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第9話 砦の小さな騒動と守られる私
翌朝、いつもより早く目が覚めた。休日の余韻がまだ胸の奥に残っていて、なんだか気持ちが軽い。机の上には昨日の戦利品――銀色の葉の栞が光を反射している。あれを見ていると、自然と背筋が伸びた。
窓の外からは早朝の砦の音が聞こえてくる。剣を打つ乾いた音、騎士たちの掛け声、馬のいななき。昨日の市場のにぎやかさとはまた違う、力強い朝の音。
身支度をして食堂へ向かうと、すでにパンとスープの香りが漂っていた。マリエルが先に座ってパンを頬張っている。
「おはよー、すみれちゃん! 昨日はよく眠れた?」
「はい。楽しくて、ぐっすりでした」
「よかった。団長も昨日は機嫌良さそうだったしね~」
「そ、そうなんですか?」
「うん。市場から帰ってきたあと、珍しく声かけてきたよ。“あの市の警備を増やしておけ”とか言ってさ。たぶん君が安心して行けるようにだよ」
心臓がきゅっとなる。そんなことまで考えてくれていたのかと思うと、胸があたたかくなった。
そこへちょうどライアンが入ってきた。鎧ではなく動きやすい服で、腰には剣が一本だけ。目が合うと一瞬だけ微かにうなずく。そのさりげなさが胸をじんわりさせた。
「おはようございます、団長」
「ああ。……今日は倉庫の在庫確認を手伝ってほしい」
「はい!」
自然に返事が出た。もう声が震えない自分に気づく。
朝食を終えると、ライアンとマリエル、そして数名の騎士たちと一緒に倉庫へ向かった。重厚な扉を開けると、ひんやりとした空気とともに木箱や麻袋の匂いが広がる。干し肉、乾燥野菜、油、武具の部品――砦の命綱が詰まった場所だ。
「ここの数字を昨日の補給計画と照合したい。今後の備蓄と消費計算に使う」
「分かりました」
私はすぐノートを開き、騎士たちが箱を動かすのを手伝いながら内容を確認していった。人数が多いから作業が早い。数字を書き込み、足りないものを赤でチェックしていくと、仕事のリズムが身体に馴染んでいく。
ところが、奥の棚にたどり着いた時、不意に甲高い鳴き声が響いた。
「ひっ……!」
小さな影が袋の隙間から飛び出した。灰色の毛玉――野生の小動物かと思ったが、次の瞬間、長い尻尾と赤い目が見えて凍りつく。
「魔鼠だ、下がれ!」
ライアンの声が鋭く響いた。次の瞬間、私の腕がぐいと引かれ、力強い胸に引き寄せられた。剣が一閃し、空気を裂く金属音が響く。
ほんの数秒で、魔鼠は床に転がった。小さな体なのに、赤い目がまだぎらぎらと光っている。毒を持っていると聞いたことがある。息が一気に荒くなった。
「大丈夫か」
頭のすぐ上から低い声。見上げると、ライアンの顔がすぐそこにあった。灰青の瞳が鋭さを残したまま、でも心配そうに揺れている。
「は、はい……!」
「傷は?」
「ありません!」
そう答えた瞬間、腕の力が少しだけ緩む。けれど彼はまだ私をかばうように前に立っていた。
「……危なかったな」
その声が思ったよりも優しくて、胸がじんとする。マリエルが駆け寄ってきた。
「大丈夫!? すみれちゃん、怖かったでしょ」
「だ、大丈夫……びっくりしましたけど」
「まったく、倉庫に潜り込むなんて。団長がいて良かったよ」
マリエルの言葉に、改めて実感が押し寄せる。さっきの一瞬、背中に回ってきた腕の力強さと温かさがまだ残っている。
ライアンは死んだ魔鼠を一瞥してから低く指示を出した。
「後で掃除班を呼んで消毒しろ。侵入経路も調べろ。……水野はもう奥に入るな。危険が残っている」
「は、はい」
普段より厳しい声だったが、そこに含まれているのは冷たさではなく、はっきりとした保護の意志だった。胸が少し震えて、でも安心で満たされる。
マリエルが私の肩を叩いてくれる。
「平気? 団長がそばにいると怖いものなしだね」
「う、うん……びっくりしたけど、平気」
「偉い偉い」
笑いながらも心配そうな目をしてくれるのが、なんだかうれしい。砦の人たちは本当に温かい。
ライアンが私を一度だけ見て、短く言った。
「怪我がなくてよかった。……気をつけろ」
その一言が、また心の奥を震わせた。怖かったはずなのに、今はただ、守られたという実感の方が強い。
腕を離されたあとも、背中がほんのり温かいまま。私の心は、不安よりもむしろ安堵と嬉しさでいっぱいになっていた。
――こんなふうに、誰かに守られるのは初めてかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥にかすかなざわめきが走った。怖さとは違う、もっとやさしくて不思議なざわめき。
私はそれをごまかすように深呼吸して、再びノートを開いた。
「つづきを……します」
「無理するな」
「大丈夫です。まだ手は震えてませんから」
思わず笑って言うと、ライアンがほんの一瞬だけ眉をゆるめた。その目に浮かんだ小さな安堵が、私の中の恐怖を完全に消してくれる。
砦の朝は、今日も確かに続いている。怖いことがあっても、ここには守ってくれる人がいる。
それが、私の世界をまた少し広げてくれた気がした。
・
倉庫での作業は、魔鼠の一件で一度中断した。騎士たちがすぐさま周囲を調べ、侵入経路を塞ぐ作業を始める。私は端の安全な場所に座らされ、ライアンがまだ警戒を解かずに立っていた。壁際の光の中で、剣先から滴る魔鼠の血を丁寧に拭っている姿は、まるで教本の挿絵のように凛々しい。
「……怖かったか」
不意に声をかけられ、はっとする。ライアンがこちらを見ていた。灰青の瞳はいつもの冷たさが消えて、どこか不器用な優しさを宿している。
「少し。でも……団長がすぐに守ってくれたから、大丈夫です」
「そうか」
ほんの一言なのに、空気がやわらかくなる。彼の“そうか”は、安堵と同じ重さを持っている。
「魔鼠は小さくても毒がある。皮膚をかすめただけでも危ない。無理に奥へ入るな」
「はい、気をつけます」
うなずくと、ライアンはわずかに眉を緩めた。ふっと息をつく音が聞こえる。その一瞬の微かな変化が、胸に温かく染み込んだ。
マリエルが笑いながら近づいてきた。
「いや~、団長の素早さは相変わらずだね。目にもとまらぬ抜刀!」
「必要なだけだ」
「でもすごかったよね、すみれちゃん?」
「はい、あっという間で……」
言いながら頬が赤くなるのを感じた。守られた瞬間の記憶が鮮明すぎて、心臓がまだ少し早く打っている。
「やっぱり団長がそばにいると安心だよね~」
「マリエル、からかうな」
「からかってないよ、事実でしょ?」
マリエルの軽口に、ライアンが小さくため息をつく。その光景がなんだかほほえましくて、私も思わず笑ってしまった。
やがて倉庫の安全が確認されると、再び作業を再開することになった。ただし、ライアンの判断で奥の危険区域は封鎖された。私は入り口近くの机で数字をまとめる役に徹することに。
物資の量と消費ペースを計算していくと、さっきまでの恐怖が徐々に薄れていく。ペンを走らせるうちに、頭の中にある“私の役割”が再び輪郭を取り戻していった。
「団長、これを見てください。食料は安全確認済みの部分だけでこれだけあります。昨日までの計画に加えると、あと十五日分は余裕が出ます」
「……早いな」
ライアンが資料を受け取り、目を通している。横顔は真剣で、さっきまでの険しさが影をひそめている。
「助かる。お前がいなければ今日の作業はもっと混乱していた」
「いえ……でも、ありがとうございます」
自然にお礼が出るようになっている自分に気づく。王都にいたころは、こういう対話すらぎこちなかったのに。
マリエルが後ろからひょいと覗き込む。
「おー、やっぱり早い! これ団の中でも噂になってるよ。新入りが数字の魔法使いだって」
「魔法使いなんて」
「いやほんとだって。団長が昨日からずっと表情違うもん」
「……余計なことを言うな」
ライアンの低い声が飛ぶが、怒っているというより、むしろ居心地悪そうだ。私までつい笑ってしまった。
午前の作業を終えるころには、倉庫の空気も落ち着いていた。危険は去り、数字の整った表が新しく積み上がっていく。ペンを置いたとき、達成感と安堵が同時に胸に広がった。
帰り際、ライアンが私の横に立った。
「……さっきは怖い思いをさせたな」
「いえ。団長がすぐに守ってくれたから」
「それでも、危険には変わりない。すまなかった」
意外なほど静かで、誠実な謝罪の声。胸の奥がじんと熱くなった。
「団長のせいじゃありません。私が不注意でした」
「いや、俺の責任でもある。次は必ず安全を確かめる」
そのまっすぐな言葉に、胸がきゅっとなる。こんなふうに守られるのは初めてだ。私は小さく息を吸い込んで微笑んだ。
「ありがとうございます」
ライアンは一瞬だけ目を細めた。たぶん、それは微笑みのかわりなのだと思う。
外へ出ると、昼の光がまぶしかった。森から吹く風がひんやりとして、頬をなでる。怖さよりも、あたたかさの方がずっと強い。あの瞬間、背中を覆ってくれた腕の重みを思い出しながら、胸の奥が不思議と静かに高鳴っていた。
この砦で働くことは、安全な書庫の中だけじゃない。危険もある。けれど――守ってくれる人がいる。それがどれほど心を強くするのか、私は初めて知った。
きっとこの気持ちは、数字だけでは測れない。けれど私の世界をまた一歩広げるものだと、直感していた。
・
午後になっても、胸の奥のざわめきはまだ消えていなかった。怖さというより、あの瞬間の感触――強く引き寄せられた腕の力、すぐ頭上から響いた低い声――それが心の中に残っている。ペンを持つ手を見つめながら、私はそっと小さく息をついた。
「すみれ、大丈夫か」
不意にかけられた声に顔を上げると、ライアンがすぐそばに立っていた。午前中よりも表情がやわらかい。灰青の瞳の奥に、まだ心配が残っている。
「はい。もう大丈夫です」
「……そうか」
彼はほんの一瞬うなずいて、作業中の帳簿に目を落とした。だが視線の端はまだ私の手元を気にかけている。数字を追うその横顔を見ていると、胸がまた温かくなった。
「団長って、こういうときすぐ駆けつけてくれるんですね」
「当然だ」
短いけれど迷いのない声。少し笑いそうになったが、胸がじんわりと満ちていく。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。俺の仕事だ」
ぶっきらぼうな言い方なのに、言葉の奥に確かな安心があった。私はこっそり笑ってうつむいた。
そこへマリエルが現れ、空気をぱっと明るくした。
「お疲れさま! 危ない目に遭ったんだから、今日は早めに切り上げようよ。ね、団長?」
「そうだな」
ライアンが珍しくあっさり同意する。マリエルがわざと大げさに目を丸くした。
「わー、団長が素直に引き下がった!」
「からかうな」
やり取りに、私まで思わず笑ってしまう。笑いが出たことで、体の中に残っていた緊張がすーっとほどけていくのを感じた。
倉庫を出るころ、夕方の光が柔らかく差し込んでいた。中庭を抜けて帰る途中、マリエルが小声でささやく。
「すみれちゃん、ほんと顔色よくなった。朝のびっくり顔と別人みたい」
「そんなにひどかったですか」
「いや、そりゃああんなの初めてだし。けど団長が守ってくれた瞬間、すっごい安心した顔してたよ」
「えっ……!」
「うふふ。団長もね、めちゃくちゃ早かった。あんなスピード見たことないもん」
頬がじんと熱くなる。そんなに心配してくれたのだろうか。マリエルが満足げに笑って、前を歩く背中を指差した。
「ま、あの人ほんと不器用だけどさ。信用して大丈夫」
「……はい」
自然に笑みがこぼれた。
自室に戻ると、机の上で銀色の葉の栞が光っていた。昨日もらったものを、またそっと手に取る。迷わないためのお守り。今日のことを思い出すと、さらに意味が深くなった気がした。
窓を開けると、夕暮れの風が優しく頬を撫でていった。砦の中ではまだ笑い声が響き、訓練を終えた騎士たちが談笑しているのが見える。昨日までは遠く感じていた光景が、今は確かに自分のいる世界だ。
ノートを開き、今日のことを記す。
――倉庫で魔鼠に遭遇。
――団長が守ってくれた。
――怖かったけど、すぐに安心できた。
――この場所で守られていると感じた。
ペン先が止まる。胸の奥がじんわり熱くなり、思わず笑みがこぼれた。
「守られるって、こんなに温かいんだ……」
小さくつぶやく。王都で感じた孤独は、もう遠い過去のようだ。
ドアをノックする音がした。びくりとしつつ立ち上がると、ライアンが立っていた。影になった廊下の光の中、彼は少しだけ気まずそうに見える。
「……様子を見にきた」
「だ、大丈夫です。もう元気になりました」
「そうか」
短くうなずいたあと、ライアンは少し目をそらした。
「危険があったとき、俺がそばにいる。覚えておけ」
「……はい」
胸の奥が、じん、と温かくなった。私の安全を当然のように口にするその人が、とてもまぶしく見えた。
「それと」
「はい?」
「明日も無理はするな。疲れが残っているかもしれん」
優しいのに、どこか不器用な声。思わず笑いながら頭を下げた。
「はい。気をつけます。団長、ありがとうございます」
その瞬間、ライアンの口元がほんの少しだけ、わずかに上がった。すぐに背を向けたけれど、私は確かに見た。
扉を閉めてから、胸の奥がぽうっとあたたかくなったまま動かない。昨日までは想像もできなかった安心が、心の中に静かに根を張っている。
ベッドに横になると、今日の恐怖もいつのまにか優しいものに変わっていた。守られることの重さと、誰かを信じてもいいという感覚が、胸の中でそっと灯りをともしている。
迷わないようにと渡された栞を握りしめながら、私は小さく笑った。
——もう、私はひとりじゃない。
その確信が、夜の静けさと一緒にやさしく私を包みこんだ。
・
第10話 “仲間”として迎えられる日
翌朝、砦の空気はひんやりしていて澄んでいた。昨日の騒動がまるで遠い夢のように感じられるくらい、目覚めた私の心は落ち着いている。けれど窓の外から聞こえる騎士たちの掛け声や馬のいななきが、妙に近く感じるのは昨日の出来事のおかげかもしれない。守られるという感覚が、胸の奥に根を張っているのをはっきり感じた。
身支度を整えて食堂へ向かうと、すでに騎士たちが朝食をとっていた。扉を開けた瞬間、数人がこちらを振り向いて手を振ってくれる。
「おはよう、すみれ!」
「昨日は大変だったな!」
「大丈夫か?」
驚きつつも笑顔でうなずく。
「はい、もう元気です。ありがとうございます」
昨日の恐怖を気遣ってくれる声がこんなに温かいとは思わなかった。王都では、怖いことがあっても誰も心配なんてしてくれなかったのに。胸がじんと熱くなる。
食堂の奥ではマリエルが大きく手を振っていた。いつも通りの元気さが安心させてくれる。
「おはよう、すみれちゃん! もう大丈夫そうだね」
「はい。昨日はありがとうございました」
「いやいや、団長のおかげでしょ。ほんとすごかったね~」
「……うん、すごかったです」
言葉にすると、また昨日の腕の温もりがよみがえって、顔が熱くなる。マリエルはすぐに察したのか、にやりと笑った。
「ふーん……」
「な、なんですかその顔!」
「なんでもない~」
軽く流されてしまい、余計に心臓がうるさくなる。そこへ低い声が背後から響いた。
「朝から騒がしいな」
振り返ると、ライアンが立っていた。鎧姿で、剣を腰に下げている。灰青の瞳が私を一瞬だけ見て、微かにうなずいた。
「……顔色はいいな」
「はい。ご心配をおかけしました」
「それで済むならいい」
短いやり取りなのに、胸の奥がほんのりあたたかい。心配してくれているのがわかるから、余計に。
朝食のあと、マリエルと一緒に書庫へ行くと、思いがけず騎士たちが集まっていた。私の机の上に、花のようなものが置かれている。野に咲く小さな黄色い花を束ねた簡素な花束だった。
「これ……?」
「昨日の礼だってさ」マリエルが笑顔で教えてくれる。「倉庫の安全確保が早く終わったの、すみれちゃんが数字まとめてくれたおかげだからって」
「えっ……」
胸が一気に熱くなった。こんなふうに感謝を形にしてもらえるなんて、王都では一度もなかった。
「みんな、ありがとう……!」
声が少し震えてしまう。それを聞いていた騎士たちが、にやりと笑いながら口々に言う。
「いやいや、こっちこそ助かったよ」
「新入りなのに度胸あるな」
「団長に守られてたけどなー!」
「おい」ライアンの低い声が飛び、場が一瞬静まったあと笑いが弾けた。
笑いに包まれる中で、私の胸はぽかぽかと温かく満たされていく。怖い経験があったはずなのに、今日のこの空気の方がずっと大きい。私がこの場所で「仲間」になれた気がした。
そのときライアンが静かに近づいてきた。花束を見て、ほんのわずか目を細める。
「よかったな」
「はい……すごく、うれしいです」
「お前がこの砦に来てくれて助かっているのは事実だ。これからも頼む」
まっすぐな灰青の瞳に射抜かれると、胸が熱くなって言葉が詰まる。けれどなんとか笑ってうなずいた。
「はい。がんばります」
短い会話なのに、力が湧く。不安だった頃の自分が遠くに霞んでいく。
マリエルが横から肩をたたいた。
「よしよし、これでほんとの仲間入りだね!」
「えっ、仲間入り……」
「うん。だってもう、団長が正式に“頼む”って言ったし」
「それは別に——」
ライアンが言いかけて止めた。その表情が、ほんのわずかに柔らかい笑みに変わっていく。普段なら絶対に見せない表情で、心臓がまた跳ねた。
この瞬間、昨日の恐怖が“ここに生きている証”へ変わっていく。守られて、信じられて、そして今、仲間と呼ばれている。
それは数字では測れないけれど、何より確かな実感だった。
窓の外では柔らかな朝日が砦を照らし、今日の始まりを告げている。
私は花束を胸に抱きしめた。
この砦が私の居場所になっていく音が、またひとつ心に響いた。
・
午前の仕事は、まるで新しい空気の中で始まった。帳簿を開いていると、騎士たちが当たり前のように声をかけてくる。
「すみれ、この備品の記録ここで合ってるか?」
「すまん、この木材の使用予定、あとで計算してくれ」
“すみれ”と呼ばれるたびに、胸の奥で何かがじんとあたたかくなる。王都では名前を呼ばれることすら少なかった。今はこの音が当たり前のように飛んでくる。
隣ではマリエルがいつもの調子でメモを取りながら、私の肩を小突いた。
「ね、もう完全にうちの一員って感じじゃん」
「そ、そんなことないですよ」
「いやいや、団長も含めてみんな頼りにしてるよ。昨日の件で一気に信用ゲットだもん」
思わず笑ってしまう。怖い体験だったはずなのに、いまはその後ろに“信頼”が残っている。不思議な感覚だ。
昼近くになったころ、扉が開き、ライアンが現れた。灰青の瞳が書庫をひとわたり見渡したあと、私の机へとまっすぐに向かってくる。
「この補給計画を最終確認したい。手が空いたか」
「はい。もう少しで終わります」
「では来い」
短い言葉の中に、信頼がにじむのがわかる。私が立ち上がると、周囲の騎士たちがにやりと笑う。
「すみれ、団長の秘書みたいだな」
「おまえら、茶化すな」
ライアンが一瞥すると一同が慌てて黙る。その空気がちょっと可笑しくて、笑いをこらえた。
執務室に入ると、机の上には新しい地図と帳票が広がっていた。昨日までの作業の続きらしい。私は資料を受け取りながら頭の中で素早く計算を組み立てる。
「昨日の数字をもとに、今週中に必要な輸送回数は……三回。最初の二回を馬車二台、最終便は一台で足りそうです」
「ふむ。天候が悪くなった場合は?」
「三便目を予備にして、二便目に余剰を積みます。補強した橋が持つか確認が必要ですけど」
「なるほど。さすがだ」
ライアンの低い声に、胸が熱くなる。褒められることにまだ慣れていないけれど、嬉しさの方が勝つ。
「村の防寒具の不足も同時に補給するべきです。馬車の積載を冬用に換算したら——」
「助かる。その発想はなかった」
真剣な顔でうなずくライアンを見ていると、不思議な気持ちになる。無能と決めつけられていた自分の知識が、今は必要とされている。こんな日が来るなんて、少し前の自分には想像できなかった。
「……ほんと、頼りにしてる」
ライアンの声がふと、いつもより静かに響いた。視線がまっすぐに私を射抜く。胸がどきんと跳ねた。
「あ、ありがとうございます。私も……力になれてうれしいです」
「お前が来てから、この砦は変わり始めている」
「え?」
「数字が整うと、人も動きやすくなる。守りやすくなる。昨日の件でもはっきりした。お前がいると俺たちは強くなれる」
言葉の重みが心にじんわり染み渡った。王都では誰にもそんなふうに言ってもらえなかった。胸が熱くなって、少しだけ目が潤む。
「……がんばります」
「うむ」
ライアンはそれ以上何も言わなかったが、目の奥がほんの少しやわらいでいるのを感じた。沈黙なのに安心する、不思議な空気。
その後、細かい計算を一緒に詰めていった。仕事をしながらも、心は軽い。昨日までの恐怖を、今日の“信頼”がゆっくりと塗り替えてくれているのを感じる。
やがて窓から差し込む光がやわらかくなり、昼休みの時間が近づいた。マリエルがノックして顔をのぞかせる。
「お昼行こう! 二人とも真剣にやりすぎ!」
「仕事の区切りがいいところまでだ」
「もう十分でしょ~」
マリエルの明るさに場がふっとやわらぐ。ライアンがしぶしぶ立ち上がった。
「行くか」
「はい!」
執務室を出た瞬間、心がふわりと軽くなった。隣を歩く大きな背中が、昨日よりずっと近く感じる。
私はそっと胸の奥で言葉をつぶやく。
――私は、もう仲間だ。
昨日までの孤独は、静かに過去になっていく。ここで、生きていける気がした。
・
食堂に入ると、すでに昼のざわめきが広がっていた。パンの香りと温かいシチューの湯気が空気を満たしている。私とライアンが並んで入った瞬間、数人の騎士がにやりと笑ってこちらを見た。
「お、団長とすみれが一緒に来たぞ」
「秘書兼右腕ってやつか?」
「やめろ」
ライアンの低い声に笑いが弾ける。からかわれても嫌な感じがしない。むしろ心が少しずつほぐれていく。
マリエルが空いている席を見つけ、手を振った。
「こっちこっち!」
私たちは並んで腰を下ろす。木のテーブルは温もりがあって、昨日の恐怖がうそのように遠くなった。
「はい、シチューどうぞ!」
マリエルが大きな器を私の前に置いてくれる。立ち上る湯気に心まで温まるようだ。
「ありがとう、マリエルさん」
「もう“さん”いらないってば。マリエルでいいよ」
「……じゃあ、マリエル。ありがとう」
自然に呼べたことがうれしくて、思わず笑ってしまう。マリエルも目を細めて笑った。
「ほら、もう仲間だ」
「うん……そうかもしれない」
呟いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。昨日まではこんな簡単なことすら怖かったのに。
ライアンは黙ってパンをちぎっていたが、ふとこちらを見た。
「名前を呼び合うのはいいことだ。団も少しずつお前を受け入れている」
「……ありがとうございます」
「礼は必要ない。お前の力を示した結果だ」
短く、それだけ。でも心があたたかくなる。認められているという実感が、言葉の奥からちゃんと伝わってきた。
食事をしていると、周囲の騎士たちが自然に話しかけてくれる。
「すみれ、昨日は本当に助かった。あの補給計算のおかげで俺たち安心できた」
「これからもよろしくな!」
いくつも重なる声に、胸がいっぱいになる。顔が熱くなるのをこらえながら、なんとか笑顔で答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
マリエルが横でくすっと笑う。
「ほんと、もうすっかりうちの子だね」
「うちの子って……」
「だって団長の右腕でしょ?」
「マリエル」
低い声に振り返ると、ライアンが目だけでマリエルを制していた。その目が一瞬こちらへ向く。灰青の瞳がほんの少しやわらかい。胸が、また不意にあたたかくなる。
昼食のあとは、再び書庫に戻った。けれど空気はもう違っていた。机に向かう私の背中を、砦の空気が自然に支えてくれているような安心感がある。数字を扱う指が、以前よりずっと軽い。
夕方、今日の仕事を終えた頃、マリエルが手を叩いた。
「ねぇ、今夜またみんなで軽く集まろうよ。昨日のお祝いの続きってことで!」
「え、でも……」
「遠慮なし。ほら、団長も来るでしょ?」
「……必要なら顔を出す」
「やった。すみれちゃんも来るよね?」
「はい。行きたいです」
自然にそう言えて、自分でも驚いた。もう、怖くない。
夜。小さな集まりは温かい光の中で始まった。簡単なパンとスープ、そしてささやかな笑い声。誰かが楽器を持ってきて、即興の歌が流れる。私はその輪の中にいて、ただ楽しく笑っていた。
「ねぇ、すみれ。もう完全にここで生きてる顔してる」
マリエルが耳元でこっそりささやく。
「そう見えます?」
「うん。最初は小動物みたいだったのに。いまはちゃんと“仲間”の顔」
胸がじんと熱くなって、目が潤みそうになる。だけど今は泣かない。代わりに微笑んだ。
「ありがとう、マリエル」
「どういたしまして」
少し離れたところで、ライアンが黙ってこちらを見ていた。いつもの無表情に近いけれど、目だけは柔らかく光っている。その視線が胸を温め、鼓動が静かに速まる。
夜が更け、皆が順番に部屋へ戻っていく。私も花束を手に立ち上がった。ライアンがふいに近づいてくる。
「……今日もよくやった」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい?」
「これからも危険がないとは言わん。だが俺がいる。覚えておけ」
静かな声。昨日も同じ言葉を聞いたのに、今夜はさらに深く心に届く。胸の奥が熱くなって、声が少し震えた。
「……はい」
ライアンは何も言わず、ほんの一瞬だけ微かに口元を緩めた。すぐに背を向けて去っていく。その背中を見送りながら、胸の奥がじんわりとあたたかく広がっていく。
部屋に戻り、花束と栞を机の上に並べた。どちらも、この砦で私が受け取った“仲間”と“守り”のしるし。もう王都の私じゃない。ここで生きていく私の証。
窓の外には星がいくつも瞬いていた。新しい夜が静かに広がっていく。
私は深呼吸をひとつして、小さくつぶやく。
「……私、ここでがんばっていける」
その言葉が、胸の奥で確かな力になるのを感じた。
・
第11話 小さな手柄と初めての乾杯
翌朝、目を覚ました瞬間に胸の奥がふわりと軽かった。窓を開けると、ひんやりとした空気の中にパンを焼く匂いが混じって届いてくる。砦の朝の音はもう恐ろしくない。むしろ、安心できる合図のように感じられる。
書庫に向かうと、すでにマリエルが机の上に帳簿を広げていた。顔を上げた彼女が、にこっと笑う。
「おはよう、すみれ!」
「おはようございます」
「団長が昨日の補給計画を王都に報告するんだってさ。『この案を出したのは誰だ?』って聞かれるかもよ~」
「えっ、わ、私の名前が出るんですか?」
「かも、ね。怖い?」
「ちょっと……でも、がんばります」
正直に答えると、マリエルがニヤリと笑った。
「大丈夫。団長が全部盾になってくれるから」
その言葉だけで、不思議な安心感が湧く。昨日までの不安がすっと小さくなる。
昼前、執務室に呼ばれた。扉を開けると、ライアンが大きな封筒を手にして立っている。
「昨日の補給計画、王都に送った。ついでに、辺境防衛に必要な追加物資の要望も添えた」
「えっ……!」
「お前の計算を基にした。王都の役人どもが渋るかもしれんが、これなら通るはずだ」
胸の奥が一気に熱くなる。自分の知識が、本当にこの砦の力になっているんだ。王都で押し殺されていた“役に立ちたい”という想いが、静かに息を吹き返していく。
「……ありがとうございます。私、ほんとに、ここで頑張りたいです」
「それでいい。お前が必要だ」
短い言葉なのに、何よりも重く響く。息を吸い込むと胸がきゅっとなった。
その後も、王都からの返答を待ちながら、私たちは細かな書類整理を進めた。昼下がりになると、窓の外から楽しげな声が聞こえてくる。訓練を終えた騎士たちの笑い声だ。
扉がノックされ、マリエルがひょっこり顔を出した。
「団長~! 物資の再分配うまくいったってさ! 倉庫の若い子たちが“すみれさんの計算が神だった”って騒いでるよ」
「神……?」
思わず赤面すると、マリエルが楽しそうに笑った。
「ほんとだよ。おかげで余剰物資が早く回って助かったって」
「良いことだ。伝えておけ」
「団長も来てよ。みんな一緒に飲もうって!」
突然の誘いに、目を瞬かせる。
「の、飲む……?」
「ほら、昨日の続き! ささやかな乾杯だってさ」
ライアンは少し考えるように眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「行こう。お前の功績でもある」
「えっ、私も?」
「当然だ」
胸が跳ねる。昨日までなら絶対に怖がって断っていただろう。でも今日は違う。自然に「はい」と答えていた。
夕暮れ、砦の広場に小さな宴の輪ができていた。木箱を並べただけの簡素な席、けれどそこに灯されたランタンが温かく輝く。焼いた肉の香り、パンの匂い、そして人々の笑い声。心地よいざわめきに包まれる。
「すみれ~! こっち!」
マリエルが大きく手を振る。その横には、すでに何人かの騎士がグラスを手に待っていた。
「ほら、団長も!」
「俺は少しだけだ」
ライアンも無表情のまま座る。けれど、その席に自然に空いた“隣”が私のためだとすぐにわかった。
差し出されたグラスを受け取り、どきどきしながら周りを見渡す。みんな笑っている。私を見て笑っているのに、冷たさはどこにもない。温かい、居場所のある笑顔だ。
「じゃあ、すみれに乾杯!」
「乾杯!」
声が一斉に響く。驚いて笑ってしまい、グラスを慌てて掲げた。
「か、乾杯……!」
唇に触れた飲み物はほんのり甘くて、喉を通るたびに胸までじんわり温かくなっていく。拍手や歓声の中で、私は生まれて初めて“みんなの真ん中”にいる気がした。
「なぁすみれ、次の補給計画も頼むぜ!」
「う、うん! 任せてください」
自然に言えた。昨日までなら絶対に詰まっていたはずの言葉が、すんなりと出てくる。騎士たちが笑顔でグラスを掲げてくれる。
ライアンは少し離れた席で静かにグラスを傾けていた。ふと目が合うと、ほんの一瞬だけ微かに頷いてくれた。その目が、“よくやった”と告げている。
胸の奥がまた熱くなる。今の私の居場所が、ここにちゃんとあるのだと実感した瞬間だった。
夜のランタンがゆらゆらと揺れ、砦の空気がやさしく満ちていく。私はグラスを胸の高さまで上げて、もう一度だけ小さく乾杯の言葉をつぶやいた。
「……ありがとう」
誰に向けてというわけではない。でもこの世界のすべてに、そしてここにいさせてくれる人たちに向けた言葉だった。
・
宴の輪は夜が更けるにつれて、ますますにぎやかになった。簡素なランタンがゆらゆらと揺れ、焚き火の赤い光がみんなの笑顔を照らしている。パンの香りと、焼いた肉の匂いが混ざりあい、耳に届くのは笑い声ばかり。王都では一度も感じたことのない温かさに、胸が何度もじんわりする。
「すみれ、ほら、これ食べろ!」
大柄な騎士が串焼きを差し出してくる。香ばしい匂いに思わず笑顔になった。
「ありがとうございます!」
「うまいだろ?」
「はい!」
自然に声が弾んだ。周りから「いいぞいいぞ!」と歓声が飛ぶ。くすぐったいけど、嫌じゃない。むしろ心の奥にしっかり沁み込んでいく。
少し離れた席ではマリエルが楽しそうに他の騎士たちと話している。ふと目が合うと、彼女がニヤリと笑って親指を立てた。何かを祝福するような、明るい笑顔だ。
「すみれ」
低い声がすぐ横から響いて、思わず振り返った。ライアンがそこにいた。焚き火の光が灰青の瞳をやわらかく照らしている。
「団に馴染んできたな」
「……はい。みなさん、優しくしてくださって」
「お前が努力しているからだ」
その一言が胸の奥をじんわり満たす。努力していると、ちゃんと見てくれている。うれしくて、でも少し照れくさくて目を伏せた。
「ありがとうございます」
「王都でのことは忘れろとは言わん。だがここでは必要とされている。それだけは覚えておけ」
思わず顔を上げた。灰青の瞳がまっすぐに私を見ている。心臓が一瞬止まったような気がした。
「……はい」
それしか言えなかったけど、それで十分だった。胸の奥がぽうっと温かくなる。
マリエルがこちらをちらりと見て、何かを察したようににやっと笑う。思わず視線をそらすと、ライアンが少しだけ眉をひそめた。
「何を考えている」
「な、なんでもないです!」
「……そうか」
短く返しただけなのに、どこか優しい。会話の余韻が心地よく残った。
やがて騎士の一人が立ち上がり、グラスを高く掲げた。
「すみれのおかげで今年の冬は安心だ! 改めて、ありがとう!」
「ありがとう!」
一斉に響く声に胸がいっぱいになった。涙がこみ上げてくるのをこらえながら、グラスを高く掲げる。
「こちらこそ、ありがとうございます!」
その瞬間、拍手と歓声が大きく広がった。みんなが笑っている。こんなふうに自分の働きを認めてもらえる日が来るなんて、あの王都では想像もできなかった。
ライアンが隣で小さくグラスを掲げる。口数は少ないけれど、その一動作が何よりも力強く胸に響く。
夜風がそっと頬を撫でた。ランタンの明かりに照らされた砦の広場は、世界のどこよりもあたたかく見えた。
しばらくして、マリエルが私の隣に腰を下ろした。頬がほんのり赤く、目がきらきらしている。
「ね、今日のこと絶対忘れないでね」
「え?」
「仲間に迎えられた日。これからどんな大変なことがあっても、今日を思い出せばきっと大丈夫」
その言葉に胸がじんとする。自然に笑ってうなずいた。
「……うん。ありがとう、マリエル」
「よし、いい子!」
頭をぽんぽんと叩かれて、ちょっとくすぐったい。でもうれしい。
宴はやがて少しずつ落ち着いていった。ランタンの光が弱まり、笑い声がさざ波のように静まっていく。みんなが片づけを始めるころ、ライアンが小さく声をかけた。
「戻るか」
「はい」
立ち上がると、頭の中で今日の光景がいくつも浮かんでは消える。初めて“ありがとう”と皆に言ってもらえたこと、笑い声、焚き火のあたたかさ。全部が胸の奥に残っている。
歩きながら、勇気を出してライアンに話しかけた。
「あの……私、ほんとに来てよかったって思います。ここに」
ライアンは少しだけ驚いたように目を見開き、すぐに表情をやわらげた。
「そうか」
「はい。ありがとうございます、団長」
「俺は何もしていない。お前がここを選んでくれただけだ」
その言い方がなんだか照れくさくて、笑いがこみあげる。
「でも守ってくれたのは団長です」
ライアンは何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。けれど、ほんの一瞬だけ横顔がやわらかくほころんだのを私は見逃さなかった。
砦の明かりが近づくころ、胸の奥にじんわりとしたあたたかさが広がっていく。孤独だった王都の自分はもういない。今の私には、仲間がいて、守ってくれる人がいる。
この世界の夜空は、こんなにもやさしいのだと初めて知った。
・
砦に戻るころには夜空がすっかり澄んでいて、星々がまるで手を伸ばせば届きそうなくらい近く感じた。夜気はひんやりとしているのに、不思議と寒さはない。胸の中がまだ宴の温かさでいっぱいだった。
廊下を歩きながら、ふと横を見上げる。無言で隣を歩くライアンの姿がある。大きな背中と歩幅、そして時折こちらを気遣うようなゆっくりした歩き方。それだけで、心が落ち着くのが自分でもわかる。
「あの……」
「ん?」
「今日、ほんとにうれしかったです。初めて、みんなに“ありがとう”って言ってもらえて」
ライアンの足が一瞬止まり、すぐまた歩き出した。けれどその目が優しくこちらを見下ろす。
「それはお前の力だ」
「……でも、王都では誰もそう言ってくれませんでした。今日みたいな日が来るなんて思ってなかったから」
思わず笑いがこみあげる。嬉しくて、少し泣きそうで、でも泣かずに笑えた。
「これからも、ここで役に立てるようにがんばります」
「もう十分に立っている。だが……これからも期待している」
低く、静かに、でも確かに背中を押す声。心臓がまた小さく跳ねた。
「はい」
短く返すと、ライアンがわずかに目を細めた。それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
二人で歩く足音が、砦の石の廊下にやわらかく響く。遠くからは、まだ宴の名残の笑い声がかすかに届いていた。
自室の前に着いたとき、ライアンがふいに立ち止まった。
「ひとつ言っておく」
「……はい?」
「仲間に囲まれていても、危険はいつでもある。昨日のようなことは、また起こり得る」
「はい」
「だが、恐れなくていい。俺たちがいる。俺がいる」
胸が一瞬で熱くなった。言葉が出てこなくて、ただうなずく。
「……ありがとうございます」
「休め。明日も忙しい」
「はい、おやすみなさい、団長」
