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第16話 中間管理職の管理職
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風呂で汗を流し、いつの間にか英凛が用意してくれていた新しい衣服に着替えて、書斎へ戻ろうとした私は、中庭の光景に思わず足を止めた。
貞然は木陰の椅子に座って早速何か書いている。想像するに、さっきの手合わせを早くも文章化しているのだろう。それはいい。
問題は――英凛と翔星だ。統健はこういう時には場を盛り上げる役になるのだが、なんだか英凛と翔星の距離が妙に近い。
翔星が英凛の耳元に何か囁いて。
それで英凛がくすくすと笑った。
……なんだろう、この言葉にできないもやもやした気持ちは。
私は貞然と違って言葉で表すのは得意ではないのだ。
だが二人を見ていると似合いの男女とはこういう風なのだろうな、と思う。まさしく美男美女で年齢的にも釣り合いが取れている。
英凛がこうやって年の近い男と親しんで、それで恋心を抱いたとしても、私に止める権利などないし、それは祝福すべきことなのだろう。
翔星ならば、若手の出世頭で家も名門だし、これ以上ないほどの嫁ぎ相手であることは間違いない。間違いはないのだが……
「あ、旦那様」
私に気づいた英凛が、ぱっと顔をあげていつもの笑顔で寄り添ってくることに、どこかホッとした。
「翔星様たちから、旦那様の辺境でのご活躍ぶりをお聞きしてたんです」
「どうせまた誇張しただろう、お前ら」
「いやいや、そのままを話しただけっすよ。よ、熊撃将軍!」
「はぁ……それな、別に熊を討ち取った訳では……」
久しぶりに聞いたあだ名にため息をついて訂正しようとしたところ、思わぬ真実がもたらされた。
「え、この異名って辺境だと副将軍が髭を伸ばしっ放しで熊みたいだったから、熊が撃って出てきた、って敵がビビってつけたって聞きましたよ、私は」
「え……」
「そうっす! 副将軍が出陣すると、熊が出たぞー!って敵が逃げてくから……」
「私は猛獣か!」
「似たようなもんっす! マジ、国境あたりの村だと子供が泣き喚いてる時に、『いい子にしないと牙燎が来るぞ!』って言うと泣き止むって聞いたっすよ」
「人を何だと思ってるんだ……」
今更そんな真実は知りたくなかった……。確かに辺境にいた時は髭を剃るのが面倒で伸ばしたままにしていたが、熊とか子供が泣き止むとか……。迷い込んだ熊がいたら殺さずに追い払うし、泣いた子供がいたらあやしてやるほどには温厚な人間だぞ、私は。
「まあ、じゃあ今の旦那様とは随分違っていたんですね」
「そうっすね、もっとこう野性味溢れるっていうかむしろ野生に帰ってるっていうか。久しぶりにお会いしたら妙に小綺麗になってて、誰⁉︎って感じだったっす」
「統健、そこは男ぶりが上がったって言っておけばいいものを……」
「お前らな……」
「見てみたかったです、そんな旦那様」
あんな姿は英凛には見せられない、と思った。もう男所帯だから基本的に薄汚れてるし、血とか汗とかその他諸々に塗れてるし、風呂とか満足に入ってないし。
それに『鬼神』と言われるのは気恥ずかしいが、戦場に出れば私は人が変わったようになる。冷静に敵を無差別に屠る鬼と化すのだから、やはりそんな姿も見せられない。
花の香りがして、ふわふわとどこもかしこも柔らかくて、傷一つない白い肌の英凛が、その大きな瞳に映すべき世界ではない。
辺境で万年副将軍である未来のない私などよりは、翔星の方がよっぽど有望だ。おそらく将来は父親の後を継いで首都勤務の方に回るだろう。そうなれば血と汗と泥とは無縁な生活になるし、無駄に傷が増えていくこともなかろう。
英凛には翔星のような若者こそふさわしい。
そうすれば、夫が辺境から七年も帰ってこないとか、死に目にも会えないなんてことはなくなるのだから。
