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ずっとずっとここにおってええから
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潮の匂いが変わった。海水が放つしめりけにはない、埃立つような匂いが混じっている。永い間この地にいた常波にとっては、嗅ぎ慣れた匂いだ。
急いで戻らねえと――かごいっぱいに摘んだ桑の実を落とさぬよう、気を配りながら、常波は藪を上手に縫って駆ける。
社まで戻ってくると、屋根によじ登り、つま先立ちになって海原を見つめた。
空はまだすっきりと青いが、海との境はどよんとした鈍色だ。海面は曇天を混ぜこんだように黒々とし、ざわついている。白く、毛羽立つように波は荒い。
雨が近づいているのだ。
海に漁船の姿はない。常波の出番はなさそうだ。
少し安堵した常波は屋根の上で足踏みし、中にいる者に合図を送る。
「おおい、しず、村に帰らんと」
「――ううん?」
社の中からのんびりした声が返ってきた。
「春颯が来る。はよう帰らんとずぶ濡れやぞ」
急かすと、戸が開き、中からひとりの少女が身を乗り出した。ぐんと首を亀のように伸ばして、空と常波を見比べると、
「今から山を下りても、間に合わんよ」
そう言い、また社のなかに引っ込んでしまう。
低く垂れこめた黒雲を見上げた矢先、ぱつ、と額に大きな粒が当たった。すぐに身体のあちこちに雨粒がぶつかりだす。常波もあわてて社の中に飛びこむと、しずの得意げな顔が迎えてくれた。
「ね、言うたとおりや」
「神さんの面目丸つぶれやな」
常波がおどけて言うと、しずがくすくすと笑った。
常波も笑いながら、しずの隣にあぐらをかく。桑の実を見せると、しずはわあと歓声を上げ、さっそくその熟れた黒い果実を頬張った。
古いむしろを何枚も重ねて作った、常波お気に入りの場所には、しずが浜辺の草を編んで作ったかごが重ねてあった。たった一刻の間に七つも拵えたようである。
手先の器用なしずは、穴の空いた投網を直すのもうまいし、小さい子らの、細くてさらさらの髪を結ってやるのも上手だった。「常波の髪がもっと長かったら、あたしが結ってあげるのになぁ」というのが、しずの口癖だ。
常波の髪はいつだって蛇のようにうねり、あちこち好き放題にはねている。真っ白なその色合いも相まって、まるで海のしぶきのように見える。まさに海の守り神にふさわしい様だと常波は気に入っているが、しずはどうも不満らしい。
ごうごうとやかましく社の屋根を打つ雨の音に、しずは草を編む手を休め、うっとりとした顔で聴き入っている。
他人より少し身体の弱いしずにとって、湿気も海風もあまり当たりすぎるのは毒だ。特に常波の住まうこの社は、小山のてっぺんの吹きさらしにあり、山すその集落よりも強く潮風が吹きつける。なのに、常波がどんなにたしなめても、しずは足しげくこの社に通ってくる。それでも拒絶しきれぬのは、他の神との交わりもあまりない辺境の漁村で、常波にとってしずはよい話し相手だからだ。
漁にも出せず、常に浜で細々と家の手伝いをするしずは、少し肩身の狭い思いをしているのだろう。あまり自分自身や家人の話をしたがらないが、常波の古い話や言い伝えには、いつだって目を輝かせて聴き入っていた。
はじめて、しずが兄とともに父親に連れられて、この常波神社を訪れたのが、ちょうど十年前だ。
はじめは、それが自分に向けられた言葉だとは思いもしなかった。
――あんた、だあれ?
社の屋根で瓜を食っていた常波が、人の気配にひょこりと顔を覗かせると、おかっぱの少女がきょとんとした顔で社の屋根を見上げていた。
常波は驚きのあまり、食いかけの瓜を取り落してしまった。屋根を転がり、どこかへ跳ねていった実のことなんて忘れてしまうほどだった。
――お前、神目かぁ
思わず返事をすると、
――神目? なあに、それ?
少女は不思議そうに問い返す。やはり常波の姿が見えるし、声も聞こえているのだ。
隣で、しずの手をひくしずの父親が、ぎょっとした顔になった。
――しず、誰と話しとるんや
――あの子やよぉ。ほら、あそこ……あれ?
――なんもおらんぞ
神を見る目――神目を持つ人間。うわさに聞いたことはあったが、こうして面と向かい合うのは、長く生きてきた常波もはじめてのことだった。もちろん、しずも神を見るのははじめてだったのだろう。己の目にしか見えていないのだとわかるにはしずは幼く、すぐさま身を隠した常波だったが、しずは己の見たものを熱心に父親へ語り続けた。
――いたんよ、真っ白い髪の男の子。屋根の上でこっち見てたんよ
――鳥かなんかと見間違えたんやないか
しずの兄が笑う。父親もうんうんとうなずいた。
幼いしずの言葉をどちらも本気にしなかった。
――さあ、それよりお参りをしよか
せっつかれ、三人は並んで参拝をはじめた。けれどしずは手を合わせている間も、ずっと屋根を見上げていたのだった。
お参りをすませ、帰ろうと促されても、しずは諦めきれぬようで、振り返り、振り返り、それでも父親に従って参道を下ってゆく。
常波は、しずたちが山を下りていってからもしばらく、ひっそりと息をひそめていた。
はじめて自身の姿を見、声を聞く者に会った。
嬉しい気もしたし、おっかない気もした。
人を畏れるなどばかばかしいことではあるが、きっとあの子に向けた常波の顔は、とんでもなくおったまげていたに違いない。
それ以来、しずは時おり、親に伴われて常波神社へやって来るようになった。六つのころにはひとりでも参道を登ってやってくるようになり、
――ねえねえ、いるんでしょう
と、ときに花かんむりを作りながら、ときに泥の団子を作りながら、常波に呼びかけるのだった。
何がそれほどにしずを駆り立てたのか、とうとう根負けした常波がやけっぱちにしずの前へと現れると、
――あらぁ
と、それはそれは嬉しそうに笑ったのだ。
弾けるような笑顔で、作っていた蔓かごを放りだし、ひょこひょこと駆け寄ってくる。
参道として多少は整えられているとはいえ、このひょろひょろの足で、いったいどれほど苦労して登ってきたのだろうと思うと、もっと早く出ていってやればよかったとほんの少し後悔した。
しずはきらきらした目で常波をまじまじと見つめ、
――やっぱり居たのねぇ。ばっちゃんが言ってたのよ、あたしの見たんはきっと、常波神社の神様だって。そうなんでしょう?
――そうや。おれがここの神や
――あたしはしずよ。お名前は?
神ともあろうものがみだりに名乗るのもよくはない。とはいえ、相手が名乗ってこちらが答えぬのもきまりが悪い。そもそも、姿を現しておいて、もはや手遅れだ。
――常波
――とこは。かわいい名前ね
見た目の年頃は常波がちょいとばかし上なだけだが、中身は何百年もの隔たりがある。それでなくともかわいい、なぞ言われて嬉しいわけもない。
けれど無邪気に笑うしずに、【大人げなく】怒る気にもなれない。
――お前、いったいなんのつもりじゃあ。こんなとこに何べんも。おれぁこの海の神や。なんぼ参っても背ぇも伸ばせんし、身代も築けんぞ
しずはきょとんとしている。
己の心を見定めるように、うんうんとひとりうなずいて、
――あたし、ただもう一度あんたに会いたかったんよ
もう一度――それから八年。しずはいつしか常波の背を追い越し、ちんまりとしたおかっぱ頭は結わえられるほどに長く伸び、ずいぶんと娘らしい面立ちになった。
神として顕現したころから、まったく姿かたちの変わらぬまま過ごしていた常波は、そんなしずの成長を見るのも楽しいのだった。
「そういえばな、神の資格とかいうもんができたんやと」
採ってきたばかりの桑の実をつまみながら、常波はつい先日やってきた天照大神の御使いという者から賜った、書状をひらひらとさせた。
「しかく?」
食べる手を休め、しずが首を傾げる。
「それがあれば、おれは神やって、胸張って名乗れるんやて」
ただ、何もなく資格をくれてやるというわけではなく、常波自ら相手方に出向き、資格を授かるためにいろいろと手続きを踏まねばならぬらしい。
「それを持ってねえとどうなんの?」
「モグリの神ってことやろ」
「やだぁ」
しずはケラケラと笑った。
「じゃあ常波も資格取りに行くんね?」
「おれは行かん」
しずが目を丸くする。
「今までそんなものがなくても神やったんやぞ。今さら駄目とか、そんな無茶な話あらへん」
あまりに急なお達しもだが、天照大御神の御使いの物言いはたいそう横柄で、それがまた常波の気持ちを逆なでしたのである。
「……とはいえ……天照さんのお考えやからな」
誰に聞かれるはずもないが、常波はつい声をひそめてしまう。
数多の神を束ねる、大御神の決めたことである。あまり意地を張っていると、そのうちちゃんと資格を持った神に、ここを追い出されてしまうかもしれない。
「ええやん、常波はちゃんと神様やって。今までのことぜんぶ無しにして、これからは資格がねえと神って名乗ったらあかんて、そんな乱暴な話もないわさ。天照さんがあかんって言うても、あたしが常波は立派なこの海の神様やって、ちゃんと皆に言ってあげるから」
「しずに言われてもなあ……」
常波は苦笑し、桑の実をかじった。
神でないしずに、常波のこの悩ましさはきっと伝わらない。言わぬままにしておけばよかっただろうかと、書状をたたみ、社の隅に放った。
それきり、神の資格から興味はそれ、常波がどこかの海に棲むという巨大貝と大真珠の話をしてやれば、しずは山で子連れ狸を見かけたとうれしそうに話す。
四方山話に花を咲かせているうちに、雨はずいぶんと小降りになったようだ。さぁさぁと木々の葉を叩く雨の音に耳を傾けながら、常波はしずに訊いた。
「もうすぐ祭やな。今年はしずんところが名代やろ? 準備は進んどるか?」
文月の十五日、この村では海神への感謝を奉げる祭が行われる。
その日は漁に出ず、船はみな陸に上げてしまう。
村人たちは真新しい小舟を一艘用意し、供物を山盛り乗せたそれを男衆がかついでこの社まで持ってくる。そしてその供え物を前にし、村の十四までの娘たちが神楽舞を奉納するのだ。
つまり、しずの神楽舞を見るのも今年が最後になるはずだった。
と、しずがうろたえたように視線を泳がせ、うつむいた。
あのね、あのねと、何度も繰り返し、草の匂いのする指をこすり合わせる。
「あたし、祭には出られんの」
常波が驚きに目を見開くと、もっともっとうつむいてしまう。
「あたしねぇ、奉公に出るんやわ」
しずは消え入りそうな声で言って、逃げ場を探すように膝を抱えて顎を埋めた。
「おじさんの知り合いのうちが、おっきな工場を経営してるんや。そこのお手伝いさんがひとり、お暇を頂いたってねえ……それで代わりを欲しがってるんやて」
「……それ、どこや」
しばし黙ってから、しずがつぶやいた。
「尾伊主」
海風に乗れば、あっという間の距離だ。
「……そんな遠ないやんか」
距離だけ、なら。
「そうねぇ」
しずはほほえみ、かご用の草をぎゅっと握りしめた。
「でも、ここの海よりもきれいやないと思うわ」
「そんなことあらへん。尾伊主は魚だけやない、ええ山もある。しずも今はそんなひょろひょろしとるけど、あっという間に肥えるんと違うか」
ほっそりしたしずの顎の線からそっと目をそらし、常波は威勢よく言った。
「そうねぇ」
諦めを含んだ声だった。
奉公に出れば、よほどのことがない限り生家に戻ることはない。年頃になればそのまま嫁入り先を世話されて、子を産む。しずもきっと。
「どうせ海には出られんしねぇ。このままうちにおるより、よっぽどいいわね」
しずがかすかに笑んだ。
「……でも、そうすると、村に神目のひとがおらんようになるわね」
くっきりと、大きな声だった。こんな小さな社の中で、必要もないくらいの、それはきっとしずの本音だからだ。
しずがまっすぐに常波を見た。
常波には、しずが言って欲しいことがなんとなくわかってしまった。ただ、それを自分が口にしてはならないこともわかっていた。
常波はこの海の神である。海にまつわることなら、快く手を出そう。だが、みだりに言葉を与え、人の生にとやかく指図することはあってはならぬ。
