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第1話 召喚、そして指さされる“無能”
〇
床一面に描かれた魔法陣が白く爆ぜ、光の粒が視界を満たしたあと、私は冷たい石畳の感触と荘厳な天井画を同時に知った。高い円柱の間には絹の垂れ幕が揺れ、香の甘い匂いが鼻の奥をくすぐるが、心臓は早鐘のままで風景の美しさを受け止めきれない。足元でヒールが不安定に鳴り、振り返れば職場の休憩スペースでコーヒー片手だったはずの二人――美男美女の同僚が、まるで舞台の主役みたいに光の中心に立っている。視線は一斉に彼らへ吸い寄せられ、金と赤の礼服に身を包んだ人々が歓声に似た息を呑む音を立てる。私は輪から半歩ずれた位置に立ち尽くし、自分だけ台本を渡されていないエキストラであることを、嫌なくらい鮮明に理解する。心はざらりと乾き、喉がひりつくのに、口を開く勇気だけが靴の中へ落ちていった。
「勇者殿、聖女殿、よくぞ我が国に降り立ってくださった!」
玉座の前に立つ老いた王が、杖で床を一度だけ鳴らし、重く響く声で祝辞を述べる。銀の王冠が燭台の炎を弾いて、虹色の微光をこぼし、その下で白いひげが満足げに揺れた。彼の隣で巻物を携えた文官が慌ただしくページを繰り、儀礼の文言を読み上げるたび、周囲の臣下が胸に手を当てる。私は反射的に会釈をしそうになって、ここが会議室でも式典でもないことを思い出し、ぎゅっと両手を握りしめた。どうして私まで呼ばれたのだろう、という素朴な疑問は、光の残滓よりも薄く扱われ、誰の口にも上らない。胸の奥で小さく膨らむ不安は、まだ言葉を持たないまま形だけを増やしていく。
「こっち、勇者でーす。状況説明お願いします」
同僚の彼――職場では人当たりの良い営業のエース――が、いつもの軽さで手を上げる。彼の声は照明に強いマイクみたいに空間を滑り、数人が安心したように笑った。もう一人の彼女――社内報の表紙を飾っていた広報のアイコン――は、わずかに顎を引いて目だけを大きく動かし、場を読む名人らしく最小限の仕草で気品をまとっている。二人の立ち方は、ここが自分たちの舞台であることを本能的に知っている人のそれで、私は思わず足をそろえ、背筋を伸ばして存在感を薄くする。指先には先ほどまで持っていた紙コップの幻影が残り、温度の抜けた記憶だけがじんわりと掌を濡らす。拍手のような衣擦れの音のなかで、私の名前だけがどこにも見つからない。
「――ところで、その者は?」
唐突に、冷ややかな低音が空気の層を切り裂いた。声の主は玉座の斜め後ろ、黒髪をなめらかに結い上げた若い王族らしき男で、金糸の肩章が炎の明滅に合わせて小さく瞬く。視線は真っ直ぐで、獲物の特定に迷いがない。その刃先がこちらへ向くと、私の背中に薄い汗が滲み、足首から上へとゆっくり氷が這い登ってくるようだった。彼のまぶたは半分ほどしか開いていないのに、瞳の焦点だけが妙に研ぎ澄まされている。逃げ場のない照明にさらされて、私は思考と呼吸の順番を取り違えた。
「……えっと、私は、その……」
言葉は口の中で転び、音になる直前でほどけてしまう。名乗りを上げても、呼ばれていない人の返事みたいで滑稽だろうかと、一瞬で何十通りも恥の未来を想像してしまう。周囲の衛兵が、手にする長槍をほんのわずか動かし、その金具の触れ合う小さな音がやけにはっきり耳に刺さった。私は自分がいま、誰の物語にも配置されていないことを、またしても確かめてしまう。胸の奥で、何かが静かにしぼむ気配があった。ここでは、私の沈黙すら予定稿の外なのだ。
「記録にない者です。召喚陣の余波で混ざったかと」
文官が巻物を持ち直し、淡々とした口調で言い放つ。活字にもしないため息のような無関心が、紙の擦れる音に混ざって広がる。私は「混ざった」という表現に、カフェオレの境目みたいに曖昧な価値を連想し、思わず目を伏せた。誰かが小さく笑い、誰かが「気の毒に」とささやき、誰かが「儀式の不純物だ」と極めて静かに言った。言葉は刃ではないのに、集まると鈍い打撃になって体の中心を殴る。私はただ、立っているための筋肉だけを使って、その場に留まった。
「無能を城に置く余地はない。外へ」
若い王族の男――後で“王弟殿下”と呼ばれるのだと直感する――が、ほんのわずかに顎をしゃくった。命令は拍子抜けするほど短く、しかし疑いようもなく完結していて、誰もが理解しやすい種類の残酷さを持っている。衛兵の靴が同時に床を鳴らし、二歩、三歩と私へ距離を詰める音が重なった。私は反射的に半歩だけ下がり、背中に冷たい空気が触れて、そこでようやく“逃げ道がない”という抽象が具体に変わる。喉は渇いているのに、口の中には金属の味がした。視界の縁で燭台の炎がゆらぎ、炎の影が壁に長い指を伸ばす。
