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夜明け前、まだ砦の空気がひんやりしているうちに目が覚めた。身体の芯に残っているのは昨日の疲れではなく、充実感のようなものだ。机の上には整理された帳簿と、昨日村で作った補給計画の下書きがある。自分の文字がこれほど頼もしく見えたのは初めてだった。
窓を開けると、薄い朝靄の中で中庭が静かに動き始めている。鎧を身につける音、木剣の打ち合う音。これがこの砦の朝の音だともう知っている。昨日までの不安が薄くなっていて、胸がすこし軽い。
「起きてる?」
ノックのあと、マリエルの声がした。
「はい」
扉を開けると、彼女がすでに鎧の半分を身につけた姿で立っていた。朝からきびきびしていて、相変わらず頼もしい。
「団長から伝言。午前中、補給計画の最終確認を一緒にしてくれって。たぶん、昨日の計算が思った以上に役立ったんだよ」
「えっ、もうですか?」
「もう、というか“さっそく”って感じだね。ほら、昨日の村の件、団の中でも話題になってるから」
胸がじわりと熱くなった。昨日の小さな計算が、砦の誰かの役に立っている。そんな当たり前のことが、今は宝物みたいに感じる。
「じゃ、朝食のあとすぐ執務室へ行こう。団長、数字の話だと人見知りするから助けてあげてね」
「ひ、人見知り……?」
「うん、数字と新しい人にはね」
マリエルが笑うのにつられて、私も笑ってしまう。
朝食の大広間では、もう騎士たちがパンとシチューを食べながら談笑していた。「昨日の新人!」と声をかけられ、少し照れながらも挨拶する。名前を呼ばれるたび、胸の奥の何かが修復されていくのを感じる。
食後、マリエルと一緒に執務室へ向かう。分厚い扉をノックすると、低い声が返った。
「入れ」
昨日よりもわずかに柔らかい響き。扉を開けると、ライアンが机の上に地図を広げて待っていた。朝日を背に受けた大きな背中が、なんだか穏やかに見える。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。昨日の計算を見せてくれ」
ライアンは手招きして、私を机のそばに呼んだ。広げられているのは辺境全体の地図と、村々の備蓄状況を示すメモだ。昨日の数字がすでに反映されていて、赤や青の印がいくつも付いている。
「お前が出した補給案をもとに、周辺の部隊を再配置した。無駄な輸送が減る」
「ほんとですか……」
「ああ。だがまだ改善の余地がある。ここを見ろ」
指先が地図の一点をたどる。力強い大きな指だが、動きは繊細だった。彼の説明を聞きながら、私もノートを開く。新しい経路、村ごとの消費ペース、補給馬車の台数……計算が自然に頭の中で組みあがっていく。
「この道を使えば、往復一日短縮できます。ただし、途中に川があるので橋の補修が必要かも」
「なるほど。橋ならうちの隊で直せる。費用も計算してくれ」
「はい!」
返事をした自分の声が、昨日よりも力強いのに気づく。ライアンの目がほんの少しだけやわらぐのがわかった。
「……昨日の数字だけじゃなく、今日の判断も早いな」
「え?」
「やはり得意なんだろう。見ていて分かる」
褒められて、頬が一気に熱くなる。まっすぐに言われると逃げ場がない。けれど、嫌じゃない。むしろ心の奥がうれしさでいっぱいになる。
「数字のことを話しているとき、お前の目はすごく生きているな」
「え、そ、そんな……!」
動揺して俯いた私を見て、マリエルが後ろで吹き出した。
「団長、人の褒め方が直球すぎ!」
「事実を言っただけだ」
「それがねー、不器用すぎるんだってば」
軽くやりとりする二人を見て、なんだか笑いがこみ上げた。緊張していた心が、すっと溶けていく。
ライアンが再び私の方を見た。その目は真剣で、でも昨日よりずっとやわらかい。
「これからも頼む。お前がいてくれれば、辺境はもっと守れる」
「……はい。がんばります」
