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1. 娼館の雑用係は男爵夫人に拾われる

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 娼館で娼婦の身の回りの世話や雑用──そんな仕事をなんとかこなして、自分なりに真面目に生きてきた。それなのに、この仕打ちはなんだ。

「フィル、ちょっとでいいんだ。俺の相手をしてくれないか」

 裏庭で必死に洗濯物を手洗いしていたというのに、急に現れた小太りのおっさんが僕のかさついた手を撫で回してきた。

 ここで働いているアイ姉さんに入れあげていて、つい3日前にもこの店に来ていた。所謂、常連の太客だ。

 何故かその日は僕も部屋に呼ばれて行為を見せつけられたんだけど。

「僕は男で、娼婦じゃないんです。いつも通りアイ姉さんにお金落としてってください」

 引き剥がす為に手をシッシッと振るが、おっさんは僕の横に回って肩を抱いてきた。
 気持ち悪さに顔を顰めるが、鼻息を荒げているおっさんは全く気にも留めない。

「そんなのはここへ入る為の口実だ。俺はお前が良いんだ」

 髪を切る暇がなく伸ばしっぱなしで大雑把に括っている長い髪と、大きめの瞳は澄んだ菫色。
 昼夜逆転している生活のせいか、焼けていない白い肌。

 この見目で女に間違えられることは多いが、男でも良いと言われたのは初めてだ。
 耳にかかる生温かい息に鳥肌が立つ。

「金は出す。だから、な?」

 伸び切って薄汚れたペラペラな服の襟は簡単にずらされ肩が露出し、汗ばんだ手のひらが這う。
 全身に悪寒が走り、下半身へと伸びてきた手をガッと掴んだ。

 ほんっとに、無理だ。

 堪らず足元にある水が入った桶を思い切り蹴ると、男のパンツの裾がびしょ濡れになった。

「な!? 何をするんだ!!」

 僕の行動が予想外だったのか、束縛が緩み、その隙に駆け出す。

「ここは男娼じゃねぇんだよ!」

 あんな気持ち悪い奴にケツ掘られてたまるか! そういう店だってあるんだからそっちへ行け!

 裏門を出て目の前にある路地裏の角へと身を隠し、追ってきていないことを確認してホッと胸を撫で下ろした。

 月を覆い隠していた雲からポツポツと雨粒が落ちてきて、夜闇が深くなる。
 寒さにふるりと身体が震えた。

 流石にあのおっさん、いなくなってるよな…そろそろ帰らないと店主に叱られる。
 仕事から逃げ出したなんて思われたら大目玉だ。

 常連を怒らせた時点で折檻は覚悟しとかないとだよな。

 やるせなくてため息が出る。


 歯がカチカチと音を立てはじめた頃に、自らの身体を抱きながらなんとか立ち上がると、雨が当たらなくなった。

「こんな所にいたら風邪をひきますよ? 雨もひどくなってきましたし」

 落ち着いた女性の声に顔を上げると、彼女は僕に傘を傾けていた。
 全身真っ黒だけど、すごく綺麗な人。闇夜に溶け込んでしまいそうだ。

 どこかの金持ちか?
 こんな薄汚れた人間に声をかけるような身なりをしていない。

 答えあぐねていると、彼女は僕を頭から足先まで眺めて、ふむと、何か納得したように自らの口元へ手を当てた。

「行く所がないのでしたら、うちに来ませんか? 遊びたい盛りの子どもがいて、人手が足りないのです」

 こんなボロボロの身なりの僕を雇おうとしてる、のか?

 深い黒色の瞳からは感情を読み取れず、差し出される手を眺めることしかできない。
 そんな僕に、彼女は首を傾げる。

 すぐに何か合点がいったのか、ひとつ瞬きした。

「あ、自己紹介がまだでしたね。私はアリス・バイパーといいます。ミハエル・バイパー男爵の妻です」

 男爵!?
 貴族がなんでこんな何処の馬の骨とも知れない僕を雇おうとしてるんだ。
 何か裏があるとしか思えない。

 しかもバイパー男爵といえば、王太子の命令でしか動かず、汚れ仕事を担っているとかないとかいう噂が庶民にまで流れている貴族だ。

 よく週刊誌のネタにされていて、嘘か本当か、何年か前に大きな野盗グループを一掃したのもバイパー男爵だという記事が、姉さんたちの話のタネになっていた。

「ここでは冷えてしまいます。ひとまず、うちの屋敷でお話ししませんか?」

「わかり、ました…」

 ここで本心を探ろうにも情報が少なすぎる。
 何の裏もないなら貴族に雇ってもらえるなんて好条件、逃すのは馬鹿だ。



 娼館に女とうそぶいて売られに来た時、一度だけ乗った馬車とは全く違い、貴族のそれは揺れが少なくて驚いた。
 椅子に使われているクッションも柔らかく振動を吸収してくれている。

 さすが貴族様だ。

 そんな感動を味わう時間はすぐに過ぎ去り、大きな屋敷に着いた。

 アリスと名乗った女性が玄関に入ると、男が飛びついてきて彼女を抱きしめた。

「おかえりアリス。 こんな時間までお疲れ様」

 すりすりと頬擦りまでしている。

 挨拶にしては熱烈すぎやしないか?

 呆れながら眺めていると、アリスは無表情で男を引き剥がした。
 それでも尚抱きつこうとしているのを、何事もないような顔で片腕で押さえている。

「この方がこの屋敷の主人、ミハエル様です。…ミハエル様、この子を使用人として雇いたいのですが、良いですか?」

 この女の人、ずっと無表情だな。

 って、今、使用人って言った? 得体の知れない僕を貴族屋敷の使用人に?
 都合の良い使いっ走りとかでなく?

