うみと鹿と山犬と

葦原とよ

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第2話 おにぎり

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 くんくん、と鼻先で首筋の匂いを嗅いでいたモレヤがふと言った。

「……嗅いだことのない匂いがする」
「私の匂いじゃなくて?」
「お前の匂いは花みたいに甘い。そうじゃなくて、何か、こう……腹が減るような……」

 モレヤの言葉に思わず顔を赤くさせたヤシュカだったが、一つ思い当たることがあって声をあげた。

「あ、もしかしておにぎり?」
「オニギリ? 何だそれは」

 首を傾げる山犬に、知らないのかと声をかけようとしたヤシュカはあることに気づいた。

「ああああ! 潰れちゃったかも……」
「潰れた?」

 今日の昼食として持っていたおにぎりは、衣類とまとめて首に括り付けていた。
 人形ひとがたから獣形けものがたになる時は、衣服や荷物などをこうしてまとめて持っていくのは獣人けものびとの間では当たり前のことだが、今その荷物はヤシュカの背中で押し潰されている。

 慌てるヤシュカの様子に、モレヤがヤシュカを押さえつけていた四肢をどかした。そして目の前で姿形を変えていく。

 少し茶色い差し毛の入った黒い毛並みはそのまま柔らかそうな髪になり、鋭い牙も爪もなくなったが金色の強い眼差しは変わることなく、しなやかな筋肉を纏った青年の姿になる。
 ピンと立った耳とふさふさとした長い尻尾が揺れていた。

 首の周りに衣類を括り付けているところはヤシュカと一緒だ。

 変化が終わるとそのしっかりとした腕でヤシュカを抱き起こしてくれた。なるほど、起こしたかったから人形ひとがたに戻ったのか、と思った時だった。

「あ!」
「……あ」

 そうして二人同時に気づいた。
 二人とも素っ裸であることを。

「きゃああああ!」
「す、すまん……っ」

 二人とも一瞬で再び獣形けものがたになり、ヤシュカは慌てて木陰に隠れ込んだ。

 不思議なもので、獣形けものがたになっているときは別に衣服を着ていないくともなんとも思わない。むしろ自分のこの素晴らしい毛並みを見てくれ、とそれくらいの気持ちだ。誰もそれを恥ずかしいことだとは思わない。

 けれども人形ひとがたで衣服を着ていないところを見られるのは、雄も雌も恥ずかしいものだった。だから皆、面倒でも首に衣服を括り付けて持ち運ぶ。

 ヤシュカは木陰で人形ひとがたに戻ると、急いで衣服を身につけた。下帯をつけて黒い脚衣と革で作った長靴ちょうかを履き、薄緑の肌着の上に桜色の上衣を纏って、青みがかった帯を締める。

 鏡のようによく映る池の水面に姿を映して、乱れた白い髪をちょいちょいと直していると、モレヤも衣服を纏って出てきた。

 黒い脚衣と長靴ちょうかはヤシュカのものと似ているが、茶色い革でできた上衣はとても分厚くて暖かそうだ。裾や袖口には毛が縫い付けられていて、大きな頭巾まで付いていた。

「……随分厚着なんだね」
「俺の住んでいる山の上の方はまだ寒いからな。で、オニギリってのは何だ?」
「あ、そうそう。これこれ」

 モレヤの言葉にようやくそれを思い出したヤシュカは、腰につけていた小袋から竹の皮に包んだおにぎりを取り出した。少し形がいびつになってしまっていたので、軽く握り直して半分に割り、片方をモレヤに差し出した。

「これをおにぎりって言うの」
「……これは何だ?」

 モレヤは受け取ったおにぎりを、色んな角度から不思議そうに眺めている。くんくんと匂いを嗅いで害のなさそうなことを確かめているようだ。

「えっとね、イネっていう植物を育てると、コメっていうこの白い粒みたいな実が採れるの。それを蒸して軽く丸めたのが、おにぎり」

「……食べ物なのか?」

「うん。とっても美味しいよ」

 ヤシュカの言葉に、モレヤは決心を固めたような表情をすると、ほんの少しだけ小さくパクリとおにぎりに噛り付いた。そのままもぐもぐと咀嚼する。

「……ど、どうかな?」

 ヤシュカが尋ねてもモレヤは返事を返さず口を動かしていたと思ったら、そのまま残りのおにぎりをばくりと口に入れた。一口で。

「えっ……」
「…………うまい」
「……もう半分、食べる?」
「いいのか?」
「戻ればまだあるから大丈夫」

 ヤシュカがそう言って残りの半分のおにぎりを差し出すと、それも二口ほどで食べられてしまった。

 豪快だなぁ、なんてヤシュカは思ったけれど、ふと今日のお昼ご飯はどうしようと焦った。まあ、森の中に入れば何かはあるだろう。最悪、獣形けものがたになって草を食べるという最終手段が残されている。

 食べ終わって指まで綺麗にぺろりと舐めたモレヤは、斜めがけにしていた袋の中をゴソゴソと探して何やら取り出した。

「ありがとう、とってもうまかった。あれはお前の昼飯なんだろう? すまなかったから代わりにこれを」

 そう言ってモレヤが差し出してきた葉っぱの包みには、よく肥えた川魚が二匹と、山菜が色々と入っていた。

「美味しそう! ありがとう!」

 ここまでずっと旅をしてきたから、保存のきくものばかりを食べていた。その土地で採れたものを食べることもあったけれど、一族の者全てに行き渡るようにすると、ほんの一口しか食べられないことの方が多かった。

