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第9話 スハの里
しおりを挟む最近、ヤシュカがどことなく上の空だ。
モレヤと話していても何か他のことを考えているようで、反応が遅れたり、話したことを聞き返されることが増えた。
そわそわとしてい落ち着きがなく、モレヤが近くに寄るとびくりと体を震わせて、少し顔を赤らめて怒ったような困ったような顔をする。
何か怒らせてしまったのかと思ってモレヤが聞いても、モレヤは全然悪くないと慌てて言い募る。それでいて深い溜息をつくのだ。
いよいよこれは何か嫌われてしまったのか、それとも他に想う相手が出来たのかとモレヤは落ち込んだ。
けれどもヤシュカは十日ごとに律儀に池にやってくる。甘い甘い花の匂いを漂わせて。日が経つごとにヤシュカの花の匂いは強くなる。だからきっと里に好きな雄が出来て、その雄のために匂い袋でも身につけるようになったのだろうとモレヤは思った。
ヤシュカは美しい。
白く透き通って流れるように落ちる髪も、強い意志を映し出す赤く大きな瞳も、傷も染みも一つもない真っ白でふんわりとした肌も何もかもがモレヤを虜にした。
今もモレヤの方を見てはくれないヤシュカをそっと盗み見る。
赤く潤う小さな唇からは悩ましげな溜息が漏れ、春の野に咲く花をそのまま乗せたかのような桜色の爪が少し苛立たしげに下草を捻り取る。
髪と同じ白さの短い毛に覆われた耳と、上衣の切れ込みから覗く短い尾が何だか落ち着かなさそうにピクピクと動いていた。
あの短い尾にどうにかして自分の尾を絡めたら、さすがにヤシュカもモレヤの想いに気づいてくれるだろうか。けれども他に想う雄がいるのなら、それも迷惑かとモレヤはますます落ち込んだ。
本当はヤシュカを連れて行きたいところが沢山あった。
モレヤしか知らない、丸々としたドングリが地面を覆い尽くすほど落ちている森。真っ赤に熟れた甘酸っぱい木の実が鈴なりになっている茂み。産卵の時期を控えて丸々と太った川魚が潜んでいる渓流。
秋は恵みの季節だ。やがてやってくる長い冬に備えるために神がもたらした恵みが山には溢れる。
厳しい寒さに覆われるスハの冬は、海辺育ちのヤシュカにとってはおそらく未知のものに違いない。冬に備えるために編み出されたシャグジの知恵を、ヤシュカに少しでも教えてあげたかった。
それに、モレヤの秘密の場所をヤシュカに伝えたかった。
この池からそう遠くないところに、夏頃からモレヤは密かに拠点を作り始めた。清らかな水の湧き出る泉が近くにあって、山の恵みも川の恵みも沢山ある。折り重なった巨石が作り出した洞窟に枯葉や布を運び込み、いわば「巣」を作っていた。
四つ根の樫の方にあるモレヤのねぐらからも色々なものを持ってきて、住み着けるような体裁を整えていた。あまりねぐらに戻らないと一族の者に不審に思われるから、二、三日に一度はねぐらに戻るが、最近ではこちらの方が主な活動拠点だ。
そこでヤシュカのためにあるものを用意していた。
それは、ウサギの毛皮を集めて作った外套だ。多分普段のヤシュカの服装を見るに、スハの寒さに耐えられるような衣服はないだろう。
白いヤシュカに合わせて、秋頃から冬毛に生え変わり始めた白いウサギを選んで狩った。白い外套は、雪の季節には保護色になる。ヤシュカが狩りをすることは多分ないだろうけれど、モレヤにとっては白い外套は冬の必需品だった。
今年の春から夏にかけては、本当に日が巡るのが早かった。
いつもは、眠る・食べるの繰り返しでしかなかったモレヤの日常に、ヤシュカが加わっただけで世界は彩りを変えた。
十日経つのが待ち遠しく、やっと迎えたその日も夢のような早さで時間が過ぎていった。そうしてまた十日後を心待ちにし、次はどこへ連れて行こう、何を見せよう、今の時期ならばあれが美味しいだろうと考えるだけで心が弾んだ。
いつも一人で見ていた景色も、いつも一人で食べていたものも、ヤシュカと同じ目線で見て、横に並んで食べれば、それはモレヤの知らないものになった。
