うみと鹿と山犬と

葦原とよ

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第3話 二人で見る景色

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 翌日、ヤシュカはこっそりと一族の元を抜け出した。



 スハの湖の北、五つ根のかしの近くに里を構えることにしたミナカタの一族は、今、一族総出で新たな里を作っている真っ最中だ。

 一番の急務は稲田を作ることだった。
 今、この時期にイネを植えなければ今年の秋にコメが取れない。そのため住むところは幕屋や掘っ建て小屋のようなもので後回しにされ、雄も雌もとにかく田畑を整えることを優先していた。

 それは族長の娘であるヤシュカとて例外ではない。
 普段は日々の祭祀が巫女としてのヤシュカの主な仕事であるが、この時ばかりは祈りよりも食扶持の確保が優先された。

 けれどもそれはヤシュカにとっては有難かった。
 巫女としてのヤシュカは一族の中でも少し特殊な立ち位置にあって、普段あまり人と口をきかないし、一族の者もどこかヤシュカを遠巻きにする。

 そんなことを気にせずに、とにかく大地を掘り起こしていればいいというのは、ヤシュカにとって気楽だった。

 それに今、ミナカタ族はとある事情・・・・・から若い男手が少ない。
 使える者はなんだろうと使うしかなかった。

 午前中いっぱい汗水垂らして土を掘り返していたヤシュカは、昼時になるとくりやの担当の者からいつもよりかなり多めにコメをもらい、おにぎりを五つも作った。

 久しぶりに体を動かしたらお腹が空いたと言ったら、「巫女姫様でもそんなことがあるんですね」と言われたが、みんなヤシュカを何だと思っているのだろう。
 毛色と瞳の色が違うだけで、霞を食べて生きているわけではないのに。

 けれどもそれを逆手に取って、「午後は土地神様に呼ばれたので挨拶に行ってくる」と言えば、それで納得されてしまったので複雑な気分だ。

 ヤシュカには神と交信するような力はない。
 ただ色素が薄いだけの普通の鹿族だ。けれども皆、ヤシュカは巫女なのだと思っている。そう、思わされている。



 ともあれ大量のおにぎりを今度は潰さないように気をつけて首に括り付け、ヤシュカは獣形けものがたになって昨日の池へと駆け出した。

 半刻もしないうちに池の手前に辿り着いたヤシュカは、木の陰で人形ひとがたに戻り、衣服を身に纏った。

 この池で鹿の獣形けものがたでいるのは自殺行為に等しいし、何よりまたモレヤに裸身を見られでもしたら恥ずかしくてたまらない。

 萌ゆる草を踏みしめて池へと向かうと、今日は人形ひとがたのままのモレヤは既に池のそばに寝っ転がって待っていた。

「……モレヤ」

 小さく声をかけると、黒い尾がふわりと揺れてモレヤが振り向いた。

「良かった、来なかったら今日の昼飯はどうしようかと思ってた」

 起き上がってニコニコと笑うモレヤに少し恥ずかしくなりながらも、何だかいいように使われている気がしてならない。ヤシュカは少しぶっきらぼうにおにぎりを差し出した。

「はい。今日は三つよ」

「やった!」

 あまりにも満面の笑みでおにぎりを受け取るモレヤに、見ているこちらの方が毒気を抜かれてしまって、ヤシュカは苦笑して腰を下ろした。

 モレヤはいそいそと竹の皮の包みを開いて、早速一つ目の半分ほどを一気に食べた。ヤシュカはそれを横目で見ながら、この分だとヤシュカが一つ食べ終わる頃には全部食べてしまうのでは、と思った。

「んー……やっぱり、これうまいな……」

 口元にご飯粒をつけておにぎりを頬張るモレヤを見ていると、何だか大きな弟が出来たような気分になる。
 弟、と思ってからヤシュカはあることに気づいた。

「ねえ、モレヤって年はいくつ?」

「年? 今年で二十五だ」

「えっ……」

 思っていたよりも年上だったことにヤシュカはちょっと慌てた。おにぎりを無心に頬張る姿しか見ていなかったものだから、自分と同じくらいだと思っていた。

「ヤシュカは?」

「私は今年で十九よ。やっと去年成人したの」

 成人は獣人けものびとにとって重要な意味を持つ。それは一人前の大人として認められ、つがいを持てるようになるからだ。けれどヤシュカには――否、ミナカタの雌たちには去年、その機会はなかった。

