無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第2章 蠱毒の頂

第20話 虚飾の宴

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「……湯殿で抱かれると、寝台が汚れないので後始末が楽ですね」
「……またそんな身も蓋もないことを……」

 寝台の上に身を起こし、けろりとした顔でそう言った翠蓮すいれんに、渓青けいせいは苦笑した。
 とはいえ、琰単えんたんはおもしろいほど簡単にこちらの思惑どおりに動いてくれるので、そう言いたくなる気持ちも分かる。

 そのとき、渓青が抱えていた白猫がみゃうと鳴いて渓青の腕から飛び降り、翠蓮の寝台へ音もなくあがった。

「ごめんなさいね、おまえに濡れ衣を着せてしまって」

 謝りながら翠蓮が撫でると、白猫は気にしていないよ、とでもいうようにごろごろと喉を鳴らす。
 この白猫は左右の目が金銀の珍しいもので、縁起がよいと翠蓮に献上されてやってきた。祥雪しょうせつと名付けられた雄猫は存外に大人しく、まかり間違っても水盤すいばんを蹴倒すなどしない。

 適当に琰単が来るころあいを見計らって、翠蓮が自分で頭から水差しの水をかけ、渓青がそっと水盤をひっくり返しただけだ。
 そうしてあとは湯殿で戯れてみせれば、見事に餌に喰らいついてくれた。

 だが、ことがうまく運んだというのに、翠蓮の顔色は晴れない。

「……いかがなさいました?」
「いえ……このあいだ身籠っていたときは、わたくしの他にも後宮に妃嬪たちがいましたから、妊娠中も陛下はそちらへ行っていたでしょう? でも今度は皇后も淑妃しゅくひも幽閉されています。その状況で私が妊娠しているとなると……」
「……まず間違いなく他の妃嬪のところにいくでしょうね。あの下半身でものを考える男が、十月十日のあいだ我慢できるとは到底思えません」
「……ですよね。なにか対策を立てないと、下手すると他の妃嬪を身篭らせかねません」
「そうですね。そん一派に入れ知恵された女が割って入ってくることも十分に考えられます。操りやすい、というのは相手にとっても同じですからね」
「陛下の目を逸らさせないようにする良い方法がないでしょうか……」
「……あるにはありますが……」

 いろいろとあるにはあるのだが、残念ながらそれは渓青にはできないことだったので、思わず言い淀む。

「あるのですか?」
「ありますが……こればかりは斉王せいおう殿下にご協力いただきませんと……」
瑛藍えいらんに? なぜですか?」

 そうして渓青が伝えた「方法」に、翠蓮は絶句した。



    ***



 琰単の言葉通り、五日後の昼過ぎころ迎えの宦官がやってきた。翠蓮は深い緑色の紗の覆いをかぶり、掖庭宮えきていきゅうと外界とを繋ぐ唯一の門である通明門つうめいもんを通り抜け、宮城きゅうじょうの西北角に位置する永安門えいあんもんから久方ぶりに外の世界へ出た。

 だが、黄色い瑠璃瓦に邪魔されない空が見られたのは一瞬だけで、すぐに用意されていた覆いつきの馬車へと乗り込まねばならなかった。

 覆いの隙間からそっと外を窺う。吐く息が白い。先日降った雪が皇城こうじょうの官庁街のいらかを白く染めていた。

 すり合わせた指先は、寒さのせいではなく爪が真っ赤に色づいている。慣れぬそれに翠蓮はかすかに苛立った。数日前に琰単から大量の衣服と宝飾品が贈られてきた。どうやらそれで着飾れ、ということらしい。

 翠蓮自身は演技でなくともそれほど着物や装飾品に興味がないので、いままで渓青に任せきりだった。おかげでどうかすると翠蓮よりも渓青の方が、最近流行りの図柄に詳しかったりする。
 それに渓青に見立ててもらえば間違いがない。渓青が男性に属するから当たり前といえば当たり前なのだが、渓青は「男のツボ」を心得ていた。

 女が自分を着飾ると、女だらけの後宮ではとかく女同士の見栄の張り合いになる。豪奢でごてごてとした宝飾品、奇抜で高く結い上げられた髪、派手な色彩の羽織や文様、真っ白に塗りたくられた顔に血の滴るようなべに
 それはさながら、密林に棲む鳥が極彩色の羽と奇怪な飾りを身につけるのにも似ていた。

 翠蓮はそんなものは必要としていなかった。男の目にどう映るか。衣服や装飾品を通して、男が自分にどんな幻想を抱くか。それが最重要事項だった。
 服も、宝石も、髪も、化粧も、策略の一つにすぎなかった。

 そう言ったわけで、今日も翠蓮は渓青によって着飾られている。その渓青は馬車のうしろでひっそりと供をしているはずだった。



 孫佐儀そんさぎの屋敷は、光安城こうあんじょうの北東の一角、長楽坊ちょうらくぼうにある。権勢を誇る孫一門の長だけあって、坊の四分の一は占めているのではないかと思えるほどの広大な邸宅であった。

 屋敷の北側には池と水路――というよりは湖と川とでもいうべき規模の水が滔々とうとうと流れる庭園がある。その庭に南面する雅やかな建物が今宵の宴の舞台だった。

 冬の夕暮れは早い。翠蓮が琰単に手を引かれて宴の席へ向かうころには、すっかりと陽が落ちていた。かぶった紗ごしにふと庭を見た翠蓮は、そのあまりに幻想的な光景に目を奪われた。

 庭園の池には、いくつもの灯籠が浮かべられ、さながら冬の蛍のようであった。ゆらゆらと揺らめく水面に反射した光さえ美しい。妙なる音色が奏でられ、天女のごとき舞人が踊る様は、宮中の宴に勝るとも劣らないものだった。

 琰単に連れられ、上座へ向かう。下には、孫佐儀そんさぎをはじめとする孫一門、それに佐儀と親交のある閣僚や官吏がずらりと席についていた。
 琰単とともに腰を下ろすと、孫佐儀が一歩前に進み出て挨拶を述べる。

「本日は尊き皇上陛下、ならびに呉昭儀ごしょうぎ様には斯様かよう荒屋あばらやにご足労いただき、恐悦至極に存じまする」

 決まり文句であるのは分かっていたが、この豪奢で贅をこらした邸宅が「荒屋」ならば、さしずめ後宮などは家畜小屋か、と翠蓮は内心で嗤った。いったいこの家屋敷にどれほどの富が注ぎ込まれているのか、そしてそれはどこから搾り取られているのかと思う。

 そう考えながら、翠蓮はそっと孫佐儀を盗み見た。直にまみえるのはこれが初めてである。年の頃は六十なかばほどか。髪にも髭にも白いものが混ざっている。その年齢にしては背筋も伸び、体にもたるんだところはなく、すっきりとした印象を与えていた。
 なにも言わなければ老学者、とでもいうような風情だったが、さすがにそこは名臣と謳われただけある。目力に衰えたところは感じられなかった。

 この様子では、琰単のごときを手玉に取るのは、赤子の手をひねるよりもたやすいだろう。もっとも最近は、操り人形の糸の先はこちらに伸びているが。

「……大したおもてなしもできませぬが、どうぞごゆるりとおくつろぎくださいませ」
「うむ。たまにはこうして臣下と酒を酌み交わすのもよいだろうと思ってな。世話になるぞ」
「はっ。ありがたき幸せ」
「今宵は昭儀もおる。楽しき夜になるであろう。なあ、翠蓮」

 そういって琰単がこちらを見る。翠蓮は紗の下でそっと目を伏せた。

「ああ、済まなかったな。覆いを取るのを忘れておった。それでは舞人もよく見えぬであろう」

 かぶったままのほうが、中で舌を出していても気づかれなかったのに、と翠蓮は思う。琰単が覆いを取ると、宴席中にどよめきがおきた。

 渓青の見立てはやはり狂いがない、と翠蓮は心のうちで微笑んだ。

 今夜の衣装は天青色てんせいしょく雨過天晴うかてんせいの色――雨上がりに雲の切れ間からのぞく空の青、とも称えられる美しい色だ。刺繍は銀糸で控え目にし、鳳凰が雲間に遊ぶ様が縫い取られていた。
 光沢のある白い帯が腰の細さを強調し、また帯の上に乗せられたような胸が、その重みを主張する。ふわりとかけられた白い領巾ひれがかすかな風に漂っていた。

 蜘蛛の糸のように細い銀鎖が垂れ下がる歩揺ほようがしゃらりと音を奏でる。宝飾品はすべてが銀細工。簪には白玉と淡い色の翡翠がしっとりと添えられ、耳環につけられた銀糸の房がゆらりと揺れた。