「待ってください。私は――働けます」
声は震えていたが、出せたこと自体が奇跡だった。私は資料の要点を一枚にまとめるみたいに、考えを短く整えて差し出す。具体的な経験を言おうとして、しかしこの世界における“経験”という翻訳が一つも手元にないことに気づく。思考は回るのに、適切な言葉だけが棚から滑り落ちていく。衛兵の片方が、憐憫と面倒くささを半分ずつ混ぜた目をした。私はその目の意味を即座に読み取り、心のどこかで「こういう目は、知っている」と苦く笑った。
「働く場は、ここにはない」
王弟の返答は、氷に刺さる針のように冷たかった。彼は私を見ていないようで、正確に私だけを見ている。彼の周りの空気だけ温度が違うみたいで、そこに近づけば肺が凍ると本能が告げる。思わず視線を落とすと、自分のローファーに付いた細かな埃がやけに鮮明で、現実感がそこにだけ集中した。玉座の前は、威厳と形式と視線の層でできた海で、私は浮き輪も持たずに投げこまれた観光客だ。泳ぎ方を知らないのに、水の味だけは理解してしまう。私は息を吸うタイミングをまた失った。
「勇者殿、聖女殿。儀礼の間、足元に気をつけられよ」
王の声が柔らかく場を撫で、重心は再び二人へ戻る。侍従が金の盆を捧げ、聖水の杯が差し出され、聖句が静かに唱えられ始める。私は声の輪郭だけを聞きながら、語彙から遠ざかっていく自分を遠くの窓から眺めるような気持ちになる。拍手はないのに祝福の気配だけが積み重なり、床は揺れていないのに体の芯がふわりと傾ぐ。衛兵の手袋が私の肘へそっと触れ、押すでも引くでもなく、ただ方向を示す。私はその触れ方が訓練された親切であることを理解し、同時に、そこに“人”としての私が含まれていないことも理解する。
「――出ます。出ますから、押さないでください」
自分でも驚くほど小さな声が、胸の奥でくぐもっては弾けた。私は足を前に出し、石畳の目地を一つずつ越えていく。天井のフレスコは祝祭の女神を描いているらしく、金の花冠がこちらを見下ろして微笑んでいる。彼女の笑みは、私ではない誰かへ向けられている。扉の向こうを想像すると、冷たい外気と名もない風と、そして音の少ない廊下が続いている気がした。背後では祝詞が最高潮に達し、鐘のような高い音がひとつ鳴る。
「ミナ、だっけ? ……気をつけてね」
振り返らないうちに、同僚の彼女の声が、花弁のように軽く私の肩へ降りた。優しさと距離の混合比率が完璧で、受け取る側がどれだけ傷ついても傷つけたことにはならない種類の言葉だ。私は返事をしない。喉の奥でつかえた何かが、返事という形にほどけてくれない。衛兵の手袋が、さらに一度だけ方向を示す。扉番が長い取っ手へ手をかけ、厚い扉が、重い歴史をきしませながら、ゆっくりと開いていく。
△
扉の向こうは、思っていたよりも暗かった。石造りの廊下にはわずかな燭台しかなく、明かりは壁に貼りつくようにして揺れている。外の空気の代わりに、古い紙と湿った布のにおいが混ざった冷気が迎え入れてくる。扉が背後で閉まる音は鈍く、内側に戻る可能性を一瞬で封じた。私は振り返らず、ただ前へ進む。靴底が石の目地を踏むたびに、音がやけに響く。
――ここが、異世界。
そう言葉にしても、胸の奥はまだ現実として納得していない。私は会社のデスクの上に置きっぱなしにしたマグカップのことを思い出す。底に残ったコーヒーが乾いて輪になり、午後の打ち合わせまでには片付けようと思っていた。そんな小さな現実が、いまは異様に遠い。指先を見ても、爪の色も皮膚の感触も同じなのに、世界だけが私を拒む。
「こちらへ」
衛兵のひとりが短く言った。鎧の金具が鳴るたび、空気の層が変わる。彼らは無表情で、私を監視するというより、ただ命令を遂行しているようだった。私はうなずき、言葉にならない声で返事をした。廊下の先には、薄暗い螺旋階段があり、そこを降りていくと空気はさらに湿っぽくなる。何層にも重ねた歴史が、壁の石から滲んでくるようで、背筋にじわりと寒気が走った。
「ここが外門です」
階段を抜けると、重い鉄の門が見えた。門番の男が片膝をつき、鍵束から一つを選んで差し込む。金属の擦れる音がひときわ高く響き、鉄の板がゆっくりと開いていく。外の光が、まるで別の世界の息を吹き込むように差し込んできた。私は思わず目を細める。まぶしい。夕方の陽射しが、遠い砂の粒みたいに舞っている。
「ここから先は王都の外です。身の安全は保証できません」