「神目がおらんでも、おれは神じゃ。しずに言うてもらわんでも、おれがここの守り神なことに変わりはない。資格がいる言うんなら、それも取る」
わざとらしいほどにぶっきらぼうに常波が言うと、しずはぱちぱちとまばたきをし、
「そうねぇ」
と、常波から目をそらした。
言葉が途切れ、外が静かになっているのに気づいた。
しずが立ち上がり、戸を開けた。
雨土のにおいがどっと流れこんでくる。きらびやかな陽の光がしずの髪を輝かせる。
「常波」
呼ばれ、常波はしずの隣に立った。
大きく息を吸い、両手を掲げる。
右の人さし指と中指を立て、美しく洗われた空と、薄い黄金色に光る海へ向かって印を切った。
海のほうから風が吹いてきた。しっとりとした絹のようで、頬を、腕を、やさしく撫ぜる。
しずの髪がそよそよとなびく。
「ええ匂い」
しみじみとした声だった。
常波もしずも、幾度も嗅いだ、雨上がりのにおい。そこにたっぷりとした潮の香が混じり、心の奥までほぐしてゆく。
常波は気づかれぬよう、そっとしずの顔を仰ぎ見た。
普段ならやわらかく喜びに満ちるくちびるの端は、強く結ばれている。
どうした、と問うほど愚かなこともあるまい。
常波が何も言えず、海を見つめていると、しずがふ、と肩を落とした。
「雨も上がったし、帰るわ」
「達者でな」
この場になんと似つかわしくない挨拶だろう。奉公に出るまではまだ日がある。それなのに常波はどうしたことか、そんなことを言ってしまったのである。
しずは何度もまばたきし、
「はい。常波も……常波さまも御達者で」
いつになく、そして精いっぱいにていねいな語尾は、わずかに震えていた。
しずはそっと頭を下げ、常波に背を向けた。
細い脚が、泥をはねさせながら、ひょこひょこと山を下ってゆく。
拵えたかごはぜんぶ残されていた。
その日以来、しずが社にやって来ることはなかった。
祭の四日前、常波は山の上から、おじであろう男に連れられて村を出てゆくしずの姿を見送った。
しずが去った日も村はいつも通りで、海原も変わらず穏やかだ。凪いだ水面を、時おり魚が跳ねている。
親元を離れての奉公はつらいこともあるだろう。だが、これからのしずの暮らしが、どうかこの海のように安寧であるように。
「こういうのって、どこの神さんに頼めばええんやろうな」
空を見上げ、常波はひとりごちた。
海鳥たちは応えず、ただ魚を狙って次々海中へと飛びこんでゆく。
昨年の、荒れに荒れた夏とは違い、今年は嵐も少なく、穏やかな海が多い。さいわい今のところ海での事故もなく、常波も心穏やかに日々を送れている。
木陰に寝転がり、いきいきとした草の青い匂いに包まれて午睡を楽しんでいると、
「おおーい、常波ー」
どこからか、名を呼ばれた。
首をもたげ、声のありかを探る。
場所も、誰であるかもすぐに知れた。
「芽乃子やないか」
常波は起き上がり、衣についた草きれを払った。濡れた口の端と目をこする。
芽乃子は常波の旧い友で、ここから山をひとつ越えた先の町に奉られている神だ。
まだ眠気の抜けきらぬ常波の前に、芽乃子は両脚を揃えて、ふわりと降り立った。こざっぱりした薄青の衣に、普段は身につけない腕輪など、いやにめかしこんでいる。
「久しいねえ。息災かい?」
「ああ。お前も元気そうやな。なんの用や」
「これを取りにいった帰りさ」
芽乃子が懐から取り出したのは、件の神の資格についての書状だった。あの日以来、社の隅に捨て置いたまま、一度も手にしていない。
「あんまり気乗りしなかったんでねぇ。ずっとほったらかしやったけど、そろそろと思ってな。常波はもう取ったんか?」
「まだや」
「ふぅん。資格取るの、けっこう難しかったで」
芽乃子はちょっと得意げに鼻をツンと上に向けた。
「……なんてね。ほんとはちょちょっとお相手の話聞いて、書面を書かされただけなんやわ」
からからと笑い、芽乃子は首にぶら下げた木札を指にからげて振って見せる。
「これが、これからの神の証なんよ」
常波が無反応でいると、わざわざ寄ってきて、目の前へ突きつけてきた。
一寸角ほどの真新しい木札には、つゆ草の花が刻まれている。顕札という名だという。こんな軽々しい木札一枚で、己が今まで成してきたことを置き換えられるかと思うと、妙に癪であった。
「でもね、あたしらみたいな土着の神はともかく、学業とか縁結びの資格なんてのは、取るのが大変らしいわ。もともとがご立派な神々ばかりやし、代わりを務めるのだって簡単じゃないんやろうねぇ」
ちょっと皮肉げに、芽乃子がくちびるを歪めた。
「ま、あんたは、そういうの嫌いそうね。でも早よぉ取っておいたほうがええよ。いつまでもごねてたって仕方ないでしょうに」
「いらん」
常波がぶすっとした顔でそっぽを向くと、
「なにさ、狛犬みたいな顔して。なんか嫌なことでもあったかい?」
芽乃子は聡い。
「別になんもない」
「へえ」
芽乃子がぐるりと辺りを見渡し、
「別に人があんたを疎かにしてるわけじゃなさそうやし……はーん、さては女か?」
「違う」
「違わんやろぉ」と芽乃子はニマニマする。
「そんなちんまいのに、いやあ、立派立派」
「お前かて、そんな変わらんやろ」
「あたしのほうが百年は年上や」
すました姿に不釣り合いなほどゲラゲラと笑い、芽乃子はひらりと衣の裾を翻した。
「そうかいそうかい。なら、そんなおさびし常波のために、これからはちょくちょく遊びに来たるわな」
「来んでええ」
拳を振り上げると、芽乃子のにたり顔が浮き上がる。
あっという間に小さくなる芽乃子の姿を見送り、常波はふ、と笑いをもらした。
ひさしぶりに大きな声を上げた気がする。
村の様子は変わらない。
神目を持つ者がいなくとも、年一度の祭は一度も滞ることなく、常波神社は村人たちの心と祈りに満ちている。
せっかく採った木の実を余らせてしまうようになり、雨上がりの風になびく髪のくっきりした黒も消え、それでも夏は変わらず何度もやってきた。
しずが、この村に戻ってくるという話を耳にしたのは、睦月も終わりに差しかかるころ、漁道具の付喪神から、海の魚の具合を聞いて回っている途中だった。
しかも、一時ではなく、ずっとだという。
まさか、と付喪神をおっぽり出して、立ち話に興じる女たちの話に聞き耳を立てたが、どうやら真のようである。
うまずめ、とか、家を追い出されたとか、やや不憫そうに、どこか楽しむようにしずを語る数多の言葉から、しずが良い理由で村へと戻ってくるわけではないことは、嫌でもわかった。
だが、しずがこの村へ戻ってくる。
またしずが社へやってくる。
そんなことを思うだけで、常波は心のどこかがあたたかくなるのだ。
常波はそそっと女たちに近づく。
「もう何年や?」
「十年……もっとかねえ」
「それにしたって、いまさら漁でもやる気かね」
「無理やろぉ」
鼻で笑ったのは、村の網元の娘で、かやという。
神として、人の性根にとやかく言いたくはないが、かやは癇癪持ちで、とにかく悋気が激しく、また人の悪口が好きと、あまり褒められた気性の持ち主ではない。
しずのことを快く思っていないのは、今にはじまったことではない。何が気に入らぬのかは知らないが、しずがまだ村にいるころから、他の娘たちを引き連れて、やたらと突っかかっていた。
さすがにもう八つと五つの息子を持つ母親だ。最低限の分別は持ち合わせているだろうと思っていたが、この態度を聞くにそうでもなさそうだ。
「何ができる、いうんかね。ま、どうでもええけど」
そうは見えぬ顔で、かやは吐き捨てた。
「せっかく村に戻ってくるいうんや、やさしく迎えられんのか! 網元の娘やろう!」
聞こえぬとわかっていて怒鳴ると、常波は思わず足元の砂を大きく巻き上げた。
「わっ、なんや!」
「浜風かいねぇ」
かやの驚き声を背に、常波は肩をいからせて付喪神たちの元へと戻ったのだった。
如月のはじめ、しずが戻ったと、気を利かせた付喪神から告げられた。
ほんとうは社の中を転げまわりたいくらいに嬉しかったのだが、頑張って堪えた。会いに行くこともしなかった。神である己からほいほい姿を見せるのはよくないと、つまらない意地を張り続けた。
しずはそのうちやってくる。前みたいに、細っこい足でひょこひょこと山道を上って。
だがしずは、いっこうに常波神社に姿を見せることはなく、常波が焦れ焦れとしているうちに、日だけがどんどんと過ぎていった。
桃の節句が終わり、それでもしずは社へ来なかった。
常波を忘れてしまったのだろうか。
それとも、もう会いたくないということなのだろうか。
そう思ったら最後、辛抱できなくなり、常波はとうとう社を空け、しずを探して村を飛んで回った。
ほどなくして、しずは見つかった。
浜の掘っ建て小屋の軒下で、何かしている。常波は大声で呼びかけそうになるのをぐっとこらえ、少し離れた場所へ降り立った。
見ないうちに、しずは完全に大人になっていた。相変わらずほっそりとしているが、まなざしの落ちつきは、かつての少女らしいものではない。
それでも、しずはしずだ。
常波にとっての、たったひとりの神目の、しず。
うつむいたしずのうなじで、ほつれ髪が春の風に揺れていた。手元に落ちた視線はまっすぐで、他所事にはまったく気を取られていない。
しずは貝を剥いていた。
小刀を器用に使い、澱みない手つきで、貝はどんどんと身と殻に分けられてゆく。奉公先でも、ああして日々の厨の支度をしていたのだろうか。昔と変わらぬ器用さ、だがそこに流れた確かな月日を感じる。
姿を見たら、もはや黙っていられなかった。
仕事の邪魔をしてはならぬとわかっていたが、常波は近づき、天日干し用の網棚の陰からそっと名を呼んだ。
「しず」
しずが手を止め、振り返った。
「常波……」
目がまんまるになる。小刀を置いて、常波のほうへ駆けてきた。
「ごめんねぇ、挨拶に行かんとって」
なまぐさいにおいの手指が申し訳なさそうに合わさる。
そんなこと、どうでもよかった。
常波はぶるぶると首を横に振った。
「ええんや。元気そうで何よりや。尾伊主の水が性に合ったんやろ」
「そりゃあ元気やないとお暇出されてしまうからなあ。気張ったわよ」
言ってから、しずは後ろめたそうに目を伏せた。だが、何があったかなど、あえてその口から聞く必要もない。常波は何も知らぬ体を装った。
「しず、また社に来い。おれぁ、またしずといろんな話がしたいぞ」
今年もまた桑もコケモモも、たくさん実るだろう。ずいぶんぼろぼろになってしまった、しずの手製のかごを作り直してもらいたい。
「ありがとう。せやけどね、さすがにうちの手伝いせんとねえ。――出戻りやから」
しずはちょっとさびしそうに笑った。
知ってるんでしょう? しずの目はそう言っていた。気遣いなど無用だと一蹴するような気丈さもあり、それがいっそう憐れでもあった。
「あたしにも、なんぞできること、あるんやろかねぇ」
「……今も、ちゃんとやっとるやろう」
たくさんの剥き貝を見て、常波が言うと、しずはほほえんだ。
「ありがとう。神様からそう言うてもらえると嬉しいわ。……ところで常波は神様の資格、取ったん?」
「まだそんなもの覚えとったんか」
驚くより、呆れてしまう。
「そりゃあ……」
しずは笑い、言いよどんだ。
「たいせつなことやし」
他人にそう言われてしまうと、気まずさしかない。
「まだや」
小さな声で告げると、しずは眉を下げた。
「大丈夫なん? それで」
「いやあ……あかんのや、ほんとうは」
あれからも書状は幾度となく届き、ひと月前にきたものには、今年の大晦日までに資格を取らぬ者は、順次、資格を持つ者と交代してもらうとの旨が記されていた。
憤っても、すべての神を統べる天照大御神のなさることに、常波のような末席の神が口を出せるはずもない。ならば、強引なやり口が気に食わぬと意固地にならず、資格を取るべきであろう。
「せっかく帰ってきたのに、常波がここの神様やなくなったら、嫌やわ」
「……そうやな」
しずにさびしそうな声で言われて、常波の中でようやく神の資格を取りにゆく決意が固まってきた。
と、そこへ、ぺたぺたと草履の音が近づいてきた。しずが「あら」と言って、会釈する。
「誰かと思ったらしずかい」
かやだ。片手には海藻を盛ったかご、もう片方で子どもの手を引いている。新造という、かやの下の子だ。やっとできた跡取り息子であり、それはそれは可愛がっている。
