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壱・目覚めの刻
お迎えに上がりました。
しおりを挟む「お探ししました、公主様」
東雲国、桃月十二日。青楼や妓楼がひしめくこの永楽に、また春がやってきた。
紅蘭にとっては十五度目の春。赤ん坊のころ、ここ群芳院の楼主に拾われてから、すでに十五年が経っていた。
「えっと……」
群芳院の雑役として働くのももう長い。指先は掃除や洗濯で荒れているし、服は地味で動きやすさを重視した紺の一着のみ。それも随分着古している。
そんな、どこからどう見ても下働きな彼女の前に今、二人の客人が叩頭していた。
それだけでも意味が分からないのに、彼らはさらにこう言うのだ。紅蘭が、隣国曼華国の公主であると。
「こ、公主ってもしかして、お城のお姫様のことですか……?」
おそるおそる、紅蘭は自分の目前で平伏する二人に問いかける。茶器をのせた盆と、脱いだ頭巾を持つ手が、これでもかと震えた。
「それ以外に何がございましょう」
そのうち一人がわずかに顔を上げ、紅蘭を見上げる。金に輝く髪から覗く翡翠の瞳が、まるで獲物を狙う鷲のように彼女をとらえた。
「曼華国第一公主、紅蘭様。お迎えに上がりました」
そうはっきりと、男は告げる。紅蘭の頭は、もうそれだけで真っ白になってしまった。声が、かすれる。
「ひ、」
「ひ?」
「人違いですっ!」
「っ!待ちなさい!」
茶器と頭巾を乱雑に机の上へ放り出し、紅蘭はすばやく背をむけ部屋から逃げ出した。背後から焦る男の声が追いかけるが、足を止める余裕はない。彼女は、おそらくこの時、人生で一番混乱していた。
(私が、私が公主って、一体どうなってるの!?)
逃げに徹しながらも、紅蘭は、事に至った経緯を何とか思い出そうと頭を働かせたのだった。
---
今日はいつも通りの平和な一日、そのはずだったのだ。
鶏が鳴くのと同時に起き、妓女たちの衣装の洗濯や、群芳院の清掃を行う。たまに楼主様や妓女におつかいを頼まれては、市場に赴き値切れるだけ値切ってみる。余ったお金は自分の懐に入るからだ。考えてみれば、今日は別段、奇妙なことが起きたわけでもない。その夜、群芳院が店を開くまでは。
「楼主様、ごきげんですね!」
めずらしく、という言葉を飲み込んで、紅蘭は台所へやってきた楼主様に笑いかけた。40過ぎの、気の強いツリ目の美人である彼女は、妓女たちを差し置いて客から密かに人気を得ている。だが、商売敵が近くに何軒もいるこの永楽で、楼主様はいつも客の奪い合い、果ては人気妓女の奪い合いをしているので、常にピリピリと近寄りがたい。そんな彼女が、今宵は何やらニコニコと上機嫌だ。
「ああ、紅蘭! 聞いとくれ、うちにさっき上客が入ったんだよ!」
「上客、ですか?」
「大金をぶらさげて店に入ってきた二人組さ! 娘っ子を探しているみたいだけど、きっと誰か買いたい子でもいるんだろうねえ。 うちの子は安くないよって言ったら、あり金全部やるから探させてくれってさ!とりあえず一番値の張る部屋に案内して、一人ずつ会わせてるんだ」
興奮冷めぬ様子でまくしたてる楼主様の言葉に、紅蘭は思わず「ええ!」と驚いた。
「買う……ってつまり、一生その人のものになるってことですよね? その方は誰かお気に入りの妓女さんでもいるんですか?」
「いや、それが今回が初来店なんだよ。 まあ大方、町でばったり会って惚れたとかそんなもんだろう。 ーーそんなことより、せっかくうちにいらっしゃったんだ。 巻き上げるだけ巻き上げてやろうじゃないか!」
そう口にする楼主様の瞳は輝いている。青楼経営者の例に漏れなく、金に目がない。
紅蘭は苦笑を禁じ得ないのを自覚しながらも、「お茶を出してきますね」と茶器を手に取った。
「出すのは香茶にしておくれ。一番上の棚にあるやつさ」
「はい、楼主様」
茶葉の入った檜の箱を手に取り、盆にのせる。厨房から出ようとした際、「くれぐれも粗相のないように!」と飛んできた楼主様の声に、紅蘭の背筋は自然と伸びた。
---
群芳院には二十六の小部屋がある。そのうち、一番値の張る部屋は「博雅の間」と呼ばれ、滅多に人を招き入れない。紅蘭も、一年に何回かの掃除で訪れるだけだ。ほかの部屋に比べて圧倒的に広いし、品のある装飾品が飾られ、大きな窓からは永楽の町も一望できる。その部屋に入った方に、茶を届ける。それだけでも、紅蘭は心臓が急速に早まる思いがした。
博雅の間に向かうと、部屋の前には群芳院の妓女たちがずらり並んでいる。煌びやかな彼女たちが一斉に集うと、その美しさも倍増しだ。紅蘭の姿を認めると、そのうち何人かが「紅ちゃん!」と声をかけてきた。
「雲彫様にお茶をお出しするのね?」
「雲彫さま?」
「あらやだ、この部屋を借りた方のお名前よ。 それに連れの女の子が一人。名乗ってはくれなかったけど」
「はあ……」
そんなことを話していると、突然部屋の扉が乱暴に開かれ、妓女の一人が飛び出してきた。群芳院で一二を争う人気妓女だ。そんな彼女が、琴を片手に握りながら、目を赤くして扉の向こうへ怒鳴り散らすではないか。
「ひどい、ひどいわっ!」
そして逃げるように走っていった彼女を、その場にいる紅蘭らは目を丸くしてみていた。一人の妓女が、ぽつりとつぶやく。
「これで六人目よ…」
見ると妓女たちの顔は青ざめている。楼主様の命とは言え、こう何人も泣いて出てきたのだ、尻込みもするだろう。
「紅ちゃん、あなた先にお茶をお出しして! ……で、どんな人だったか教えてくれない?このままじゃ怖くて中に入れないわ!」
一番前に並んでいた妓女が、怯えた瞳で紅蘭にすがる。ほかの妓女たちもうんうんと頷いてきた。
「わ、私がですか?」
「「「おねがいっ!!」」」
そう異口同音で頼まれては、断れない。ぎゅっと盆を握った紅蘭は、「わかりました!」と扉に向かった。
そして、覚悟を決めて扉を開けた。
今思えばそれが、すべての始まりだったのだ。
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