短い忠告。それきり衛兵は背を向けた。私は頷くしかできず、足を一歩、外へ出す。靴底が土を踏む感触に変わり、ようやく“王城から追い出された”という現実が骨の髄まで染みてきた。門が閉まる音は、まるで厚い本の表紙が閉じるみたいで、その中にもう二度と自分のページは挟まれない気がした。
風が頬を撫でる。乾いた土の匂いと、遠くの草の甘い香りが混じる。見上げれば、空は少しだけオレンジ色で、どこまでも広がっていた。私は大きく息を吸い込み、吐き出す。泣くよりも先に、喉が乾いていることに気づいた。
「どうしよう……」
声は風にすぐ溶けた。返事をする人はいない。ポケットを探ると、スマートフォンも財布もない。あるのは制服のジャケットと、首からぶら下がる社員証――この世界では何の意味もない身分証。カードに印字された自分の名前が、まるで他人のもののように見える。
私は王城を振り返る。白い塔が幾重にも重なり、夕日に照らされて黄金に光っていた。そこには、同僚たちが拍手で迎えられ、豪華な晩餐に招かれているのだろう。きっと彼らは、あの笑顔のままで英雄として称えられている。
その対比が、胸の奥をじわりと焼いた。
「でも、戻っても……同じだよね」
自分で言って、自分で苦笑する。会社でもそうだった。成果を出しても、目立つのはいつもあの二人。私は資料を整え、裏で段取りを支える側だった。感謝はされたけど、記憶には残らない。あの時も、今も。
風が髪を揺らした。どこか遠くで鳥の鳴き声がした。世界のすべてが静かで、時間だけが流れ続けている。私は歩き出す。どこへ行くのかもわからないまま、土の道をただ進んだ。
数歩ごとに、靴の裏に小石が当たる音がする。そのリズムに合わせるように、心の奥で小さな恐怖が跳ねる。夜になったら、私はどこで眠ればいい? 食べ物は? この世界の通貨も、言葉も、わからないことだらけ。
それでも立ち止まるよりはましだった。止まった瞬間、泣き出してしまいそうで。
夕暮れが深まり、あたりが青く沈み始めた頃、地平線の向こうに何かが動くのが見えた。影がゆらりと揺れ、近づくたびに形がはっきりしていく。私は本能的に一歩下がる。
馬だ。二頭立ての馬車が、砂煙を上げながらゆっくりとこちらへ向かっていた。車輪が軋み、金属の鈴がかすかに鳴る。
――助けて、って言うべき?
でも、誰かに会うのが怖い。さっきの王国の人たちみたいに、また「無能」と言われたら。
馬車は私の目の前で止まった。御者台に座る青年が、手綱を引いて馬を落ち着かせる。夕日の中で、その人の輪郭が金色に縁取られた。やや長めの髪が風に揺れ、淡い金の瞳がこちらを見た。
「……どうして、こんな場所に?」
低く、穏やかな声。言葉は柔らかいのに、不思議と命令の響きを持っていた。私は一瞬、息を詰めて答えを探す。
「追い出されたんです。王城から」
言ってしまってから、涙が出そうになった。だが、青年の表情は変わらない。むしろ目の奥が一瞬、揺らいだ気がした。
「そうか。……なら、ここで立ち尽くしても仕方ない」
青年は軽く手を差し伸べる。その指先は白く、陽の光を受けて淡く光っているように見えた。
「乗りなさい。風が冷える」
私は迷った。けれど、もう背中に吹く風が夜の匂いを含み始めていて、断る理由はどこにもなかった。唇を噛み、ゆっくりとその手を取る。温かい。人の体温だ。
馬車の中は柔らかな布張りで、座るとふわりと身体が沈んだ。青年は向かいの席に腰を下ろし、軽く微笑む。
「名前を、聞いてもいいかな」
「……ミナ。ミナ・サカモトです」
「ミナ、か。いい名前だ」
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。その笑みを見た瞬間、なぜだか胸の奥の痛みがやわらいだ気がした。
馬車がゆっくりと動き出す。窓の外で風景が流れ、遠くの王城が小さくなっていく。
「君は運がいい。あの国から出られたのだから」
青年の言葉の意味を、私はまだ知らなかった。ただ、その声音には確かな優しさがあった。
その優しさに包まれながら、私はようやくまぶたを閉じる。長い一日の終わりに訪れた静けさが、心の奥まで染み込んでいくようだった。
◇
馬車の揺れが、子守唄のように一定のリズムを刻んでいた。私は体を預け、頭の奥に残る喧騒と屈辱を、少しずつ遠ざけていく。窓の外はすっかり夜で、星がまだらに瞬き、闇の中でだけ息づく世界を描いていた。街の灯りなどなく、馬の蹄が土を踏む音だけが続く。時折、風が帷の隙間から入り、頬に触れては消える。眠気が重く瞼に降りかかるけれど、隣の青年の存在が気になって眠ることができない。
