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第1章 獣の檻
第39話 旅立つ日
しおりを挟む翠蓮は東の方、宮城の、そして世界の中心たる太極宮のあたりの黄色い甍屋根を眺めていた。
ここのところもうずっと、宮城内は落ち着かない。
原因は皇帝の不調にあった。
皇帝は度重なる甖子粟の摂取により少しずつ衰弱していた。
幻覚や幻聴が頻繁に起こり、朝儀の場で奇行が増えた結果、一時的に朝廷から離れ、太子である琰単が政務を代行している。
皇帝は著しく体重が減少し、かつてのような威厳を補うために、公式の場へ出るときには何枚もの衣装を重ねる必要があった。錯乱して意味のわからない言葉をまき散らして暴れ回ったり、反対に魂が抜けたように虚脱状態に陥って周囲の言葉は耳に入らない、と両極端な症状を繰り返している。太極宮に勤める宦官や女官はみな戦々恐々としていた。
皇帝の侍医を務める太医令は、今まで見たことがないような病状に、なにかの外的影響を疑っているようだったが、皇帝が食べるものはすべて厳重に管理され、今では何人もの毒味係がつく。
そうまでしても口からだらだらと食べ物をこぼしたり、そうかと思えば犬のように皿にかじりついて尋常ではない量を貪り、そして嘔吐する。
理性の箍が外れた獣と、知性を手放した生ける屍が、そこにはあった。
「……皇帝も、まさか自分がすすってる女の股から毒を仕込まれているだなんて、思いもしないでしょうね」
「まったくです」
髪を梳いてくれている渓青に、翠蓮はそう言って嗤った。
翠蓮の口元には微笑が浮かんでいるが、後宮は絶望的な雰囲気に包まれていた。
後宮にいる妃嬪たちは、皇帝が死ぬと髪を削いで尼となり、俗世との縁を断つのだ。妃嬪や宮女にはまだ年若い者も多くいる。残りの長い生を尼として生きねばならぬということが彼女たちの表情を暗いものにしていた。
女官たちも似たり寄ったりの状況だ。彼女たちは尼になって辞職することはないが、現在の皇帝の世話はよく訓練された者たちにとっても耐えがたいものであった。
太極宮付きの女官といえば、通常は女官の中の花形であり、もっとも競争が激しい部署である。それはあわよくば皇帝の目に留まり……という欲望を一番叶えやすい場所だからだ。
けれどもそんな女官たちも最近では配置換えを願ったり、辞職を願う者が後をたたないという。
反対に、東宮の女たちはにわかに活気づいているのだという。未来の皇后たる琰単の東宮妃はすでに決定しているが、それ以外の位に誰がつくのか姦しく噂が飛び交い、一部では予想に対して賭け事まで行われているらしい。
琰単もまた同様であった。
いよいよこの時がきたとばかりに、いつになく精力的に政務をこなしている。渓青から言わせれば、それでさえもお粗末な状態だそうだ。重臣たちが気をつかって奏上した意見を、さも自分の意見かのように繰り返し、そしてもったいぶって重々しく頷いているだけらしい。
見識ある者たちは、そこに未来の惨状を容易に想像でき、早々に宮廷を離れるものさえいた。
とにもかくにも、黄色い瑠璃瓦と紅い城壁の内側で、皇帝の病状を憐み、回復を願うものは皆無といってよかった。
みな自分の行く末がどうなるのか、それだけに翻弄されていた。
***
柳の葉がすっかり落ちきった曇天の日、皇帝が崩御した。
体は骨と皮だけのように痩せ細っていたが、幻覚や幻聴に錯乱してその日も奇声が寝所からはあがりつづけていた。もはやそんな状態の皇帝を恐れ、宦官も女官も、そして太医令さえも寝室には近づかない。
やがて奇声が止んだので、宦官が一人そうっと入室すると、皇帝は床をのたうちまわり、汚物を撒き散らしたまま絶命していた。
「……誰にも看取られず、栄華を誇る王朝の皇帝らしくない、酷く惨めな最期だったそうですよ」
渓青がそっと暖かい毛織りの外套を翠蓮に羽織らせながら嗤う。
「……まずは一人目」
翠蓮は微笑する。
後宮からの退居を伝えにきた渓青に、翠蓮はふと尋ねてみた。
「……渓青はもちろんこのまま後宮に残ることもできますが、どうしますか?」
翠蓮の言葉に渓青は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべ、そして苦笑して言った。
「私が翠蓮様のおそばを離れたら、だれが手引きをするのでしょうか」
「……それもそうですね」
翠蓮は微笑んでいったが、渓青ももう少し焦ったり翠蓮と離れたくないくらいは言ってくれたらいいのに、と嘆息した。
汚れ、淀みきった後宮の中で、渓青だけがいつも恬淡として変わらない。ただ、翠蓮のそばにあって確実にきっちりと「仕事を」こなす。それが嬉しくもあり、もの寂しくもあった。
翠蓮は渓青に片手を引かれ、もう片方の手は大切そうに腹部をさすりながら、紅蓮の壁に包まれた牢獄の門を自らの意思で出た。
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