「こんにちは。新坊も元気そうね」
にっこりとするしずから、貝の剥き身に視線を移し、かやはくちびるをひん曲げた。
「そんな子どもらでもできること……ええ身分やねぇ」
「お前に関係ないやろ」
思わず常波は声を荒らげた。もちろん、かやに聞こえるはずもない。変わらず、意地の悪い目つきだ。
しずはちょっとだけびっくりした目をし、それでもほほえみを絶やさず、
「あたしも、色々とやってみたい思てんのよ。今からでも、漁に出てみようかね。かや、教えてくれんか?」
ご機嫌取りではなく、本気でそう言っているようだった。
「……あんたが?」
かやは、ハッと鼻で笑った。
「小ぎれいなおうちでお手伝いさんやってたあんたが、今さら海に潜るいうんか」
さすがにしずの表情が曇る。ますます、かやは図に乗って、心無い言葉を吐く。
「ここにおったころも、常波さんにばっか入り浸っとったもんねえ。あそこの巫女にでもなったらよかったのに」
しずが何も言い返さないので、かやは興が削がれたのか、「あたし行くわ。忙しいよってな」と、子どもを急かし、去っていった。
「しず……」
常波の声など、その耳には届いていないようであった。
しずは、去りゆく親子の背を見つめながら、
「……だったら、どんなによかったやろうねえ」
生温かい風が吹き、砂埃を舞い上げる。
伏せたしずのまぶたの際が光って見える。
常波の中で、かちりと何かがはまった音がした。
「おれ、神の資格取ってくる」
しずが目じりをぬぐい、ぱちくりする。
常波にもう迷いはなかった。
それで、しずが少しでも喜んでくれるなら。
はじめての場所というのは、どうも緊張する。
【神管理局】と書かれた門の前で立ち止まり、常波は己の姿を念入りに確認する。普段よりも時間をかけて身づくろいをしたが、髪の毛は相変わらずもじゃもじゃのままだ。頑張ったが、どうにもならなかったのだ。やはりしずか芽乃子にでも頼んで、整えてもらえばよかったと後悔しながら、門をくぐった。
ほおお、と常波は思わず感嘆の声を上げた。なんとたくさんの神がいるのだろう。見るからに武神といった様子の大柄な男。きらびやかな金細工を縫いつけた衣の女性は、いったい何の神であろうか。中には常波のような童子の見た目の神もいるが、堂々たる姿の神ばかり目について、なんとなく格負けした気分になる。やや迫力に圧されながらも、人の波を縫うように、常波は書簡で指示された受付へと向かう。
受付で書簡を見せると、係に廊下でしばらく待つように言われた。言われた通り、廊下の長椅子に腰かけて待つ。常波の他にも、資格を取りにきたらしき神々がちらほらといる。芽乃子が見せてくれた顕札という神の証を身につけていないから、きっとそうだろう。皆、どこか不安そうに、天井やら壁を見つめている。同じ立場の者が生み出す空気は、むしろ常波を落ちつかせた。
何を問われ、何を命ぜられるのか。
前もって知っておこうと芽乃子に訊いたものの、妙に口が重く、結局教えてもらえずじまいだった。だが、芽乃子でも取れたのだ、そう無茶なことは言われまいと、良いふうに考えるしかなかった。
やがて名を呼ばれ、通された一室は、入ってすぐに木机が一列に並んでいた。机を挟んで、管理局の係と神が一対一でやり取りをするようだ。
常波が席につくと、資格に関わる業務を行う【管理官】が正面に座った。
管理官は強莉と名乗った。
「常波さん、とおっしゃるんですね」
「へえ……あ、はい、そうです」
出来る限り丁寧な受け答えをと、常波は慎重に答えた。
「今は常波神社に奉られていらっしゃるんですね」
「はい」
「神社の名はとこなみで、お名前はとこはなんですね」
「……はい」
なんの意味があるのかわからないやり取りをしながら、強莉は手元の用紙に何かを書きつけている。
「海神でいらっしゃるんですよね。常波さんは、今は神として、どのようなお務めをなさっているんですか?」
「ええと、海が荒れてきたら、沖に出てる船が浜に帰る手助けしたりしてます。あとは漁道具の付喪神のまとめ役とかもやらせてもろうてます」
なかなか資格を取りに出向かなかった分、厳しく見られてはかなわない。神の務めを真面目に果たしているのだと伝えなければならぬと、常波は目いっぱい明るく、はきはきと答えた。
強莉は「やはり」というような顔をした。それからしばらく黙っていたが、ふーん、とうなって、筆の尻でこつんと机を叩く。
「そのようなご行為は、今後は無用です」
「無用って?」
「ですから、浜に帰る手助けを、です。それ以外にも、人に直接関わることはやめていただきたい。それが、これからの神の資格を有する条件となります」
あまりの展開に、椅子ごとひっくり返りそうになった。常波は机の端を掴んで耐えると、ぐいと身を乗り出した。
「な、なんでや? おまは、船がひっくり返りそうになるの、指くわえて見とれ言うんか?」
思わず食ってかかる常波をまあまあといなし、強莉はまっすぐに常波を見た。
「神とは見守る者。祈りを聞く者。それをみだりに侵すのはよくないということです」
「みだりに、って……」
「あなたが手引きをすれば、確かに海難は減るでしょう。その場において、人々は幸福になります。しかし人の注意は緩むでしょう。備えを怠るでしょう。その弛みがいつかさらなる災いとなり、人々の身に返ってくるかもしれません。それを良しとしますか?」
「そ、れは」
常波は絶句した。
大難を防ぐのに、小難は無視しろというのか。
常波が呆然としていると、
「海を加護するなと申しているのではありません。あくまで、あなたが護るのは海です。そこに生きる人々はその恩恵を受け、己の生を営んでゆく、ということです」
淡々と、条文を読むように強莉が告げる。言葉を発しない常波をよそに、強莉が席を立ち、白い布包みを手に戻ってきた。
「これがあなたの顕札です」
強莉が木札を差しだした。
「これを受け取り、神の資格の元、務めますか? それはすなわち大御神の御意向に添って、ということです」
「……そんな条件飲めんとしたら」
「代わりの神に社を明け渡していただくほかありません。猶予期間ももうすぐ切れますしね」
強莉がふっと暦に目をやる。
しずは、常波が神でなくなったら、どう思うだろう。それでも常波が常波神社の神であると皆にふれてまわるだろうか。いや、他の誰が信じずともよい。
けれど、もし、しずすらも。
常波はゆるゆると手を伸ばし、顕札を握りしめた。
強莉がにっこりと笑む。
「それではこれからもお務め、よろしくお願いします」
村に戻り、さっそくしずに真新しい顕札を見せると、まるで自分のことのようにたいそう喜んだ。夜なべして拵えたのだという円座までくれた。
常波も合わせてにこにこしながらも、心の隅の薄暗い気持ちがぬぐえずにいた。
自分が続けてきた神の姿と、新たに定められた資格を持ち、務める神の姿はまったく違う。
今よりずっと遠く、高みにあれと言われたのだ。
大御神の定めたとおり、人の営みに手を出さぬなら、いったい自分は何のために奉られ、存在するのか。
芽乃子はそれでよしとしたのか。
ひとり、社に寝っころがって考えていても心のもやは濃くなるばかりだ。常波はたまらず、芽乃子の社まで出向いた。
常波の顕札を見て、芽乃子は「おめでとさん」とねぎらってくれた。表情はどこか苦い。常波がもっと苦い顔をしているから、うつってしまったのかもしれない。
「お前は、それでよかったんか」
どことなく責めるような口ぶりに、芽乃子がきっとまなじりを吊り上げた。
「そう言うあんたやって、結局資格を取ったんやろ」
「……仕方ないやろ」
常波はあの社を離れるわけにはいかない。しずのことを抜きにしても、何百年も護ってきた海を見捨てることができるわけもない。選択肢はあるようで、無かったのだ。
「そう。仕方ないんや。時代は変わる。大御神がそうお決めになったんやから、あたしはその流れに乗ろうって思ったんや」
芽乃子の横顔は凛としている。
ふ、とその張りつめた線が崩れた。
「さびしい、いう気もあるけど。でも、人間と神はつかず離れずくらいのほうがほんとうはええんやないかって、思うんよ」
芽乃子の社に参拝を済ませた村人たちが、ふたりの脇を、ほのぼのと笑いながら通り抜けてゆく。芽乃子も常波も、見えぬまま。声も聞こえぬまま。芽乃子はいとおしむような目で、その背を見つめている。
「だから、あたしは神目なんて人間もいないほうが、ええとも思ったりする。自分のそばにおらんでええとも思ってる。見えると、特にそこだけ気にかけてしまいそうや。それって神として正しいんかね」
常波は答えられなかった。
芽乃子もまた、何も続けなかった。
ぱっと表情を変えて、大きな笑みを見せる。
「せっかく来たんやから、茶でも飲んでいくか?」
茶などのんびり飲む気にもなれず、早々に村へ戻った。まっすぐ社へは戻らず、あてどなしに村の中をふらふらしていると、何やら集会場あたりが騒がしい。行ってみると、祭りや寄合でもないのに、人だかりができていた。その中心から、一際甲高い女の声が聞こえてくる。
「うちの新坊がおらんのよぉ」
青ざめた顔でわめいているのは、かやだった。
少し離れたところには、しずの姿もある。
「今朝、あんまりにいたずらが過ぎるんで、ちょっと叱ったら、家飛び出してって帰ってこんのよ」
「そこまで心配せんともええんと違うか」
「せやかて、昼にも帰ってこんかったし」
「まあ、子どもやからなぁ、飯も忘れて遊んでることはあるやろうに」
うろたえるかやと違い、村人たちの反応は鈍い。まだ日も高いうちなので、さして心配はなかろうと考えるのも無理はない。
「まあ、うちの子にも新坊見んかったか訊いてみるから、ちょっとあんたも落ちつき」
「もう少し待ってみたら。腹すかしたら帰ってくるんと違うか」
口々にかやを落ちつかせるようなことを言って、村人たちは散っていった。しかし、しずだけはその場から動くことなく、何か考え込んでいる。
「かや、あのね」
言葉をかけたしずを、かやがきっと睨み据えた。かさついたくちびるが小さく息を吐く。
「あんた、どうせええ気味や思ってるんやろ」
「そんな……あたしそんなこと。そうやないの、あのね」
「うるさい! あんたと話してる暇なんてないわ!」
かやは激高し、しずを突き飛ばして去っていった。
よろけたしずは、集会場の壁にそのままもたれ、深々とため息をついた。
「しず、平気か」
振り返ったしずは、すぐにぎこちない笑顔を作った。だがそれもすぐに悲痛な色に取って代わる。
「新坊がいなくなったんやて。かや、あんなに取り乱して、大丈夫やろうか」
あれほど不条理に辛く当たられても、まだかやの子どもの心配をしている。いや、かや自身の心配も。お人よしにも程がある。見ているこちらのほうが腹が立ってくる。
「常波……あんたの力で、新坊の居場所」
常波は首を振り、しずの言葉を遮った。
「おれはな、もうそないなことしたらあかんのやと」
好き嫌いではない。常波は人へ手を差し伸べてはならない。ただ、見守るだけだ。
それが、この【神の資格の証】を持つということなのだ。
内でせめぎ合う心を抑えこむよう、常波は顕札を握りしめた。
しずはそれだけで大凡を悟ったようであった。
「そうなんね」
そう言って、うなずいた。
「なら大丈夫よ、ありがとう」
何かを決意した面持ちで歩き出したしずを、常波は追いかけ、止めた。
「お前も、放っておけ。かやのために何かしてやる必要なんてあらへん」
しずは少し悲しそうに笑って、
「そうねぇ」
と、常波の指をそっと袖からはずした。
その響きは、少女だったしずを思い起こさせた。
あの時のように、黙って行かせて良いのか。
それで後悔はせぬか。
常波の懊悩を置き去りに、しずはもう二度と振り返らなかった。
常波は未練を振り切り、常波神社へと戻った。
「おれは神や」
誰に聞かせるでもなく、常波はつぶやいた。
常波はこの海を護る神だ。それが海と共に生きる人を護ることになる。
しず以外なら、ここまで思い乱れなかっただろうか。
神の力を持つ者が、ひとりを特に気にかけるのは、正しいのだろうか。
胸元の顕札が揺れる。
悩む常波を諌めている。
――神の資格の元、務めますか?
