僕が剥がして、少女が食べる怪異清掃

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飽和する部屋――少女の生まれた日

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「どうしたもんかな」

 薄暗い自室の棚を眺め、僕はため息をついた。

 オリが生まれてから、部屋の中にため込んでいた怪異はだいぶ減った。けれど、僕が個人的に気に入っているコレクション――美しい形状をした『殺意の結晶』や、珍しい色味の『嫉妬のゲル』などは、なかなか捨てられずに残っている。おかげで、居住スペースがまた圧迫され始めていた。

「どうしたのー?」

オリは無垢な表情を浮かべ、首を傾げた。

「いや、また部屋がいっぱいになってきたなと思ってさ」
「オリ、いくらでも食べるよ!」

 期待のまなざしを僕に向ける彼女の口元から、たらりと涎が垂れている。

「期待させてごめんな。今あるのはお気に入りだけだから、食べるのは勘弁してくれ」

 僕は自分の着ているシャツの袖を伸ばし、オリの顎をぬぐった。ねばぁ、と透明な液体が糸を引いて垂れていく。床に垂れないように、結局指で掬う。

「……ん?」

 指先に残った感触に、違和感を覚える。

「オリ、お前なにか食ったか?」

 オリは怪異(エサ)を食べると、消化のために成分が変わるのか、なぜか涎の粘着性が強くなるのだ

「やばい、バレた」

 思ったことがつい口に出てしまったのか、オリがはっとして、両手で口を塞いだ。もう遅い。まあ、嘘をついてごまかされないだけマシだが、いったい何を食べられたのだろう。嫌な予感がして周囲を見回すと、棚の隅にあったはずのものがなくなっていた。

「まじか……」

 感情よりも先に言葉が漏れ出た。『憎悪の薔薇』がない。特に珍しいわけでもない。愚痴を毎日のように何かに浴びせていると出来上がる、ありふれた怪異だ。けれどあれは、僕が初めての仕事で苦労してなんとか処理できた思い出のコレクションだ。

「ごめんね……」

 オリが申し訳なさそうに俯く。

「これは絶対食べないようにって言ってあったよな?どうして食べたんだ?」

 なるべく怒気が籠らないように、慎重に聞いた。

「懐かしい匂いがして……つい……」

 懐かしい匂い? その言葉に、一瞬息を呑む。『憎悪の薔薇』はオリが生まれる前の仕事で手に入れたものだ――ああ。そうか。オリは僕から生まれた怪異。僕の部屋が怪異で飽和したときに、僕の業が生み出したんだ。僕のことをすべて知っていてもなにもおかしくはない。

 怪異を綺麗さっぱり消してくれるものがあればいいのに。

 その切実な思いが形になったあの日。

 ふと、鼻の奥で古い埃と、腐った感情の匂いが蘇る。まだ僕が一人で、世界の汚れをすべて背負い込もうとしていた、あの日の臭いだ。


――――
 

 あれは3年前……

当時の僕は、仕事もただの日常になり果て、怪異をコレクションしていくことだけが唯一の生きがいになっていた。

 怪異の中には綺麗なものもあれば、反吐が出るほど気持ちの悪いものもある。僕はその区別なく、どんなものでもとりあえずすべて家に持ち帰り、保管していた。

 瓶詰の悪意が、部屋を圧迫すればするほど安心した。自分がこれだけ世界を綺麗にしたんだと、自分に価値を感じることができたからだ。そうやって成果を可視化しないと、自分が何者でもない空っぽな人間だと認めてしまいそうで怖かった。

 ある朝、目が覚めて、僕は愕然とした。

 部屋の景色が変わっていたからではない。むしろ逆だ。

 一つずつ積み上げてきたコレクションが床を埋め尽くし、ついに僕の寝ている布団の上にまで浸食してきていたのだ。逃げ場がなかった。起き上がろうとして、体が動かないことに気づく。物理的にはまだ動かせるくらいの隙間はある。けれど、精神が限界を迎えていた。