「おやすみ」
ライアンが背を向けて歩き去っていく。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、胸の奥で小さく笑った。昨日までの私なら、怖くて泣いていたかもしれない。でも今は、安心とあたたかさだけが残っている。
部屋に入ると、机の上には花束と栞。柔らかなランプの光がそれらを照らし出している。花の香りと銀色の葉の輝きが、今日のすべてを象徴しているようで、胸がいっぱいになる。
窓を開けて夜空を見上げた。昨日よりも星が近い。空気は冷たいのに、不思議なほど心は温かい。
「ここで、生きていける」
小さくつぶやいた言葉が、夜の静けさに吸い込まれていく。
王都で失ったものより、今ここで得たもののほうがずっと大きい。仲間、安心、信頼――そして守られるという感覚。
私は布団に潜り込み、花束の横に栞を置いた。どちらも、これからの自分を導いてくれる道しるべのように思える。
今日の温かい笑い声と、ライアンの静かな声が胸の奥で何度も響く。
目を閉じながら、未来の自分が少しずつかたちを持っていくのを感じた。もう迷わない。もうひとりじゃない。
静かな夜の中、私は安心のため息をひとつ吐いて眠りについた。
・
第12話 砦の朝と、新しい日々のはじまり
夜が明けるころ、ふと目が覚めた。窓から差し込む光は柔らかく、鳥のさえずりが耳に心地よい。ここへ来てから、朝の音がこんなにも優しく聞こえるようになったのは初めてかもしれない。昨日までの宴と、皆の笑顔、ライアンの言葉がまだ胸の奥に温かく残っている。
ベッドからゆっくり起き上がり、机の上を見る。そこには昨日の花束と銀の栞。見ているだけで心が力強くなる。もう、あの日の「無能」という言葉は私を縛れない。胸の奥に静かに息を吸い込み、小さく笑った。
「よし」
小さな声が自分を励ます。支度を終えて廊下を歩くと、まだ朝の光が淡く砦の石壁を染めている。パンを焼く匂いが漂い、奥から騎士たちの笑い声がかすかに響く。その音が“日常”に感じられるのが、なんだか嬉しい。
食堂の扉を開けると、マリエルが手を振った。
「おはよう! もう元気そうだね~」
「おはよう、マリエル。うん、よく眠れた」
「よかった。昨日のこと、ほんとにすみれちゃんの一歩になった感じする」
パンをちぎりながら笑うマリエルの目が優しい。向かいの席に座ると、胸の奥がほぐれていく。
「今日は何するの?」
「今日はね、防衛線の予備物資の配置を見直すって団長が言ってた。昨日の王都への報告もたぶん返事が来る頃じゃないかな」
「返事……」
「緊張する?」
「ちょっと」
「でも大丈夫。団長が全部なんとかしてくれるから」
あっさりと言うマリエルの笑顔に、自然と笑い返してしまう。そうだ、もう怖がらなくていいんだ。ここには守ってくれる人たちがいるのだから。
食堂を出るとき、廊下の向こうからライアンが現れた。鎧の上からマントを羽織り、朝の光を背にしている姿は堂々としていて目が離せない。彼はこちらを見て一瞬うなずいた。
「顔色がいいな」
「はい。昨日、ぐっすり眠れたので」
「そうか。今日はまた忙しくなる。ついてこい」
自然に「はい」と返事が出た。つい数日前まで、団長に呼ばれると緊張で喉が詰まっていたのに。今はただ安心感の方が勝っている。
執務室へ向かう途中、窓から朝の光が差し込み、灰青の瞳を照らした。ライアンは視線を前に向けたまま、ふと低く言う。
「……昨日の宴はよかったな」
「え?」
「お前があれだけ笑っていた。悪くない」
思わず足が止まりそうになる。心臓がどきんと跳ねた。
「団長も……楽しそうでしたよ」
「そう見えたか」
「はい。少し、ですけど」
ライアンがわずかに息を吐いたような気がした。表情はほとんど変わらないのに、なぜか柔らかさが伝わってくる。
「これからも少しずつ慣れていけばいい。ここはお前の場所だ」
「……はい」
胸がじんと熱くなる。昨日も同じようなことを言われたのに、今日はもっと深く響いた。
執務室に入ると、机の上には新しい地図と手紙が置かれていた。ライアンがすぐに封を切り、目を通す。
「王都からの返答だ。追加物資、認可された」
「ほんとですか!」
「ああ。お前の計算が添付してあったから、反論できなかったようだ」
思わず笑顔がこぼれた。王都から初めて“認められた”瞬間かもしれない。今さらながら、胸がじんわりしてくる。
「すごいじゃん!」マリエルが横から身を乗り出してきた。「もう完全にうちの戦略担当だね!」
「た、担当だなんて」
「だって事実でしょ、団長?」
「……そうだな」
ライアンがあっさりとうなずく。その言葉の重みが胸に染み込んで、思わずうつむく。
「ありがとう……ございます」
「礼は要らん。だが——」
「?」
「これからもっと忙しくなる。覚悟しておけ」
「はい!」
自然と力強く答えられた。怖さよりも期待の方が大きい。
そのあと午前中は、新しい補給計画を地図上に落とし込んだ。村ごとの備蓄状況を確認し、道の安全を計算し、必要な人員を割り振っていく。ペンを動かしながら、昨日までの自分と今日の自分の違いを感じていた。今はこの仕事を“できる”という自信がある。
「すみれ、ここ、補給所を増やした方がいいかもしれん」
「そうですね、計算では安全ですが……現地の道がぬかるんだ場合を考えると」
「じゃあ追加しておこう」
ライアンと交わすやり取りが自然になってきた。距離が近づいたのがわかる。マリエルも笑いながらメモを取りつつ、時々「さすが~」と声をかけてくれる。もう心は孤独じゃない。
窓の外で陽が高くなり、光が地図の上を金色に照らした。ライアンがペンを置き、私を見た。
「よくやった。午前はここまでだ」
「はい!」
思わず笑顔になった。自然と笑える。それが、こんなにも嬉しい。
昼食をとりに執務室を出るとき、廊下に差し込む光がとても明るく見えた。昨日までと同じはずなのに、世界が少し違って見える。
――私の居場所はここにある。
心の奥でそう確信しながら、私は笑顔でマリエルと肩を並べて歩いた。
・
昼食の広場は穏やかな活気に包まれていた。鍋から湯気の立つスープの匂いが漂い、パンの香ばしさが空気を満たしている。昨日まで感じていた遠慮は、もうほとんどなくなっていた。自然に列に並び、マリエルと肩を並べて笑い合う。
「ほら、今日は団長と同じ班だから気合い入れなきゃね!」
「えっ、私、団長と?」
「そうだよ。午後の配置確認。物資の移動計画を現場に伝えるんだって」
「ひゃ、現場……!」
思わず声が裏返る。机の上だけじゃなく、実地に立つのは初めてだ。
「大丈夫大丈夫。団長がついてるし、むしろ安心でしょ?」
「……うん、そうかも」
心臓がどくんと高鳴るけれど、不思議と恐怖ではない。昨日までの安心がちゃんと背中を押してくれる。
昼食を終えると、ライアンがすでに広場で待っていた。鎧の上から長いマントを羽織り、背筋を伸ばして立つ姿はまさに指揮官そのもの。けれど目が合った瞬間、ほんの少しだけ表情がやわらぐ。
「準備はいいか」
「はい!」
自分でも驚くくらい元気な声が出た。ライアンがわずかに目を細める。
「行くぞ」
砦の外へ出ると、秋の空気が肌をなでた。森の葉が金色に揺れ、遠くで馬の嘶きが響く。護衛の騎士たちが数人つき従っており、その先頭をライアンが歩く。私は地図を抱えてその横を進んだ。
「ここが今の補給路か」
ライアンが指さす。私が地図を広げて頷いた。
「はい。午前の計算で決めた仮のルートです。ただ、ここは地面がぬかるむことがあるそうなので、補給所をひとつ増やしておくと安全です」
「判断が早いな」
「昨日の倉庫での件があったので、念のために」
「……なるほど。いい判断だ」
灰青の瞳がまっすぐ私を見る。心臓が跳ねたが、視線をそらさずに頷くことができた。
途中の村で、農民たちが挨拶してくれる。
「団長! お疲れさまです!」
「おう。物資はもう少しで届く。備えを整えておけ」
ライアンが簡潔に告げると、農民たちは安心したように笑った。私にも視線が向く。
「お嬢さんが計画を?」
「は、はい……!」
「ありがたいよ。これで冬が越せる」
その言葉に胸がじんわりと温かくなる。王都で無能と決めつけられていた自分が、誰かの“安心”のために働けている。喉の奥が少し熱くなった。
ライアンがさりげなく横から声をかける。
「こうやって顔を合わせるのも大事だ。数字だけじゃなく、人の声を聞け」
「はい……!」
頬が自然にほころぶ。学ぶことがまだたくさんあるけれど、ここでならきっと大丈夫だ。
森を抜けるころ、日が少し傾き始めていた。赤と金の葉が風に舞い、私の髪をかすめる。ライアンがふと振り返った。
「疲れてないか」
「大丈夫です」
「昨日の宴のあとだ、無理はするな」
優しい声に、胸がきゅっとなる。こんなふうに気遣われたのは、いつ以来だろう。言葉が少し詰まったけれど、笑顔で頷いた。
「はい」
ライアンが短くうなずき、再び前を向く。その背中が頼もしくて、思わず目を細めた。
砦に戻ったころには、空が赤く染まり始めていた。報告をまとめ終えると、自然と拍手が起きた。騎士たちの笑顔、マリエルの親指、そしてライアンの静かなうなずき――全部が胸に刻まれる。
「初仕事、よくやったな」
ライアンの言葉が、何よりも重く響いた。
「ありがとうございます!」
胸を張って答えると、ライアンの口元がほんのわずかに、でも確かに緩んだ。
その微笑みを見た瞬間、胸がじんと温かくなる。昨日までの不安が、まるで霧のように晴れていくのを感じた。
もう私はこの砦の一員だ。
そう胸の奥で確信しながら、静かな夕暮れの空を見上げた。
・
夕暮れの鐘が鳴り、砦の中庭は一日の終わりを告げるように柔らかな光に包まれていた。訓練を終えた騎士たちが武器を片づけ、笑い声を上げながら水桶で顔を洗っている。パンを焼く香ばしい匂いと、スープの湯気が食堂から漂ってきて、砦全体が心地よい疲労と安堵に染まっていた。
「すみれちゃん!」
マリエルが手を振りながら駆け寄ってくる。夕日に照らされた彼女の笑顔は、どこか誇らしげだった。
「今日はほんとにお疲れさま。団長も満足そうだったよ」
「え……そうなんですか?」
「うん。顔に出さないけどね、団長って。あれでもめっちゃ分かりやすいんだから」
「ふふ……そうかもしれません」
思わず笑ってしまう。無表情に見えても、灰青の瞳の奥にある小さな変化を、今の私は感じ取れる。昨日より今日、今日より明日と、少しずつ見えてくる気がする。
食堂に入ると、もう大きな鍋が並べられていた。湯気の向こうから騎士たちが「すみれ!」と声をかけてくれる。自然に笑顔で「お疲れさまです」と返すことができた。拍手が起き、肩を叩かれ、冗談を言われる。そんなやり取りひとつひとつが胸の奥にあたたかく積み重なっていく。
「こっちに座れ」
低い声に振り向くと、ライアンが空いた席を示していた。心臓が跳ねたけれど、自然に「はい」と答えて彼の隣に座る。並んでパンを分け合うだけで、不思議と安心できた。
「今日はよく働いた」
淡々とした声。それなのに、心臓がまた大きく鳴る。
「ありがとうございます。……でも、団長が支えてくださったからです」
「それは違う。お前自身の力だ」
言い切る声に胸が熱くなる。否定ではなく、まっすぐに認めてもらえる。王都では一度も聞けなかった言葉だ。
マリエルが向かいでにやにやしながらシチューをかき回していた。
「ねぇ、すみれちゃん。今日の笑顔、すごくいいよ。昨日までの君じゃないみたい」
「え……そんなに変わりました?」
「変わった変わった。自分でも気づいてるでしょ?」
返事をためらう。けれど心の奥ははっきり分かっていた。そう、変わったのだ。守られ、信じられ、仲間と呼ばれることで、自分の足で立てるようになった。
「……うん、少しは」
小さく答えると、マリエルがにっこり笑った。
「その調子!」
笑い声が広がる食堂で、私はスープを口に運んだ。温かさが喉を通り抜け、胸の奥にじんわり広がる。その感覚は料理の味だけじゃなく、この場所にある人の温もりそのものだった。
夜。部屋に戻って机に灯りをともす。花束と栞が並んでいて、それだけで胸がいっぱいになる。ノートを開き、今日のことを書きつけた。
――初めて現場に同行した。
――村の人に「ありがとう」と言われた。
――団長に「お前の力だ」と言われた。
ペン先が震える。言葉を書きながら、目がじんわり潤んだ。泣きたいわけじゃない。ただ、胸があたたかすぎて涙があふれそうになる。
窓を開けると、夜空に満天の星が瞬いていた。砦のあちこちで灯るランプの光が星と混ざり合い、守られているように感じる。冷たい風が頬を撫でたが、不思議と寒くなかった。
「……ここで生きていこう」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。その言葉が、未来を照らす灯りになる。
もう王都で迷っていた私ではない。無能と決めつけられていた自分も、ここにはいない。
新しい日々は、今まさに始まったばかりだ。
胸の奥のあたたかさを抱きしめながら、私は静かに目を閉じた。
・
第13話 冬支度と、初めての“頼られる”瞬間
翌朝は空気がぐっと冷たく、吐く息が白くなった。窓を開けると、森の木々が冬を告げるようにかすかに霜をまとっている。砦の屋根も薄く白い膜をかぶっていて、季節の変わり目を実感させた。昨日までの秋の柔らかさが少しずつ消え、これからの冬が本格的にやってくるのだと思う。
厚手の外套を羽織って書庫へ向かうと、すでにマリエルが両腕いっぱいに帳簿を抱えていた。
「おはよう、すみれ!」
「おはようございます。今日の仕事は?」
「冬支度の最終確認! 備蓄量と消費ペース、全部の村分を見直すんだってさ。団長から“すみれを中心に進めろ”って命令が出てるよ」
「え……!」
思わず足が止まった。私を中心に――そんな言葉、これまで一度も聞いたことがない。
「ほんとに? 私が?」
「ほんと。団長、昨日の王都報告の内容をそのまま上層に通したって。君の計算を信頼してるんだよ」
胸が一気に熱くなった。恐れもあるけど、それ以上に込み上げてくるのはうれしさだった。認められて、託されている。王都では誰もしてくれなかったことだ。
「がんばらなきゃ……」
「うん! 大丈夫、私も手伝うし」
笑顔で背中を押され、自然と力が湧く。怖いよりも、挑みたいという気持ちの方が強くなっていた。
執務室に行くと、ライアンが地図の前で待っていた。灰青の瞳がこちらをとらえる。昨日までより、さらに少しだけ近い距離感を感じる。
「来たか」
「はい。お呼びいただいてありがとうございます」
「礼はいらん。今日の作業は冬支度の最終だ。お前の案をもとに進める」
「わ、私の……」
「自信を持て。お前が一番正確に全体を把握している」
その一言が、胸の奥の緊張を溶かした。まだ怖いけれど、背中を押してもらえるから立てる。
「……はい!」
机いっぱいに広がった書類の束を前に、私は深呼吸してペンを持った。マリエルが横でメモを取りながら支えてくれる。数人の副官たちも加わり、各村の現状を報告してくれた。
「北の集落は保存食が予定より減ってます。配分を見直しますか?」
「東の山道が一部雪で閉ざされるかもしれません」
次々に飛んでくる情報をまとめ、瞬時に計算し、判断していく。最初は戸惑いそうだったけど、不思議と頭が冴えていた。昨日までの積み重ねが、自分を支えてくれている。
「北の集落に補給所をひとつ増やしましょう。東の山道が塞がった場合、南回りの距離を計算します。馬車の数は――」
「三台で足ります」
「だな。備蓄から二割を移動させよう」
ライアンの声がすぐ横から響く。まるで二人で呼吸を合わせているようだった。目が合うと、彼は短く頷く。それだけで、また力が湧いてくる。
「王都からの追加物資が来るのは一週間後。そこまでの余裕をもたせるために……」
口にしながらペンを走らせると、副官たちが次々と資料を渡してくれる。驚いたような尊敬の目が向けられて、胸がくすぐったくも誇らしい。
「……すごいな」
ふいに低い声がして顔を上げると、ライアンが私を見ていた。淡々としているのに、その瞳の奥がわずかに温かい。
「え?」
「最初に来た時から比べると、見違える」
胸がどくんと跳ねた。耳の奥が熱くなる。嬉しくて、でもどう返せばいいかわからなくて、ただ笑うしかなかった。
「ありがとうございます……でも、団長が守ってくださったから、私、ここまで来られたんです」
「それは俺の役目だ。だが、お前が自分の足で立ったから今がある」
まっすぐな声。心がぎゅっとなる。何かが決定的に変わった気がした。もう私は“連れてこられた人”じゃない。ここで自分の力を発揮している。
その瞬間、ドアがノックされ、伝令の若い騎士が顔を出した。
「団長! 西の村から連絡です! 雪が思ったより早く降り始めて、荷車が動けなくなったと!」
空気が一瞬で張り詰めた。ライアンが立ち上がり、鋭い視線を向ける。
「場所は?」
「西の街道の二つ目の橋の手前です!」
私は地図を引き寄せ、瞬時に目を走らせた。
「団長、ここです! 距離なら、南の備蓄庫から馬車を回せば二日で到達できます」
「……間に合うか?」
「はい。ただし燃料が足りないかもしれません。近くの森で調達できるか確認を」
「よし、副官! 南の班に指示を。すぐに馬車を出せ。燃料は森から。補給所は予備をここに設置する!」
「はっ!」
指示が飛び交う中、ライアンの視線が一瞬だけ私に戻る。ほんの一瞬の、その眼差しが“頼りにしている”と語っていた。
胸が熱くなる。怖いどころか、今はただ動きたい。力になりたい。その思いでいっぱいだった。
「団長、必要な帳簿をまとめます!」
「頼む」
短い言葉が背中を押す。私は立ち上がり、書類を抱えて部屋を飛び出した。もう足は震えていない。
――今、私がここにいる意味がある。
心の中でその確信が強く鳴った。
・
帳簿を抱えて走りながら、胸の奥が熱くてたまらなかった。怖いことが起きているはずなのに、足はまったくすくまない。むしろ頭の中が驚くほど澄んでいて、必要な数字が次々と浮かんでくる。
書庫の扉を開けると、マリエルが目を丸くした。
「すみれ!? どうしたの、そんな顔して」
「西の街道で雪の足止めが出ました! 緊急の補給計画が必要です」
「了解! 待ってた!」
マリエルはすぐに机へ駆け寄り、私の手から帳簿を受け取る。二人で並んで数字を追いながら、最適な物資と人員の配分を考える。騎士たちが次々に駆け込んできて、情報を投げ込んでくれる。
「燃料、南の森で調達可能です! ただし伐採班が足りません!」
「馬車三台は準備中。追加の馬が必要だ!」
「それなら……」
私は地図を指でなぞり、瞬時に計算する。
「燃料は森の東側から取れば村の人手が使えます! 馬は南の小牧場から回せます。損耗は最低限で済むはず!」
「了解!」
マリエルがすぐに指示を書きとめ、副官へ渡す。部屋が指令室のような空気になっていくのを感じる。自分の声が響き、誰かがそれを信じて動いている。胸が震えるような実感だ。
「すみれ、こっちも!」
「はい、すぐ!」
書類を手渡されるたび、考えるより先に手が動いた。昨日までの経験がすべて背中を押してくれる。怖さはない。ひたすら“今できること”に集中していた。
やがて扉が開き、ライアンが戻ってきた。冷たい空気をまとっていて、灰青の瞳が鋭く光っている。だがその奥に一瞬だけ安堵が走った。
「状況は?」
「馬車三台、南から出発準備中です。燃料は東の森から。伐採班は村の協力を要請済み」
「対応が早いな」
ライアンが近づいて地図を見下ろす。私が指した補給所の位置を確認し、短く頷いた。
「これなら間に合う。よくやった」
「……はい!」
全身が熱くなる。息が少し震えたけれど、それは恐怖じゃなくてうれしさからだった。
「副官、出発の準備を整えろ。すみれ、伝令用の書簡を作れ。村への物資割り当ても明記しておけ」
「わかりました!」
マリエルと顔を見合わせ、同時にうなずく。ペンを握る手が力強く動く。書簡を書き上げるスピードが自分でも驚くほど早い。途中でライアンが背後に立ったのがわかった。大きな影が私の机を覆う。ふと見上げると、灰青の瞳がまっすぐ私を見ていた。
「落ち着いているな」
「はい……不思議と怖くありません」
「そうか」
ほんの短い返事なのに、胸の奥がまたじんと温かくなる。認められている。支えられている。そして自分も立っている――それが確かな力になる。
しばらくして全ての書類が整い、伝令が馬を駆って出発した。扉が閉まる音と同時に、室内に一瞬静けさが訪れる。私とマリエルは同時に大きく息を吐いた。
「ふーっ……! やりきった!」
「はい……!」
笑顔が自然にこぼれた。全身が熱くて、でも心地よい。初めて本当の意味でこの砦の一員として働いた気がした。
ライアンがゆっくりと近づいてくる。灰青の瞳がまっすぐ私を射抜く。
「見事だった」
「えっ……」
「判断が早く、的確だった。俺がいなくても動けるようになっている」
胸がぎゅっとなる。息が少し詰まって、でも嬉しさの方が勝つ。
「……ありがとうございます」
「お前の力を信じて正解だった」
ライアンはそれだけ言って、わずかに口元を緩めた。ほんの一瞬の笑み。けれどそれは、心臓に直接触れるような優しい力を持っていた。
「これからも頼むぞ」
「……はい!」
はっきりと答えた声が、部屋の空気を軽くした。マリエルが横でにやにやしながら拍手をする。
「すごいじゃん、すみれちゃん! 団長のお墨付きだよ~!」
「や、やめてください!」
「なに照れてんの~。ほんと成長したなあ」
からかわれて顔が熱くなる。でも嫌じゃない。むしろくすぐったい幸せが胸いっぱいに広がっていく。
窓の外では雪雲がゆっくりと動いていた。これから長い冬が始まる。それでも怖くない。ここには仲間がいて、私を信じてくれる人がいるから。
胸の奥がふわりと温かく満ちていくのを感じながら、私はもう一度深呼吸をした。
――ここで生きていく。
その想いが、はっきりと自分の中に根を張ったのを感じた。
・
雪雲が空を覆いはじめ、砦の中庭が少しずつ白く染まりはじめていた。伝令の馬が門をくぐり抜けていった後、室内に残っていた張りつめた空気がゆっくりと溶けていく。誰もが大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「ふぅ……」
私も深く息をつく。緊張で固まっていた指先が、ようやく自分のものに戻ってきた。
「やりきったな!」
マリエルが背中を軽く叩いてくる。力強くて温かい手。思わず笑顔になった。
「うん……ちょっと、足がふらふらするけど」
「そりゃそうだよ。初めての大仕事だもん」
ふたりで小さく笑い合った瞬間、扉が開き、ライアンが戻ってきた。雪を払いながら中へ入ってくる。鎧についた白い粒が光を反射して、灰青の瞳がいっそう冴えて見えた。
「伝令は出た。あとは実行を待つだけだ」
「はい」
思わず背筋を伸ばす。
ライアンはゆっくりと歩み寄り、机の上の地図を見下ろした。視線が私の手元をなぞるように動く。そしてふっと息を吐いた。
「よくやった、水野」
名前を呼ばれた瞬間、胸が熱くなる。これまで一度も聞いたことのない、まっすぐな呼び方だった。
「……ありがとうございます」
「迅速だった。判断も的確だった。俺がそばにいなくても動けたな」
その言葉の意味を噛みしめるうちに、胸がじんわりして、涙がこぼれそうになる。でも泣きたくない。だから笑顔で頷いた。
「みんなが支えてくれたからです。団長が背中を押してくれたから」
「支えたのは俺たちの役目だ。だが動いたのはお前だ」
ライアンはそう言って、ほんの一瞬だけ目を細めた。滅多に見せない、優しい微笑。
その笑顔に、胸の奥で何かが静かに弾けた。
「これからも……がんばります」
「ああ。期待している」
短い言葉なのに、力があふれる。王都で言われたどんな評価よりも、ずっと重くてあたたかい。
マリエルが横でにやりと笑った。
「ほらね~、団長がお墨付きくれたでしょ。もう砦の“要”だよ、すみれちゃん」
「や、やめてください!」
思わず真っ赤になって叫ぶと、室内に笑いが広がった。その輪の中に自分がいるのが、信じられないくらい心地いい。
しばらくして解散となり、私とマリエルは一緒に廊下を歩いた。窓の外では雪がゆっくりと舞っている。マリエルがふと私の肩を軽く叩いた。
「ね、初めてじゃない? “すみれがいなきゃ動かなかった”って状況」
「……そうかも」
「うれしいでしょ?」
「うん……うれしい」
自然に言葉がこぼれる。怖さじゃなく、誇りと安心が胸いっぱいに広がっている。
「次も頑張れそう?」
「もちろん」
その答えがすぐに出て、自分でも驚いた。
部屋に戻ると、机の上の花束と銀の栞が目に入った。昨日までは“仲間になれた証”だと思っていた。でも今は、それ以上の意味を持っている気がする。自分の力で誰かを守れた、その実感の象徴のようだった。
窓を開けると、白い雪が静かに舞い落ちてきた。冷たいのに、なぜか心はあたたかい。
「ここにいて、よかった」
小さくつぶやいた。声は雪の中に溶けていったけれど、胸の奥でしっかりと響いている。
これからもきっと試練はある。怖いこともあるだろう。けれどもう、ひとりではない。守ってくれる人がいて、私を信じてくれる仲間がいる。
その事実だけで、どんな冬でも越えられる気がした。
外の雪が砦の屋根を白く染めていく。私はその景色をしばらく見つめ、そっと笑みを浮かべた。
新しい日々は、今日もここから続いていくのだ。
・
第14話 はじめての“お礼”と、心の距離
翌朝、外の世界はすっかり雪景色だった。砦の屋根が白く縁どられ、森の木々は粉砂糖をまぶしたように静まり返っている。空気は澄んで冷たいけれど、胸の奥はなぜかぽかぽかと温かい。昨日の出来事が心を満たしているからだろう。
朝食を終えると、私は書庫で作業を始めた。補給計画の更新、村から届く報告の整理――やるべきことは山積みだ。でも不思議と疲れはなく、むしろやりがいに満ちていた。
「おはよー、すみれ!」
元気な声とともにマリエルが入ってくる。手には布袋を提げていて、にやにやと楽しそうだ。
「おはよう、マリエル。今日も寒いですね」
「うん、でもね、ほら、これ見て!」
袋から出てきたのは、小さな毛糸の手袋。指先が空いていて、帳簿を扱いやすそうな作りだ。手首の部分には可愛い花の刺繍が施されている。
「えっ、これ……」
「村の奥さんたちから。昨日の救援のお礼にってさ。すみれちゃんの分、ちゃんとあったの!」
胸の奥が一気に熱くなった。思わず手袋をそっと握りしめる。
「私の……?」
「そう! “あの子がいなかったら村が困ってた”って言ってたよ」
目がじんわり潤んだ。王都で“無能”と突きつけられた私に向けて、“ありがとう”がこんな形で届くなんて。
「……うれしい……」
小さな声しか出なかった。マリエルが満足そうに微笑む。
「ほら、早くはめてみて!」
「う、うん!」
手袋をはめると、柔らかくて暖かい。指先が自由に動かせるようになっていて、私の仕事をちゃんとわかって作ってくれたことが伝わってくる。
「似合ってる!」
「ありがとう、マリエル……それに、村の皆さんにも」
胸がいっぱいになりながら微笑む。自分のしたことが、ちゃんと誰かの役に立って返ってくる。こんな幸せがあったなんて、昨日まで知らなかった。
その時、扉がノックされて低い声が響いた。
「入るぞ」
ライアンが入ってきた。灰青の瞳がこちらを見て、手袋にすぐ気づいたようだった。
「それは?」
「昨日の救援のお礼だそうです。村の方が……」
「そうか」
ほんの一瞬、彼の目がやわらかくなる。雪の光を受けて、灰青が淡く透けるように見えた。
「よくやった。昨日の動きがあったからだ」
「ありがとうございます……でも、みんなのおかげです」
「お前の判断がなければ間に合わなかった。胸を張れ」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。王都では絶対に言われなかった言葉が、ここではこんなにも自然に届く。
「……はい!」
自然と大きな声が出た。ライアンの口元がわずかに、けれど確かに緩んだ。
「それと、もうひとつ」
「はい?」
「明日の午前、王都から使者が来る。追加物資の最終確認だ」
「王都の……!」
一瞬、背中がこわばる。あの冷たい視線や嘲笑を思い出してしまったからだ。
だが、すぐに隣のマリエルが肩を叩いた。
「大丈夫。団長と一緒でしょ?」
「……そうだな」
ライアンの低い声が背中を押す。「俺がいる」という昨日の言葉が甦ってくる。胸の奥の緊張が少しずつほどけていった。
「はい。大丈夫です」
そう答えると、ライアンがうなずいた。
「よし。自信を持て。昨日のお前を見ていれば、何も問題ない」
その声だけで不安が霧のように消えていく。胸があたたかい。
マリエルがひそひそ声で耳元にささやく。
「ね、団長ってほんと優しいよね」
「しっ! 聞こえます!」
「聞こえてもいいんじゃない? ねぇ団長?」
思わず顔が真っ赤になる。ライアンは無言のままだが、なぜかその横顔が微かに和らいだように見えた。
雪は静かに降り続けている。砦の窓から見える白銀の世界は、冷たくて厳しいはずなのに、今の私には少しも怖くない。胸の中にある温もりが、この冬を越えていける力をくれるからだ。
私は改めて手袋を見下ろした。指先までぴったり合っている。まるで“ここにいていい”と告げてくれているようだ。
王都から来る使者を前にしても、もう逃げない。私はもう、ここで働くひとりの仲間だ。
窓の外の雪を見つめながら、胸の奥で小さくつぶやく。
「負けない」
その言葉は、私自身をあたためる魔法のように響いた。
・
翌朝、砦の空気はさらに冷え込んでいた。雪が深く積もり、外の世界は真っ白に沈黙している。それでも砦の中は朝からざわめいていた。王都からの使者を迎える準備が進んでいるのだ。
私は書庫で最後の資料を確認していた。冬支度の計算書、物資の配分表、村ごとの状況まとめ。どれも一度は自分の頭で組み立てたものだ。手袋をはめたままページをめくると、ほんのり指先が暖かい。
「準備は順調?」
マリエルが顔をのぞかせた。いつもより少し真剣な顔をしている。
「うん……でも少し緊張してる」
「そりゃそうだよ。相手は王都の役人だからね。けど大丈夫、団長が一緒だし、私もサポートするから!」
その声に心がほぐれる。昨日までなら怯えていたはずのことも、今は不思議と立ち向かえる気がする。
やがて扉がノックされ、ライアンが姿を現した。黒いマントに雪の粒がわずかについている。灰青の瞳が私をまっすぐにとらえた。
「準備は整ったか」
「はい」
「緊張しているか?」
正直にうなずくと、ライアンの唇がほんのわずかに持ち上がった。
「それでいい。緊張している方が頭は冴える。だが、怖がる必要はない」
その一言が、身体の芯に力を与えてくれる。深呼吸して、笑顔で答えた。
「はい」
「行くぞ」
彼の背を追って外へ出る。雪を踏みしめる音が冷たい空気に響いた。砦の門の前には、すでに副官たちが整列している。遠くから馬の蹄の音が近づいてくるのがわかる。
やがて現れたのは、王都の紋章を掲げた馬車だった。灰色の外套をまとった役人たちが降り立つ。冷たい視線と共に、あの日の記憶が一瞬胸を刺した。けれど隣の大きな背中を見た瞬間、不思議と恐怖が消えていった。――私はひとりじゃない。
「辺境砦のライアン団長、ならびに補給担当者の……」
役人の視線が私に向けられた。わずかに嘲りが混じるその目に、かつての自分ならすくんでいた。でも今日は、堂々と顔を上げられた。
「水野すみれです」
はっきりとした声が自分の口から出た瞬間、胸が熱くなる。ライアンがほんの一瞬こちらを見て、短くうなずいた。
王都の役人たちは書類を求めてきた。私は落ち着いて計算書と分配表を手渡し、要点を説明する。
「この備蓄計画は、現地の消費ペースと気候データをもとに調整しました。先日の雪崩で西の街道が一部通行不能になったため、南回りのルートを補強しています」
「……ほう」
役人たちの目がわずかに動く。冷たい色から、慎重な評価へと変わっていくのを感じた。
「輸送馬車は三台。内訳は――」
「補足する」
ライアンの低い声が横から支えてくれる。安心と力が背中から流れ込む。二人で説明を続けていくと、やがて役人のひとりが小さくうなずいた。
「計算は正確だな。王都の報告よりも詳細だ」
「現地を知っているからこそできる判断です」
ライアンが淡々と答える。その声に頼もしさが満ちていて、私は胸が高鳴った。
「追加物資は予定通り送ろう。……水野、といったか」
「はい」
「お前の計画、悪くない。辺境にしては上出来だ」
上出来――その言葉は冷たく聞こえるのに、私の胸には不思議と誇らしさが広がった。王都からの初めての“評価”だったからだ。隣のライアンが静かに私の肩に触れる。大きな手の重みがすべてを肯定してくれる。
使者が去っていくと、砦の空気が一気にやわらいだ。副官たちが笑顔で近寄ってきて「お見事」と口々に言う。マリエルが満面の笑みで両手を振り上げた。
「やったね、すみれちゃん!!」
「う、うん……!」
胸がいっぱいで言葉にならない。けれど笑顔だけはこぼれてしまう。
そのとき、ライアンがすっと近づいた。私を見下ろす瞳が、少しだけ柔らかい。
「よくやった」
それだけで、胸が熱くなる。
「団長のおかげです」
「違うな。お前の力だ」
また、その言葉。何度聞いても心にしみる。
マリエルがにやにやとこちらを見ながら、わざとらしく耳打ちしてきた。
「ほらね、完全に認められてるじゃん」
「う、うるさいです!」
けれど、その笑い声も、今は心地いい。
外は相変わらず雪が降り続いている。けれどその白さは、昨日までの孤独を消し去るように優しく感じられた。
――ここが、私の場所だ。
胸の奥で強くそう思った瞬間、雪の世界が一層美しく見えた。
・
午後、砦の中庭では役人たちが去った後の静けさが戻っていた。雪はまだ舞っているけれど、朝の緊張感はすっかり消え、どこか満ち足りた空気が漂っている。私はふわりと息を吐いた。緊張がとけ、足元が少しふらつく。でもそれが、悪くない。
「すみれちゃん!」
マリエルが駆け寄ってきた。雪をはらいながら満面の笑みを浮かべている。
「ほんとにすごかったよ! 王都の役人、完全に言い負かしてたじゃん!」
「言い負かしてたって……ただ説明しただけです」
「いやいや、あれは自信ある人の声だった! ほら、団長も横でうんうんってしてたじゃん」
「してません!」
思わず顔が熱くなる。けれど、嬉しくてたまらなかった。あの場で怯えずにいられたのは、ライアンがそばにいたからだ。彼の静かな存在が、すべてを支えてくれていた。
マリエルはわざとらしく目を細める。
「ねぇねぇ、団長の隣ってどう? 緊張するけど、安心もするでしょ?」
「……する」
小さく認めると、マリエルが満足げに笑った。
「だと思った!」
笑い声が白い息になって空へ舞う。そんな温かいやり取りをしていると、後ろから低い声がした。
「おしゃべりは終わったか」
「ひゃっ!」
振り向けば、いつのまにかライアンが立っていた。雪を払う仕草が静かで、でもなぜか頼もしい。
「団長、びっくりさせないでください」
「呼んだ覚えはないが」
淡々とした声。それでも灰青の瞳は少しだけ柔らかい。
「水野」
「は、はい!」
「今日の働き、見事だった。堂々としていたな」
「ありがとうございます」
「……だが、少し無理をしただろう」
その言葉に、心臓が一瞬止まりかけた。見透かされている。胸の奥がほんのり熱くなる。
「大丈夫です」
「ならいい」
ライアンはそれ以上何も言わず、ただ短く頷いた。その静かな肯定が、言葉以上に胸を温めていく。
「団長、すみれちゃんにあんまり優しくしたら、私の出番がなくなっちゃうんだからね」
マリエルがからかうと、ライアンは少しだけ眉を動かした。
「俺は事実を言っただけだ」
「はいはい、そういうことにしておきます~」
マリエルの無邪気な笑顔に、私も思わず吹き出した。重かった空気が、雪のように軽やかに解けていく。
その後は倉庫の中で追加の補給点検を行った。作業しながらも、騎士たちが何度も「さっきは見事だったな」と声をかけてくる。嬉しいけれど、なんだかくすぐったい。マリエルが「もう砦のスターじゃん」と小声でからかってきて、さらに頬が熱くなった。
日が暮れるころ、執務室へ戻るとライアンがひとりで地図を見ていた。私が入ると、顔を上げる。
「報告書を書き終えたか」
「はい。これです」
手渡すと、彼は静かに受け取り、目を通した。そしてほんのわずか口元を緩める。
「問題ない。完璧だ」
「……!」
胸が跳ねる。完璧、という言葉を初めてもらった。
「お前がいると助かる」
「……!」
返事ができないくらい胸が熱くなった。言葉が詰まりそうになるけれど、どうしても伝えたくて口を開く。
「団長……私、ここに来てから、初めて“役に立てた”って思えました。ありがとうございます」
「感謝するのは俺の方だ」
「え?」
「お前が来てから、砦は確実に強くなった。数字だけじゃない。人の空気も変わった」
灰青の瞳がまっすぐに私を射抜く。心臓が痛いほど鳴る。
「……そんな、大げさですよ」
「大げさではない」
