現人神の花嫁

静木

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公然の秘密

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「帰りたいとは思うのですが、家への帰り方も忘れてしまいました。……住んでいた街の名前も思い出せません」



 アヤは目を伏せ、鎌をかけた罪悪感で何とはなしにまた池に目を向けた。家の者に餌をもらっている大きな鯉は随分と人に懐いており、池の縁に立つだけで寄ってきた。



「そうでした。あなたはまだほとんどを忘れたままということでしたね。では、質問を変えます。貴女は都様のことをどう想っていらっしゃるのですか」
「どう、と言われましても」



 都は命の恩人でこうして何一つ不自由のない暮らしをさせてくれている。優しくて聡明な男性だ。
 都が苦しんでいたら助けてあげたいし、出来ることなら隣にいて支えたい。そう思えるくらいには惹かれている。



「あの方は何だかんだと言っても貴女に選択を委ねるでしょう」



 はあ、と龍仙は大きなため息を吐いた。



「きっとこれ以上の無理強いはなさいませんよ。しかし、もし貴女が今すぐにでもここを出たいと望むのであれば、私からも説得をします。あまりに今の時代にはそぐわないですから」
「一体、何の話をしているのですか」
「貴女はどこまで思い出しているのでしょうか。本当に何も知らないのであれば、私からもこの家に伝わる不可思議な現象についてお話いたしましょう。都様からはお聞きになっておられますか」
「ええ、少しですが」



 不可思議、といえば今の状態がそうだ。アヤの推測が当たっていれば、この家の暮らしは相当世間から取り残されている。
 どこか別の世界にでも来てしまったのだろうかと思うほどだった。
 だが、先程の手紙で疑問が確信に変わった。消印の日付を見るにタイムスリップでも何でもない。
 ここは、現代の日本。
 しかも、私が住んでいた街だ。



「何が不可思議だと言うのでしょう」
「何十年かに一度、当主にお相手がいない時に限りこの屋敷の敷地内に人が迷い込むのです」
「……私のように、ですか」
「ええ、そうです」



 龍仙は静かに頷いた。



「この屋敷には何故かたどり着けない人が多い。都様に呼ばれた者は問題ないが、他者は侵入出来ない」
「普通では考えられませんね」
「例えば、この家の存在を知られていたとしてもだ。決してこの屋敷を訪れることは出来ない」
「それは何かの偶然ではないのですか」



 冗談を言うような男ではないのはアヤにも分かる。ただ、事実だとしても信じがたい。それとも騙されているのだろうかと疑ってみるもそう悪い男にも見えない。



「この家には代々受け継がれてきた言い伝えがあります」
「それは龍仙さんから聞いてもいいものでしょうか」
「ご心配なく。この話は伝承のようなものです。言うなれば公然の秘密。誰もが知っている話ですよ」
「本来なら私も知っているということですか」
「そうでしょうね」



 ならば記憶を取り戻す手がかりになるやもしれないとアヤは話を聞くことにした。



「猫宮家は代々敷地に迷い込んできた女性と結婚するのです。たいてい跡継ぎは男がなります。これは猫宮家の能力を受け継ぐのが男の方が多いからです」
「……都さんはどうなんですか」
「もちろん引き継いでおられます」
「遺伝みたいなものですか」
「そう考えていただいて構いませんよ。あの方はたいそう運が良い。それにあやかろうと毎日大勢の参拝客が訪れます。表向きの神事は全て宮司が行っておりますが、実際に札やお守りの準備をし、裏での祈祷を行っているのは都様です」
「もっと魔法みたいな話かと思いました」



 どうしようもない返答をしてしまったが、アヤは胸を撫で下ろした。



「でも、それが実際に起こったということですね」



 あれ、とアヤの動きが止まる。靄がかかっていた一部の記憶が鮮明に蘇る。



「その話、確かに聞いたことがあります。猫宮神社には神隠しがあるって。どこで聞いたかは思い出せませんが……いたっ」
「どうしました、アヤさん」
「何か、思い出しそう――」



 急に流れ込む過去の記憶にずきずきと頭が痛む。耐えかねて膝をつき崩れ落ちると聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
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