そのとき、心の奥で“信じてもらえた”という実感が確かに灯った。王都で否定され続けた私にとって、それは想像もできないくらい重い贈り物だった。
計画の続きを話し合いながら、ふと気づく。ライアンと並んで数字を見ている時間が、思った以上に楽しい。怖い人だと思っていたのに、今はその無骨さが不思議と心地よい。
ここに来てまだ数日なのに、世界の色がどんどん変わっていく。
今日もまた、新しい自分が一歩前へ進んでいく音が、胸の奥で響いていた。
午前の作業は、予想以上に熱中した。地図の上に補給経路を書き込み、必要な人数や馬車の数を割り出していく。昨日の私なら「できるかな」と不安で固まっていたかもしれないのに、今は自然と手が動く。横でライアンが短く質問を投げ、私が即座に答え、マリエルが笑いながら補足を入れる――そのやり取りが不思議と心地よい。
「この道を使えば村Aと村Bを同じ便で回れます。荷車は一台減らせますが、橋の重量制限が心配です」
「橋は騎士たちで補強できる。丸太と縄で十分だ」
「じゃあ三日後までに必要な丸太の本数も計算しておきます」
ペンを走らせると、ライアンの大きな影が静かにこちらを覗き込んでくる。あの視線は威圧ではなく、ただまっすぐ。背中を押してくれるような重さだ。
「……すごいな」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、思わず手が止まった。
「え?」
「俺が何時間もかかってまとめきれなかったものを、こうも簡単に整えてしまう」
「簡単じゃ、ないですけど……好きなんです。数字が並んでいくのが」
笑いながら言うと、ライアンの眉がほんの少しだけゆるんだ。
「好き、か。そういうのを才能って言うんだろうな」
「……才能」
その言葉が胸に落ちて、じんわりと温かさが広がった。誰かにそう言ってもらえたのは、人生で初めてかもしれない。王都では「便利屋」か「無能」かのどちらかしかなかった。
マリエルが後ろで肘をつきながら、にやにやしている。
「団長、珍しく褒めてるね」
「事実を言っているだけだ」
「その“事実”を滅多に言わないから、貴重なんだよ」
軽いやり取りに、思わず笑ってしまった。胸の奥がふわりと軽くなる。
しばらくして休憩をとることになり、マリエルが部屋を出ていった。残ったのは私とライアンだけ。急に空気が静まり、少し緊張する。
ライアンは窓際に立ち、外を眺めながら口を開いた。
「……王都では、どんな仕事をしていた?」
「え?」
「気になっていた。どうしてお前みたいな人材が“無能”などと言われたのか」
その低い声は、静かながらも不思議とあたたかい。私は一瞬ためらったが、正直に話してみようと思った。昨日からこの砦で得た安心感が、背中を押してくれる。
「王都では、書類整理や会議の資料づくり、数値のチェックをずっとしていました。でも……目立たない仕事だし、誰も褒めてはくれなくて。上司の“おまけ”みたいな扱いで召喚されたんです」
言葉を選びながら話すうち、少し喉がつまる。でもライアンは黙って聞いてくれている。
「召喚のあと、能力鑑定で“特別な力なし”と出たので……すぐ追い出されました」
「……そうか」
そのひと言に、怒りでも哀れみでもない、静かな共感の響きがあった。視線を上げると、ライアンの瞳がまっすぐこちらを見ている。
「愚かだな、王都は」
「え?」
「人を数字で測れぬくせに、“力がない”と決めつける。くだらん」
その言い方があまりに真っ直ぐで、胸の奥が熱くなる。昨日から何度も溶けていった冷たい石が、また一つ溶けた気がした。
「……ありがとうございます」
小さな声が自然と漏れた。目がじんとするのをこらえながら笑う。
「ここでは違う。お前の力は価値だ。遠慮するな」
「……はい」
その一言が、ただの励まし以上の重みをもって響いた。ここでは認められていいんだ、と初めて自分に許可が出せた気がした。
少し沈黙が続いたあと、ライアンが窓から目をそらし、机の上の地図を指さした。
「午後はここを詰める。補給路が整えば辺境全体が息をしやすくなる」