 結い髪の下にはほっそりとした白いうなじ。さほど高さはないが、艶やかな黒髪は優美な曲線を描いてまとめられていた。そこから一房だけ垂らされた髪が肩にかかり、肌の白さを際立たせる。

 透きとおるような白皙はくせきの肌に、ほんのりと染まる頬。唇は桃色に色づき、水蜜桃のように瑞々しかった。

 だがなによりも、伏せられた瞳がすこし上げられ、ちらりとあたりを見つめたとき、その場にいた人々は視線を逸らすことなど許されないかのように翠蓮に釘付けになった。
 絹糸のような細く密な睫毛に縁取られた、大きな黒水晶の瞳。目尻にはかれた紅がほのかな色気を添え、男たちの奥底に潜む劣情をかきたてた。

 男の理想が具現したかのような姿に、一同はごくりと息を飲んだ。
 庇護欲をそそる細身にして、欲情を煽る柔らかさと豊かな胸。天青色と白と銀は清楚で儚い印象を与えるが、その薄い服の下には皇帝を虜にしてやまない淫蕩な肉体が隠されている。
 控え目に伏せられたまなざしは従順で大人しそうな風情だが、艶めいた唇から官能の吐息を零れさせ、大きな瞳を涙で濡らしたいと思うほどに奇妙に嗜虐心を湧き起こさせた。

「みなに紹介する! 呉昭儀ごしょうぎだ。今日は楽しませてやってくれ」
「……呉翠蓮と申します。よしなにお願いいたします」

 しっとりとした声音とともに翠蓮が深々と頭を下げたのを見て、宴席に座る一部の人間は軽い感動さえ覚えた。なにしろ彼らが知る皇帝の横に座る女性といえば、苛烈な女傑として知られた孫皇后か、その模倣品のように気位が高く神経質な劉皇后しかいなかったからである。

 誰もが一瞬にして理解した。皇帝が耽溺するのも致し方あるまい、あれには抗えまいとひそやかな囁きが交わされる。
 孫佐儀でさえ小さく呟いた。「……やむなし」と。

 翠蓮はただ言葉すくなに目線を伏せて座っていただけなのだが、相変わらず男たちはよくも勝手に妄想を抱けるものだと内心辟易へきえきしていた。好奇と好色の目線。
 それらをさらに煽ってやるか、と翠蓮はふるりと身を震わせた。

 自らの腕ですこし体を抱き、こころもち琰単のほうへと身を寄せる。目線は伏せたまま、いくらか困ったような表情を浮かべると、ぐいと琰単に抱き寄せられた。

「いかがした、慣れぬ場に緊張したか」
「はい……」
いな。ちんのそばにいつもどおりおればよい。そうだ、酒でも飲めば強張りも解ける。朕自ら酌をしてやろうぞ」

 そう言って琰単が酒壺しゅこを取り上げるのを、翠蓮はそっと手を添えて制した。

「どうした、飲まぬのか?」
「……申し訳ございません、陛下……」

 そのまま翠蓮は琰単のもう片方の手を取ると、ふわりと自らの腹部に当てさせた。

「……こちらへ移動しておりましたのでご報告が遅れまして……今朝方、医師が……」
「……なんと⁉︎ 身籠ったのか⁉︎」
「……はい…………」

 その瞬間、宴席は大きな歓声に満ちた。みな、酒杯を持って立ち上がり口々に祝意を述べる。

「でかしたぞ翠蓮! なんとめでたい! 佐儀、この家にあるだけの酒を持ってまいれ! あとで朕のほうから好きなだけ届けさせるゆえ!」
「いえ。昭儀様のご懐妊を祝して、我が家の蔵をすべて開け放ちましょう」

 和やかに進んでいた宴は、あっという間に沸き立つ雰囲気に包まれた。
 だが一部で苦々しい顔をひそかに浮かべる者たちもいる。孫一族にとっては由々しき事態であった。

 孫一門が擁立する劉皇后はいまだ廃位されていないとはいえ、それも時間の問題だ。対抗馬であった荘淑妃しょうしゅくひも同様の状況にあるなかで、皇帝の寵愛を独り占めする昭儀が懐妊し――万が一その子が男児であったならば。

 孫家に関わる者たちは恐れおののき、一方で関わりの薄い者たちは早くも鞍替えを検討しはじめていた。



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