「アリスが他人に興味を持つなんて珍しいな…。信用できる人間なら構わないが」

 ようやく抱きつくのを諦めたミハエルがこちらを値踏みするように見てきた。
 僕の周りを忙しなく、グルグル、ウロウロする。

 動きは落ち着きがなさそうだが、全てを見透かすような瞳はどこまでも真剣で、無意識に背筋が伸びた。

「君、名前は? 普段はどこで何を?」

 目の前に立つ男爵の背はかなり高く、見上げなければいけない。

 なんだか落ち着かない。妙な緊張感があるような。

「フィルです。娼館で下働きしてます」

「娼館で働いている子なら、ちゃんと話をつけないといけないだろう。アリス、勝手に連れ帰ったんじゃないだろうな?」

 ミハエルがアリスの方を見ると、彼女は首を傾げた。

「何かいけませんでしたか?」

 3人の間に静寂が訪れる。

 それはミハエルの咳払いですぐに破られた。

「ともかく、今日はもう遅い。動くのは明日にしよう」

 大きな風呂に呆気に取られつつも温まらせてもらい、アリスに案内してもらった部屋は娼館の自室よりも広く、ベッドもふかふかだ。

 寝巻きも肌触りが良すぎる。

 貴族すごい。

 感動して目を輝かせるも、味わったことのないスベスベなシーツと羽毛の柔らかさのおかげで、眠りにつくのは早かった。



 大きな窓から入り込んできた朝日。今までにない快適な目覚め。

 寝具でこんなにも違うのか。

 幸せを噛み締めつつぼんやりと日の光を浴びていると、扉が控えめに開かれ、小さな男の子が顔を出した。
 2歳くらいだろうか。真っ黒な髪と瞳がアリスに、輪郭などの造形はミハエルにそっくりだ。

「おはましゅ」

「お、おはようございます…?」

 重たそうな頭をペコリと下げてきたので、同じように会釈を返すと、後ろからアリスが現れてその子を抱えた。

「着替えを用意したのでこちらに着替えてください。フィルさんの職場に話をつけに行きましょう」

 サイドテーブルに置かれたフォーマルな衣服は、これまた高価そうだ。

 まるで執事服のようで、僕なんかが着ていいものなのか。

 一瞬そんな思いがよぎったが、待たせるわけにもいかないと、袖を通した。
 上質な布地を汚してしまうかもと、つい動きがぎこちなくなる。



 先ほどの子はやはりバイパー男爵夫妻の子息で、アイルという名前だそうだ。
 馬車の中で夫妻の向かいに座った僕の膝の上で舌足らずにおしゃべりしている。

 後ろから覗くぷっくりほっぺが餅のようだ。

「こんな子どもを娼館に連れて行ってもいいんですか?」

 あまり教育によろしくないのでは。

「うちは使用人を雇ってないから、アイルを見てくれる人間がいないんだ。仕方ない」

 使用人がひとりもいない貴族なんているんだな。
 変わり者という噂は事実なのかもしれない。

「人を雇おうとしても、信用できないと言って数日で追い返してしまうんですから…」

 アリスが呆れたようにため息をつく。

 数日でクビにされたら困るんだけどなぁ。

 そんなことを考えていたら、たいした時間も経たず娼館に着いた。

 夫妻を店主の部屋へと案内すると、扉を開くと同時に店主の怒号が僕に降りかかった。

「仕事放り出してどこ行ってたんだい!! 女だって騙されて高い金払ったんだから、ここから逃げ出そうったってそうはいかないよ!」

 いつもなら既に寝ているはずの姉さんたちも入り口で野次馬を作って覗き込んでいる。

 まぁ、こうなるよな…。
 どこからどう説明するべきか。自分でも現実味がない出来事なのに。

 えーっと、と、言葉に悩んでいる僕をよそ目に、ミハエルが机にドンっと札束の山を出した。

 なぜ? どこから出てきた?

 僕と店主は開いた口が塞がらない。

「フィルさんを我が家で雇いたいのですが、これではまだ足りませんか?」

 何も言わないというより、言えなくなっている店主に、何を思い違えたのかアリスがそう言いながら首を傾げた。

 足りないどころか、僕が売られた時に積まれた金より多い。
 店主は唖然として声にならないだけだ。

 そして少し間があってようやく店主が絞り出した言葉は──

「じ、充分です…」

 多すぎた分を少し返すほどに、店主はビビっていた。それでも余分に貰っていたところは、さすがのがめつさだ。

 晴れて僕の主人となったバイパー男爵家一行を先に馬車へと乗せ、僕も乗り込もうとした所に姉さんたちが近寄ってきた。

「フィル、ほんとに行っちゃうの?」

 眉を八の字にして話しかけてきたのはアイ姉さんだ。

 常連のおっさんが昨夜何をしてたのか知ってか知らずかわからないが、僕がいないと困ると言いながらオロオロしている。

 その後ろでコソコソとしている姉さんたちも僕の言葉をソワソワと待っている。

 存外、必要とされていたみたいだ。まぁ、そんなこと今更気付かされてもって感じだけど。

 ここでの生活とバイパー男爵家での生活なんて、天秤にかけるまでもない。

 いいように扱われていた娼館での数年と、昨夜の快眠が脳裏を駆け巡り、無意識に口角を上げてしまった。
 そのことに気づいて、そのままニッコリと姉さんたちに笑いかける。

「今までお世話になりました」

 あんたたちの機嫌に左右される日々とはサヨナラだ。


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