うみと鹿と山犬と

葦原とよ

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第1話 春の訪れ

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 それは、いつか昔にあったかもしれない物語――



   ***



 目の前が一気に開けた。

 峠道の一番高い所から見える風景は、春の彩りに包まれている。

 青く澄んだ水を満々と湛える大きな湖。その縁を取り囲むようにぐるりと巡る山々は、新緑の芽吹きと白く小さな花を纏う。遠くに見える高い峰はまだ残雪を抱いていた。
 湖のほとりの草原には小動物が駆け、トンビがゆっくりと空を旋回する。

 春の息吹を感じさせる景色の何もかもが嬉しくなって、ヤシュカは後ろからやってきた族長――母に尋ねた。

「母様! ちょっと先に行ってもいい?」

「……いいけれど、十分に気をつけるのよ。それと、集合場所はあの大木のところよ」

「うん、分かった!」

 渋い顔をする母を綺麗に無視する。くるりと視線を巡らせて、湖の近くに立つ巨木の位置を捉えると、ヤシュカはいてもたってもいられなくて駆け出した。

 森の中を疾走するヤシュカに驚いて、ウサギが慌てて駆けていく。
 雪解け水のぬかるみを器用に避けて石の上を跳ね、芽吹いた木の芽を咄嗟に摘んでぱくりと口元に運ぶと春の味がした。

 しばらく駆けて、一族の者からも見えない距離まで来たのを確認すると、ヤシュカはちょうどいい岩のくぼみに身を寄せた。

 そしておもむろに服を脱いでいく。
 上衣も、脚衣も、肌着も下帯さえも脱いでしまうと、脱いだ服を全部上衣の中にまとめて、首に括り付けた。

 一度、大きくググッと伸びをした。

 伸ばした指先が、蹄に変わる。

 白く細い手足は柔らかな白毛に覆われ、手は脚になる。

 体中に毛を纏い、四つ足で大地を踏みしめ、最後にぷるりと短い尾を震わせると、そこには一頭の白い鹿が立っていた。



 ヤシュカは鹿の獣人けものびとだ。

 その中でも滅多に生まれない「白き鹿」で、全身真っ白な毛と赤い瞳という、普通の鹿とは異なる色彩を持っている。

 おかげで何の力も持たないのに、一族の者からは「神の使い」と崇め奉られて、少々窮屈な思いをしていた。

 だから、こんな気持ちの良い春の日は一族から離れて自由に散策したくなる。
 特にそれが、この新天地にやってきて何もかもが目新しい一日目となれば尚更だ。

 人形ひとがたで走ってもただのヒトよりは十分早いけれど、獣形けものがたになればその何倍もの速さで駆けられる。



 集合場所だと言われた大木の根元にあっという間に辿り着くと、その脇を風のように駆け抜けた。

 こんな短い距離でせっかくの自由を終わらせてしまうのは勿体無い。
 一族の者たちがここに着くのにはもう少し時間がかかるだろう。

 ヤシュカは大木から離れて、湖の縁を南へと進んだ。
 白い鹿が深い森を駆けると、それに気づいた小動物たちが慌てて道を譲っていく。

 ただのけものたちにとって、獣人けものびとは神にも等しい。
 獣形けものがたになればその体つきは普通の獣よりも大きいし、知能は比べるべくもない。
 まして珍しい「白き鹿」ともなればそれはなおのこと。

 ヤシュカはそれを誇らしげに思いながらも、心の隅には寂しさを抱えていた。
 みんなヤシュカを特別扱いする。

 今、視界の片隅に捉えたリスのつがいのように、尻尾を絡め合わせるような相手が、いやそんな親密な仲でなくとも普通に話してくれる相手が欲しい。

 ――もっとも、鹿の尻尾は絡め合わせられるほど長くないのだけれど。



 ふう、とヤシュカは溜息を一つついた。
 夢中になって結構な距離を駆けてきてしまった気がする。

 そろそろ戻ろうか、とヤシュカが思った時、敏感な鼻が水の匂いを捉えた。
 そう言えば走り続けたせいで少し喉が渇いた。喉を潤したら帰ろう、と思ってヤシュカは水辺へと向かったが、その光景を見て思わず水を飲むのを忘れた。

 そこには小さな池があった。

 風ひとつなく静まり返った水面に、水辺の青々とした木々と空が反射して、完全に鏡写しの世界が広がっていた。

 そこだけ切り取られた空間かのように、風もなければ音もしない。小鳥のさえずりも、虫の音も、木々の葉ずれの音も聞こえなかった。

(なんて、綺麗……)

 ヤシュカは声を出すことも、水を飲むことも忘れて、水辺に立ちすくんだ。
 磨き上げられた鏡面のような水は、ヤシュカの姿をも水面に映し出す。

 真っ白な鹿が、青緑の木々を背景に浮かび上がるように立っている。それは自分であるのに自分でないような気さえして、思わず足が竦んだ。

 その時、一瞬だけ風の匂いが変わった。

 まずい、と思ったヤシュカは慌てて獣形けものがたを解いて人形ひとがたに戻り、敵意のないことを示したが、それよりも早く柔らかい草の上に押し倒された。

「痛……っ!」

「…………なんだ、獣人けものびとか」

 首元で言われて、ぞわりと体が震えた。

 黒い大きな山犬が、ヤシュカの四肢を大地に縛り付けていた。爪は立てられていないし、体重もかけられていないので攻撃の意思は無さそうだ。けれども獲物ならば首筋にその牙を立てようと思っていたのだろう。うっすらと開いた口から、首に呼気がかかる。

「……見たことない顔だな」

「今日ここへ初めて来たの! ごめんなさい、ここは貴方の場所?」

 もしもこの山犬の縄張りに入り込んでしまっていたのだとしたら、非はこちらにある。ヤシュカは咄嗟に謝った。

「俺の場所というか……ここは俺の一族の禁足地だ。神に捧げるシカを獲る場所だ」

 それを聞いてヤシュカの顔が引き攣った。よりによってシカ狩りの池にきてしまっただなんて。

 ヤシュカのその顔を見て、山犬の金色の目が面白そうにキラリと光った。

「せっかく珍しいシカが獲物になると思ったんだけどな」
「うぅ……食べないで……獣人けものびとは美味しくないよ……」

「そんなの知ってる。お前、名前は?」

「ヤシュカ。鹿のミナカタ族のヤシュカ。貴方は?」

「モレヤ。山犬のシャグジのモレヤだ。ちょうど今、腹が減っている」

 べろり、と大きな舌で首筋を舐められて、ヤシュカはここへ来たことを猛烈に後悔した。



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