「はい、任せてください」
自然に言えた。昨日までの“もしできなかったら”という不安はもうほとんどない。
そのとき、外からマリエルの声が響いた。
「すみれちゃーん、午後のお茶持ってきたよー!」
バタバタと扉が開くと、空気が一気に明るくなる。
「二人とも真剣すぎ! 部屋がしんとしすぎて入るの怖かったよ」
「余計なお世話だ」
ライアンが短く返すが、少し頬がゆるんでいるのを私は見た。
マリエルがお茶を置きながら私を覗き込む。
「団長と二人きり、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫でした」
「そっか、良かった!」
マリエルがにこっと笑った瞬間、部屋の空気がすっと和らいだ。
私はカップを両手で包みながら思った。
――昨日までの自分だったら、この会話ひとつひとつに怯えていたかもしれない。
でも今は怖くない。むしろ心があたたかい。
この砦、この人たち、この居場所の中で、私は少しずつ変わっていける。
午後の光が窓から差し込み、机の上の地図を金色に照らしていた。
胸の中でまた小さな決意が芽吹く。
ここで数字を武器にして、人の役に立とう。
そしてもう一度、自分のことを誇れるようになろう。
午後、再び私たちは地図と帳簿の海に没頭した。さっきの休憩で頭がすっきりしたおかげか、数字が次々と頭に浮かび、線と線がつながっていく。必要な馬車の台数、途中の補給地点、各村の人口と消費ペース……。ライアンが淡々と指摘を挟み、私は即座に書き込み、マリエルが横から実地の経験で補足する。三人の声が重なって、ひとつの“形”が出来上がっていく感覚があった。
「ここ、補給地点をひとつ増やした方が安全です。距離が開きすぎています」
「馬が疲れにくいな。いい判断だ」
「ただ増やす分、薪と人員の計算が変わります」
「任せてください。……はい、これでバランスが取れます」
ペンを置いた瞬間、思わず息を吐いた。数字の羅列が、一本の“守りの道”として完成した瞬間だ。昨日までは不安だったのに、今日は誇らしさの方が勝っている。
ライアンがじっと私を見ていた。いつもの灰青の瞳が少しだけ和らぎ、口元がわずかに動く。
「……完璧だ」
「えっ」
「俺たちの補給路は、これで今年の冬を乗り切れる。お前の仕事だ」
心臓がどくんと跳ねた。完璧、なんて言葉を自分に向けてもらえる日が来るなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます……!」
声がかすれてしまう。けれどライアンはそのまま、少し目を細めて頷いた。
「王都が何を言おうと、俺はお前の力を認める」
その一言が胸の奥の暗闇を一気に吹き飛ばしていく。昨日までの「無能」という言葉が遠くに霞んでいった。
「……私、ここに来てよかったです」
思わず本音がこぼれる。自分でも驚くくらい自然に。
「そう思ってくれるなら、歓迎しよう。ここはお前の居場所だ」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなって、目の奥がかすかに滲んだ。泣くのは恥ずかしいから、慌てて俯いて笑った。
「泣いてる?」
マリエルの声がからかうように飛んできた。
「泣いてません!」
「うそー、目が潤んでる」
「う、うるさいです!」
笑い合う声が部屋に広がった。ほんの数日前までは信じられなかった空気だ。冷たい視線しか浴びたことがなかった私が、今は笑いながらからかわれている。それが、こんなに嬉しいなんて。
ひと仕事を終えると、日がゆっくりと傾き始めていた。窓の外ではオレンジ色の光が森を染め、空気が柔らかくなっている。マリエルが大きく伸びをしてから言った。
「今日はもうおしまい! ねぇ団長、今夜は祝杯でもどう?」
「祝杯……?」
「だって、すみれちゃんが初仕事で大手柄だもん。みんなでパンとシチューでお祝いしよ!」
ライアンが少し考えるように黙ったが、やがて小さく頷いた。