「さっき言っていたな。王城から追い出されたと」
低い声が、暗闇に優しく響く。私はびくりと肩を揺らし、思わず手を握りしめた。青年の目は、ランプの淡い光を受けて金色に揺れている。その瞳には責めるような光も、同情もなく、ただ真っ直ぐに事実を見つめる穏やかさがあった。
「……はい。召喚に巻き込まれたみたいで、でも“役立たず”って言われて……」
言葉にして初めて、自分がどれだけ心の奥で傷ついていたのかを知る。声が震えて、喉が痛い。青年は何も言わずに私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「その国は、何でも力で測る。だが、本当に価値あるものは目に見えない」
その言葉の意味を、私はうまく受け止められなかった。ただ、優しく包まれるような安心感がそこにあった。
彼は外を見ながら続ける。
「俺はレオン・ルーベリア。この馬車はルーベリア王国のものだ。少し離れているが、今夜のうちに国境近くの宿に着く」
「……ルーベリア?」
「そう。君が追放された王国の隣国だ。彼らは俺たちを好ましく思っていないが、民は穏やかだよ」
穏やか。
その一言だけで、胸の奥に灯りがともったような気がした。どんな国かもわからないのに、その響きが妙に優しくて、眠りかけていた心がゆっくりと持ち上がる。
「レオン……さんは、どうして私を助けてくれたんですか」
尋ねると、彼は少しだけ首を傾げ、視線を逸らした。沈黙が、窓の外の夜気と溶け合っていく。馬の足音だけが、まるで考えごとをするように規則正しく響いた。
「理由なんて、後付けさ。けれど、君を見たとき……放っておけないと思った」
淡い声だった。その響きには、確かに嘘がなかった。
胸がじんわりと熱くなり、言葉が喉に詰まる。誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。会社では努力を認められても、いつも“チームの一員”という言葉でくくられていた。個人として見られることなど、なかった。
「……ありがとう、ございます」
かろうじて声にできた。レオンは穏やかに微笑み、ランプの火がその輪郭をやわらかく照らした。
「礼などいらない。困っている人を助けるのは、当たり前だ」
「でも……」
「君がこの世界で生きるなら、覚えておくといい。“当たり前”の形は、人によって違う」
その言葉は深く、どこか寂しげだった。私は頷くことしかできず、視線を落とした。馬車の床には、金糸で刺繍された絨毯が敷かれている。手でそっと触れると、指先にやわらかな感触が伝わった。
ふと、外の風が強くなり、ランプの火が大きく揺れた。その瞬間、車輪が石を乗り越えるように跳ね、体が少し浮く。思わず前のめりになった私を、レオンの手が支えた。
「大丈夫か」
顔が近い。
息がかかる距離で見た彼の瞳は、金ではなく琥珀色に見えた。体温が伝わってきて、心臓が大きく鳴る。
「は、はい……すみません」
「謝らなくていい。危ない道だ」
彼の手は離れたが、その温かさが指に残って消えない。私は視線を逸らし、窓の外へ向けた。夜空に散る星の一つひとつが、まるで雪の結晶のように冷たく光っている。
「ミナ」
「……はい?」
「これからしばらく、俺のもとにいるといい」
あまりに唐突な言葉に、心が止まった。レオンは微笑んだまま、続ける。
「宿に着いたら衣服や食事を用意させよう。明日には屋敷へ行く。君には休息が必要だ」
「でも……迷惑じゃ」
「迷惑なんて、思っていない」
穏やかだが、断言の調子だった。その響きに逆らうことができない。私はただ頷く。
馬車は緩やかな坂を下り始めた。空気が少し湿り、遠くに川の音がする。灯りが点々と見え、やがて木造の建物が近づいてくる。屋根からは湯気のようなものが立ちのぼり、暖かい光が窓に宿っている。
「ここが宿場町だ。休もう」
レオンが先に降り、私に手を差し伸べる。その仕草は自然で、まるで昔から知っている人みたいに滑らかだった。手を取ると、指先が温かく、胸の奥がまた波打つ。
外の空気は冷たく、星の光が水面に散らばっていた。私はその景色を見ながら、小さく息を吐く。
――もう、怖くないかもしれない。
そう思えたのは、この世界で初めてだった。
レオンの後ろ姿を追いながら、私は静かに扉の中へと足を踏み入れる。
そこには、灯のともった小さな暖炉と、かすかに漂うパンの香りがあった。
心がほどけるように、温かい夜だった。