きっと、そうだ。
***
翔星たちが帰っていた後、私は厨房にいた英凛を食堂へと呼び寄せた。
「何ですか、旦那様。お夕食に食べたいものがあるなら早めに仰ってくださいね」
「いや、英凛の作ってくれるものは何でも美味しいから、むしろ今夜は何かと想像する方が楽しいのでそれはいいんだが……少し話があって」
私は何となく英凛の顔が直視できなくて、斜め下を見ながら切り出す。
「その……彼らはどうだった」
「え?」
「翔星は文武両道だし、家柄もしっかりしていて若手の出世頭だ。顔立ちも整っているし、性格は真面目で爽やか。私などよりはよっぽど気が利いている。浮いた噂も聞かないし、どうかと思って……」
「旦那様……」
「統健も悪くないぞ。本人は身長のせいで縁談話が来ないと嘆いているが、彼も根は真面目で面倒見がいい。おちゃらけたところがあるのは、病弱だった妹を励ますためだそうだ。彼ならば女性や弱い者にも優しいし、きっと私よりもずっとマメだろう」
何だか喋っているうちに益々英凛が見れなくなってきて、ついに私は立ち上がって中庭の見える格子窓の側へと立った。英凛には背を向けて。
「貞然はまぁ……流石に英凛とは合わないだろうが、西部方面軍の若手部隊長ともなれば皆しっかりした者たちだ。誰か好みの者でもいれば……」
「旦那様」
英凛の呼びかけにびくりと肩を揺らす。恐る恐る振り返ると、そこには表情の抜け落ちた英凛がいた。うわ、滅茶苦茶怖い。これはかなり怒ってる。
「私の後見人は旦那様です。ですから、旦那様が他の殿方に嫁げと仰るなら私は拒否できません」
そうだった。忘れていたが、私は英凛の後見人でもあった。
奉直が亡くなったのが五年前。その時、英凛はまだ十五歳で成人もしていなかったので、後見人を引き受けた。
身分のある洋嘉の方が良いのではないかと言ったのだが、奉直の遺言は「英凛を頼む」だった。
女性の結婚は、本人たちの問題だけではなく家と家の問題が大きく絡む。故に本人の意思などお構いなしに、親や後見人が結婚相手を強制的に決めることも珍しくない。
だからこそ実際は離婚状態の夫婦がいたり、結婚後に妾を持つ夫がいたりするのだが……
「旦那様は、人の気持ちは簡単には変えられないと仰いました。私も今のところ心変わりするほどの殿方には出会えていません」
なので、と前置きして英凛はにっこりと笑った。あ、嫌な予感がする。
「私を他の殿方に無理矢理嫁がせても、どんな手を使ってでも旦那様をいただきに参りますよ」
……ものすごく容易に想像できて私はがっくりと肩を落とした。
私も英凛もそれぞれ別の相手と結婚している未来。けれども英凛は何食わぬ顔で我が家へやって来て、私は拒否するも抗いきれずに結局美味しく食べられてしまう未来。
お互いに不倫するという最悪の結末じゃないか……。
あれ、これもう諦めたほうがいいのかな……。
だが、諦めかけた私とは対照的に未来に希望を抱いてしまった若者がいた。
翔星だ。
彼は英凛に一目惚れしてしまったらしい。
まずは先日の剣の礼を持ってきたと言って我が家に来た。ついで、なんて白々しく言いながら英凛にも土産の菓子を持ってきた。
それから二日と開けずに我が家へ来る。
一応、名目は私との手合わせのため、だ。実際に手合わせもしているが、今のところ私の全勝で一本取れそうな気配がない。
何しろ英凛が観戦していると、気もそぞろになっているから。
多分、英凛が見ているのは私(とその筋肉)だと思うのだが……。
我が家に来るたびに、菓子やら花やら髪飾りやらと言ったちょっとした贈り物を携えて、少しだけ英凛と話をして帰っていく。いきなり迫らないのが翔星らしいと言えばらしいが、英凛がにこやかに対応してくれているのに気を良くしているようだ。
だがしかし、あの笑顔は多分社交辞令の笑顔だぞ……。
素で笑った時の英凛はもっと可愛いからな。
そんな訳で英凛の周りには何かと翔星がまとわりつくようになり、何だか私は消化不良でも起こしたようにもやもやとした気持ちが堆積していったのである。
***
「英凛、少し出かけてくる」
「どちらへ行かれるんですか、旦那様」
私は厨房にいた英凛にそう声をかけた。
「洋嘉のところだ」
「お仕事ですか?」
「いや……だが遅くなるかもしれないから夕食はいらない」
「あら……分かりました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
別に洋嘉に用事があった訳ではない。ただ、なんとなく飲みたい気分になったのだ。昔はこういう時は奉直がいたのだが、今はそういうわけにはいかない。あんな奴でも酒のつまみ程度にはなる。
私は手土産代わりの酒瓶を一つぶら下げて洋嘉の屋敷へと向かった。
***
「……珍しいね、君が飲みにくるなんて。どういう風の吹きまわし?」
「そういう時もある」
洋嘉の書斎へ着くなり、どんと酒瓶を円卓の上へ置いた。私は飲まない訳ではないが、酒がなくとも生きていける、そういう人種である。奉直みたいに酒がないと死んでしまう奴とは違う。
「君んとこから貰った剣さー評判は上々だよ」
「それは良かった」
「縁談は上手くいかなかったけど、いい縁が出来たんだから、まあ結果的には良かったんじゃない」
「そうだな」
相槌がわりにぐい、と酒を煽る。貯蔵している酒の中でもそれなりにいい酒を選んで持ってきたはずだが、なんだかあんまり美味しくない。
「で、珍しく君がぐいぐい煽ってる理由は、最近君んところに入り浸ってる君の副官君の件かな?」
「ぐ…………」
いきなり直球で本題をぶち込まれて咽せそうになる。コイツは人に気をつかうって言葉を知らんのか。
「……翔星が英凛を気にいったらしい」
「わぁ、お似合いの二人だよねー。美男美女で、年齢的にもちょうどいいし」
「……そう思う」
「翔星の家なら将来も安泰だしね」
「……そうだな」
「じゃあなんで僕を殺しそうな凶悪な顔してんのさ」
「む……」
そんな表情をした覚えはない。が、洋嘉がそう言うのならきっとそうなのだろう。
「私の顔が怖いのは生まれつきだ」
「何が気にいらないのさ」
「それが分からんからここに来たんだ」
もう一口、ぐいと煽って飲み干した。手酌でどぼどぼと酒を注ぐ。それも一息に飲み干す。
「え……ちょ、君、そこまで強い方じゃ……」
「今日は飲むつもりで来た」
「うわー……もう目が据わってるぅ……飲むなら奥さんたちとがいいよぅ……こんなむさ苦しいおっさんの愚痴は嫌だぁああ!」
洋嘉が何か喚いていたが、とりあえず奴の杯も酒で満たした。
「……だから、英凛は生半可な相手にはやれんのだ!」
「うんうん、でもそれさっきから三回は聞いたからね?」
「あのバカ奉直がさっさとくたばってしまったから、私が父親代わりになって良い相手を見つけてやらんと」
「うん、それも何回目だか分からないね」
なんだか洋嘉がぼんやりとして見える。まあ、こいつはいつもこんなんだ。
「で、その相手が翔星じゃダメな訳? 文武両道、性格・見た目・家柄良し。非の打ち所がないよ?」
「あんな奴! 私から一本も取れんではないか!」
「……君から一本取れる奴は、大陸広しと言えどもそういないと思うよ」
「それに体つきが貧弱だ」
「いや、翔星は武人としては普通だからね? 君が規格外なだけだからね?」
「英凛は、奉直より私の背中が好きだ」
「君たち二人とも基準がおかしいから! ああああ! もうこの酔っ払いめんどくさっ!」
洋嘉がなにやらぶつくさ言っている。顔しか取り柄がないんだから黙って話を聞いて欲しい。
「じゃあさ、翔星でも駄目だって言うなら、一体どんな奴なら英凛を嫁がせられるのさ⁉︎」
「む…………」
「君から一本取れるほど強くて、君みたいな体格で、君と同じくらい英凛を大切に想ってくれる人なんて……君しかいないと思うけどね」
「………………」
そう、思う。