諾したのだ。納得し、だからこそ手に入れた資格だ。
でも――構うものか。
常波は頬をパァンと叩き、気合を入れると、すぐさま村へと舞い戻った。
浜辺にたむろする付喪神をかき集め、しずと新坊の姿を見なかったか問う。
「しずと新坊……でございますか? 浜では見とらんですが……」
「探してほしいんや」
常波が頼むと、皆はすぐさま村中へ散っていった。
自分の足でも探したいが、ここを離れては彼らが手に入れてきた情報を逃してしまうやもしれぬ。常波はじりじりとしながら、付喪神たちの帰りを待った。
「常波さま~」
やがて、蛸壺の付喪神が砂を蹴立ててえっちらほっちら駆け戻ってきた。ひいふうと息を切らせ、砂浜に転がった付喪神を助け起こすと、
「し、しずは豊島に向かったみたいです」
「豊島やて?」
「へえ。井戸神のおじじが見たそうです。あのじいさん、耄碌してきとるから、あんま信用ならんですが」
豊島は、河口と海の境にある小島だ。普段人が立ち入ることもなく、海鳥が巣を作っているくらいで何もない島だが、引き潮の時間は遠浅になって、歩いてでも渡ってゆける場所にある。
だが、もう潮が満ちる。足がつかなくなるのはもちろん、泳ぎの達者な者でも、一歩間違えれば沖に流されてしまうかもしれない。
次の引き潮まで島に留まっていればよいが、もし、無理にでも帰ろうとしたら――
「いや、行ってみる。すまんな、礼はあとでたっぷりするからの」
常波はぱっと飛び上がり、豊島に向かってまっすぐに飛んだ。
間違いならそれで良い。豊島にいたらいたで、潮がまた引くまで共にいたら良い。何事も明るいほうへと考える。そうすれば心の中にうずくまる不安を拭える。
豊島に着くと、外周に沿って、ぐるりと一周した。
「しずー!」
姿はなく、返事もない。海鳥がギャアギャアと飛び交う中、島全体を俯瞰しようと、さらに高度を上げた常波の視界の隅に、黒っぽい何かが映りこんだ。
浮か流木か――だが常波の勘が警鐘を鳴らした。
止まり、目をこらす。あれは人の頭ではないか。
もしやと近づいてみる。間違いない、人だ。
しずと、もうひとつ小さいのは、新坊か。
常波はすぐさま降下し、海に飛び込んだ。
その一瞬の間にも、しずたちはどんどん沖の方へ流されている。潮の力に負けてしまっているのだ。
「しずー!」
常波は波をかき分け、しずの元へと必死で泳ぐ。
波の合間に見え隠れするしずの顔が、次第に水の中に潜る時間が増えてゆく。
「しず!」
ようやくその腕を捉えた。
「常波……」
うつろなしずの瞳に希望が宿った。新坊は水を飲んだのか、しずに抱えられたまま、ぴくりとも動かない。
「しず、そん子をしっかり抱えとれ」
「わかった」
しずは真っ青なくちびるをわななかせ、それでもしっかりと言った。
常波はしずを抱え、全身の力を振り絞って空へと飛び上がった。
いつものように高みではなく、水面すれすれを這うように飛ぶ。さすがに人間ふたり抱えてでは、これが精いっぱいだ。
「よく、ね、新坊が友だちらと言うてたの。潮が引くと遊びに行くんやて……。帰りたいて、泣くから、あたし……」
「わかったからもう黙っとけ」
しずがうなずいた。顎はかっくんと落ちたままだ。
普段ならあっという間の距離が、ひどく遠い。腕の感覚が失われてゆく。だがふたりを落とすわけにはいかない。
寄せた身体に伝わるしずの鼓動が、常波に力を与える。
常波のおたけびに合わせ、風が勇む。
つま先で海水が散る。白いしぶきが上がる。
浜辺が見えてきた。常波の力もそろそろ限界であった。あと少しだ――そう思った瞬間、緊張の糸がほどけた。常波たちはざんぶりと海の中へと落っこちた。
だが、もうしずの足は底についている。
「しず、歩くんや」
ぐったりした新坊をしずの背におぶさらせ、ふらつくしずを支え、常波はさらに進む。海底の砂に足を取られ、それでもしずは歯を食いしばり、確実に浜へ向かって進んだ。
よろめきながら浜に上がったしずを、村人が見つけて駆け寄ってくる。
「しず! それに新坊やないか!」
波打ち際に崩れ落ちたふたりを、てんやわんやで運んでゆく村人たちを、常波はずぶ濡れのままで見つめていた。
あとは村人たちに任せるしかない。
「ほんまにようやった、しず」
気力も体力もすっからかんだ。常波は水の届かぬ場所まで歩いていき、ごろんと大の字になった。
「常波さま、ご無事で何よりです」
付喪神たちが水やら食いものを持って、続々と集まってきた。
「おう……皆、いろいろとありがとうなぁ」
言葉を発するのも億劫だったが、皆を心配させまいと、常波はできる限り元気よく言った。
顕札は湿って黒ずんでいる。ちっぽけなそれが、ずしりと胸にのしかかるようだった。
大御神のご意向にそむくふるまいだ。知られたら、お咎めがあるかもしれない。
だが後悔はしていない。
「おれは、しとらんぞ」
しずの弱々しい鼓動は、その儚さにもかかわらず、常波の身体の中にまだ残り、響いているようだった。
新坊は命に大事なく、翌朝にはもう元気に村を走り回っていた。
一方、しずは長い間水に浸かっていたのがたたり、伏せってしまった。
「自分でやらんと誰かに頼めばよかったんに」
それでも心無い村人の中にはしずを陰でなじる者もあった。かつてなら、その中心にいたであろうかやは、さすがに今までの所業を悔いたのか、すっかりおとなしくなって、礼の品を携えてしずの家にも参じたようであった。
しずを取り巻く環境は好転したように見えた。だが、しずはその日以来めっきり外へと出てこなくなり、梅雨が明け、陽射しがきつくなるころには、まったく姿を見せなくなっていた。
文月の祭にすら、しずは姿を見せなかった。たくさんの供え物を前にしても常波の心は重くなるばかりで、常波はいてもたってもいられず、しずの家へ向かった。
腹いっぱい食わせてやろうと摘んできたかごいっぱいの桑の実を手に、静まり返った家へと上がると、奥の部屋から人の気配がする。
戸を開けると、部屋の真ん中に布団が敷かれ、しずが寝ていた。
枕元には水の入った椀が置かれている。
しずがゆっくりと首を傾げた。
「常波」
「家の人は」
「……漁よ。今年はよう獲れるって、みな、喜んでるわ」
「しずひとり置いてか」
「そんなふうに言わんといて。頑張ってるのよ」
身を起こそうとするしずを、常波は慌てて制した。
薄暗い家の中で、まるで獲れたての烏賊のようにしずの肌は青白い。
「具合はどうや」
「ごめんねぇ、お礼を言いに行かなと思てたんやけど、身体がうまいこと動かんで」
「そないなこと詰りに来たんと違う」
常波が首を振ると、しずはくちびるを緩ませる。
「わかってる。あたしが行かんから、さびしかったんよねえ」
「ち、違うわ」
うろたえる常波に、しずが声を立てて笑った。途端、胸を押さえて、顔を引きつらせる。
「大丈夫か」
背に回り、さすってやると、しずがかすかにうなずいた。
「大丈夫よ」
もうええよ、としずに言われても、常波はその背をさすり続けた。こうして苦しむ者を労わってやることも、神にそぐわぬ行いなのだろうか。
ふとした迷いを感じ取ったのか、しずが身体を動かし、仰向けになった。
脇に座したまま、常波はわざと明るい声で、
「新坊は今日も元気に浜を走りまわっとる。もうあそこには独りで行かんよう、きつう言われたのを、ちゃんと守っとるぞ」
しずのあごがかすかに引く。うなずいたのかもしれない。自身の見たものに確信が持てないほど、微々たる動きだった。
今までも、か弱いところはあった。だが、これほどにたやすくどこかへ吹き飛んでしまうような雰囲気ははじめてだった。
「しず、お前は頑張った」
繋ぎとめたい一心で、常波は言った。
しずがゆっくりと常波へ目を向ける。その目が一瞬、強い光を宿した。儚げなしずの面差しの中で刃のように輝き、その切っ先は戸口へと向けられていた。
しずが布団を剥ぎ、身を起こした。
「しず、起きたらあかん」
「ええの。外の空気、吸いたい」
しずは寝巻のまま、戸口へ向かう。
つま先が桑の実のかごを蹴飛ばしたが、それすら気づいていないようであった。
一歩一歩、踏みしめるような足取りに、古びた床板がきしむ。常波は駆け寄り、歩く手助けをしてやった。
戸を開けると、まぶしい陽射しにしずの頬が緩んだ。
腕がわななき、戸板を揺らす。すがりつくようにして、なんとか立っているのがわかる。
日輪の光は、青白いしずの顔をいっそう白く輝かせる。そのまま溶けて消えてしまいそうに見えて、袖を掴むと、しずが常波を見つめた。
「あたしねえ……なんだかもうあかん気がするの」
「何を言うんや。そんなこと言うて、俺をびっくりさせようと思ってもあかんぞ」
息も止まるほどに驚きながらも、常波は強い口調で戒めた。
「おれはよ、お前がおらんでも平気やったぞ」
「そうねぇ」
「だから、お前が死んでも、きっと平気や」
「そうねぇ」
「しずがおらんことがずうっと、ずうっとになるだけなんやからな」
「そうねぇ」
「しずが生まれる、ずうっとずうっと前に戻るだけや」
「そうねぇ」
「そんでも、おれはずっとずっとここにおるから」
相槌はなかった。
うっすらと開いたまぶたの下で、しずのまなざしは徐々に光を失ってきている。しずをこの世に繋ぎとめていた、細い細い糸を手繰り寄せることすらままならぬように。
「ありがとうなぁ、常波」
「おれは何もしてねえ」
何もできなかった。しずが望まぬ道を閉ざしてやることも。ふたたび見えたのに、日々を心安く過ごさせてやることも。命の灯火を消そうとしている今を壊すことも。
神にできることなど、いったいどれほどあるのか。
資格があっても、大御神が認めたとしても、常波は目の前にいるたったひとりすら救えぬのだ。
祈りを聞き、見守り、それが何を生むのだ。
無力を悟らされるくらいなら、芽乃子の言うとおり、神目などいないほうが良いのではないか。
「しず、まだ早い」
逝くな。逝ってはいけない。必死でその痩せた腕を揺すった。
「仕方ないんよ、常波」
「なにが仕方ないんや」
常波は怒鳴るように言った。白布のようなしずの顔に穏やかな笑みが乗る。くちびるを持ち上げ、
「そう思えば、ぜんぶ、諦められる」
ずしんと、心の底へと巌が落ちたようだった。
「ここで生きることを諦めて、違う場所でも生きることを諦めて……諦めさせられて。嫌や、って言えばよかったんかね。いつも言えずに……いたけど……」
どれほどに拒もうが、嫌であろうが、すべてが自分の望みどおりにはゆかぬ世だ。人の短い生なら、なおさら。
「あたし、居場所が欲しかった。だから必死に働いて、旦那様の決めた男に黙って添うて、でも結局追い出されて。そんなあたしをおとうもおかあも黙って迎えてくれた。だから、何でもええから役に立って、ここにおってええって言われたかった」
だから無茶をした。
己の命を削って。
それを詰ることなどできない。
常波にそんな【資格】はない。
「ああ、でも――もう一度、あの風の匂いをかぎたかった。雨上がりの、ね、社に吹く、風」
しずがうっとりとした表情で、晴れ、燦々とした陽ざしを見上げる。常波は澄み渡る青空を敵のような目で睨むと、やおらしずを抱えた。
「常波」
とまどうしずに、うなずく。
「まかせろ」
舞い上がる。落とさぬようしっかりと抱いたその身体は、常波よりも大きいのに、枯れ枝のように軽かった。
何も言わず目を閉じたしずと共に風に乗り、社へと駆ける。
社の中にしずを横たえると、常波はひとりまた表へと飛び出した。
「ここで待っとれ、ええな」
返事はなかった。それからは無我夢中で山を越え、久方ぶりの社の戸を揺さぶる。
常波は声を大にし、旧き友の名を呼んだ。
「芽乃子ー!」
社の中でがさごそと音がする。ほどなくして戸がきしみ、開いた。
「……常波か?」
いた。安堵する暇もなく、常波は怪訝な顔で出てきた芽乃子の腕を取ると、有無を言わさず方向転換し、空へ舞いあがった。
「ちょ、ちょ、常波、ちょっと待ってよ。いったい何なの」
「お前の力を貸してほしい!」
「あたしのぉ?」
口を動かしている暇があれば、もっと前へ。
ぎんと見開いた眼を風が斬る。じわりと滲んでくるものをまぶたの裏へと押しこみ、さらに速度を上げた。常波の気迫に、芽乃子はもう何も言わなかった。ただ、黙って、常波が何を成そうとしているのかを見定めるよう、じっと前を見つめていた。
常波神社に着くと、常波は社の戸を開けはなった。
しずは常波が出ていったときと同じ状態で、床に伏せていた。
芽乃子がうっと息を詰まらせた。
「常波、あんた……」
何から聞こう。何を質そう。湧き起こる疑問でいっぱいの芽乃子を遮り、常波は怒鳴るように言った。
「もう時間がないんや。芽乃子、今すぐ、今すぐに呼んでくれ!」
「呼んでって……なんでや。あんた、何をするつもりや」
芽乃子は惑いながらも、常波の思うところをほとんど理解しているようだった。
「で、でも……そんなことは……」
芽乃子は顕札を握り、視線をうろうろさせた。
常波の力、そして芽乃子の力があれば、しずの願いが叶えられるのだ。
だがそれは、人のために力を奮うことだ。大御神の意向にそむくものやもしれぬ。
しかし、のんびりと自然の変化を待っていたら、しずの身体は持たない。
「頼む。後生の頼みや。それで何か言われたら、おれが全部かぶるから。頼む!」
芽乃子は不安な面持ちで常波を、そしてしずを順に見つめた。そして表情を改めると、大きくうなずいた。
芽乃子が腕を水平に持ち上げる。詞を唱えながら両手を突き上げ、くるりくるりと手首を回す。十の指がすいすいと泳ぐように印を切り、その動きに導かれるよう、東の空が俄かに暗くなる。潮の香りが圧される。あれよあれよと黒雲がわき立ち、大粒の雨が降り注ぎはじめた。
「もっと、もっとや」
常波の叫びに応え、芽乃子はさらに印を切った。雨がさらに勢いを増した。土を穿つ、屋根を叩く、木々をなぶる。
常波は雨に打たれながら、己の中に気を溜めてゆく。
指の先まで充つる力を確かめるよう、何度も握りこみ、
「もうええぞ」
芽乃子がうなずいた。
「はあっ」
芽乃子の喝に合わせ、雨が小降りになってゆく。社を囲む音がしとしとと優しくなり、黒雲が見えない手に導かれるよう西の空へと流れ、薄青の空が顔を覗かせる。
立ちこめる土と青葉と雨のにおいが、これほどに愛おしく、哀しい日ははじめてだった。
常波はしずを社の壁にもたせかけ、仁王立ちに空を見上げた。
深く息を吸い、両手を強く突き上げた。
大きく、心を込めて印を切る。
数えきれぬほど繰り返した、しかし、かの者にとっては最後となる。
手向けよう。
この思いをすべて乗せよう。
神と人ではなく、縁を持ち、言葉を交わした者同士として。
「ああ」
しずが目を開き、ゆっくりと胸を上下させた。
「あのにおいがする」
しずは満願叶った面持ちで、唄うようにささやいた。
そろりと持ち上げた指が、風のゆらめきを撫ぜるようにたなびく。
その指が常波の白くうねる髪へともぐりこんだ。やさしく、何度も梳いて、たおやかに握りこむ。
「やっと……戻ってこれた気がするわ。あの日に……あの日の、ここに」
腕が名残惜しげに落ちる。
「常波、ありがとう。あたしは、ここが、好きよ」
それきり、しずは何も言わなくなった。
「しず」
常波はそっとしずの頬を撫ぜた。
「しず。しず。……しず」
返事はないとわかっていて、それでも常波は名を呼び続けた。
あどけなく常波を見上げた幼いしず。ようやく常波を見つけ、喜んだしず。共に笑いあったしず。別れを告げたしず。
いろんなしずの姿が常波の記憶の海からどっと溢れて、それでも今のしずの姿はくっきりと常波の目に焼きついた。
この身が消えぬ限り、忘れることはないだろう。
滅んだとて、共に抱えて虚無へと連れてゆこう。
芽乃子が鼻をすする。そのうちえっくえっくとしゃくりあげだした。
「なんでお前が泣くんや」
「だってあんたが泣くからぁ」
「泣いとらん」
だあだあと頬を伝う熱いものをぬぐいもせず、常波は怒鳴った。
「雨や」
そやなぁと芽乃子が泣き笑いする。
人は儚い。
されど会わずばそれもわからぬもの。
ひと瞬き、重なり合った縁の末、出会った喜びを伝えられただろうか。
あなたと共に吹かれた風は、何よりも美しかったと。
常波はしずを胸に抱き、吼えた。
「おれぁ、ずっとここにおるからな。だから、しず、また神目持って産まれてこい。お前がしとうないことなんて、ぜんぶおれが追っ払ったるから。ずっとずっとここにおってええから」
それが神にそぐわぬ行いであるというなら、すぐにでも資格なぞ捨てよう。
今度こそ、己を捨てぬように。
不穏な常波の想いまでかき消すよう、風は吹き続ける。
しずの愛したこの地を駆け、常波の髪を揺らす。
この細い指のように。
あのまどかな笑みのように。
終
急いで戻らねえと――かごいっぱいに摘んだ桑の実を落とさぬよう、気を配りながら、常波は藪を上手に縫って駆ける。
社まで戻ってくると、屋根によじ登り、つま先立ちになって海原を見つめた。
空はまだすっきりと青いが、海との境はどよんとした鈍色だ。海面は曇天を混ぜこんだように黒々とし、ざわついている。白く、毛羽立つように波は荒い。
雨が近づいているのだ。
海に漁船の姿はない。常波の出番はなさそうだ。
少し安堵した常波は屋根の上で足踏みし、中にいる者に合図を送る。
「おおい、しず、村に帰らんと」
「――ううん?」
社の中からのんびりした声が返ってきた。
「春颯が来る。はよう帰らんとずぶ濡れやぞ」
急かすと、戸が開き、中からひとりの少女が身を乗り出した。ぐんと首を亀のように伸ばして、空と常波を見比べると、
「今から山を下りても、間に合わんよ」
そう言い、また社のなかに引っ込んでしまう。
低く垂れこめた黒雲を見上げた矢先、ぱつ、と額に大きな粒が当たった。すぐに身体のあちこちに雨粒がぶつかりだす。常波もあわてて社の中に飛びこむと、しずの得意げな顔が迎えてくれた。
「ね、言うたとおりや」
「神さんの面目丸つぶれやな」
常波がおどけて言うと、しずがくすくすと笑った。
常波も笑いながら、しずの隣にあぐらをかく。桑の実を見せると、しずはわあと歓声を上げ、さっそくその熟れた黒い果実を頬張った。
古いむしろを何枚も重ねて作った、常波お気に入りの場所には、しずが浜辺の草を編んで作ったかごが重ねてあった。たった一刻の間に七つも拵えたようである。
手先の器用なしずは、穴の空いた投網を直すのもうまいし、小さい子らの、細くてさらさらの髪を結ってやるのも上手だった。「常波の髪がもっと長かったら、あたしが結ってあげるのになぁ」というのが、しずの口癖だ。
常波の髪はいつだって蛇のようにうねり、あちこち好き放題にはねている。真っ白なその色合いも相まって、まるで海のしぶきのように見える。まさに海の守り神にふさわしい様だと常波は気に入っているが、しずはどうも不満らしい。
ごうごうとやかましく社の屋根を打つ雨の音に、しずは草を編む手を休め、うっとりとした顔で聴き入っている。
他人より少し身体の弱いしずにとって、湿気も海風もあまり当たりすぎるのは毒だ。特に常波の住まうこの社は、小山のてっぺんの吹きさらしにあり、山すその集落よりも強く潮風が吹きつける。なのに、常波がどんなにたしなめても、しずは足しげくこの社に通ってくる。それでも拒絶しきれぬのは、他の神との交わりもあまりない辺境の漁村で、常波にとってしずはよい話し相手だからだ。
漁にも出せず、常に浜で細々と家の手伝いをするしずは、少し肩身の狭い思いをしているのだろう。あまり自分自身や家人の話をしたがらないが、常波の古い話や言い伝えには、いつだって目を輝かせて聴き入っていた。
はじめて、しずが兄とともに父親に連れられて、この常波神社を訪れたのが、ちょうど十年前だ。
はじめは、それが自分に向けられた言葉だとは思いもしなかった。
――あんた、だあれ?
