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第8話 秋の入り口
しおりを挟むこの間、八つの嶺から完全に雪がなくなって夏の到来を喜んでいたと思ったら、もう吹く風は秋の気配を孕み始めていた。
高所にあるスハの地は、夏が短いのだとヤシュカは初めて知った。
禊に使っている小さな泉の水も冷たく感じられるようになってきた。もうそろそろ人形での禊から獣形での禊に切り替えた方がいいかもしれない。毛皮がある分だけ、幾分かマシなのだ。
目が覚めるような早朝の冷たい水を体から払って、ヤシュカは手早く服を着た。まだ一族の者がほとんど寝静まっているような夜明け頃、ヤシュカは起床する。
そのまま禊を済ませて体を清め、五つ根の樫が大きく枝を広げた下に新しく作られた社で、祖神に祈りを捧げるのが、ヤシュカの一日の始まりだ。
以前は祖神への祈りも随分と熱心に行っていた。それは、それしかすることがなかったというのもあるし、祖神は一族を守ってくれると信じていたからだ。
祈りが終われば、いつの間にか社に届けられている朝餉を食べる。最近だいぶ食事の内容が以前と同じような種類の多いものに戻りつつあったけれど、一人で食べる食事は味気ない。
塩を振っただけのおにぎりを、モレヤと二人で並んで食べる方がよっぽど美味しいと思う。
食事を済ませて少し休憩した後は、ヤシュカの主な仕事である機織りに取り掛かる。機織りと言っても、里の娘たちのようにどの色をどこに使ってどんな服に仕立てようとか、仕立てた服を愛しいあの人に着てもらいたいとか、楽しく話しながら織る訳ではない。
社の中で一人、機《はた》の音だけを供に、真っ白な布を織る。
鮮やかな色彩も、複雑な刺繍も施さない、神に捧げるためのヤシュカの毛色のような真っ白な布をひたすら織る。
一日に決められている長さだけ織ってしまえば、後は何をしていてもいい。
昔は精を出して一生懸命できるだけ沢山織ろうと頑張っていた。
けれども体調を崩して何日か織ることができない時があった。その年は天候が不安定で秋の大風で社が壊れ、さらに織ることができない日が増えた。
明らかに前の年よりも織った量が少なかったのに、誰にも何にも言われなかった。
ヤシュカの織った布は、神事で捧げられた後、染め直されて外に売られているらしいと小耳に挟んだことがある。
里の娘たちが総出で織った大量の布と一緒くたにされて売られるらしい。だから多少量が多かろうが少なかろうが、誰にも気にされていなかった。
それを聞いてから、真面目に織ることをやめた。
神事に使う分だけ織ってしまったら、後はこっそりと社の中で昼寝をしていたり、人目を盗んで社から抜け出していたこともある。
けれども最近はかなり真剣に織っていた。
十日に一度、モレヤに会いに行く時以外はほとんど機織りをしていると言っても過言ではない。
モレヤに、新しい服を仕立てたかったからだ。
とは言ってもモレヤの上衣は革製で分厚く、あんなものは作れない。だから脚衣や帯、肌着といったものを作るための布を織っていた。
真っ白なままでは見栄えがしないから、モレヤの池のところで染めさせてもらって、後は社の中でまた縫おうと思っている。
本当は色糸を使って模様を織りたいけれど、ヤシュカの元に運ばれてくるのは白糸だけだ。だから後で染めて、その代わりに繊細な刺繍を施したい。
今からどんな図案を刺そうか、毎日楽しみに考えている。
何か目標があるというのは楽しいことだとヤシュカは思った。
毎日ただ漠然と、特に必要ともされていない布を織るよりは、誰かのために――モレヤのために織った方がずっと楽しい。
***
しばらくは熱中して布を織っていたヤシュカだったが、最近ふと集中が途切れてそわそわとすることが多くなってきた。
気分転換に、と社の外に出て大きく伸びをしたヤシュカは、慣れぬ視線を感じた。里の雄たちが、遠巻きにちらりちらりとヤシュカを見てくる。いつもはヤシュカなどいないかのように振舞っているのにだ。
それで気づいた。発情期だ。
その瞬間にぞわりとした。
一族の雄たちにそういう目で見られている。それだけで恐怖と嫌悪がないまぜになった気持ち悪さに襲われた。
「ヤシュカ」
小さく震えていたところに声をかけられて、ヤシュカは慌てて振り向いた。
「はい、母様」
「あなたも気づいたでしょう。まだトオミは来ない。しばらくは社から出ないようにしなさい」
「そんな……!」
何かを言いかけようとしたヤシュカは、言葉を噤んだ。ヤシュカもそれが一番良い方法だと気付いたからだ。そして大人しく母の言葉に従って社へと戻った。
母は、ヤシュカの身を案じてあんなことを言ったのではない。
トオミが来る前に、ヤシュカが他の雄と番いでもして、トオミ以外の子を身篭られたら困るからだ。
どこまでも勝手な人だと思った。
母もトオミも、ヤシュカをトオミの番にするという点では利害が一致しているけれど、実のところその思惑は微妙に異なる。
母は、純粋なミナカタの血を残したいと思っている。これはまあ、分からなくもない。
ヤシュカの「白」は突然変異だ。それは母が一番良く分かっている。だからヤシュカの子供が白くなくても、次世代の「長」の血統を強固なものにしたいのだ。
基本的に獣人は雌がその血筋を伝えていくが、一つだけ獣人の血を途絶えさせる方法がある。
それは、ヒトと交わることだ。
