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第七章 チョメチョメ少女の追憶
第六十一話 家出と夜空と軽トラック
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真綿で首をしめるような、鬱々とした日々が続いた。たまった暗い感情は不発弾となり、残り続けていた。
10歳の誕生日に、それは爆発することになる。
きっかけは些細なことだった。
お父さんが誕生日パーティーの中で出てきた、たわいもない言葉が気に障った。
「お母さんも、あの世で喜んでいると思う」
「そうだね。お母さんも笑ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、仏壇に隠されていたビデオレターを思い出してしまった。その中には10歳の楓に宛てたものがあったのだ。当然のようにビデオレターの話は出ていない。
ふと違和感を覚えた。線香の匂いがしない。以前は毎日のように線香をあげていたのに、今は月命日や盆正月などでしかあげていない。
線香の匂いが無いせいか、ケーキの匂いが一層際立って感じた。
ケーキの甘い匂いが鼻の中にまとわりついて、不快だった。目に見えない蜘蛛の巣を払いのけるように手を振りかぶる。
「そんなわけないじゃん」
最初は小さな声だった。
何を言っているのか聞こえなかったのか、二人は楓の顔を訝し気に見た。その表情が、ナイーブな少女の琴線に触れた。
「そんなわけないじゃん!」
楓はヒステリックに叫んだ。
(お父さんもお姉ちゃんもずるい。母の――理咲さんのことを直接知っているから、言えるんだ。わたしは何も知らないのに)
楓にとっては、写真の中だけで微笑む母よりも、小さいころに会った祖母の方が現実だった。
「わたしが殺したんだよ」
「何を言っているんだ?」
おとうさんは目を見開いて、楓の顔を見ていた。本当に何のことを言っているか分かっていないのだろう。その顔がさらに神経を逆撫でする。
「お母さんだよ。わたしが殺したんじゃん」
「そんなことはない」
おとうさんは優しく包み込むような声音で言ったのだが、楓の心には響かない。
「今日はお母さんの命日だよ」
「今日は楓の誕生日だ」
「わたしを悪い子だよ」
「楓は優しい子だ」
問答を続ける程、胸の内から感情がせり上がっていく。
(なんで、この人たちは分かってくれないんだ)
「なんでそんなことを言うんだ」
「だって——」
まだ幼い楓にとって、今の自分の感情をうまく言葉にできなかった。
(わたしが殺してないと思いたいわけじゃない。今が幸せだと認めたいわけじゃない)
ただ、それはつらかったね、って言ってほしかった。優しくされるんじゃなくて、甘えさせて欲しかった。笑顔になりたいんじゃなくて、腕の中で泣かせてほしかった。
そんなささやかな願いが、この優しい家族ではすごく難しい。
「楓、そんな顔をしないで」
おとうさんの悲痛にまみれた表情を見た瞬間、弾けた。
「もういい!」
気が付いた時には走りだしていた。
もう家には居場所が無いように思えて、飛び出すしかなかった。
後ろから叫び声が聞こえた。それでも振り切るように、走り続けた。
どれくらい走り続けただろうか。疲れて立ち度また時には、知らない場所に来ていた。
周囲には建物はなくて、田んぼが広がっていた。立っている場所は広めの農道だった。冷静になると、徐々に恐怖心が湧いてくる。
知らない場所、誰もいない。周囲に光さえもなく、手には何も持っていない。
(わたし、家出したんだ)
ようやく実感した。自分が何をしてしまったのか。
少しでも光を求めるように、星空を見上げる。そこには星々が浮かんでいた。灯りがないせいか、普段よりもくっきりと見える。
(死んだ人はお星様になるんだっけ)
それが本当だったら、母はあの大きな星だろうな、と指を差す。
「理咲さん、母、お母さん?」
遺影の中の人物に対して家族とは思えず、どの呼び方もしっくりこない。強いていうなら他人行儀な"理咲さん"が一番呼びやすいだろうか。
当たり前のように"お母さん"と呼べる家族の二人を思い出して、寂しい気分になった。
(わたしって、理咲さんのお腹の中から生まれてきたんだよね)
何となく自分のお腹を擦る。そして想像した。自分のお腹が大きくなって、赤ちゃんが生まれて、自分と瓜二つの子供が成長していく姿を、だ。
(不気味だよね)
まだ10歳の楓にとって、妊娠や出産というのは未知すぎた。妊娠したら子供出来て大変なことになる、ぐらいの漠然としたイメージだけで、フワフワした恐怖を抱いていた。
ワオーン、と犬の遠吠えが聞こえた。