社の屋根で瓜を食っていた常波が、人の気配にひょこりと顔を覗かせると、おかっぱの少女がきょとんとした顔で社の屋根を見上げていた。
常波は驚きのあまり、食いかけの瓜を取り落してしまった。屋根を転がり、どこかへ跳ねていった実のことなんて忘れてしまうほどだった。
――お前、神目かぁ
思わず返事をすると、
――神目? なあに、それ?
少女は不思議そうに問い返す。やはり常波の姿が見えるし、声も聞こえているのだ。
隣で、しずの手をひくしずの父親が、ぎょっとした顔になった。
――しず、誰と話しとるんや
――あの子やよぉ。ほら、あそこ……あれ?
――なんもおらんぞ
神を見る目――神目を持つ人間。うわさに聞いたことはあったが、こうして面と向かい合うのは、長く生きてきた常波もはじめてのことだった。もちろん、しずも神を見るのははじめてだったのだろう。己の目にしか見えていないのだとわかるにはしずは幼く、すぐさま身を隠した常波だったが、しずは己の見たものを熱心に父親へ語り続けた。
――いたんよ、真っ白い髪の男の子。屋根の上でこっち見てたんよ
――鳥かなんかと見間違えたんやないか
しずの兄が笑う。父親もうんうんとうなずいた。
幼いしずの言葉をどちらも本気にしなかった。
――さあ、それよりお参りをしよか
せっつかれ、三人は並んで参拝をはじめた。けれどしずは手を合わせている間も、ずっと屋根を見上げていたのだった。
お参りをすませ、帰ろうと促されても、しずは諦めきれぬようで、振り返り、振り返り、それでも父親に従って参道を下ってゆく。
常波は、しずたちが山を下りていってからもしばらく、ひっそりと息をひそめていた。
はじめて自身の姿を見、声を聞く者に会った。
嬉しい気もしたし、おっかない気もした。
人を畏れるなどばかばかしいことではあるが、きっとあの子に向けた常波の顔は、とんでもなくおったまげていたに違いない。
それ以来、しずは時おり、親に伴われて常波神社へやって来るようになった。六つのころにはひとりでも参道を登ってやってくるようになり、
――ねえねえ、いるんでしょう
と、ときに花かんむりを作りながら、ときに泥の団子を作りながら、常波に呼びかけるのだった。
何がそれほどにしずを駆り立てたのか、とうとう根負けした常波がやけっぱちにしずの前へと現れると、
――あらぁ
と、それはそれは嬉しそうに笑ったのだ。
弾けるような笑顔で、作っていた蔓かごを放りだし、ひょこひょこと駆け寄ってくる。
参道として多少は整えられているとはいえ、このひょろひょろの足で、いったいどれほど苦労して登ってきたのだろうと思うと、もっと早く出ていってやればよかったとほんの少し後悔した。
しずはきらきらした目で常波をまじまじと見つめ、
――やっぱり居たのねぇ。ばっちゃんが言ってたのよ、あたしの見たんはきっと、常波神社の神様だって。そうなんでしょう?
――そうや。おれがここの神や
――あたしはしずよ。お名前は?
神ともあろうものがみだりに名乗るのもよくはない。とはいえ、相手が名乗ってこちらが答えぬのもきまりが悪い。そもそも、姿を現しておいて、もはや手遅れだ。
――常波
――とこは。かわいい名前ね
見た目の年頃は常波がちょいとばかし上なだけだが、中身は何百年もの隔たりがある。それでなくともかわいい、なぞ言われて嬉しいわけもない。
けれど無邪気に笑うしずに、【大人げなく】怒る気にもなれない。
――お前、いったいなんのつもりじゃあ。こんなとこに何べんも。おれぁこの海の神や。なんぼ参っても背ぇも伸ばせんし、身代も築けんぞ
しずはきょとんとしている。
己の心を見定めるように、うんうんとひとりうなずいて、
――あたし、ただもう一度あんたに会いたかったんよ
もう一度――それから八年。しずはいつしか常波の背を追い越し、ちんまりとしたおかっぱ頭は結わえられるほどに長く伸び、ずいぶんと娘らしい面立ちになった。
神として顕現したころから、まったく姿かたちの変わらぬまま過ごしていた常波は、そんなしずの成長を見るのも楽しいのだった。
「そういえばな、神の資格とかいうもんができたんやと」
採ってきたばかりの桑の実をつまみながら、常波はつい先日やってきた天照大神の御使いという者から賜った、書状をひらひらとさせた。
「しかく?」
食べる手を休め、しずが首を傾げる。
「それがあれば、おれは神やって、胸張って名乗れるんやて」
ただ、何もなく資格をくれてやるというわけではなく、常波自ら相手方に出向き、資格を授かるためにいろいろと手続きを踏まねばならぬらしい。
「それを持ってねえとどうなんの?」
「モグリの神ってことやろ」
「やだぁ」
しずはケラケラと笑った。
「じゃあ常波も資格取りに行くんね?」
「おれは行かん」
しずが目を丸くする。
「今までそんなものがなくても神やったんやぞ。今さら駄目とか、そんな無茶な話あらへん」
あまりに急なお達しもだが、天照大御神の御使いの物言いはたいそう横柄で、それがまた常波の気持ちを逆なでしたのである。
「……とはいえ……天照さんのお考えやからな」
誰に聞かれるはずもないが、常波はつい声をひそめてしまう。
数多の神を束ねる、大御神の決めたことである。あまり意地を張っていると、そのうちちゃんと資格を持った神に、ここを追い出されてしまうかもしれない。
「ええやん、常波はちゃんと神様やって。今までのことぜんぶ無しにして、これからは資格がねえと神って名乗ったらあかんて、そんな乱暴な話もないわさ。天照さんがあかんって言うても、あたしが常波は立派なこの海の神様やって、ちゃんと皆に言ってあげるから」
「しずに言われてもなあ……」
常波は苦笑し、桑の実をかじった。
神でないしずに、常波のこの悩ましさはきっと伝わらない。言わぬままにしておけばよかっただろうかと、書状をたたみ、社の隅に放った。
それきり、神の資格から興味はそれ、常波がどこかの海に棲むという巨大貝と大真珠の話をしてやれば、しずは山で子連れ狸を見かけたとうれしそうに話す。
四方山話に花を咲かせているうちに、雨はずいぶんと小降りになったようだ。さぁさぁと木々の葉を叩く雨の音に耳を傾けながら、常波はしずに訊いた。
「もうすぐ祭やな。今年はしずんところが名代やろ? 準備は進んどるか?」
文月の十五日、この村では海神への感謝を奉げる祭が行われる。
その日は漁に出ず、船はみな陸に上げてしまう。
村人たちは真新しい小舟を一艘用意し、供物を山盛り乗せたそれを男衆がかついでこの社まで持ってくる。そしてその供え物を前にし、村の十四までの娘たちが神楽舞を奉納するのだ。
つまり、しずの神楽舞を見るのも今年が最後になるはずだった。
と、しずがうろたえたように視線を泳がせ、うつむいた。
あのね、あのねと、何度も繰り返し、草の匂いのする指をこすり合わせる。
「あたし、祭には出られんの」
常波が驚きに目を見開くと、もっともっとうつむいてしまう。
「あたしねぇ、奉公に出るんやわ」
しずは消え入りそうな声で言って、逃げ場を探すように膝を抱えて顎を埋めた。
「おじさんの知り合いのうちが、おっきな工場を経営してるんや。そこのお手伝いさんがひとり、お暇を頂いたってねえ……それで代わりを欲しがってるんやて」
「……それ、どこや」
しばし黙ってから、しずがつぶやいた。
「尾伊主」
海風に乗れば、あっという間の距離だ。
「……そんな遠ないやんか」
距離だけ、なら。
「そうねぇ」
しずはほほえみ、かご用の草をぎゅっと握りしめた。
「でも、ここの海よりもきれいやないと思うわ」
「そんなことあらへん。尾伊主は魚だけやない、ええ山もある。しずも今はそんなひょろひょろしとるけど、あっという間に肥えるんと違うか」
ほっそりしたしずの顎の線からそっと目をそらし、常波は威勢よく言った。
「そうねぇ」
諦めを含んだ声だった。
奉公に出れば、よほどのことがない限り生家に戻ることはない。年頃になればそのまま嫁入り先を世話されて、子を産む。しずもきっと。
「どうせ海には出られんしねぇ。このままうちにおるより、よっぽどいいわね」
しずがかすかに笑んだ。
「……でも、そうすると、村に神目のひとがおらんようになるわね」
くっきりと、大きな声だった。こんな小さな社の中で、必要もないくらいの、それはきっとしずの本音だからだ。
しずがまっすぐに常波を見た。
常波には、しずが言って欲しいことがなんとなくわかってしまった。ただ、それを自分が口にしてはならないこともわかっていた。
常波はこの海の神である。海にまつわることなら、快く手を出そう。だが、みだりに言葉を与え、人の生にとやかく指図することはあってはならぬ。
「神目がおらんでも、おれは神じゃ。しずに言うてもらわんでも、おれがここの守り神なことに変わりはない。資格がいる言うんなら、それも取る」
わざとらしいほどにぶっきらぼうに常波が言うと、しずはぱちぱちとまばたきをし、
「そうねぇ」
と、常波から目をそらした。
言葉が途切れ、外が静かになっているのに気づいた。
しずが立ち上がり、戸を開けた。
雨土のにおいがどっと流れこんでくる。きらびやかな陽の光がしずの髪を輝かせる。
「常波」
呼ばれ、常波はしずの隣に立った。
大きく息を吸い、両手を掲げる。
右の人さし指と中指を立て、美しく洗われた空と、薄い黄金色に光る海へ向かって印を切った。
海のほうから風が吹いてきた。しっとりとした絹のようで、頬を、腕を、やさしく撫ぜる。
しずの髪がそよそよとなびく。
「ええ匂い」
しみじみとした声だった。
常波もしずも、幾度も嗅いだ、雨上がりのにおい。そこにたっぷりとした潮の香が混じり、心の奥までほぐしてゆく。
常波は気づかれぬよう、そっとしずの顔を仰ぎ見た。
普段ならやわらかく喜びに満ちるくちびるの端は、強く結ばれている。
どうした、と問うほど愚かなこともあるまい。
常波が何も言えず、海を見つめていると、しずがふ、と肩を落とした。
「雨も上がったし、帰るわ」
「達者でな」
この場になんと似つかわしくない挨拶だろう。奉公に出るまではまだ日がある。それなのに常波はどうしたことか、そんなことを言ってしまったのである。
しずは何度もまばたきし、
「はい。常波も……常波さまも御達者で」
いつになく、そして精いっぱいにていねいな語尾は、わずかに震えていた。
しずはそっと頭を下げ、常波に背を向けた。
細い脚が、泥をはねさせながら、ひょこひょこと山を下ってゆく。
拵えたかごはぜんぶ残されていた。
その日以来、しずが社にやって来ることはなかった。
祭の四日前、常波は山の上から、おじであろう男に連れられて村を出てゆくしずの姿を見送った。
しずが去った日も村はいつも通りで、海原も変わらず穏やかだ。凪いだ水面を、時おり魚が跳ねている。
親元を離れての奉公はつらいこともあるだろう。だが、これからのしずの暮らしが、どうかこの海のように安寧であるように。
「こういうのって、どこの神さんに頼めばええんやろうな」
空を見上げ、常波はひとりごちた。
海鳥たちは応えず、ただ魚を狙って次々海中へと飛びこんでゆく。
昨年の、荒れに荒れた夏とは違い、今年は嵐も少なく、穏やかな海が多い。さいわい今のところ海での事故もなく、常波も心穏やかに日々を送れている。
木陰に寝転がり、いきいきとした草の青い匂いに包まれて午睡を楽しんでいると、
「おおーい、常波ー」
どこからか、名を呼ばれた。
首をもたげ、声のありかを探る。
場所も、誰であるかもすぐに知れた。
「芽乃子やないか」
常波は起き上がり、衣についた草きれを払った。濡れた口の端と目をこする。
芽乃子は常波の旧い友で、ここから山をひとつ越えた先の町に奉られている神だ。
まだ眠気の抜けきらぬ常波の前に、芽乃子は両脚を揃えて、ふわりと降り立った。こざっぱりした薄青の衣に、普段は身につけない腕輪など、いやにめかしこんでいる。
「久しいねえ。息災かい?」
「ああ。お前も元気そうやな。なんの用や」
「これを取りにいった帰りさ」
芽乃子が懐から取り出したのは、件の神の資格についての書状だった。あの日以来、社の隅に捨て置いたまま、一度も手にしていない。
「あんまり気乗りしなかったんでねぇ。ずっとほったらかしやったけど、そろそろと思ってな。常波はもう取ったんか?」
「まだや」
「ふぅん。資格取るの、けっこう難しかったで」
芽乃子はちょっと得意げに鼻をツンと上に向けた。
「……なんてね。ほんとはちょちょっとお相手の話聞いて、書面を書かされただけなんやわ」
からからと笑い、芽乃子は首にぶら下げた木札を指にからげて振って見せる。
「これが、これからの神の証なんよ」