短く言い切られて、息が止まりそうになる。しばらく視線が絡み合った。胸がいっぱいになりすぎて、思わず目を逸らす。
「あ、あの……そろそろ夕食の時間ですね!」
「そうだな。行くか」
わずかに表情をゆるめたライアンが、静かに扉を開けた。その後ろ姿を見つめながら、胸の奥が不思議なあたたかさで満ちていく。
食堂では、いつものように笑いと香ばしい匂いが満ちていた。けれど今夜は、皆の笑顔がひときわやさしく感じられる。昨日まで“よそ者”だった自分が、今は同じ輪の中にいるのだ。
窓の外では雪が降り続けている。だけど、その白さはもう怖くない。むしろ美しく、頼もしくさえ見える。
――ここに、私の場所がある。
胸の奥でその言葉をかみしめながら、私は静かに微笑んだ。
・
第15話 初めての“家族”のような夜
夕食後、まだ食堂にはあたたかな灯りと笑い声が残っていた。雪は相変わらず降り続いているのに、砦の中だけはまるで別世界のようだ。鍋の匂い、パンを焼く香ばしさ、木のテーブルを囲む人々の声――すべてが優しい。昨日までの自分なら、この光景を遠くから眺めているだけだった。でも今は、その輪の中にいる。
「すみれちゃん、おかわりいく?」
マリエルがスープ鍋を持ってくる。湯気が立ち上り、ハーブのいい香りがした。
「ありがとう。もう少しだけもらおうかな」
「えへへ、今日もいっぱい動いたもんね。ご褒美だよ」
笑いながらスープを注ぐマリエル。横では副官のひとりが、雪道での苦労話を皆に披露している。声を上げて笑う騎士たち。そこに混じって笑っている自分が不思議で、でも幸せでたまらない。
ふと視線を感じて振り向くと、少し離れた席にライアンが座っていた。彼はあいかわらず無口で、杯を手にしている。でも目がこちらに向いて、ほんの一瞬だけ柔らかくなった気がした。胸がどきりとする。
「団長~、たまには笑ってくださいよー!」
誰かが声を上げると、ライアンは軽く片眉を上げた。
「笑っている」
「えー、今のは笑ってない~!」
騎士たちがどっと笑う。マリエルがこっそり私の耳元に顔を寄せた。
「ほら、すみれちゃんの方見たときだけ、ちょっと表情変わった」
「え、そんなこと……!」
「バレバレよ。もう団長の“特別ゲージ”上がってるもん」
「特別ゲージって何ですか!」
二人で笑ってしまい、周りの視線が集まってまた笑いが広がった。砦の空気は寒さなんて感じないほど温かい。
その後、宴が落ち着くころ、ライアンが静かに席を立った。何気なく目が合う。あの灰青の瞳に促されるように、私も立ち上がった。
外に出ると、雪は音もなく降り続いていた。白い世界の中に灯りが滲んで、とても静かで美しい。
「少し、歩くか」
ライアンの低い声。頷いて隣を歩く。足音が雪を踏みしめ、ひんやりとした空気が頬を撫でる。けれど不思議と寒くはなかった。
「今日の役人相手、よくやった」
「ありがとうございます。でも、すごく緊張しました」
「当たり前だ。だが、堂々としていた」
その一言で胸がじんと温かくなる。寒さよりも体の芯が熱い。
「団長が一緒にいてくれたからです。後ろを振り返らなくても“ここにいる”ってわかってたから」
「……そうか」
短く返事をしたライアンが、ほんの少しだけ口角を上げた。雪明かりの下で、それが柔らかな笑みに見えて息が詰まる。
「お前はもう、十分にこの砦の一員だ」
胸が一瞬でいっぱいになった。言葉が出なくて、ただ「はい」と頷く。声が少し震えたのを自分でも感じた。
「それと――」
「?」
「明日から、正式に補給隊の指揮を任せる」
「えっ……!」
立ち止まってしまう。ライアンがこちらを振り返り、淡々と続けた。
「昨日今日の動きを見た。お前が現場の判断をした方が早く正確だ。俺は全体を指揮する。補給線はお前に任せたい」
「……!」
胸の奥で大きな音が鳴った。怖さと誇らしさが一度に押し寄せてくる。
「私……できますか?」
「できる」
迷いのない答えだった。即答。それがどれほど大きな力になるか、言葉にできない。
「俺が保証する」
雪の白に灰青の瞳が溶け込む。そのまっすぐさに胸が詰まって、涙が出そうになる。
「……はい。がんばります」
「よし」
ライアンがわずかに頷いた。それだけで寒さがすべて消えたような気がした。
しばらく並んで歩く。雪の音だけが二人を包む。胸があたたかくて、世界がゆっくり静かに動いているように感じた。
「すみれ」
「はい?」
「……ありがとう」
突然の言葉に、息が止まった。
「え?」
「この砦を救ってくれた」
短いけれど真っすぐな声。心臓が跳ねて痛いくらいだ。
「団長……」
何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。ただ微笑んで頭を下げる。それしかできなかった。
雪は静かに降り続けている。けれどその白さは、もう孤独ではなく、誰かと一緒に歩く道を照らしてくれている。
――ここは、もう私の居場所だ。
胸の奥でその想いが、今までにないほど強く確かなものになっていくのを感じた。
・
ふたりで雪の庭を歩いたあと、ライアンは何も言わず先に執務室へ戻っていった。私もその背を見送り、胸の奥がまだ熱いまま自室へ向かった。扉を閉めた途端、どっと力が抜ける。今日一日で、いったいどれだけのことが起きたんだろう。
机の上に花束と栞があり、その横に朝もらった手袋をそっと並べた。どれも私がここで過ごした証。ひとつひとつが心に重なっていく。こんなふうに大切なものが増えていくのが、うれしくて、くすぐったくて、胸があたたかい。
窓の外には雪。けれど、孤独な白ではない。砦の灯りがところどころで輝き、まるで小さな家々のように夜を照らしている。かつての王都の城の窓は冷たかった。でもここでは、誰かの温もりを感じることができる。
そのとき、控えめなノックが聞こえた。
「すみれ、起きているか」
ライアンの声だ。思わず背筋が伸びる。
「は、はい! どうぞ」
扉が開き、黒いマントを羽織ったライアンが立っていた。彼の背にかかる雪が室内の灯りで溶け、しずくになって床に落ちる。
「遅くにすまない」
「いえ、大丈夫です」
「これを」
差し出されたのは、厚手の外套。黒い布地に細かな刺繍があり、触れると驚くほど柔らかい。温もりがすでに宿っているような感触だった。
「団の備品だが、お前のサイズに合わせてある。冬の補給は外に出ることが増える。防寒が必要だ」
「えっ……私の、ために?」
「当然だ。隊の一員なのだから」
その“当然”という一言に胸がぎゅっとなった。目の奥が熱くなる。
「ありがとうございます……」
「明日から補給隊の指揮を任せる。だから必要だ」
言いながらライアンは私を見つめた。灰青の瞳が夜の灯りを映し、静かに揺れている。
「無理はするな。だが、お前がいてくれれば俺も安心できる」
胸がどきん、と大きく鳴った。目が合ったまま、声が出ない。
「……安心、って」
「お前が数字を整え、動きをつくる。俺は守るべきものがはっきりする。そういう意味だ」
「あ……はい」
うまく言葉にできず、ただ頷く。それでも心の奥ではあふれるような力が湧いてきていた。誰かに安心を与えられる自分。王都で一度も想像できなかった未来だ。
「おやすみ、水野」
「おやすみなさい、団長」
ライアンが静かに部屋を出ていく。扉が閉まった後、私はしばらく立ち尽くしたまま外套を抱きしめていた。ふわりと鼻先に革と金属の匂いが混じる、どこか懐かしい安心の香り。
ベッドに腰を下ろし、毛布の上から外套を羽織ってみる。肩から足元まで包まれて、まるで大きな誰かに抱きしめられているような感覚がした。胸がいっぱいになって、気づけば目からひとしずく涙がこぼれていた。
「私、ほんとに……ここにいていいんだ」
声に出すと、静かな部屋に言葉が溶ける。けれどその響きは、これまでどんな励ましの言葉より強く、自分を守ってくれるものになっていた。
窓の外をのぞくと、雪がやさしく降り続いている。砦のあかりは暖かく、まるで家族が待っている家のようだった。
私はベッドに横になり、毛布と外套にくるまった。心臓の音がゆっくりと落ち着いていく。今日はたくさんの怖さと喜びを味わった。でも最後に残っているのは、安心と未来への希望だけだ。
そっと目を閉じる。
もう“無能”と言われたあの日の私ではない。今の私は、誰かのために動ける人間だ。
明日からの補給隊の指揮という新しい挑戦も、きっと大丈夫。なぜなら、私には仲間がいて、信じてくれる人がいるから。
夜の雪が静かに積もっていく。あたたかい眠気に身をゆだねながら、私は今日という一日を胸に刻んだ。
・
翌朝、まだ空は薄青く、雪の白さが夜の名残を照らしていた。早く目が覚めてしまったのは、緊張と少しの高揚感のせいだろう。窓の外の景色は静かで、それでいて新しい一日を迎えようとする息づかいがある。私の胸の奥も同じだった。
ベッドの脇には昨夜もらった外套が掛かっている。そっと触れると、まだ微かに温もりが残っているようで心臓が跳ねた。ライアンが「俺も安心できる」と言った声が、耳の奥でやさしく響く。あの言葉は夢だったのかと思うくらい不思議で、けれど確かに私を強くしてくれている。
着替えを済ませ、外套を羽織る。ぴったりと体に合い、肩まで温かく守ってくれる。まるで見えない盾をまとったような気分だった。これなら冬の森にも迷わず入れる気がする。
書庫へ行くと、すでにマリエルが待っていた。机の上には地図と紙束が広がっている。
「おはよう! 準備、できてる?」
「うん。早く起きちゃって」
「そりゃそうだよね、今日から正式に“隊長”だもんね~」
「隊長なんて……!」
思わず両手を振ると、マリエルがくすくす笑う。
「でもほんとだよ。補給隊を率いるのはすみれちゃん。団長も昨日から“信頼してる”って顔だった」
「顔に出てました?」
「出てた出てた! あの人、すみれちゃん相手だとわかりやすいから」
「や、やめてください……!」
真っ赤になってうつむく。けれど胸の奥はうれしさで満ちていく。誰かに必要とされている実感は、こんなにも力になるんだ。
すると書庫の扉が開き、ライアンが入ってきた。朝の光を背にして立つ姿は、やはり圧倒的に大きく見える。けれど今は怖くない。ただ安心する。
「準備はどうだ」
「完了しました」
「よし。出発は一刻後だ。補給隊の指揮はお前に任せる。俺は随伴するが、指示はお前から出せ」
「はい!」
自分の声がしっかりしているのが嬉しかった。ライアンの灰青の瞳が一瞬だけ細められ、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「無理はするな。それだけは約束しろ」
「はい」
そのやり取りのあいだ、マリエルがニヤニヤとこちらを見ているのが視界の端に入る。たぶん後でまたからかわれるだろう。けれど今はそれすら心強い。
出発の準備が進む中、私は騎士たちと共に荷車の点検や物資の積み込みを確認していった。初めて私が中心になって動く現場。けれど不思議と混乱しなかった。みんなが「すみれ、次はどうする?」と自然に聞いてくれるからだ。
「ここ、燃料をもう一束追加してください。雪が深くなるかもしれません」
「了解!」
頼んだことが即座に動いていく。数字の上でしかなかった計画が、目の前で形になっていくのを初めて見た。胸が熱くなる。
そこへライアンが近づいてきた。雪を踏む音だけで誰かすぐわかるようになってしまったのが、自分でも可笑しい。
「順調か」
「はい。もうすぐ出発できます」
「いい判断だ」
短い言葉がすべてを肯定してくれる。心がまた力を得たように感じた。
準備が整い、騎士たちが馬車の手綱を握る。私が先頭に立つと、少しどよめきが起きたが、すぐに笑顔と歓声が返ってくる。
「隊長、よろしくお願いします!」
「はい、頼りにしてます!」
声が胸に響く。私がここにいることを、皆が当然のように受け入れてくれている。その事実に泣きそうになりながらも、笑顔で手を振り返した。
隣にライアンが馬にまたがり、短く号令をかける。
「出発!」
馬車の車輪が雪を踏みしめ、ゆっくりと砦を出る。冷たい空気の中、隊列が動き出した。先頭に立つ私の背中を、温かなまなざしが押してくれている気がした。
白い道の先に、村々と人々の暮らしがある。私が守りたいもの、届けたいものがそこにある。
そして、その道を共に進む仲間がいる。
心の中で小さくつぶやく。
――もう私は無能じゃない。ここで、生きていく。
雪空の下、馬車のきしむ音と騎士たちの笑い声が混じり合い、新しい一日が静かに始まっていった。
・
第16話 初任務の道と“信じる力”
白い息を吐きながら、私は雪道を進んでいた。馬車の先頭に立つのは初めてだ。冷たい空気が頬を刺すけれど、不思議と怖くはない。背後には補給隊の仲間たち、さらに後方にはライアンの灰青の瞳。その存在が背中を温めてくれる。
「すみれ隊長、前方の雪深いです!」
騎士のひとりが馬上から声をかける。私はすぐに地図と周囲の地形を頭に浮かべ、判断した。
「道幅が広い南側の林道に入ります! 荷車は順番に、私の合図で!」
「了解!」
雪の舞う中、指示がすぐ動きに変わっていく。その速さに胸が熱くなる。昨日まで“無能”と呼ばれていた私が、今は進む道を決めている。
「判断が早い」
いつのまにかライアンが横に馬を並べていた。低く抑えた声が冷たい風を切って届く。
「地形を覚えたのか?」
「はい、事前に調べました。冬はこっちの道の方が安全だと聞いて」
「……正解だ」
その短い言葉だけで体の芯が温まった。彼の目はいつも鋭いけれど、今はわずかに優しい光が宿っている。
「ありがとう。あなたがいてくれるから、怖くないです」
「……俺がいるからではない。お前が強くなったからだ」
即座に返されたその言葉に胸が詰まった。視線を逸らすと、ライアンはそれ以上何も言わず、再び前を向いた。けれどその横顔から伝わる安心が、私の心をやわらかく満たしていく。
進むにつれて雪は深くなり、時折木々から雪が落ちる音が響く。馬車の車輪が重くなり、騎士たちの声も慎重さを帯びた。
「ここで一度止まりましょう!」
私は手を上げて合図する。馬車がゆっくりと止まり、荷の状態を確認する。燃料の束に雪が積もっていたので、手早く払いながら声をかけた。
「この先は傾斜がきついです。荷の重さを分散しましょう!」
「了解!」
騎士たちが動き始める。マリエルが駆け寄ってきて小声でささやく。
「すごいね、すみれちゃん。完全に指揮してる!」
「そんな……でも、みんなが動いてくれるから」
「それが“指揮”だよ」
マリエルの笑顔に胸がじんとした。まさか自分が人を導く立場になれるなんて、ほんの数週間前まで想像もしなかった。
荷の積み直しが終わると、私は馬車の隊列をもう一度確認する。ライアンが近づき、低く言った。
「判断と指示、完璧だ」
「ありがとうございます」
「もう迷っていないな」
その言葉に思わず笑顔になってしまう。
「はい。……怖くないです」
「いいことだ」
ライアンの瞳がわずかにやわらぐ。ほんの少しの表情の変化なのに、胸が強く温まる。
「出発だ」
「はい!」
再び隊列が動き出す。雪をかき分ける音と馬のいななきが冬の森に響く。冷たい空気の中で、私の胸だけは燃えるように熱い。
やがて遠くに村の屋根が見えてきた。白い雪をかぶった木造の家々から、煙が細くのぼっている。安堵と同時に、使命感が強くわき上がった。
「もうすぐです! 最後まで気を抜かずに!」
「おう!」
騎士たちが一斉に声を返す。力強い返事が心地よくて、思わず笑顔になる。
隣のライアンがちらりと私を見た。
「その顔だ。いい指揮官の顔だ」
「……!」
顔が一気に熱くなる。でもそれ以上に、誇らしい。
村に到着すると、人々が凍えた手を振って出迎えてくれた。ほっとした顔、安堵の笑み。荷を降ろすと、子どもたちが駆け寄ってくる。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
「助かったよ!」
胸の奥がじんわり熱くなる。言葉にならないくらい嬉しい。王都では決してもらえなかった“ありがとう”が、雪の中でこんなにも響く。
ライアンが少し離れた場所からこちらを見ていた。灰青の瞳が静かに、けれどどこか誇らしそうに光っている。
その視線に、私の胸が再び熱くなった。
――私、ちゃんと役に立ててる。
雪の白さの中で、そう強く感じられた瞬間、世界が美しく輝いて見えた。
・
村に到着すると、雪を踏みしめて人々が次々と集まってきた。凍えた頬に笑顔が戻り、子どもたちが歓声を上げながら駆け寄ってくる。
「本当に来てくれた!」
「助かるよ、これで冬が越せる!」
その声に胸がぎゅっとなる。荷を下ろす手を止め、私も自然と微笑んでいた。マリエルが後ろから肩を叩く。
「ほら、すみれちゃん。みんな、君にお礼言ってる」
「……私に?」
「当然じゃん。君が道を決めて、隊を動かしたんだよ」
言葉が喉に詰まりそうになる。だけど子どもたちの視線がまっすぐ私を見ていて、何かが胸の奥で弾けた。
「ありがとう!」
小さな男の子が差し出したのは、雪の上で拾った赤い木の実だった。手袋越しでもその温かさが伝わってくる気がした。
「ありがとう……私たちも、来られてよかった」
そう返すと、子どもがにぱっと笑う。その笑顔のまぶしさに胸がじんとする。王都では誰も私を見ようとしなかったのに、今はこんな風に真っすぐな目が向けられている。
そのとき背後から低い声がした。
「積み下ろし完了したか」
振り返ると、ライアンが馬を降りてこちらへ歩いてくる。雪を踏む足取りが重く響き、でもどこかやわらかい。
「はい。物資は予定通り届けられました」
「よくやった」
灰青の瞳がまっすぐ私をとらえる。雪の光を受けて、澄んだ湖のようにきらりと光った。
「村人たちも安心している」
「……それが一番うれしいです」
「お前がここまで導いたんだ」
胸の奥が熱くなる。私は思わず背筋を伸ばした。
「団長がいてくれたからです。道中も、私の判断が正しいかずっと確認してくれて」
「確認ではない。お前の判断を尊重していた。俺は支えただけだ」
その言葉に息が詰まる。自分の力を、ちゃんと認めてもらえた。胸の奥で静かに震えるものがあった。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。だが誇れ」
ライアンの目が少しやわらいだ。そのわずかな変化が、世界のどんな褒美よりも大切に思えた。
物資の配布が進むあいだ、村の人々が温かいスープを用意してくれた。香草の匂いと肉の香りが雪の冷たさを溶かすように広がる。
「寒かったろう、食べていってくれ!」
「ありがとう……ございます」
器を受け取り、熱いスープをすすると、身体の芯から力が戻ってくる気がした。隣のマリエルも満面の笑みで「おいし~!」と叫んでいる。
「ね、団長もどう?」
「……いただく」
ライアンが器を受け取り、一口飲んだ。わずかに頬の筋肉が緩む。珍しいその表情に、村人たちが小さくざわついた。
「団長が笑った……?」
「はは、今日は特別だな!」
からかう声にライアンが軽く眉をひそめる。けれど怒ってはいない。私の方をちらりと見て、ほんの一瞬だけ目尻がやさしくなった。
「何ですか?」
「いや……よくやったな、と思っただけだ」
頬が一気に熱くなる。スープの熱ではない。胸がいっぱいで、うまく笑えなくなった。
しばらくすると、村の年配の女性が小さな布包みを手に近づいてきた。
「これを……あなたに」
「え、私にですか?」
「昨日の雪崩から救ってくれたと聞いた。若いのに、しっかりしてるんだねぇ」
包みを開けると、中には編み込まれた小さな護符のようなものが入っていた。白い糸と赤い糸が交差して、雪の結晶の形になっている。
「冬を越せるように、村で作るお守りだよ。持っていくといい」
胸が詰まって、何も言えなくなった。必死に声を絞り出す。
「ありがとうございます……大切にします」
「いい子だねぇ」
頭を優しく撫でられる。子どものように、だけど不思議と誇らしくて、涙がこぼれそうになった。
ふとライアンが近づいてきて、静かにそのお守りを見た。
「似合っている」
「えっ……!」
「そのお守り。お前にぴったりだ」
さらりと言われて、息が止まった。灰青の瞳がまっすぐすぎて、心臓が壊れそうに跳ねる。
「だ、団長……」
「行くぞ。もう少しで戻る」
「あ、はい!」
馬に乗ると、村人たちが一斉に手を振ってくれた。
「ありがとうー!」
「また来てねー!」
その声が雪原に響き渡る。胸がじんわり温かく、目頭が熱くなる。私は振り返って大きく手を振った。
「ありがとう!」
馬車が雪道を進みだす。後ろを振り返ると、村の灯りが白い世界の中で小さく揺れていた。私の胸にも、その灯りがひとつ灯った気がする。
ライアンが少し前を歩きながら、ふと声をかけた。
「よくやった」
また、その言葉。何度聞いても心が震える。
「ありがとうございます」
「これからも頼りにする」
「……はい!」
空を見上げると、雪はまだ降っているのに、どこか優しく見えた。寒さよりも、胸のあたたかさの方が強い。
――私はもう、ここで生きていける。
その確信が、白い道の上でさらに強くなっていった。
・
砦に帰りついたのは日がすっかり傾いたころだった。長い雪道を戻ってきたにもかかわらず、隊の空気は疲れよりも達成感で満ちていた。門が開くと同時に中庭から歓声が上がり、留守番をしていた騎士たちが駆け寄ってくる。
「おかえり!」
「物資は無事届けられたか?」
「もちろん! 隊長のおかげでな!」
いきなり“隊長”と呼ばれて顔が熱くなる。けれど嫌じゃない。むしろ胸の奥にふわりと力が宿る。
「みんなのおかげです。私ひとりじゃできませんでした」
「へへっ、そういうとこがまたいいんだよな~」
笑い声が弾ける。その輪の中に自然と立てているのが嬉しい。いつのまにか私は、ここで“仲間”として受け入れられている。
そこへライアンが馬から降りてきた。雪を払う仕草ひとつで空気が引き締まるが、目は柔らかかった。
「無事帰還。全員、よくやった」
「おおーっ!」
歓声が再び上がる。ライアンは私の方をちらりと見ると、わずかに口元を緩めた。
「水野、報告をまとめてくれ。終わったら執務室に来い」
「はい!」
隊員たちが「お疲れ!」と次々声をかけてくれる中、私はマリエルと笑顔を交わした。
「ね、立派な隊長だったよ」
「そんな……でも、うれしい」
「でしょ? ほら、顔がほころんでる」
「だって……」
うまく言葉にならず、ただ笑った。心の奥がずっと温かくて、雪の冷たさなんて忘れてしまう。
しばらくして報告書をまとめ、執務室の扉をノックする。
「入れ」
中に入ると、ライアンが地図を片付けていた。灰青の瞳がこちらをとらえる。
「任務、ご苦労だった」
「ありがとうございます。皆のおかげで無事に終えられました」
「お前が導いたからだ。遠慮するな」
そのまっすぐな言葉に胸がじんとする。思わず顔が熱くなった。
「……私、少しは役に立てましたか?」
「ああ。十分すぎるほどだ。今日の判断は完璧だった」
“完璧”という言葉がまた胸を震わせる。何度も欲しかった承認が、ようやく今ここで手に入っている。
「これからも頼む。補給線はお前が中心だ」
「はい……! 必ず」
「無理はするな。それだけは守れ」
優しい声。いつのまにかその響きが、私の中で大切な灯りになっている。
ライアンが机の引き出しを開け、小さな革の手帳を取り出した。
「これを持て」
「え?」
「補給線の記録用だ。俺が昔使っていたものだが、お前の方がもう適任だ」
「そんな、大切なもの……!」
「持っていけ。必要な人間に渡す方が意味がある」
そっと受け取ると、手帳は長い年月を刻んだ温もりを宿していた。ページの端が少し擦り切れていて、そこに積み重ねられた努力が感じられる。
「……大切に使います」
「ああ」
短い返事。それだけなのに、胸がまた熱くなる。
ふいに沈黙が訪れた。窓の外では雪が舞っている。灰青の瞳と目が合ったまま、時間がゆっくり流れた。
「すみれ」
「はい」
「お前が来てから、この砦は少しずつ変わっている。数字だけじゃなく、人の空気が」
「空気……?」
「皆が安心して働けるようになった。俺自身も、だ」
言われた瞬間、息が詰まった。ライアンの言葉はいつも必要最低限なのに、ひとつひとつが重く、心を揺さぶる。
「……うれしいです」
「これからも頼りにしている」
「はい!」
まっすぐ返事をすると、ライアンがわずかに微笑んだ。ほんの一瞬だけど、確かに笑った。
その笑みを胸に刻みながら、私は手帳を抱きしめる。
無能だと追い出された日からは考えられないほど遠くに来た。ここでは必要とされ、信じられ、任されている。
扉を出ると、廊下の先からマリエルの声がした。
「終わったー? ご飯食べに行こうよ!」
「うん!」
返事をしながら足取りが自然と弾む。外は相変わらず雪が降っているけれど、もう怖くない。冷たい白が、未来を照らす道に見える。
――私はもう、ひとりじゃない。
胸にその確信を刻んで、私は新しい一歩を踏み出した。
・
第17話 “私の居場所”が形になる日
砦の朝はまた冷え込んだ。窓を開けると雪の光が差し込み、白い息が空に消えていく。けれど胸の中は不思議とあたたかい。昨日、任務を終えて戻った私を待っていた笑顔、そしてライアンから託された古い手帳――そのすべてが心を支えている。
ベッドの横の机に手帳が置かれている。革の表紙は使い込まれて柔らかく、角が丸くなっていた。そっと手を伸ばして撫でると、まだライアンの温もりが残っている気がして胸がくすぐったくなる。あれは“信頼”の重みだ。しっかり応えなくちゃと思う。
廊下に出ると、マリエルが腕を組んで待ち構えていた。
「おはよう、隊長さま~」
「やめてってば、その呼び方」
「ふふ、でもほんとに隊長だもん。昨日の帰還、みんな大騒ぎだったんだよ。ほとんど英雄扱い」
「英雄なんて……」
言いかけて顔が熱くなる。英雄だなんて自分に似合わないけれど、心の奥がほんのりうれしい。
「団長もね、珍しくずっと上機嫌だった。気づいてた?」
「え、そうなの?」
「うん。目で追ってたよ、君のこと」
「やめて……!」
真っ赤になって慌てると、マリエルがにやにや笑った。
「でもそれくらい信頼されてるってことだよ。すみれちゃんが来てから、砦がほんと変わったもん」
「変わった……?」
「うん。みんなが安心して笑う時間が増えた。団長も、表情が少し柔らかくなったし。前はほんと石像みたいだったんだから」
「そんなに?」
「そんなに」
マリエルの明るい声に、胸がじんとした。私がここを変えたなんて、信じられない。でも、少しだけ誇らしい。
二人で歩きながら、外の雪景色を眺める。白い道の向こうで訓練している騎士たちの笑い声が聞こえた。冬の空気の中で、どこか柔らかな温もりが広がっている。
執務室に入ると、ライアンが書類を広げていた。私に気づくとすぐ顔を上げる。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。昨日の記録、読んだ。よくまとまっていた」
「ありがとうございます」
「次の補給路の整備を進めたい。お前の意見を聞かせろ」
「はい!」
机に並ぶ地図を見て、私は考えをまとめる。もう怖くない。昨日までの経験が背中を押してくれる。
「ここに臨時の補給所を増やせば、北の集落も安心です。燃料と食糧を分散させた方が雪崩のリスクにも対応できます」
「なるほど」
ライアンの灰青の瞳がじっと私を見つめ、短くうなずく。
「判断が的確だ。やはり任せて正解だった」
「……!」
胸がまた温かくなる。まっすぐ褒められることにまだ慣れていないけれど、今はただうれしい。
「それと――」
ライアンが少し言い淀むのを初めて見た。珍しい光景に思わずまばたきをする。
「王都に追加の報告を送る。補給隊長としてお前の名を正式に記載する」
「えっ……!」
思わず声が裏返った。私の名前が正式に、砦の役職として王都に知られるなんて。
「団長、それって……」
「正当な評価だ。お前の働きが砦の戦力だと、はっきり示す」
「……!」
目の奥がじんと熱くなった。王都から無能と追い出された私の名前が、今度はこの場所の“力”として記される。信じられないくらいうれしくて、涙が出そうになる。
「いいか?」
「はい……ぜひお願いします」
「よし」
ライアンが短く頷く。その瞳がどこか誇らしげで、胸がさらに熱くなった。
「あともうひとつ」
「?」
「正式な隊長として、装備を支給する。外套に合わせて、専用の徽章を付けろ。今日のうちに用意させる」
「徽章……!」
思わず息をのむ。砦の仲間の証。それを私が受け取れるなんて。
「ありがとうございます」
「当然だ。お前はもう、この砦の一員どころか要だ」
言葉が胸に突き刺さる。嬉しくて、苦しくて、でもなにより誇らしい。
ふいにマリエルが小声で「泣いちゃだめだよ」とささやいた。私は慌てて目をこすって笑う。
「泣いてません!」
「はいはい、すてきな隊長さん」
「もー……」
けれど、笑いながらも胸の奥は熱くてたまらない。私の居場所が、こうして形になっていくのを確かに感じている。
――私はもう、ここに生きているんだ。
雪の白ささえ、今日からは自分の未来を照らす光に見える。
そして、その未来の横にはきっと、あの灰青の瞳がある。胸が少しだけ高鳴った。
・
午後、砦の鍛冶場の方から金属を打つ音が響いていた。私はマリエルと一緒にそちらへ向かう。今日、私のための徽章が仕上がるのだ。胸が落ち着かない。足取りも自然と早くなる。
「緊張してる?」
「う、うん……なんか信じられなくて」
「そりゃそうだよね。昨日までただの“事務係”だったんだもん」
「ただの……言い方!」
「あはは、でも本当じゃん。今や砦の要だよ。胸張っていいんだって」
笑い合いながら鍛冶場に着くと、炉の前にいた職人がこちらを振り返った。頬に煤をつけたがっしりした男で、でも目がやさしい。
「来たか。これだ」
差し出された小箱を開けると、中には小さな銀の徽章が入っていた。雪の結晶をかたどり、その中心に砦の紋章が刻まれている。繊細で美しく、同時に力強さもある。
「……わぁ」
息を呑む。こんなに綺麗なものが自分のものになるなんて。
「隊長の証だ。大事にしろよ」
「ありがとうございます……」
胸がいっぱいになって声が震えた。マリエルが後ろでにっこり笑っている。
「つけてあげるよ、はい」
マリエルが外套の肩口に徽章をつけてくれた。カチリと金具がはまる音がした瞬間、胸の奥でなにかが確かに変わった。
――私は、ここにいる。
頭ではなく、心がそう実感した。
「似合ってる!」
マリエルの声に、職人たちも頷いてくれる。
「うん、立派なもんだ。団長もこれで安心だろうな」
安心、という言葉に胸が熱くなる。ライアンが私を信じてくれたから、ここまで来られたんだ。今度は私がこの徽章を守り、みんなを守っていかなきゃ。
「……ありがとうございます。本当に、がんばります」
深く頭を下げると、職人が照れくさそうに笑った。
「がんばれよ、隊長」
胸の奥がじんわりと温かくなった。
部屋に戻る途中、マリエルが横でひそひそと笑う。
「ほら、団長のとこに見せにいこ!」
「えっ、でも忙しいかも」
「いいの! 団長絶対喜ぶよ」
「よ、喜ぶかな……」
「間違いない!」
背中を押されるまま執務室へ行くと、扉の向こうから書類をめくる音が聞こえた。緊張しながらノックする。
「入れ」
扉を開けた瞬間、ライアンの灰青の瞳がこちらをとらえた。机から顔を上げ、私の肩を見て一瞬だけ目が揺れる。
「……できたか」
「はい。徽章、受け取りました」
少し照れながら言うと、ライアンはゆっくり立ち上がった。近づいてきて、徽章に視線を落とす。
「よく似合っている」
低く、でも温かい声。胸が一気に熱くなる。
「ありがとうございます。これから、もっとがんばります」
「もう十分だが……さらに上を目指せるなら、それもいい」
灰青の瞳がまっすぐに私を射抜く。心臓が跳ねる。けれど目をそらさずに返せた。
「はい!」
ライアンの口元がほんのわずかに緩む。珍しく長く私を見つめたあと、低くつぶやいた。
「安心した」
「え?」
「お前がここまで来たことが。……あの日、城から追放されてきたときは正直、どうなるかと思っていた」
「……!」
「だが、今はもう心配していない。お前はここで生きていける」
その一言で胸が溢れそうになった。目の奥がじんわり熱くなる。でも泣きたくない。だから精一杯笑った。
「はい。ありがとうございます、団長」
「礼はいい。俺がしたいことをしているだけだ」
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれる。ライアンがわずかに眉をひそめるが、目はやさしい。
そのとき、後ろでマリエルがわざとらしく咳払いをした。
「おーい、お二人さん。世界から二人きりになってない?」
「なってない!」
「なってる~」
マリエルが笑いながら部屋を飛び出していく。ライアンが少し肩をすくめた。その仕草が意外で、私は思わず笑ってしまう。
「仲間に恵まれたな」
「はい。本当に」
外はまた雪が降り始めていた。けれど今はもう、白い冬が怖くない。心の奥に灯りがあるから。徽章がそれを象徴している。
私は肩に光る小さな銀の印をそっとなでた。
――この場所で、これからも進んでいける。
その決意が胸いっぱいに広がっていった。
・
その日の夜、砦の食堂はまた温かな灯りで満ちていた。昨日に続く祝賀というより、日常の中のささやかな宴。けれど今夜はいつもより笑い声が大きい。私の肩に新しい徽章が光っているからだ。
「隊長就任おめでとー!」
「うちの隊長、ばんざーい!」
大げさに歓声を上げる騎士たちに、思わず笑ってしまう。マリエルが横で手を叩いている。
「ほらほら、みんな! すみれ隊長のスピーチを~!」
「えっ、ちょ、待って!」
騎士たちの拍手がどんどん大きくなる。逃げ道がなくなって、私はしぶしぶ立ち上がった。胸がどきどきしている。けれど、もう怖くはない。
「あの……みんな、ありがとうございます。こんなふうに迎えてもらえるなんて、夢みたいで」
少し声が震えたけれど、すぐに笑顔を作れた。
「でも、ここに来てからずっと感じています。私ひとりじゃ何もできなかったけど、みんなが力を貸してくれて、支えてくれて……それで初めて前に進めました」
視線を巡らせると、みんながうなずいてくれている。目頭がじんわりする。
「だから、これからは私も、みんなを支えたい。補給の仕事で、少しでも力になりたいです。……よろしくお願いします!」
拍手と歓声がわっと広がった。マリエルが涙ぐみながら笑っているのが見える。誰かが「隊長ー!」と叫んで、別の誰かが「頼むぞー!」と続いた。
そのとき、少し離れた席のライアンが立ち上がった。食堂が一瞬静まり返る。灰青の瞳がまっすぐこちらをとらえていた。
「聞いたとおりだ。水野すみれは今日から正式に補給隊長だ。俺の保証する仲間であり、砦の要だ」
低く響く声が、静けさを震わせる。私の胸が大きく鳴った。
「彼女を信じろ。守れ。そして共に進め」
騎士たちが一斉に「おう!」と応えた。その声の中に、疑いも遠慮もなかった。完全に受け入れてくれている。私の胸がいっぱいになって、思わず目を伏せた。
ライアンは私を一瞬だけ見つめたあと、静かに席に戻った。けれどその灰青の目は、確かにやわらかな光を宿していた。
宴が再びにぎやかになり、マリエルが隣に戻ってくる。
「ほらね、みんな君を待ってたんだよ」
「うん……」
「団長の言葉、すごかったね。あんな大勢の前で“保証する”なんて滅多に言わないんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。団長は普段、感情を表に出さないから。あれは特別」
胸がまた熱くなった。思い出すだけで涙が出そうになる。けれど今は泣かない。笑ってこの瞬間を覚えておきたい。
夜が更けても、笑い声は絶えなかった。私も何度も杯を交わし、みんなと笑った。ふと視線を感じて顔を上げると、ライアンがこちらを見ていた。目が合うと、ほんの一瞬だけ、彼が口元をわずかに緩めた。
胸の奥がふわりと温かくなる。心のどこかが、やさしく満たされていく。
――もう、私はひとりじゃない。
そう思えた瞬間、世界がすっと広がったような気がした。
部屋に戻ると、徽章を外して机に置く。花束と手帳の横に並んだそれは、まるで新しい私の物語のしおりのようだ。
窓の外では雪が静かに降り続いている。けれどもう寂しくない。あの白は未来の道を照らしてくれる光だ。仲間がいて、信じてくれる人がいて、私の足跡が確かにそこに刻まれている。
「ここが、私の場所だ」
小さくつぶやくと、不思議と胸があたたかくなった。昨日までの自分を遠く感じる。無能でも、ひとりぼっちでもない。今は、信じてくれる声と笑顔がある。
ベッドに横たわり、外套にくるまる。徽章の重みを胸に感じながら、私は静かに目を閉じた。
新しい明日を迎える準備は、もうできている。
・
第18話 はじめての“守りたいもの”
翌朝、まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた。部屋の窓は白く霞んで、外は一面の雪景色。けれど心は軽い。昨日の夜の声援と拍手がまだ耳の奥で響いている。胸の奥がほんのり温かくて、毛布の中で思わず笑ってしまった。