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床一面に描かれた魔法陣が白く爆ぜ、光の粒が視界を満たしたあと、私は冷たい石畳の感触と荘厳な天井画を同時に知った。高い円柱の間には絹の垂れ幕が揺れ、香の甘い匂いが鼻の奥をくすぐるが、心臓は早鐘のままで風景の美しさを受け止めきれない。足元でヒールが不安定に鳴り、振り返れば職場の休憩スペースでコーヒー片手だったはずの二人――美男美女の同僚が、まるで舞台の主役みたいに光の中心に立っている。視線は一斉に彼らへ吸い寄せられ、金と赤の礼服に身を包んだ人々が歓声に似た息を呑む音を立てる。私は輪から半歩ずれた位置に立ち尽くし、自分だけ台本を渡されていないエキストラであることを、嫌なくらい鮮明に理解する。心はざらりと乾き、喉がひりつくのに、口を開く勇気だけが靴の中へ落ちていった。
「勇者殿、聖女殿、よくぞ我が国に降り立ってくださった!」
玉座の前に立つ老いた王が、杖で床を一度だけ鳴らし、重く響く声で祝辞を述べる。銀の王冠が燭台の炎を弾いて、虹色の微光をこぼし、その下で白いひげが満足げに揺れた。彼の隣で巻物を携えた文官が慌ただしくページを繰り、儀礼の文言を読み上げるたび、周囲の臣下が胸に手を当てる。私は反射的に会釈をしそうになって、ここが会議室でも式典でもないことを思い出し、ぎゅっと両手を握りしめた。どうして私まで呼ばれたのだろう、という素朴な疑問は、光の残滓よりも薄く扱われ、誰の口にも上らない。胸の奥で小さく膨らむ不安は、まだ言葉を持たないまま形だけを増やしていく。
「こっち、勇者でーす。状況説明お願いします」
同僚の彼――職場では人当たりの良い営業のエース――が、いつもの軽さで手を上げる。彼の声は照明に強いマイクみたいに空間を滑り、数人が安心したように笑った。もう一人の彼女――社内報の表紙を飾っていた広報のアイコン――は、わずかに顎を引いて目だけを大きく動かし、場を読む名人らしく最小限の仕草で気品をまとっている。二人の立ち方は、ここが自分たちの舞台であることを本能的に知っている人のそれで、私は思わず足をそろえ、背筋を伸ばして存在感を薄くする。指先には先ほどまで持っていた紙コップの幻影が残り、温度の抜けた記憶だけがじんわりと掌を濡らす。拍手のような衣擦れの音のなかで、私の名前だけがどこにも見つからない。
「――ところで、その者は?」
唐突に、冷ややかな低音が空気の層を切り裂いた。声の主は玉座の斜め後ろ、黒髪をなめらかに結い上げた若い王族らしき男で、金糸の肩章が炎の明滅に合わせて小さく瞬く。視線は真っ直ぐで、獲物の特定に迷いがない。その刃先がこちらへ向くと、私の背中に薄い汗が滲み、足首から上へとゆっくり氷が這い登ってくるようだった。彼のまぶたは半分ほどしか開いていないのに、瞳の焦点だけが妙に研ぎ澄まされている。逃げ場のない照明にさらされて、私は思考と呼吸の順番を取り違えた。
「……えっと、私は、その……」
言葉は口の中で転び、音になる直前でほどけてしまう。名乗りを上げても、呼ばれていない人の返事みたいで滑稽だろうかと、一瞬で何十通りも恥の未来を想像してしまう。周囲の衛兵が、手にする長槍をほんのわずか動かし、その金具の触れ合う小さな音がやけにはっきり耳に刺さった。私は自分がいま、誰の物語にも配置されていないことを、またしても確かめてしまう。胸の奥で、何かが静かにしぼむ気配があった。ここでは、私の沈黙すら予定稿の外なのだ。
「記録にない者です。召喚陣の余波で混ざったかと」
文官が巻物を持ち直し、淡々とした口調で言い放つ。活字にもしないため息のような無関心が、紙の擦れる音に混ざって広がる。私は「混ざった」という表現に、カフェオレの境目みたいに曖昧な価値を連想し、思わず目を伏せた。誰かが小さく笑い、誰かが「気の毒に」とささやき、誰かが「儀式の不純物だ」と極めて静かに言った。言葉は刃ではないのに、集まると鈍い打撃になって体の中心を殴る。私はただ、立っているための筋肉だけを使って、その場に留まった。
「無能を城に置く余地はない。外へ」
若い王族の男――後で“王弟殿下”と呼ばれるのだと直感する――が、ほんのわずかに顎をしゃくった。命令は拍子抜けするほど短く、しかし疑いようもなく完結していて、誰もが理解しやすい種類の残酷さを持っている。衛兵の靴が同時に床を鳴らし、二歩、三歩と私へ距離を詰める音が重なった。私は反射的に半歩だけ下がり、背中に冷たい空気が触れて、そこでようやく“逃げ道がない”という抽象が具体に変わる。喉は渇いているのに、口の中には金属の味がした。視界の縁で燭台の炎がゆらぎ、炎の影が壁に長い指を伸ばす。
「待ってください。私は――働けます」
声は震えていたが、出せたこと自体が奇跡だった。私は資料の要点を一枚にまとめるみたいに、考えを短く整えて差し出す。具体的な経験を言おうとして、しかしこの世界における“経験”という翻訳が一つも手元にないことに気づく。思考は回るのに、適切な言葉だけが棚から滑り落ちていく。衛兵の片方が、憐憫と面倒くささを半分ずつ混ぜた目をした。私はその目の意味を即座に読み取り、心のどこかで「こういう目は、知っている」と苦く笑った。
「働く場は、ここにはない」
王弟の返答は、氷に刺さる針のように冷たかった。彼は私を見ていないようで、正確に私だけを見ている。彼の周りの空気だけ温度が違うみたいで、そこに近づけば肺が凍ると本能が告げる。思わず視線を落とすと、自分のローファーに付いた細かな埃がやけに鮮明で、現実感がそこにだけ集中した。玉座の前は、威厳と形式と視線の層でできた海で、私は浮き輪も持たずに投げこまれた観光客だ。泳ぎ方を知らないのに、水の味だけは理解してしまう。私は息を吸うタイミングをまた失った。
「勇者殿、聖女殿。儀礼の間、足元に気をつけられよ」
王の声が柔らかく場を撫で、重心は再び二人へ戻る。侍従が金の盆を捧げ、聖水の杯が差し出され、聖句が静かに唱えられ始める。私は声の輪郭だけを聞きながら、語彙から遠ざかっていく自分を遠くの窓から眺めるような気持ちになる。拍手はないのに祝福の気配だけが積み重なり、床は揺れていないのに体の芯がふわりと傾ぐ。衛兵の手袋が私の肘へそっと触れ、押すでも引くでもなく、ただ方向を示す。私はその触れ方が訓練された親切であることを理解し、同時に、そこに“人”としての私が含まれていないことも理解する。
「――出ます。出ますから、押さないでください」
自分でも驚くほど小さな声が、胸の奥でくぐもっては弾けた。私は足を前に出し、石畳の目地を一つずつ越えていく。天井のフレスコは祝祭の女神を描いているらしく、金の花冠がこちらを見下ろして微笑んでいる。彼女の笑みは、私ではない誰かへ向けられている。扉の向こうを想像すると、冷たい外気と名もない風と、そして音の少ない廊下が続いている気がした。背後では祝詞が最高潮に達し、鐘のような高い音がひとつ鳴る。
「ミナ、だっけ? ……気をつけてね」
振り返らないうちに、同僚の彼女の声が、花弁のように軽く私の肩へ降りた。優しさと距離の混合比率が完璧で、受け取る側がどれだけ傷ついても傷つけたことにはならない種類の言葉だ。私は返事をしない。喉の奥でつかえた何かが、返事という形にほどけてくれない。衛兵の手袋が、さらに一度だけ方向を示す。扉番が長い取っ手へ手をかけ、厚い扉が、重い歴史をきしませながら、ゆっくりと開いていく。
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扉の向こうは、思っていたよりも暗かった。石造りの廊下にはわずかな燭台しかなく、明かりは壁に貼りつくようにして揺れている。外の空気の代わりに、古い紙と湿った布のにおいが混ざった冷気が迎え入れてくる。扉が背後で閉まる音は鈍く、内側に戻る可能性を一瞬で封じた。私は振り返らず、ただ前へ進む。靴底が石の目地を踏むたびに、音がやけに響く。
――ここが、異世界。
そう言葉にしても、胸の奥はまだ現実として納得していない。私は会社のデスクの上に置きっぱなしにしたマグカップのことを思い出す。底に残ったコーヒーが乾いて輪になり、午後の打ち合わせまでには片付けようと思っていた。そんな小さな現実が、いまは異様に遠い。指先を見ても、爪の色も皮膚の感触も同じなのに、世界だけが私を拒む。
「こちらへ」
衛兵のひとりが短く言った。鎧の金具が鳴るたび、空気の層が変わる。彼らは無表情で、私を監視するというより、ただ命令を遂行しているようだった。私はうなずき、言葉にならない声で返事をした。廊下の先には、薄暗い螺旋階段があり、そこを降りていくと空気はさらに湿っぽくなる。何層にも重ねた歴史が、壁の石から滲んでくるようで、背筋にじわりと寒気が走った。
「ここが外門です」
階段を抜けると、重い鉄の門が見えた。門番の男が片膝をつき、鍵束から一つを選んで差し込む。金属の擦れる音がひときわ高く響き、鉄の板がゆっくりと開いていく。外の光が、まるで別の世界の息を吹き込むように差し込んできた。私は思わず目を細める。まぶしい。夕方の陽射しが、遠い砂の粒みたいに舞っている。
「ここから先は王都の外です。身の安全は保証できません」
短い忠告。それきり衛兵は背を向けた。私は頷くしかできず、足を一歩、外へ出す。靴底が土を踏む感触に変わり、ようやく“王城から追い出された”という現実が骨の髄まで染みてきた。門が閉まる音は、まるで厚い本の表紙が閉じるみたいで、その中にもう二度と自分のページは挟まれない気がした。
風が頬を撫でる。乾いた土の匂いと、遠くの草の甘い香りが混じる。見上げれば、空は少しだけオレンジ色で、どこまでも広がっていた。私は大きく息を吸い込み、吐き出す。泣くよりも先に、喉が乾いていることに気づいた。
「どうしよう……」
声は風にすぐ溶けた。返事をする人はいない。ポケットを探ると、スマートフォンも財布もない。あるのは制服のジャケットと、首からぶら下がる社員証――この世界では何の意味もない身分証。カードに印字された自分の名前が、まるで他人のもののように見える。
私は王城を振り返る。白い塔が幾重にも重なり、夕日に照らされて黄金に光っていた。そこには、同僚たちが拍手で迎えられ、豪華な晩餐に招かれているのだろう。きっと彼らは、あの笑顔のままで英雄として称えられている。
その対比が、胸の奥をじわりと焼いた。
「でも、戻っても……同じだよね」
自分で言って、自分で苦笑する。会社でもそうだった。成果を出しても、目立つのはいつもあの二人。私は資料を整え、裏で段取りを支える側だった。感謝はされたけど、記憶には残らない。あの時も、今も。
風が髪を揺らした。どこか遠くで鳥の鳴き声がした。世界のすべてが静かで、時間だけが流れ続けている。私は歩き出す。どこへ行くのかもわからないまま、土の道をただ進んだ。
数歩ごとに、靴の裏に小石が当たる音がする。そのリズムに合わせるように、心の奥で小さな恐怖が跳ねる。夜になったら、私はどこで眠ればいい? 食べ物は? この世界の通貨も、言葉も、わからないことだらけ。
それでも立ち止まるよりはましだった。止まった瞬間、泣き出してしまいそうで。
夕暮れが深まり、あたりが青く沈み始めた頃、地平線の向こうに何かが動くのが見えた。影がゆらりと揺れ、近づくたびに形がはっきりしていく。私は本能的に一歩下がる。
馬だ。二頭立ての馬車が、砂煙を上げながらゆっくりとこちらへ向かっていた。車輪が軋み、金属の鈴がかすかに鳴る。
――助けて、って言うべき?
でも、誰かに会うのが怖い。さっきの王国の人たちみたいに、また「無能」と言われたら。
馬車は私の目の前で止まった。御者台に座る青年が、手綱を引いて馬を落ち着かせる。夕日の中で、その人の輪郭が金色に縁取られた。やや長めの髪が風に揺れ、淡い金の瞳がこちらを見た。
「……どうして、こんな場所に?」
低く、穏やかな声。言葉は柔らかいのに、不思議と命令の響きを持っていた。私は一瞬、息を詰めて答えを探す。
「追い出されたんです。王城から」
言ってしまってから、涙が出そうになった。だが、青年の表情は変わらない。むしろ目の奥が一瞬、揺らいだ気がした。
「そうか。……なら、ここで立ち尽くしても仕方ない」
青年は軽く手を差し伸べる。その指先は白く、陽の光を受けて淡く光っているように見えた。
「乗りなさい。風が冷える」
私は迷った。けれど、もう背中に吹く風が夜の匂いを含み始めていて、断る理由はどこにもなかった。唇を噛み、ゆっくりとその手を取る。温かい。人の体温だ。
馬車の中は柔らかな布張りで、座るとふわりと身体が沈んだ。青年は向かいの席に腰を下ろし、軽く微笑む。
「名前を、聞いてもいいかな」
「……ミナ。ミナ・サカモトです」
「ミナ、か。いい名前だ」
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。その笑みを見た瞬間、なぜだか胸の奥の痛みがやわらいだ気がした。
馬車がゆっくりと動き出す。窓の外で風景が流れ、遠くの王城が小さくなっていく。
「君は運がいい。あの国から出られたのだから」
青年の言葉の意味を、私はまだ知らなかった。ただ、その声音には確かな優しさがあった。
その優しさに包まれながら、私はようやくまぶたを閉じる。長い一日の終わりに訪れた静けさが、心の奥まで染み込んでいくようだった。
◇
馬車の揺れが、子守唄のように一定のリズムを刻んでいた。私は体を預け、頭の奥に残る喧騒と屈辱を、少しずつ遠ざけていく。窓の外はすっかり夜で、星がまだらに瞬き、闇の中でだけ息づく世界を描いていた。街の灯りなどなく、馬の蹄が土を踏む音だけが続く。時折、風が帷の隙間から入り、頬に触れては消える。眠気が重く瞼に降りかかるけれど、隣の青年の存在が気になって眠ることができない。
「さっき言っていたな。王城から追い出されたと」
低い声が、暗闇に優しく響く。私はびくりと肩を揺らし、思わず手を握りしめた。青年の目は、ランプの淡い光を受けて金色に揺れている。その瞳には責めるような光も、同情もなく、ただ真っ直ぐに事実を見つめる穏やかさがあった。
「……はい。召喚に巻き込まれたみたいで、でも“役立たず”って言われて……」
言葉にして初めて、自分がどれだけ心の奥で傷ついていたのかを知る。声が震えて、喉が痛い。青年は何も言わずに私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「その国は、何でも力で測る。だが、本当に価値あるものは目に見えない」
その言葉の意味を、私はうまく受け止められなかった。ただ、優しく包まれるような安心感がそこにあった。
彼は外を見ながら続ける。
「俺はレオン・ルーベリア。この馬車はルーベリア王国のものだ。少し離れているが、今夜のうちに国境近くの宿に着く」
「……ルーベリア?」
「そう。君が追放された王国の隣国だ。彼らは俺たちを好ましく思っていないが、民は穏やかだよ」
穏やか。
その一言だけで、胸の奥に灯りがともったような気がした。どんな国かもわからないのに、その響きが妙に優しくて、眠りかけていた心がゆっくりと持ち上がる。
「レオン……さんは、どうして私を助けてくれたんですか」
尋ねると、彼は少しだけ首を傾げ、視線を逸らした。沈黙が、窓の外の夜気と溶け合っていく。馬の足音だけが、まるで考えごとをするように規則正しく響いた。
「理由なんて、後付けさ。けれど、君を見たとき……放っておけないと思った」
淡い声だった。その響きには、確かに嘘がなかった。
胸がじんわりと熱くなり、言葉が喉に詰まる。誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。会社では努力を認められても、いつも“チームの一員”という言葉でくくられていた。個人として見られることなど、なかった。
「……ありがとう、ございます」
かろうじて声にできた。レオンは穏やかに微笑み、ランプの火がその輪郭をやわらかく照らした。
「礼などいらない。困っている人を助けるのは、当たり前だ」
「でも……」
「君がこの世界で生きるなら、覚えておくといい。“当たり前”の形は、人によって違う」
その言葉は深く、どこか寂しげだった。私は頷くことしかできず、視線を落とした。馬車の床には、金糸で刺繍された絨毯が敷かれている。手でそっと触れると、指先にやわらかな感触が伝わった。
ふと、外の風が強くなり、ランプの火が大きく揺れた。その瞬間、車輪が石を乗り越えるように跳ね、体が少し浮く。思わず前のめりになった私を、レオンの手が支えた。
「大丈夫か」
顔が近い。
息がかかる距離で見た彼の瞳は、金ではなく琥珀色に見えた。体温が伝わってきて、心臓が大きく鳴る。
「は、はい……すみません」
「謝らなくていい。危ない道だ」
彼の手は離れたが、その温かさが指に残って消えない。私は視線を逸らし、窓の外へ向けた。夜空に散る星の一つひとつが、まるで雪の結晶のように冷たく光っている。
「ミナ」
「……はい?」
「これからしばらく、俺のもとにいるといい」
あまりに唐突な言葉に、心が止まった。レオンは微笑んだまま、続ける。
「宿に着いたら衣服や食事を用意させよう。明日には屋敷へ行く。君には休息が必要だ」
「でも……迷惑じゃ」
「迷惑なんて、思っていない」
穏やかだが、断言の調子だった。その響きに逆らうことができない。私はただ頷く。
馬車は緩やかな坂を下り始めた。空気が少し湿り、遠くに川の音がする。灯りが点々と見え、やがて木造の建物が近づいてくる。屋根からは湯気のようなものが立ちのぼり、暖かい光が窓に宿っている。
「ここが宿場町だ。休もう」
レオンが先に降り、私に手を差し伸べる。その仕草は自然で、まるで昔から知っている人みたいに滑らかだった。手を取ると、指先が温かく、胸の奥がまた波打つ。
外の空気は冷たく、星の光が水面に散らばっていた。私はその景色を見ながら、小さく息を吐く。
――もう、怖くないかもしれない。
そう思えたのは、この世界で初めてだった。
レオンの後ろ姿を追いながら、私は静かに扉の中へと足を踏み入れる。
そこには、灯のともった小さな暖炉と、かすかに漂うパンの香りがあった。
心がほどけるように、温かい夜だった。
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