「いいだろう。俺からも礼を言わねばな」
「えっ……い、いいです、そんな」
「必要だ」
短い言葉に、不思議な力があった。胸がいっぱいになって、思わず笑顔がこぼれる。
その夜、食堂はいつもよりにぎやかだった。パンの香り、温かいシチューの湯気、笑い声があふれている。騎士たちが次々とグラスを掲げ、「新人!」「すみれ!」と声をかけてくれる。何度も「ありがとう」と言われるたび、心の奥があたたかくなる。
「ほら、団長もひとこと!」と誰かが声を上げた。
ライアンが少しだけ困ったように眉をひそめたが、やがて立ち上がった。食堂が一気に静かになる。
「……水野すみれ。短い間に大きな仕事をした。辺境にとって、お前の力はすでに欠かせない。これからも期待している」
短く、でも力のこもった言葉だった。拍手と歓声があがる中、胸がじんわりと温かく満たされていく。
「ありがとうございます!」
立ち上がって頭を下げた瞬間、涙がこみ上げてしまいそうだったけど、ぐっとこらえた。嬉しいから泣きそうなんて、久しぶりだ。
その後は、パンとシチューと笑い声でいっぱいの時間だった。マリエルが隣で「もううちの団の一員だね」と肩を叩き、ライアンは静かにグラスを傾けながら時々こちらを見ていた。目が合うたび、胸が温かくなる。
夜、部屋に戻ると、心地よい疲れがどっと押し寄せた。でも胸の中はずっと熱いままだった。ベッドに腰を下ろし、今日のことを思い返す。
――信じてもらえた。
――ここにいていいと言ってもらえた。
それだけで十分だった。もう「無能」なんて言葉は必要ない。
窓の外では星がまたたいている。どこかで夜警の声がして、安心感が胸を満たした。
私はゆっくりと目を閉じた。明日もこの場所で、胸を張って働ける――そう思うだけで、眠りが甘くやわらかいものに変わっていった。
窓を開けると、薄い朝靄の中で中庭が静かに動き始めている。鎧を身につける音、木剣の打ち合う音。これがこの砦の朝の音だともう知っている。昨日までの不安が薄くなっていて、胸がすこし軽い。
「起きてる?」
ノックのあと、マリエルの声がした。
「はい」
扉を開けると、彼女がすでに鎧の半分を身につけた姿で立っていた。朝からきびきびしていて、相変わらず頼もしい。
「団長から伝言。午前中、補給計画の最終確認を一緒にしてくれって。たぶん、昨日の計算が思った以上に役立ったんだよ」
「えっ、もうですか?」
「もう、というか“さっそく”って感じだね。ほら、昨日の村の件、団の中でも話題になってるから」
胸がじわりと熱くなった。昨日の小さな計算が、砦の誰かの役に立っている。そんな当たり前のことが、今は宝物みたいに感じる。
「じゃ、朝食のあとすぐ執務室へ行こう。団長、数字の話だと人見知りするから助けてあげてね」
「ひ、人見知り……?」
「うん、数字と新しい人にはね」
マリエルが笑うのにつられて、私も笑ってしまう。
朝食の大広間では、もう騎士たちがパンとシチューを食べながら談笑していた。「昨日の新人!」と声をかけられ、少し照れながらも挨拶する。名前を呼ばれるたび、胸の奥の何かが修復されていくのを感じる。
食後、マリエルと一緒に執務室へ向かう。分厚い扉をノックすると、低い声が返った。
「入れ」
昨日よりもわずかに柔らかい響き。扉を開けると、ライアンが机の上に地図を広げて待っていた。朝日を背に受けた大きな背中が、なんだか穏やかに見える。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。昨日の計算を見せてくれ」
ライアンは手招きして、私を机のそばに呼んだ。広げられているのは辺境全体の地図と、村々の備蓄状況を示すメモだ。昨日の数字がすでに反映されていて、赤や青の印がいくつも付いている。
「お前が出した補給案をもとに、周辺の部隊を再配置した。無駄な輸送が減る」
「ほんとですか……」
「ああ。だがまだ改善の余地がある。ここを見ろ」