机の上には、花束と手帳、そして銀の徽章。小さなそれが、世界を変える力を持っているように見える。ゆっくりと手を伸ばして指先で触れると、金属の冷たさの奥に、自分の新しい居場所の重みを感じた。
着替えを済ませ、外套を羽織る。肩口にしっかりと徽章を装着すると、体が自然にしゃんと伸びた。今日からは“隊長”としての日常が本当に始まるのだ。胸の奥に小さな緊張と、心地よい決意が同時に灯る。
廊下を歩くと、マリエルがすでに待っていた。両手にパンを抱えてにやりと笑う。
「おはよ、隊長さま!」
「もう、その呼び方……」
「いいじゃん、かっこいいんだから。ほら、朝ごはん一緒に食べよ」
並んで食堂へ向かう途中、窓の外では訓練中の騎士たちが手を振ってくれた。
「おーい、隊長!」
「今日もよろしく頼むぜ!」
思わず手を振り返す。胸の奥がじんわりと温かくなる。このやりとりひとつひとつが、居場所の証みたいで愛おしい。
食堂の扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが広がった。温かい湯気と、木のテーブルを囲む仲間たちの笑顔。マリエルが私の席を引いてくれる。
「ほらほら、昨日の英雄はここ!」
「英雄じゃないってば!」
思わず笑いながら腰を下ろすと、隣からパンを差し出される。
「でも昨日はほんとにすごかったよな。あの判断なかったら、もっと時間かかってた」
「いや、私だけじゃないです。みんなが動いてくれたから」
自然にそう返せた。自分を卑下するのではなく、仲間を信じての言葉。昨日の私ならできなかったかもしれない。
すると食堂の奥の扉が開き、ライアンが入ってきた。場が一瞬静かになり、すぐにざわめきと笑い声が戻る。
「団長、おはようございます!」
「おはよう」
低く響く声。そのままこちらに歩いてくる気配に、胸がどきんと鳴った。
「水野」
「おはようございます、団長」
「今日の巡回計画を後で確認したい。時間を取れるか?」
「はい、大丈夫です」
「助かる」
ほんのそれだけの会話なのに、周りの騎士たちがクスクス笑っている。マリエルが小声で「団長、柔らかい声だった~」と囁くから余計に頬が熱くなった。
「そ、そんなことないです」
「あるある」
マリエルがにやりと笑う。その空気さえ心地よい。
朝食を終えると、砦の中庭で騎士たちと巡回計画を確認した。雪道の補修、倉庫の在庫確認、村との連絡。やるべきことは山ほどあるけれど、不思議と怖くない。数字や地図を見ながら自然に判断ができる。
「すみれ隊長、倉庫の鍵は?」
「あ、はい。こちらで」
鍵束を差し出しながら、心のどこかで感動していた。ついこの間まで“書類整理係”だったのに、今はこうして動いている。信じてもらえて、仲間がいて、自分の言葉が役に立っている。
ふと、外で雪を払っていたライアンと目が合った。彼はいつもの無表情のまま、けれど一瞬だけ目を細めた。胸がふわりと温かくなる。
――あの人が、私を見ている。
その事実だけで、また一歩前に進めそうな気がした。
昼前、書庫で書類をまとめていると、マリエルが駆け込んできた。顔が少し強張っている。
「すみれちゃん、南の村から使いが来た!」
「村から?」
「うん。どうも、橋が雪で崩れそうなんだって!」
「……!」
瞬時に頭が働く。地図を広げ、補給路を確認する。もし橋が落ちれば、南側の村々は孤立してしまう。
「すぐ対応しなきゃ。物資と人員を集めるわ」
「了解!」
マリエルが走って出ていく。私も徽章に触れ、息を整えた。初めて自分から指揮をとる緊急対応――けれど不思議と恐怖より先に責任感が湧く。
外へ出ると、すでに騎士たちが集まり始めていた。そこへライアンが現れる。雪を払う仕草と共に、灰青の瞳がこちらをとらえる。
「状況は?」
「南の橋が危険です。すぐに補強材を運びます。人員を五人ほど借りられますか?」
「いい判断だ。任せる」
その一言で背筋が伸びた。信頼されているのがわかる。胸が熱くなり、同時に勇気が湧く。
「隊を動かします!」
私の声が雪原に響く。騎士たちが「おう!」と応えてくれる。その力強さが心に灯をともした。
――守りたい。
初めて、強くそう思った。自分の力で誰かを守りたいと。ここで生きていくと決めた私の未来は、もう始まっているのだ。
・
雪道を駆け抜けながら、息が白く弾けた。後ろには物資を積んだ荷車と騎士たち。手袋の中の手がじんわり汗ばむ。緊急の現場指揮は初めてだ。でも怖くない。昨日までの経験が背中を押してくれている。
「速度を落とさないで! でも車輪が埋まりそうになったらすぐ知らせて!」
「了解!」
雪煙を上げながら進む隊列。その先頭に立つ自分がいることに、胸がじんとした。もう“無能”と罵られたあの日の私じゃない。
南の谷に差し掛かると、崩れかけた木の橋が見えてきた。雪に押しつぶされるようにしなっていて、下には冷たい川が流れている。村の人たちが不安そうに集まっていた。
「隊長さん! よく来てくれました!」
「状況は?」
「昨日の夜からきしむ音がして……今にも落ちそうで」
すぐに橋を確認する。雪の重みと古い材木の劣化。数字が頭の中で瞬時に組み上がる。荷の重さ、支柱の角度、補強材の長さ。
「まず人を下げて! 橋の上には誰も乗らないで!」
「わかった!」
「補強用の材木をこの角度で差し込みます。ロープを二重にして支柱を固定して!」
騎士たちが素早く動き、村人たちも加勢する。冷たい風が頬を刺すけれど、頭は驚くほど冴えていた。
「マリエル、釘とハンマーを!」
「はい!」
息を切らしながらマリエルが走ってくる。私たちは息を合わせて補強材を打ち込んだ。橋が大きく軋むたびに胸が締めつけられるが、手を止めない。
「ロープをもっと強く引いて! そう、今!」
力を合わせた瞬間、ギギギ……と音を立てて橋が持ち直した。皆の手が一斉に止まる。凍りついていた空気が、ふっと緩んだ。
「……よし!」
思わず声が出る。騎士たちが歓声を上げ、村人たちがほっとした顔になる。
「これでしばらくは安全です。ただ、完全に直すには材木の追加が必要です。次の便で送ります!」
「助かります、隊長さん……!」
年配の男性が手を握ってきた。ごつごつしたその掌の温かさが胸の奥に広がる。
「よくやったな」
背後から低い声。振り返ると、ライアンが雪まみれになって立っていた。いつのまにか近くで見守っていたらしい。
「団長……」
「判断も指揮も完璧だ」
短い言葉に胸が熱くなる。昨日と同じ“完璧”が、今度はもっと大きな意味を持って聞こえた。
「ありがとう。みんなが動いてくれたからです」
「お前が動かしたからだ」
その目がまっすぐに射抜いてくる。胸の奥でなにかが静かに震えた。
「俺が行くより早かった。よくやった」
「……!」
うまく返事ができず、ただ頷く。雪と涙とが混ざりそうになりながら、必死に笑顔を作った。
ライアンがほんの少しだけ近づく。灰青の瞳がすぐそばにある。心臓がうるさい。
「お前の判断で、村が守られた」
「……私、守れたんですね」
「守ったんだ。もう疑うな」
短く、でも力強く。胸の奥で何かがほどける音がした。今までずっと心のどこかにあった“自分なんか”という呪いが、雪と一緒に溶けていくようだった。
「はい……!」
返事が自然に出た。涙が出そうだったけれど、今は泣きたくなかった。ただ笑いたかった。胸が熱くて、誇らしくて。
「よし。戻るぞ」
「はい!」
村人たちが何度も頭を下げる中、隊列は砦へ向けて動き出す。荷車の音と歓声が白い谷に響く。マリエルが横でニコニコ笑いながら私をつついた。
「ねえ、今の団長の顔、やばかったよ」
「やばいって何よ!」
「めっちゃ“誇ってる顔”! 団長の辞書にそんな顔あるんだね」
「やめてってば!」
真っ赤になりながらも、頬の熱は消えなかった。胸の奥がじんわりと満ちていく。
――守れたんだ、私。
その実感が雪道を照らしてくれる。冷たい世界が今はまぶしく、あたたかく見える。
そして心の奥に、ひとつの想いが芽生えた。
――この砦も、この人たちも、守りたい。
初めて、そんな言葉が自分の中でしっかりと形を持った瞬間だった。
・
砦に戻ったのは日がすっかり沈むころだった。冬の空は群青に沈み、雪の白さだけがぼんやりと道を照らしている。疲れて足は重いはずなのに、胸の奥は不思議と軽かった。後ろを振り返ると、騎士たちが笑顔で手を振り合っている。達成感のある帰還だった。
「帰ったぞー!」
「隊長、ナイス判断だったぜ!」
「橋、がっちりだったな!」
歓声と笑い声が雪を弾き返すように広がる。私は思わず笑ってしまった。昨日の私より、今日の私がほんの少し大きくなった気がする。
砦の門が開き、中庭に入ると留守番の仲間たちが出迎えてくれた。
「無事でなにより!」
「南の村、これで安心だな!」
何人もの手が肩を叩いてくる。そのひとつひとつが、あたたかくて力強い。マリエルが後ろから抱きついてきた。
「隊長~! かっこよかった!」
「もう、やめてよ!」
恥ずかしくて笑いながらも、胸は誇らしさでいっぱいだった。
そこへライアンが近づいてきた。足音ひとつで空気が少し引き締まるが、灰青の瞳は静かにやさしい。
「水野」
「はい、団長」
「よくやった」
それだけの言葉なのに、胸が熱くなる。息が詰まりそうで、でも嬉しくて、しっかり頷いた。
「ありがとうございます」
「正式な報告は明日でいい。今日は休め」
「はい」
ライアンが立ち去る背中を見送る。大きくて頼もしい背中。でもさっきの“よくやった”が私を包んでくれる。もうあの背をただ追いかけるだけじゃない。並んで歩いていける気がする。
その夜、部屋に戻ると疲れがどっと押し寄せた。けれど心は軽い。机の上には手帳と徽章が静かに光っている。私はそれを胸に当て、ふうと息をついた。
今日、初めて誰かを“守った”。王都では一度もできなかったこと。誰かの笑顔を、私の判断で生むことができた。
目を閉じると、雪の橋と村人たちの笑顔、そしてライアンの“守ったんだ”という言葉が浮かんだ。胸が熱くなり、同時にやわらかい安心が広がっていく。
「……私、ここで生きていける」
声に出すと、心の奥まで届いていくようだった。
そのとき、またノックの音がした。
「すみれ、起きているか」
「団長……? どうぞ」
扉を開けると、ライアンが立っていた。雪を払ったままの姿で、手に包みを持っている。
「遅くにすまない。少しだけ」
「大丈夫です。どうかしました?」
ライアンが包みを机に置く。中には厚手の手袋と新しい地図が入っていた。
「明日以降の補給計画に役立つはずだ。南の橋も補強を続けるなら資材の経路を見直す必要がある」
「あ、ありがとうございます!」
私が目を輝かせると、ライアンの表情がほんの少し柔らいだ。
「それと……今日のことだが」
「はい」
「誇れ。お前がいなければ村は孤立していた。俺も、助かった」
心臓が一気に跳ねた。目が合う。灰青の瞳は静かで、でもどこか熱を帯びている。
「団長……」
「今まで守る側だと思っていたが、今日はお前に助けられた」
その言葉が胸の奥に響き、目頭が熱くなった。涙をこらえて笑う。
「私、団長に助けられてばかりだから……少し返せたならうれしいです」
「十分返している」
即答。その低い声があたたかくて、心臓が痛いくらい。
「これからも頼む。……共に守っていこう」
「はい!」
強くうなずいた。もう迷わない。この人と、この仲間たちと生きていく。守りたいと、はっきり思えたから。
ライアンはわずかに微笑んで、部屋を出ていった。扉の閉まる音が静かに響き、私は胸に手を当てた。
雪はまだ降り続いている。でももう孤独の白じゃない。未来へ続く道の白だ。胸の奥で灯りが確かに輝いている。
窓の外の雪を見ながら、私は新しい一歩を踏み出す決意をもう一度固めた。
――今度は私が守る番だ。
その想いと共に、眠りへとゆっくり落ちていった。
・
第19話 “ただの任務”じゃない日
朝、目が覚めた瞬間に感じたのは、昨日までとは違う胸の鼓動だった。力強くて、迷いがない。外は相変わらず雪景色だが、その白が未来を照らす光のように見える。ベッドから起きて外套を羽織ると、肩の徽章がかすかに光を返した。
廊下に出ると、いつもより少しざわついた空気が流れていた。騎士たちが何やら急ぎ足で動いている。マリエルが駆けてきて、私を見つけるとすぐ声をかけた。
「おはよ! 南の橋の件、王都にも伝わったって。すぐ追加の物資を送ってくれるってさ」
「ほんと? よかった……!」
「うん、でもね、王都の使者が視察に来るって。今週中らしいよ」
「えっ、王都の……」
心臓がひときわ強く打つ。王都――私がかつて“無能”と追い出された場所。その使者が来る。うれしさと怖さが入り混じり、胸がざわつく。
「大丈夫だって。団長も“報告は完璧だ”って言ってたし」
「でも……」
不安がよぎるのを察したのか、マリエルが私の手を取った。
「大丈夫。私たちがいるじゃん。団長だっている」
「……うん」
その言葉に少しずつ力が戻る。徽章に触れると、昨日の村人たちの笑顔がよみがえる。私を信じてくれる人たちがいるのだ。なら、怖くないはず。
そのとき、廊下の奥からライアンが現れた。いつもの黒い外套、雪を踏む確かな足取り。目が合うと、胸がすっと落ち着く。
「水野」
「団長」
「聞いたか。王都の視察だ」
「はい……少し、緊張してます」
「恐れるな。お前の働きは誰よりも知っている。俺が証人だ」
その低い声に胸がじんとした。不安がすっと消えていくのを感じる。
「ありがとうございます」
「補給路の進捗をまとめておけ。数字は揃っているか?」
「はい、もう準備済みです」
「なら心配はいらない」
ライアンが小さく頷いた。その目は真っすぐで、何よりも信頼に満ちている。
「それと――」
「はい?」
「今日の午後、北の倉庫を一緒に確認する。使者が来たとき、俺だけでは説明が不十分だ。お前が必要だ」
「わかりました!」
自然と声が強くなる。昨日までの私では考えられない反応。ライアンの瞳がほんの少しだけ柔らかくなった。
「頼もしいな」
「……!」
顔が一気に熱くなる。けれどその“頼もしい”の一言が心を満たしてくれた。
午前中は倉庫の在庫整理を進めた。寒さで指先がかじかむが、動くたびに体の奥から熱がこみあげてくる。補給路の数字が一つずつ整っていくと、過去の自分が遠く感じた。
マリエルが荷箱を積みながら笑う。
「ねぇ、今のすみれちゃんってさ、王都の誰が見ても“できる人”って思うと思うよ」
「そんなことないよ……」
「あるって! それに、団長があそこまで信頼してる時点で証明されてるじゃん」
胸がほんのり温かくなる。信頼されることの力を、今まさに感じている。
昼過ぎ、ライアンと共に北の倉庫を巡回した。積雪の重みで梁が軋む音を確認しながら、補強の必要箇所を指示していく。自然に言葉が出て、騎士たちが即座に動く。
「判断が早い」
ライアンが横でつぶやく。
「団長の教えのおかげです」
「俺は何もしていない。お前がやった」
その即答にまた胸が熱くなる。何度も同じことを言ってくれる。きっと私が信じられるようになるまで、何度でも。
倉庫の巡回を終えて戻る途中、ふとライアンが口を開いた。
「王都から来る使者、恐れる必要はないが……」
「はい」
「お前が傷つけられそうになったら、俺が止める」
その言葉に、心臓が一瞬止まった。まっすぐすぎて、息が詰まる。
「……団長」
「これは俺の務めだ。お前がこの砦の要である以上、守る」
胸があたたかさでいっぱいになる。昨日までの恐れが、完全に消えていくのを感じた。
「私、もう大丈夫です。団長がいてくれるなら」
自然に出た言葉に、ライアンがほんの一瞬だけ目を細めた。雪の光がその瞳に反射して、やわらかな輝きを見せた。
「そうか」
「はい」
短い会話。けれどそれだけで十分だった。私たちはこの砦で、同じ方向を見ている。守りたいものがある。
外套の中で徽章が少し重みを増した気がした。王都の視察――かつての自分なら逃げ出したかもしれない。でも今は違う。私はもう、ここで生きる者だ。守りたい場所と人がある。
胸を張って、その日を迎えようと思えた。
・
翌朝、砦の空気はどこかぴりりと引き締まっていた。王都の使者が今日にも到着するとの報せが届いたのだ。誰もが自然に背筋を伸ばしている。けれど、不思議と胸はもう震えていなかった。徽章がちゃんとそこにあって、仲間たちの笑顔と昨日までの道のりが背中を押してくれている。
書庫で資料をまとめていると、マリエルが肩越しに覗き込んできた。
「ね、緊張してない?」
「少しは……でも大丈夫」
「そっか。昨日までのすみれちゃんなら“無理!”って言ってたよね」
「たしかに……」
思わず笑ってしまう。怖さが消えたわけじゃない。でももう逃げないと決められる自分がいる。
「団長も朝からずっと視察対応の準備してた。すみれちゃんの資料、めちゃくちゃ助かってるって言ってたよ」
「ほんと?」
「ほんと。あんな無口な人が“助かっている”って口にするの、すごいことだからね」
頬が少し熱くなる。けれど心の奥は誇らしくて、少し安心する。
昼前、外に出ると空はまだ重い雲に覆われていた。雪は小降りだが空気が冷たい。やがて門の方でラッパの音が響き、視察団が到着した知らせが砦中に広がった。
緊張の波が一瞬走る。でも私は深呼吸をして一歩踏み出す。ライアンの背中が視界の先にある。あの大きな背を見ていると、不安がすっと消えていく。
馬車から降り立ったのは、王都の役人たち。鮮やかな紺の外套と金の刺繍、冷ややかな目。かつて私を“無能”と切り捨てたあの世界の空気が、ふっと鼻先をかすめる。胸が小さくざわつく――けれど、すぐに徽章に手を触れた。ここには私の今がある。逃げない。
「砦の責任者はどなたですか」
年配の役人が鋭い目を向けてきた瞬間、ライアンが一歩前へ出る。
「北境砦の指揮官、ライアン・ヴァルクだ。こちらは補給隊長の水野すみれ」
自分の名前がはっきりと宣言された。胸の奥が静かに震える。昨日まで蔑まれてきた“水野すみれ”という名が、今この砦の中では尊重されている。
役人の目がこちらを向く。値踏みするような視線。でも、私は逃げずに背筋を伸ばした。
「初めまして。補給線の管理を担当しております」
声は少し震えたけれど、ちゃんと出せた。ライアンの灰青の瞳が横から支えてくれているのを感じる。
「ふむ。女か……」
小さくつぶやかれたその一言に、かつての記憶が一瞬胸を刺す。王都で浴びた冷たい声が蘇る。だが――。
「性別は関係ありません。現状の補給路、必要な資材、危険箇所の対策はすべてこちらで把握しています」
自然に言葉が出た。誰の許しもいらない、今の私の言葉。マリエルが後ろでそっと拳を握っているのが視界の端に見えた。
役人が少し目を細めた。だが返す言葉はなかった。かわりに隣の部下が書類を求めてくる。
「資料を」
「こちらです」
私は準備してきた報告書を差し出す。数字と地図をきっちり整え、村からの追加情報も反映してある。役人がページを繰るたび、彼の眉がわずかに動く。
「……よくまとめてある」
低くこぼれた言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。マリエルがニヤリと笑う。胸がじんわりと温かくなる。
視察はそのまま倉庫や補給路の確認に移った。私はライアンと並んで説明を続ける。時折王都の役人が突っ込んだ質問をしてくるが、すべて答えられた。数字も現場の実情も、私が見てきたものだから。
途中、年配の役人がふと立ち止まり、私を見た。
「……なるほど。王都で“無能”と言われた者が、ここまでやれるとは」
一瞬、胸がざわついた。でも、怖くはなかった。むしろ笑顔になれた。
「この砦が私を必要としてくれましたから」
きっぱりと言うと、背後で騎士たちが静かにうなずくのが見えた。マリエルが誇らしそうに目を細めている。ライアンが一瞬だけ私を見た――その目が、とてもやさしかった。
役人は何も言わずに視線を逸らし、歩き出す。もう十分だった。あの頃の自分を取り戻すのではなく、今の自分を示すことができたから。
日が傾くころ、視察はすべて終わった。役人たちは荷車に乗り込み、王都へ戻っていく。
「また必要があれば連絡する。……水野、よくやったな」
思いがけず名前を呼ばれた。驚いて振り向くと、あの年配の役人がこちらを見ていた。冷たい目ではなかった。少しだけ柔らかさがあった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。その瞬間、心の奥に長い間詰まっていた何かが溶けていくのを感じた。
砦の門が閉まると、騎士たちが一斉に拍手をした。
「隊長、やったな!」
「王都の役人を黙らせたぞ!」
マリエルが飛びついてきた。
「すみれちゃん、最高だったよ!」
「ありがとう……ほんとに、ありがとう」
笑いながらも目が熱い。けれど涙ではなく、誇りと喜びの熱さだった。
そのとき、ライアンがそっと近づいてきた。人のざわめきの中で、彼の低い声だけが真っすぐに届く。
「よくやった」
「……はい」
「これで、お前は誰の目から見てもこの砦の隊長だ」
灰青の瞳がやさしく光る。胸がいっぱいになり、言葉が詰まりそうになる。
「団長が……いてくれたからです」
「俺は横にいただけだ。お前が戦った」
「でも……ありがとう」
短く言った瞬間、ライアンの表情がほんの少しだけゆるんだ。それだけで胸が破裂しそうにあたたかい。
「これからも共に進むぞ、水野」
「はい!」
雪がまた舞い始めた。けれど今は、もう何も怖くない。徽章を握りしめ、仲間たちの笑顔を見渡した。
――私はここにいる。必要とされ、信じられ、共に歩いていける。
その確信が、白い冬空を明るく染め上げていった。
・
視察の一日が終わったあと、砦の空気はどこか祝祭のような温かさに包まれていた。王都の使者が去ると同時に、みんなが肩の力を抜き、笑顔と拍手が自然に生まれていった。私もその輪の中にいる――その実感が胸の奥を満たしていく。
「すみれ隊長、今日の対応ほんとに見事だったな!」
「役人の質問、全部一発で返してたじゃねぇか!」
「王都の連中の顔、忘れられねぇな!」
わいわいと集まってくる騎士たちに、私は何度も「ありがとう」と返す。かつて王都で浴びた声とはまるで違う温かさだ。ここでは“無能”ではなく、必要とされている。自然と笑顔がこぼれる。
マリエルが私の腕に飛びついた。
「やったね、すみれちゃん! あの役人の鼻をへし折ってやった!」
「へ、へし折ってないよ!」
「いやいや折れたよ~、ぱきーんって!」
マリエルが無邪気に笑う。その隣で、他の仲間たちが「隊長ばんざい!」と大げさに騒ぎだし、笑い声が広がった。嬉しくて、くすぐったくて、でも心があたたかい。
その輪から少し離れた場所に、ライアンの姿があった。大きな影が静かにこちらを見ている。目が合った瞬間、胸が跳ねる。彼は一度だけゆっくり頷いた。言葉はいらない――それだけで十分伝わってくるものがあった。
宴のようなひとときがひと段落すると、私は少し外の空気を吸いに出た。夜の雪は静かで、月の光が白い道を淡く照らしている。空気は冷たいはずなのに、心が温かいからか、頬を刺す冷たささえ心地よい。
足音がして、振り返るとライアンが立っていた。
「冷えるぞ」
「すみません、少しだけ……」
ライアンは隣に立ち、私と同じ雪空を見上げた。しばらく沈黙が続いたが、それが不思議と心地いい。
「今日の働き、見事だった」
「ありがとうございます」
「王都の連中が何を言おうと、ここではお前を必要としている。……それが証明できたな」
「はい」
短い返事の中に、たくさんの思いが込められていた。昨日まで抱えていた過去の重さが、雪のように少しずつ溶けていく。
「俺も誇らしかった」
「……!」
思わず顔を向けると、ライアンが真っすぐ私を見ていた。灰青の瞳は深く澄んでいて、まるで心をそのまま映してくれるようだった。
「お前がここに来たとき、こんな日が来るとは思っていなかった。だが今は、信じられる」
「団長……」
「この砦はお前の家だ。もう、どこへも追いやられはしない」
胸が一気に熱くなった。涙が出そうになるけれど、必死に笑顔を保つ。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「礼はいらん」
ライアンはそう言いながら、ほんの一瞬だけ微笑んだ。それはこれまででいちばんやわらかい笑顔だった。胸がぎゅっとなって、思わず息を飲む。
「俺はただ――お前がここにいてくれて、よかったと思っている」
その一言に、心臓が跳ねすぎて痛いくらいだった。言葉が出ない。でも、胸の奥で何かが確かに答えている。
「……私もです」
小さく、でもはっきりと伝えると、ライアンがほんのわずか目を細めた。沈黙がやさしい。
「明日からも忙しいぞ、隊長」
「はい!」
「無理をするな。それだけは約束だ」
「ふふ、わかってます」
気がつけば自然に笑えていた。昨日までの不安も恐れも、もうここにはない。あるのは信頼と、これから先の未来への希望だけ。
ライアンが踵を返し、私の方を振り向かずに手をひらりと上げた。その無骨な仕草が、妙にあたたかい。私は背中に向かって大きな声で「ありがとうございます!」と叫んだ。
月光に照らされた雪がきらきらと輝く。胸の中にも同じ光がある気がした。
――もう、私の物語は始まっている。
無能だと切り捨てられたあの日の自分は遠い。ここでは私は、信じてくれる仲間と、支えてくれる人と共に立っている。
静かな夜空に、白い吐息を一つ吐きながら微笑んだ。未来はきっと、もっと眩しい。胸に灯った温もりを抱えて、私は再び砦の灯りの中へ歩き出した。
・
第20話 “この道を共に”と決めた夜
夜が深まったころ、砦はいつもの静けさを取り戻していた。雪明かりが中庭を淡く照らし、木造の壁や屋根に白い影を落とす。私は書庫の灯りを落とし、ひとり廊下を歩いていた。今日の視察対応の疲れはあるけれど、胸の奥は満ちている。何度も「隊長」と呼ばれた声が心をあたためていた。
自室の前まで来て、ふと足を止める。扉を開けるのが惜しいような、まだ今日を終わらせたくない気持ち。窓から見える雪は、静かに舞い降りている。
そのとき、足音がした。振り返ると、廊下の奥からライアンが歩いてくる。黒い外套の裾がゆらりと揺れ、月明かりの下でも彼の存在は際立っていた。
「まだ起きていたのか」
「団長……」
思わず背筋が伸びる。ライアンは少し首を傾けた。
「眠れないのか?」
「いえ、ただ……今日が終わるのが、なんだかもったいなくて」
自分でも驚くくらい素直な言葉が出た。ライアンがわずかに目を細める。
「そうか」
「はい。王都の人に“無能”って言われた日の私が、こんなふうに今日を終えられるなんて、夢みたいです」
「夢じゃない」
即答だった。低くて、でもやさしい声。胸の奥がじんと熱くなる。
「お前が積み上げた結果だ」
「……団長が、いてくれたからです」
言葉にした瞬間、ライアンの灰青の瞳がふっと揺れた。彼は数歩近づいて、ほんの少しだけ距離を詰める。
「俺はただ、支えたにすぎない」
「でも……その支えがなかったら、私は今ここにいないです」
私がそう言うと、ライアンの表情がふっとやわらいだ。珍しく長く私を見つめる。
「……ありがとう」
その一言に、胸が一気に熱くなる。ライアンが感謝を口にするなんて初めてだ。
「こ、こちらこそ」
しどろもどろになった私を見て、ライアンが少しだけ笑った。とても短く、でも確かな微笑み。
「これからも共に進もう」
「はい!」
声が自然に大きくなる。彼と目を合わせながら、心からそう言えた。
ふいに窓の外で風が吹き、雪がちらちらと舞い込んできた。ライアンが手を伸ばし、私の肩にそっと触れる。
「外は冷える。部屋に戻れ」
「はい……団長も、休んでください」
「ああ」
彼は軽くうなずき、踵を返した。けれど去り際にもう一度だけ振り返る。
「すみれ」
「はい?」
「お前がここに来てくれて、よかった」
胸が熱くなって、思わず息をのんだ。返事が詰まったまま頷くと、ライアンは何も言わず歩き去っていった。黒い外套が夜に溶けるまで、私はその背中を見送っていた。
扉を閉めたあとも、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。机の上に徽章を置き、手帳を開く。ページに今日の日付を書き込むと、胸の奥から言葉が溢れてくる。
――私にはもう、帰る場所がある。
――守りたい人たちがいる。
――共に進みたい人がいる。
静かにペンを置き、ベッドに身を沈めた。窓の外では雪が降り続けている。でもその白は、もう過去を閉ざすものではない。未来へと続く道だ。
心がふわりとあたたかくなり、私はゆっくりと目を閉じた。胸の奥の新しい力を抱きしめながら。
・
翌朝、窓を開けると空気が澄みきっていた。夜の雪がすべてを洗い流したように世界が真っ白で、遠くの山までくっきり見える。冷たい空気を吸い込みながら、昨日の出来事を反芻する。王都の使者と対等に話せたこと、仲間たちの拍手、そしてライアンの「お前がここに来てくれて、よかった」という言葉――胸の奥で何度も温かく響いている。
外套を羽織り、徽章を肩につけた瞬間、自然と背筋が伸びた。鏡代わりの窓に映る自分は、王都で“無能”と呼ばれていた私ではない。胸を張って歩ける誰かになっている。
廊下を歩くと、マリエルがすぐ見つけて駆け寄ってきた。
「おはよ、隊長!」
「おはよう」
「なんか今日のすみれちゃん、さらにオーラ出てる! 昨日の勝利のオーラだね」
「勝利って……」
「勝利だよ! 王都の役人をぎゃふんと言わせて、団長をメロメロにして……」
「してないっ!」
慌てて言い返すと、マリエルがケラケラ笑う。けれどその笑いの裏に、ちゃんとした信頼があるのがわかる。私をからかう声さえ、居場所の証だ。
「今日、団長が呼んでるよ。たぶん次の計画の相談だって」
「わかった。ありがとう」
「がんばって!」
背中を押されるように執務室へ向かう。扉の前で深呼吸してノックする。
「入れ」
低い声に導かれて扉を開けると、ライアンが地図を広げていた。いつも通りの無骨さ、でも昨日よりどこか穏やかな空気が漂っている。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。座れ」
指示されて椅子に腰を下ろす。机の上の地図には新しい赤線がいくつも引かれていた。
「王都の補給支援が正式に決まった。だが、この北のルートはまだ危うい。雪崩の可能性がある」
「はい。ここ、地盤が脆いと聞きました」
「そうだ。だが南は今や安全だ。お前のおかげだな」
「……ありがとうございます」
「これからは北の補強を優先する。新しい中継所を作る案を考えてみた。お前の意見を聞かせろ」
私は資料をめくり、頭の中で計算を組み立てる。もう、恐怖はない。数字が頭の中で鮮やかに動き、言葉が自然に出る。
「ここに拠点を置けば安全な経路ができます。雪の季節でも補給が止まりません」
「ふむ、悪くない」
ライアンが腕を組んで考え込む。その表情を見て、胸の奥がじんわりあたたかくなる。私は今、彼と肩を並べてこの砦を守っている。
「お前がいてくれると、計画が早い」
「それは団長がいてくれるからです」
「……相変わらず謙虚だな」
わずかに微笑んだ灰青の瞳。胸が跳ねる。けれど今は逃げずにその目を見返せる。
「でも、本当に。団長がいてくれるから、私もがんばれるんです」
「そうか」
短い返事だったが、ライアンの表情はどこか柔らかい。その変化を見ていると、胸の奥が温まる。
話がひと段落したころ、ライアンが少しだけ声を落とした。
「王都の視察……つらかったか?」
「正直、最初は怖かったです。でも、もう大丈夫です。団長が横にいてくれたから」
ライアンが一瞬まぶたを閉じた。ほんの少し息を吐くようにしてから、低く言った。
「……あの日、お前が城を追い出されたと聞いたとき、怒りを覚えた」
「え?」
「理不尽なことは嫌いだ。だが、連れ戻しても意味がないと思った。本人が立ち上がらない限りはな」
その目が真っすぐ私を射抜く。息が止まりそうになる。
「だが今は違う。お前は立ち上がった。自分の居場所を掴んだ。……それを見ていると、俺まで救われる」
「……団長」
胸がぎゅっと熱くなる。知らなかった想いを聞かされて、どう返していいかわからなくなる。
「ありがとう。お前のおかげで、俺も砦を信じられる」
それは昨日までの私には想像できなかった言葉だった。涙がこみ上げそうになるのをこらえ、必死に笑う。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「これからも共に守ろう」
「はい!」
声が自然に弾んだ。ライアンの口元がかすかに緩み、空気が少しだけ柔らかくなる。静かな執務室に、雪を溶かすようなぬくもりが満ちていく。
扉を出るころには、胸の奥に大きな灯りがともっていた。もう過去の私じゃない。これからも恐れずに進める。
仲間たちと、そしてライアンと。
白い冬の空を見上げると、雪は優しく舞っていた。未来へ続く道を静かに照らすように。
・
午後の訓練が終わったころ、砦の空は淡い夕焼けに染まり始めていた。雪は止み、雲の切れ間から金色の光が差し込む。私の胸の中も、不思議と同じように温かく光っている。王都の視察を乗り越え、これからの補給計画も団長と一緒に練った。過去の私が想像できなかった景色の中に、今、私は立っている。
倉庫の戸締まりを確認していると、背後から足音が近づいた。振り返るとライアンだった。長い影が雪の上に伸びている。
「もう片付けか」
「はい。今日の分は終わりました」
「早いな」
「みんなが手伝ってくれたので」
ライアンは短くうなずき、視線を雪原の向こうへ向けた。沈む夕日が灰青の瞳に反射して、やわらかな光を帯びている。しばらく二人とも黙ったまま、雪景色を眺めた。
「……王都のこと、まだ思い出すか?」
不意に落ちた低い声。私は小さく笑った。
「思い出します。でも、もう大丈夫です。あそこに置いてきた私より、今の私のほうがずっと好きだから」
ライアンがゆっくりこちらを見た。視線がまっすぐで、息が詰まりそうになる。でも怖くはない。
「いい答えだ」
「団長のおかげです」
「それを何度も言うな。お前の力だ」
「でも……やっぱりお礼が言いたいです。団長が信じてくれたから、ここまで来られたんです」
私がそう告げると、ライアンはしばし黙り、そしてふっと笑った。珍しい、けれどとてもやわらかな笑顔。
「なら俺も礼を言う。……来てくれてありがとう。お前がいなければ、この砦は今ほど強くなかった」
胸がじんと熱くなる。言葉が詰まって、ただ「はい」と頷くのが精一杯だった。
ライアンがほんの少し距離を詰めてきた。大きな手が、そっと私の頭に触れる。びくりと肩が揺れたが、その手はとても優しかった。雪を払うように、ごく自然な仕草で。
「よくやったな、水野」
「……はい」
「これからも、頼りにしている」
心臓が跳ねて、頬が熱くなる。頭に触れる手があたたかくて、涙が出そうになった。けれど今は泣かない。笑顔で応えたい。
「私も……団長を支えたいです。ずっと」
言った瞬間、ライアンの瞳がわずかに揺れた。ほんの少し、息を飲んだ気配。そして、また静かに笑った。
「頼もしいな」
その言葉とともに手が離れる。けれど温もりだけは頭に残ったままだった。
砦へ戻る途中、マリエルがこちらを見つけてにやにやしてきた。
「お、いい雰囲気だったねぇ」
「ち、違うから!」
「違わないと思うけどな~」
「もう、マリエル!」
顔が熱くなる。でもそのやり取りさえ、心地よい。
夜、部屋でひとりになった私は机に向かった。今日の出来事を手帳に書き込みながら、胸の奥がじんわり温かくなる。ライアンの手の重さ、仲間たちの声、あの雪景色。すべてが“ここが私の場所だ”と教えてくれている。
ページの端に、ふとペンが止まった。新しい言葉を書きたくなったのだ。
――私はもう、ひとりじゃない。
――共に進む人がいる。
――この道を共に歩いていきたい。
書き終えて深く息をつくと、不思議な充足感が胸を満たした。
窓の外には再び雪が降り始めている。けれどもう怖くない。この雪道の先に、仲間と団長と、新しい未来があるのを知っているから。
「これからだね」
小さく呟くと、胸の奥に熱い灯りがともったまま眠りにつく。どこかで扉の向こうを歩く足音が聞こえた気がした。たぶんライアンだ。
その音を子守唄のように感じながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
――新しい人生は、もうここから続いていく。
終わり
翌朝、いつもより早く目が覚めた。休日の余韻がまだ胸の奥に残っていて、なんだか気持ちが軽い。机の上には昨日の戦利品――銀色の葉の栞が光を反射している。あれを見ていると、自然と背筋が伸びた。
窓の外からは早朝の砦の音が聞こえてくる。剣を打つ乾いた音、騎士たちの掛け声、馬のいななき。昨日の市場のにぎやかさとはまた違う、力強い朝の音。
身支度をして食堂へ向かうと、すでにパンとスープの香りが漂っていた。マリエルが先に座ってパンを頬張っている。