常波が無反応でいると、わざわざ寄ってきて、目の前へ突きつけてきた。
一寸角ほどの真新しい木札には、つゆ草の花が刻まれている。顕札という名だという。こんな軽々しい木札一枚で、己が今まで成してきたことを置き換えられるかと思うと、妙に癪であった。
「でもね、あたしらみたいな土着の神はともかく、学業とか縁結びの資格なんてのは、取るのが大変らしいわ。もともとがご立派な神々ばかりやし、代わりを務めるのだって簡単じゃないんやろうねぇ」
ちょっと皮肉げに、芽乃子がくちびるを歪めた。
「ま、あんたは、そういうの嫌いそうね。でも早よぉ取っておいたほうがええよ。いつまでもごねてたって仕方ないでしょうに」
「いらん」
常波がぶすっとした顔でそっぽを向くと、
「なにさ、狛犬みたいな顔して。なんか嫌なことでもあったかい?」
芽乃子は聡い。
「別になんもない」
「へえ」
芽乃子がぐるりと辺りを見渡し、
「別に人があんたを疎かにしてるわけじゃなさそうやし……はーん、さては女か?」
「違う」
「違わんやろぉ」と芽乃子はニマニマする。
「そんなちんまいのに、いやあ、立派立派」
「お前かて、そんな変わらんやろ」
「あたしのほうが百年は年上や」
すました姿に不釣り合いなほどゲラゲラと笑い、芽乃子はひらりと衣の裾を翻した。
「そうかいそうかい。なら、そんなおさびし常波のために、これからはちょくちょく遊びに来たるわな」
「来んでええ」
拳を振り上げると、芽乃子のにたり顔が浮き上がる。
あっという間に小さくなる芽乃子の姿を見送り、常波はふ、と笑いをもらした。
ひさしぶりに大きな声を上げた気がする。
村の様子は変わらない。
神目を持つ者がいなくとも、年一度の祭は一度も滞ることなく、常波神社は村人たちの心と祈りに満ちている。
せっかく採った木の実を余らせてしまうようになり、雨上がりの風になびく髪のくっきりした黒も消え、それでも夏は変わらず何度もやってきた。
しずが、この村に戻ってくるという話を耳にしたのは、睦月も終わりに差しかかるころ、漁道具の付喪神から、海の魚の具合を聞いて回っている途中だった。
しかも、一時ではなく、ずっとだという。
まさか、と付喪神をおっぽり出して、立ち話に興じる女たちの話に聞き耳を立てたが、どうやら真のようである。
うまずめ、とか、家を追い出されたとか、やや不憫そうに、どこか楽しむようにしずを語る数多の言葉から、しずが良い理由で村へと戻ってくるわけではないことは、嫌でもわかった。
だが、しずがこの村へ戻ってくる。
またしずが社へやってくる。
そんなことを思うだけで、常波は心のどこかがあたたかくなるのだ。
常波はそそっと女たちに近づく。
「もう何年や?」
「十年……もっとかねえ」
「それにしたって、いまさら漁でもやる気かね」
「無理やろぉ」
鼻で笑ったのは、村の網元の娘で、かやという。
神として、人の性根にとやかく言いたくはないが、かやは癇癪持ちで、とにかく悋気が激しく、また人の悪口が好きと、あまり褒められた気性の持ち主ではない。
しずのことを快く思っていないのは、今にはじまったことではない。何が気に入らぬのかは知らないが、しずがまだ村にいるころから、他の娘たちを引き連れて、やたらと突っかかっていた。
さすがにもう八つと五つの息子を持つ母親だ。最低限の分別は持ち合わせているだろうと思っていたが、この態度を聞くにそうでもなさそうだ。
「何ができる、いうんかね。ま、どうでもええけど」
そうは見えぬ顔で、かやは吐き捨てた。
「せっかく村に戻ってくるいうんや、やさしく迎えられんのか! 網元の娘やろう!」
聞こえぬとわかっていて怒鳴ると、常波は思わず足元の砂を大きく巻き上げた。
「わっ、なんや!」
「浜風かいねぇ」
かやの驚き声を背に、常波は肩をいからせて付喪神たちの元へと戻ったのだった。
如月のはじめ、しずが戻ったと、気を利かせた付喪神から告げられた。
ほんとうは社の中を転げまわりたいくらいに嬉しかったのだが、頑張って堪えた。会いに行くこともしなかった。神である己からほいほい姿を見せるのはよくないと、つまらない意地を張り続けた。
しずはそのうちやってくる。前みたいに、細っこい足でひょこひょこと山道を上って。
だがしずは、いっこうに常波神社に姿を見せることはなく、常波が焦れ焦れとしているうちに、日だけがどんどんと過ぎていった。
桃の節句が終わり、それでもしずは社へ来なかった。
常波を忘れてしまったのだろうか。
それとも、もう会いたくないということなのだろうか。
そう思ったら最後、辛抱できなくなり、常波はとうとう社を空け、しずを探して村を飛んで回った。
ほどなくして、しずは見つかった。
浜の掘っ建て小屋の軒下で、何かしている。常波は大声で呼びかけそうになるのをぐっとこらえ、少し離れた場所へ降り立った。
見ないうちに、しずは完全に大人になっていた。相変わらずほっそりとしているが、まなざしの落ちつきは、かつての少女らしいものではない。
それでも、しずはしずだ。
常波にとっての、たったひとりの神目の、しず。
うつむいたしずのうなじで、ほつれ髪が春の風に揺れていた。手元に落ちた視線はまっすぐで、他所事にはまったく気を取られていない。
しずは貝を剥いていた。
小刀を器用に使い、澱みない手つきで、貝はどんどんと身と殻に分けられてゆく。奉公先でも、ああして日々の厨の支度をしていたのだろうか。昔と変わらぬ器用さ、だがそこに流れた確かな月日を感じる。
姿を見たら、もはや黙っていられなかった。
仕事の邪魔をしてはならぬとわかっていたが、常波は近づき、天日干し用の網棚の陰からそっと名を呼んだ。
「しず」
しずが手を止め、振り返った。
「常波……」
目がまんまるになる。小刀を置いて、常波のほうへ駆けてきた。
「ごめんねぇ、挨拶に行かんとって」
なまぐさいにおいの手指が申し訳なさそうに合わさる。
そんなこと、どうでもよかった。
常波はぶるぶると首を横に振った。
「ええんや。元気そうで何よりや。尾伊主の水が性に合ったんやろ」
「そりゃあ元気やないとお暇出されてしまうからなあ。気張ったわよ」
言ってから、しずは後ろめたそうに目を伏せた。だが、何があったかなど、あえてその口から聞く必要もない。常波は何も知らぬ体を装った。
「しず、また社に来い。おれぁ、またしずといろんな話がしたいぞ」
今年もまた桑もコケモモも、たくさん実るだろう。ずいぶんぼろぼろになってしまった、しずの手製のかごを作り直してもらいたい。
「ありがとう。せやけどね、さすがにうちの手伝いせんとねえ。――出戻りやから」
しずはちょっとさびしそうに笑った。
知ってるんでしょう? しずの目はそう言っていた。気遣いなど無用だと一蹴するような気丈さもあり、それがいっそう憐れでもあった。
「あたしにも、なんぞできること、あるんやろかねぇ」
「……今も、ちゃんとやっとるやろう」
たくさんの剥き貝を見て、常波が言うと、しずはほほえんだ。
「ありがとう。神様からそう言うてもらえると嬉しいわ。……ところで常波は神様の資格、取ったん?」
「まだそんなもの覚えとったんか」
驚くより、呆れてしまう。
「そりゃあ……」
しずは笑い、言いよどんだ。
「たいせつなことやし」
他人にそう言われてしまうと、気まずさしかない。
「まだや」
小さな声で告げると、しずは眉を下げた。
「大丈夫なん? それで」
「いやあ……あかんのや、ほんとうは」
あれからも書状は幾度となく届き、ひと月前にきたものには、今年の大晦日までに資格を取らぬ者は、順次、資格を持つ者と交代してもらうとの旨が記されていた。
憤っても、すべての神を統べる天照大御神のなさることに、常波のような末席の神が口を出せるはずもない。ならば、強引なやり口が気に食わぬと意固地にならず、資格を取るべきであろう。
「せっかく帰ってきたのに、常波がここの神様やなくなったら、嫌やわ」
「……そうやな」
しずにさびしそうな声で言われて、常波の中でようやく神の資格を取りにゆく決意が固まってきた。
と、そこへ、ぺたぺたと草履の音が近づいてきた。しずが「あら」と言って、会釈する。
「誰かと思ったらしずかい」
かやだ。片手には海藻を盛ったかご、もう片方で子どもの手を引いている。新造という、かやの下の子だ。やっとできた跡取り息子であり、それはそれは可愛がっている。
「こんにちは。新坊も元気そうね」
にっこりとするしずから、貝の剥き身に視線を移し、かやはくちびるをひん曲げた。
「そんな子どもらでもできること……ええ身分やねぇ」
「お前に関係ないやろ」
思わず常波は声を荒らげた。もちろん、かやに聞こえるはずもない。変わらず、意地の悪い目つきだ。
しずはちょっとだけびっくりした目をし、それでもほほえみを絶やさず、
「あたしも、色々とやってみたい思てんのよ。今からでも、漁に出てみようかね。かや、教えてくれんか?」
ご機嫌取りではなく、本気でそう言っているようだった。
「……あんたが?」
かやは、ハッと鼻で笑った。
「小ぎれいなおうちでお手伝いさんやってたあんたが、今さら海に潜るいうんか」
さすがにしずの表情が曇る。ますます、かやは図に乗って、心無い言葉を吐く。
「ここにおったころも、常波さんにばっか入り浸っとったもんねえ。あそこの巫女にでもなったらよかったのに」
しずが何も言い返さないので、かやは興が削がれたのか、「あたし行くわ。忙しいよってな」と、子どもを急かし、去っていった。
「しず……」
常波の声など、その耳には届いていないようであった。
しずは、去りゆく親子の背を見つめながら、
「……だったら、どんなによかったやろうねえ」
生温かい風が吹き、砂埃を舞い上げる。
伏せたしずのまぶたの際が光って見える。
常波の中で、かちりと何かがはまった音がした。
「おれ、神の資格取ってくる」
しずが目じりをぬぐい、ぱちくりする。
常波にもう迷いはなかった。
それで、しずが少しでも喜んでくれるなら。
はじめての場所というのは、どうも緊張する。
【神管理局】と書かれた門の前で立ち止まり、常波は己の姿を念入りに確認する。普段よりも時間をかけて身づくろいをしたが、髪の毛は相変わらずもじゃもじゃのままだ。頑張ったが、どうにもならなかったのだ。やはりしずか芽乃子にでも頼んで、整えてもらえばよかったと後悔しながら、門をくぐった。
ほおお、と常波は思わず感嘆の声を上げた。なんとたくさんの神がいるのだろう。見るからに武神といった様子の大柄な男。きらびやかな金細工を縫いつけた衣の女性は、いったい何の神であろうか。中には常波のような童子の見た目の神もいるが、堂々たる姿の神ばかり目について、なんとなく格負けした気分になる。やや迫力に圧されながらも、人の波を縫うように、常波は書簡で指示された受付へと向かう。
受付で書簡を見せると、係に廊下でしばらく待つように言われた。言われた通り、廊下の長椅子に腰かけて待つ。常波の他にも、資格を取りにきたらしき神々がちらほらといる。芽乃子が見せてくれた顕札という神の証を身につけていないから、きっとそうだろう。皆、どこか不安そうに、天井やら壁を見つめている。同じ立場の者が生み出す空気は、むしろ常波を落ちつかせた。
何を問われ、何を命ぜられるのか。
前もって知っておこうと芽乃子に訊いたものの、妙に口が重く、結局教えてもらえずじまいだった。だが、芽乃子でも取れたのだ、そう無茶なことは言われまいと、良いふうに考えるしかなかった。
やがて名を呼ばれ、通された一室は、入ってすぐに木机が一列に並んでいた。机を挟んで、管理局の係と神が一対一でやり取りをするようだ。
常波が席につくと、資格に関わる業務を行う【管理官】が正面に座った。
管理官は強莉と名乗った。
「常波さん、とおっしゃるんですね」
「へえ……あ、はい、そうです」
出来る限り丁寧な受け答えをと、常波は慎重に答えた。
「今は常波神社に奉られていらっしゃるんですね」
「はい」
「神社の名はとこなみで、お名前はとこはなんですね」
「……はい」
なんの意味があるのかわからないやり取りをしながら、強莉は手元の用紙に何かを書きつけている。
「海神でいらっしゃるんですよね。常波さんは、今は神として、どのようなお務めをなさっているんですか?」
「ええと、海が荒れてきたら、沖に出てる船が浜に帰る手助けしたりしてます。あとは漁道具の付喪神のまとめ役とかもやらせてもろうてます」
なかなか資格を取りに出向かなかった分、厳しく見られてはかなわない。神の務めを真面目に果たしているのだと伝えなければならぬと、常波は目いっぱい明るく、はきはきと答えた。