指先が地図の一点をたどる。力強い大きな指だが、動きは繊細だった。彼の説明を聞きながら、私もノートを開く。新しい経路、村ごとの消費ペース、補給馬車の台数……計算が自然に頭の中で組みあがっていく。
「この道を使えば、往復一日短縮できます。ただし、途中に川があるので橋の補修が必要かも」
「なるほど。橋ならうちの隊で直せる。費用も計算してくれ」
「はい!」
返事をした自分の声が、昨日よりも力強いのに気づく。ライアンの目がほんの少しだけやわらぐのがわかった。
「……昨日の数字だけじゃなく、今日の判断も早いな」
「え?」
「やはり得意なんだろう。見ていて分かる」
褒められて、頬が一気に熱くなる。まっすぐに言われると逃げ場がない。けれど、嫌じゃない。むしろ心の奥がうれしさでいっぱいになる。
「数字のことを話しているとき、お前の目はすごく生きているな」
「え、そ、そんな……!」
動揺して俯いた私を見て、マリエルが後ろで吹き出した。
「団長、人の褒め方が直球すぎ!」
「事実を言っただけだ」
「それがねー、不器用すぎるんだってば」
軽くやりとりする二人を見て、なんだか笑いがこみ上げた。緊張していた心が、すっと溶けていく。
ライアンが再び私の方を見た。その目は真剣で、でも昨日よりずっとやわらかい。
「これからも頼む。お前がいてくれれば、辺境はもっと守れる」
「……はい。がんばります」
そのとき、心の奥で“信じてもらえた”という実感が確かに灯った。王都で否定され続けた私にとって、それは想像もできないくらい重い贈り物だった。
計画の続きを話し合いながら、ふと気づく。ライアンと並んで数字を見ている時間が、思った以上に楽しい。怖い人だと思っていたのに、今はその無骨さが不思議と心地よい。
ここに来てまだ数日なのに、世界の色がどんどん変わっていく。
今日もまた、新しい自分が一歩前へ進んでいく音が、胸の奥で響いていた。
午前の作業は、予想以上に熱中した。地図の上に補給経路を書き込み、必要な人数や馬車の数を割り出していく。昨日の私なら「できるかな」と不安で固まっていたかもしれないのに、今は自然と手が動く。横でライアンが短く質問を投げ、私が即座に答え、マリエルが笑いながら補足を入れる――そのやり取りが不思議と心地よい。
「この道を使えば村Aと村Bを同じ便で回れます。荷車は一台減らせますが、橋の重量制限が心配です」
「橋は騎士たちで補強できる。丸太と縄で十分だ」
「じゃあ三日後までに必要な丸太の本数も計算しておきます」
ペンを走らせると、ライアンの大きな影が静かにこちらを覗き込んでくる。あの視線は威圧ではなく、ただまっすぐ。背中を押してくれるような重さだ。
「……すごいな」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、思わず手が止まった。
「え?」
「俺が何時間もかかってまとめきれなかったものを、こうも簡単に整えてしまう」
「簡単じゃ、ないですけど……好きなんです。数字が並んでいくのが」
笑いながら言うと、ライアンの眉がほんの少しだけゆるんだ。
「好き、か。そういうのを才能って言うんだろうな」
「……才能」
その言葉が胸に落ちて、じんわりと温かさが広がった。誰かにそう言ってもらえたのは、人生で初めてかもしれない。王都では「便利屋」か「無能」かのどちらかしかなかった。
マリエルが後ろで肘をつきながら、にやにやしている。
「団長、珍しく褒めてるね」
「事実を言っているだけだ」
「その“事実”を滅多に言わないから、貴重なんだよ」
軽いやり取りに、思わず笑ってしまった。胸の奥がふわりと軽くなる。
しばらくして休憩をとることになり、マリエルが部屋を出ていった。残ったのは私とライアンだけ。急に空気が静まり、少し緊張する。
ライアンは窓際に立ち、外を眺めながら口を開いた。
「……王都では、どんな仕事をしていた?」
「え?」
「気になっていた。どうしてお前みたいな人材が“無能”などと言われたのか」