「おはよー、すみれちゃん! 昨日はよく眠れた?」
「はい。楽しくて、ぐっすりでした」
「よかった。団長も昨日は機嫌良さそうだったしね~」
「そ、そうなんですか?」
「うん。市場から帰ってきたあと、珍しく声かけてきたよ。“あの市の警備を増やしておけ”とか言ってさ。たぶん君が安心して行けるようにだよ」
心臓がきゅっとなる。そんなことまで考えてくれていたのかと思うと、胸があたたかくなった。
そこへちょうどライアンが入ってきた。鎧ではなく動きやすい服で、腰には剣が一本だけ。目が合うと一瞬だけ微かにうなずく。そのさりげなさが胸をじんわりさせた。
「おはようございます、団長」
「ああ。……今日は倉庫の在庫確認を手伝ってほしい」
「はい!」
自然に返事が出た。もう声が震えない自分に気づく。
朝食を終えると、ライアンとマリエル、そして数名の騎士たちと一緒に倉庫へ向かった。重厚な扉を開けると、ひんやりとした空気とともに木箱や麻袋の匂いが広がる。干し肉、乾燥野菜、油、武具の部品――砦の命綱が詰まった場所だ。
「ここの数字を昨日の補給計画と照合したい。今後の備蓄と消費計算に使う」
「分かりました」
私はすぐノートを開き、騎士たちが箱を動かすのを手伝いながら内容を確認していった。人数が多いから作業が早い。数字を書き込み、足りないものを赤でチェックしていくと、仕事のリズムが身体に馴染んでいく。
ところが、奥の棚にたどり着いた時、不意に甲高い鳴き声が響いた。
「ひっ……!」
小さな影が袋の隙間から飛び出した。灰色の毛玉――野生の小動物かと思ったが、次の瞬間、長い尻尾と赤い目が見えて凍りつく。
「魔鼠だ、下がれ!」
ライアンの声が鋭く響いた。次の瞬間、私の腕がぐいと引かれ、力強い胸に引き寄せられた。剣が一閃し、空気を裂く金属音が響く。
ほんの数秒で、魔鼠は床に転がった。小さな体なのに、赤い目がまだぎらぎらと光っている。毒を持っていると聞いたことがある。息が一気に荒くなった。
「大丈夫か」
頭のすぐ上から低い声。見上げると、ライアンの顔がすぐそこにあった。灰青の瞳が鋭さを残したまま、でも心配そうに揺れている。
「は、はい……!」
「傷は?」
「ありません!」
そう答えた瞬間、腕の力が少しだけ緩む。けれど彼はまだ私をかばうように前に立っていた。
「……危なかったな」
その声が思ったよりも優しくて、胸がじんとする。マリエルが駆け寄ってきた。
「大丈夫!? すみれちゃん、怖かったでしょ」
「だ、大丈夫……びっくりしましたけど」
「まったく、倉庫に潜り込むなんて。団長がいて良かったよ」
マリエルの言葉に、改めて実感が押し寄せる。さっきの一瞬、背中に回ってきた腕の力強さと温かさがまだ残っている。
ライアンは死んだ魔鼠を一瞥してから低く指示を出した。
「後で掃除班を呼んで消毒しろ。侵入経路も調べろ。……水野はもう奥に入るな。危険が残っている」
「は、はい」
普段より厳しい声だったが、そこに含まれているのは冷たさではなく、はっきりとした保護の意志だった。胸が少し震えて、でも安心で満たされる。
マリエルが私の肩を叩いてくれる。
「平気? 団長がそばにいると怖いものなしだね」
「う、うん……びっくりしたけど、平気」
「偉い偉い」
笑いながらも心配そうな目をしてくれるのが、なんだかうれしい。砦の人たちは本当に温かい。
ライアンが私を一度だけ見て、短く言った。
「怪我がなくてよかった。……気をつけろ」
その一言が、また心の奥を震わせた。怖かったはずなのに、今はただ、守られたという実感の方が強い。
腕を離されたあとも、背中がほんのり温かいまま。私の心は、不安よりもむしろ安堵と嬉しさでいっぱいになっていた。
――こんなふうに、誰かに守られるのは初めてかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥にかすかなざわめきが走った。怖さとは違う、もっとやさしくて不思議なざわめき。
私はそれをごまかすように深呼吸して、再びノートを開いた。
「つづきを……します」
「無理するな」
「大丈夫です。まだ手は震えてませんから」
思わず笑って言うと、ライアンがほんの一瞬だけ眉をゆるめた。その目に浮かんだ小さな安堵が、私の中の恐怖を完全に消してくれる。
砦の朝は、今日も確かに続いている。怖いことがあっても、ここには守ってくれる人がいる。
それが、私の世界をまた少し広げてくれた気がした。
・
倉庫での作業は、魔鼠の一件で一度中断した。騎士たちがすぐさま周囲を調べ、侵入経路を塞ぐ作業を始める。私は端の安全な場所に座らされ、ライアンがまだ警戒を解かずに立っていた。壁際の光の中で、剣先から滴る魔鼠の血を丁寧に拭っている姿は、まるで教本の挿絵のように凛々しい。
「……怖かったか」
不意に声をかけられ、はっとする。ライアンがこちらを見ていた。灰青の瞳はいつもの冷たさが消えて、どこか不器用な優しさを宿している。
「少し。でも……団長がすぐに守ってくれたから、大丈夫です」
「そうか」
ほんの一言なのに、空気がやわらかくなる。彼の“そうか”は、安堵と同じ重さを持っている。
「魔鼠は小さくても毒がある。皮膚をかすめただけでも危ない。無理に奥へ入るな」
「はい、気をつけます」
うなずくと、ライアンはわずかに眉を緩めた。ふっと息をつく音が聞こえる。その一瞬の微かな変化が、胸に温かく染み込んだ。
マリエルが笑いながら近づいてきた。
「いや~、団長の素早さは相変わらずだね。目にもとまらぬ抜刀!」
「必要なだけだ」
「でもすごかったよね、すみれちゃん?」
「はい、あっという間で……」
言いながら頬が赤くなるのを感じた。守られた瞬間の記憶が鮮明すぎて、心臓がまだ少し早く打っている。
「やっぱり団長がそばにいると安心だよね~」
「マリエル、からかうな」
「からかってないよ、事実でしょ?」
マリエルの軽口に、ライアンが小さくため息をつく。その光景がなんだかほほえましくて、私も思わず笑ってしまった。
やがて倉庫の安全が確認されると、再び作業を再開することになった。ただし、ライアンの判断で奥の危険区域は封鎖された。私は入り口近くの机で数字をまとめる役に徹することに。
物資の量と消費ペースを計算していくと、さっきまでの恐怖が徐々に薄れていく。ペンを走らせるうちに、頭の中にある“私の役割”が再び輪郭を取り戻していった。
「団長、これを見てください。食料は安全確認済みの部分だけでこれだけあります。昨日までの計画に加えると、あと十五日分は余裕が出ます」
「……早いな」
ライアンが資料を受け取り、目を通している。横顔は真剣で、さっきまでの険しさが影をひそめている。
「助かる。お前がいなければ今日の作業はもっと混乱していた」
「いえ……でも、ありがとうございます」
自然にお礼が出るようになっている自分に気づく。王都にいたころは、こういう対話すらぎこちなかったのに。
マリエルが後ろからひょいと覗き込む。
「おー、やっぱり早い! これ団の中でも噂になってるよ。新入りが数字の魔法使いだって」
「魔法使いなんて」
「いやほんとだって。団長が昨日からずっと表情違うもん」
「……余計なことを言うな」
ライアンの低い声が飛ぶが、怒っているというより、むしろ居心地悪そうだ。私までつい笑ってしまった。
午前の作業を終えるころには、倉庫の空気も落ち着いていた。危険は去り、数字の整った表が新しく積み上がっていく。ペンを置いたとき、達成感と安堵が同時に胸に広がった。
帰り際、ライアンが私の横に立った。
「……さっきは怖い思いをさせたな」
「いえ。団長がすぐに守ってくれたから」
「それでも、危険には変わりない。すまなかった」
意外なほど静かで、誠実な謝罪の声。胸の奥がじんと熱くなった。
「団長のせいじゃありません。私が不注意でした」
「いや、俺の責任でもある。次は必ず安全を確かめる」
そのまっすぐな言葉に、胸がきゅっとなる。こんなふうに守られるのは初めてだ。私は小さく息を吸い込んで微笑んだ。
「ありがとうございます」
ライアンは一瞬だけ目を細めた。たぶん、それは微笑みのかわりなのだと思う。
外へ出ると、昼の光がまぶしかった。森から吹く風がひんやりとして、頬をなでる。怖さよりも、あたたかさの方がずっと強い。あの瞬間、背中を覆ってくれた腕の重みを思い出しながら、胸の奥が不思議と静かに高鳴っていた。
この砦で働くことは、安全な書庫の中だけじゃない。危険もある。けれど――守ってくれる人がいる。それがどれほど心を強くするのか、私は初めて知った。
きっとこの気持ちは、数字だけでは測れない。けれど私の世界をまた一歩広げるものだと、直感していた。
・
午後になっても、胸の奥のざわめきはまだ消えていなかった。怖さというより、あの瞬間の感触――強く引き寄せられた腕の力、すぐ頭上から響いた低い声――それが心の中に残っている。ペンを持つ手を見つめながら、私はそっと小さく息をついた。
「すみれ、大丈夫か」
不意にかけられた声に顔を上げると、ライアンがすぐそばに立っていた。午前中よりも表情がやわらかい。灰青の瞳の奥に、まだ心配が残っている。
「はい。もう大丈夫です」
「……そうか」
彼はほんの一瞬うなずいて、作業中の帳簿に目を落とした。だが視線の端はまだ私の手元を気にかけている。数字を追うその横顔を見ていると、胸がまた温かくなった。
「団長って、こういうときすぐ駆けつけてくれるんですね」
「当然だ」
短いけれど迷いのない声。少し笑いそうになったが、胸がじんわりと満ちていく。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。俺の仕事だ」
ぶっきらぼうな言い方なのに、言葉の奥に確かな安心があった。私はこっそり笑ってうつむいた。
そこへマリエルが現れ、空気をぱっと明るくした。
「お疲れさま! 危ない目に遭ったんだから、今日は早めに切り上げようよ。ね、団長?」
「そうだな」
ライアンが珍しくあっさり同意する。マリエルがわざと大げさに目を丸くした。
「わー、団長が素直に引き下がった!」
「からかうな」
やり取りに、私まで思わず笑ってしまう。笑いが出たことで、体の中に残っていた緊張がすーっとほどけていくのを感じた。
倉庫を出るころ、夕方の光が柔らかく差し込んでいた。中庭を抜けて帰る途中、マリエルが小声でささやく。
「すみれちゃん、ほんと顔色よくなった。朝のびっくり顔と別人みたい」
「そんなにひどかったですか」
「いや、そりゃああんなの初めてだし。けど団長が守ってくれた瞬間、すっごい安心した顔してたよ」
「えっ……!」
「うふふ。団長もね、めちゃくちゃ早かった。あんなスピード見たことないもん」
頬がじんと熱くなる。そんなに心配してくれたのだろうか。マリエルが満足げに笑って、前を歩く背中を指差した。
「ま、あの人ほんと不器用だけどさ。信用して大丈夫」
「……はい」
自然に笑みがこぼれた。
自室に戻ると、机の上で銀色の葉の栞が光っていた。昨日もらったものを、またそっと手に取る。迷わないためのお守り。今日のことを思い出すと、さらに意味が深くなった気がした。
窓を開けると、夕暮れの風が優しく頬を撫でていった。砦の中ではまだ笑い声が響き、訓練を終えた騎士たちが談笑しているのが見える。昨日までは遠く感じていた光景が、今は確かに自分のいる世界だ。
ノートを開き、今日のことを記す。
――倉庫で魔鼠に遭遇。
――団長が守ってくれた。
――怖かったけど、すぐに安心できた。
――この場所で守られていると感じた。
ペン先が止まる。胸の奥がじんわり熱くなり、思わず笑みがこぼれた。
「守られるって、こんなに温かいんだ……」
小さくつぶやく。王都で感じた孤独は、もう遠い過去のようだ。
ドアをノックする音がした。びくりとしつつ立ち上がると、ライアンが立っていた。影になった廊下の光の中、彼は少しだけ気まずそうに見える。
「……様子を見にきた」
「だ、大丈夫です。もう元気になりました」
「そうか」
短くうなずいたあと、ライアンは少し目をそらした。
「危険があったとき、俺がそばにいる。覚えておけ」
「……はい」
胸の奥が、じん、と温かくなった。私の安全を当然のように口にするその人が、とてもまぶしく見えた。
「それと」
「はい?」
「明日も無理はするな。疲れが残っているかもしれん」
優しいのに、どこか不器用な声。思わず笑いながら頭を下げた。
「はい。気をつけます。団長、ありがとうございます」
その瞬間、ライアンの口元がほんの少しだけ、わずかに上がった。すぐに背を向けたけれど、私は確かに見た。
扉を閉めてから、胸の奥がぽうっとあたたかくなったまま動かない。昨日までは想像もできなかった安心が、心の中に静かに根を張っている。
ベッドに横になると、今日の恐怖もいつのまにか優しいものに変わっていた。守られることの重さと、誰かを信じてもいいという感覚が、胸の中でそっと灯りをともしている。
迷わないようにと渡された栞を握りしめながら、私は小さく笑った。
——もう、私はひとりじゃない。
その確信が、夜の静けさと一緒にやさしく私を包みこんだ。
・
第10話 “仲間”として迎えられる日
翌朝、砦の空気はひんやりしていて澄んでいた。昨日の騒動がまるで遠い夢のように感じられるくらい、目覚めた私の心は落ち着いている。けれど窓の外から聞こえる騎士たちの掛け声や馬のいななきが、妙に近く感じるのは昨日の出来事のおかげかもしれない。守られるという感覚が、胸の奥に根を張っているのをはっきり感じた。
身支度を整えて食堂へ向かうと、すでに騎士たちが朝食をとっていた。扉を開けた瞬間、数人がこちらを振り向いて手を振ってくれる。
「おはよう、すみれ!」
「昨日は大変だったな!」
「大丈夫か?」
驚きつつも笑顔でうなずく。
「はい、もう元気です。ありがとうございます」
昨日の恐怖を気遣ってくれる声がこんなに温かいとは思わなかった。王都では、怖いことがあっても誰も心配なんてしてくれなかったのに。胸がじんと熱くなる。
食堂の奥ではマリエルが大きく手を振っていた。いつも通りの元気さが安心させてくれる。
「おはよう、すみれちゃん! もう大丈夫そうだね」
「はい。昨日はありがとうございました」
「いやいや、団長のおかげでしょ。ほんとすごかったね~」
「……うん、すごかったです」
言葉にすると、また昨日の腕の温もりがよみがえって、顔が熱くなる。マリエルはすぐに察したのか、にやりと笑った。
「ふーん……」
「な、なんですかその顔!」
「なんでもない~」
軽く流されてしまい、余計に心臓がうるさくなる。そこへ低い声が背後から響いた。
「朝から騒がしいな」
振り返ると、ライアンが立っていた。鎧姿で、剣を腰に下げている。灰青の瞳が私を一瞬だけ見て、微かにうなずいた。
「……顔色はいいな」
「はい。ご心配をおかけしました」
「それで済むならいい」
短いやり取りなのに、胸の奥がほんのりあたたかい。心配してくれているのがわかるから、余計に。
朝食のあと、マリエルと一緒に書庫へ行くと、思いがけず騎士たちが集まっていた。私の机の上に、花のようなものが置かれている。野に咲く小さな黄色い花を束ねた簡素な花束だった。
「これ……?」
「昨日の礼だってさ」マリエルが笑顔で教えてくれる。「倉庫の安全確保が早く終わったの、すみれちゃんが数字まとめてくれたおかげだからって」
「えっ……」
胸が一気に熱くなった。こんなふうに感謝を形にしてもらえるなんて、王都では一度もなかった。
「みんな、ありがとう……!」
声が少し震えてしまう。それを聞いていた騎士たちが、にやりと笑いながら口々に言う。
「いやいや、こっちこそ助かったよ」
「新入りなのに度胸あるな」
「団長に守られてたけどなー!」
「おい」ライアンの低い声が飛び、場が一瞬静まったあと笑いが弾けた。
笑いに包まれる中で、私の胸はぽかぽかと温かく満たされていく。怖い経験があったはずなのに、今日のこの空気の方がずっと大きい。私がこの場所で「仲間」になれた気がした。
そのときライアンが静かに近づいてきた。花束を見て、ほんのわずか目を細める。
「よかったな」
「はい……すごく、うれしいです」
「お前がこの砦に来てくれて助かっているのは事実だ。これからも頼む」
まっすぐな灰青の瞳に射抜かれると、胸が熱くなって言葉が詰まる。けれどなんとか笑ってうなずいた。
「はい。がんばります」
短い会話なのに、力が湧く。不安だった頃の自分が遠くに霞んでいく。
マリエルが横から肩をたたいた。
「よしよし、これでほんとの仲間入りだね!」
「えっ、仲間入り……」
「うん。だってもう、団長が正式に“頼む”って言ったし」
「それは別に——」
ライアンが言いかけて止めた。その表情が、ほんのわずかに柔らかい笑みに変わっていく。普段なら絶対に見せない表情で、心臓がまた跳ねた。
この瞬間、昨日の恐怖が“ここに生きている証”へ変わっていく。守られて、信じられて、そして今、仲間と呼ばれている。
それは数字では測れないけれど、何より確かな実感だった。
窓の外では柔らかな朝日が砦を照らし、今日の始まりを告げている。
私は花束を胸に抱きしめた。
この砦が私の居場所になっていく音が、またひとつ心に響いた。
・
午前の仕事は、まるで新しい空気の中で始まった。帳簿を開いていると、騎士たちが当たり前のように声をかけてくる。
「すみれ、この備品の記録ここで合ってるか?」
「すまん、この木材の使用予定、あとで計算してくれ」
“すみれ”と呼ばれるたびに、胸の奥で何かがじんとあたたかくなる。王都では名前を呼ばれることすら少なかった。今はこの音が当たり前のように飛んでくる。
隣ではマリエルがいつもの調子でメモを取りながら、私の肩を小突いた。
「ね、もう完全にうちの一員って感じじゃん」
「そ、そんなことないですよ」
「いやいや、団長も含めてみんな頼りにしてるよ。昨日の件で一気に信用ゲットだもん」
思わず笑ってしまう。怖い体験だったはずなのに、いまはその後ろに“信頼”が残っている。不思議な感覚だ。
昼近くになったころ、扉が開き、ライアンが現れた。灰青の瞳が書庫をひとわたり見渡したあと、私の机へとまっすぐに向かってくる。
「この補給計画を最終確認したい。手が空いたか」
「はい。もう少しで終わります」
「では来い」
短い言葉の中に、信頼がにじむのがわかる。私が立ち上がると、周囲の騎士たちがにやりと笑う。
「すみれ、団長の秘書みたいだな」
「おまえら、茶化すな」
ライアンが一瞥すると一同が慌てて黙る。その空気がちょっと可笑しくて、笑いをこらえた。
執務室に入ると、机の上には新しい地図と帳票が広がっていた。昨日までの作業の続きらしい。私は資料を受け取りながら頭の中で素早く計算を組み立てる。
「昨日の数字をもとに、今週中に必要な輸送回数は……三回。最初の二回を馬車二台、最終便は一台で足りそうです」
「ふむ。天候が悪くなった場合は?」
「三便目を予備にして、二便目に余剰を積みます。補強した橋が持つか確認が必要ですけど」
「なるほど。さすがだ」
ライアンの低い声に、胸が熱くなる。褒められることにまだ慣れていないけれど、嬉しさの方が勝つ。
「村の防寒具の不足も同時に補給するべきです。馬車の積載を冬用に換算したら——」
「助かる。その発想はなかった」
真剣な顔でうなずくライアンを見ていると、不思議な気持ちになる。無能と決めつけられていた自分の知識が、今は必要とされている。こんな日が来るなんて、少し前の自分には想像できなかった。
「……ほんと、頼りにしてる」
ライアンの声がふと、いつもより静かに響いた。視線がまっすぐに私を射抜く。胸がどきんと跳ねた。
「あ、ありがとうございます。私も……力になれてうれしいです」
「お前が来てから、この砦は変わり始めている」
「え?」
「数字が整うと、人も動きやすくなる。守りやすくなる。昨日の件でもはっきりした。お前がいると俺たちは強くなれる」
言葉の重みが心にじんわり染み渡った。王都では誰にもそんなふうに言ってもらえなかった。胸が熱くなって、少しだけ目が潤む。
「……がんばります」
「うむ」
ライアンはそれ以上何も言わなかったが、目の奥がほんの少しやわらいでいるのを感じた。沈黙なのに安心する、不思議な空気。
その後、細かい計算を一緒に詰めていった。仕事をしながらも、心は軽い。昨日までの恐怖を、今日の“信頼”がゆっくりと塗り替えてくれているのを感じる。
やがて窓から差し込む光がやわらかくなり、昼休みの時間が近づいた。マリエルがノックして顔をのぞかせる。
「お昼行こう! 二人とも真剣にやりすぎ!」
「仕事の区切りがいいところまでだ」
「もう十分でしょ~」
マリエルの明るさに場がふっとやわらぐ。ライアンがしぶしぶ立ち上がった。
「行くか」
「はい!」
執務室を出た瞬間、心がふわりと軽くなった。隣を歩く大きな背中が、昨日よりずっと近く感じる。
私はそっと胸の奥で言葉をつぶやく。
――私は、もう仲間だ。
昨日までの孤独は、静かに過去になっていく。ここで、生きていける気がした。
・
食堂に入ると、すでに昼のざわめきが広がっていた。パンの香りと温かいシチューの湯気が空気を満たしている。私とライアンが並んで入った瞬間、数人の騎士がにやりと笑ってこちらを見た。
「お、団長とすみれが一緒に来たぞ」
「秘書兼右腕ってやつか?」
「やめろ」
ライアンの低い声に笑いが弾ける。からかわれても嫌な感じがしない。むしろ心が少しずつほぐれていく。
マリエルが空いている席を見つけ、手を振った。
「こっちこっち!」
私たちは並んで腰を下ろす。木のテーブルは温もりがあって、昨日の恐怖がうそのように遠くなった。
「はい、シチューどうぞ!」
マリエルが大きな器を私の前に置いてくれる。立ち上る湯気に心まで温まるようだ。
「ありがとう、マリエルさん」
「もう“さん”いらないってば。マリエルでいいよ」
「……じゃあ、マリエル。ありがとう」
自然に呼べたことがうれしくて、思わず笑ってしまう。マリエルも目を細めて笑った。
「ほら、もう仲間だ」
「うん……そうかもしれない」
呟いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。昨日まではこんな簡単なことすら怖かったのに。
ライアンは黙ってパンをちぎっていたが、ふとこちらを見た。
「名前を呼び合うのはいいことだ。団も少しずつお前を受け入れている」
「……ありがとうございます」
「礼は必要ない。お前の力を示した結果だ」
短く、それだけ。でも心があたたかくなる。認められているという実感が、言葉の奥からちゃんと伝わってきた。
食事をしていると、周囲の騎士たちが自然に話しかけてくれる。
「すみれ、昨日は本当に助かった。あの補給計算のおかげで俺たち安心できた」
「これからもよろしくな!」
いくつも重なる声に、胸がいっぱいになる。顔が熱くなるのをこらえながら、なんとか笑顔で答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
マリエルが横でくすっと笑う。
「ほんと、もうすっかりうちの子だね」
「うちの子って……」
「だって団長の右腕でしょ?」
「マリエル」
低い声に振り返ると、ライアンが目だけでマリエルを制していた。その目が一瞬こちらへ向く。灰青の瞳がほんの少しやわらかい。胸が、また不意にあたたかくなる。
昼食のあとは、再び書庫に戻った。けれど空気はもう違っていた。机に向かう私の背中を、砦の空気が自然に支えてくれているような安心感がある。数字を扱う指が、以前よりずっと軽い。
夕方、今日の仕事を終えた頃、マリエルが手を叩いた。
「ねぇ、今夜またみんなで軽く集まろうよ。昨日のお祝いの続きってことで!」
「え、でも……」
「遠慮なし。ほら、団長も来るでしょ?」
「……必要なら顔を出す」
「やった。すみれちゃんも来るよね?」
「はい。行きたいです」
自然にそう言えて、自分でも驚いた。もう、怖くない。
夜。小さな集まりは温かい光の中で始まった。簡単なパンとスープ、そしてささやかな笑い声。誰かが楽器を持ってきて、即興の歌が流れる。私はその輪の中にいて、ただ楽しく笑っていた。
「ねぇ、すみれ。もう完全にここで生きてる顔してる」
マリエルが耳元でこっそりささやく。
「そう見えます?」
「うん。最初は小動物みたいだったのに。いまはちゃんと“仲間”の顔」
胸がじんと熱くなって、目が潤みそうになる。だけど今は泣かない。代わりに微笑んだ。
「ありがとう、マリエル」
「どういたしまして」
少し離れたところで、ライアンが黙ってこちらを見ていた。いつもの無表情に近いけれど、目だけは柔らかく光っている。その視線が胸を温め、鼓動が静かに速まる。
夜が更け、皆が順番に部屋へ戻っていく。私も花束を手に立ち上がった。ライアンがふいに近づいてくる。
「……今日もよくやった」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい?」
「これからも危険がないとは言わん。だが俺がいる。覚えておけ」
静かな声。昨日も同じ言葉を聞いたのに、今夜はさらに深く心に届く。胸の奥が熱くなって、声が少し震えた。
「……はい」
ライアンは何も言わず、ほんの一瞬だけ微かに口元を緩めた。すぐに背を向けて去っていく。その背中を見送りながら、胸の奥がじんわりとあたたかく広がっていく。
部屋に戻り、花束と栞を机の上に並べた。どちらも、この砦で私が受け取った“仲間”と“守り”のしるし。もう王都の私じゃない。ここで生きていく私の証。
窓の外には星がいくつも瞬いていた。新しい夜が静かに広がっていく。
私は深呼吸をひとつして、小さくつぶやく。
「……私、ここでがんばっていける」
その言葉が、胸の奥で確かな力になるのを感じた。
・
第11話 小さな手柄と初めての乾杯
翌朝、目を覚ました瞬間に胸の奥がふわりと軽かった。窓を開けると、ひんやりとした空気の中にパンを焼く匂いが混じって届いてくる。砦の朝の音はもう恐ろしくない。むしろ、安心できる合図のように感じられる。
書庫に向かうと、すでにマリエルが机の上に帳簿を広げていた。顔を上げた彼女が、にこっと笑う。
「おはよう、すみれ!」
「おはようございます」
「団長が昨日の補給計画を王都に報告するんだってさ。『この案を出したのは誰だ?』って聞かれるかもよ~」
「えっ、わ、私の名前が出るんですか?」
「かも、ね。怖い?」
「ちょっと……でも、がんばります」
正直に答えると、マリエルがニヤリと笑った。
「大丈夫。団長が全部盾になってくれるから」
その言葉だけで、不思議な安心感が湧く。昨日までの不安がすっと小さくなる。
昼前、執務室に呼ばれた。扉を開けると、ライアンが大きな封筒を手にして立っている。
「昨日の補給計画、王都に送った。ついでに、辺境防衛に必要な追加物資の要望も添えた」
「えっ……!」
「お前の計算を基にした。王都の役人どもが渋るかもしれんが、これなら通るはずだ」
胸の奥が一気に熱くなる。自分の知識が、本当にこの砦の力になっているんだ。王都で押し殺されていた“役に立ちたい”という想いが、静かに息を吹き返していく。
「……ありがとうございます。私、ほんとに、ここで頑張りたいです」
「それでいい。お前が必要だ」
短い言葉なのに、何よりも重く響く。息を吸い込むと胸がきゅっとなった。
その後も、王都からの返答を待ちながら、私たちは細かな書類整理を進めた。昼下がりになると、窓の外から楽しげな声が聞こえてくる。訓練を終えた騎士たちの笑い声だ。
扉がノックされ、マリエルがひょっこり顔を出した。
「団長~! 物資の再分配うまくいったってさ! 倉庫の若い子たちが“すみれさんの計算が神だった”って騒いでるよ」
「神……?」
思わず赤面すると、マリエルが楽しそうに笑った。
「ほんとだよ。おかげで余剰物資が早く回って助かったって」
「良いことだ。伝えておけ」
「団長も来てよ。みんな一緒に飲もうって!」
突然の誘いに、目を瞬かせる。
「の、飲む……?」
「ほら、昨日の続き! ささやかな乾杯だってさ」
ライアンは少し考えるように眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「行こう。お前の功績でもある」
「えっ、私も?」
「当然だ」
胸が跳ねる。昨日までなら絶対に怖がって断っていただろう。でも今日は違う。自然に「はい」と答えていた。
夕暮れ、砦の広場に小さな宴の輪ができていた。木箱を並べただけの簡素な席、けれどそこに灯されたランタンが温かく輝く。焼いた肉の香り、パンの匂い、そして人々の笑い声。心地よいざわめきに包まれる。
「すみれ~! こっち!」
マリエルが大きく手を振る。その横には、すでに何人かの騎士がグラスを手に待っていた。
「ほら、団長も!」
「俺は少しだけだ」
ライアンも無表情のまま座る。けれど、その席に自然に空いた“隣”が私のためだとすぐにわかった。
差し出されたグラスを受け取り、どきどきしながら周りを見渡す。みんな笑っている。私を見て笑っているのに、冷たさはどこにもない。温かい、居場所のある笑顔だ。
「じゃあ、すみれに乾杯!」
「乾杯!」
声が一斉に響く。驚いて笑ってしまい、グラスを慌てて掲げた。
「か、乾杯……!」
唇に触れた飲み物はほんのり甘くて、喉を通るたびに胸までじんわり温かくなっていく。拍手や歓声の中で、私は生まれて初めて“みんなの真ん中”にいる気がした。
「なぁすみれ、次の補給計画も頼むぜ!」
「う、うん! 任せてください」
自然に言えた。昨日までなら絶対に詰まっていたはずの言葉が、すんなりと出てくる。騎士たちが笑顔でグラスを掲げてくれる。
ライアンは少し離れた席で静かにグラスを傾けていた。ふと目が合うと、ほんの一瞬だけ微かに頷いてくれた。その目が、“よくやった”と告げている。
胸の奥がまた熱くなる。今の私の居場所が、ここにちゃんとあるのだと実感した瞬間だった。
夜のランタンがゆらゆらと揺れ、砦の空気がやさしく満ちていく。私はグラスを胸の高さまで上げて、もう一度だけ小さく乾杯の言葉をつぶやいた。
「……ありがとう」
誰に向けてというわけではない。でもこの世界のすべてに、そしてここにいさせてくれる人たちに向けた言葉だった。
・
宴の輪は夜が更けるにつれて、ますますにぎやかになった。簡素なランタンがゆらゆらと揺れ、焚き火の赤い光がみんなの笑顔を照らしている。パンの香りと、焼いた肉の匂いが混ざりあい、耳に届くのは笑い声ばかり。王都では一度も感じたことのない温かさに、胸が何度もじんわりする。
「すみれ、ほら、これ食べろ!」
大柄な騎士が串焼きを差し出してくる。香ばしい匂いに思わず笑顔になった。
「ありがとうございます!」
「うまいだろ?」
「はい!」
自然に声が弾んだ。周りから「いいぞいいぞ!」と歓声が飛ぶ。くすぐったいけど、嫌じゃない。むしろ心の奥にしっかり沁み込んでいく。
少し離れた席ではマリエルが楽しそうに他の騎士たちと話している。ふと目が合うと、彼女がニヤリと笑って親指を立てた。何かを祝福するような、明るい笑顔だ。
「すみれ」
低い声がすぐ横から響いて、思わず振り返った。ライアンがそこにいた。焚き火の光が灰青の瞳をやわらかく照らしている。
「団に馴染んできたな」
「……はい。みなさん、優しくしてくださって」
「お前が努力しているからだ」
その一言が胸の奥をじんわり満たす。努力していると、ちゃんと見てくれている。うれしくて、でも少し照れくさくて目を伏せた。
「ありがとうございます」
「王都でのことは忘れろとは言わん。だがここでは必要とされている。それだけは覚えておけ」
思わず顔を上げた。灰青の瞳がまっすぐに私を見ている。心臓が一瞬止まったような気がした。
「……はい」
それしか言えなかったけど、それで十分だった。胸の奥がぽうっと温かくなる。
マリエルがこちらをちらりと見て、何かを察したようににやっと笑う。思わず視線をそらすと、ライアンが少しだけ眉をひそめた。
「何を考えている」
「な、なんでもないです!」
「……そうか」
短く返しただけなのに、どこか優しい。会話の余韻が心地よく残った。
やがて騎士の一人が立ち上がり、グラスを高く掲げた。
「すみれのおかげで今年の冬は安心だ! 改めて、ありがとう!」
「ありがとう!」
一斉に響く声に胸がいっぱいになった。涙がこみ上げてくるのをこらえながら、グラスを高く掲げる。
「こちらこそ、ありがとうございます!」
その瞬間、拍手と歓声が大きく広がった。みんなが笑っている。こんなふうに自分の働きを認めてもらえる日が来るなんて、あの王都では想像もできなかった。
ライアンが隣で小さくグラスを掲げる。口数は少ないけれど、その一動作が何よりも力強く胸に響く。
夜風がそっと頬を撫でた。ランタンの明かりに照らされた砦の広場は、世界のどこよりもあたたかく見えた。
しばらくして、マリエルが私の隣に腰を下ろした。頬がほんのり赤く、目がきらきらしている。
「ね、今日のこと絶対忘れないでね」
「え?」
「仲間に迎えられた日。これからどんな大変なことがあっても、今日を思い出せばきっと大丈夫」
その言葉に胸がじんとする。自然に笑ってうなずいた。
「……うん。ありがとう、マリエル」
「よし、いい子!」
頭をぽんぽんと叩かれて、ちょっとくすぐったい。でもうれしい。
宴はやがて少しずつ落ち着いていった。ランタンの光が弱まり、笑い声がさざ波のように静まっていく。みんなが片づけを始めるころ、ライアンが小さく声をかけた。
「戻るか」
「はい」
立ち上がると、頭の中で今日の光景がいくつも浮かんでは消える。初めて“ありがとう”と皆に言ってもらえたこと、笑い声、焚き火のあたたかさ。全部が胸の奥に残っている。
歩きながら、勇気を出してライアンに話しかけた。
「あの……私、ほんとに来てよかったって思います。ここに」
ライアンは少しだけ驚いたように目を見開き、すぐに表情をやわらげた。
「そうか」
「はい。ありがとうございます、団長」
「俺は何もしていない。お前がここを選んでくれただけだ」
その言い方がなんだか照れくさくて、笑いがこみあげる。
「でも守ってくれたのは団長です」
ライアンは何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。けれど、ほんの一瞬だけ横顔がやわらかくほころんだのを私は見逃さなかった。
砦の明かりが近づくころ、胸の奥にじんわりとしたあたたかさが広がっていく。孤独だった王都の自分はもういない。今の私には、仲間がいて、守ってくれる人がいる。
この世界の夜空は、こんなにもやさしいのだと初めて知った。
・
砦に戻るころには夜空がすっかり澄んでいて、星々がまるで手を伸ばせば届きそうなくらい近く感じた。夜気はひんやりとしているのに、不思議と寒さはない。胸の中がまだ宴の温かさでいっぱいだった。
廊下を歩きながら、ふと横を見上げる。無言で隣を歩くライアンの姿がある。大きな背中と歩幅、そして時折こちらを気遣うようなゆっくりした歩き方。それだけで、心が落ち着くのが自分でもわかる。
「あの……」
「ん?」
「今日、ほんとにうれしかったです。初めて、みんなに“ありがとう”って言ってもらえて」
ライアンの足が一瞬止まり、すぐまた歩き出した。けれどその目が優しくこちらを見下ろす。
「それはお前の力だ」
「……でも、王都では誰もそう言ってくれませんでした。今日みたいな日が来るなんて思ってなかったから」
思わず笑いがこみあげる。嬉しくて、少し泣きそうで、でも泣かずに笑えた。
「これからも、ここで役に立てるようにがんばります」
「もう十分に立っている。だが……これからも期待している」
低く、静かに、でも確かに背中を押す声。心臓がまた小さく跳ねた。
「はい」
短く返すと、ライアンがわずかに目を細めた。それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
二人で歩く足音が、砦の石の廊下にやわらかく響く。遠くからは、まだ宴の名残の笑い声がかすかに届いていた。
自室の前に着いたとき、ライアンがふいに立ち止まった。
「ひとつ言っておく」
「……はい?」
「仲間に囲まれていても、危険はいつでもある。昨日のようなことは、また起こり得る」
「はい」
「だが、恐れなくていい。俺たちがいる。俺がいる」
胸が一瞬で熱くなった。言葉が出てこなくて、ただうなずく。
「……ありがとうございます」
「休め。明日も忙しい」
「はい、おやすみなさい、団長」
「おやすみ」
ライアンが背を向けて歩き去っていく。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、胸の奥で小さく笑った。昨日までの私なら、怖くて泣いていたかもしれない。でも今は、安心とあたたかさだけが残っている。
部屋に入ると、机の上には花束と栞。柔らかなランプの光がそれらを照らし出している。花の香りと銀色の葉の輝きが、今日のすべてを象徴しているようで、胸がいっぱいになる。
窓を開けて夜空を見上げた。昨日よりも星が近い。空気は冷たいのに、不思議なほど心は温かい。
「ここで、生きていける」