(お姉ちゃんとお父さんは何をしてるのかな)
人肌恋しさのあまりに抱いた電柱は予想外に冷たく、楓はすぐに離れた。
(わたしの分まで、ごちそうもケーキも食べてるかな)
テーブルに並んでいたオムライスやから揚げを思い出し、お腹がぐーと鳴った。
(帰りたくないなぁ)
今は家族に会いたくなかった。謝られるのが分かり切っていたから。そして次の言葉を想像した。「生きてくれているだけでいい」なんて言いそうだ、と楓は苦笑いした。
(それもそれで切ないし、ちょっと怖い)
そう思ってしまう自分が嫌で、生きているのすら面倒に思えてくる。
「もういっそこのまま……」
楓は冬の海に入るような慎重な動きで、農免道路の真ん中に寝転んだ。
夜のアスファルトはヒンヤリとしていて、固くて、すごく痛い。しかし目一杯に広がる星空の美しさが和らげてくれる。
「ねえ、聞いてよ。理咲さん」
星に語りかけても、答えは返ってこない。
(お星さまの声が聞こえればいいのに……)
そう考えた矢先だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、とと轟音が鳴り響きはじめた。
軽トラックの走行音だ。
ライトの光が近づいてくるのが見える。暗いせいで楓に気づいていないのか、減速する様子はない。
楓はうごけなかった。『うごかなかった』ではなく『うごけなかった』。
無機質な音を立てながら、高速で動く鉄の塊が近づいてくる。
目が開きっぱなしで、心臓の鼓動で鼓膜が破れそうだった。唇は乾ききっていて、ひび割れている。全身から血の気が引いていき、体の感覚が遠くなっていく。息を止め、非現実的な光景を凝視しつづけることしかできなかった。
一瞬、三途の川が見えた。隣には母の姿があり、荒っぽく突き飛ばされた。
軽トラックは何事もなかったように通り過ぎていく。
楓は全く動けなくなっていた。
奇跡と言うべきだろう。軽トラックは、楓の真上を通り過ぎていったのだ。小さな少女の体はタイヤの間に納まり、衝突されることも轢かれることも無かった。
引いていた血の気が戻ってくる。
全身に走った緊張が抜けていき、その代わりに痺れが残る。
止まっていた呼吸がゆっくりと再開される。
「はは、ははは」
自分が生きていると実感した途端、心が崩れ落ちた。
大粒の涙が溢れて止まらなくなった。
わたしは生きている。
生きているんだ。
でも何もかもが怖くて仕方がない。
お父さん。聞いてよ。
お姉ちゃん。抱きしめてよ。
理咲さん……母? ごめんなさい。悪い子でごめんなさい。
10歳の誕生日に、それは爆発することになる。
きっかけは些細なことだった。
お父さんが誕生日パーティーの中で出てきた、たわいもない言葉が気に障った。
「お母さんも、あの世で喜んでいると思う」
「そうだね。お母さんも笑ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、仏壇に隠されていたビデオレターを思い出してしまった。その中には10歳の楓に宛てたものがあったのだ。当然のようにビデオレターの話は出ていない。
ふと違和感を覚えた。線香の匂いがしない。以前は毎日のように線香をあげていたのに、今は月命日や盆正月などでしかあげていない。
線香の匂いが無いせいか、ケーキの匂いが一層際立って感じた。
ケーキの甘い匂いが鼻の中にまとわりついて、不快だった。目に見えない蜘蛛の巣を払いのけるように手を振りかぶる。
「そんなわけないじゃん」
最初は小さな声だった。
何を言っているのか聞こえなかったのか、二人は楓の顔を訝し気に見た。その表情が、ナイーブな少女の琴線に触れた。
「そんなわけないじゃん!」
楓はヒステリックに叫んだ。
(お父さんもお姉ちゃんもずるい。母の――理咲さんのことを直接知っているから、言えるんだ。わたしは何も知らないのに)
楓にとっては、写真の中だけで微笑む母よりも、小さいころに会った祖母の方が現実だった。
「わたしが殺したんだよ」
「何を言っているんだ?」
おとうさんは目を見開いて、楓の顔を見ていた。本当に何のことを言っているか分かっていないのだろう。その顔がさらに神経を逆撫でする。
「お母さんだよ。わたしが殺したんじゃん」
「そんなことはない」
おとうさんは優しく包み込むような声音で言ったのだが、楓の心には響かない。
「今日はお母さんの命日だよ」
「今日は楓の誕生日だ」
「わたしを悪い子だよ」
「楓は優しい子だ」
問答を続ける程、胸の内から感情がせり上がっていく。
(なんで、この人たちは分かってくれないんだ)
「なんでそんなことを言うんだ」
「だって——」
まだ幼い楓にとって、今の自分の感情をうまく言葉にできなかった。
(わたしが殺してないと思いたいわけじゃない。今が幸せだと認めたいわけじゃない)
ただ、それはつらかったね、って言ってほしかった。優しくされるんじゃなくて、甘えさせて欲しかった。笑顔になりたいんじゃなくて、腕の中で泣かせてほしかった。
そんなささやかな願いが、この優しい家族ではすごく難しい。
「楓、そんな顔をしないで」
おとうさんの悲痛にまみれた表情を見た瞬間、弾けた。
「もういい!」
気が付いた時には走りだしていた。
もう家には居場所が無いように思えて、飛び出すしかなかった。
後ろから叫び声が聞こえた。それでも振り切るように、走り続けた。
どれくらい走り続けただろうか。疲れて立ち度また時には、知らない場所に来ていた。
周囲には建物はなくて、田んぼが広がっていた。立っている場所は広めの農道だった。冷静になると、徐々に恐怖心が湧いてくる。
知らない場所、誰もいない。周囲に光さえもなく、手には何も持っていない。
(わたし、家出したんだ)
ようやく実感した。自分が何をしてしまったのか。
少しでも光を求めるように、星空を見上げる。そこには星々が浮かんでいた。灯りがないせいか、普段よりもくっきりと見える。
(死んだ人はお星様になるんだっけ)
それが本当だったら、母はあの大きな星だろうな、と指を差す。
「理咲さん、母、お母さん?」
遺影の中の人物に対して家族とは思えず、どの呼び方もしっくりこない。強いていうなら他人行儀な"理咲さん"が一番呼びやすいだろうか。
当たり前のように"お母さん"と呼べる家族の二人を思い出して、寂しい気分になった。
(わたしって、理咲さんのお腹の中から生まれてきたんだよね)
何となく自分のお腹を擦る。そして想像した。自分のお腹が大きくなって、赤ちゃんが生まれて、自分と瓜二つの子供が成長していく姿を、だ。
(不気味だよね)
まだ10歳の楓にとって、妊娠や出産というのは未知すぎた。妊娠したら子供出来て大変なことになる、ぐらいの漠然としたイメージだけで、フワフワした恐怖を抱いていた。
ワオーン、と犬の遠吠えが聞こえた。
(お姉ちゃんとお父さんは何をしてるのかな)
人肌恋しさのあまりに抱いた電柱は予想外に冷たく、楓はすぐに離れた。
(わたしの分まで、ごちそうもケーキも食べてるかな)
テーブルに並んでいたオムライスやから揚げを思い出し、お腹がぐーと鳴った。
(帰りたくないなぁ)
今は家族に会いたくなかった。謝られるのが分かり切っていたから。そして次の言葉を想像した。「生きてくれているだけでいい」なんて言いそうだ、と楓は苦笑いした。
(それもそれで切ないし、ちょっと怖い)
そう思ってしまう自分が嫌で、生きているのすら面倒に思えてくる。
「もういっそこのまま……」
楓は冬の海に入るような慎重な動きで、農免道路の真ん中に寝転んだ。
夜のアスファルトはヒンヤリとしていて、固くて、すごく痛い。しかし目一杯に広がる星空の美しさが和らげてくれる。
「ねえ、聞いてよ。理咲さん」
星に語りかけても、答えは返ってこない。
(お星さまの声が聞こえればいいのに……)
そう考えた矢先だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、とと轟音が鳴り響きはじめた。
軽トラックの走行音だ。
ライトの光が近づいてくるのが見える。暗いせいで楓に気づいていないのか、減速する様子はない。
楓はうごけなかった。『うごかなかった』ではなく『うごけなかった』。
無機質な音を立てながら、高速で動く鉄の塊が近づいてくる。
目が開きっぱなしで、心臓の鼓動で鼓膜が破れそうだった。唇は乾ききっていて、ひび割れている。全身から血の気が引いていき、体の感覚が遠くなっていく。息を止め、非現実的な光景を凝視しつづけることしかできなかった。
一瞬、三途の川が見えた。隣には母の姿があり、荒っぽく突き飛ばされた。
軽トラックは何事もなかったように通り過ぎていく。
楓は全く動けなくなっていた。
奇跡と言うべきだろう。軽トラックは、楓の真上を通り過ぎていったのだ。小さな少女の体はタイヤの間に納まり、衝突されることも轢かれることも無かった。
引いていた血の気が戻ってくる。
全身に走った緊張が抜けていき、その代わりに痺れが残る。
止まっていた呼吸がゆっくりと再開される。
「はは、ははは」
自分が生きていると実感した途端、心が崩れ落ちた。
大粒の涙が溢れて止まらなくなった。
わたしは生きている。
生きているんだ。
でも何もかもが怖くて仕方がない。
お父さん。聞いてよ。
お姉ちゃん。抱きしめてよ。
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