強莉は「やはり」というような顔をした。それからしばらく黙っていたが、ふーん、とうなって、筆の尻でこつんと机を叩く。
「そのようなご行為は、今後は無用です」
「無用って?」
「ですから、浜に帰る手助けを、です。それ以外にも、人に直接関わることはやめていただきたい。それが、これからの神の資格を有する条件となります」
あまりの展開に、椅子ごとひっくり返りそうになった。常波は机の端を掴んで耐えると、ぐいと身を乗り出した。
「な、なんでや? おまは、船がひっくり返りそうになるの、指くわえて見とれ言うんか?」
思わず食ってかかる常波をまあまあといなし、強莉はまっすぐに常波を見た。
「神とは見守る者。祈りを聞く者。それをみだりに侵すのはよくないということです」
「みだりに、って……」
「あなたが手引きをすれば、確かに海難は減るでしょう。その場において、人々は幸福になります。しかし人の注意は緩むでしょう。備えを怠るでしょう。その弛みがいつかさらなる災いとなり、人々の身に返ってくるかもしれません。それを良しとしますか?」
「そ、れは」
常波は絶句した。
大難を防ぐのに、小難は無視しろというのか。
常波が呆然としていると、
「海を加護するなと申しているのではありません。あくまで、あなたが護るのは海です。そこに生きる人々はその恩恵を受け、己の生を営んでゆく、ということです」
淡々と、条文を読むように強莉が告げる。言葉を発しない常波をよそに、強莉が席を立ち、白い布包みを手に戻ってきた。
「これがあなたの顕札です」
強莉が木札を差しだした。
「これを受け取り、神の資格の元、務めますか? それはすなわち大御神の御意向に添って、ということです」
「……そんな条件飲めんとしたら」
「代わりの神に社を明け渡していただくほかありません。猶予期間ももうすぐ切れますしね」
強莉がふっと暦に目をやる。
しずは、常波が神でなくなったら、どう思うだろう。それでも常波が常波神社の神であると皆にふれてまわるだろうか。いや、他の誰が信じずともよい。
けれど、もし、しずすらも。
常波はゆるゆると手を伸ばし、顕札を握りしめた。
強莉がにっこりと笑む。
「それではこれからもお務め、よろしくお願いします」
村に戻り、さっそくしずに真新しい顕札を見せると、まるで自分のことのようにたいそう喜んだ。夜なべして拵えたのだという円座までくれた。
常波も合わせてにこにこしながらも、心の隅の薄暗い気持ちがぬぐえずにいた。
自分が続けてきた神の姿と、新たに定められた資格を持ち、務める神の姿はまったく違う。
今よりずっと遠く、高みにあれと言われたのだ。
大御神の定めたとおり、人の営みに手を出さぬなら、いったい自分は何のために奉られ、存在するのか。
芽乃子はそれでよしとしたのか。
ひとり、社に寝っころがって考えていても心のもやは濃くなるばかりだ。常波はたまらず、芽乃子の社まで出向いた。
常波の顕札を見て、芽乃子は「おめでとさん」とねぎらってくれた。表情はどこか苦い。常波がもっと苦い顔をしているから、うつってしまったのかもしれない。
「お前は、それでよかったんか」
どことなく責めるような口ぶりに、芽乃子がきっとまなじりを吊り上げた。
「そう言うあんたやって、結局資格を取ったんやろ」
「……仕方ないやろ」
常波はあの社を離れるわけにはいかない。しずのことを抜きにしても、何百年も護ってきた海を見捨てることができるわけもない。選択肢はあるようで、無かったのだ。
「そう。仕方ないんや。時代は変わる。大御神がそうお決めになったんやから、あたしはその流れに乗ろうって思ったんや」
芽乃子の横顔は凛としている。
ふ、とその張りつめた線が崩れた。
「さびしい、いう気もあるけど。でも、人間と神はつかず離れずくらいのほうがほんとうはええんやないかって、思うんよ」
芽乃子の社に参拝を済ませた村人たちが、ふたりの脇を、ほのぼのと笑いながら通り抜けてゆく。芽乃子も常波も、見えぬまま。声も聞こえぬまま。芽乃子はいとおしむような目で、その背を見つめている。
「だから、あたしは神目なんて人間もいないほうが、ええとも思ったりする。自分のそばにおらんでええとも思ってる。見えると、特にそこだけ気にかけてしまいそうや。それって神として正しいんかね」
常波は答えられなかった。
芽乃子もまた、何も続けなかった。
ぱっと表情を変えて、大きな笑みを見せる。
「せっかく来たんやから、茶でも飲んでいくか?」
茶などのんびり飲む気にもなれず、早々に村へ戻った。まっすぐ社へは戻らず、あてどなしに村の中をふらふらしていると、何やら集会場あたりが騒がしい。行ってみると、祭りや寄合でもないのに、人だかりができていた。その中心から、一際甲高い女の声が聞こえてくる。
「うちの新坊がおらんのよぉ」
青ざめた顔でわめいているのは、かやだった。
少し離れたところには、しずの姿もある。
「今朝、あんまりにいたずらが過ぎるんで、ちょっと叱ったら、家飛び出してって帰ってこんのよ」
「そこまで心配せんともええんと違うか」
「せやかて、昼にも帰ってこんかったし」
「まあ、子どもやからなぁ、飯も忘れて遊んでることはあるやろうに」
うろたえるかやと違い、村人たちの反応は鈍い。まだ日も高いうちなので、さして心配はなかろうと考えるのも無理はない。
「まあ、うちの子にも新坊見んかったか訊いてみるから、ちょっとあんたも落ちつき」
「もう少し待ってみたら。腹すかしたら帰ってくるんと違うか」
口々にかやを落ちつかせるようなことを言って、村人たちは散っていった。しかし、しずだけはその場から動くことなく、何か考え込んでいる。
「かや、あのね」
言葉をかけたしずを、かやがきっと睨み据えた。かさついたくちびるが小さく息を吐く。
「あんた、どうせええ気味や思ってるんやろ」
「そんな……あたしそんなこと。そうやないの、あのね」
「うるさい! あんたと話してる暇なんてないわ!」
かやは激高し、しずを突き飛ばして去っていった。
よろけたしずは、集会場の壁にそのままもたれ、深々とため息をついた。
「しず、平気か」
振り返ったしずは、すぐにぎこちない笑顔を作った。だがそれもすぐに悲痛な色に取って代わる。
「新坊がいなくなったんやて。かや、あんなに取り乱して、大丈夫やろうか」
あれほど不条理に辛く当たられても、まだかやの子どもの心配をしている。いや、かや自身の心配も。お人よしにも程がある。見ているこちらのほうが腹が立ってくる。
「常波……あんたの力で、新坊の居場所」
常波は首を振り、しずの言葉を遮った。
「おれはな、もうそないなことしたらあかんのやと」
好き嫌いではない。常波は人へ手を差し伸べてはならない。ただ、見守るだけだ。
それが、この【神の資格の証】を持つということなのだ。
内でせめぎ合う心を抑えこむよう、常波は顕札を握りしめた。
しずはそれだけで大凡を悟ったようであった。
「そうなんね」
そう言って、うなずいた。
「なら大丈夫よ、ありがとう」
何かを決意した面持ちで歩き出したしずを、常波は追いかけ、止めた。
「お前も、放っておけ。かやのために何かしてやる必要なんてあらへん」
しずは少し悲しそうに笑って、
「そうねぇ」
と、常波の指をそっと袖からはずした。
その響きは、少女だったしずを思い起こさせた。
あの時のように、黙って行かせて良いのか。
それで後悔はせぬか。
常波の懊悩を置き去りに、しずはもう二度と振り返らなかった。
常波は未練を振り切り、常波神社へと戻った。
「おれは神や」
誰に聞かせるでもなく、常波はつぶやいた。
常波はこの海を護る神だ。それが海と共に生きる人を護ることになる。
しず以外なら、ここまで思い乱れなかっただろうか。
神の力を持つ者が、ひとりを特に気にかけるのは、正しいのだろうか。
胸元の顕札が揺れる。
悩む常波を諌めている。
――神の資格の元、務めますか?
諾したのだ。納得し、だからこそ手に入れた資格だ。
でも――構うものか。
常波は頬をパァンと叩き、気合を入れると、すぐさま村へと舞い戻った。
浜辺にたむろする付喪神をかき集め、しずと新坊の姿を見なかったか問う。
「しずと新坊……でございますか? 浜では見とらんですが……」
「探してほしいんや」
常波が頼むと、皆はすぐさま村中へ散っていった。
自分の足でも探したいが、ここを離れては彼らが手に入れてきた情報を逃してしまうやもしれぬ。常波はじりじりとしながら、付喪神たちの帰りを待った。
「常波さま~」
やがて、蛸壺の付喪神が砂を蹴立ててえっちらほっちら駆け戻ってきた。ひいふうと息を切らせ、砂浜に転がった付喪神を助け起こすと、
「し、しずは豊島に向かったみたいです」
「豊島やて?」
「へえ。井戸神のおじじが見たそうです。あのじいさん、耄碌してきとるから、あんま信用ならんですが」
豊島は、河口と海の境にある小島だ。普段人が立ち入ることもなく、海鳥が巣を作っているくらいで何もない島だが、引き潮の時間は遠浅になって、歩いてでも渡ってゆける場所にある。
だが、もう潮が満ちる。足がつかなくなるのはもちろん、泳ぎの達者な者でも、一歩間違えれば沖に流されてしまうかもしれない。
次の引き潮まで島に留まっていればよいが、もし、無理にでも帰ろうとしたら――
「いや、行ってみる。すまんな、礼はあとでたっぷりするからの」
常波はぱっと飛び上がり、豊島に向かってまっすぐに飛んだ。
間違いならそれで良い。豊島にいたらいたで、潮がまた引くまで共にいたら良い。何事も明るいほうへと考える。そうすれば心の中にうずくまる不安を拭える。
豊島に着くと、外周に沿って、ぐるりと一周した。
「しずー!」
姿はなく、返事もない。海鳥がギャアギャアと飛び交う中、島全体を俯瞰しようと、さらに高度を上げた常波の視界の隅に、黒っぽい何かが映りこんだ。
浮か流木か――だが常波の勘が警鐘を鳴らした。
止まり、目をこらす。あれは人の頭ではないか。
もしやと近づいてみる。間違いない、人だ。
しずと、もうひとつ小さいのは、新坊か。
常波はすぐさま降下し、海に飛び込んだ。
その一瞬の間にも、しずたちはどんどん沖の方へ流されている。潮の力に負けてしまっているのだ。
「しずー!」
常波は波をかき分け、しずの元へと必死で泳ぐ。
波の合間に見え隠れするしずの顔が、次第に水の中に潜る時間が増えてゆく。
「しず!」
ようやくその腕を捉えた。
「常波……」
うつろなしずの瞳に希望が宿った。新坊は水を飲んだのか、しずに抱えられたまま、ぴくりとも動かない。
「しず、そん子をしっかり抱えとれ」
「わかった」
しずは真っ青なくちびるをわななかせ、それでもしっかりと言った。
常波はしずを抱え、全身の力を振り絞って空へと飛び上がった。
いつものように高みではなく、水面すれすれを這うように飛ぶ。さすがに人間ふたり抱えてでは、これが精いっぱいだ。
「よく、ね、新坊が友だちらと言うてたの。潮が引くと遊びに行くんやて……。帰りたいて、泣くから、あたし……」
「わかったからもう黙っとけ」
しずがうなずいた。顎はかっくんと落ちたままだ。
普段ならあっという間の距離が、ひどく遠い。腕の感覚が失われてゆく。だがふたりを落とすわけにはいかない。
寄せた身体に伝わるしずの鼓動が、常波に力を与える。
常波のおたけびに合わせ、風が勇む。
つま先で海水が散る。白いしぶきが上がる。
浜辺が見えてきた。常波の力もそろそろ限界であった。あと少しだ――そう思った瞬間、緊張の糸がほどけた。常波たちはざんぶりと海の中へと落っこちた。
だが、もうしずの足は底についている。
「しず、歩くんや」
ぐったりした新坊をしずの背におぶさらせ、ふらつくしずを支え、常波はさらに進む。海底の砂に足を取られ、それでもしずは歯を食いしばり、確実に浜へ向かって進んだ。
よろめきながら浜に上がったしずを、村人が見つけて駆け寄ってくる。
「しず! それに新坊やないか!」
波打ち際に崩れ落ちたふたりを、てんやわんやで運んでゆく村人たちを、常波はずぶ濡れのままで見つめていた。
あとは村人たちに任せるしかない。
「ほんまにようやった、しず」
気力も体力もすっからかんだ。常波は水の届かぬ場所まで歩いていき、ごろんと大の字になった。
「常波さま、ご無事で何よりです」
付喪神たちが水やら食いものを持って、続々と集まってきた。
「おう……皆、いろいろとありがとうなぁ」
言葉を発するのも億劫だったが、皆を心配させまいと、常波はできる限り元気よく言った。
顕札は湿って黒ずんでいる。ちっぽけなそれが、ずしりと胸にのしかかるようだった。
大御神のご意向にそむくふるまいだ。知られたら、お咎めがあるかもしれない。