小さくつぶやいた言葉が、夜の静けさに吸い込まれていく。
王都で失ったものより、今ここで得たもののほうがずっと大きい。仲間、安心、信頼――そして守られるという感覚。
私は布団に潜り込み、花束の横に栞を置いた。どちらも、これからの自分を導いてくれる道しるべのように思える。
今日の温かい笑い声と、ライアンの静かな声が胸の奥で何度も響く。
目を閉じながら、未来の自分が少しずつかたちを持っていくのを感じた。もう迷わない。もうひとりじゃない。
静かな夜の中、私は安心のため息をひとつ吐いて眠りについた。
・
第12話 砦の朝と、新しい日々のはじまり
夜が明けるころ、ふと目が覚めた。窓から差し込む光は柔らかく、鳥のさえずりが耳に心地よい。ここへ来てから、朝の音がこんなにも優しく聞こえるようになったのは初めてかもしれない。昨日までの宴と、皆の笑顔、ライアンの言葉がまだ胸の奥に温かく残っている。
ベッドからゆっくり起き上がり、机の上を見る。そこには昨日の花束と銀の栞。見ているだけで心が力強くなる。もう、あの日の「無能」という言葉は私を縛れない。胸の奥に静かに息を吸い込み、小さく笑った。
「よし」
小さな声が自分を励ます。支度を終えて廊下を歩くと、まだ朝の光が淡く砦の石壁を染めている。パンを焼く匂いが漂い、奥から騎士たちの笑い声がかすかに響く。その音が“日常”に感じられるのが、なんだか嬉しい。
食堂の扉を開けると、マリエルが手を振った。
「おはよう! もう元気そうだね~」
「おはよう、マリエル。うん、よく眠れた」
「よかった。昨日のこと、ほんとにすみれちゃんの一歩になった感じする」
パンをちぎりながら笑うマリエルの目が優しい。向かいの席に座ると、胸の奥がほぐれていく。
「今日は何するの?」
「今日はね、防衛線の予備物資の配置を見直すって団長が言ってた。昨日の王都への報告もたぶん返事が来る頃じゃないかな」
「返事……」
「緊張する?」
「ちょっと」
「でも大丈夫。団長が全部なんとかしてくれるから」
あっさりと言うマリエルの笑顔に、自然と笑い返してしまう。そうだ、もう怖がらなくていいんだ。ここには守ってくれる人たちがいるのだから。
食堂を出るとき、廊下の向こうからライアンが現れた。鎧の上からマントを羽織り、朝の光を背にしている姿は堂々としていて目が離せない。彼はこちらを見て一瞬うなずいた。
「顔色がいいな」
「はい。昨日、ぐっすり眠れたので」
「そうか。今日はまた忙しくなる。ついてこい」
自然に「はい」と返事が出た。つい数日前まで、団長に呼ばれると緊張で喉が詰まっていたのに。今はただ安心感の方が勝っている。
執務室へ向かう途中、窓から朝の光が差し込み、灰青の瞳を照らした。ライアンは視線を前に向けたまま、ふと低く言う。
「……昨日の宴はよかったな」
「え?」
「お前があれだけ笑っていた。悪くない」
思わず足が止まりそうになる。心臓がどきんと跳ねた。
「団長も……楽しそうでしたよ」
「そう見えたか」
「はい。少し、ですけど」
ライアンがわずかに息を吐いたような気がした。表情はほとんど変わらないのに、なぜか柔らかさが伝わってくる。
「これからも少しずつ慣れていけばいい。ここはお前の場所だ」
「……はい」
胸がじんと熱くなる。昨日も同じようなことを言われたのに、今日はもっと深く響いた。
執務室に入ると、机の上には新しい地図と手紙が置かれていた。ライアンがすぐに封を切り、目を通す。
「王都からの返答だ。追加物資、認可された」
「ほんとですか!」
「ああ。お前の計算が添付してあったから、反論できなかったようだ」
思わず笑顔がこぼれた。王都から初めて“認められた”瞬間かもしれない。今さらながら、胸がじんわりしてくる。
「すごいじゃん!」マリエルが横から身を乗り出してきた。「もう完全にうちの戦略担当だね!」
「た、担当だなんて」
「だって事実でしょ、団長?」
「……そうだな」
ライアンがあっさりとうなずく。その言葉の重みが胸に染み込んで、思わずうつむく。
「ありがとう……ございます」
「礼は要らん。だが——」
「?」
「これからもっと忙しくなる。覚悟しておけ」
「はい!」
自然と力強く答えられた。怖さよりも期待の方が大きい。
そのあと午前中は、新しい補給計画を地図上に落とし込んだ。村ごとの備蓄状況を確認し、道の安全を計算し、必要な人員を割り振っていく。ペンを動かしながら、昨日までの自分と今日の自分の違いを感じていた。今はこの仕事を“できる”という自信がある。
「すみれ、ここ、補給所を増やした方がいいかもしれん」
「そうですね、計算では安全ですが……現地の道がぬかるんだ場合を考えると」
「じゃあ追加しておこう」
ライアンと交わすやり取りが自然になってきた。距離が近づいたのがわかる。マリエルも笑いながらメモを取りつつ、時々「さすが~」と声をかけてくれる。もう心は孤独じゃない。
窓の外で陽が高くなり、光が地図の上を金色に照らした。ライアンがペンを置き、私を見た。
「よくやった。午前はここまでだ」
「はい!」
思わず笑顔になった。自然と笑える。それが、こんなにも嬉しい。
昼食をとりに執務室を出るとき、廊下に差し込む光がとても明るく見えた。昨日までと同じはずなのに、世界が少し違って見える。
――私の居場所はここにある。
心の奥でそう確信しながら、私は笑顔でマリエルと肩を並べて歩いた。
・
昼食の広場は穏やかな活気に包まれていた。鍋から湯気の立つスープの匂いが漂い、パンの香ばしさが空気を満たしている。昨日まで感じていた遠慮は、もうほとんどなくなっていた。自然に列に並び、マリエルと肩を並べて笑い合う。
「ほら、今日は団長と同じ班だから気合い入れなきゃね!」
「えっ、私、団長と?」
「そうだよ。午後の配置確認。物資の移動計画を現場に伝えるんだって」
「ひゃ、現場……!」
思わず声が裏返る。机の上だけじゃなく、実地に立つのは初めてだ。
「大丈夫大丈夫。団長がついてるし、むしろ安心でしょ?」
「……うん、そうかも」
心臓がどくんと高鳴るけれど、不思議と恐怖ではない。昨日までの安心がちゃんと背中を押してくれる。
昼食を終えると、ライアンがすでに広場で待っていた。鎧の上から長いマントを羽織り、背筋を伸ばして立つ姿はまさに指揮官そのもの。けれど目が合った瞬間、ほんの少しだけ表情がやわらぐ。
「準備はいいか」
「はい!」
自分でも驚くくらい元気な声が出た。ライアンがわずかに目を細める。
「行くぞ」
砦の外へ出ると、秋の空気が肌をなでた。森の葉が金色に揺れ、遠くで馬の嘶きが響く。護衛の騎士たちが数人つき従っており、その先頭をライアンが歩く。私は地図を抱えてその横を進んだ。
「ここが今の補給路か」
ライアンが指さす。私が地図を広げて頷いた。
「はい。午前の計算で決めた仮のルートです。ただ、ここは地面がぬかるむことがあるそうなので、補給所をひとつ増やしておくと安全です」
「判断が早いな」
「昨日の倉庫での件があったので、念のために」
「……なるほど。いい判断だ」
灰青の瞳がまっすぐ私を見る。心臓が跳ねたが、視線をそらさずに頷くことができた。
途中の村で、農民たちが挨拶してくれる。
「団長! お疲れさまです!」
「おう。物資はもう少しで届く。備えを整えておけ」
ライアンが簡潔に告げると、農民たちは安心したように笑った。私にも視線が向く。
「お嬢さんが計画を?」
「は、はい……!」
「ありがたいよ。これで冬が越せる」
その言葉に胸がじんわりと温かくなる。王都で無能と決めつけられていた自分が、誰かの“安心”のために働けている。喉の奥が少し熱くなった。
ライアンがさりげなく横から声をかける。
「こうやって顔を合わせるのも大事だ。数字だけじゃなく、人の声を聞け」
「はい……!」
頬が自然にほころぶ。学ぶことがまだたくさんあるけれど、ここでならきっと大丈夫だ。
森を抜けるころ、日が少し傾き始めていた。赤と金の葉が風に舞い、私の髪をかすめる。ライアンがふと振り返った。
「疲れてないか」
「大丈夫です」
「昨日の宴のあとだ、無理はするな」
優しい声に、胸がきゅっとなる。こんなふうに気遣われたのは、いつ以来だろう。言葉が少し詰まったけれど、笑顔で頷いた。
「はい」
ライアンが短くうなずき、再び前を向く。その背中が頼もしくて、思わず目を細めた。
砦に戻ったころには、空が赤く染まり始めていた。報告をまとめ終えると、自然と拍手が起きた。騎士たちの笑顔、マリエルの親指、そしてライアンの静かなうなずき――全部が胸に刻まれる。
「初仕事、よくやったな」
ライアンの言葉が、何よりも重く響いた。
「ありがとうございます!」
胸を張って答えると、ライアンの口元がほんのわずかに、でも確かに緩んだ。
その微笑みを見た瞬間、胸がじんと温かくなる。昨日までの不安が、まるで霧のように晴れていくのを感じた。
もう私はこの砦の一員だ。
そう胸の奥で確信しながら、静かな夕暮れの空を見上げた。
・
夕暮れの鐘が鳴り、砦の中庭は一日の終わりを告げるように柔らかな光に包まれていた。訓練を終えた騎士たちが武器を片づけ、笑い声を上げながら水桶で顔を洗っている。パンを焼く香ばしい匂いと、スープの湯気が食堂から漂ってきて、砦全体が心地よい疲労と安堵に染まっていた。
「すみれちゃん!」
マリエルが手を振りながら駆け寄ってくる。夕日に照らされた彼女の笑顔は、どこか誇らしげだった。
「今日はほんとにお疲れさま。団長も満足そうだったよ」
「え……そうなんですか?」
「うん。顔に出さないけどね、団長って。あれでもめっちゃ分かりやすいんだから」
「ふふ……そうかもしれません」
思わず笑ってしまう。無表情に見えても、灰青の瞳の奥にある小さな変化を、今の私は感じ取れる。昨日より今日、今日より明日と、少しずつ見えてくる気がする。
食堂に入ると、もう大きな鍋が並べられていた。湯気の向こうから騎士たちが「すみれ!」と声をかけてくれる。自然に笑顔で「お疲れさまです」と返すことができた。拍手が起き、肩を叩かれ、冗談を言われる。そんなやり取りひとつひとつが胸の奥にあたたかく積み重なっていく。
「こっちに座れ」
低い声に振り向くと、ライアンが空いた席を示していた。心臓が跳ねたけれど、自然に「はい」と答えて彼の隣に座る。並んでパンを分け合うだけで、不思議と安心できた。
「今日はよく働いた」
淡々とした声。それなのに、心臓がまた大きく鳴る。
「ありがとうございます。……でも、団長が支えてくださったからです」
「それは違う。お前自身の力だ」
言い切る声に胸が熱くなる。否定ではなく、まっすぐに認めてもらえる。王都では一度も聞けなかった言葉だ。
マリエルが向かいでにやにやしながらシチューをかき回していた。
「ねぇ、すみれちゃん。今日の笑顔、すごくいいよ。昨日までの君じゃないみたい」
「え……そんなに変わりました?」
「変わった変わった。自分でも気づいてるでしょ?」
返事をためらう。けれど心の奥ははっきり分かっていた。そう、変わったのだ。守られ、信じられ、仲間と呼ばれることで、自分の足で立てるようになった。
「……うん、少しは」
小さく答えると、マリエルがにっこり笑った。
「その調子!」
笑い声が広がる食堂で、私はスープを口に運んだ。温かさが喉を通り抜け、胸の奥にじんわり広がる。その感覚は料理の味だけじゃなく、この場所にある人の温もりそのものだった。
夜。部屋に戻って机に灯りをともす。花束と栞が並んでいて、それだけで胸がいっぱいになる。ノートを開き、今日のことを書きつけた。
――初めて現場に同行した。
――村の人に「ありがとう」と言われた。
――団長に「お前の力だ」と言われた。
ペン先が震える。言葉を書きながら、目がじんわり潤んだ。泣きたいわけじゃない。ただ、胸があたたかすぎて涙があふれそうになる。
窓を開けると、夜空に満天の星が瞬いていた。砦のあちこちで灯るランプの光が星と混ざり合い、守られているように感じる。冷たい風が頬を撫でたが、不思議と寒くなかった。
「……ここで生きていこう」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。その言葉が、未来を照らす灯りになる。
もう王都で迷っていた私ではない。無能と決めつけられていた自分も、ここにはいない。
新しい日々は、今まさに始まったばかりだ。
胸の奥のあたたかさを抱きしめながら、私は静かに目を閉じた。
・
第13話 冬支度と、初めての“頼られる”瞬間
翌朝は空気がぐっと冷たく、吐く息が白くなった。窓を開けると、森の木々が冬を告げるようにかすかに霜をまとっている。砦の屋根も薄く白い膜をかぶっていて、季節の変わり目を実感させた。昨日までの秋の柔らかさが少しずつ消え、これからの冬が本格的にやってくるのだと思う。
厚手の外套を羽織って書庫へ向かうと、すでにマリエルが両腕いっぱいに帳簿を抱えていた。
「おはよう、すみれ!」
「おはようございます。今日の仕事は?」
「冬支度の最終確認! 備蓄量と消費ペース、全部の村分を見直すんだってさ。団長から“すみれを中心に進めろ”って命令が出てるよ」
「え……!」
思わず足が止まった。私を中心に――そんな言葉、これまで一度も聞いたことがない。
「ほんとに? 私が?」
「ほんと。団長、昨日の王都報告の内容をそのまま上層に通したって。君の計算を信頼してるんだよ」
胸が一気に熱くなった。恐れもあるけど、それ以上に込み上げてくるのはうれしさだった。認められて、託されている。王都では誰もしてくれなかったことだ。
「がんばらなきゃ……」
「うん! 大丈夫、私も手伝うし」
笑顔で背中を押され、自然と力が湧く。怖いよりも、挑みたいという気持ちの方が強くなっていた。
執務室に行くと、ライアンが地図の前で待っていた。灰青の瞳がこちらをとらえる。昨日までより、さらに少しだけ近い距離感を感じる。
「来たか」
「はい。お呼びいただいてありがとうございます」
「礼はいらん。今日の作業は冬支度の最終だ。お前の案をもとに進める」
「わ、私の……」
「自信を持て。お前が一番正確に全体を把握している」
その一言が、胸の奥の緊張を溶かした。まだ怖いけれど、背中を押してもらえるから立てる。
「……はい!」
机いっぱいに広がった書類の束を前に、私は深呼吸してペンを持った。マリエルが横でメモを取りながら支えてくれる。数人の副官たちも加わり、各村の現状を報告してくれた。
「北の集落は保存食が予定より減ってます。配分を見直しますか?」
「東の山道が一部雪で閉ざされるかもしれません」
次々に飛んでくる情報をまとめ、瞬時に計算し、判断していく。最初は戸惑いそうだったけど、不思議と頭が冴えていた。昨日までの積み重ねが、自分を支えてくれている。
「北の集落に補給所をひとつ増やしましょう。東の山道が塞がった場合、南回りの距離を計算します。馬車の数は――」
「三台で足ります」
「だな。備蓄から二割を移動させよう」
ライアンの声がすぐ横から響く。まるで二人で呼吸を合わせているようだった。目が合うと、彼は短く頷く。それだけで、また力が湧いてくる。
「王都からの追加物資が来るのは一週間後。そこまでの余裕をもたせるために……」
口にしながらペンを走らせると、副官たちが次々と資料を渡してくれる。驚いたような尊敬の目が向けられて、胸がくすぐったくも誇らしい。
「……すごいな」
ふいに低い声がして顔を上げると、ライアンが私を見ていた。淡々としているのに、その瞳の奥がわずかに温かい。
「え?」
「最初に来た時から比べると、見違える」
胸がどくんと跳ねた。耳の奥が熱くなる。嬉しくて、でもどう返せばいいかわからなくて、ただ笑うしかなかった。
「ありがとうございます……でも、団長が守ってくださったから、私、ここまで来られたんです」
「それは俺の役目だ。だが、お前が自分の足で立ったから今がある」
まっすぐな声。心がぎゅっとなる。何かが決定的に変わった気がした。もう私は“連れてこられた人”じゃない。ここで自分の力を発揮している。
その瞬間、ドアがノックされ、伝令の若い騎士が顔を出した。
「団長! 西の村から連絡です! 雪が思ったより早く降り始めて、荷車が動けなくなったと!」
空気が一瞬で張り詰めた。ライアンが立ち上がり、鋭い視線を向ける。
「場所は?」
「西の街道の二つ目の橋の手前です!」
私は地図を引き寄せ、瞬時に目を走らせた。
「団長、ここです! 距離なら、南の備蓄庫から馬車を回せば二日で到達できます」
「……間に合うか?」
「はい。ただし燃料が足りないかもしれません。近くの森で調達できるか確認を」
「よし、副官! 南の班に指示を。すぐに馬車を出せ。燃料は森から。補給所は予備をここに設置する!」
「はっ!」
指示が飛び交う中、ライアンの視線が一瞬だけ私に戻る。ほんの一瞬の、その眼差しが“頼りにしている”と語っていた。
胸が熱くなる。怖いどころか、今はただ動きたい。力になりたい。その思いでいっぱいだった。
「団長、必要な帳簿をまとめます!」
「頼む」
短い言葉が背中を押す。私は立ち上がり、書類を抱えて部屋を飛び出した。もう足は震えていない。
――今、私がここにいる意味がある。
心の中でその確信が強く鳴った。
・
帳簿を抱えて走りながら、胸の奥が熱くてたまらなかった。怖いことが起きているはずなのに、足はまったくすくまない。むしろ頭の中が驚くほど澄んでいて、必要な数字が次々と浮かんでくる。
書庫の扉を開けると、マリエルが目を丸くした。
「すみれ!? どうしたの、そんな顔して」
「西の街道で雪の足止めが出ました! 緊急の補給計画が必要です」
「了解! 待ってた!」
マリエルはすぐに机へ駆け寄り、私の手から帳簿を受け取る。二人で並んで数字を追いながら、最適な物資と人員の配分を考える。騎士たちが次々に駆け込んできて、情報を投げ込んでくれる。
「燃料、南の森で調達可能です! ただし伐採班が足りません!」
「馬車三台は準備中。追加の馬が必要だ!」
「それなら……」
私は地図を指でなぞり、瞬時に計算する。
「燃料は森の東側から取れば村の人手が使えます! 馬は南の小牧場から回せます。損耗は最低限で済むはず!」
「了解!」
マリエルがすぐに指示を書きとめ、副官へ渡す。部屋が指令室のような空気になっていくのを感じる。自分の声が響き、誰かがそれを信じて動いている。胸が震えるような実感だ。
「すみれ、こっちも!」
「はい、すぐ!」
書類を手渡されるたび、考えるより先に手が動いた。昨日までの経験がすべて背中を押してくれる。怖さはない。ひたすら“今できること”に集中していた。
やがて扉が開き、ライアンが戻ってきた。冷たい空気をまとっていて、灰青の瞳が鋭く光っている。だがその奥に一瞬だけ安堵が走った。
「状況は?」
「馬車三台、南から出発準備中です。燃料は東の森から。伐採班は村の協力を要請済み」
「対応が早いな」
ライアンが近づいて地図を見下ろす。私が指した補給所の位置を確認し、短く頷いた。
「これなら間に合う。よくやった」
「……はい!」
全身が熱くなる。息が少し震えたけれど、それは恐怖じゃなくてうれしさからだった。
「副官、出発の準備を整えろ。すみれ、伝令用の書簡を作れ。村への物資割り当ても明記しておけ」
「わかりました!」
マリエルと顔を見合わせ、同時にうなずく。ペンを握る手が力強く動く。書簡を書き上げるスピードが自分でも驚くほど早い。途中でライアンが背後に立ったのがわかった。大きな影が私の机を覆う。ふと見上げると、灰青の瞳がまっすぐ私を見ていた。
「落ち着いているな」
「はい……不思議と怖くありません」
「そうか」
ほんの短い返事なのに、胸の奥がまたじんと温かくなる。認められている。支えられている。そして自分も立っている――それが確かな力になる。
しばらくして全ての書類が整い、伝令が馬を駆って出発した。扉が閉まる音と同時に、室内に一瞬静けさが訪れる。私とマリエルは同時に大きく息を吐いた。
「ふーっ……! やりきった!」
「はい……!」
笑顔が自然にこぼれた。全身が熱くて、でも心地よい。初めて本当の意味でこの砦の一員として働いた気がした。
ライアンがゆっくりと近づいてくる。灰青の瞳がまっすぐ私を射抜く。
「見事だった」
「えっ……」
「判断が早く、的確だった。俺がいなくても動けるようになっている」
胸がぎゅっとなる。息が少し詰まって、でも嬉しさの方が勝つ。
「……ありがとうございます」
「お前の力を信じて正解だった」
ライアンはそれだけ言って、わずかに口元を緩めた。ほんの一瞬の笑み。けれどそれは、心臓に直接触れるような優しい力を持っていた。
「これからも頼むぞ」
「……はい!」
はっきりと答えた声が、部屋の空気を軽くした。マリエルが横でにやにやしながら拍手をする。
「すごいじゃん、すみれちゃん! 団長のお墨付きだよ~!」
「や、やめてください!」
「なに照れてんの~。ほんと成長したなあ」
からかわれて顔が熱くなる。でも嫌じゃない。むしろくすぐったい幸せが胸いっぱいに広がっていく。
窓の外では雪雲がゆっくりと動いていた。これから長い冬が始まる。それでも怖くない。ここには仲間がいて、私を信じてくれる人がいるから。
胸の奥がふわりと温かく満ちていくのを感じながら、私はもう一度深呼吸をした。
――ここで生きていく。
その想いが、はっきりと自分の中に根を張ったのを感じた。
・
雪雲が空を覆いはじめ、砦の中庭が少しずつ白く染まりはじめていた。伝令の馬が門をくぐり抜けていった後、室内に残っていた張りつめた空気がゆっくりと溶けていく。誰もが大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「ふぅ……」
私も深く息をつく。緊張で固まっていた指先が、ようやく自分のものに戻ってきた。
「やりきったな!」
マリエルが背中を軽く叩いてくる。力強くて温かい手。思わず笑顔になった。
「うん……ちょっと、足がふらふらするけど」
「そりゃそうだよ。初めての大仕事だもん」
ふたりで小さく笑い合った瞬間、扉が開き、ライアンが戻ってきた。雪を払いながら中へ入ってくる。鎧についた白い粒が光を反射して、灰青の瞳がいっそう冴えて見えた。
「伝令は出た。あとは実行を待つだけだ」
「はい」
思わず背筋を伸ばす。
ライアンはゆっくりと歩み寄り、机の上の地図を見下ろした。視線が私の手元をなぞるように動く。そしてふっと息を吐いた。
「よくやった、水野」
名前を呼ばれた瞬間、胸が熱くなる。これまで一度も聞いたことのない、まっすぐな呼び方だった。
「……ありがとうございます」
「迅速だった。判断も的確だった。俺がそばにいなくても動けたな」
その言葉の意味を噛みしめるうちに、胸がじんわりして、涙がこぼれそうになる。でも泣きたくない。だから笑顔で頷いた。
「みんなが支えてくれたからです。団長が背中を押してくれたから」
「支えたのは俺たちの役目だ。だが動いたのはお前だ」
ライアンはそう言って、ほんの一瞬だけ目を細めた。滅多に見せない、優しい微笑。
その笑顔に、胸の奥で何かが静かに弾けた。
「これからも……がんばります」
「ああ。期待している」
短い言葉なのに、力があふれる。王都で言われたどんな評価よりも、ずっと重くてあたたかい。
マリエルが横でにやりと笑った。
「ほらね~、団長がお墨付きくれたでしょ。もう砦の“要”だよ、すみれちゃん」
「や、やめてください!」
思わず真っ赤になって叫ぶと、室内に笑いが広がった。その輪の中に自分がいるのが、信じられないくらい心地いい。
しばらくして解散となり、私とマリエルは一緒に廊下を歩いた。窓の外では雪がゆっくりと舞っている。マリエルがふと私の肩を軽く叩いた。
「ね、初めてじゃない? “すみれがいなきゃ動かなかった”って状況」
「……そうかも」
「うれしいでしょ?」
「うん……うれしい」
自然に言葉がこぼれる。怖さじゃなく、誇りと安心が胸いっぱいに広がっている。
「次も頑張れそう?」
「もちろん」
その答えがすぐに出て、自分でも驚いた。
部屋に戻ると、机の上の花束と銀の栞が目に入った。昨日までは“仲間になれた証”だと思っていた。でも今は、それ以上の意味を持っている気がする。自分の力で誰かを守れた、その実感の象徴のようだった。
窓を開けると、白い雪が静かに舞い落ちてきた。冷たいのに、なぜか心はあたたかい。
「ここにいて、よかった」
小さくつぶやいた。声は雪の中に溶けていったけれど、胸の奥でしっかりと響いている。
これからもきっと試練はある。怖いこともあるだろう。けれどもう、ひとりではない。守ってくれる人がいて、私を信じてくれる仲間がいる。
その事実だけで、どんな冬でも越えられる気がした。
外の雪が砦の屋根を白く染めていく。私はその景色をしばらく見つめ、そっと笑みを浮かべた。
新しい日々は、今日もここから続いていくのだ。
・
第14話 はじめての“お礼”と、心の距離
翌朝、外の世界はすっかり雪景色だった。砦の屋根が白く縁どられ、森の木々は粉砂糖をまぶしたように静まり返っている。空気は澄んで冷たいけれど、胸の奥はなぜかぽかぽかと温かい。昨日の出来事が心を満たしているからだろう。
朝食を終えると、私は書庫で作業を始めた。補給計画の更新、村から届く報告の整理――やるべきことは山積みだ。でも不思議と疲れはなく、むしろやりがいに満ちていた。
「おはよー、すみれ!」
元気な声とともにマリエルが入ってくる。手には布袋を提げていて、にやにやと楽しそうだ。
「おはよう、マリエル。今日も寒いですね」
「うん、でもね、ほら、これ見て!」
袋から出てきたのは、小さな毛糸の手袋。指先が空いていて、帳簿を扱いやすそうな作りだ。手首の部分には可愛い花の刺繍が施されている。
「えっ、これ……」
「村の奥さんたちから。昨日の救援のお礼にってさ。すみれちゃんの分、ちゃんとあったの!」
胸の奥が一気に熱くなった。思わず手袋をそっと握りしめる。
「私の……?」
「そう! “あの子がいなかったら村が困ってた”って言ってたよ」
目がじんわり潤んだ。王都で“無能”と突きつけられた私に向けて、“ありがとう”がこんな形で届くなんて。
「……うれしい……」
小さな声しか出なかった。マリエルが満足そうに微笑む。
「ほら、早くはめてみて!」
「う、うん!」
手袋をはめると、柔らかくて暖かい。指先が自由に動かせるようになっていて、私の仕事をちゃんとわかって作ってくれたことが伝わってくる。
「似合ってる!」
「ありがとう、マリエル……それに、村の皆さんにも」
胸がいっぱいになりながら微笑む。自分のしたことが、ちゃんと誰かの役に立って返ってくる。こんな幸せがあったなんて、昨日まで知らなかった。
その時、扉がノックされて低い声が響いた。
「入るぞ」
ライアンが入ってきた。灰青の瞳がこちらを見て、手袋にすぐ気づいたようだった。
「それは?」
「昨日の救援のお礼だそうです。村の方が……」
「そうか」
ほんの一瞬、彼の目がやわらかくなる。雪の光を受けて、灰青が淡く透けるように見えた。
「よくやった。昨日の動きがあったからだ」
「ありがとうございます……でも、みんなのおかげです」
「お前の判断がなければ間に合わなかった。胸を張れ」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。王都では絶対に言われなかった言葉が、ここではこんなにも自然に届く。
「……はい!」
自然と大きな声が出た。ライアンの口元がわずかに、けれど確かに緩んだ。
「それと、もうひとつ」
「はい?」
「明日の午前、王都から使者が来る。追加物資の最終確認だ」
「王都の……!」
一瞬、背中がこわばる。あの冷たい視線や嘲笑を思い出してしまったからだ。
だが、すぐに隣のマリエルが肩を叩いた。
「大丈夫。団長と一緒でしょ?」
「……そうだな」
ライアンの低い声が背中を押す。「俺がいる」という昨日の言葉が甦ってくる。胸の奥の緊張が少しずつほどけていった。
「はい。大丈夫です」
そう答えると、ライアンがうなずいた。
「よし。自信を持て。昨日のお前を見ていれば、何も問題ない」
その声だけで不安が霧のように消えていく。胸があたたかい。
マリエルがひそひそ声で耳元にささやく。
「ね、団長ってほんと優しいよね」
「しっ! 聞こえます!」
「聞こえてもいいんじゃない? ねぇ団長?」
思わず顔が真っ赤になる。ライアンは無言のままだが、なぜかその横顔が微かに和らいだように見えた。
雪は静かに降り続けている。砦の窓から見える白銀の世界は、冷たくて厳しいはずなのに、今の私には少しも怖くない。胸の中にある温もりが、この冬を越えていける力をくれるからだ。
私は改めて手袋を見下ろした。指先までぴったり合っている。まるで“ここにいていい”と告げてくれているようだ。
王都から来る使者を前にしても、もう逃げない。私はもう、ここで働くひとりの仲間だ。
窓の外の雪を見つめながら、胸の奥で小さくつぶやく。
「負けない」
その言葉は、私自身をあたためる魔法のように響いた。
・
翌朝、砦の空気はさらに冷え込んでいた。雪が深く積もり、外の世界は真っ白に沈黙している。それでも砦の中は朝からざわめいていた。王都からの使者を迎える準備が進んでいるのだ。
私は書庫で最後の資料を確認していた。冬支度の計算書、物資の配分表、村ごとの状況まとめ。どれも一度は自分の頭で組み立てたものだ。手袋をはめたままページをめくると、ほんのり指先が暖かい。
「準備は順調?」
マリエルが顔をのぞかせた。いつもより少し真剣な顔をしている。
「うん……でも少し緊張してる」
「そりゃそうだよ。相手は王都の役人だからね。けど大丈夫、団長が一緒だし、私もサポートするから!」
その声に心がほぐれる。昨日までなら怯えていたはずのことも、今は不思議と立ち向かえる気がする。
やがて扉がノックされ、ライアンが姿を現した。黒いマントに雪の粒がわずかについている。灰青の瞳が私をまっすぐにとらえた。
「準備は整ったか」
「はい」
「緊張しているか?」
正直にうなずくと、ライアンの唇がほんのわずかに持ち上がった。
「それでいい。緊張している方が頭は冴える。だが、怖がる必要はない」
その一言が、身体の芯に力を与えてくれる。深呼吸して、笑顔で答えた。
「はい」
「行くぞ」
彼の背を追って外へ出る。雪を踏みしめる音が冷たい空気に響いた。砦の門の前には、すでに副官たちが整列している。遠くから馬の蹄の音が近づいてくるのがわかる。
やがて現れたのは、王都の紋章を掲げた馬車だった。灰色の外套をまとった役人たちが降り立つ。冷たい視線と共に、あの日の記憶が一瞬胸を刺した。けれど隣の大きな背中を見た瞬間、不思議と恐怖が消えていった。――私はひとりじゃない。
「辺境砦のライアン団長、ならびに補給担当者の……」
役人の視線が私に向けられた。わずかに嘲りが混じるその目に、かつての自分ならすくんでいた。でも今日は、堂々と顔を上げられた。
「水野すみれです」
はっきりとした声が自分の口から出た瞬間、胸が熱くなる。ライアンがほんの一瞬こちらを見て、短くうなずいた。
王都の役人たちは書類を求めてきた。私は落ち着いて計算書と分配表を手渡し、要点を説明する。
「この備蓄計画は、現地の消費ペースと気候データをもとに調整しました。先日の雪崩で西の街道が一部通行不能になったため、南回りのルートを補強しています」
「……ほう」
役人たちの目がわずかに動く。冷たい色から、慎重な評価へと変わっていくのを感じた。
「輸送馬車は三台。内訳は――」
「補足する」
ライアンの低い声が横から支えてくれる。安心と力が背中から流れ込む。二人で説明を続けていくと、やがて役人のひとりが小さくうなずいた。
「計算は正確だな。王都の報告よりも詳細だ」
「現地を知っているからこそできる判断です」
ライアンが淡々と答える。その声に頼もしさが満ちていて、私は胸が高鳴った。
「追加物資は予定通り送ろう。……水野、といったか」
「はい」
「お前の計画、悪くない。辺境にしては上出来だ」
上出来――その言葉は冷たく聞こえるのに、私の胸には不思議と誇らしさが広がった。王都からの初めての“評価”だったからだ。隣のライアンが静かに私の肩に触れる。大きな手の重みがすべてを肯定してくれる。
使者が去っていくと、砦の空気が一気にやわらいだ。副官たちが笑顔で近寄ってきて「お見事」と口々に言う。マリエルが満面の笑みで両手を振り上げた。
「やったね、すみれちゃん!!」
「う、うん……!」
胸がいっぱいで言葉にならない。けれど笑顔だけはこぼれてしまう。
そのとき、ライアンがすっと近づいた。私を見下ろす瞳が、少しだけ柔らかい。
「よくやった」
それだけで、胸が熱くなる。
「団長のおかげです」
「違うな。お前の力だ」
また、その言葉。何度聞いても心にしみる。
マリエルがにやにやとこちらを見ながら、わざとらしく耳打ちしてきた。
「ほらね、完全に認められてるじゃん」
「う、うるさいです!」
けれど、その笑い声も、今は心地いい。
外は相変わらず雪が降り続いている。けれどその白さは、昨日までの孤独を消し去るように優しく感じられた。
――ここが、私の場所だ。
胸の奥で強くそう思った瞬間、雪の世界が一層美しく見えた。
・
午後、砦の中庭では役人たちが去った後の静けさが戻っていた。雪はまだ舞っているけれど、朝の緊張感はすっかり消え、どこか満ち足りた空気が漂っている。私はふわりと息を吐いた。緊張がとけ、足元が少しふらつく。でもそれが、悪くない。
「すみれちゃん!」
マリエルが駆け寄ってきた。雪をはらいながら満面の笑みを浮かべている。
「ほんとにすごかったよ! 王都の役人、完全に言い負かしてたじゃん!」
「言い負かしてたって……ただ説明しただけです」
「いやいや、あれは自信ある人の声だった! ほら、団長も横でうんうんってしてたじゃん」
「してません!」
思わず顔が熱くなる。けれど、嬉しくてたまらなかった。あの場で怯えずにいられたのは、ライアンがそばにいたからだ。彼の静かな存在が、すべてを支えてくれていた。
マリエルはわざとらしく目を細める。
「ねぇねぇ、団長の隣ってどう? 緊張するけど、安心もするでしょ?」
「……する」
小さく認めると、マリエルが満足げに笑った。
「だと思った!」
笑い声が白い息になって空へ舞う。そんな温かいやり取りをしていると、後ろから低い声がした。
「おしゃべりは終わったか」
「ひゃっ!」
振り向けば、いつのまにかライアンが立っていた。雪を払う仕草が静かで、でもなぜか頼もしい。
「団長、びっくりさせないでください」
「呼んだ覚えはないが」
淡々とした声。それでも灰青の瞳は少しだけ柔らかい。
「水野」
「は、はい!」
「今日の働き、見事だった。堂々としていたな」
「ありがとうございます」
「……だが、少し無理をしただろう」
その言葉に、心臓が一瞬止まりかけた。見透かされている。胸の奥がほんのり熱くなる。
「大丈夫です」
「ならいい」
ライアンはそれ以上何も言わず、ただ短く頷いた。その静かな肯定が、言葉以上に胸を温めていく。
「団長、すみれちゃんにあんまり優しくしたら、私の出番がなくなっちゃうんだからね」
マリエルがからかうと、ライアンは少しだけ眉を動かした。
「俺は事実を言っただけだ」
「はいはい、そういうことにしておきます~」
マリエルの無邪気な笑顔に、私も思わず吹き出した。重かった空気が、雪のように軽やかに解けていく。
その後は倉庫の中で追加の補給点検を行った。作業しながらも、騎士たちが何度も「さっきは見事だったな」と声をかけてくる。嬉しいけれど、なんだかくすぐったい。マリエルが「もう砦のスターじゃん」と小声でからかってきて、さらに頬が熱くなった。
日が暮れるころ、執務室へ戻るとライアンがひとりで地図を見ていた。私が入ると、顔を上げる。
「報告書を書き終えたか」
「はい。これです」
手渡すと、彼は静かに受け取り、目を通した。そしてほんのわずか口元を緩める。
「問題ない。完璧だ」
「……!」
胸が跳ねる。完璧、という言葉を初めてもらった。
「お前がいると助かる」
「……!」
返事ができないくらい胸が熱くなった。言葉が詰まりそうになるけれど、どうしても伝えたくて口を開く。
「団長……私、ここに来てから、初めて“役に立てた”って思えました。ありがとうございます」
「感謝するのは俺の方だ」
「え?」
「お前が来てから、砦は確実に強くなった。数字だけじゃない。人の空気も変わった」
灰青の瞳がまっすぐに私を射抜く。心臓が痛いほど鳴る。
「……そんな、大げさですよ」
「大げさではない」
短く言い切られて、息が止まりそうになる。しばらく視線が絡み合った。胸がいっぱいになりすぎて、思わず目を逸らす。
「あ、あの……そろそろ夕食の時間ですね!」
「そうだな。行くか」
わずかに表情をゆるめたライアンが、静かに扉を開けた。その後ろ姿を見つめながら、胸の奥が不思議なあたたかさで満ちていく。
食堂では、いつものように笑いと香ばしい匂いが満ちていた。けれど今夜は、皆の笑顔がひときわやさしく感じられる。昨日まで“よそ者”だった自分が、今は同じ輪の中にいるのだ。
窓の外では雪が降り続けている。だけど、その白さはもう怖くない。むしろ美しく、頼もしくさえ見える。
――ここに、私の場所がある。
