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第7話 夜の書斎で
〇
夜更け、屋敷の廊下はしんと静まり返っていた。昼間のざわめきが嘘のように消え、蝋燭の灯が絨毯に淡い影を落とす。私は両手に抱えた布籠を慎重に運びながら、ふと書斎の前を通り過ぎた。扉の隙間から、橙の光と紙をめくる音が漏れている。
覗き見するつもりはなかった。けれど、なぜか足が止まってしまった。ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、机に向かうアレクシス様の横顔が見えた。深く眉を寄せ、手元の書類に目を走らせる姿は、昼間の柔らかな雰囲気とはまるで違う。灰色の瞳は凍るように冷たく、背中に刻まれた影は孤独そのものだった。
思わず心臓が跳ねる。声をかけるべきか迷っていると、突然その視線がこちらに向けられた。まるで闇の中から射抜かれたようで、息を呑む。
「……そこにいるのは誰だ」
低く鋭い声。慌てて扉を開け、籠を抱えたまま頭を下げる。
「す、すみません……掃除の途中で……」
「エリナか」
アレクシス様はふっと目を細め、椅子から立ち上がった。書斎に一歩足を踏み入れると、紙とインクの匂いに包まれる。重厚な本棚と、燃え盛る暖炉。壁際に置かれた大きな地図には、色とりどりの印が刻まれている。
「もう遅い。休んでいい時間だろう」
「はい……でも、仕事が残っていて」
「律儀だな」
淡々とした口調に、なぜか胸がざわついた。彼の視線が机の上から私へと移る。その眼差しには、疲労の影が濃く宿っている。
△
「お仕事……大変なのですか」
思わず問うと、彼は驚いたように一瞬目を見開いた。その後、苦笑を浮かべて暖炉の火に視線を向ける。
「君に心配されるとはな」
「ごめんなさい。ただ……顔色が優れないので」
「……確かに、少しばかり行き詰まっていた」
彼は机に積まれた書類の束を指先で弾いた。
「領地の税の取りまとめと、街道の修繕の件だ。放っておけば冬を越せん」
「そんな大切なお仕事を……お一人で?」
「ああ。誰かに任せられるものではない」
静かな声に、孤独の響きが混じっていた。胸がぎゅっと締め付けられる。孤児院で、誰にも弱音を吐けず一人で泣いた夜のことを思い出す。
「……もし、よければ」
口が勝手に動いていた。アレクシス様がこちらを振り向く。
「私にできること、ありますか? 字を写すとか……整理をするとか」
「君に?」
目を細めて考え込む。やがて、静かに頷いた。
「……いいだろう。ここに座れ」
机の端に新しい紙とペンを差し出される。私は胸を高鳴らせながら席に着いた。
書き写しを始めると、意外にも手がよく動いた。孤児院で子供たちの帳簿をまとめたことがあったのだ。インクの匂い、紙を滑るペンの音。仕事に没頭するうちに、緊張も不安もどこかへ消えていく。
やがて静かな声が降ってきた。
「……助かる。思った以上に手際がいい」
「ありがとうございます」
顔を上げると、アレクシス様の目に微笑が宿っていた。その穏やかな光に、胸の奥がじんわりと温まる。
◇
しばらくして仕事を終えると、机の上は整然と片付いていた。積み重なっていた書類の山が低くなり、地図の上に広がる印も整理されている。私は肩で息をしながらも、達成感に小さく微笑んだ。
「……ありがとう。君が来てくれて、助かった」
「いえ……少しでもお役に立てたなら」
そう言った瞬間、彼の手が伸びてきた。赤くなった私の指先を、そっと包み込む。
「無理をさせてしまったな」
その声は驚くほど優しく、心の奥を撫でるようだった。思わず視線を落とすと、頬に熱が集まる。
「私は……大丈夫です」
小さな声で答えると、彼はふっと微笑み、指を離した。
「もう遅い。部屋に戻りなさい。……だが、忘れるな。君がいてくれるだけで、屋敷の空気が変わる」
胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。深く頭を下げて書斎を出る。扉を閉めた後もしばらく、手のひらに残った温もりが消えなかった。
夜の廊下を歩くと、窓の外に広がる空は満天の星だった。胸の中に芽生えたものが、ゆっくりと光を帯びて広がっていく。これは感謝だけではない。もっと大きく、もっと温かい――そう気づいてしまい、足が止まった。
けれど次の瞬間、私は首を振って歩き出す。伯爵様は主人、私はただの家政婦。それ以上を望むのは、きっと許されない。
それでも胸の奥で、小さな灯が揺れ続けていた