世界がこんなにも美しく、色彩に溢れていたと知ったのはヤシュカのおかげだ。
だからこそヤシュカを失いたくなかった。
ヤシュカに他に想う雄が出来たのだとしても、諦めきれなかった。
もしも、スハの里にヤシュカが想う雄がいるのなら、そいつを一目見てみたかった。それでモレヤよりも良い雄だったとしたら諦めもつくが、そうでないならばと思い、モレヤは一大決心をしてスハの里に行くことにした。
ミナカタ族が住み着いてからは五つ根の樫のあたりに近寄ったことはない。
以前はとある理由があって冬などに時折こっそりと行っていたのだが、忌み子であるモレヤが池から遠く離れた場所で目撃されるのはまずかったし、ヤシュカ以外のミナカタ族にも今までは興味が湧かなかった。
蔦で編んだ籠の中にエビカズラの実を山ほど入れて持って行く。ヤシュカへの手土産だが、もしも見つかった時に里のものと物々交換したいと言えば、そこまで怪しまれないだろう。
***
昼を過ぎた頃、モレヤは池を出発した。途中までは獣形で行き、スハのうみのほとりに近づいたあたりで人形に戻る。
人形で歩いていくと獣形で走った時の倍以上遅くなるが、獣形の方がどうしても臭いが強くなってしまうから仕方ない。
そうして五つ根の樫に近づこうとしたモレヤは――樫まで辿り着けなかった。
久しぶりに見た五つ根の樫の周り、今はスハの里と呼ばれたその地はモレヤの知っているものと大きく変わっていた。
モレヤは樫からかなり離れたところに残されている山の斜面の森から、あたりを驚きの目で見つめた。
樫の周りに鬱蒼と茂っていた森は綺麗に切り倒され、立ち並ぶ住居や倉庫に姿を変えていた。特に、樫の木のたもとにある建物が一際大きい。
二重の垣根で囲まれたその建物は、床が高く何本もの柱で支えられていた。壁は板張りで、綺麗に切り揃えられた茅葺の屋根が美しい。
それはモレヤが今まで見たことがないような建物だった。
ピンと張り詰めたような空気が漂うその建物は静まり返っていて、あたりに人気はなかった。
あれだけ大きければおそらく族長の住まいのような気がするが、今は出払っているのだろうか。
その建物の他にも、屋根を直接地面に乗せたような住居と思しき建物が整然と立ち並んで、何人もの鹿族が出入りしていた。
少し大きめの建物からは、炊事の煙だろうか、幾本もの煙が立ち上っていて、おそらくあれがヤシュカの言っていた「厨」なのだろうと察せられた。
それ以外にもモレヤが初めて見るものが沢山あった。
まずはスハのうみの方角に向かって広がる、四角く区切られた土地。何かの植物が綺麗に植えられていて、黄色の穂が垂れ下がっていた。
その土地で鹿族の者が穂を摘み取って集めている。
その様子でピンときた。
あれが、「コメ」の取れる「イネ」という植物に違いない。
ミナカタ族がイネを育てて食用にしているとはヤシュカから聞いていたが、こんなにも大規模なものだとは思わなかった。
例えばモレヤは、山の中で山芋が採れる場所を知っている。山芋を掘り出した後に芋の端を少しだけ切り取って、穴を埋め戻す時に一緒に埋めれば、翌年もまた同じ場所で芋が取れる。
モレヤの知っている「植物を育てる」とはそういうことであり、それをねぐらの近くでやっている、とそういう認識だったのだ。
けれどもこれは、その想像をはるかに超えていた。
モレヤは危惧する。
シャグジ族はあまり一族の数が増えない。それは、一族同士で番うという特性もあるし、何より縄張りがある程度決められている以上、あまり頭数が増えると獲物がなくなるからだ。
けれどもこのスハの里の様子を見る限り、「イネ」を育てれば育てるだけ、ミナカタは増えることができる。
しかも「イネ」は今、実っているようだが、ヤシュカは春にも夏にも「コメ」で作ったおにぎりを持ってきてくれた。
ということはつまり、「コメ」は収穫した時以外でも何らかの方法で保存がきいて、蓄えておくことができるということだ。
それは天災に強く、また他の土地へ移動する際も役に立つということを示していた。実際に、ミナカタは海辺の地からここへ来ている。
海辺の地?