胸の奥でその言葉をかみしめながら、私は静かに微笑んだ。
・
第15話 初めての“家族”のような夜
夕食後、まだ食堂にはあたたかな灯りと笑い声が残っていた。雪は相変わらず降り続いているのに、砦の中だけはまるで別世界のようだ。鍋の匂い、パンを焼く香ばしさ、木のテーブルを囲む人々の声――すべてが優しい。昨日までの自分なら、この光景を遠くから眺めているだけだった。でも今は、その輪の中にいる。
「すみれちゃん、おかわりいく?」
マリエルがスープ鍋を持ってくる。湯気が立ち上り、ハーブのいい香りがした。
「ありがとう。もう少しだけもらおうかな」
「えへへ、今日もいっぱい動いたもんね。ご褒美だよ」
笑いながらスープを注ぐマリエル。横では副官のひとりが、雪道での苦労話を皆に披露している。声を上げて笑う騎士たち。そこに混じって笑っている自分が不思議で、でも幸せでたまらない。
ふと視線を感じて振り向くと、少し離れた席にライアンが座っていた。彼はあいかわらず無口で、杯を手にしている。でも目がこちらに向いて、ほんの一瞬だけ柔らかくなった気がした。胸がどきりとする。
「団長~、たまには笑ってくださいよー!」
誰かが声を上げると、ライアンは軽く片眉を上げた。
「笑っている」
「えー、今のは笑ってない~!」
騎士たちがどっと笑う。マリエルがこっそり私の耳元に顔を寄せた。
「ほら、すみれちゃんの方見たときだけ、ちょっと表情変わった」
「え、そんなこと……!」
「バレバレよ。もう団長の“特別ゲージ”上がってるもん」
「特別ゲージって何ですか!」
二人で笑ってしまい、周りの視線が集まってまた笑いが広がった。砦の空気は寒さなんて感じないほど温かい。
その後、宴が落ち着くころ、ライアンが静かに席を立った。何気なく目が合う。あの灰青の瞳に促されるように、私も立ち上がった。
外に出ると、雪は音もなく降り続いていた。白い世界の中に灯りが滲んで、とても静かで美しい。
「少し、歩くか」
ライアンの低い声。頷いて隣を歩く。足音が雪を踏みしめ、ひんやりとした空気が頬を撫でる。けれど不思議と寒くはなかった。
「今日の役人相手、よくやった」
「ありがとうございます。でも、すごく緊張しました」
「当たり前だ。だが、堂々としていた」
その一言で胸がじんと温かくなる。寒さよりも体の芯が熱い。
「団長が一緒にいてくれたからです。後ろを振り返らなくても“ここにいる”ってわかってたから」
「……そうか」
短く返事をしたライアンが、ほんの少しだけ口角を上げた。雪明かりの下で、それが柔らかな笑みに見えて息が詰まる。
「お前はもう、十分にこの砦の一員だ」
胸が一瞬でいっぱいになった。言葉が出なくて、ただ「はい」と頷く。声が少し震えたのを自分でも感じた。
「それと――」
「?」
「明日から、正式に補給隊の指揮を任せる」
「えっ……!」
立ち止まってしまう。ライアンがこちらを振り返り、淡々と続けた。
「昨日今日の動きを見た。お前が現場の判断をした方が早く正確だ。俺は全体を指揮する。補給線はお前に任せたい」
「……!」
胸の奥で大きな音が鳴った。怖さと誇らしさが一度に押し寄せてくる。
「私……できますか?」
「できる」
迷いのない答えだった。即答。それがどれほど大きな力になるか、言葉にできない。
「俺が保証する」
雪の白に灰青の瞳が溶け込む。そのまっすぐさに胸が詰まって、涙が出そうになる。
「……はい。がんばります」
「よし」
ライアンがわずかに頷いた。それだけで寒さがすべて消えたような気がした。
しばらく並んで歩く。雪の音だけが二人を包む。胸があたたかくて、世界がゆっくり静かに動いているように感じた。
「すみれ」
「はい?」
「……ありがとう」
突然の言葉に、息が止まった。
「え?」
「この砦を救ってくれた」
短いけれど真っすぐな声。心臓が跳ねて痛いくらいだ。
「団長……」
何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。ただ微笑んで頭を下げる。それしかできなかった。
雪は静かに降り続けている。けれどその白さは、もう孤独ではなく、誰かと一緒に歩く道を照らしてくれている。
――ここは、もう私の居場所だ。
胸の奥でその想いが、今までにないほど強く確かなものになっていくのを感じた。
・
ふたりで雪の庭を歩いたあと、ライアンは何も言わず先に執務室へ戻っていった。私もその背を見送り、胸の奥がまだ熱いまま自室へ向かった。扉を閉めた途端、どっと力が抜ける。今日一日で、いったいどれだけのことが起きたんだろう。
机の上に花束と栞があり、その横に朝もらった手袋をそっと並べた。どれも私がここで過ごした証。ひとつひとつが心に重なっていく。こんなふうに大切なものが増えていくのが、うれしくて、くすぐったくて、胸があたたかい。
窓の外には雪。けれど、孤独な白ではない。砦の灯りがところどころで輝き、まるで小さな家々のように夜を照らしている。かつての王都の城の窓は冷たかった。でもここでは、誰かの温もりを感じることができる。
そのとき、控えめなノックが聞こえた。
「すみれ、起きているか」
ライアンの声だ。思わず背筋が伸びる。
「は、はい! どうぞ」
扉が開き、黒いマントを羽織ったライアンが立っていた。彼の背にかかる雪が室内の灯りで溶け、しずくになって床に落ちる。
「遅くにすまない」
「いえ、大丈夫です」
「これを」
差し出されたのは、厚手の外套。黒い布地に細かな刺繍があり、触れると驚くほど柔らかい。温もりがすでに宿っているような感触だった。
「団の備品だが、お前のサイズに合わせてある。冬の補給は外に出ることが増える。防寒が必要だ」
「えっ……私の、ために?」
「当然だ。隊の一員なのだから」
その“当然”という一言に胸がぎゅっとなった。目の奥が熱くなる。
「ありがとうございます……」
「明日から補給隊の指揮を任せる。だから必要だ」
言いながらライアンは私を見つめた。灰青の瞳が夜の灯りを映し、静かに揺れている。
「無理はするな。だが、お前がいてくれれば俺も安心できる」
胸がどきん、と大きく鳴った。目が合ったまま、声が出ない。
「……安心、って」
「お前が数字を整え、動きをつくる。俺は守るべきものがはっきりする。そういう意味だ」
「あ……はい」
うまく言葉にできず、ただ頷く。それでも心の奥ではあふれるような力が湧いてきていた。誰かに安心を与えられる自分。王都で一度も想像できなかった未来だ。
「おやすみ、水野」
「おやすみなさい、団長」
ライアンが静かに部屋を出ていく。扉が閉まった後、私はしばらく立ち尽くしたまま外套を抱きしめていた。ふわりと鼻先に革と金属の匂いが混じる、どこか懐かしい安心の香り。
ベッドに腰を下ろし、毛布の上から外套を羽織ってみる。肩から足元まで包まれて、まるで大きな誰かに抱きしめられているような感覚がした。胸がいっぱいになって、気づけば目からひとしずく涙がこぼれていた。
「私、ほんとに……ここにいていいんだ」
声に出すと、静かな部屋に言葉が溶ける。けれどその響きは、これまでどんな励ましの言葉より強く、自分を守ってくれるものになっていた。
窓の外をのぞくと、雪がやさしく降り続いている。砦のあかりは暖かく、まるで家族が待っている家のようだった。
私はベッドに横になり、毛布と外套にくるまった。心臓の音がゆっくりと落ち着いていく。今日はたくさんの怖さと喜びを味わった。でも最後に残っているのは、安心と未来への希望だけだ。
そっと目を閉じる。
もう“無能”と言われたあの日の私ではない。今の私は、誰かのために動ける人間だ。
明日からの補給隊の指揮という新しい挑戦も、きっと大丈夫。なぜなら、私には仲間がいて、信じてくれる人がいるから。
夜の雪が静かに積もっていく。あたたかい眠気に身をゆだねながら、私は今日という一日を胸に刻んだ。
・
翌朝、まだ空は薄青く、雪の白さが夜の名残を照らしていた。早く目が覚めてしまったのは、緊張と少しの高揚感のせいだろう。窓の外の景色は静かで、それでいて新しい一日を迎えようとする息づかいがある。私の胸の奥も同じだった。
ベッドの脇には昨夜もらった外套が掛かっている。そっと触れると、まだ微かに温もりが残っているようで心臓が跳ねた。ライアンが「俺も安心できる」と言った声が、耳の奥でやさしく響く。あの言葉は夢だったのかと思うくらい不思議で、けれど確かに私を強くしてくれている。
着替えを済ませ、外套を羽織る。ぴったりと体に合い、肩まで温かく守ってくれる。まるで見えない盾をまとったような気分だった。これなら冬の森にも迷わず入れる気がする。
書庫へ行くと、すでにマリエルが待っていた。机の上には地図と紙束が広がっている。
「おはよう! 準備、できてる?」
「うん。早く起きちゃって」
「そりゃそうだよね、今日から正式に“隊長”だもんね~」
「隊長なんて……!」
思わず両手を振ると、マリエルがくすくす笑う。
「でもほんとだよ。補給隊を率いるのはすみれちゃん。団長も昨日から“信頼してる”って顔だった」
「顔に出てました?」
「出てた出てた! あの人、すみれちゃん相手だとわかりやすいから」
「や、やめてください……!」
真っ赤になってうつむく。けれど胸の奥はうれしさで満ちていく。誰かに必要とされている実感は、こんなにも力になるんだ。
すると書庫の扉が開き、ライアンが入ってきた。朝の光を背にして立つ姿は、やはり圧倒的に大きく見える。けれど今は怖くない。ただ安心する。
「準備はどうだ」
「完了しました」
「よし。出発は一刻後だ。補給隊の指揮はお前に任せる。俺は随伴するが、指示はお前から出せ」
「はい!」
自分の声がしっかりしているのが嬉しかった。ライアンの灰青の瞳が一瞬だけ細められ、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「無理はするな。それだけは約束しろ」
「はい」
そのやり取りのあいだ、マリエルがニヤニヤとこちらを見ているのが視界の端に入る。たぶん後でまたからかわれるだろう。けれど今はそれすら心強い。
出発の準備が進む中、私は騎士たちと共に荷車の点検や物資の積み込みを確認していった。初めて私が中心になって動く現場。けれど不思議と混乱しなかった。みんなが「すみれ、次はどうする?」と自然に聞いてくれるからだ。
「ここ、燃料をもう一束追加してください。雪が深くなるかもしれません」
「了解!」
頼んだことが即座に動いていく。数字の上でしかなかった計画が、目の前で形になっていくのを初めて見た。胸が熱くなる。
そこへライアンが近づいてきた。雪を踏む音だけで誰かすぐわかるようになってしまったのが、自分でも可笑しい。
「順調か」
「はい。もうすぐ出発できます」
「いい判断だ」
短い言葉がすべてを肯定してくれる。心がまた力を得たように感じた。
準備が整い、騎士たちが馬車の手綱を握る。私が先頭に立つと、少しどよめきが起きたが、すぐに笑顔と歓声が返ってくる。
「隊長、よろしくお願いします!」
「はい、頼りにしてます!」
声が胸に響く。私がここにいることを、皆が当然のように受け入れてくれている。その事実に泣きそうになりながらも、笑顔で手を振り返した。
隣にライアンが馬にまたがり、短く号令をかける。
「出発!」
馬車の車輪が雪を踏みしめ、ゆっくりと砦を出る。冷たい空気の中、隊列が動き出した。先頭に立つ私の背中を、温かなまなざしが押してくれている気がした。
白い道の先に、村々と人々の暮らしがある。私が守りたいもの、届けたいものがそこにある。
そして、その道を共に進む仲間がいる。
心の中で小さくつぶやく。
――もう私は無能じゃない。ここで、生きていく。
雪空の下、馬車のきしむ音と騎士たちの笑い声が混じり合い、新しい一日が静かに始まっていった。
・
第16話 初任務の道と“信じる力”
白い息を吐きながら、私は雪道を進んでいた。馬車の先頭に立つのは初めてだ。冷たい空気が頬を刺すけれど、不思議と怖くはない。背後には補給隊の仲間たち、さらに後方にはライアンの灰青の瞳。その存在が背中を温めてくれる。
「すみれ隊長、前方の雪深いです!」
騎士のひとりが馬上から声をかける。私はすぐに地図と周囲の地形を頭に浮かべ、判断した。
「道幅が広い南側の林道に入ります! 荷車は順番に、私の合図で!」
「了解!」
雪の舞う中、指示がすぐ動きに変わっていく。その速さに胸が熱くなる。昨日まで“無能”と呼ばれていた私が、今は進む道を決めている。
「判断が早い」
いつのまにかライアンが横に馬を並べていた。低く抑えた声が冷たい風を切って届く。
「地形を覚えたのか?」
「はい、事前に調べました。冬はこっちの道の方が安全だと聞いて」
「……正解だ」
その短い言葉だけで体の芯が温まった。彼の目はいつも鋭いけれど、今はわずかに優しい光が宿っている。
「ありがとう。あなたがいてくれるから、怖くないです」
「……俺がいるからではない。お前が強くなったからだ」
即座に返されたその言葉に胸が詰まった。視線を逸らすと、ライアンはそれ以上何も言わず、再び前を向いた。けれどその横顔から伝わる安心が、私の心をやわらかく満たしていく。
進むにつれて雪は深くなり、時折木々から雪が落ちる音が響く。馬車の車輪が重くなり、騎士たちの声も慎重さを帯びた。
「ここで一度止まりましょう!」
私は手を上げて合図する。馬車がゆっくりと止まり、荷の状態を確認する。燃料の束に雪が積もっていたので、手早く払いながら声をかけた。
「この先は傾斜がきついです。荷の重さを分散しましょう!」
「了解!」
騎士たちが動き始める。マリエルが駆け寄ってきて小声でささやく。
「すごいね、すみれちゃん。完全に指揮してる!」
「そんな……でも、みんなが動いてくれるから」
「それが“指揮”だよ」
マリエルの笑顔に胸がじんとした。まさか自分が人を導く立場になれるなんて、ほんの数週間前まで想像もしなかった。
荷の積み直しが終わると、私は馬車の隊列をもう一度確認する。ライアンが近づき、低く言った。
「判断と指示、完璧だ」
「ありがとうございます」
「もう迷っていないな」
その言葉に思わず笑顔になってしまう。
「はい。……怖くないです」
「いいことだ」
ライアンの瞳がわずかにやわらぐ。ほんの少しの表情の変化なのに、胸が強く温まる。
「出発だ」
「はい!」
再び隊列が動き出す。雪をかき分ける音と馬のいななきが冬の森に響く。冷たい空気の中で、私の胸だけは燃えるように熱い。
やがて遠くに村の屋根が見えてきた。白い雪をかぶった木造の家々から、煙が細くのぼっている。安堵と同時に、使命感が強くわき上がった。
「もうすぐです! 最後まで気を抜かずに!」
「おう!」
騎士たちが一斉に声を返す。力強い返事が心地よくて、思わず笑顔になる。
隣のライアンがちらりと私を見た。
「その顔だ。いい指揮官の顔だ」
「……!」
顔が一気に熱くなる。でもそれ以上に、誇らしい。
村に到着すると、人々が凍えた手を振って出迎えてくれた。ほっとした顔、安堵の笑み。荷を降ろすと、子どもたちが駆け寄ってくる。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
「助かったよ!」
胸の奥がじんわり熱くなる。言葉にならないくらい嬉しい。王都では決してもらえなかった“ありがとう”が、雪の中でこんなにも響く。
ライアンが少し離れた場所からこちらを見ていた。灰青の瞳が静かに、けれどどこか誇らしそうに光っている。
その視線に、私の胸が再び熱くなった。
――私、ちゃんと役に立ててる。
雪の白さの中で、そう強く感じられた瞬間、世界が美しく輝いて見えた。
・
村に到着すると、雪を踏みしめて人々が次々と集まってきた。凍えた頬に笑顔が戻り、子どもたちが歓声を上げながら駆け寄ってくる。
「本当に来てくれた!」
「助かるよ、これで冬が越せる!」
その声に胸がぎゅっとなる。荷を下ろす手を止め、私も自然と微笑んでいた。マリエルが後ろから肩を叩く。
「ほら、すみれちゃん。みんな、君にお礼言ってる」
「……私に?」
「当然じゃん。君が道を決めて、隊を動かしたんだよ」
言葉が喉に詰まりそうになる。だけど子どもたちの視線がまっすぐ私を見ていて、何かが胸の奥で弾けた。
「ありがとう!」
小さな男の子が差し出したのは、雪の上で拾った赤い木の実だった。手袋越しでもその温かさが伝わってくる気がした。
「ありがとう……私たちも、来られてよかった」
そう返すと、子どもがにぱっと笑う。その笑顔のまぶしさに胸がじんとする。王都では誰も私を見ようとしなかったのに、今はこんな風に真っすぐな目が向けられている。
そのとき背後から低い声がした。
「積み下ろし完了したか」
振り返ると、ライアンが馬を降りてこちらへ歩いてくる。雪を踏む足取りが重く響き、でもどこかやわらかい。
「はい。物資は予定通り届けられました」
「よくやった」
灰青の瞳がまっすぐ私をとらえる。雪の光を受けて、澄んだ湖のようにきらりと光った。
「村人たちも安心している」
「……それが一番うれしいです」
「お前がここまで導いたんだ」
胸の奥が熱くなる。私は思わず背筋を伸ばした。
「団長がいてくれたからです。道中も、私の判断が正しいかずっと確認してくれて」
「確認ではない。お前の判断を尊重していた。俺は支えただけだ」
その言葉に息が詰まる。自分の力を、ちゃんと認めてもらえた。胸の奥で静かに震えるものがあった。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。だが誇れ」
ライアンの目が少しやわらいだ。そのわずかな変化が、世界のどんな褒美よりも大切に思えた。
物資の配布が進むあいだ、村の人々が温かいスープを用意してくれた。香草の匂いと肉の香りが雪の冷たさを溶かすように広がる。
「寒かったろう、食べていってくれ!」
「ありがとう……ございます」
器を受け取り、熱いスープをすすると、身体の芯から力が戻ってくる気がした。隣のマリエルも満面の笑みで「おいし~!」と叫んでいる。
「ね、団長もどう?」
「……いただく」
ライアンが器を受け取り、一口飲んだ。わずかに頬の筋肉が緩む。珍しいその表情に、村人たちが小さくざわついた。
「団長が笑った……?」
「はは、今日は特別だな!」
からかう声にライアンが軽く眉をひそめる。けれど怒ってはいない。私の方をちらりと見て、ほんの一瞬だけ目尻がやさしくなった。
「何ですか?」
「いや……よくやったな、と思っただけだ」
頬が一気に熱くなる。スープの熱ではない。胸がいっぱいで、うまく笑えなくなった。
しばらくすると、村の年配の女性が小さな布包みを手に近づいてきた。
「これを……あなたに」
「え、私にですか?」
「昨日の雪崩から救ってくれたと聞いた。若いのに、しっかりしてるんだねぇ」
包みを開けると、中には編み込まれた小さな護符のようなものが入っていた。白い糸と赤い糸が交差して、雪の結晶の形になっている。
「冬を越せるように、村で作るお守りだよ。持っていくといい」
胸が詰まって、何も言えなくなった。必死に声を絞り出す。
「ありがとうございます……大切にします」
「いい子だねぇ」
頭を優しく撫でられる。子どものように、だけど不思議と誇らしくて、涙がこぼれそうになった。
ふとライアンが近づいてきて、静かにそのお守りを見た。
「似合っている」
「えっ……!」
「そのお守り。お前にぴったりだ」
さらりと言われて、息が止まった。灰青の瞳がまっすぐすぎて、心臓が壊れそうに跳ねる。
「だ、団長……」
「行くぞ。もう少しで戻る」
「あ、はい!」
馬に乗ると、村人たちが一斉に手を振ってくれた。
「ありがとうー!」
「また来てねー!」
その声が雪原に響き渡る。胸がじんわり温かく、目頭が熱くなる。私は振り返って大きく手を振った。
「ありがとう!」
馬車が雪道を進みだす。後ろを振り返ると、村の灯りが白い世界の中で小さく揺れていた。私の胸にも、その灯りがひとつ灯った気がする。
ライアンが少し前を歩きながら、ふと声をかけた。
「よくやった」
また、その言葉。何度聞いても心が震える。
「ありがとうございます」
「これからも頼りにする」
「……はい!」
空を見上げると、雪はまだ降っているのに、どこか優しく見えた。寒さよりも、胸のあたたかさの方が強い。
――私はもう、ここで生きていける。
その確信が、白い道の上でさらに強くなっていった。
・
砦に帰りついたのは日がすっかり傾いたころだった。長い雪道を戻ってきたにもかかわらず、隊の空気は疲れよりも達成感で満ちていた。門が開くと同時に中庭から歓声が上がり、留守番をしていた騎士たちが駆け寄ってくる。
「おかえり!」
「物資は無事届けられたか?」
「もちろん! 隊長のおかげでな!」
いきなり“隊長”と呼ばれて顔が熱くなる。けれど嫌じゃない。むしろ胸の奥にふわりと力が宿る。
「みんなのおかげです。私ひとりじゃできませんでした」
「へへっ、そういうとこがまたいいんだよな~」
笑い声が弾ける。その輪の中に自然と立てているのが嬉しい。いつのまにか私は、ここで“仲間”として受け入れられている。
そこへライアンが馬から降りてきた。雪を払う仕草ひとつで空気が引き締まるが、目は柔らかかった。
「無事帰還。全員、よくやった」
「おおーっ!」
歓声が再び上がる。ライアンは私の方をちらりと見ると、わずかに口元を緩めた。
「水野、報告をまとめてくれ。終わったら執務室に来い」
「はい!」
隊員たちが「お疲れ!」と次々声をかけてくれる中、私はマリエルと笑顔を交わした。
「ね、立派な隊長だったよ」
「そんな……でも、うれしい」
「でしょ? ほら、顔がほころんでる」
「だって……」
うまく言葉にならず、ただ笑った。心の奥がずっと温かくて、雪の冷たさなんて忘れてしまう。
しばらくして報告書をまとめ、執務室の扉をノックする。
「入れ」
中に入ると、ライアンが地図を片付けていた。灰青の瞳がこちらをとらえる。
「任務、ご苦労だった」
「ありがとうございます。皆のおかげで無事に終えられました」
「お前が導いたからだ。遠慮するな」
そのまっすぐな言葉に胸がじんとする。思わず顔が熱くなった。
「……私、少しは役に立てましたか?」
「ああ。十分すぎるほどだ。今日の判断は完璧だった」
“完璧”という言葉がまた胸を震わせる。何度も欲しかった承認が、ようやく今ここで手に入っている。
「これからも頼む。補給線はお前が中心だ」
「はい……! 必ず」
「無理はするな。それだけは守れ」
優しい声。いつのまにかその響きが、私の中で大切な灯りになっている。
ライアンが机の引き出しを開け、小さな革の手帳を取り出した。
「これを持て」
「え?」
「補給線の記録用だ。俺が昔使っていたものだが、お前の方がもう適任だ」
「そんな、大切なもの……!」
「持っていけ。必要な人間に渡す方が意味がある」
そっと受け取ると、手帳は長い年月を刻んだ温もりを宿していた。ページの端が少し擦り切れていて、そこに積み重ねられた努力が感じられる。
「……大切に使います」
「ああ」
短い返事。それだけなのに、胸がまた熱くなる。
ふいに沈黙が訪れた。窓の外では雪が舞っている。灰青の瞳と目が合ったまま、時間がゆっくり流れた。
「すみれ」
「はい」
「お前が来てから、この砦は少しずつ変わっている。数字だけじゃなく、人の空気が」
「空気……?」
「皆が安心して働けるようになった。俺自身も、だ」
言われた瞬間、息が詰まった。ライアンの言葉はいつも必要最低限なのに、ひとつひとつが重く、心を揺さぶる。
「……うれしいです」
「これからも頼りにしている」
「はい!」
まっすぐ返事をすると、ライアンがわずかに微笑んだ。ほんの一瞬だけど、確かに笑った。
その笑みを胸に刻みながら、私は手帳を抱きしめる。
無能だと追い出された日からは考えられないほど遠くに来た。ここでは必要とされ、信じられ、任されている。
扉を出ると、廊下の先からマリエルの声がした。
「終わったー? ご飯食べに行こうよ!」
「うん!」
返事をしながら足取りが自然と弾む。外は相変わらず雪が降っているけれど、もう怖くない。冷たい白が、未来を照らす道に見える。
――私はもう、ひとりじゃない。
胸にその確信を刻んで、私は新しい一歩を踏み出した。
・
第17話 “私の居場所”が形になる日
砦の朝はまた冷え込んだ。窓を開けると雪の光が差し込み、白い息が空に消えていく。けれど胸の中は不思議とあたたかい。昨日、任務を終えて戻った私を待っていた笑顔、そしてライアンから託された古い手帳――そのすべてが心を支えている。
ベッドの横の机に手帳が置かれている。革の表紙は使い込まれて柔らかく、角が丸くなっていた。そっと手を伸ばして撫でると、まだライアンの温もりが残っている気がして胸がくすぐったくなる。あれは“信頼”の重みだ。しっかり応えなくちゃと思う。
廊下に出ると、マリエルが腕を組んで待ち構えていた。
「おはよう、隊長さま~」
「やめてってば、その呼び方」
「ふふ、でもほんとに隊長だもん。昨日の帰還、みんな大騒ぎだったんだよ。ほとんど英雄扱い」
「英雄なんて……」
言いかけて顔が熱くなる。英雄だなんて自分に似合わないけれど、心の奥がほんのりうれしい。
「団長もね、珍しくずっと上機嫌だった。気づいてた?」
「え、そうなの?」
「うん。目で追ってたよ、君のこと」
「やめて……!」
真っ赤になって慌てると、マリエルがにやにや笑った。
「でもそれくらい信頼されてるってことだよ。すみれちゃんが来てから、砦がほんと変わったもん」
「変わった……?」
「うん。みんなが安心して笑う時間が増えた。団長も、表情が少し柔らかくなったし。前はほんと石像みたいだったんだから」
「そんなに?」
「そんなに」
マリエルの明るい声に、胸がじんとした。私がここを変えたなんて、信じられない。でも、少しだけ誇らしい。
二人で歩きながら、外の雪景色を眺める。白い道の向こうで訓練している騎士たちの笑い声が聞こえた。冬の空気の中で、どこか柔らかな温もりが広がっている。
執務室に入ると、ライアンが書類を広げていた。私に気づくとすぐ顔を上げる。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。昨日の記録、読んだ。よくまとまっていた」
「ありがとうございます」
「次の補給路の整備を進めたい。お前の意見を聞かせろ」
「はい!」
机に並ぶ地図を見て、私は考えをまとめる。もう怖くない。昨日までの経験が背中を押してくれる。
「ここに臨時の補給所を増やせば、北の集落も安心です。燃料と食糧を分散させた方が雪崩のリスクにも対応できます」
「なるほど」
ライアンの灰青の瞳がじっと私を見つめ、短くうなずく。
「判断が的確だ。やはり任せて正解だった」
「……!」
胸がまた温かくなる。まっすぐ褒められることにまだ慣れていないけれど、今はただうれしい。
「それと――」
ライアンが少し言い淀むのを初めて見た。珍しい光景に思わずまばたきをする。
「王都に追加の報告を送る。補給隊長としてお前の名を正式に記載する」
「えっ……!」
思わず声が裏返った。私の名前が正式に、砦の役職として王都に知られるなんて。
「団長、それって……」
「正当な評価だ。お前の働きが砦の戦力だと、はっきり示す」
「……!」
目の奥がじんと熱くなった。王都から無能と追い出された私の名前が、今度はこの場所の“力”として記される。信じられないくらいうれしくて、涙が出そうになる。
「いいか?」
「はい……ぜひお願いします」
「よし」
ライアンが短く頷く。その瞳がどこか誇らしげで、胸がさらに熱くなった。
「あともうひとつ」
「?」
「正式な隊長として、装備を支給する。外套に合わせて、専用の徽章を付けろ。今日のうちに用意させる」
「徽章……!」
思わず息をのむ。砦の仲間の証。それを私が受け取れるなんて。
「ありがとうございます」
「当然だ。お前はもう、この砦の一員どころか要だ」
言葉が胸に突き刺さる。嬉しくて、苦しくて、でもなにより誇らしい。
ふいにマリエルが小声で「泣いちゃだめだよ」とささやいた。私は慌てて目をこすって笑う。
「泣いてません!」
「はいはい、すてきな隊長さん」
「もー……」
けれど、笑いながらも胸の奥は熱くてたまらない。私の居場所が、こうして形になっていくのを確かに感じている。
――私はもう、ここに生きているんだ。
雪の白ささえ、今日からは自分の未来を照らす光に見える。
そして、その未来の横にはきっと、あの灰青の瞳がある。胸が少しだけ高鳴った。
・
午後、砦の鍛冶場の方から金属を打つ音が響いていた。私はマリエルと一緒にそちらへ向かう。今日、私のための徽章が仕上がるのだ。胸が落ち着かない。足取りも自然と早くなる。
「緊張してる?」
「う、うん……なんか信じられなくて」
「そりゃそうだよね。昨日までただの“事務係”だったんだもん」
「ただの……言い方!」
「あはは、でも本当じゃん。今や砦の要だよ。胸張っていいんだって」
笑い合いながら鍛冶場に着くと、炉の前にいた職人がこちらを振り返った。頬に煤をつけたがっしりした男で、でも目がやさしい。
「来たか。これだ」
差し出された小箱を開けると、中には小さな銀の徽章が入っていた。雪の結晶をかたどり、その中心に砦の紋章が刻まれている。繊細で美しく、同時に力強さもある。
「……わぁ」
息を呑む。こんなに綺麗なものが自分のものになるなんて。
「隊長の証だ。大事にしろよ」
「ありがとうございます……」
胸がいっぱいになって声が震えた。マリエルが後ろでにっこり笑っている。
「つけてあげるよ、はい」
マリエルが外套の肩口に徽章をつけてくれた。カチリと金具がはまる音がした瞬間、胸の奥でなにかが確かに変わった。
――私は、ここにいる。
頭ではなく、心がそう実感した。
「似合ってる!」
マリエルの声に、職人たちも頷いてくれる。
「うん、立派なもんだ。団長もこれで安心だろうな」
安心、という言葉に胸が熱くなる。ライアンが私を信じてくれたから、ここまで来られたんだ。今度は私がこの徽章を守り、みんなを守っていかなきゃ。
「……ありがとうございます。本当に、がんばります」
深く頭を下げると、職人が照れくさそうに笑った。
「がんばれよ、隊長」
胸の奥がじんわりと温かくなった。
部屋に戻る途中、マリエルが横でひそひそと笑う。
「ほら、団長のとこに見せにいこ!」
「えっ、でも忙しいかも」
「いいの! 団長絶対喜ぶよ」
「よ、喜ぶかな……」
「間違いない!」
背中を押されるまま執務室へ行くと、扉の向こうから書類をめくる音が聞こえた。緊張しながらノックする。
「入れ」
扉を開けた瞬間、ライアンの灰青の瞳がこちらをとらえた。机から顔を上げ、私の肩を見て一瞬だけ目が揺れる。
「……できたか」
「はい。徽章、受け取りました」
少し照れながら言うと、ライアンはゆっくり立ち上がった。近づいてきて、徽章に視線を落とす。
「よく似合っている」
低く、でも温かい声。胸が一気に熱くなる。
「ありがとうございます。これから、もっとがんばります」
「もう十分だが……さらに上を目指せるなら、それもいい」
灰青の瞳がまっすぐに私を射抜く。心臓が跳ねる。けれど目をそらさずに返せた。
「はい!」
ライアンの口元がほんのわずかに緩む。珍しく長く私を見つめたあと、低くつぶやいた。
「安心した」
「え?」
「お前がここまで来たことが。……あの日、城から追放されてきたときは正直、どうなるかと思っていた」
「……!」
「だが、今はもう心配していない。お前はここで生きていける」
その一言で胸が溢れそうになった。目の奥がじんわり熱くなる。でも泣きたくない。だから精一杯笑った。
「はい。ありがとうございます、団長」
「礼はいい。俺がしたいことをしているだけだ」
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれる。ライアンがわずかに眉をひそめるが、目はやさしい。
そのとき、後ろでマリエルがわざとらしく咳払いをした。
「おーい、お二人さん。世界から二人きりになってない?」
「なってない!」
「なってる~」
マリエルが笑いながら部屋を飛び出していく。ライアンが少し肩をすくめた。その仕草が意外で、私は思わず笑ってしまう。
「仲間に恵まれたな」
「はい。本当に」
外はまた雪が降り始めていた。けれど今はもう、白い冬が怖くない。心の奥に灯りがあるから。徽章がそれを象徴している。
私は肩に光る小さな銀の印をそっとなでた。
――この場所で、これからも進んでいける。
その決意が胸いっぱいに広がっていった。
・
その日の夜、砦の食堂はまた温かな灯りで満ちていた。昨日に続く祝賀というより、日常の中のささやかな宴。けれど今夜はいつもより笑い声が大きい。私の肩に新しい徽章が光っているからだ。
「隊長就任おめでとー!」
「うちの隊長、ばんざーい!」
大げさに歓声を上げる騎士たちに、思わず笑ってしまう。マリエルが横で手を叩いている。
「ほらほら、みんな! すみれ隊長のスピーチを~!」
「えっ、ちょ、待って!」
騎士たちの拍手がどんどん大きくなる。逃げ道がなくなって、私はしぶしぶ立ち上がった。胸がどきどきしている。けれど、もう怖くはない。
「あの……みんな、ありがとうございます。こんなふうに迎えてもらえるなんて、夢みたいで」
少し声が震えたけれど、すぐに笑顔を作れた。
「でも、ここに来てからずっと感じています。私ひとりじゃ何もできなかったけど、みんなが力を貸してくれて、支えてくれて……それで初めて前に進めました」
視線を巡らせると、みんながうなずいてくれている。目頭がじんわりする。
「だから、これからは私も、みんなを支えたい。補給の仕事で、少しでも力になりたいです。……よろしくお願いします!」
拍手と歓声がわっと広がった。マリエルが涙ぐみながら笑っているのが見える。誰かが「隊長ー!」と叫んで、別の誰かが「頼むぞー!」と続いた。
そのとき、少し離れた席のライアンが立ち上がった。食堂が一瞬静まり返る。灰青の瞳がまっすぐこちらをとらえていた。
「聞いたとおりだ。水野すみれは今日から正式に補給隊長だ。俺の保証する仲間であり、砦の要だ」
低く響く声が、静けさを震わせる。私の胸が大きく鳴った。
「彼女を信じろ。守れ。そして共に進め」
騎士たちが一斉に「おう!」と応えた。その声の中に、疑いも遠慮もなかった。完全に受け入れてくれている。私の胸がいっぱいになって、思わず目を伏せた。
ライアンは私を一瞬だけ見つめたあと、静かに席に戻った。けれどその灰青の目は、確かにやわらかな光を宿していた。
宴が再びにぎやかになり、マリエルが隣に戻ってくる。
「ほらね、みんな君を待ってたんだよ」
「うん……」
「団長の言葉、すごかったね。あんな大勢の前で“保証する”なんて滅多に言わないんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。団長は普段、感情を表に出さないから。あれは特別」
胸がまた熱くなった。思い出すだけで涙が出そうになる。けれど今は泣かない。笑ってこの瞬間を覚えておきたい。
夜が更けても、笑い声は絶えなかった。私も何度も杯を交わし、みんなと笑った。ふと視線を感じて顔を上げると、ライアンがこちらを見ていた。目が合うと、ほんの一瞬だけ、彼が口元をわずかに緩めた。
胸の奥がふわりと温かくなる。心のどこかが、やさしく満たされていく。
――もう、私はひとりじゃない。
そう思えた瞬間、世界がすっと広がったような気がした。
部屋に戻ると、徽章を外して机に置く。花束と手帳の横に並んだそれは、まるで新しい私の物語のしおりのようだ。
窓の外では雪が静かに降り続いている。けれどもう寂しくない。あの白は未来の道を照らしてくれる光だ。仲間がいて、信じてくれる人がいて、私の足跡が確かにそこに刻まれている。
「ここが、私の場所だ」
小さくつぶやくと、不思議と胸があたたかくなった。昨日までの自分を遠く感じる。無能でも、ひとりぼっちでもない。今は、信じてくれる声と笑顔がある。
ベッドに横たわり、外套にくるまる。徽章の重みを胸に感じながら、私は静かに目を閉じた。
新しい明日を迎える準備は、もうできている。
・
第18話 はじめての“守りたいもの”
翌朝、まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた。部屋の窓は白く霞んで、外は一面の雪景色。けれど心は軽い。昨日の夜の声援と拍手がまだ耳の奥で響いている。胸の奥がほんのり温かくて、毛布の中で思わず笑ってしまった。
机の上には、花束と手帳、そして銀の徽章。小さなそれが、世界を変える力を持っているように見える。ゆっくりと手を伸ばして指先で触れると、金属の冷たさの奥に、自分の新しい居場所の重みを感じた。
着替えを済ませ、外套を羽織る。肩口にしっかりと徽章を装着すると、体が自然にしゃんと伸びた。今日からは“隊長”としての日常が本当に始まるのだ。胸の奥に小さな緊張と、心地よい決意が同時に灯る。
廊下を歩くと、マリエルがすでに待っていた。両手にパンを抱えてにやりと笑う。
「おはよ、隊長さま!」