その低い声は、静かながらも不思議とあたたかい。私は一瞬ためらったが、正直に話してみようと思った。昨日からこの砦で得た安心感が、背中を押してくれる。
「王都では、書類整理や会議の資料づくり、数値のチェックをずっとしていました。でも……目立たない仕事だし、誰も褒めてはくれなくて。上司の“おまけ”みたいな扱いで召喚されたんです」
言葉を選びながら話すうち、少し喉がつまる。でもライアンは黙って聞いてくれている。
「召喚のあと、能力鑑定で“特別な力なし”と出たので……すぐ追い出されました」
「……そうか」
そのひと言に、怒りでも哀れみでもない、静かな共感の響きがあった。視線を上げると、ライアンの瞳がまっすぐこちらを見ている。
「愚かだな、王都は」
「え?」
「人を数字で測れぬくせに、“力がない”と決めつける。くだらん」
その言い方があまりに真っ直ぐで、胸の奥が熱くなる。昨日から何度も溶けていった冷たい石が、また一つ溶けた気がした。
「……ありがとうございます」
小さな声が自然と漏れた。目がじんとするのをこらえながら笑う。
「ここでは違う。お前の力は価値だ。遠慮するな」
「……はい」
その一言が、ただの励まし以上の重みをもって響いた。ここでは認められていいんだ、と初めて自分に許可が出せた気がした。
少し沈黙が続いたあと、ライアンが窓から目をそらし、机の上の地図を指さした。
「午後はここを詰める。補給路が整えば辺境全体が息をしやすくなる」
「はい、任せてください」
自然に言えた。昨日までの“もしできなかったら”という不安はもうほとんどない。
そのとき、外からマリエルの声が響いた。
「すみれちゃーん、午後のお茶持ってきたよー!」
バタバタと扉が開くと、空気が一気に明るくなる。
「二人とも真剣すぎ! 部屋がしんとしすぎて入るの怖かったよ」
「余計なお世話だ」
ライアンが短く返すが、少し頬がゆるんでいるのを私は見た。
マリエルがお茶を置きながら私を覗き込む。
「団長と二人きり、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫でした」
「そっか、良かった!」
マリエルがにこっと笑った瞬間、部屋の空気がすっと和らいだ。
私はカップを両手で包みながら思った。
――昨日までの自分だったら、この会話ひとつひとつに怯えていたかもしれない。
でも今は怖くない。むしろ心があたたかい。
この砦、この人たち、この居場所の中で、私は少しずつ変わっていける。
午後の光が窓から差し込み、机の上の地図を金色に照らしていた。
胸の中でまた小さな決意が芽吹く。
ここで数字を武器にして、人の役に立とう。
そしてもう一度、自分のことを誇れるようになろう。
午後、再び私たちは地図と帳簿の海に没頭した。さっきの休憩で頭がすっきりしたおかげか、数字が次々と頭に浮かび、線と線がつながっていく。必要な馬車の台数、途中の補給地点、各村の人口と消費ペース……。ライアンが淡々と指摘を挟み、私は即座に書き込み、マリエルが横から実地の経験で補足する。三人の声が重なって、ひとつの“形”が出来上がっていく感覚があった。
「ここ、補給地点をひとつ増やした方が安全です。距離が開きすぎています」
「馬が疲れにくいな。いい判断だ」
「ただ増やす分、薪と人員の計算が変わります」
「任せてください。……はい、これでバランスが取れます」
ペンを置いた瞬間、思わず息を吐いた。数字の羅列が、一本の“守りの道”として完成した瞬間だ。昨日までは不安だったのに、今日は誇らしさの方が勝っている。
ライアンがじっと私を見ていた。いつもの灰青の瞳が少しだけ和らぎ、口元がわずかに動く。
「……完璧だ」
「えっ」
「俺たちの補給路は、これで今年の冬を乗り切れる。お前の仕事だ」
心臓がどくんと跳ねた。完璧、なんて言葉を自分に向けてもらえる日が来るなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます……!」
声がかすれてしまう。けれどライアンはそのまま、少し目を細めて頷いた。