「そうか、大体予想通りだな」

 そう言うとモレヤは、三つめのおにぎりの最後の一口を食べ終えた。早い、早すぎる、とヤシュカは慌てた。仕方なしにヤシュカは残っていた一つを半分にして、モレヤに差し出した。

「……食べる?」
「いいのか?」
「うん」

 既にモレヤの尻尾はパタパタと揺れている。本当は丸ごと一つあげたかったけれど、今日はヤシュカも午前中ずっと体を動かしていたせいでお腹が空いている。もっと多めに持ってくれば良かった、と思った。

「ありがとう」

 半分のおにぎりを受け取ったモレヤは、今度はそれを味わうように大事に、ヤシュカに合わせてゆっくりと食べていた。



 二人で並んでおにぎりを食べ終えると、立ちあがったモレヤが言った。

「ヤシュカ、午後は何か予定はあるのか?」
「ううん、多分大丈夫だと思うけど……」

 本当は皆のところに戻って作業した方がいいのは分かっている。けれどもヤシュカはあまり戻りたくなかった。だって、作業をしていたって周りの者たちは面白おかしく会話をしているけれど、ヤシュカには誰も話しかけることはないのだから。

「じゃあ、おにぎりのお礼にいいところに連れて行ってやる」
「本当?」
「ああ。ちょっと後ろを向いていて」

 モレヤの言葉に素直に従うと、衣擦れの音が聞こえた。多分、モレヤが獣形けものがたになっているのだと思う。音がしなくなった頃合いを見計らって振り向くと、予想通り山犬の姿になったモレヤがいた。

「背中に乗ってくれ。少し距離があるから」

 そう言われて恐る恐るモレヤの背に乗ると、見た目よりもずっと柔らかい黒茶の毛並みは、春の日差しの匂いがした。

 誰かの背に乗るなんて初めてだ。
 鹿族は獣形けものがたになっても背に人を乗せるなんてことはしなかった。

「しっかり掴まってくれ」

 モレヤが痛くない程度にキュッと毛皮に掴まると、モレヤがゆっくりと歩き出した。そして徐々に小走りになり、段々と景色が後ろへと流れていく速さが上がる。

 そのあまりの速さに驚いた。

 ヤシュカだって鹿族なのだから、それなりの速さで駆けられると自負していた。獣形けものがたになれば脚は細いが、急な崖だって駆け上がれるし、敏捷さではなかなかのものだと思っていた。

 けれどもモレヤはその太い四肢でしっかりと大地を踏みしめ、段差などないかのように進む。大きく跳躍してもヤシュカを気遣ってなのか、柔らかく着地する。

 全身のしなやかな筋肉を使って躍動しているのに、その動きは自然で、無駄なところは一つもない。

 言うなればヤシュカの最高速度での走りは何かあった時に逃げるための走りで、モレヤのそれは追う者の余裕さえ感じさせる走りだった。

 ヤシュカが内心で小さな敗北感を抱いていると、少しずつ肌寒くなってきた。ものすごい速さで通り過ぎていく景色をちらりと見渡すと、森の中にまだ雪が残っているところが徐々に増えてくる。

 まさか、山の上に登ろうとしているのだろうか、というヤシュカの懸念は現実のものとなった。

 濃い森が次第にまばらになり、木々が細く低いものになる。やがて雪に覆われたハイマツしかなくなる頃、急に視界が開けた。

 真っ白な雪に覆われた急斜面をものともせずにモレヤは駆け上がる。ヤシュカはこんなに雪が積もった山に登ったことはない。

 ミナカタ族が住んでいたところにはこんなに高い山は、春になっても雪が残っているような山は、なかった。

 急な斜面が幾分かなだらかになったところで、ようやくモレヤは止まった。

「どうだ? 凄いだろ?」

 モレヤがやっと後ろを振り向いて、得意げに言った。

「寒い!」

 確かに凄いのかもしれないけれど、今のヤシュカには景色を見る余裕はなかった。天気は良いが辺り一面雪景色で、おまけに稜線上は風が吹き抜けて寒いことこの上ない。
 時折風で飛ばされた雪の粒が頬にピシピシと当たって痛いくらいだ。

