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後編

40.リジンの絵

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 風呂から出たロティアは、髪の水分をタオルで絞りながら、部屋まで小走りで戻った。ドアを開けると、すでに寝間着に着替えたリジンが、鏡台用の背もたれのない椅子に座っていた。
「遅くなってごめん、リジン。フフランもお疲れ様」
「今のところ一ミリだって動かないぜ」
 ロティアはフフランの小さな頭をなでながら「ありがとう」と言い、ベッドに座った。
「でも、残念だったね。リジンの誕生日パーティー、中止になっちゃって」
「仕方ないよ。絵から離れるわけにはいかないから。……むしろロエルに悪かったな。せっかくおいしい料理を作ってくれてたのに、食卓でそろって食べられなくて、申し訳ない」

 リジンの誕生日パーティーは、三日後まで延期になった。
 この絵が本当に動かないかどうか、三日間見張り続けることに決めたからだ。
 リジンの絵が動き出すのは、ロティアとフフランが庭で襲われた一回を除いて、いつも三日後だった。そのため、今回も最低でも三日は見張る必要があると思う、というのがリジンの考えだ。
 三日後、床にとどまっていた場合は、心おきなくパーティーをする。ということで、ソペットたちと話が付いた。
 その結果、ロエルの作ってくれたごちそうは、ロティアの寝室の小さなテーブルで順番に食べることになってしまった。

「ここで食べても十分おいしかったよ。どこで食べても、ロエルさんのリジンへの愛情は変わらないじゃない」
「オイラにもうまいパンを用意してくれて、本当に良い人だな、ロエルさんって」
 ロティアとフフランがロエルの料理で大きく膨らんだお腹を大げさにさすりながらそう言うと、リジンは弱弱しく微笑んだ。
「そうだね。おじいちゃんと同じくらい、俺もロエルには頭が上がらないな」
 リジンは目をキュッと細めて真剣な顔になった。
「それから、ロティアとフフランも。本当に一晩中起きてるの? ふたりは適度な時間で寝てほしいんだけど」
「わたしがそうしたいから、心配しないで」
「オイラも! なんのために夜目をもらったと思ってるんだよ」
 ロティアとフフランに手を握られたリジンは、それ以上は食い下がることなくうなずいた。
「……ありがとう、ロティア、フフラン。正直、ロティアとフフランがいて、心強いよ。俺一人じゃ、途中で心が折れると思う」
「わたしだって、リジンの立場だったら怖いよ。フフランとリジンがいるから、安心して、前向きでいられるんだよ。だから、リジンも大船に乗ったつもりで、わたしとフフランにたくさん寄り掛かって良いんだからね。支え合うためにわたしたち、一緒にいるんじゃない」
「そうだな、オイラたちは三つで一つだ!」
「……三つで一つか。本当だね」
 そう答えたリジンの顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。



 ふたりと一羽はロティアのベッドに並んで座り、ジッと絵を見つめた。
 噴水の水で遊ぶハトの絵を見ていると、ロティアはサニアたちの街でフフランを見つけた時のことを思い出さずにはいられなかった。ホッとした気持ちで微笑むと、隣にいるフフランがそっと身を寄せてきた。
 置き時計の秒針がチッチッチッと音を立てて回る。そして長い針がカッチと一つ動くと、フフランが何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そういやあ、昨日、このくらいの時間にすごい音がしたな、外から。治安の良い街だと思ってたけど、激しい奴もいるんだな」
「鐘みたいな音だったね。なんだったんだろう」
「ああ、あれは夜警の鐘の音だよ」
 ロティアとフフランは「夜警っ」と声を揃えた。
 ロティアたちが暮らす首都の夜警と言えば、魔法の道具を使ってけたたましい音を鳴らし、大きな声を上げるびっくり箱のような存在だ。鐘を使うだなんて初めて聞いた話だ。
「時々、酔っ払って危ないことをする人がいるから。ああして鐘を鳴らして、驚かせて止めてるんだ」
「どうして鐘なの?」
「魔法道具が出す音とか、怒鳴り声みたいな激しい音は妖精が嫌うから、なるべく使わないようにしてるんだって」
 リジンはそう答えると、一度目を伏せてから、ロティアとフフランを順に見た。何かを言いたげな目だとわかったロティアとフフランは、リジンが話し出すのを黙って待った。