「もう、その呼び方……」
「いいじゃん、かっこいいんだから。ほら、朝ごはん一緒に食べよ」
並んで食堂へ向かう途中、窓の外では訓練中の騎士たちが手を振ってくれた。
「おーい、隊長!」
「今日もよろしく頼むぜ!」
思わず手を振り返す。胸の奥がじんわりと温かくなる。このやりとりひとつひとつが、居場所の証みたいで愛おしい。
食堂の扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが広がった。温かい湯気と、木のテーブルを囲む仲間たちの笑顔。マリエルが私の席を引いてくれる。
「ほらほら、昨日の英雄はここ!」
「英雄じゃないってば!」
思わず笑いながら腰を下ろすと、隣からパンを差し出される。
「でも昨日はほんとにすごかったよな。あの判断なかったら、もっと時間かかってた」
「いや、私だけじゃないです。みんなが動いてくれたから」
自然にそう返せた。自分を卑下するのではなく、仲間を信じての言葉。昨日の私ならできなかったかもしれない。
すると食堂の奥の扉が開き、ライアンが入ってきた。場が一瞬静かになり、すぐにざわめきと笑い声が戻る。
「団長、おはようございます!」
「おはよう」
低く響く声。そのままこちらに歩いてくる気配に、胸がどきんと鳴った。
「水野」
「おはようございます、団長」
「今日の巡回計画を後で確認したい。時間を取れるか?」
「はい、大丈夫です」
「助かる」
ほんのそれだけの会話なのに、周りの騎士たちがクスクス笑っている。マリエルが小声で「団長、柔らかい声だった~」と囁くから余計に頬が熱くなった。
「そ、そんなことないです」
「あるある」
マリエルがにやりと笑う。その空気さえ心地よい。
朝食を終えると、砦の中庭で騎士たちと巡回計画を確認した。雪道の補修、倉庫の在庫確認、村との連絡。やるべきことは山ほどあるけれど、不思議と怖くない。数字や地図を見ながら自然に判断ができる。
「すみれ隊長、倉庫の鍵は?」
「あ、はい。こちらで」
鍵束を差し出しながら、心のどこかで感動していた。ついこの間まで“書類整理係”だったのに、今はこうして動いている。信じてもらえて、仲間がいて、自分の言葉が役に立っている。
ふと、外で雪を払っていたライアンと目が合った。彼はいつもの無表情のまま、けれど一瞬だけ目を細めた。胸がふわりと温かくなる。
――あの人が、私を見ている。
その事実だけで、また一歩前に進めそうな気がした。
昼前、書庫で書類をまとめていると、マリエルが駆け込んできた。顔が少し強張っている。
「すみれちゃん、南の村から使いが来た!」
「村から?」
「うん。どうも、橋が雪で崩れそうなんだって!」
「……!」
瞬時に頭が働く。地図を広げ、補給路を確認する。もし橋が落ちれば、南側の村々は孤立してしまう。
「すぐ対応しなきゃ。物資と人員を集めるわ」
「了解!」
マリエルが走って出ていく。私も徽章に触れ、息を整えた。初めて自分から指揮をとる緊急対応――けれど不思議と恐怖より先に責任感が湧く。
外へ出ると、すでに騎士たちが集まり始めていた。そこへライアンが現れる。雪を払う仕草と共に、灰青の瞳がこちらをとらえる。
「状況は?」
「南の橋が危険です。すぐに補強材を運びます。人員を五人ほど借りられますか?」
「いい判断だ。任せる」
その一言で背筋が伸びた。信頼されているのがわかる。胸が熱くなり、同時に勇気が湧く。
「隊を動かします!」
私の声が雪原に響く。騎士たちが「おう!」と応えてくれる。その力強さが心に灯をともした。
――守りたい。
初めて、強くそう思った。自分の力で誰かを守りたいと。ここで生きていくと決めた私の未来は、もう始まっているのだ。
・
雪道を駆け抜けながら、息が白く弾けた。後ろには物資を積んだ荷車と騎士たち。手袋の中の手がじんわり汗ばむ。緊急の現場指揮は初めてだ。でも怖くない。昨日までの経験が背中を押してくれている。
「速度を落とさないで! でも車輪が埋まりそうになったらすぐ知らせて!」
「了解!」
雪煙を上げながら進む隊列。その先頭に立つ自分がいることに、胸がじんとした。もう“無能”と罵られたあの日の私じゃない。
南の谷に差し掛かると、崩れかけた木の橋が見えてきた。雪に押しつぶされるようにしなっていて、下には冷たい川が流れている。村の人たちが不安そうに集まっていた。
「隊長さん! よく来てくれました!」
「状況は?」
「昨日の夜からきしむ音がして……今にも落ちそうで」
すぐに橋を確認する。雪の重みと古い材木の劣化。数字が頭の中で瞬時に組み上がる。荷の重さ、支柱の角度、補強材の長さ。
「まず人を下げて! 橋の上には誰も乗らないで!」
「わかった!」
「補強用の材木をこの角度で差し込みます。ロープを二重にして支柱を固定して!」
騎士たちが素早く動き、村人たちも加勢する。冷たい風が頬を刺すけれど、頭は驚くほど冴えていた。
「マリエル、釘とハンマーを!」
「はい!」
息を切らしながらマリエルが走ってくる。私たちは息を合わせて補強材を打ち込んだ。橋が大きく軋むたびに胸が締めつけられるが、手を止めない。
「ロープをもっと強く引いて! そう、今!」
力を合わせた瞬間、ギギギ……と音を立てて橋が持ち直した。皆の手が一斉に止まる。凍りついていた空気が、ふっと緩んだ。
「……よし!」
思わず声が出る。騎士たちが歓声を上げ、村人たちがほっとした顔になる。
「これでしばらくは安全です。ただ、完全に直すには材木の追加が必要です。次の便で送ります!」
「助かります、隊長さん……!」
年配の男性が手を握ってきた。ごつごつしたその掌の温かさが胸の奥に広がる。
「よくやったな」
背後から低い声。振り返ると、ライアンが雪まみれになって立っていた。いつのまにか近くで見守っていたらしい。
「団長……」
「判断も指揮も完璧だ」
短い言葉に胸が熱くなる。昨日と同じ“完璧”が、今度はもっと大きな意味を持って聞こえた。
「ありがとう。みんなが動いてくれたからです」
「お前が動かしたからだ」
その目がまっすぐに射抜いてくる。胸の奥でなにかが静かに震えた。
「俺が行くより早かった。よくやった」
「……!」
うまく返事ができず、ただ頷く。雪と涙とが混ざりそうになりながら、必死に笑顔を作った。
ライアンがほんの少しだけ近づく。灰青の瞳がすぐそばにある。心臓がうるさい。
「お前の判断で、村が守られた」
「……私、守れたんですね」
「守ったんだ。もう疑うな」
短く、でも力強く。胸の奥で何かがほどける音がした。今までずっと心のどこかにあった“自分なんか”という呪いが、雪と一緒に溶けていくようだった。
「はい……!」
返事が自然に出た。涙が出そうだったけれど、今は泣きたくなかった。ただ笑いたかった。胸が熱くて、誇らしくて。
「よし。戻るぞ」
「はい!」
村人たちが何度も頭を下げる中、隊列は砦へ向けて動き出す。荷車の音と歓声が白い谷に響く。マリエルが横でニコニコ笑いながら私をつついた。
「ねえ、今の団長の顔、やばかったよ」
「やばいって何よ!」
「めっちゃ“誇ってる顔”! 団長の辞書にそんな顔あるんだね」
「やめてってば!」
真っ赤になりながらも、頬の熱は消えなかった。胸の奥がじんわりと満ちていく。
――守れたんだ、私。
その実感が雪道を照らしてくれる。冷たい世界が今はまぶしく、あたたかく見える。
そして心の奥に、ひとつの想いが芽生えた。
――この砦も、この人たちも、守りたい。
初めて、そんな言葉が自分の中でしっかりと形を持った瞬間だった。
・
砦に戻ったのは日がすっかり沈むころだった。冬の空は群青に沈み、雪の白さだけがぼんやりと道を照らしている。疲れて足は重いはずなのに、胸の奥は不思議と軽かった。後ろを振り返ると、騎士たちが笑顔で手を振り合っている。達成感のある帰還だった。
「帰ったぞー!」
「隊長、ナイス判断だったぜ!」
「橋、がっちりだったな!」
歓声と笑い声が雪を弾き返すように広がる。私は思わず笑ってしまった。昨日の私より、今日の私がほんの少し大きくなった気がする。
砦の門が開き、中庭に入ると留守番の仲間たちが出迎えてくれた。
「無事でなにより!」
「南の村、これで安心だな!」
何人もの手が肩を叩いてくる。そのひとつひとつが、あたたかくて力強い。マリエルが後ろから抱きついてきた。
「隊長~! かっこよかった!」
「もう、やめてよ!」
恥ずかしくて笑いながらも、胸は誇らしさでいっぱいだった。
そこへライアンが近づいてきた。足音ひとつで空気が少し引き締まるが、灰青の瞳は静かにやさしい。
「水野」
「はい、団長」
「よくやった」
それだけの言葉なのに、胸が熱くなる。息が詰まりそうで、でも嬉しくて、しっかり頷いた。
「ありがとうございます」
「正式な報告は明日でいい。今日は休め」
「はい」
ライアンが立ち去る背中を見送る。大きくて頼もしい背中。でもさっきの“よくやった”が私を包んでくれる。もうあの背をただ追いかけるだけじゃない。並んで歩いていける気がする。
その夜、部屋に戻ると疲れがどっと押し寄せた。けれど心は軽い。机の上には手帳と徽章が静かに光っている。私はそれを胸に当て、ふうと息をついた。
今日、初めて誰かを“守った”。王都では一度もできなかったこと。誰かの笑顔を、私の判断で生むことができた。
目を閉じると、雪の橋と村人たちの笑顔、そしてライアンの“守ったんだ”という言葉が浮かんだ。胸が熱くなり、同時にやわらかい安心が広がっていく。
「……私、ここで生きていける」
声に出すと、心の奥まで届いていくようだった。
そのとき、またノックの音がした。
「すみれ、起きているか」
「団長……? どうぞ」
扉を開けると、ライアンが立っていた。雪を払ったままの姿で、手に包みを持っている。
「遅くにすまない。少しだけ」
「大丈夫です。どうかしました?」
ライアンが包みを机に置く。中には厚手の手袋と新しい地図が入っていた。
「明日以降の補給計画に役立つはずだ。南の橋も補強を続けるなら資材の経路を見直す必要がある」
「あ、ありがとうございます!」
私が目を輝かせると、ライアンの表情がほんの少し柔らいだ。
「それと……今日のことだが」
「はい」
「誇れ。お前がいなければ村は孤立していた。俺も、助かった」
心臓が一気に跳ねた。目が合う。灰青の瞳は静かで、でもどこか熱を帯びている。
「団長……」
「今まで守る側だと思っていたが、今日はお前に助けられた」
その言葉が胸の奥に響き、目頭が熱くなった。涙をこらえて笑う。
「私、団長に助けられてばかりだから……少し返せたならうれしいです」
「十分返している」
即答。その低い声があたたかくて、心臓が痛いくらい。
「これからも頼む。……共に守っていこう」
「はい!」
強くうなずいた。もう迷わない。この人と、この仲間たちと生きていく。守りたいと、はっきり思えたから。
ライアンはわずかに微笑んで、部屋を出ていった。扉の閉まる音が静かに響き、私は胸に手を当てた。
雪はまだ降り続いている。でももう孤独の白じゃない。未来へ続く道の白だ。胸の奥で灯りが確かに輝いている。
窓の外の雪を見ながら、私は新しい一歩を踏み出す決意をもう一度固めた。
――今度は私が守る番だ。
その想いと共に、眠りへとゆっくり落ちていった。
・
第19話 “ただの任務”じゃない日
朝、目が覚めた瞬間に感じたのは、昨日までとは違う胸の鼓動だった。力強くて、迷いがない。外は相変わらず雪景色だが、その白が未来を照らす光のように見える。ベッドから起きて外套を羽織ると、肩の徽章がかすかに光を返した。
廊下に出ると、いつもより少しざわついた空気が流れていた。騎士たちが何やら急ぎ足で動いている。マリエルが駆けてきて、私を見つけるとすぐ声をかけた。
「おはよ! 南の橋の件、王都にも伝わったって。すぐ追加の物資を送ってくれるってさ」
「ほんと? よかった……!」
「うん、でもね、王都の使者が視察に来るって。今週中らしいよ」
「えっ、王都の……」
心臓がひときわ強く打つ。王都――私がかつて“無能”と追い出された場所。その使者が来る。うれしさと怖さが入り混じり、胸がざわつく。
「大丈夫だって。団長も“報告は完璧だ”って言ってたし」
「でも……」
不安がよぎるのを察したのか、マリエルが私の手を取った。
「大丈夫。私たちがいるじゃん。団長だっている」
「……うん」
その言葉に少しずつ力が戻る。徽章に触れると、昨日の村人たちの笑顔がよみがえる。私を信じてくれる人たちがいるのだ。なら、怖くないはず。
そのとき、廊下の奥からライアンが現れた。いつもの黒い外套、雪を踏む確かな足取り。目が合うと、胸がすっと落ち着く。
「水野」
「団長」
「聞いたか。王都の視察だ」
「はい……少し、緊張してます」
「恐れるな。お前の働きは誰よりも知っている。俺が証人だ」
その低い声に胸がじんとした。不安がすっと消えていくのを感じる。
「ありがとうございます」
「補給路の進捗をまとめておけ。数字は揃っているか?」
「はい、もう準備済みです」
「なら心配はいらない」
ライアンが小さく頷いた。その目は真っすぐで、何よりも信頼に満ちている。
「それと――」
「はい?」
「今日の午後、北の倉庫を一緒に確認する。使者が来たとき、俺だけでは説明が不十分だ。お前が必要だ」
「わかりました!」
自然と声が強くなる。昨日までの私では考えられない反応。ライアンの瞳がほんの少しだけ柔らかくなった。
「頼もしいな」
「……!」
顔が一気に熱くなる。けれどその“頼もしい”の一言が心を満たしてくれた。
午前中は倉庫の在庫整理を進めた。寒さで指先がかじかむが、動くたびに体の奥から熱がこみあげてくる。補給路の数字が一つずつ整っていくと、過去の自分が遠く感じた。
マリエルが荷箱を積みながら笑う。
「ねぇ、今のすみれちゃんってさ、王都の誰が見ても“できる人”って思うと思うよ」
「そんなことないよ……」
「あるって! それに、団長があそこまで信頼してる時点で証明されてるじゃん」
胸がほんのり温かくなる。信頼されることの力を、今まさに感じている。
昼過ぎ、ライアンと共に北の倉庫を巡回した。積雪の重みで梁が軋む音を確認しながら、補強の必要箇所を指示していく。自然に言葉が出て、騎士たちが即座に動く。
「判断が早い」
ライアンが横でつぶやく。
「団長の教えのおかげです」
「俺は何もしていない。お前がやった」
その即答にまた胸が熱くなる。何度も同じことを言ってくれる。きっと私が信じられるようになるまで、何度でも。
倉庫の巡回を終えて戻る途中、ふとライアンが口を開いた。
「王都から来る使者、恐れる必要はないが……」
「はい」
「お前が傷つけられそうになったら、俺が止める」
その言葉に、心臓が一瞬止まった。まっすぐすぎて、息が詰まる。
「……団長」
「これは俺の務めだ。お前がこの砦の要である以上、守る」
胸があたたかさでいっぱいになる。昨日までの恐れが、完全に消えていくのを感じた。
「私、もう大丈夫です。団長がいてくれるなら」
自然に出た言葉に、ライアンがほんの一瞬だけ目を細めた。雪の光がその瞳に反射して、やわらかな輝きを見せた。
「そうか」
「はい」
短い会話。けれどそれだけで十分だった。私たちはこの砦で、同じ方向を見ている。守りたいものがある。
外套の中で徽章が少し重みを増した気がした。王都の視察――かつての自分なら逃げ出したかもしれない。でも今は違う。私はもう、ここで生きる者だ。守りたい場所と人がある。
胸を張って、その日を迎えようと思えた。
・
翌朝、砦の空気はどこかぴりりと引き締まっていた。王都の使者が今日にも到着するとの報せが届いたのだ。誰もが自然に背筋を伸ばしている。けれど、不思議と胸はもう震えていなかった。徽章がちゃんとそこにあって、仲間たちの笑顔と昨日までの道のりが背中を押してくれている。
書庫で資料をまとめていると、マリエルが肩越しに覗き込んできた。
「ね、緊張してない?」
「少しは……でも大丈夫」
「そっか。昨日までのすみれちゃんなら“無理!”って言ってたよね」
「たしかに……」
思わず笑ってしまう。怖さが消えたわけじゃない。でももう逃げないと決められる自分がいる。
「団長も朝からずっと視察対応の準備してた。すみれちゃんの資料、めちゃくちゃ助かってるって言ってたよ」
「ほんと?」
「ほんと。あんな無口な人が“助かっている”って口にするの、すごいことだからね」
頬が少し熱くなる。けれど心の奥は誇らしくて、少し安心する。
昼前、外に出ると空はまだ重い雲に覆われていた。雪は小降りだが空気が冷たい。やがて門の方でラッパの音が響き、視察団が到着した知らせが砦中に広がった。
緊張の波が一瞬走る。でも私は深呼吸をして一歩踏み出す。ライアンの背中が視界の先にある。あの大きな背を見ていると、不安がすっと消えていく。
馬車から降り立ったのは、王都の役人たち。鮮やかな紺の外套と金の刺繍、冷ややかな目。かつて私を“無能”と切り捨てたあの世界の空気が、ふっと鼻先をかすめる。胸が小さくざわつく――けれど、すぐに徽章に手を触れた。ここには私の今がある。逃げない。
「砦の責任者はどなたですか」
年配の役人が鋭い目を向けてきた瞬間、ライアンが一歩前へ出る。
「北境砦の指揮官、ライアン・ヴァルクだ。こちらは補給隊長の水野すみれ」
自分の名前がはっきりと宣言された。胸の奥が静かに震える。昨日まで蔑まれてきた“水野すみれ”という名が、今この砦の中では尊重されている。
役人の目がこちらを向く。値踏みするような視線。でも、私は逃げずに背筋を伸ばした。
「初めまして。補給線の管理を担当しております」
声は少し震えたけれど、ちゃんと出せた。ライアンの灰青の瞳が横から支えてくれているのを感じる。
「ふむ。女か……」
小さくつぶやかれたその一言に、かつての記憶が一瞬胸を刺す。王都で浴びた冷たい声が蘇る。だが――。
「性別は関係ありません。現状の補給路、必要な資材、危険箇所の対策はすべてこちらで把握しています」
自然に言葉が出た。誰の許しもいらない、今の私の言葉。マリエルが後ろでそっと拳を握っているのが視界の端に見えた。
役人が少し目を細めた。だが返す言葉はなかった。かわりに隣の部下が書類を求めてくる。
「資料を」
「こちらです」
私は準備してきた報告書を差し出す。数字と地図をきっちり整え、村からの追加情報も反映してある。役人がページを繰るたび、彼の眉がわずかに動く。
「……よくまとめてある」
低くこぼれた言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。マリエルがニヤリと笑う。胸がじんわりと温かくなる。
視察はそのまま倉庫や補給路の確認に移った。私はライアンと並んで説明を続ける。時折王都の役人が突っ込んだ質問をしてくるが、すべて答えられた。数字も現場の実情も、私が見てきたものだから。
途中、年配の役人がふと立ち止まり、私を見た。
「……なるほど。王都で“無能”と言われた者が、ここまでやれるとは」
一瞬、胸がざわついた。でも、怖くはなかった。むしろ笑顔になれた。
「この砦が私を必要としてくれましたから」
きっぱりと言うと、背後で騎士たちが静かにうなずくのが見えた。マリエルが誇らしそうに目を細めている。ライアンが一瞬だけ私を見た――その目が、とてもやさしかった。
役人は何も言わずに視線を逸らし、歩き出す。もう十分だった。あの頃の自分を取り戻すのではなく、今の自分を示すことができたから。
日が傾くころ、視察はすべて終わった。役人たちは荷車に乗り込み、王都へ戻っていく。
「また必要があれば連絡する。……水野、よくやったな」
思いがけず名前を呼ばれた。驚いて振り向くと、あの年配の役人がこちらを見ていた。冷たい目ではなかった。少しだけ柔らかさがあった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。その瞬間、心の奥に長い間詰まっていた何かが溶けていくのを感じた。
砦の門が閉まると、騎士たちが一斉に拍手をした。
「隊長、やったな!」
「王都の役人を黙らせたぞ!」
マリエルが飛びついてきた。
「すみれちゃん、最高だったよ!」
「ありがとう……ほんとに、ありがとう」
笑いながらも目が熱い。けれど涙ではなく、誇りと喜びの熱さだった。
そのとき、ライアンがそっと近づいてきた。人のざわめきの中で、彼の低い声だけが真っすぐに届く。
「よくやった」
「……はい」
「これで、お前は誰の目から見てもこの砦の隊長だ」
灰青の瞳がやさしく光る。胸がいっぱいになり、言葉が詰まりそうになる。
「団長が……いてくれたからです」
「俺は横にいただけだ。お前が戦った」
「でも……ありがとう」
短く言った瞬間、ライアンの表情がほんの少しだけゆるんだ。それだけで胸が破裂しそうにあたたかい。
「これからも共に進むぞ、水野」
「はい!」
雪がまた舞い始めた。けれど今は、もう何も怖くない。徽章を握りしめ、仲間たちの笑顔を見渡した。
――私はここにいる。必要とされ、信じられ、共に歩いていける。
その確信が、白い冬空を明るく染め上げていった。
・
視察の一日が終わったあと、砦の空気はどこか祝祭のような温かさに包まれていた。王都の使者が去ると同時に、みんなが肩の力を抜き、笑顔と拍手が自然に生まれていった。私もその輪の中にいる――その実感が胸の奥を満たしていく。
「すみれ隊長、今日の対応ほんとに見事だったな!」
「役人の質問、全部一発で返してたじゃねぇか!」
「王都の連中の顔、忘れられねぇな!」
わいわいと集まってくる騎士たちに、私は何度も「ありがとう」と返す。かつて王都で浴びた声とはまるで違う温かさだ。ここでは“無能”ではなく、必要とされている。自然と笑顔がこぼれる。
マリエルが私の腕に飛びついた。
「やったね、すみれちゃん! あの役人の鼻をへし折ってやった!」
「へ、へし折ってないよ!」
「いやいや折れたよ~、ぱきーんって!」
マリエルが無邪気に笑う。その隣で、他の仲間たちが「隊長ばんざい!」と大げさに騒ぎだし、笑い声が広がった。嬉しくて、くすぐったくて、でも心があたたかい。
その輪から少し離れた場所に、ライアンの姿があった。大きな影が静かにこちらを見ている。目が合った瞬間、胸が跳ねる。彼は一度だけゆっくり頷いた。言葉はいらない――それだけで十分伝わってくるものがあった。
宴のようなひとときがひと段落すると、私は少し外の空気を吸いに出た。夜の雪は静かで、月の光が白い道を淡く照らしている。空気は冷たいはずなのに、心が温かいからか、頬を刺す冷たささえ心地よい。
足音がして、振り返るとライアンが立っていた。
「冷えるぞ」
「すみません、少しだけ……」
ライアンは隣に立ち、私と同じ雪空を見上げた。しばらく沈黙が続いたが、それが不思議と心地いい。
「今日の働き、見事だった」
「ありがとうございます」
「王都の連中が何を言おうと、ここではお前を必要としている。……それが証明できたな」
「はい」
短い返事の中に、たくさんの思いが込められていた。昨日まで抱えていた過去の重さが、雪のように少しずつ溶けていく。
「俺も誇らしかった」
「……!」
思わず顔を向けると、ライアンが真っすぐ私を見ていた。灰青の瞳は深く澄んでいて、まるで心をそのまま映してくれるようだった。
「お前がここに来たとき、こんな日が来るとは思っていなかった。だが今は、信じられる」
「団長……」
「この砦はお前の家だ。もう、どこへも追いやられはしない」
胸が一気に熱くなった。涙が出そうになるけれど、必死に笑顔を保つ。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「礼はいらん」
ライアンはそう言いながら、ほんの一瞬だけ微笑んだ。それはこれまででいちばんやわらかい笑顔だった。胸がぎゅっとなって、思わず息を飲む。
「俺はただ――お前がここにいてくれて、よかったと思っている」
その一言に、心臓が跳ねすぎて痛いくらいだった。言葉が出ない。でも、胸の奥で何かが確かに答えている。
「……私もです」
小さく、でもはっきりと伝えると、ライアンがほんのわずか目を細めた。沈黙がやさしい。
「明日からも忙しいぞ、隊長」
「はい!」
「無理をするな。それだけは約束だ」
「ふふ、わかってます」
気がつけば自然に笑えていた。昨日までの不安も恐れも、もうここにはない。あるのは信頼と、これから先の未来への希望だけ。
ライアンが踵を返し、私の方を振り向かずに手をひらりと上げた。その無骨な仕草が、妙にあたたかい。私は背中に向かって大きな声で「ありがとうございます!」と叫んだ。
月光に照らされた雪がきらきらと輝く。胸の中にも同じ光がある気がした。
――もう、私の物語は始まっている。
無能だと切り捨てられたあの日の自分は遠い。ここでは私は、信じてくれる仲間と、支えてくれる人と共に立っている。
静かな夜空に、白い吐息を一つ吐きながら微笑んだ。未来はきっと、もっと眩しい。胸に灯った温もりを抱えて、私は再び砦の灯りの中へ歩き出した。
・
第20話 “この道を共に”と決めた夜
夜が深まったころ、砦はいつもの静けさを取り戻していた。雪明かりが中庭を淡く照らし、木造の壁や屋根に白い影を落とす。私は書庫の灯りを落とし、ひとり廊下を歩いていた。今日の視察対応の疲れはあるけれど、胸の奥は満ちている。何度も「隊長」と呼ばれた声が心をあたためていた。
自室の前まで来て、ふと足を止める。扉を開けるのが惜しいような、まだ今日を終わらせたくない気持ち。窓から見える雪は、静かに舞い降りている。
そのとき、足音がした。振り返ると、廊下の奥からライアンが歩いてくる。黒い外套の裾がゆらりと揺れ、月明かりの下でも彼の存在は際立っていた。
「まだ起きていたのか」
「団長……」
思わず背筋が伸びる。ライアンは少し首を傾けた。
「眠れないのか?」
「いえ、ただ……今日が終わるのが、なんだかもったいなくて」
自分でも驚くくらい素直な言葉が出た。ライアンがわずかに目を細める。
「そうか」
「はい。王都の人に“無能”って言われた日の私が、こんなふうに今日を終えられるなんて、夢みたいです」
「夢じゃない」
即答だった。低くて、でもやさしい声。胸の奥がじんと熱くなる。
「お前が積み上げた結果だ」
「……団長が、いてくれたからです」
言葉にした瞬間、ライアンの灰青の瞳がふっと揺れた。彼は数歩近づいて、ほんの少しだけ距離を詰める。
「俺はただ、支えたにすぎない」
「でも……その支えがなかったら、私は今ここにいないです」
私がそう言うと、ライアンの表情がふっとやわらいだ。珍しく長く私を見つめる。
「……ありがとう」
その一言に、胸が一気に熱くなる。ライアンが感謝を口にするなんて初めてだ。
「こ、こちらこそ」
しどろもどろになった私を見て、ライアンが少しだけ笑った。とても短く、でも確かな微笑み。
「これからも共に進もう」
「はい!」
声が自然に大きくなる。彼と目を合わせながら、心からそう言えた。
ふいに窓の外で風が吹き、雪がちらちらと舞い込んできた。ライアンが手を伸ばし、私の肩にそっと触れる。
「外は冷える。部屋に戻れ」
「はい……団長も、休んでください」
「ああ」
彼は軽くうなずき、踵を返した。けれど去り際にもう一度だけ振り返る。
「すみれ」
「はい?」
「お前がここに来てくれて、よかった」
胸が熱くなって、思わず息をのんだ。返事が詰まったまま頷くと、ライアンは何も言わず歩き去っていった。黒い外套が夜に溶けるまで、私はその背中を見送っていた。
扉を閉めたあとも、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。机の上に徽章を置き、手帳を開く。ページに今日の日付を書き込むと、胸の奥から言葉が溢れてくる。
――私にはもう、帰る場所がある。
――守りたい人たちがいる。
――共に進みたい人がいる。
静かにペンを置き、ベッドに身を沈めた。窓の外では雪が降り続けている。でもその白は、もう過去を閉ざすものではない。未来へと続く道だ。
心がふわりとあたたかくなり、私はゆっくりと目を閉じた。胸の奥の新しい力を抱きしめながら。
・
翌朝、窓を開けると空気が澄みきっていた。夜の雪がすべてを洗い流したように世界が真っ白で、遠くの山までくっきり見える。冷たい空気を吸い込みながら、昨日の出来事を反芻する。王都の使者と対等に話せたこと、仲間たちの拍手、そしてライアンの「お前がここに来てくれて、よかった」という言葉――胸の奥で何度も温かく響いている。
外套を羽織り、徽章を肩につけた瞬間、自然と背筋が伸びた。鏡代わりの窓に映る自分は、王都で“無能”と呼ばれていた私ではない。胸を張って歩ける誰かになっている。
廊下を歩くと、マリエルがすぐ見つけて駆け寄ってきた。
「おはよ、隊長!」
「おはよう」
「なんか今日のすみれちゃん、さらにオーラ出てる! 昨日の勝利のオーラだね」
「勝利って……」
「勝利だよ! 王都の役人をぎゃふんと言わせて、団長をメロメロにして……」
「してないっ!」
慌てて言い返すと、マリエルがケラケラ笑う。けれどその笑いの裏に、ちゃんとした信頼があるのがわかる。私をからかう声さえ、居場所の証だ。
「今日、団長が呼んでるよ。たぶん次の計画の相談だって」
「わかった。ありがとう」
「がんばって!」
背中を押されるように執務室へ向かう。扉の前で深呼吸してノックする。
「入れ」
低い声に導かれて扉を開けると、ライアンが地図を広げていた。いつも通りの無骨さ、でも昨日よりどこか穏やかな空気が漂っている。
「来たか」
「おはようございます、団長」
「おはよう。座れ」
指示されて椅子に腰を下ろす。机の上の地図には新しい赤線がいくつも引かれていた。
「王都の補給支援が正式に決まった。だが、この北のルートはまだ危うい。雪崩の可能性がある」
「はい。ここ、地盤が脆いと聞きました」
「そうだ。だが南は今や安全だ。お前のおかげだな」
「……ありがとうございます」
「これからは北の補強を優先する。新しい中継所を作る案を考えてみた。お前の意見を聞かせろ」
私は資料をめくり、頭の中で計算を組み立てる。もう、恐怖はない。数字が頭の中で鮮やかに動き、言葉が自然に出る。
「ここに拠点を置けば安全な経路ができます。雪の季節でも補給が止まりません」
「ふむ、悪くない」
ライアンが腕を組んで考え込む。その表情を見て、胸の奥がじんわりあたたかくなる。私は今、彼と肩を並べてこの砦を守っている。
「お前がいてくれると、計画が早い」
「それは団長がいてくれるからです」
「……相変わらず謙虚だな」
わずかに微笑んだ灰青の瞳。胸が跳ねる。けれど今は逃げずにその目を見返せる。
「でも、本当に。団長がいてくれるから、私もがんばれるんです」
「そうか」
短い返事だったが、ライアンの表情はどこか柔らかい。その変化を見ていると、胸の奥が温まる。
話がひと段落したころ、ライアンが少しだけ声を落とした。
「王都の視察……つらかったか?」
「正直、最初は怖かったです。でも、もう大丈夫です。団長が横にいてくれたから」
ライアンが一瞬まぶたを閉じた。ほんの少し息を吐くようにしてから、低く言った。
「……あの日、お前が城を追い出されたと聞いたとき、怒りを覚えた」
「え?」
「理不尽なことは嫌いだ。だが、連れ戻しても意味がないと思った。本人が立ち上がらない限りはな」
その目が真っすぐ私を射抜く。息が止まりそうになる。
「だが今は違う。お前は立ち上がった。自分の居場所を掴んだ。……それを見ていると、俺まで救われる」
「……団長」
胸がぎゅっと熱くなる。知らなかった想いを聞かされて、どう返していいかわからなくなる。
「ありがとう。お前のおかげで、俺も砦を信じられる」
それは昨日までの私には想像できなかった言葉だった。涙がこみ上げそうになるのをこらえ、必死に笑う。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「これからも共に守ろう」
「はい!」
声が自然に弾んだ。ライアンの口元がかすかに緩み、空気が少しだけ柔らかくなる。静かな執務室に、雪を溶かすようなぬくもりが満ちていく。
扉を出るころには、胸の奥に大きな灯りがともっていた。もう過去の私じゃない。これからも恐れずに進める。
仲間たちと、そしてライアンと。
白い冬の空を見上げると、雪は優しく舞っていた。未来へ続く道を静かに照らすように。
・
午後の訓練が終わったころ、砦の空は淡い夕焼けに染まり始めていた。雪は止み、雲の切れ間から金色の光が差し込む。私の胸の中も、不思議と同じように温かく光っている。王都の視察を乗り越え、これからの補給計画も団長と一緒に練った。過去の私が想像できなかった景色の中に、今、私は立っている。
倉庫の戸締まりを確認していると、背後から足音が近づいた。振り返るとライアンだった。長い影が雪の上に伸びている。
「もう片付けか」
「はい。今日の分は終わりました」
「早いな」
「みんなが手伝ってくれたので」
ライアンは短くうなずき、視線を雪原の向こうへ向けた。沈む夕日が灰青の瞳に反射して、やわらかな光を帯びている。しばらく二人とも黙ったまま、雪景色を眺めた。
「……王都のこと、まだ思い出すか?」
不意に落ちた低い声。私は小さく笑った。
「思い出します。でも、もう大丈夫です。あそこに置いてきた私より、今の私のほうがずっと好きだから」
ライアンがゆっくりこちらを見た。視線がまっすぐで、息が詰まりそうになる。でも怖くはない。
「いい答えだ」
「団長のおかげです」
「それを何度も言うな。お前の力だ」
「でも……やっぱりお礼が言いたいです。団長が信じてくれたから、ここまで来られたんです」
私がそう告げると、ライアンはしばし黙り、そしてふっと笑った。珍しい、けれどとてもやわらかな笑顔。
「なら俺も礼を言う。……来てくれてありがとう。お前がいなければ、この砦は今ほど強くなかった」
胸がじんと熱くなる。言葉が詰まって、ただ「はい」と頷くのが精一杯だった。
ライアンがほんの少し距離を詰めてきた。大きな手が、そっと私の頭に触れる。びくりと肩が揺れたが、その手はとても優しかった。雪を払うように、ごく自然な仕草で。
「よくやったな、水野」
「……はい」
「これからも、頼りにしている」
心臓が跳ねて、頬が熱くなる。頭に触れる手があたたかくて、涙が出そうになった。けれど今は泣かない。笑顔で応えたい。
「私も……団長を支えたいです。ずっと」
言った瞬間、ライアンの瞳がわずかに揺れた。ほんの少し、息を飲んだ気配。そして、また静かに笑った。
「頼もしいな」
その言葉とともに手が離れる。けれど温もりだけは頭に残ったままだった。
砦へ戻る途中、マリエルがこちらを見つけてにやにやしてきた。
「お、いい雰囲気だったねぇ」
「ち、違うから!」
「違わないと思うけどな~」
「もう、マリエル!」
顔が熱くなる。でもそのやり取りさえ、心地よい。
夜、部屋でひとりになった私は机に向かった。今日の出来事を手帳に書き込みながら、胸の奥がじんわり温かくなる。ライアンの手の重さ、仲間たちの声、あの雪景色。すべてが“ここが私の場所だ”と教えてくれている。
ページの端に、ふとペンが止まった。新しい言葉を書きたくなったのだ。
――私はもう、ひとりじゃない。
――共に進む人がいる。
――この道を共に歩いていきたい。
書き終えて深く息をつくと、不思議な充足感が胸を満たした。
窓の外には再び雪が降り始めている。けれどもう怖くない。この雪道の先に、仲間と団長と、新しい未来があるのを知っているから。
「これからだね」
小さく呟くと、胸の奥に熱い灯りがともったまま眠りにつく。どこかで扉の向こうを歩く足音が聞こえた気がした。たぶんライアンだ。
その音を子守唄のように感じながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
――新しい人生は、もうここから続いていく。
終わり
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ある日王城で開かれたガーデンパーティーの警備中婚約者に婚約破棄を言い出された。テレシアは承諾したが、それを目撃していた先輩方が見かねて城下町に連れていきお酒を奢った。そのせいでテレシアはべろんべろんに酔っ払い、次の日ベッドに一糸まとわぬ姿の自分と知らない男性が横たわっていた。朝の鍛錬の時間が迫っていたため眠っていた男性を放置して鍛錬場に向かったのだが、ちらりと見えた男性の服の一枚。それ、もしかして超エリート騎士団である近衛騎士団の制服では……!?
※3連休中は一日5話投稿。その後は毎日12時、20時に一話ずつ投稿となります。
※他の投稿サイトにも掲載しています。
※この作品は短編を新たに作り直しました。設定などが変わっている部分があります。(旧題:無慈悲な悪魔の騎士団長に迫られて困ってます!〜下っ端騎士団員(男爵令嬢)クビの危機!〜)
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
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