うみと鹿と山犬と

葦原とよ

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第10話 発情期

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 ぴくり、とヤシュカの鼻が動いた。
 頭で考えるよりも早く、本能が気づいた。

(……モレヤの匂いがする……?)

 そんなはずはないと思いながらも、そわそわとしながら秋の初めての収穫を寿ぐ神事を気もそぞろに終える。手伝ってくれていたミサハも社から退出し、ようやく一人になったヤシュカは緊張を解いた。

 今年採れたイネの穂の実入りは、思っていたよりも悪かった。

 色々なことが影響しているのだと思う。植え付けが少し遅かったこと。スハの水が冷たいこと。夏が短くて日が照らす時間が少ないこと。秋がやってくるのが早く、空気がすぐに冷たくなること。

 長い時間をかけて、この地に合ったものを選り分けて育てていけばうまくいくのかもしれない。アマズミ族も同じようにイネを育てているのだから。塩の峠を越えただけでそんなに風土が変わるとも思えなかった。

 けれどもミナカタには時間がない。
 今年の秋の収穫が少なければ、冬を越すのが厳しくなる。何しろこれから里の人数が増えるのだ。

 モレヤに少し聞いた話では、スハの冬は長く厳しいらしい。もうみそぎも泉の水が冷たすぎて人形ひとがたでは行えなくなって、獣形けものがたで行っていた。

 特に最近は発情した雄たちと万が一にも出会うことがないように、日の昇りきらないうちに行っているから尚更だ。

 この神事で今日のヤシュカの仕事は終わる。ヤシュカは神事用の巫女服を脱ぐと綺麗にたたみ、いつもの服は首に括り付けた。
 そして獣形けものがたに変化する。

 獣形けものがたになった方が嗅覚は格段に上がる。
 すん、とひと嗅ぎするとやはりモレヤの匂いが微かにした。

 社の表戸を少しだけ開けて外の様子を伺うと、母や里の者たちは収穫中の稲田を前に厳しい顔で何かを話し合っている。

 耳を澄ませると、アマズミという単語が聞き取れた。きっと、既にイネの栽培に成功しているアマズミに教えを請いに行くとかそういう話をしているに違いない。

 最初からそうしていれば良かったのに、無駄に矜持の高い母のせいでアマズミの里でも決裂したのだ。下賤の者の手は借りない、などと言い張って。

 アマズミは何年か前に、先にこちらに移り住んだ。故郷では、確かに母がヤシュカの権威を使って従えさせた一鹿族だった。そんなアマズミが、ここから北の地で豊かな里を築き、繁栄していることが母は妬ましくて仕方ないのだ。

 もしかしたらアマズミへヤシュカを遣わすなどと言い出すかもしれない。母は未だに「白き鹿」の権威が有効だと思っている。

 そんなのはごめんだ、とばかりにヤシュカは社の裏戸からこっそりと抜け出した。社に巡らされた垣根も、丸太塀や逆茂木さかもぎ環濠かんごう獣形けものがたになってしまえば関係ない。ググッと身を縮めてから大きく跳躍すれば、一飛びで飛び越せる。
 まあ、この備えは獣人けものびとに対してではないのだから当たり前なのだけれど。



 里を抜け出したヤシュカは、裏手の山へと向かった。モレヤの微かな匂いを頼りに森を駆け抜けていく。

 スハのうみのほとんど南端の、岩の上にはモレヤはぼうっと座っていた。その姿を視界にとらえたヤシュカは慌てて人形ひとがたに戻り、急いで衣服を身につけるとモレヤに駆け寄る。

「モレヤ! どうしたの⁉」

 ヤシュカの知る限り、モレヤがこちらにやってくるなんて初めてのことだ。忌み子はあの池の周囲から基本的に離れてはいけない決まりになっていると言っていた。

 とは言っても五つ根の樫のことを知っていたり、つの嶺にもやたらと詳しかったりするので、結構出歩いていることは間違いないのだが、ミナカタ族が里を構えてからモレヤの方が出向くなんてことはなかった。

 よっぽどの緊急事態なのかと慌てたヤシュカに、モレヤは力なく微笑んだ。

「……ヤシュカ、なんでここに?」

「それはこっちの台詞よ! モレヤの匂いがしたから来たの。何かあったの?」

 ヤシュカがモレヤの横に並んで座ると、モレヤはヤシュカに目を合わせずに遠く山の彼方を見るようにして言った。

「……最近ヤシュカがなんだか落ち着きがなかったから、何かあったのかと思って見に来たんだ」

「えっとね、それは……」

 ヤシュカは急に恥ずかしい気持ちになった。当の本人のモレヤに見抜かれていただなんて、もうなんて言ったいいのか分からなくなる。

「いつもよりも凄く良い匂いがして、でも俺の話なんか聞いてくれないから、きっと里に好きな雄でも出来たんだろうなって……そいつがあんまり頼りなさそうな奴だったら喧嘩でも吹っかけてやろうと思ってたんだけど、里でのヤシュカの様子を見て俺なんか釣り合わないと思って全部自信を無くした……」

