うみと鹿と山犬と

葦原とよ

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第13話 移ろい

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(あ、モレヤが来る)

 急にそんな感覚がして、ヤシュカははたを織る手を止めた。
 モレヤと番ってから、こういうことが増えた。音や匂いではなく、何か別の感覚がそれを捉えるのだ。

 湖の周辺くらいの距離であれば、モレヤが大体どの辺りにいるのか感じ取れるようになっていた。モレヤの方も似たような感覚があるらしい。

 これが番ったことによるものなのかどうなのか、二人には分からない。何しろ二人とも初めてのことで、そしてそれを聞けるような人もいなかった。

 ただ、行き違ったりして貴重な逢瀬の時間を失わずに済む、と便利に思っていた。

 軽く身支度をして、そっと社の表戸を開いて辺りを窺うと、たまたま社の近くにいた妹のミサハと目が合った。

 ミサハはヤシュカの姿をみとめると、目をまん丸くしてから思い切りいい笑顔で笑ったので、ヤシュカは苦笑して小さく頷いてから、裏戸から抜け出した。



   ***



 モレヤと何度か番った後、ヤシュカはミサハにだけ真実を打ち明けた。社を抜け出す頻度がぐっと増えたので、万が一母に不在がばれた時に時間稼ぎをしてもらうためだ。

 既に番った相手がいるとミサハにこっそりと告げると、ミサハは口をあんぐりと開けて固まった。

「ね、ね、姉様それって……!」
「誰にも言わないでね。母様にも兄様にも内緒よ」
「当たり前だよ! で、どこの誰なの? どんな雄?」

 俄然興味を示してきたミサハにヤシュカは若干引き気味になりながらも、ただ他種族の雄なのだと告げた。

「そっかぁ……姉様もついに……いいなぁ。素敵な人なんでしょ?」
「そうね……」

 愛しいモレヤの姿を思い浮かべていると、自然と言葉がこぼれた。

「真面目で、山のことは何でも知ってるわ。森を駆け抜けるのももの凄く早くて逞しいの。あんまり表情が変わらないから初めて会う人はちょっと怖いかもしれないけれど、金の瞳でとっても優しく笑うのよ。あの人と一緒だと何でも楽しいし、世界が今までとは全然違って見えて……」

「ね、姉様! 分かった! 分かったから!」

 顔を真っ赤にさせたミサハに気づいて、ヤシュカも頬を染めた。モレヤのことなら何時間だって話せる気がして、ついつい夢中になってしまった。

「道理で最近、姉様の雰囲気がちょっと柔らかくなったと思った!」
「そう?」

 自分では全く気付いていなかったけれど、里の中では一番接しているミサハが言うのだから間違いないだろう。

「以前の姉様って、なんていうんだろ……すごーく綺麗なお人形さんみたいな感じがして、神事の時とかは特に近寄りがたかったの。感情が抜け落ちてるみたいで。でも、私は今の方が好きだわ!」

 ミサハの言葉に、自分はそんな風に見えていたのか、とヤシュカは思った。

 ちなみに神事の時にヤシュカが考えていることと言ったら、早く終わらないかなとか、面倒臭いなとか、最近だとモレヤは今頃どうしているかなとか、結構身も蓋もない。
 その辺は漏れていなくてよかった、と密かに安堵した。

 ヤシュカは懐から小さな鈴の連なった腕輪を取り出すとミサハに渡した。

「姉様、これは?」
「もし、私がいないことに母様が気づいたらこれを鳴らして。すぐに戻ってくるから、それまでは禊だとか適当なことを言ってくれたら助かるわ」

 小さな鈴だが、しゃららんと音はよく響く。モレヤの用意してくれた二つ目の「巣」にいる限りは多分気づけるだろう。

「分かった! 母様もさー……そんなに姉様に厳しく当たらなくてもいいと思うんだけど、難しいのかなぁ。どうせ自分が選んだ相手を姉様の番にしようと思ってるんでしょ?」

 ああやっぱりミサハも気づいていたのか、と思った。
 ただそれがトオミだということには気づいていないようだけれど。

「……母様はミナカタの行く末を案じているから仕方ないのよ」

 もう母のことは諦めている。一族をなんとかしたい母の気持ちは分かる。けれどもそれを差し引いても、母のヤシュカへの接し方は度を越していた。

 我が子だと思っていないのかもしれない。いや、我が子だからこそ憎いのか。
 自分にはない、「白」を備えて生まれてきたヤシュカが。



   ***



 ともあれミサハという協力者を得たヤシュカは、モレヤが新しく作ってくれた「巣」へと急いでいた。例の温泉から少し南へ行った先にうまい具合の洞窟があって、そこを二つ目の拠点にしていた。

 ここで番ったり、何もせずにただ二人で過ごしていたり、奥の山へと出かけることもある。この時期の山の恵みは豊富で食べるものには苦労しなかったけれど、ヤシュカは時折里からコメや魚を拝借して、「巣」に備蓄していた。
 たまに食事をするのさえ忘れて夢中で求め合ってしまうことがあって、その後に食料を探しに行くのは結構億劫なのだ。