獣人と比べるとヒトの血の方が強いのか、どんな組み合わせでも獣人としての特性が失われる。ヒトの男が獣人の雌を孕ませてもヒトしか生まれないし、逆に獣人の雄がヒトの女に種付けしてもやはりヒトしか生まれない。
それを利用されて、獣人の雌がヒトに攫われたり、殺されたりするのをヤシュカは何度も見てきた。そうしてその種族は緩やかに絶えていった。
だから母は、ヒトにヤシュカが孕まされる前に、一頭でも多くヤシュカにミナカタの子を産ませたいと思っている。
この点については母も兄も、思うところは同じだ。
ただ母は、ヤシュカが始めて番う相手はトオミしかいないと思っているが、本当はそれを苦々しく思っていることも、ヤシュカは気づいている。
それは、トオミの持つ力が強くなりすぎるからだ。
ミナカタの現在の族長は母で、次期族長はヤシュカだとほぼ決まっている。けれどもそれとは別に、雄であるトオミを族長に推す勢力も最近台頭し始めている。
そして何よりもトオミが、次期族長の座を狙っている。
ミナカタ族の危機にあって、雌の、それもまだ年若いヤシュカでは舵を取れないというのが表向きの理由だ。実際、ヤシュカでは無理だろうと自分でも思う。
しかしトオミの本心はそうではなくて、そもそも雌が一族の主導権を握ることを好ましく思っていない。面と向かって口に出されたことはないが、トオミの言葉の端々には雌に対する蔑視と苛立ちが現れている。
戦では雌は役に立たないとか、雌はどこの雄でも咥え込むとか、悪し様に罵っているのを密かに聞いたこともある。
けれども雌が族長となることが多い獣人の世界で、急に雄がその座を奪うことは他の種族からの反発も受ける。
だからトオミはヤシュカを番にしたいのだ。
表向きは年若い異父妹を支えるため。神の使いであるヤシュカは神事に専念してもらい、雑事はトオミが引き受ける。
なんとも美しく支え合う兄妹の図だ。
陳腐な茶番すぎて反吐が出る、とヤシュカは思う。
実際はヤシュカを族長に望む勢力や、雌が族長となるのが伝統であるという勢力に文句を言わせないため。ヤシュカの「神の使い」としての権威を使うだけ使って、一族を牛耳るのはトオミだ。
二、三人ほど、純血のミナカタの雌の子供が産まれてしまえば、おそらくヤシュカは他種族の雄に貸し出される。
他種族の雄に神からの祝福を与えさせられるのだ。
母はおそらくそんなトオミの野心に気づいているだろう。けれどもヤシュカをトオミの番にしたいという点では意見は一致している。そして、この難局を乗り切るには経験不足のヤシュカでは無理だろうことも分かっている。
母の思惑と、兄の野心と。
そこにヤシュカの気持ちは微塵も介在する余地はない。
族長にはなりたくない。トオミの番にもなりたくない。そんな気持ちを打ち明けたところで、我儘を言うなと一蹴されるのがオチだ。
ヤシュカはただ普通に生きたかった。
地を耕し、魚や獲物を捕り、木の実を集め、機を織って愛しい人のための服を作る。季節の移り変わりを愛で、森や大地を駆け回り、たわいもない話に花を咲かせる。そしてできればシャグジのようにただ一人の番を生涯愛し、その人と子を儲け、その温もりに包まれて眠りたい。
そう例えば、モレヤのような人とだったらそれができるだろう。
そこまで考えて、ヤシュカは一気に顔が熱くなった。
同時に発情期を迎えつつある体がムズムズと落ち着かなくなる。
ヤシュカは自分自身に言い訳をした。
モレヤが思い浮かんだのは物の例えであって、それが本当に叶えられると思っている訳ではない、と。
けれども。
モレヤはシャグジの中では忌み子と呼ばれて疎まれている。
以前にあの池で言い寄っていた雌犬は、モレヤが忌み子であると知るや否や逃げ出して行った。
だからシャグジの中ではモレヤの番になろうという雌はいないだろう。
ならばモレヤを番に、と望むことは不可能ではないのではないか。
モレヤは優しい。山のことは何でもよく知っているし、お互い境遇が似ているせいか話も弾む。その四肢は太く逞しく、しなやかな筋肉で力強く野山を駆け抜け、いつもヤシュカをそれとなく気遣ってくれる。
あの日、初めて会った日。
一度だけ見た人形のモレヤの裸身が脳裏に蘇る。
いつもは分厚い上衣に覆われているその体は、よく引き締まっていて無駄がなく、とても美味しそうに見えた。
(――っ! 私、何を考えているの⁉)
ヤシュカは自分の頬を思い切りパチンと叩いた。
これだから発情期は嫌なのだ。何をしていても雄のことしか考えられなくなる。普段のヤシュカの気持ちなど消え去って、見境なく雄を求める雌になってしまう。
(……見境なく?)
自分で自分の考えたことに、ヤシュカは些細な違和感を覚えた。
確かに発情期の雌は雄を求める。より多くの雄を自分に惹きつけて、その中から好みの雄を選び出すために発情の匂いをばら撒く。それは雄もまた同じで、意中の雌だろうとそうでなかろうと、とりあえず雌の匂いがすれば光に吸い寄せられる羽虫のようにふらふらと近寄ってくる。
だからさっきヤシュカが外に出た時、雄たちは無意識にヤシュカに視線を寄越したのだ。
けれどもヤシュカはそれを、気持ち悪いと思った。
ヤシュカが求める雄ではないと思った。それはトオミも同じだ。
では、ヤシュカが求めるのは?
ヤシュカの体が落ち着かなくなって、そのことしか考えられなくなってしまうのは?
カッと一気に体が燃え上がるように熱くなった。
たった一人を求めて体が発情の匂いを発する。
ヤシュカが求めるのは――モレヤただ一人だけだ。
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