「ここら辺ではよく採れるものだから。それでだな……いくつか聞きたいんだが、ミナカタ族ってのは最近ここらに移り住んで来たのか?」

「うん、今日着いたばっかりよ。あの大きな湖の、北にある巨木のあたりに里を構えようって母様たちは言っていたわ」

 ヤシュカは振り向いて湖の向こう、来た方角を指し示す。

「大きなミズウミの北の巨木……スハのうみの、五つ根のかしか」

「スハのうみの、いつつねのかし?」

 まるで呪文のようだ、とヤシュカは思った。

「スハは、あの大きなうみのことだ」
「海? あれは湖でしょう?」
「俺たちは「うみ」と呼んでいる」
「ふぅん、不思議ね。私たちが「うみ」と呼ぶものは、塩辛い水で満たされている果てがないものよ。真水の大きな水たまりは「湖」と呼ぶわ」
「塩辛い、果てのない水……想像がつかない」

 眉根を寄せたモレヤに、ヤシュカは「どっちでも分かればいいわ」と笑った。よく考えれば「湖」という言葉だって、真水で満たされた海ということだ。

「いつつねのかし、って言うのは?」
「大きな根が五つある樫の木だから、五つ根の樫って呼んでる。「うみ」の南に、四つ根の樫の巨木があるんだ」
「ああ、それで区別してるのね」

「五つ根の樫のあたりに住むのか……まあ、あのあたりには俺たちはあまり狩りには行かないが……」
「私たちは狩りはあんまりしないわよ」

 ヤシュカがそう言うと、モレヤが「え?」という顔をした。

「狩りに行かないで、何を食うんだ?」
「さっきのコメよ。コメを植えるための田を作って育てると、秋には収穫できるの。もちろんお魚や山菜やお肉も時々は食べるけれど、私たちはコメが主食なの。スハは綺麗な水が豊富だから、きっといいコメが沢山作れるわ」
「なるほど……」

 少し考え込むような顔をしたモレヤの瞳が、きらりと光った。

「なあ、ヤシュカ」
「な、何……?」

 何かを企んでいるような顔のモレヤに、ヤシュカは思わず後ずさる。何となく嫌な予感がする。

「取り引きしないか?」
「取り引き?」
「あのコメ……おにぎりをもう一度食べたい。お前がこの禁足地に入ったことを黙っててやる代わりに、おにぎりをまた持ってきてくれ」
「え、えええええっ⁉」

 ヤシュカは焦った。おにぎり自体を持ってくることはそう大変なことではないけれど、族長である母親にバレたら何を言われるか分からない。

 何しろ、モレヤの一族だという「シャグジ」が友好的なのかどうかさえ分からない。もしかしたら、また・・受け入れてもらえない可能性だってある。

「代わりに山の食べ物をやるから」

 そう言ったモレヤの黒い尻尾は、期待するようにゆさゆさと揺れている。
 脅迫犯、というよりは餌をねだる犬のようで、ヤシュカはぺしょりと耳を伏せて溜息をついた。

「……分かったわ……また持ってくる……」
「そうか、ありがとう」

 ヤシュカが了承した途端にモレヤの尾がぶんぶんと揺れて耳がピンと立つ。モレヤの表情はそんなに大きく変わらないけれど、こちらは随分感情豊かなのだな、とおかしくなった。

「私、そろそろ戻らなきゃ」
「明日、またこの場所で昼時に待ってる」
「……禁足地なのにいいの?」
「何か言われたら鹿を狩っていた、と言えばいい」

 モレヤはニヤリと笑ったが、狩られる方はたまったものじゃない、とヤシュカは思った。諦めて、じゃあまた明日、と言葉をかけて来た道を戻り始める。

 そういえば、モレヤは一度も「白い鹿」と言わなかったな、と思いながら。



 湖の北の巨木――モレヤの言っていた五つ根の樫まで戻ると、さすがに一族の者たちも到着していた。巨木の周りをくるりと回って根を数えてみると、確かに大きなものが五つある。

 ひときわ大きな木だった。
 ここに立って齢何百年、といったところだろうか。もしもヤシュカが猿の獣人けものびとだったら上まで登って行って辺りを見渡せるのに、と思った。

 一族の者たちは忙しなく荷ほどきをしている。
 今日は幕屋や仮小屋をなんとか立てて夜露をしのぎ、明日からは早速稲田を整える作業に入ると母は言っていた。

 ヤシュカも何食わぬ顔で荷ほどきに混ざりながら、自分の幕屋を立てていく。

 ようやく辿りついた「スハのうみ」のほとりで、今度こそ落ち着いて里を構えることができるのだろうか。

 今日、駆け回った限りではこの土地は深い森と豊かな水があり、生き物も豊富そうだった。

 ただ一つ気になるのは、モレヤの属するシャグジの一族。
 モレヤは初対面から敵意を向けてくるようなことはなかったが、一族の者全てがそうとは限らない。

 できればこの地で、大人しく暮らせますように、とヤシュカは古木に祈った。



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