何者からも英凛を守れるほど強くて。
英凛の大好きな逞しい身体と広い背中を持っていて。
英凛の頭の良さを理解していて。
あの性格も、最近はちょっと可愛いんじゃないかな、と思い始めていて。
多分、そんな奴は私しかいない。
貞然は木陰の椅子に座って早速何か書いている。想像するに、さっきの手合わせを早くも文章化しているのだろう。それはいい。
問題は――英凛と翔星だ。統健はこういう時には場を盛り上げる役になるのだが、なんだか英凛と翔星の距離が妙に近い。
翔星が英凛の耳元に何か囁いて。
それで英凛がくすくすと笑った。
……なんだろう、この言葉にできないもやもやした気持ちは。
私は貞然と違って言葉で表すのは得意ではないのだ。
だが二人を見ていると似合いの男女とはこういう風なのだろうな、と思う。まさしく美男美女で年齢的にも釣り合いが取れている。
英凛がこうやって年の近い男と親しんで、それで恋心を抱いたとしても、私に止める権利などないし、それは祝福すべきことなのだろう。
翔星ならば、若手の出世頭で家も名門だし、これ以上ないほどの嫁ぎ相手であることは間違いない。間違いはないのだが……
「あ、旦那様」
私に気づいた英凛が、ぱっと顔をあげていつもの笑顔で寄り添ってくることに、どこかホッとした。
「翔星様たちから、旦那様の辺境でのご活躍ぶりをお聞きしてたんです」
「どうせまた誇張しただろう、お前ら」
「いやいや、そのままを話しただけっすよ。よ、熊撃将軍!」
「はぁ……それな、別に熊を討ち取った訳では……」
久しぶりに聞いたあだ名にため息をついて訂正しようとしたところ、思わぬ真実がもたらされた。
「え、この異名って辺境だと副将軍が髭を伸ばしっ放しで熊みたいだったから、熊が撃って出てきた、って敵がビビってつけたって聞きましたよ、私は」
「え……」
「そうっす! 副将軍が出陣すると、熊が出たぞー!って敵が逃げてくから……」
「私は猛獣か!」
「似たようなもんっす! マジ、国境あたりの村だと子供が泣き喚いてる時に、『いい子にしないと牙燎が来るぞ!』って言うと泣き止むって聞いたっすよ」
「人を何だと思ってるんだ……」
今更そんな真実は知りたくなかった……。確かに辺境にいた時は髭を剃るのが面倒で伸ばしたままにしていたが、熊とか子供が泣き止むとか……。迷い込んだ熊がいたら殺さずに追い払うし、泣いた子供がいたらあやしてやるほどには温厚な人間だぞ、私は。
「まあ、じゃあ今の旦那様とは随分違っていたんですね」
「そうっすね、もっとこう野性味溢れるっていうかむしろ野生に帰ってるっていうか。久しぶりにお会いしたら妙に小綺麗になってて、誰⁉︎って感じだったっす」
「統健、そこは男ぶりが上がったって言っておけばいいものを……」
「お前らな……」
「見てみたかったです、そんな旦那様」
あんな姿は英凛には見せられない、と思った。もう男所帯だから基本的に薄汚れてるし、血とか汗とかその他諸々に塗れてるし、風呂とか満足に入ってないし。
それに『鬼神』と言われるのは気恥ずかしいが、戦場に出れば私は人が変わったようになる。冷静に敵を無差別に屠る鬼と化すのだから、やはりそんな姿も見せられない。
花の香りがして、ふわふわとどこもかしこも柔らかくて、傷一つない白い肌の英凛が、その大きな瞳に映すべき世界ではない。
辺境で万年副将軍である未来のない私などよりは、翔星の方がよっぽど有望だ。おそらく将来は父親の後を継いで首都勤務の方に回るだろう。そうなれば血と汗と泥とは無縁な生活になるし、無駄に傷が増えていくこともなかろう。
英凛には翔星のような若者こそふさわしい。
そうすれば、夫が辺境から七年も帰ってこないとか、死に目にも会えないなんてことはなくなるのだから。
きっと、そうだ。
***
翔星たちが帰っていた後、私は厨房にいた英凛を食堂へと呼び寄せた。
「何ですか、旦那様。お夕食に食べたいものがあるなら早めに仰ってくださいね」