 何かをした気になっていないと、自分に価値を感じられない。そんな不健全な強迫観念が、物理的な重さとなって僕の四肢を縫い留めていた。

 ズズッ。

 なにか湿った音が聞こえた。そう思った次の瞬間には、高く積みあがった怪異の山が、雪崩を起こして僕を覆いつくした。『辛い』『苦しい』『死にたい』『許せない』  他人の感情が、汚泥となって僕の気道を塞ぐ。

 声は出なかった。

 ああ、もうこのまま、このゴミの一部になって死んでしまいたい。心底そう思った。

 なのに。死んでしまいたいと願う一方で、あまりにも無責任に、生きていたい、と身体が叫んでいた。

 眼前に迫る怪異の気味悪さと、自分の感情の矛盾。その摩擦熱で、腹の底が焼けつくようだった。 猛烈な吐き気がした。今、なにかを吐き出さなければ、本当に人としての形を保てなくなる。そう、思った。

「ぅ、ぉえぇッ……!」

 喉が裂けるような感覚と共に、僕は中身をぶちまけた。胃液ではない。僕の内側にとどまっていた、真っ黒な矛盾の塊。とてつもない喪失感と、それを上回る解放感に包まれ、僕はそこで気を失った。

 目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。体を起こして、僕はあまりの部屋の広さに驚愕した。あれほど部屋を埋め尽くしていた怪異の山が、綺麗さっぱり消え失せていたのだ。

 最初の頃に保管していた、いくつかの小瓶だけが残されている。それ以外、部屋に散乱していたはずのコレクションは、もともとなかったように姿を消していた。

 そして隣には、見知らぬ少女が涎をたらしながら寝ていた。

 よく見ると、彼女の口の周りは、どす黒いヘドロのようなものでべったりと汚れていた。頭も感情も憑き物が落ちたようにすっきりとしている。その理由は、現状がすべてを物語っていた。あの時に吐き出した負の感情の塊が、この少女の形を成し――そして、僕を殺そうとしていた怪異をすべて「平らげた」のだ。

 頭も感情も、憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。今までのくぐもった感情がどこにいったのか。少女の膨らんだ腹を見れば一目瞭然だった。そのおかげか、それとも、怪異が部屋を埋め尽くしていないからか、不思議と不安はなかった。 

 世界なんて、別に自分が綺麗にしなくたっていい。

 自分が何者でなくてもいい。

 そんな風に、許されたような気がした。

「ん……」

 少女がゆっくりと目を開ける。
 色素の薄い、何も映していない瞳。僕は少女を見つめながら聞いた。

「君は?」
「……わかんない」

 眠そうに瞼をこすっている。

 僕は部屋を見渡した。僕の中に溜まっていた、重苦しい感情の澱(おり)。それをすべて食べてくれた存在。

「そうか。じゃあ君の名前は、オリだ」
「オリ」

 少女は自身の名前を何度か繰り返し、だんだんと嬉しそうに表情を明るくしていった。


――――


「……怒ってる?」

 おずおずとした上目遣いに、意識が現実に引き戻された。目の前には、空になった棚と、口元を汚した少女。僕は大きく息を吐き出した。怒る気力なんて、とうに失せていた。 『懐かしい匂い』か。それはそうだろう。あの『憎悪の薔薇』は、僕がまだ一人で、世界を救う気取りで背負い込んでいた時代の結晶だ。つまり、あれは僕の「過去」そのものだったのだから。

 彼女は3年前と同じように、僕の不要な部分を食べてくれたに過ぎない。

「いや、怒ってないよ」 

 僕はオリの頭に手を置き、乱暴に撫でた。

「お前のおかげで、ようやく部屋が片付いた」
「ほんと?」
「ああ。……味はどうだった?」

 聞くと、オリは少し考え込み、へへっと無邪気に笑った。

「ちょっとしょっぱくて、苦かった!」
「そうか。そりゃ悪かったな」

 苦い過去は、もう腹の中だ。

「でも、今日の晩飯は抜きだからな」
「えー、オリまだお腹空いてるのに!」
「勝手に食べた罰は受けてもらわなきゃな」
「えー、ケチ!アラタのケチ!」

 オリが叫んでいるのには構わず、僕は空いた棚のスペースに、新しい小瓶を置いた。そこにはもう、執着も未練も詰まってはいなかった。
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