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第2章 蠱毒の頂
第12話 蠢動
しおりを挟む事件から十日ばかり。
朝廷の混乱をよそに、翠蓮は表向きは伏せっていることになっていた。夕刻ころに琰単の鬱陶しい声が聞こえる以外は、久しぶりの平穏を味わっている。
寝室には渓青以外は立ち入らせず、面会謝絶となっていた。
ここのところ琰単の相手をする回数が増えていたので、翠蓮はちょうどよい休息だと思っていたのだが、渓青はそんなには甘くなかった。
「翠蓮様、すこしよろしいですか」
「なんですか?」
寝台でのんびりとしていた翠蓮は渓青の声に仕方なしに身を起こした。寝衣の上に毛織物を羽織り、髪をほつれさせて、いつ何時誰が急に部屋に入ってきてもよいように、「病人感」を演出する。
やってきた渓青は七、八ほどの巻子本を持っている。それをどさっと、寝台の脇の小机に置いた。
「……ずいぶんと暇をもてあそばれているようですから、これ全部目をとおしておいてくださいね」
「………………」
にっこりと笑った渓青に、翠蓮はできるだけ嫌そうな顔を返してやった。
「……なんの本ですか」
「現在の朝廷の全部署の構成と、そこを司っている長たちの経歴や人となり、縁戚関係をまとめておきました」
それを聞いて翠蓮は背筋をのばした。これは「作戦会議」が始まりそうだ、と。
(それにしても本当に優秀な「秘書」ですね……)
「……これで劉皇后の廃位はほぼ確実になりましたが、だからと言って翠蓮様がすぐにでも皇后に推挙されるかというと、決して状況はそんなに甘くはありません」
「……でしょうね。先帝も孫皇后亡きあと、皇后はあらたに置かなかった。まあ、理由はいろいろとあったのでしょうけれど……」
「そのとおりです。もっとも、陛下はいまのままいけばおそらく翠蓮様を皇后にしたがるでしょうが、陛下が強い意志と決断力をお持ちのかたならばともかく、残念ながらそんなものは持ち合わせておられませんからね」
「太子を決めるときも相当揉めたのですよね?」
「そうです」
翠蓮はすこし前のことを思いだしていた。
それは、先帝が床に伏せることが多くなったころのことだ。そのころ、琰単はいまだに後継を定めていなかった。
その当時、琰単には二人の息子がいた。一人は金婕妤が産んだ長男・信。いま一人は荘淑妃が産んだ次男・啓だった。
啓は幼いながらも聡明で、将来を有望視されていた。荘淑妃はたびたび琰単に啓を後継ぎにするようねだっていたが、琰単は荘淑妃に強くでられると、その場では「その件は……考えておく」と逃げていたそうだ。
一方で痺れを切らした劉皇后は信を養子にした。生母である金婕妤が病死を装って秘密裏に殺害されていたのは最近明らかになったことだが、このときはまだ彼女も存命だった。表向きには劉皇后が金婕妤に伏して拝み、養子縁組を実現させたそうだが、事実はどうだったのか怪しい。
劉皇后を琰単の正妻にしたのは、亡き孫皇后とその兄である孫佐儀だ。また琰単が太子になれたのも孫佐儀の影がちらついていた。劉皇后は孫佐儀に口添えを頼み、琰単はそれに押切られてついに信を世継ぎと定めた。
そのように、琰単とは押しに弱く、流されやすく、優柔不断でだらしない性格の持ち主なのだ。
そんな琰単だから、翠蓮を皇后にしたいからといって、強固な姿勢を取るとは思えない。むしろ、孫佐儀に押し切られたら現在の昭儀のままでいいか、さもなくば空いた淑妃に、くらいに意見を翻すことは十分に考えられる。
「翠蓮様の立后にあたって、最大の障壁となるのは……」
「……孫佐儀」
「そうです。これは間違いありません」
孫佐儀。それは先帝の時代からの、否、もとを正せば先々帝の幕僚として名を馳せた功臣だった。孫氏はその源流を鄭の北方に広がる草原地帯に持つ歴とした北族であり、二つ前の王朝を打ち立てた一族に連なる貴顕中の貴顕である。
鄭の建国時から第一線で活躍し、内外数々の戦で功績を収めた。政治家としても有能であり、長らく朝廷に君臨していた。
けれども老いては名臣も保身に走るようになる。
自らの地盤の確保のために、愚劣な琰単を太子に推したことは記憶に新しい。
「先日の御前会議にひそかに召集されたのは、孫太尉を含めて全部で六名。この六名を攻略することが鍵となるでしょう」
渓青の言葉に促されて、翠蓮は渓青が指し示した巻子本を紐解いた。そこにはやはり重要人物となる六名について、事細かに記されていた。
「そもそも、現在の朝廷は三省六部で成り立っています」
「中書省、門下省、尚書省とそこに連なる吏・戸・礼・兵・刑・工の六部ですね」
「そのとおりです。皇帝への上奏を吟味して詔勅を起草する中書省、詔勅の内容を審査し、場合によっては中書へ差し戻す門下省、そしてその詔勅を受けて実務を行う尚書省、という関係です」
「……立法、審査、実施、という流れですね」
文字通り「講師」になった渓青の講義は続く。
「中書省の長官を中書令、門下省の長官を侍中、と呼びます。尚書省に関しては先々帝がその昔、尚書令を務めておられたので永久欠番のような扱いとなっており、その副官である左僕射・右僕射が実質の長官扱いとなります」
「……つまり、重鎮である孫佐儀、それから中書令、侍中、尚書の左右の僕射が問題に……あら、これでは五名しかいないのではないですか?」
「もう一人、少々毛色の異なるかたがいらっしゃいます。三公の司空についておられる李石鎮様とおっしゃいまして、この方は武人寄りの経歴をお持ちです。出自も北族ではありませんし、いろいろと経緯がありまして孫太尉たちとは距離をおいておいでです」
「なるほど……そのかたを入れて六名ですね。とはいえ、陛下のように閨で堕とすわけにもいきませんし、一筋縄ではいかなさそうですね」
「おっしゃるとおりです。ここから立后にもっていくためには、慎重に策を練る必要があるかと思います」
翠蓮はしばし考え込んだ。琰単は「女」を武器にして、渓青に教えを請い、堕とすことができた。
だが今度はそれぞれが閣僚までのしあがった実力者たちだ。そして琰単はあてにできず、彼らを相手取るには翠蓮は圧倒的に知識と経験が不足していた。
ならば、渓青を師匠にしたように、この道についても「師」が必要なのではないかと思い至った。
「渓青、お願いがあります」
「はい」
「講師を一人、探して欲しいのです。私に政を教えてくれる人材を」
「私もそう考えておりました。私は武官出身ですから、閣僚の方々に食い込んでいけるほどの知識はございません。それがよろしいかと」
「ええ。可能ならば宦官で、政治と歴史に通じた学者肌の方がいれば。陛下には……そうですね、なにもしないでいると息子のことを思いだしてしまって辛いので、歴史を紐解いて悲しみを和らげる術を探したい、とでも適当に言っておいてください」
「御意に」
本当はもう一人、渓青に探してほしい人材がいた。
それは、次に孕む子の父親となるべき男だ。次の子の父親は、琰単であってはならなかった。だが、それを渓青に頼むのは……と翠蓮は躊躇する。
どうしてもそれだけは言い出せなかった。
そうして一礼して退室していった渓青を見送りながら翠蓮は考える。
休む暇はなさそうだ、と。
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