「はぁっ⁉」

 モレヤの語る内容にあまりにも突っ込みどころが多すぎて、ヤシュカは思わず大声をあげてしまった。

「ちょ、ちょっと待ってよ……いつ私が、里の雄を好きになったって……」

「だって、前よりも甘い花の香りが強くなってる。だから匂い袋でも持ち始めたのかと……それに俺といても落ち着かなさそうだし、上の空だし、里でのヤシュカは化粧までして凄く綺麗だったし……」

 種族の違いがこんなところで悪い方向に作用するとは、ヤシュカは思ってもみなかった。意を決して、ヤシュカは真実を告げるしかなかった。

「えっとね……甘い香りは……多分、今、私が発情期だから……」

「え?」

「し、鹿族の発情期は秋の始まりくらいからなの! 山犬は違うの?」

「……シャグジは大体秋の終わりから冬にかけてだな……」

 ヤシュカの言葉はモレヤにとって思ってもみなかった内容だったのだろう。目をまん丸くしてパチパチと瞬かせていた。

 山犬の発情期が微妙にずれているとはヤシュカも初めて知った。それにモレヤは忌み子と言われて隔離されてきたから、発情期の雌がどういう風になるのか知らないのだろう。

 山犬とは細部が異なるかもしれないけれど、雄を意識して落ち着かなくなるのは、大体どの種族の雌も同じだ。故郷にいた時に色々な種族を見たけれど、みんな似たり寄ったりだった。

「それに巫女服を着て化粧までしてたのは、今日、里で神事があったからで、いつもはあんな格好してないよ!」

「そうなのか?」

 全く、とんだ日に来てくれたものだと思った。モレヤがこちらへ来てくれたことは嬉しいけれど、まさかそんな勘違いをしていただなんて。

 ヤシュカに好きな雄がいるところまではきちんと見抜けているのに、それが自分だなんて考えもしなかったのだろう。

「じゃあ、そわそわしてたのは?」

 モレヤがやっとこちらを見て、ヤシュカの目を覗き込むように真剣な表情で見つめてくる。金色の綺麗な瞳は純粋で、その瞳に映し出されているのがヤシュカだけなのだと思うと、体が熱くなった。

 モレヤの眼差しには、雌を求める雄の色が乗っている。モレヤもまたヤシュカを望んでいるのだと気づいて、全身が制御できなくなるほどぞわぞわとした。

「……匂いが強くなった」

 至近距離で囁くように言われて、もうどうしようもなくなる。きっとモレヤも気づいた。金の瞳が確信したように細められ、耳元で甘く言われた。

「……ヤシュカ、発情しているのか?」

 その瞬間に体中の血が沸騰したようになって、ヤシュカは思わず逃げ出そうとした。けれどもモレヤの大きな手がヤシュカの手首を捉えて、その逞しい腕で強く抱き締められた。

「モレ、ヤ……っ!」

「ヤシュカ、答えてくれ。ヤシュカが発情している相手は?」

 耳へ直接流し込まれるように言われて、ヤシュカは甘く拘束されたように動けなくなる。それなのに心の臓だけはばくばくと激しく脈打っていて、鼓動がモレヤに聞こえてしまうと思った。

 ヤシュカはモレヤの分厚い上衣をキュッと握りしめた。抱き締められて恥ずかしくて逃げ出したいのに、このままずっと離さないで欲しいと相反することを思う。

「……ヤシュカ、耳に触ってもいいか?」

 モレヤのその問いに、ヤシュカは小さく頷いた。耳に触れることを許すのは、番う相手だけだ。

 モレヤの大きな手がそっと躊躇いがちに耳に触れた瞬間、ビリビリとした感覚がヤシュカの体の中を駆け抜けた。

「ん……っ!」

「ヤシュカ、凄く色っぽい」

 ただ耳を撫でられているだけなのに、体中の力が抜けてモレヤにくたりと凭れかかる。
 昔、耳は他人には触らせてはいけない、と言われたことが蘇る。耳に触れられただけでこんな風になるなんて、聞いていなかった。

「モレヤ……も、ダメ……っ……モレヤの発情期は、もう少し先なんでしょ? それまで……」

 秋の終わりには二人の発情期が重なるだろう。それまではヤシュカが一方的に発情してしまうのでモレヤに悪い。そう思ってヤシュカは言った。

「もう遅い」

 モレヤの瞳がキラリと光った。

「ヤシュカには、いつも発情している」

 ゆっくりと顔が近づいてきて、ヤシュカは観念して目を伏せてモレヤの唇を受け入れた。



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