 ヤシュカが叫ぶと、モレヤはちょっと驚いて金色の目を丸くしてから、ごめんごめんと謝った。

「俺の服を着て」

 ヤシュカは言われるがままにかじかむ手でモレヤの首に括り付けられた服をほどく。そしてあの分厚い上衣を取り出し、ずぼっと頭からかぶった。

 頭巾もかぶってしっかりと耳まで覆う。大切な鹿の耳が寒さで千切れて風に飛ばされるところだった。ヤシュカが自分の身体を抱きしめて震えていると、急に風が遮られた。

「これで寒くないか?」

 モレヤがその巨体で風からヤシュカを守るように、ふわりとした毛皮でヤシュカを包んでいた。ふさふさの尻尾がヤシュカの足に触れてドキドキする。

「う、うん……」

 モレヤの上衣は、モレヤの匂いがする。
 けれどもそれよりも、足に絡まるように触れる尻尾の方に気を取られた。

 ヤシュカは落ち着かないでいるのに、モレヤはそんなことは気にした風もなく告げる。

「ほら見て、ヤシュカ。今日は天気がいいからどの山も見える」

 ようやく落ち着いてモレヤの言葉に従って辺りを見渡すと、ヤシュカはその景色に心を奪われた。

 山、そしてまた山。幾重にも連なる山が少しずつ異なる色彩でどこまでもどこまでも続いている。未だ雪を頂いた高山から、麓の春を纏う低山まで、すべてが一望の下にあった。

 数え切れないほどの山があるのに、どれ一つとして同じ形の山はない。
 湖を包むように、迫るように、山がまるで海のように広がっていた。

「すごい、すごい……!」
「どうだ? 気に入った?」
「うん、とっても!」

 こんな景色は見たことがなかった。
 ヤシュカは海辺育ちだ。近くに山はあったけれどこんなに高くなかったし、そもそも山の頂には見張りのための設備があって、景色を見るためだけに山に登るなんてことはなかった。

「夏にはここが一面の花に覆われるし、初夏には珍しい花も咲く」
「見てみたいわ」
「夏は雪がなくなってもう少し登りやすくなるから、多分ヤシュカの足でも登れるだろう」

 ヤシュカはそれを想像した。モレヤの背に乗せて連れてきてもらうのも楽しかったけれど、自分の足でここを跳ねられたらもっと楽しいに違いない。

 見える範囲の景色全てがあまりにも美しすぎてヤシュカは言葉を失っていたが、ふと一つの高い山が目に入った。

「ねぇ、モレヤ。あの一番高い山はなんていうの?」
「ああ、あれは不二フジの山と呼んでる。他に並ぶものがないくらい高い、という意味で」

 その山はとても美しい形をしていた。
 左右対称で、連なる他の山々とは異なって、ただ一つだけでそこに立っていた。
 頂く雪の量も周囲の山とは桁外れに多い。この山でさえかなり高くてまだ真っ白なのだから、あの山はどれほど高いのだろうと思った。

「……いつか、あそこへ行くのが俺の夢なんだ」

 ぽつり、とモレヤが呟いた。

「行けるといいね」

 綺麗な景色に心が浮き立っていたヤシュカは、何の気なしに言った。
 ヤシュカもあそこへ行ってみたいと思った。あの頂から見る景色は、一体どんなものなのだろう。いや、登らずとも良い。もっと近くであの山を見てみたいと思う。

「……ああ、そうだな」

 答えたモレヤの声に、少し苦い色が混じっていたことなど、気づかずに。



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