「母さんから、聞いてると思うんだけど。俺がヴェリオーズにいる理由とか、画家になった経緯とか」
「聞いちゃった。ごめんね」
「ううん。本来なら、俺から話すべきだったから。……それで、父さんのことも、聞いたと思うんだけど。ちょうどい良いから、今話すね」
 ロティアは短く「うん」と答える。
「俺の父さんは、魔法夜警なんだ」
「魔法夜警って、魔法犯罪に特化した夜警だよね。夜の方が悪い魔法が上手くいくから犯罪数も増える、って理由で作られた組織だっけ?」
「うん。すごく正義感があって、真面目で、人を護るために魔法を使う、……優しい
人なんだ」
「そんな職業につくんだから、そりゃあ良い人だろうな」
 リジンは弱々しく微笑む。その顔は嬉しそうに見えた。
「だからこそ、俺が、自分の息子の俺が、人を傷つける魔法を使うのが、どうしても、認められなかったんだ」
「……ずっと会ってないの?」
「うん。でも、それで良いんだ。俺は、父さんが忙しい仕事の合間を縫って、いろんなところに連れて行ってくれた思い出で生きていけるって思ってるから」
 リジンは床の絵を指さした。
「父さんと行った公園の絵なんだ、この絵」
「えっ、そうなの」
「うん。それから、ロティアが最初の方に取り出してくれた時計塔も、父さんと唯一行った海外旅行で見た時計塔なんだ。世界一大きな仕掛け時計なんだって」
「へえ! そういや、クマとかウサギの人形が描かれてたな。あれの実物があるってことか。見てみたいなあ」
「実物は、俺の画力じゃ伝えきれないくらい、もっと迫力があるよ。それから、サニアたちに見せた庭の絵も、実家の庭がモデルなんだ。ちょっと手を加えてるけど」
 そう話すリジンの目は、宝物を見つめる子どもの目のように輝いている。その目を見ていると、さっきの言葉の通り、リジンは父親との思い出で生きていけるのだろうと、ロティアは思った。同時に、この絵が動き出さなかったとしたら、リジンと父親がまた会えるかもしれない、思い出が増えるかもしれないとも思った。しかしそれは、リジンが望むことなのかはわからなかった。
 今、口に出すのはやめよう。
 ロティアは唇を噛みしめて、リジンの父との思い出話に耳を傾けた。





 この三日の間、ふたりと一羽はロティアの寝室で食事を取り、ロティアとリジンは風呂を交代で入り、四時間ずつ交代で眠って絵を見張った。四時間睡眠の提案者は、子育て経験のあるマレイだ。
『最初の四ヶ月くらいは、だいたい四時間ごとにお乳をあげるでしょう。かなりつらかったけど、わたしは今こうして元気だから、二、三日くらい四時間おき睡眠でも大丈夫よ、きっと。人間はそういう風に作られてるのかもね』
 実際にやってみると、夜に四時間で起きるのはかなりつらかった。どうしても目が覚めない時のため、ロエルは毎日魔法瓶いっぱいにコーヒーを用意してくれた。

 そして、時計が二十四時間を三回回った。この三日間の終わりの時間が迫っていた。
 ロティアが床にインクをこぼした正確な時間はわからない。しかし、ロティアがリジンの家で風呂に入る時間は十時過ぎと決まっていた。その十時から一時間経った「十一時」を、終わりの時間に決めたのだ。
 部屋にはマレイとソペットも集まっている。全員が秒針の音を聞きながら、呼吸も忘れ、絵をジッと見つめている。
 ロティアはリジンの手を握り、フフランはリジンの肩にとまって、頬に柔らかい体を寄せた。
「……十一時だわ」 
 時計の針とともに、マレイがつぶやいた。
 絵は、星空色のきらめきをそのままに、床にとどまり続けている。
 ロティアが絵からリジンに目線を移すと、群青色の目を宝石のように輝かせたリジンと目が合った。
「すごいよ、ロティア。俺、この絵がもうここから出てこないって、確信できる。俺、自分の魔法を、昨日よりもずっとよく感じられてる」
「ほ、本当に、リジン?」
 力強くうなずいたリジンは、フフランを自分の肩から頭の上に移すと、ロティアをギュウッと抱きしめた。
「それじゃあ、リジンが絵を描いて、わたしがそれを取り出して、また紙に戻せば、リジンは絵を描き続けられるんだ! バンザーイ!」
 ロティアはリジンの腕の中で小さく両手を広げた。すると、リジンは「あ……」とつぶやいて、手を解いた。その顔はとても不安そうだ。
「でもそれって、ロティアを利用してることになるよね……」
 思ってもみなかった言葉に、ロティアは目をパチパチさせた。
 ロティアの望みはただ一つだけだ。
 ロティアは緊張で一気に冷たくなったリジンの手をそっと握った。
「わたしはリジンのことが好きだし、リジンの絵が好きだよ。だから、もし、リジンのそばにいる理由ができたなら、それってわたしにとってはすごく嬉しいことだよ。ねえ、フフラン?」
「ああ! オイラも、ロティアとリジンとヴェリオーズでの暮らしが大好きだったからな!」
 ロティアとフフランを順に見つめたリジンは、涙を逃がすように大きく息を吐いた。
「……ありがとう、ロティア、フフラン。俺、また絵が描けるんだね、残せるんだね」

 リジンの晴れ晴れとした声に、ロティアの胸が震えた。初めて聞く、生き生きとし、血の通った、温かい声だ。
 リジンにとって絵を描くことがどれだけ大きく大切なことなのか。
 わかっているようで、わかっていなかったのだ。
 それは、リジンの「生」そのものだ。

 ロティアは、今度は自分からリジンを抱きしめた。

「よかったね、リジン。本当に、よかった……」
 ロティアの瞳から涙がこぼれてくると、腕を解いたリジンがその涙をそっと拭ってくれた。
「ロティアとフフランのおかげだよ。もちろん、母さんとおじいちゃんも」
 その言葉を合図に、マレイがロティアとリジンをまとめて抱きしめてきた。椅子に座っているソペットは、無理に立ち上がろうとせず、ロティアたちに優しいまなざしを向けた。
「みんな、ありがとう」
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