だが後悔はしていない。
「おれは、しとらんぞ」
しずの弱々しい鼓動は、その儚さにもかかわらず、常波の身体の中にまだ残り、響いているようだった。
新坊は命に大事なく、翌朝にはもう元気に村を走り回っていた。
一方、しずは長い間水に浸かっていたのがたたり、伏せってしまった。
「自分でやらんと誰かに頼めばよかったんに」
それでも心無い村人の中にはしずを陰でなじる者もあった。かつてなら、その中心にいたであろうかやは、さすがに今までの所業を悔いたのか、すっかりおとなしくなって、礼の品を携えてしずの家にも参じたようであった。
しずを取り巻く環境は好転したように見えた。だが、しずはその日以来めっきり外へと出てこなくなり、梅雨が明け、陽射しがきつくなるころには、まったく姿を見せなくなっていた。
文月の祭にすら、しずは姿を見せなかった。たくさんの供え物を前にしても常波の心は重くなるばかりで、常波はいてもたってもいられず、しずの家へ向かった。
腹いっぱい食わせてやろうと摘んできたかごいっぱいの桑の実を手に、静まり返った家へと上がると、奥の部屋から人の気配がする。
戸を開けると、部屋の真ん中に布団が敷かれ、しずが寝ていた。
枕元には水の入った椀が置かれている。
しずがゆっくりと首を傾げた。
「常波」
「家の人は」
「……漁よ。今年はよう獲れるって、みな、喜んでるわ」
「しずひとり置いてか」
「そんなふうに言わんといて。頑張ってるのよ」
身を起こそうとするしずを、常波は慌てて制した。
薄暗い家の中で、まるで獲れたての烏賊のようにしずの肌は青白い。
「具合はどうや」
「ごめんねぇ、お礼を言いに行かなと思てたんやけど、身体がうまいこと動かんで」
「そないなこと詰りに来たんと違う」
常波が首を振ると、しずはくちびるを緩ませる。
「わかってる。あたしが行かんから、さびしかったんよねえ」
「ち、違うわ」
うろたえる常波に、しずが声を立てて笑った。途端、胸を押さえて、顔を引きつらせる。
「大丈夫か」
背に回り、さすってやると、しずがかすかにうなずいた。
「大丈夫よ」
もうええよ、としずに言われても、常波はその背をさすり続けた。こうして苦しむ者を労わってやることも、神にそぐわぬ行いなのだろうか。
ふとした迷いを感じ取ったのか、しずが身体を動かし、仰向けになった。
脇に座したまま、常波はわざと明るい声で、
「新坊は今日も元気に浜を走りまわっとる。もうあそこには独りで行かんよう、きつう言われたのを、ちゃんと守っとるぞ」
しずのあごがかすかに引く。うなずいたのかもしれない。自身の見たものに確信が持てないほど、微々たる動きだった。
今までも、か弱いところはあった。だが、これほどにたやすくどこかへ吹き飛んでしまうような雰囲気ははじめてだった。
「しず、お前は頑張った」
繋ぎとめたい一心で、常波は言った。
しずがゆっくりと常波へ目を向ける。その目が一瞬、強い光を宿した。儚げなしずの面差しの中で刃のように輝き、その切っ先は戸口へと向けられていた。
しずが布団を剥ぎ、身を起こした。
「しず、起きたらあかん」
「ええの。外の空気、吸いたい」
しずは寝巻のまま、戸口へ向かう。
つま先が桑の実のかごを蹴飛ばしたが、それすら気づいていないようであった。
一歩一歩、踏みしめるような足取りに、古びた床板がきしむ。常波は駆け寄り、歩く手助けをしてやった。
戸を開けると、まぶしい陽射しにしずの頬が緩んだ。
腕がわななき、戸板を揺らす。すがりつくようにして、なんとか立っているのがわかる。
日輪の光は、青白いしずの顔をいっそう白く輝かせる。そのまま溶けて消えてしまいそうに見えて、袖を掴むと、しずが常波を見つめた。
「あたしねえ……なんだかもうあかん気がするの」
「何を言うんや。そんなこと言うて、俺をびっくりさせようと思ってもあかんぞ」
息も止まるほどに驚きながらも、常波は強い口調で戒めた。
「おれはよ、お前がおらんでも平気やったぞ」
「そうねぇ」
「だから、お前が死んでも、きっと平気や」
「そうねぇ」
「しずがおらんことがずうっと、ずうっとになるだけなんやからな」
「そうねぇ」
「しずが生まれる、ずうっとずうっと前に戻るだけや」
「そうねぇ」
「そんでも、おれはずっとずっとここにおるから」
相槌はなかった。
うっすらと開いたまぶたの下で、しずのまなざしは徐々に光を失ってきている。しずをこの世に繋ぎとめていた、細い細い糸を手繰り寄せることすらままならぬように。
「ありがとうなぁ、常波」
「おれは何もしてねえ」
何もできなかった。しずが望まぬ道を閉ざしてやることも。ふたたび見えたのに、日々を心安く過ごさせてやることも。命の灯火を消そうとしている今を壊すことも。
神にできることなど、いったいどれほどあるのか。
資格があっても、大御神が認めたとしても、常波は目の前にいるたったひとりすら救えぬのだ。
祈りを聞き、見守り、それが何を生むのだ。
無力を悟らされるくらいなら、芽乃子の言うとおり、神目などいないほうが良いのではないか。
「しず、まだ早い」
逝くな。逝ってはいけない。必死でその痩せた腕を揺すった。
「仕方ないんよ、常波」
「なにが仕方ないんや」
常波は怒鳴るように言った。白布のようなしずの顔に穏やかな笑みが乗る。くちびるを持ち上げ、
「そう思えば、ぜんぶ、諦められる」
ずしんと、心の底へと巌が落ちたようだった。
「ここで生きることを諦めて、違う場所でも生きることを諦めて……諦めさせられて。嫌や、って言えばよかったんかね。いつも言えずに……いたけど……」
どれほどに拒もうが、嫌であろうが、すべてが自分の望みどおりにはゆかぬ世だ。人の短い生なら、なおさら。
「あたし、居場所が欲しかった。だから必死に働いて、旦那様の決めた男に黙って添うて、でも結局追い出されて。そんなあたしをおとうもおかあも黙って迎えてくれた。だから、何でもええから役に立って、ここにおってええって言われたかった」
だから無茶をした。
己の命を削って。
それを詰ることなどできない。
常波にそんな【資格】はない。
「ああ、でも――もう一度、あの風の匂いをかぎたかった。雨上がりの、ね、社に吹く、風」
しずがうっとりとした表情で、晴れ、燦々とした陽ざしを見上げる。常波は澄み渡る青空を敵のような目で睨むと、やおらしずを抱えた。
「常波」
とまどうしずに、うなずく。
「まかせろ」
舞い上がる。落とさぬようしっかりと抱いたその身体は、常波よりも大きいのに、枯れ枝のように軽かった。
何も言わず目を閉じたしずと共に風に乗り、社へと駆ける。
社の中にしずを横たえると、常波はひとりまた表へと飛び出した。
「ここで待っとれ、ええな」
返事はなかった。それからは無我夢中で山を越え、久方ぶりの社の戸を揺さぶる。
常波は声を大にし、旧き友の名を呼んだ。
「芽乃子ー!」
社の中でがさごそと音がする。ほどなくして戸がきしみ、開いた。
「……常波か?」
いた。安堵する暇もなく、常波は怪訝な顔で出てきた芽乃子の腕を取ると、有無を言わさず方向転換し、空へ舞いあがった。
「ちょ、ちょ、常波、ちょっと待ってよ。いったい何なの」
「お前の力を貸してほしい!」
「あたしのぉ?」
口を動かしている暇があれば、もっと前へ。
ぎんと見開いた眼を風が斬る。じわりと滲んでくるものをまぶたの裏へと押しこみ、さらに速度を上げた。常波の気迫に、芽乃子はもう何も言わなかった。ただ、黙って、常波が何を成そうとしているのかを見定めるよう、じっと前を見つめていた。
常波神社に着くと、常波は社の戸を開けはなった。
しずは常波が出ていったときと同じ状態で、床に伏せていた。
芽乃子がうっと息を詰まらせた。
「常波、あんた……」
何から聞こう。何を質そう。湧き起こる疑問でいっぱいの芽乃子を遮り、常波は怒鳴るように言った。
「もう時間がないんや。芽乃子、今すぐ、今すぐに呼んでくれ!」
「呼んでって……なんでや。あんた、何をするつもりや」
芽乃子は惑いながらも、常波の思うところをほとんど理解しているようだった。
「で、でも……そんなことは……」
芽乃子は顕札を握り、視線をうろうろさせた。
常波の力、そして芽乃子の力があれば、しずの願いが叶えられるのだ。
だがそれは、人のために力を奮うことだ。大御神の意向にそむくものやもしれぬ。
しかし、のんびりと自然の変化を待っていたら、しずの身体は持たない。
「頼む。後生の頼みや。それで何か言われたら、おれが全部かぶるから。頼む!」
芽乃子は不安な面持ちで常波を、そしてしずを順に見つめた。そして表情を改めると、大きくうなずいた。
芽乃子が腕を水平に持ち上げる。詞を唱えながら両手を突き上げ、くるりくるりと手首を回す。十の指がすいすいと泳ぐように印を切り、その動きに導かれるよう、東の空が俄かに暗くなる。潮の香りが圧される。あれよあれよと黒雲がわき立ち、大粒の雨が降り注ぎはじめた。
「もっと、もっとや」
常波の叫びに応え、芽乃子はさらに印を切った。雨がさらに勢いを増した。土を穿つ、屋根を叩く、木々をなぶる。
常波は雨に打たれながら、己の中に気を溜めてゆく。
指の先まで充つる力を確かめるよう、何度も握りこみ、
「もうええぞ」
芽乃子がうなずいた。
「はあっ」
芽乃子の喝に合わせ、雨が小降りになってゆく。社を囲む音がしとしとと優しくなり、黒雲が見えない手に導かれるよう西の空へと流れ、薄青の空が顔を覗かせる。
立ちこめる土と青葉と雨のにおいが、これほどに愛おしく、哀しい日ははじめてだった。
常波はしずを社の壁にもたせかけ、仁王立ちに空を見上げた。
深く息を吸い、両手を強く突き上げた。
大きく、心を込めて印を切る。
数えきれぬほど繰り返した、しかし、かの者にとっては最後となる。
手向けよう。
この思いをすべて乗せよう。
神と人ではなく、縁を持ち、言葉を交わした者同士として。
「ああ」
しずが目を開き、ゆっくりと胸を上下させた。
「あのにおいがする」
しずは満願叶った面持ちで、唄うようにささやいた。
そろりと持ち上げた指が、風のゆらめきを撫ぜるようにたなびく。
その指が常波の白くうねる髪へともぐりこんだ。やさしく、何度も梳いて、たおやかに握りこむ。
「やっと……戻ってこれた気がするわ。あの日に……あの日の、ここに」
腕が名残惜しげに落ちる。
「常波、ありがとう。あたしは、ここが、好きよ」
それきり、しずは何も言わなくなった。
「しず」
常波はそっとしずの頬を撫ぜた。
「しず。しず。……しず」
返事はないとわかっていて、それでも常波は名を呼び続けた。
あどけなく常波を見上げた幼いしず。ようやく常波を見つけ、喜んだしず。共に笑いあったしず。別れを告げたしず。
いろんなしずの姿が常波の記憶の海からどっと溢れて、それでも今のしずの姿はくっきりと常波の目に焼きついた。
この身が消えぬ限り、忘れることはないだろう。
滅んだとて、共に抱えて虚無へと連れてゆこう。
芽乃子が鼻をすする。そのうちえっくえっくとしゃくりあげだした。
「なんでお前が泣くんや」
「だってあんたが泣くからぁ」
「泣いとらん」
だあだあと頬を伝う熱いものをぬぐいもせず、常波は怒鳴った。
「雨や」
そやなぁと芽乃子が泣き笑いする。
人は儚い。
されど会わずばそれもわからぬもの。
ひと瞬き、重なり合った縁の末、出会った喜びを伝えられただろうか。
あなたと共に吹かれた風は、何よりも美しかったと。
常波はしずを胸に抱き、吼えた。
「おれぁ、ずっとここにおるからな。だから、しず、また神目持って産まれてこい。お前がしとうないことなんて、ぜんぶおれが追っ払ったるから。ずっとずっとここにおってええから」
それが神にそぐわぬ行いであるというなら、すぐにでも資格なぞ捨てよう。
今度こそ、己を捨てぬように。
不穏な常波の想いまでかき消すよう、風は吹き続ける。
しずの愛したこの地を駆け、常波の髪を揺らす。
この細い指のように。
あのまどかな笑みのように。
終
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こんにちは!
やっぱり、日本語の使い方が好きです。和風で丁寧で繊細ですよね。
ちなみに、洋風なお話を書くこともあるんですか?
Piggy様、こんにちは。
ありがとうございます。読み返すと言葉足らずだなぁと思う箇所が散見するので、なかなか難しいところです。
洋風…思い返してみると、一度も書いたこと無いですね。一次も二次も無いです。剣も魔法もドラゴンも際どい魔法使いのお姉さんの衣装も大好きなのですが、ずっと読み専です。