無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第2章 蠱毒の頂

第6話  波乱の子

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 夏の大嵐の日、翠蓮すいれんは無事に出産した。元気な男の子だった。

 琰単えんたんのものと同じ雪灰色せっかいしょくの髪がうっすらと生えている。それを撫でていると、狂喜乱舞した琰単が肩をびしょびしょに濡らしたまま部屋に駆け込んできた。大雨が回廊に吹き込むのも構わずにやってきたのだろう。

「でかしたぞ、翠蓮!」

 寝台の横の椅子にどかりと腰を下ろした琰単は、「ちんにそっくりであるな!」などと大声で言いながら赤子の頬を撫でる。
 翠蓮はその様子をおとなしく、しかし内心は冷ややかな眼差しで眺めていた。

「なにか欲しいものはないか? なんでも褒美をとらせるぞ!」
「……いえ……なにも…………」

 なんでもと言うのならばおまえの首を寄越せと言ったら、この愚物はどんな顔をするのだろうと翠蓮はひそかに思っていた。

 そのとき、琰単の大きな声と雨で冷えた手に驚いたのだろうか。赤子が小さくむずがった。
 翠蓮はまだ目も開かぬ我が子を胸に抱き寄せ、優しく微笑んであやした。

「……大きな声に驚いてしまいましたか? おお、よしよし……」

 翠蓮が赤子に柔らかに語りかけ、そっと顔を寄せて笑いかけると、子供は安心したのかそれ以上泣き出すことはなく、すぅと寝息を立てた。
 しばらく翠蓮は赤子を優しく見つめていたが、ふとかたわらで硬直している気配を感じて真顔に戻り、琰単のほうを見やった。

「……どうかなさいました?」
「……そなた、初めて笑ったな…………そうか、そなたも笑うのか……」
「え……?」

 琰単は小さくぶつぶつと呟いていて、翠蓮には聞き取れなかった。翠蓮は首を傾げるばかりだったが、琰単はなにか決心したように頷くと、養生せよと言いおいて部屋を出ていった。



   ***



 最愛の翠蓮が待望の男児を産んでから一週間。琰単は執務もそこそこに翠蓮のもとへ通い詰めていた。
 時間さえあれば翠蓮のところへ行きたいというのに、今日も厄介な対外遠征の話が閣議で始まってしまい、琰単は苛立っていた。

 ていの国境の北東辺には旦抹たんまつという民族が国を築いていて、寒さの厳しい年は頻繁に国境を越えて侵入し、人や物資を略奪していく。
 そのため旦抹たんまつの征服は建国以来の悲願だったのだが、悲願ということは簡単には成せないからこそいうのだろう、と琰単はなかばそれを諦めていた。

 なんやかんやと難癖をつけては旦抹たんまつ遠征の話を先送りにし、琰単は閣議もそこそこに翠蓮のもとへ行こうとした。
 すると、実務を司る尚書しょうしょの双璧である、右僕射うぼくや張了進ちょうりょうしんが早速それに噛みつく。

「……陛下、恐れながら申し上げます。陛下は最近、呉昭儀ごしょうぎ様のところへばかり行かれていますが、たまにはりゅう皇后様や荘淑妃しょうしゅくひ様のお顔も見られては?」

 張了進という男は、孫佐儀そんさぎの右腕なのだが、謹厳実直といえば聞こえはいいが言葉を飾るということを知らず、おのれが正しいと信じて疑わない。先帝から後事を託されているという自負が強く、琰単にとっては口うるさい堅物という印象の煙たい相手であった。

 それまで上機嫌だった琰単は、図星を突かれて急に不愉快になった。

ちんは我が子を見に行っているのだ! それのなにが悪い!」
「お子様は皇后様にも淑妃様のところにも……」
「ええぃ! 分からぬやつだな! 皇后のところへ行けば、やれ世継ぎがどうの生活を改めろと煩い。淑妃も同じだ、自分の息子を太子にとそればかりねだってくる。その割には二人とも閨ではつまらぬ。だが翠蓮は違う! なにもねだらず、欲しがらない。それにな……」
「それに……?」
「初めて笑うたのだ。朕はあれと出会ってからあれが笑った顔を見たことがない。だが赤子がおるとあれが笑うのだ。ゆえに邪魔だては不要!」

 そう言い捨てると、琰単は今日も麗涼殿れいりょうでんへ――翠蓮の宮殿へと足早にむかった。


「……面倒なことにならなければ良いがの……」

 そう呟いた張了進の言葉は閣僚たちの心を代弁していたが、それが琰単に届くことはなかった。



   ***



 翠蓮の子はこうと名づけられ、そろそろひと月になろうとしていた。その間、琰単はほぼ翠蓮のもとへしか足を運んでいなかった。皇后や淑妃のところへ行けばさんざん嫌味を言われるに決まっている。そう思えば足は遠のき、むしろなぜ皇帝である自分が気を遣わねばならんのだ、という気分にさえなっていた。

 その日も同じように、翠蓮の宮殿の居間へと入った琰単は、「昭儀様は寝室に……」という女官のいくぶんか慌てた言葉を受けて、訝しく思いながらも寝室の扉を開けた。
 すると寝台に腰かけた翠蓮は、上衣の前をはだけさせ、赤子に乳をやっていた。翠蓮は慌てて胸元を隠し、子を抱いたまま頭を下げる。

「……むずがっていたので乳をあげていたのですが、陛下がいらっしゃると言っても乳房を離してくれなくて……不躾な姿で申し訳ございません」
「いや、かまわぬ……欲しがるのならばそのまま乳を与えよ」
「では……失礼いたします」

 翠蓮は以前よりも柔らかさを増したような白い乳房をさらけ出す。そのまま乳をあげながら、赤子に優しく話しかけ、時折笑みをこぼしていた。
 その様子を見ながら琰単はぽつりと呟く。

「……そなた、こうに直接乳をやっておるのか? 乳母はどうした」
「乳母もおりますが……わたくしの乳が張ったときなどは、せっかくですからあげております」
「そうか……」

 しばらく翠蓮と赤子を見ていた琰単だったが、やがて孝は乳を飲みおわり眠たそうな様子になる。翠蓮は隣室にいる乳母に赤子を預けて戻ってくると、黙ったままの琰単をじっと見つめた。

「……いかがなさいました、陛下?」

 そう問う翠蓮の顔は無表情だ。さきほどまで赤子に見せていた柔らかな微笑みもまなざしもなく、無機質な黒鉄くろがねのような瞳がただ琰単を見て――否、琰単を見てさえいなかった。なにかそこにあるものを眺めているような、そんな風情でさえあった。

 それを見ていた琰単は怒りのようなものがむくむくと湧きあがり、翠蓮の手首を掴むと無理やり寝台に押し倒した。

「陛下っ……やめて、くださ、い……っ……隣に、子が……っ!」
「子ができればそなたは笑うのかっ」
「なにを……っ」
「ならばっ、何度でも、孕ませてやる……っ!」
「やめ……っ!」

 その日、琰単は久しぶりに翠蓮を抱いた。けれども翠蓮の黒水晶のような瞳は、ついぞ琰単を見て柔らかく細められることも、愛しいという感情が浮かぶこともなかった。


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