僕が剥がして、少女が食べる怪異清掃

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曇天の鏡

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「はい」



 インターフォン越しの女性の声は、音質のせいか少しくぐもっていた。



「タブラ・ラサ怪異美装の甲斐田……です」



 オートロックが解除される電子音が鳴る。



 そのわずかな間に、僕はスマホでメールを開き、依頼者の名前を確認した。高橋佳織、33歳、と。



 エレベーターを降り、愛想笑いもそこそこに、そのマンションの一室へと上がりこむ。



「うっ」



玄関に入った瞬間、鼻をつく強烈な甘い香りに、つい嗚咽を漏らしてしまった。



「どうしました?」

「……いえ、なんでも」



 どうしたもこうしたも、あんた香水つけすぎだよ。僕は依頼者を睨みつけたい気持ちを、営業スマイルの下に必死に抑え込んだ。



「困るんです」



 リビングに通されるなり、女性が訴えた。



「化粧もできないし……」

「依頼の内容は?」

「……メールに書きましたよね?」

「もちろん把握していますとも。ただ、本人から直接話を聞くことも重要なんです。プロとして」



 嘘だ。メールは住所くらいしか確認していない。そりゃあ、勤務時間外に仕事の長文メールなんて読みたくない。それが人情というものだ。



「鏡が私を映さないんです」



 女性がそう言ったところで、洗面所につく。



「なるほど」



 依頼者の言葉を聞くまでもなかった。 目の前にある鏡は、僕を無視して、ただ無機質な白い壁だけを映し続けていた。試しに両手を広げて動かしてみる。けれど、鏡面は僕たちをまるでそこにいないかのように無視し、静止画のように壁だけを映し続けた。



 光学的な反射ではない。意図的な「拒絶」を感じる。間違いなく、怪異だ。



 僕は鞄から専用のライトを取り出して、念入りにいろんな角度から光を当てた。  青白い光が、反射せずにずぶずぶと奥へ吸い込まれていく。



「気持ち悪い……」



 後ろで呟く依頼人の反応が鬱陶しい。僕は構わず、鞄から金属製のスクレイパーを

取り出した。



「少し大きな音がしますよ。奥のリビングでお待ちいただいた方がいいかもしれません」

「……壊さないでよ」



 疑わしげな視線を残し、女性はしぶしぶ洗面所を出ていった。



 足音が遠ざかるのを確認し、鏡に向き直る。

 さて、溜まりに溜まったものを、削ぎ落とすとしますか。

 スクレイパーの刃を、鏡の端に食い込ませた。



 がり、がり、がり。

 

 硬質なものを削り取る音が、狭い空間に響く。



 その不快なリズムに神経を逆なでされたのか、リビングへ退避させていたはずの依頼人が洗面所に戻ってきた。



「なにしてるの!?」



 高い声が、キンと耳に響く。



「……あなた、相当自意識が高いですね?」

「はあ? なによ、急に」

「ええとですね、これ、汚れなんですよ」



 僕は鏡の表面をヘラでこつこつと叩いて指し示す。



「視線の汚れです。水にカルキやミネラルが含まれているように、あなたの視線にも不純物――つまり『自意識』が含まれているんです。それがべったりと垢になってこびりついている」



「わけがわからないわ。適当なこと言わないで」



「ただの事実ですよ。鏡を見るたびに、『しわを見たくない』とか、『毛穴が見えなかったらいいのに』って強く念じるでしょう?その『見たくないものを遮断する成分』が鏡に残り、澱のように積もって層になっちゃってるんですよ。そのうち、鏡の方も『人間の顔なんて汚いものだ』って学習して、人間そのものを映さなくなったんです」



「な……あなた、失礼でしょう!」



「そんなこと言われましても、プロの見立てですから。それによくあることですから、恥じることはありません」



 僕はさらに力を込め、ヘラを押し込んだ。後ろで依頼者がぶつぶつ言っているのが邪魔だったが、リビングに追いやるのは諦めて無視した。



「それにしても、随分と固いですね。これはどちらかというと歯石に近い」



 ズズ、と重たい感触があった。鏡の表面が、なめこのようにぬるりとした感触を伴ってめくれ上がる。



「うわ、これは……随分ぶ厚い」



依頼人の顔色がさっと変わるのが横目に見えた。



「相当、現実を見るのが嫌だったんですね」



 そう言いながら、ぐいっと膜を引っ張る。ボンドが乾いたような、あるいは日焼け後の皮膚のようなその膜は、ぬるりと鏡から剥がれ落ちた。



「ほら見てください。この膜、あなたを映さずに、後ろの壁だけを映しているでしょう?」



 手元でぶら下がっている半透明の膜。そこには確かに、洗面所の壁紙だけが歪んで映り込んでいた。



 女性は言葉を失い、ただ呆然とそれを見つめている。怒る気力すら削がれ、ただ生理的な嫌悪感だけが残ったようだった。



「こちらは私の方で処分しておきますね」



 僕は鞄から小瓶を取り出して、その中にするりと膜を入れた。



「……あ、ありがとうございます」



「どういたしまして。ほら、ぴかぴかの鏡ですよ。存分に現実を見てください」



 覆いを失った鏡は、残酷なほど鮮明に世界を映し出していた。



 目の下のクマも、小鼻の黒ずみも、加齢による細かいたるみも、一切の妥協なくそこにある。



 女性は鏡の前で凍りついたまま動かない。



 鏡の中の自分と向き合わざるを得なくなった彼女を背に、僕は道具をまとめた。



「では、仕事を終えましたので、私はこれで」



 マンションを出ると、外は曇天だった。ポケットに入れた小瓶の中で、先ほど回収した「膜」が小さく蠢いているように見えた。あれほど鮮明すぎる鏡だ。きっと一カ月もすれば、彼女はまた新しい膜を張り直すことだろう。しかし、それは僕の知ったことではない。



 マンションの植え込みの陰、地べたに座り込んで、暇そうに指遊びをしている少女が目に入る。



「おまたせ」

「待った!」



 少女が嬉しそうに立ち上がる。ワンピースの裾が泥で汚れているが、気にした様子はない。



「早かった方だけどな」

「いいから! はやく、はやく! いい匂いする!」

「はいはい」



 家に帰ってからと思っていたが、オリはもう限界のようだ。小瓶を手渡すと、オリはくるくると瓶のふたを回し、膜をするりと抜き出す。白く濁った汚らしい膜を、彼女は麺を啜るようにじゅるじゅると口内へ吸い込んでいく。



 ごくり。



 喉の音がはっきりと聞こえた。



「味はいまいち」

「文句言わない」

「はーい」



 口元についた汚れを舐めとり、オリは不満げに、しかしどこか満足そうに笑った。
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