「いや、英凛の作ってくれるものは何でも美味しいから、むしろ今夜は何かと想像する方が楽しいのでそれはいいんだが……少し話があって」
私は何となく英凛の顔が直視できなくて、斜め下を見ながら切り出す。
「その……彼らはどうだった」
「え?」
「翔星は文武両道だし、家柄もしっかりしていて若手の出世頭だ。顔立ちも整っているし、性格は真面目で爽やか。私などよりはよっぽど気が利いている。浮いた噂も聞かないし、どうかと思って……」
「旦那様……」
「統健も悪くないぞ。本人は身長のせいで縁談話が来ないと嘆いているが、彼も根は真面目で面倒見がいい。おちゃらけたところがあるのは、病弱だった妹を励ますためだそうだ。彼ならば女性や弱い者にも優しいし、きっと私よりもずっとマメだろう」
何だか喋っているうちに益々英凛が見れなくなってきて、ついに私は立ち上がって中庭の見える格子窓の側へと立った。英凛には背を向けて。
「貞然はまぁ……流石に英凛とは合わないだろうが、西部方面軍の若手部隊長ともなれば皆しっかりした者たちだ。誰か好みの者でもいれば……」
「旦那様」
英凛の呼びかけにびくりと肩を揺らす。恐る恐る振り返ると、そこには表情の抜け落ちた英凛がいた。うわ、滅茶苦茶怖い。これはかなり怒ってる。
「私の後見人は旦那様です。ですから、旦那様が他の殿方に嫁げと仰るなら私は拒否できません」
そうだった。忘れていたが、私は英凛の後見人でもあった。
奉直が亡くなったのが五年前。その時、英凛はまだ十五歳で成人もしていなかったので、後見人を引き受けた。
身分のある洋嘉の方が良いのではないかと言ったのだが、奉直の遺言は「英凛を頼む」だった。
女性の結婚は、本人たちの問題だけではなく家と家の問題が大きく絡む。故に本人の意思などお構いなしに、親や後見人が結婚相手を強制的に決めることも珍しくない。
だからこそ実際は離婚状態の夫婦がいたり、結婚後に妾を持つ夫がいたりするのだが……
「旦那様は、人の気持ちは簡単には変えられないと仰いました。私も今のところ心変わりするほどの殿方には出会えていません」
なので、と前置きして英凛はにっこりと笑った。あ、嫌な予感がする。
「私を他の殿方に無理矢理嫁がせても、どんな手を使ってでも旦那様をいただきに参りますよ」
……ものすごく容易に想像できて私はがっくりと肩を落とした。
私も英凛もそれぞれ別の相手と結婚している未来。けれども英凛は何食わぬ顔で我が家へやって来て、私は拒否するも抗いきれずに結局美味しく食べられてしまう未来。
お互いに不倫するという最悪の結末じゃないか……。
あれ、これもう諦めたほうがいいのかな……。
だが、諦めかけた私とは対照的に未来に希望を抱いてしまった若者がいた。
翔星だ。
彼は英凛に一目惚れしてしまったらしい。
まずは先日の剣の礼を持ってきたと言って我が家に来た。ついで、なんて白々しく言いながら英凛にも土産の菓子を持ってきた。
それから二日と開けずに我が家へ来る。
一応、名目は私との手合わせのため、だ。実際に手合わせもしているが、今のところ私の全勝で一本取れそうな気配がない。
何しろ英凛が観戦していると、気もそぞろになっているから。
多分、英凛が見ているのは私(とその筋肉)だと思うのだが……。
我が家に来るたびに、菓子やら花やら髪飾りやらと言ったちょっとした贈り物を携えて、少しだけ英凛と話をして帰っていく。いきなり迫らないのが翔星らしいと言えばらしいが、英凛がにこやかに対応してくれているのに気を良くしているようだ。
だがしかし、あの笑顔は多分社交辞令の笑顔だぞ……。
素で笑った時の英凛はもっと可愛いからな。
そんな訳で英凛の周りには何かと翔星がまとわりつくようになり、何だか私は消化不良でも起こしたようにもやもやとした気持ちが堆積していったのである。
***
「英凛、少し出かけてくる」