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夜更け、屋敷の廊下はしんと静まり返っていた。昼間のざわめきが嘘のように消え、蝋燭の灯が絨毯に淡い影を落とす。私は両手に抱えた布籠を慎重に運びながら、ふと書斎の前を通り過ぎた。扉の隙間から、橙の光と紙をめくる音が漏れている。
覗き見するつもりはなかった。けれど、なぜか足が止まってしまった。ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、机に向かうアレクシス様の横顔が見えた。深く眉を寄せ、手元の書類に目を走らせる姿は、昼間の柔らかな雰囲気とはまるで違う。灰色の瞳は凍るように冷たく、背中に刻まれた影は孤独そのものだった。
思わず心臓が跳ねる。声をかけるべきか迷っていると、突然その視線がこちらに向けられた。まるで闇の中から射抜かれたようで、息を呑む。
「……そこにいるのは誰だ」
低く鋭い声。慌てて扉を開け、籠を抱えたまま頭を下げる。
「す、すみません……掃除の途中で……」
「エリナか」
アレクシス様はふっと目を細め、椅子から立ち上がった。書斎に一歩足を踏み入れると、紙とインクの匂いに包まれる。重厚な本棚と、燃え盛る暖炉。壁際に置かれた大きな地図には、色とりどりの印が刻まれている。
「もう遅い。休んでいい時間だろう」
「はい……でも、仕事が残っていて」
「律儀だな」
淡々とした口調に、なぜか胸がざわついた。彼の視線が机の上から私へと移る。その眼差しには、疲労の影が濃く宿っている。
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「お仕事……大変なのですか」
思わず問うと、彼は驚いたように一瞬目を見開いた。その後、苦笑を浮かべて暖炉の火に視線を向ける。
「君に心配されるとはな」
「ごめんなさい。ただ……顔色が優れないので」
「……確かに、少しばかり行き詰まっていた」
彼は机に積まれた書類の束を指先で弾いた。
「領地の税の取りまとめと、街道の修繕の件だ。放っておけば冬を越せん」
「そんな大切なお仕事を……お一人で?」
「ああ。誰かに任せられるものではない」
静かな声に、孤独の響きが混じっていた。胸がぎゅっと締め付けられる。孤児院で、誰にも弱音を吐けず一人で泣いた夜のことを思い出す。
「……もし、よければ」
口が勝手に動いていた。アレクシス様がこちらを振り向く。
「私にできること、ありますか? 字を写すとか……整理をするとか」
「君に?」
目を細めて考え込む。やがて、静かに頷いた。
「……いいだろう。ここに座れ」
机の端に新しい紙とペンを差し出される。私は胸を高鳴らせながら席に着いた。
書き写しを始めると、意外にも手がよく動いた。孤児院で子供たちの帳簿をまとめたことがあったのだ。インクの匂い、紙を滑るペンの音。仕事に没頭するうちに、緊張も不安もどこかへ消えていく。
やがて静かな声が降ってきた。
「……助かる。思った以上に手際がいい」
「ありがとうございます」
顔を上げると、アレクシス様の目に微笑が宿っていた。その穏やかな光に、胸の奥がじんわりと温まる。
◇
しばらくして仕事を終えると、机の上は整然と片付いていた。積み重なっていた書類の山が低くなり、地図の上に広がる印も整理されている。私は肩で息をしながらも、達成感に小さく微笑んだ。
「……ありがとう。君が来てくれて、助かった」
「いえ……少しでもお役に立てたなら」
そう言った瞬間、彼の手が伸びてきた。赤くなった私の指先を、そっと包み込む。
「無理をさせてしまったな」
その声は驚くほど優しく、心の奥を撫でるようだった。思わず視線を落とすと、頬に熱が集まる。
「私は……大丈夫です」
小さな声で答えると、彼はふっと微笑み、指を離した。
「もう遅い。部屋に戻りなさい。……だが、忘れるな。君がいてくれるだけで、屋敷の空気が変わる」
胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。深く頭を下げて書斎を出る。扉を閉めた後もしばらく、手のひらに残った温もりが消えなかった。
夜の廊下を歩くと、窓の外に広がる空は満天の星だった。胸の中に芽生えたものが、ゆっくりと光を帯びて広がっていく。これは感謝だけではない。もっと大きく、もっと温かい――そう気づいてしまい、足が止まった。
けれど次の瞬間、私は首を振って歩き出す。伯爵様は主人、私はただの家政婦。それ以上を望むのは、きっと許されない。
それでも胸の奥で、小さな灯が揺れ続けていた
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