モレヤはぞわりとした。
ミナカタ族は、どこから来たのだ?
今までモレヤは単純に、このスハの地域をずっとずっと北に行った先にあるという、コシのうみの方からミナカタ族は来たのだと思っていた。
長も、ここから北の塩の峠を越えた先にいるアマズミ族に受け入れられなかったというようなことを言っていたから、北から来たのは間違いない。
けれども本当にコシの海辺に住んでいたのだろうか。
地続きのところから来たにしては、ミナカタ族の持つ文化はあまりにも異質で、高度すぎる。
そしてモレヤが気になっていることがもう一つあった。
ミナカタ族は、集落を取り囲むようにしてイネを植えているが、その集落とイネの栽培地の間にぐるりと水路が掘られている。水路から集落へと上がる斜面には、先を鋭く尖らせた丸太が埋め込まれていて、集落を取り囲む丸太の壁の先もまた尖っている。
まるで、何かから集落を守っているようだ。
いや、何かからではなくて、敵に攻められることを明確に前提にしている。
ミナカタ族がこんなにも警戒する相手は誰なのかと気になった。
シャグジは今の所、敵対もしていなければ味方でもない。おまけにあの水路はシャグジが獣形になれば悠々と飛び越えられるほどの幅だ。
ヤシュカに聞いてみたいことがいくつも増えた。
しばらくスハの里を眺めていたモレヤの元に、ヤシュカの甘い甘い香りがした。どこに、と探したヤシュカは例の一番大きな建物に入ろうとしていた。
そしてそのヤシュカの姿を見たモレヤは、今日一番驚いた。
いつもヤシュカが着ている衣も大層綺麗で繊細だったが、今、ヤシュカが纏っているものはその比ではなかった。
汚れひとつない真っ白な上衣の表面は、非常に繊細な模様がうっすらと見える。模様が刻まれているのに艶やかな光沢があって、ヤシュカが歩くたびに長い裾がふわりと広がる。
上衣の下には真っ赤なヤシュカの瞳のような色の袴を身につけていた。それもまたヤシュカの動きに合わせて軽やかに舞う。
唇と目尻に紅を差し、いくつもの宝玉が揺れる金の冠を戴き、恭しく掲げ持つ白木の台の上には、白い粒のような実が山のように積まれていた。あれは多分、「コメ」だ。
ミナカタ族の中でのヤシュカの役割は「巫女」だと言っていたから、コメが収穫できたことを神に感謝する、おそらくそんな神事だろうと思う。
けれどもそんなことはどうでもよくて、ただただひたすらヤシュカの神々しさに圧倒された。
モレヤと会っている時の無邪気なヤシュカの様子はどこにもない。
匂いさえなければ、あれが本当にヤシュカなのだろうかとさえ思う。
腰にぶら下げた、蔦で編んだ籠が酷く陳腐なものに思えた。
ヤシュカと番になりたいと、なれると思い上がった自分を恥じた。野山を駆け回り、巣のようなねぐらに住み、長が用意した服や靴を特に気にすることもなく着て生きているのがモレヤという生き物だ。
何もかもがヤシュカとは違った。
ヤシュカとこんな自分では、釣り合わないと思った。
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