「どちらへ行かれるんですか、旦那様」
私は厨房にいた英凛にそう声をかけた。
「洋嘉のところだ」
「お仕事ですか?」
「いや……だが遅くなるかもしれないから夕食はいらない」
「あら……分かりました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
別に洋嘉に用事があった訳ではない。ただ、なんとなく飲みたい気分になったのだ。昔はこういう時は奉直がいたのだが、今はそういうわけにはいかない。あんな奴でも酒のつまみ程度にはなる。
私は手土産代わりの酒瓶を一つぶら下げて洋嘉の屋敷へと向かった。
***
「……珍しいね、君が飲みにくるなんて。どういう風の吹きまわし?」
「そういう時もある」
洋嘉の書斎へ着くなり、どんと酒瓶を円卓の上へ置いた。私は飲まない訳ではないが、酒がなくとも生きていける、そういう人種である。奉直みたいに酒がないと死んでしまう奴とは違う。
「君んとこから貰った剣さー評判は上々だよ」
「それは良かった」
「縁談は上手くいかなかったけど、いい縁が出来たんだから、まあ結果的には良かったんじゃない」
「そうだな」
相槌がわりにぐい、と酒を煽る。貯蔵している酒の中でもそれなりにいい酒を選んで持ってきたはずだが、なんだかあんまり美味しくない。
「で、珍しく君がぐいぐい煽ってる理由は、最近君んところに入り浸ってる君の副官君の件かな?」
「ぐ…………」
いきなり直球で本題をぶち込まれて咽せそうになる。コイツは人に気をつかうって言葉を知らんのか。
「……翔星が英凛を気にいったらしい」
「わぁ、お似合いの二人だよねー。美男美女で、年齢的にもちょうどいいし」
「……そう思う」
「翔星の家なら将来も安泰だしね」
「……そうだな」
「じゃあなんで僕を殺しそうな凶悪な顔してんのさ」
「む……」
そんな表情をした覚えはない。が、洋嘉がそう言うのならきっとそうなのだろう。
「私の顔が怖いのは生まれつきだ」
「何が気にいらないのさ」
「それが分からんからここに来たんだ」
もう一口、ぐいと煽って飲み干した。手酌でどぼどぼと酒を注ぐ。それも一息に飲み干す。
「え……ちょ、君、そこまで強い方じゃ……」
「今日は飲むつもりで来た」
「うわー……もう目が据わってるぅ……飲むなら奥さんたちとがいいよぅ……こんなむさ苦しいおっさんの愚痴は嫌だぁああ!」
洋嘉が何か喚いていたが、とりあえず奴の杯も酒で満たした。
「……だから、英凛は生半可な相手にはやれんのだ!」
「うんうん、でもそれさっきから三回は聞いたからね?」
「あのバカ奉直がさっさとくたばってしまったから、私が父親代わりになって良い相手を見つけてやらんと」
「うん、それも何回目だか分からないね」
なんだか洋嘉がぼんやりとして見える。まあ、こいつはいつもこんなんだ。
「で、その相手が翔星じゃダメな訳? 文武両道、性格・見た目・家柄良し。非の打ち所がないよ?」
「あんな奴! 私から一本も取れんではないか!」
「……君から一本取れる奴は、大陸広しと言えどもそういないと思うよ」
「それに体つきが貧弱だ」
「いや、翔星は武人としては普通だからね? 君が規格外なだけだからね?」
「英凛は、奉直より私の背中が好きだ」
「君たち二人とも基準がおかしいから! ああああ! もうこの酔っ払いめんどくさっ!」
洋嘉がなにやらぶつくさ言っている。顔しか取り柄がないんだから黙って話を聞いて欲しい。
「じゃあさ、翔星でも駄目だって言うなら、一体どんな奴なら英凛を嫁がせられるのさ⁉︎」
「む…………」
「君から一本取れるほど強くて、君みたいな体格で、君と同じくらい英凛を大切に想ってくれる人なんて……君しかいないと思うけどね」
「………………」
そう、思う。
何者からも英凛を守れるほど強くて。
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