「王都が何を言おうと、俺はお前の力を認める」
その一言が胸の奥の暗闇を一気に吹き飛ばしていく。昨日までの「無能」という言葉が遠くに霞んでいった。
「……私、ここに来てよかったです」
思わず本音がこぼれる。自分でも驚くくらい自然に。
「そう思ってくれるなら、歓迎しよう。ここはお前の居場所だ」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなって、目の奥がかすかに滲んだ。泣くのは恥ずかしいから、慌てて俯いて笑った。
「泣いてる?」
マリエルの声がからかうように飛んできた。
「泣いてません!」
「うそー、目が潤んでる」
「う、うるさいです!」
笑い合う声が部屋に広がった。ほんの数日前までは信じられなかった空気だ。冷たい視線しか浴びたことがなかった私が、今は笑いながらからかわれている。それが、こんなに嬉しいなんて。
ひと仕事を終えると、日がゆっくりと傾き始めていた。窓の外ではオレンジ色の光が森を染め、空気が柔らかくなっている。マリエルが大きく伸びをしてから言った。
「今日はもうおしまい! ねぇ団長、今夜は祝杯でもどう?」
「祝杯……?」
「だって、すみれちゃんが初仕事で大手柄だもん。みんなでパンとシチューでお祝いしよ!」
ライアンが少し考えるように黙ったが、やがて小さく頷いた。
「いいだろう。俺からも礼を言わねばな」
「えっ……い、いいです、そんな」
「必要だ」
短い言葉に、不思議な力があった。胸がいっぱいになって、思わず笑顔がこぼれる。
その夜、食堂はいつもよりにぎやかだった。パンの香り、温かいシチューの湯気、笑い声があふれている。騎士たちが次々とグラスを掲げ、「新人!」「すみれ!」と声をかけてくれる。何度も「ありがとう」と言われるたび、心の奥があたたかくなる。
「ほら、団長もひとこと!」と誰かが声を上げた。
ライアンが少しだけ困ったように眉をひそめたが、やがて立ち上がった。食堂が一気に静かになる。
「……水野すみれ。短い間に大きな仕事をした。辺境にとって、お前の力はすでに欠かせない。これからも期待している」
短く、でも力のこもった言葉だった。拍手と歓声があがる中、胸がじんわりと温かく満たされていく。
「ありがとうございます!」
立ち上がって頭を下げた瞬間、涙がこみ上げてしまいそうだったけど、ぐっとこらえた。嬉しいから泣きそうなんて、久しぶりだ。
その後は、パンとシチューと笑い声でいっぱいの時間だった。マリエルが隣で「もううちの団の一員だね」と肩を叩き、ライアンは静かにグラスを傾けながら時々こちらを見ていた。目が合うたび、胸が温かくなる。
夜、部屋に戻ると、心地よい疲れがどっと押し寄せた。でも胸の中はずっと熱いままだった。ベッドに腰を下ろし、今日のことを思い返す。
――信じてもらえた。
――ここにいていいと言ってもらえた。
それだけで十分だった。もう「無能」なんて言葉は必要ない。
窓の外では星がまたたいている。どこかで夜警の声がして、安心感が胸を満たした。
私はゆっくりと目を閉じた。明日もこの場所で、胸を張って働ける――そう思うだけで、眠りが甘くやわらかいものに変わっていった。
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後半ざまぁ。
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北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
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ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
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