39 / 75
第1章 獣の檻
第39話 旅立つ日
しおりを挟む翠蓮は東の方、宮城の、そして世界の中心たる太極宮のあたりの黄色い甍屋根を眺めていた。
ここのところもうずっと、宮城内は落ち着かない。
原因は皇帝の不調にあった。
皇帝は度重なる甖子粟の摂取により少しずつ衰弱していた。
幻覚や幻聴が頻繁に起こり、朝儀の場で奇行が増えた結果、一時的に朝廷から離れ、太子である琰単が政務を代行している。
皇帝は著しく体重が減少し、かつてのような威厳を補うために、公式の場へ出るときには何枚もの衣装を重ねる必要があった。錯乱して意味のわからない言葉をまき散らして暴れ回ったり、反対に魂が抜けたように虚脱状態に陥って周囲の言葉は耳に入らない、と両極端な症状を繰り返している。太極宮に勤める宦官や女官はみな戦々恐々としていた。
皇帝の侍医を務める太医令は、今まで見たことがないような病状に、なにかの外的影響を疑っているようだったが、皇帝が食べるものはすべて厳重に管理され、今では何人もの毒味係がつく。
そうまでしても口からだらだらと食べ物をこぼしたり、そうかと思えば犬のように皿にかじりついて尋常ではない量を貪り、そして嘔吐する。
理性の箍が外れた獣と、知性を手放した生ける屍が、そこにはあった。
「……皇帝も、まさか自分がすすってる女の股から毒を仕込まれているだなんて、思いもしないでしょうね」
「まったくです」
髪を梳いてくれている渓青に、翠蓮はそう言って嗤った。
翠蓮の口元には微笑が浮かんでいるが、後宮は絶望的な雰囲気に包まれていた。
後宮にいる妃嬪たちは、皇帝が死ぬと髪を削いで尼となり、俗世との縁を断つのだ。妃嬪や宮女にはまだ年若い者も多くいる。残りの長い生を尼として生きねばならぬということが彼女たちの表情を暗いものにしていた。
女官たちも似たり寄ったりの状況だ。彼女たちは尼になって辞職することはないが、現在の皇帝の世話はよく訓練された者たちにとっても耐えがたいものであった。
太極宮付きの女官といえば、通常は女官の中の花形であり、もっとも競争が激しい部署である。それはあわよくば皇帝の目に留まり……という欲望を一番叶えやすい場所だからだ。
けれどもそんな女官たちも最近では配置換えを願ったり、辞職を願う者が後をたたないという。
反対に、東宮の女たちはにわかに活気づいているのだという。未来の皇后たる琰単の東宮妃はすでに決定しているが、それ以外の位に誰がつくのか姦しく噂が飛び交い、一部では予想に対して賭け事まで行われているらしい。
琰単もまた同様であった。
いよいよこの時がきたとばかりに、いつになく精力的に政務をこなしている。渓青から言わせれば、それでさえもお粗末な状態だそうだ。重臣たちが気をつかって奏上した意見を、さも自分の意見かのように繰り返し、そしてもったいぶって重々しく頷いているだけらしい。
見識ある者たちは、そこに未来の惨状を容易に想像でき、早々に宮廷を離れるものさえいた。
とにもかくにも、黄色い瑠璃瓦と紅い城壁の内側で、皇帝の病状を憐み、回復を願うものは皆無といってよかった。
みな自分の行く末がどうなるのか、それだけに翻弄されていた。
***
柳の葉がすっかり落ちきった曇天の日、皇帝が崩御した。
体は骨と皮だけのように痩せ細っていたが、幻覚や幻聴に錯乱してその日も奇声が寝所からはあがりつづけていた。もはやそんな状態の皇帝を恐れ、宦官も女官も、そして太医令さえも寝室には近づかない。
やがて奇声が止んだので、宦官が一人そうっと入室すると、皇帝は床をのたうちまわり、汚物を撒き散らしたまま絶命していた。
「……誰にも看取られず、栄華を誇る王朝の皇帝らしくない、酷く惨めな最期だったそうですよ」
渓青がそっと暖かい毛織りの外套を翠蓮に羽織らせながら嗤う。
「……まずは一人目」
翠蓮は微笑する。
後宮からの退居を伝えにきた渓青に、翠蓮はふと尋ねてみた。
「……渓青はもちろんこのまま後宮に残ることもできますが、どうしますか?」
翠蓮の言葉に渓青は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべ、そして苦笑して言った。
「私が翠蓮様のおそばを離れたら、だれが手引きをするのでしょうか」
「……それもそうですね」
翠蓮は微笑んでいったが、渓青ももう少し焦ったり翠蓮と離れたくないくらいは言ってくれたらいいのに、と嘆息した。
汚れ、淀みきった後宮の中で、渓青だけがいつも恬淡として変わらない。ただ、翠蓮のそばにあって確実にきっちりと「仕事を」こなす。それが嬉しくもあり、もの寂しくもあった。
翠蓮は渓青に片手を引かれ、もう片方の手は大切そうに腹部をさすりながら、紅蓮の壁に包まれた牢獄の門を自らの意思で出た。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる