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前編

16.リジンの真実

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 数少ない薪を暖炉に焚べて火を大きくすると、ふたりと一羽はバスタオルに包まり、暖炉の前のカーペットの上で団子のように連なって座った。
「……はー、夜に濡れたままは、夏でも寒いね」
 ロティアはできるだけ明るい調子でそう言った。
「ほんとだな。寒さを連れてくる嵐かもしれないから、ちゃんと温まろうぜ」
 フフランも明るく言い返し、濡れた羽根を一生懸命膨らませようとしている。
 リジンだけは黙って火を見つめている。
 ロティアはリジンの後ろで山積みにされている紙の束を見た。濡れてふやけ、波打ってしまっている紙は、乾いたとしても絵を描けるかどうかはわからない。
 わたしの給金を払わなければ、画材代に代えられるんじゃないかな。
 そう思ったロティアは、「……あれ?」と口に出していた。
 本当にその通りだ。

 ロティアに月三十万という破格の給料を払うくらいなら、そのお金で画材を買えば良いだけの話だ。
 それにもかかわらず、なぜわざわざロティアに住み込みをさせて絵を取り出させ、まっさらの紙にもう一度絵を描く、などという回りくどいやり方をしているのだろうか。
 変な話だ。

「どうした、ロティア?」とフフラン。
「あ、いや、えっと……」
「……わかってるよ」
 ようやくリジンが口を開き、ロティアとフフランはリジンの方を見た。リジンは暖炉の方を見つめたままだ。
「矛盾してるって、気づいたんでしょう」
「……依頼の、こと、だよね?」
 リジンはコクッとうなずいた。その拍子に、顔にかかる髪からポロッと雫が落ちる。
 リジンはロティアとフフランの方を見た。その顔は泣きそうだった。
「……ふたりに、誤解されたくないから、本当のことを、話すよ。俺が、ロティアとフフランをここに呼んだ、本当の理由」
「本当の、理由?」
「……うん。……俺はね、俺の、魔法は」
 一度リジンは口を開けたまま黙った。唇が震えている。
「……ま、魔法?」
「リジンは魔法使いだったのか!」
 フフランが驚いてふわっと飛び上がった。リジンは顔をしかめ、弱弱しくうなずく。
「……そう、俺は、魔法が使えるんだ。それで、その、使える魔法っていうのが、『描いた絵に、命を宿す』っていう、おかしな魔法なんだ」

 ロティアは口の中で「描いた絵に、命を宿す」と繰り返した。

「それだけだと、聞こえが良いかもしれないけど。……でも、良いもんじゃないんだ。俺の意志は絵に伝わらないし、制御は不可能。……ものすごく攻撃的になって、人を、傷つける、こともある」
 リジンの声はどんどん震えていく。ロティアは、リジンと目が合わなくなっていることに気が付いた。
 フフランがそっとリジンの膝にすり寄ると、リジンはフッと笑って、フフランのまだ少し濡れた小さな頭をなでた。
「……この、意味不明な魔法のせいで、俺は自分の描いた絵と、三日間しか一緒にいられないんだ。その後は、突然意志を持って絵から飛び出してきて、思いもよらないことを、しでかす」
「……それが理由で、展覧会は三日間しか開かれていないの?」
「うん。……それから、フォードたち、生徒に、絵を欲しいって言われても、俺の知らないところで、生徒たちが、俺の、俺の絵のせいで、危険な目にあったらと思うと、絶対に、嫌われても良いから、渡せなかった」
 この生活の中には、不思議で不自然な点がポツポツと浮かんでいた。生活自体が楽しかったからこそ、ロティアはその点から目をそらしていた。その見えないふりをしていた点が、今、すべて線で繋がれている。ロティアはそう感じた。
「……だから、わたしが来るまでは、絵を燃やしてたんだね」
 リジンは唇をかみしめてうなずいた。今のような泣きそうな顔で、絵を燃やしていたのだろうか。そう思うと、ロティアは胸がギュウッと締め付けられ、大声を上げたくなった。
「……仕方ないことだって、言い聞かせて。でも、自分の絵の記憶が、どんどん無くなっていくのが、悲しくて。それで、ロティアとフフランを呼ぼうって思ったんだ。ロティアの魔法で絵のインクを取り出してもらったら、紙だけは残るだろう。……紙だけでも残っていれば、どんな絵だったか、少しでも書きつけておけば、思い出せるかもしれなと思って」
 リジンは紙の束を持ち上げた。
「……これは、ロティアが今日まで、取り出してくれた絵の、紙なんだ。ロティアのおかげで、俺が絵を描いた奇蹟として、残ってる。だから、嵐のせいで濡れて朽ちるのも、風で飛ばされて失うのも、嫌だったんだ。……ワガママ言って、困らせて、ごめん」
 リジンが言い終わらないうちに、ロティアはリジンを抱きしめていた。あふれてくる涙は、せっかく少し乾いたリジンに降り注いでいく。それでもロティアは涙を止めることができなかった。フフランも羽根を広げ、リジンの膝にしがみつく。
「……あ、謝らないで、良いよ、リジン」
「……でも、ふたりを危険な目に合わせちゃったから。フフランは、外にも出てくれて、……ケガ、してない?」
「だ、大丈夫だよ! オイラは、飛ぶのが上手いんだ! そ、それよりも、全部集められてよかったよ」
 フフランの声も震えている。すると、リジンの肩も小さく震えだした。
「……うん、ありがと、取りに行って、くれて」
 ふたりと一羽は、それ以上は何も話さなかった。ただ強く互いを抱きしめ合って、涙を流した。





 こんなに泣いたのは三年前のあの日以来だ、と眠りにつく前のロティアは思った。
 そして次に目を開けた時、自分がリジンの腕の中にいて驚いた。整った顔がすぐそばにある。しかし、穏やかな顔で眠っているリジンを見ると、起きかけた体を戻した。フフランは、ロティアとリジンの間で丸くなって寝ている。
 そうか、昨日あのまま寝ちゃったのか、とロティアはぼんやり考え、窓の方に目を向けた。外は嘘のように晴れている。嵐は去ったようだ。
「……おはよう」
 トロンとした声がした。リジンの方を見ると、リジンの長いまつげが少しだけ上向き、黒い目が朝日で煌めいている。
 きれいだな、と思いながら、ロティアも「おはよう」と答えた。
 フフランも小さな目を開けて「おーはようー」と歌うように答える。間の抜けた返事に、ロティアとリジンはクスッと笑った。
「リジン、わたしとフフランに腕貸してくれたんだね。大丈夫?」
「カーペットがあったから、大丈夫だよ」
「ごめんなあ、寝ちゃって」
 ふたりと一羽はゆっくりと起き上がり、思い思いに伸びをした。
 窓の外では鳥たちが朝の始まりと嵐の終わりを告げるように、陽気に鳴きながら飛び回っている。その声を聴きながら、ふたりと一羽はしばらくぼんやりした。
 暖炉の火は消えて静まり返っている。
 カーペットの外側に置かれたバスタオルは、窓から差し込む陽光ですっかり乾いている。
 リジンが絵を描き、ロティアがインクを取り出した紙も、ぐにゃぐにゃに曲がったまま乾いて固まっている。
 昨日という悲劇は終わったのだ。
 そう思ってから、昨日の嵐を悲劇と呼ぶべきか、好機と呼ぶべきかわからない、とロティアは思った。
 リジンの本当の事情を知ることができた。おかげでリジンに対して持っていたほんの小さな違和感は無くなった。
 しかしリジンの抱える問題は特殊すぎて、すぐに解決方法を思いつくことはできない。かけるべき言葉もわからない。
 ロティアは近くなったと思っていたリジンが、今ではむしろ遠く感じられた。
「……アトリエの片づけは、後でするから。ひとまず朝食にしようか」
 リジンの言葉に、ロティアはできる限りの笑顔で「……そうだね。お腹空いた」と答えた。
「昨日買ってきたパンの残りがあるな! 楽しみだ!」
 フフランは部屋の中をギュンギュン飛び回った。


 ドライフルーツが入ったパンと紅茶で朝食を済ませると、リジンはロティアに風呂に入るように言った。泥やごみなどの混じった嵐の雨で汚れたままは、体に悪いだろうというのが理由だった。
「俺はアトリエを片付けるから。片付けが終わったら入るよ」
「……わかった。それじゃあ、先に入るね」
「うん。急がなくて良いよ。あと、今日はのんびり過ごそう。俺も、今日は片づけが終わったら、ゆっくりするから」
 そう言うと、リジンはまた亡霊のような足取りで三階へ上がっていった。
「……心配だな」
 フフランはそっとロティアの頭に飛び乗ってきた。
「……うん。なんて、声をかけたら、いいんだろうね」
「今はそっとしておいた方が良いかもな」


 風呂から上がると、リジンは二階のリビングルームのソファに座っていた。片付けは済み、割れた窓には板を打ったと教えてくれた。
「ガラスは全部片づけたから、一応安全にはなったよ。でも、しばらくは絵も描かないでおく。真新しい紙も結構濡れちゃったから」
「……そっか。あ、そういえば明後日って、絵画教室の日だったよね? その時に使う道具は無事だった?」
「うん。カバンに入れたままにしてあるから、大丈夫だった」
「なあなあ、絵を描かないってことは、リジンは特に予定がないってことだよな」
 フフランはロティアとリジンの周りを囲うように、ぐるぐる飛び回り始めた。
「そうだね。片付けも済んだし」
「それならせっかく台風一過で気持ち良いし、出かけないか? オイラたち、この町に来た時にいつか湖に行こうって話してたんだよ」
「わあ、良い考え! どう、リジン?」
 ロティアとフフランが期待の目を向けると、リジンはくたびれた顔をほころばせ、「いいね」と答えた。
 そこで、リジンが風呂から上がって昼食をとると、ふたりと一羽で外へ出かけた。
 オーケのところでインクを買ってからお茶をしたり、街の奥地にある森へ行って湖の畔でピクニックをしたり。

 翌日は朝から電車に乗って出かけて、四つ隣の大きな町で画材を買いなおしたり、カフェでお茶をしたり、本屋に行ったりとショッピングをした。
 お気に入りのワンピースを着て、隣にはフフランとリジンがいて、ロティアは心から楽しかった。フフランも楽しそうだった。
 しかしリジンだけは、時々悲しげな目で宙を見つめていた。
 紙が濡れて朽ちてしまったことへのショックなのか、絵を描けないことへの悲しみなのか、その真意すらロティアにはわからない。フフランに言わせれば、それはリジンの口から聞かなければ一生わからないことだ。だからと言って、リジンに真意を問うことはできない。ロティアはリジンを傷つけたくなかった。
 だから、リジンの目から生気が感じられない時、ロティアはそっとリジンを手を取って、優しく握った。そうすると、リジンは我に返って、少しだけ笑ってくれた。
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