嬢として育つ中で身につけた、貴族として規格外の「超絶有能な実務能力」と、いかなる困難も冷静に対処する「鋼の意志」。
このまま公爵家が傾けば、愛する故郷の男爵家にも影響が及びます。
「もういいわ。この際、公爵様をたてつつ、私が公爵家を立て直して差し上げます」
ロキシーは決意します。女々しい夫を立派な公爵へ。傾きかけた公爵領を豊かな土地へ。そして、ねちっこい義母には最高のざまぁを。
すべては、彼の幸せのため。彼の公爵としての誇りのため。そして、私自身の幸せのため。
これは、虐げられた男爵令嬢が、内助の功という名の愛と有能さで、公爵家と女々しい夫の人生を根底から逆転させる、痛快でロマンチックな逆転ざまぁストーリーです!
賢すぎる令嬢は、王子を晒し上げる。 ー「生意気だから婚約破棄」と言われたので、父と協力して王国転覆させましたー
えびまよ
恋愛
アスガルド侯爵令嬢のサファイアは、15歳にして学園首席の才媛。しかし、卒業パーティーの場で、婚約者である第一王子レグルスから「私より成績が良く生意気だから」という身勝手な理由で婚約破棄を突きつけられる。
「誰もお前なんか愛さない」と笑われたけど、隣国の王が即プロポーズしてきました
ゆっこ
恋愛
「アンナ・リヴィエール、貴様との婚約は、今日をもって破棄する!」
王城の大広間に響いた声を、私は冷静に見つめていた。
誰よりも愛していた婚約者、レオンハルト王太子が、冷たい笑みを浮かべて私を断罪する。
「お前は地味で、つまらなくて、礼儀ばかりの女だ。華もない。……誰もお前なんか愛さないさ」
笑い声が響く。
取り巻きの令嬢たちが、まるで待っていたかのように口元を隠して嘲笑した。
胸が痛んだ。
けれど涙は出なかった。もう、心が乾いていたからだ。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる