異世界召喚で婚約者を妹に奪われ無能扱いされた私、辺境で拾ってくれた公爵様と森を散歩しながら才能を咲かせ、今では誰よりも深く寵愛されています 

さら

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 その夜、部屋に戻っても眠れなかった。
 窓の外には星が降るように瞬き、湖から吹く風がカーテンを揺らしている。部屋の灯りを落としても、月明かりだけで十分に明るい。白い床に光が流れ、壁際の花瓶の水面がきらりと反射していた。
 あの散歩の帰り道、セドリックと手を繋いだときの感触がまだ指先に残っている。あの穏やかで確かな温もりは、まるで胸の奥に火を灯すようだった。

 ベッドの端に腰を下ろし、ぼんやりと手のひらを見つめる。
 ここに来てから、世界のすべてが少しずつ変わり始めた気がする。森の香り、風の柔らかさ、人の笑い声――どれも以前は気づかなかったものばかりだ。
 王都では、何もかもが恐ろしくて息苦しかった。誰かに笑われるたび、息を潜めるように生きていた。それなのに今は、呼吸をすることが心地よい。

 「……ありがとう」
 小さく呟いてみる。
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。けれどその瞬間、部屋の中でふわりと花の香りがした。窓辺の花瓶に差した一輪の花が、淡く光を放っている。

「――おやすみ、リリア」

 声がした。
 驚いて振り返ると、扉の前にセドリックが立っていた。
 黒い上着のまま、夜風に揺れるランプを片手にしている。光が彼の横顔を照らし、その表情は穏やかだった。

「すみません、起こしてしまいましたか?」

「いえ……眠れなくて。少し外を見ていました」

「森の夜は静かすぎるでしょう。最初のうちは、誰もがそう言う」

 そう言って、彼は窓際まで歩いてくる。
 月光の中で見るセドリックは、昼間よりも近く感じた。
 光と影が彼の横顔を分け、瞳の奥に映る星がゆらめいている。

「星の湖が見えるでしょう?」

 彼が指差す先に、森の隙間から白く光る湖面が見えた。
 水に浮かぶ無数の星が、夜空と溶け合ってひとつの光の海になっている。

「……本当に、星が落ちているみたい」

「この地では、“星の揺りかご”と呼ばれています。
 夜になると、湖が星を育てるのだと。翌朝、太陽が昇ると星は空へ帰る。だから、夜は誰もこの湖を汚さない」

「きれいな話ですね」

「ええ。――けれど、ここを守るのは容易ではない」

 彼の声が少し低くなった。
 その響きの中に、どこか懐かしい痛みがある。

「この領地は長い間、飢えと病に苦しんできた。王都は見捨てたが、森だけが人々を生かしてくれた。だから私は、この森を守り続けてきた」

「……あなたが?」

「そうだ。私が幼い頃から、森はいつも私に語りかけてきた。風の音や木々のきしみが、言葉のように聞こえる時があった」

 彼は窓枠に手を置き、静かに外を見つめた。
 その姿はどこか寂しげで、同時に凛としていた。

「母が亡くなった夜も、森は泣いていた。木々が揺れ、花が一斉に散った。……だからこそ、あなたがこの地に現れたとき、私は奇跡だと思ったのです」

 私の胸が小さく鳴った。
 目を逸らせず、ただその言葉を飲み込む。

「あなたは、この森に春を取り戻した。あの日から、鳥が戻り、花が咲き、人の笑い声が増えた。あなたがここにいるだけで、この地は呼吸をしている」

「……そんなこと」

「そんなことがあります」

 セドリックの声が、まっすぐに届く。
 私の手が震えた。彼の手がそっと伸び、私の指を包み込む。
 その掌は温かく、確かな命のぬくもりがあった。

「リリア。もし王都に戻りたいと思ったときは、私は止めません。けれど、もしここに残りたいと思うなら――私は、その選択を歓迎します」

「残る……?」

「ええ。この地に、あなたの居場所を作りたい」

 言葉が喉に詰まる。
 何かを答えたくても、胸がいっぱいで声が出ない。
 ただ、頬を伝う温かいものが一筋、静かに落ちた。

 セドリックが優しく微笑む。

「泣かないで。あなたの涙は、森を揺らしてしまう」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。あなたが涙を流すたび、花が咲くのです」

 そう言って、彼は窓辺の花に指を伸ばした。
 その瞬間、花が小さく震え、淡い光を放った。
 それはまるで、彼の言葉を肯定するように見えた。

「……不思議ですね。ここでは、悲しいことも美しく見える」

「それが、この地の“祝福”ですよ」

 彼がランプの灯を消すと、部屋の中が月の光だけに包まれた。
 外の湖から、風がそっと吹き込む。
 星の香りを含んだ夜気が、私たちの間を通り抜けていく。

「おやすみなさい、リリア」

「……おやすみなさい、セドリック」

 扉が静かに閉まる。
 部屋の中には、まだ彼の温もりが残っていた。
 胸の奥がじんわりと熱く、どうしようもなく愛おしい感情が溢れてくる。

 窓の外では、湖に映る星がゆっくりと瞬いている。
 私はその光を見つめながら、そっと呟いた。

 ――この夜を、きっと忘れない。

 枕元に咲いた花が、月光を受けてほのかに揺れていた。




 夜が更けても、眠りは浅かった。月が屋根を照らし、静けさが部屋を包む。外の森では、どこかで梟が一声鳴き、それに応えるように風が木々を揺らしていく。その音を聞いているうちに、私はいつしかベッドを抜け出していた。
 裸足で廊下を歩くと、冷たい石の床が心地よい。壁にかけられたランプの火が揺れ、光が金の糸のように流れている。まるで、誰かが夜の世界を紡いでいるようだった。

 屋敷の扉を開けると、夜気が一気に流れ込んできた。空気は冷たく、それでいて澄んでいる。星々は手を伸ばせば届きそうなくらい低く瞬いていた。
 湖まで歩く道を知っていた。昼間、セドリックと歩いたあの小径。彼の足跡を追うように、一歩一歩、草を踏みしめて進む。

 やがて、森が途切れ、湖が姿を現す。昼間とはまったく違う光景だった。
 水面が星を映して揺れ、まるで空と地上の境がなくなっていた。風が止むと、世界は水鏡のように静まり返り、私の姿までも映し出している。

 ――あの日、王都で笑われ、蔑まれ、すべてを失った。
 でも今は、鏡のようなこの湖が、私の中の何かを優しく受け止めてくれている。

 しゃがみ込み、手を伸ばす。指先が水に触れると、冷たさの中に微かな鼓動を感じた。
 その瞬間、水面に小さな波紋が広がり、光がぱっと散った。無数の星が湖から生まれたように、光の粒が空へと舞い上がる。

 その光景に息を呑んでいると、背後から足音がした。
 振り返ると、月明かりの下にセドリックが立っていた。外套を羽織ったまま、ゆっくりと歩いてくる。

「……やはり、ここにいると思いました」

「眠れなくて……。ごめんなさい、勝手に出てきてしまって」

「構いません。森もあなたを歓迎しています」

 彼の声は、夜の静けさに溶けるように柔らかかった。
 セドリックは私の隣に立ち、水面を見つめた。二人の影が湖に映り、星の光がその間を結ぶ。

「リリア。あなたの力は、森や花だけでなく、この湖にも届いているようです」

「わたしの……力?」

「ええ。見てください。星の湖が、あなたの呼吸に合わせて光っている」

 言われて息を吸うと、水面が小さく震え、吐き出すと光がまた広がった。
 それはまるで、湖が私の鼓動と共に生きているかのようだった。

「……不思議。まるで世界が一緒に息をしてるみたい」

「世界は、あなたを忘れていないんですよ」

 その言葉が胸の奥に落ちて、涙がこぼれそうになる。
 でも泣きたくはなかった。今の涙は悲しみではなく、なぜか温かすぎたから。

「セドリック。あなたは、どうしてそんなに私を信じてくれるんですか?」

「信じるというより、感じているだけです。あなたがこの地を愛しているのを」

「……愛している」

「はい。花も風も、あなたに惹かれている。私も……同じですよ」

 静寂の中、その言葉だけがやさしく響いた。
 時間が止まったようだった。心臓が跳ねる音が、夜の空気にまで伝わりそうで、息が詰まる。

「……それは、どういう意味ですか?」

「そのままの意味です。あなたがここに来てから、私は初めて“生きている”と感じた」

 セドリックの声がかすかに震えていた。
 彼の手が、そっと私の頬に触れる。指先が冷たいのに、不思議と心は温かい。

「王都で何を言われようと、あなたは無能ではない。
 あなたがこの地を癒やしたように、私の心もまた、あなたに癒やされている」

「セドリック……」

 名前を呼ぶ声が震えた。
 涙がこぼれ、頬を伝う。その雫が彼の手の甲に落ちた瞬間、湖が再び光を放った。
 水面が星のように輝き、風が花の香りを運んでくる。

「……ほら。あなたの涙が、また世界を照らした」

 彼は微笑む。その笑みを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
 もう何も言えなかった。
 ただ、その光景を焼きつけるように見つめる。

 セドリックがそっと腕を伸ばし、私を抱き寄せた。
 肩越しに見える湖が、二人の影を包み込むように揺れている。

「もう、ひとりではありませんよ」

 その言葉に、ようやく涙が溢れた。
 嗚咽も声も出ない。ただ静かに泣いた。
 でも、その涙は悲しみではなく、ようやく手に入れた“安らぎ”の証だった。

 夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。
 湖に映る光の波が、まるで永遠のように続いていた。

 セドリックの胸の中で、私は静かに目を閉じた。
 もう何も恐れなくていい――そう思えた。

 風が頬を撫で、遠くで森がざわめく。
 世界が祝福する音に包まれながら、私は深く息を吸った。

 ――この夜を、私は永遠に忘れない。

 星々が流れ、湖の光がゆっくりと淡くなっていく。
 朝の気配が近づく中、私の心にはひとつの確信だけが残っていた。

 ――私は、ここで生きていく。
 彼と、この地と、光に包まれながら。

 湖が静かに波紋を広げ、夜が終わりを告げた。
 新しい朝が、すぐそこまで来ていた。



 朝が来た。夜明けの光が森の奥から差し込み、湖面に映った星の名残をゆっくりと溶かしていく。空の色は群青から淡い金へと変わり、草の上に散った露がひと粒ずつ輝いた。私はその景色の中に立っていた。頬を撫でる風がやわらかく、胸の奥が温かい。夜の涙の跡さえ、今では光のひとつのように感じられた。

 背後から、穏やかな足音が近づいてくる。振り向くと、セドリックがいつもの黒い外套を羽織り、手に小さな花籠を抱えていた。
「おはようございます、リリア」
「おはようございます……早いですね」
「夜明け前に目が覚めてね。森が呼んでいた気がした」

 彼が手にした籠には、白や薄桃の花がいくつも重なっている。小さな花びらは露に濡れ、陽を受けて微かに光っていた。
「今日、領民たちが春の祝祭を開くんです。あなたにも来てほしいと皆が言っていました」
「……私に?」
「あなたの花が咲いたから、森が賑やかになった。だから感謝を込めて小さな集いを」

 驚きと、少しの照れくささが胸に広がる。私は自分の胸元を押さえた。
「でも、私なんかがそんな場所に出ていいのでしょうか」
「“あなたなんか”ではありません」
 セドリックがそっと微笑み、籠の花を一輪取り出して私の髪に挿した。花弁が指先で触れた瞬間、淡い光が広がり、甘い香りが風に溶けていく。
「あなたはこの森の祝福そのものです。胸を張って歩けばいい」

 その言葉に背中を押されるように、私は頷いた。

 ◇

 昼になると、森の入口には多くの人が集まっていた。
 農夫も、職人も、子どもたちも、皆が花冠を頭に載せている。笛と太鼓の音が響き、陽光の中で色とりどりの布が舞っていた。木々の枝にはリボンが結ばれ、広場の真ん中には大きな花輪が吊るされている。

 私が姿を見せると、人々のざわめきが一瞬静まり、それから拍手が湧いた。
「森の聖女さまだ!」
「リリアさまが来た!」
 子どもたちが駆け寄り、小さな花を両手いっぱいに抱えて差し出す。その光景に胸が熱くなり、思わず膝をついた。
「ありがとう。こんなにきれいな花を……」
「リリアさまの力で、うちの畑にも花が咲いたんです!」
 少女がそう言って笑う。頬に土がついているのに、その笑顔は太陽みたいだった。

 セドリックが後ろからゆっくりと歩み出て、声を上げる。
「皆、今日という日を忘れないようにしよう。この地に春を呼び戻したのは、彼女の優しさと勇気だ!」
 その言葉に、再び拍手が起こる。笛の音が鳴り響き、太鼓が地を震わせた。

 私は恥ずかしさに頬を染めながらも、胸の奥が満たされていくのを感じていた。
 誰かに必要とされている――それだけで、心が軽くなる。

 祭りの中で、セドリックが私の手を取った。
「少し歩きませんか」
「はい」

 森の奥、湖へ続く小道をふたりで歩く。人々の笑い声が遠ざかり、静寂が戻る。足元では、昼の光を受けて花びらがきらめいていた。

「リリア」
「はい」
「私は長い間、誰かを信じることができませんでした。けれど、あなたがこの地に来てから、ようやく心が解けていくのを感じています」
 彼の声は真剣で、どこか震えていた。
「あなたが笑うと、森が息をする。あなたが泣くと、雨が降る。あなたが生きるだけで、この地が輝く」

 私は息を呑んだ。
 その瞳の奥に、深く、静かな想いが宿っていた。
「セドリック……そんなふうに言われたら、もう何も言えません」
「言葉はいらない。あなたがここにいる。それだけで、すべてが報われる」

 彼が私の手を強く握る。指先が震える。
 風が二人の間を通り抜け、花びらを巻き上げた。
 その中で、彼の声がそっと落ちる。

「――あなたを、この地の“守り手”として迎えたい」

「守り手……?」

「名ばかりの称号ではありません。この地と共に生き、私と共に歩む人として」

 心臓が跳ねる。言葉の意味を理解した瞬間、頬が熱くなる。
 彼は静かに続けた。
「あなたが望むなら、私はこの手を差し出します。望まないなら、それでも構いません。あなたの選ぶ道を、私は尊重します」

 その真っ直ぐな言葉に、胸の奥で何かがほどけた。
 長い間誰かに従うだけだった私に、“選んでいい”と言ってくれる人がいる――それだけで涙が込み上げた。

 私は彼の手を取り、小さく頷いた。
「……はい。わたし、この地で生きたい。あなたと一緒に」

 セドリックの瞳が驚きに揺れ、それから穏やかな光に変わった。
 彼が私の手を包み込み、額をそっと重ねる。

「ありがとう、リリア」

 湖の方から、風がふっと吹く。
 花弁が舞い、光が弾け、森が歌うようにざわめいた。

 鳥の声、葉の揺れる音、遠くの笑い声――すべてがひとつになって、祝福の音を奏でていた。

 私はその音の中で、セドリックと共に立っていた。
 彼の手の温もりが、確かに未来へと続いている。

 ――あの日、無能と呼ばれた私が、今ここで愛されている。
 この奇跡のような瞬間を、永遠に閉じ込めておきたい。

 湖の光が強く瞬き、森が花の香りで満たされる。
 風がそっと囁いた。

 「おかえり」と。

 私は微笑み、静かに目を閉じた。
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