 思うほどコメが収穫できなかったミナカタ族は、丸木舟を作ってスハのうみで保存用の魚を捕っていた。もともとが海辺に暮らしていた一族だ。漁はお手の物で、魚を釣っては干して乾燥させ、冬に備えていた。

 多分、どんなに遅くとも秋の終わりころにはトオミたちがやってきて里の人数はさらに増える。だから保存食はどれだけあっても困らなかった。

 そのトオミのことも、ヤシュカの頭を悩ませていた。

 まだモレヤにトオミのことを話していない。
 モレヤに話したら最後――十中八九、逃げようと言うだろう。

 モレヤはシャグジを疎んじこそすれ、そこに所属している意味はないと今は考えている。それはそうだ。外の世界では忌み子などいないと知ってしまったからには、忌み嫌われ、有事の生贄としてのためだけに生かされているところにいたいだなんて思う方がおかしい。

 そしてまたヤシュカも、ミナカタに思い入れはない。
 ミサハのことだけが気がかりだけれども、母と兄のいいように利用されたくないという思いはそれを上回る。

 逃げるなら今だ、と思う。
 トオミが来てしまってからでは遅い。

 けれども、モレヤにそこまでの負担をかけてしまってもいいものだろうかという思いがヤシュカを躊躇わせる。

 今日こそは告げなければ、と思い始めてからずるずると日が経っていた。



   ***



 今日はモレヤにつの嶺へ久しぶりに行かないかと誘われていた。聞けば、もう時期的に山頂では雪が散らつき始めるから、上まで登れるのはそろそろ終わりらしい。

 それを少し寂しく思いながらも、ヤシュカは獣形けものがたになってモレヤと秋の森を駆け抜けた。緑の濃かった森は秋の色を纏い、様々な色彩に溢れている。赤や橙、黄色の葉がはらはらと舞い散り、モレヤの池のほとりは金色のカラマツに埋め尽くされていた。

 赤や紫の果実がなり、栗もどんぐりもそこここに落ちている。キノコが群生して、渓流の岩陰には卵を持った川魚が潜んでいた。

 色に満ちていた森を抜けて高度を上げると、徐々に色彩がなくなっていく。夏にはあんなに咲き乱れていた花々はすっかりと枯れ果て、残った葉も一足先に紅葉を終えて冬の眠りにつこうとしていた。

 ハイマツの緑だけが唯一の色だが、それも日が陰ると濃い灰色のように見える。吹き抜ける風も冷たく、頂上で今度こそ話を、と思っていたヤシュカはそれが大きな誤りであることを悟った。

「もう八つの嶺は冬支度ね」
「ああ。本格的な冬になれば雪に覆われる。嵐かと思うような風が吹き荒れて、とてもではないけれど登ることは出来なくなる。だからここからの不二フジも見納めだ」

 そう言われて見遣った不二の山は、既にうっすらと雪に覆われていた。

 あまりの寒さに早々に下山しようとしたヤシュカは、異臭に気づいて足を止めた。

「……なんか、臭くない?」
「ああ。八つの嶺は火の山だから」
「そうだったの?」

 モレヤが指差した方向を見ると、白い煙のようなものが立ち上っている。初めて見るが、話には聞いたことがあった。火の山の毒霧、と呼ばれているものだ。

「……あれ? でも夏やもう少し前に来た時は、あんな風じゃなかったよね」
「時々毒霧が強くなる時があるんだ。火の山の神が怒ってる、とも言われてる。もしかしたら神の怒りで温泉も熱くなってるかもな」

 モレヤが笑うので、ヤシュカもそんなものかと笑った。

「あ。ならあっちの温泉がちょうどよくなってるかもしれない。いつもはちょっとぬるいところがあるんだ」

 そう言ったモレヤに誘われて、普段とは違う道で森の中を抜けていた時だった。

 先導していたモレヤがぴたりと止まる。

「どうしたの?」

 振り向いたモレヤが、声を出さずに目線だけであちらを見ろ、と言ってくる。目を凝らしたヤシュカは、かなり離れたところにそれ・・がいるのに気づいてもう少しで悲鳴をあげるところだった。

 脚がガクガクと震え、立っていられなくなる。
 柔らかい落ち葉の上にへたり込んだ。

 獣形けものがたになっていて良かった、と思った。
 すぐに逃げられるし、最悪の場合に獣人けものびとだと気づかれることもない。

 それ・・が通り過ぎて行っても恐怖から立ち上がれないヤシュカを、モレヤが守るように包んだ。ふわふわとした毛皮とモレヤの体温が、凍りついたヤシュカの心を温めるが、しばらくは震えが治まらなかった。

「……どうしたんだ。あれは、猿の獣人けものびとだろう?」

「違う。あれは猿じゃない」

 ヤシュカが見間違えるわけがない。見た目こそ猿の獣人けものびとに似せているが、どんなに遠くたって臭いが違う。

「あれは……あれは、ヒトよ」

 獣の耳と尾を持たず、獣形けものがたになることはない。
 獣人けものびととは違う種族。

 忌むべき種族、ヒトだった。



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