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第2章 蠱毒の頂

第13話 雪灰色の弟

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 後宮を襲った大津波のような惨事から半月ほど、翠蓮すいれんはようやく「床をあげた」という形をとった。飛ぶようにやってきた琰単えんたんの情けない顔はなかなかの見ものだった、と翠蓮は思いだし笑いをする。

 さすがに翠蓮を気遣ってか、琰単も手を出してはこなかったが、そろそろ餌をくれてやらねばなるまい、とは思う。琰単の思考の本体は下半身にあるから、あまり放置しすぎるとすぐに他の女で済ませようとするのが厄介だ。
 適当に偶然を装って肌の一つでも見せれば、途端に襲いかかってくるのは目に見えていたが。

 講師探しは難航していた。市井しせいならばともかく、宮中の宦官で学識豊かな者、というとかなり限られてくる。渓青けいせいには引き続き伝手を頼って探してもらいながら、仕方なしに翠蓮は書物を取り寄せてそれらを読みふける日々が続いた。



 灯明の明かりがゆらりと揺れた。
 それを機に、翠蓮は今日はここまで、と本を閉じて一つ伸びをする。明日は琰単が来るらしいと渓青から聞いていたので、今日はすこし早めに寝ようと思い、翠蓮は立ち上がった。
 扉を開け、居間のほうで書き仕事をしていた渓青にひと声かける。

「渓青、今夜はそろそろ休みますね」
「かしこまりました」

 渓青が立ち上がったとき、回廊へと続く扉がこんこんと叩かれた。こんな時間に何用だろうと思う。渓青が扉のほうへ向かい、誰何すいかする。

「どなた様でございましょうか」
「翠蓮、ちんだ」

 聞こえてきた声――琰単のものに、翠蓮は身を竦ませ一瞬で思考を巡らせた。明日来ると聞いていたので、油断して今日は藍月漿らんげつしょうを身に忍ばせていない。
 渓青に相手をしてもらっているあいだに、すぐに寝台へ行き仕込むか、身を清めると偽って入れるか、と選ぶ暇もなく琰単が扉を開けた。

「そなたに逢いたくてたまらず、つい来てしまった」

 回廊にたたずむ琰単は、雪灰色の髪、わずかにみどりがかった瞳、やや着崩れた豪奢な着物、上背うわぜいはあるのに姿勢が悪いせいでどことなくだらしなく見える立ち方、などいつもと変わったところはない。

 けれども翠蓮はささいな違和感を抱いた。

 注意深く観察すると、それは確信に変わった。

「……斉王せいおう殿下でございますね」
「……なにを言うておるのだ、翠蓮。あやつがここに来られるわけがあるまい」
「いいえ、陛下とは目が異なります」
「……目?」

「ええ。陛下はわたくしのことをもっと蔑んだいやらしい目で御覧になります。口では愛しいといいながら、私のことを女性にょしょうではなく肉欲を満たす塊であるかのような目で見るのです。そんな好奇心に満ちた思慮深い目ではございません」

 翠蓮がそう言い切ると、目の前の琰単と瓜二つの男は破顔して笑いはじめた。

「……はっはっは! まさかこうもあっさり見破られるとは思わなかったねぇ! みんな寝台の上では気づくんだけど、顔を合わせただけで見抜いたのは君が初めてだよ。これはやっぱり、愛の力ってやつかな?」

 そう皮肉っぽく笑う顔は、さきほどまでと打って変わって、琰単が決して持ち得ない知性が見え隠れしている。豪快な笑い顔とくだけた口調になると、琰単とはまったくの別人のような気さえしてくるから不思議だ。

「……お戯れはほどほどに。それで何用でございますか」
「とりあえずここで立ち話もなんだから、中に入れてもらっていいかなぁ? あと、そこの宦官クンもその物騒なもの使わないでくれると嬉しいんだけど」

 渓青のほうに向かって片目をつぶって笑ってみせた男に、そこまで見抜いていたのかと翠蓮はすくなからず驚いた。
 渓青が「予定」もせず、そして渓青に一切の情報も入らずに琰単がやってくるのはかなりの異常事態だ。だから扉越しに声がかけられた時点で、渓青は扇の骨に仕込ませた毒針をひそかに後ろ手に持っていて、それは翠蓮も認識していた。もちろん毒といっても即効性の睡眠薬だが。

 どうもこの男は一筋縄ではいかなさそうだ、と翠蓮は気を引き締めた。


 翠蓮は奥の応対の間を案内し、椅子をすすめる。手際良く渓青が茶の準備をはじめた。

「じゃあまずは挨拶からかな。初めまして、斉王せいおう瑛藍えいらん……っと、これくらいはもう知ってるのかな?」
「ええ。こちらこそお初にお目にかかります。昭儀しょうぎ・呉翠蓮と申します。こちらは宦官の渓青です」
「うん、知ってるよ。公燕こうえんのところにいた武官でしょ?」
「……お見知りおきいただいているとは光栄です」

 斉王せいおう瑛藍えいらん
 それは琰単の弟の名だった。

 琰単は先帝の第九子。そして公燕は第十一子。その間の第十皇子が瑛藍だ。
 琰単の弟ではあるが、年齢は琰単と同じだった。だが生母が皇后であった琰単とちがって、後宮ではかなり下級だった潘美人はんびじんを母に持つ。

 なんの皮肉か、母親は異なるのに二人の見た目は瓜二つだった。
 それどころかその女性遍歴までも兄と同じ、いやそれ以上と噂されている。軽佻浮薄けいちょうふはくな人柄で、琰単の腰巾着とあだ名されていた。

 けれどもこれはどうも先日まで読みふけっていた「調書」とはだいぶ異なりそうだ、と翠蓮はある意味で興味津々になった。

「兄上がさぁ、ずいぶんと入れ込んでいるって聞いたから、どんな感じの人なのかといつもみたいに味見しようかと思ってきたんだよね」
「………………」

 あまりにもあけすけな回答に、翠蓮は頭痛がする思いがした。女性関係が派手なのは事前情報どおりのようだが、この分だと琰単の妃嬪たちは相当手を出されているのでは?、と思う。

「でもなんか兄上から聞いていたのと、全然違うよねぇ?」
「どう、お聞きになっていたのですか」
「うん? 貞淑で薄幸そうな見た目で、嫌がりながらも体は素直だって。あとなんか、全然なびいてくれないのに、ねやでは淫乱なのがたまんないって言ってた」
「……そういう斉王様もずいぶんと違うようですけれども」
「そうかなぁ?」

 へらっと笑った瑛藍に、まるで狸と狐の化かしあいのよう、と翠蓮は感じた。それは瑛藍も同じだったようで、渓青が茶をことりと置いてそれを優雅にすすると、卓を挟んで一気にぐいっと距離を縮めてきて問うた。

「……はらの探り合いは面倒だからさ、単刀直入に聞くけど、皇后と淑妃しゅくひ、あれやったの君でしょ」

 すでに確信を得ているのだろうし、否定したところで時間の無駄にしかならないと感じた翠蓮は、にっこりと微笑んだ。



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