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1 ・始まりの森
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自分の手が嫌いだった。
指が短くて、爪は平たく、関節はふしくれだっていて、あまり仲のよくない今は疎遠の母親の手に瓜二つのわたしの手。
そのうえ、家事育児に追われ、手入れする暇もなくカサカサに乾燥して荒れている。
へこんだ左手薬指の跡を、親指で撫でた。
「まま!うごいて!あおだよ!」
何かに追われているように急かす、長男の声。
確かに今、意識が飛んでいた。
ごめんね、ごめんねと言いながらコンプレックスだらけの手でハンドルを握りなおす。
2019年、夏。
安藤香子が運転し慣れない四駆のドアを開けた途端に、刺すようなつめたい空気が寝不足の頭を一気に覚醒させた。
ほんの2時間前、車のエンジンをかけた時の東京と、どのくらいの気温差があるのだろう。
「ママー?新しいおうちもう着いたの?」
待ちきれない緋色が窓からひょいっと顔を出す。
「ひいくんだめだよ。まどあけちゃいけないんだよ?」
胡桃は4歳とは思えない大人びた口調で2歳上の兄をいなした。
「ごめんごめん、ママ道に迷っちゃったみたい。別荘地って道が混みいってて、難しいんだよね。」
「え?道に迷ったの!?大丈夫なの!?」
緋色が甲高い声をあげた。
あ…。また間違えた?わたし。
誘発しちゃった?
少し黙って、フロントガラスごしに緋色の様子を見ていると、徐々に落ち着いて手元のスナック菓子を食べ始め、車載DVDに集中し出した。
大昔のアメリカのアニメ映画に固執している緋色は、同じものを何度でも観る。
セーフ…。
ホッとしたところで手元の地図にまた視線を落とす。
ナビでたどり着けないとは言われていたけど、小径に一本入るとまるで迷路のようだ。
薄暗い森に似たような家が似たような間隔で立っていて、
しかもそのどれもに灯がついているわけではないからさらに迷路感が増す。
このままでは永遠に新居にたどり着けない…。
はあ、とため息をついた。
わたしはいつも間違える。
なんで事前にちゃんと調べないんだよ。
このままじゃ俺たち野宿だよ。
お前のせいで。
ほんと使えねえな。おかしいのは緋色じゃなくてお前だろ。
頭の奥で聞き慣れた声がするのをぶんぶん、とかぶりを振って追い払う。
どろり。
黒いヘドロのようなものが、喉の奥まで迫ってくる。
ごめんなさいごめんなさい。
胸の奥で呪文のように何度も繰り返し唱えて鎮める。
8月。
この地なら、車中泊でも東京に比すれば過ごしやすいことが想像に難くない。
でも。
子供がいる。
今日高速で寝てしまった兄の緋色は、外で体を動かさねば夜は長くなるし、妹の胡桃は繊細で、慣れた枕とブランケットがないと寝てくれない。
やはりどうにかして家を探さねば。
何より引っ越しのトラックも来るし。
決意したように顔を上げると、ちょうど目の前を人が歩いているではないか。
手元にスーパーの袋。
地元の人だ。
「あの!」
背の高い、その人が顔を上げた。
まるで豆鉄砲を食らった鳩のように、
本気で面食らった顔をしている。
「突然すみません。わたし、今日ここに引っ越してきた者なんですが、道に迷ってしまって…。この住所わかりますか?」
その人は一瞬少しニヤッとして、
「ネズミの手…」
と確かに言った。
「え?」
香子が眉を顰めると、
再度地図に視線を走らせて、
「わかりません。」
と即答した。
え?
「わからない…ですか…」
「僕は地図は読めません。ごめんなさい。」
あちらに交番があります。
そう言って、彼はスタスタと歩いて行ってしまった。
ふわっとした、残り香だけを残して、あまりにも迷いなく。
「…いい匂い…」
いきなり知らないおばさんに話しかけられたら警戒するか。
この辺で声かけられることなんか無いから慣れてないよね。
いや驚かせて申し訳なかった。
こんなことで傷つくわたしの方が悪い。
また空気読めなかった。
あ、それ苦手なんだわたし。
コインランドリーの洗濯機のように、ぐるぐる回る後悔の渦。
ぐるぐる、ぐるぐる…
ネズミの手?
胸に一瞬浮かんだ苛立ちは、
交番の警察官に案内してもらった新居についてすぐらおさまった。
「…カビ臭い…」
聞いてはいたけど、
高級別荘地として売り出されていたこの住宅は、バブル崩壊の折に息子夫婦と折り合いが悪くなった祖母が祖父の遺産をはたいて購入し、移り住み、亡くなってからもう10年放置されていたものだ。
実家に帰ることは許されなかった香子は、この空き家に管理がてら住むことを叔母から提案され、今ここにいる。
わたしは1人で子供を2人育てなければならない。
今はそれだけ。それだけを考えるんだ。
差し当たって、夜までに寝られるように部屋を整えなければならない。
胡桃には軽い小児喘息の気があり、
埃やカビは大敵なのだ。
お金に余裕があるわけではないけど、
今日の夜はテイクアウトにしよう。
緋色は食べられるものが少ないし、あっちゃこっちゃ動くから外食は想像しただけで疲れる。
一心に床を磨いていると、ウッドデッキで遊んでいた緋色が外から窓をダンダン叩いてきた。
庭に出してもよかったのだが、なにせ緋色は目を離すとどこに行ってしまうかわからない。
「ひーくん!やめて!壊れたらどうするの!?」
「さっきあったお兄ちゃんがいるよ」
「え?」
窓から外を覗いてみると、向かいの家の庭に、キャンピングチェアを置いて本を読んでいる人がいる。
足元に炎。あ、焚き火か。
…昼間の青年だった。
長い脚を組んで、長い前髪をいじりながら、こっちに視線をくれようともしない。
落ち着いていた感情の火が、焚き火と共にパチパチと静かに音を立て始める。
お隣さんじゃない。
お隣さんなのにわからなかった…の?
「あの!」
お隣さんは初めて気づいたかのように顔を上げた。
目を丸くさせて。
「今日からここに引っ越してきました、安藤と申します。」
ダメだ、窓から顔出したまま言うことじゃない。
思い直して、スニーカーのかかとをつぶして外に出る。
なんの整備もされていない玄関前の、枯葉や湿った土、木の根っこに足を取られながら。
「子供が2人いるので何かとご迷惑をおかけすることもあると思いますが、宜しくお願いします」
すると青年も、すっと立ち上がってペコリと頭を下げた。
立ち上がると見上げるような背丈に、ぶかぶかの白いシャツ。黒いサンダル。長い前髪。
「初めまして。河村瑞樹です。宜しくお願いします。」
…初めまして…?
緋色がその男をじっと見ながら、つぶやいた。
「初めましてじゃないよ。ひーくん、あの人見たことある。」
…そうだよね。ママも見たことあるわ。
呆れ顔でもう一度青年を見やると、もう椅子に座って読書を再開している。
なんにもなかったかのように。
私たちなんか、いないかのように。
…それが、河村瑞樹の出会いだった。
指が短くて、爪は平たく、関節はふしくれだっていて、あまり仲のよくない今は疎遠の母親の手に瓜二つのわたしの手。
そのうえ、家事育児に追われ、手入れする暇もなくカサカサに乾燥して荒れている。
へこんだ左手薬指の跡を、親指で撫でた。
「まま!うごいて!あおだよ!」
何かに追われているように急かす、長男の声。
確かに今、意識が飛んでいた。
ごめんね、ごめんねと言いながらコンプレックスだらけの手でハンドルを握りなおす。
2019年、夏。
安藤香子が運転し慣れない四駆のドアを開けた途端に、刺すようなつめたい空気が寝不足の頭を一気に覚醒させた。
ほんの2時間前、車のエンジンをかけた時の東京と、どのくらいの気温差があるのだろう。
「ママー?新しいおうちもう着いたの?」
待ちきれない緋色が窓からひょいっと顔を出す。
「ひいくんだめだよ。まどあけちゃいけないんだよ?」
胡桃は4歳とは思えない大人びた口調で2歳上の兄をいなした。
「ごめんごめん、ママ道に迷っちゃったみたい。別荘地って道が混みいってて、難しいんだよね。」
「え?道に迷ったの!?大丈夫なの!?」
緋色が甲高い声をあげた。
あ…。また間違えた?わたし。
誘発しちゃった?
少し黙って、フロントガラスごしに緋色の様子を見ていると、徐々に落ち着いて手元のスナック菓子を食べ始め、車載DVDに集中し出した。
大昔のアメリカのアニメ映画に固執している緋色は、同じものを何度でも観る。
セーフ…。
ホッとしたところで手元の地図にまた視線を落とす。
ナビでたどり着けないとは言われていたけど、小径に一本入るとまるで迷路のようだ。
薄暗い森に似たような家が似たような間隔で立っていて、
しかもそのどれもに灯がついているわけではないからさらに迷路感が増す。
このままでは永遠に新居にたどり着けない…。
はあ、とため息をついた。
わたしはいつも間違える。
なんで事前にちゃんと調べないんだよ。
このままじゃ俺たち野宿だよ。
お前のせいで。
ほんと使えねえな。おかしいのは緋色じゃなくてお前だろ。
頭の奥で聞き慣れた声がするのをぶんぶん、とかぶりを振って追い払う。
どろり。
黒いヘドロのようなものが、喉の奥まで迫ってくる。
ごめんなさいごめんなさい。
胸の奥で呪文のように何度も繰り返し唱えて鎮める。
8月。
この地なら、車中泊でも東京に比すれば過ごしやすいことが想像に難くない。
でも。
子供がいる。
今日高速で寝てしまった兄の緋色は、外で体を動かさねば夜は長くなるし、妹の胡桃は繊細で、慣れた枕とブランケットがないと寝てくれない。
やはりどうにかして家を探さねば。
何より引っ越しのトラックも来るし。
決意したように顔を上げると、ちょうど目の前を人が歩いているではないか。
手元にスーパーの袋。
地元の人だ。
「あの!」
背の高い、その人が顔を上げた。
まるで豆鉄砲を食らった鳩のように、
本気で面食らった顔をしている。
「突然すみません。わたし、今日ここに引っ越してきた者なんですが、道に迷ってしまって…。この住所わかりますか?」
その人は一瞬少しニヤッとして、
「ネズミの手…」
と確かに言った。
「え?」
香子が眉を顰めると、
再度地図に視線を走らせて、
「わかりません。」
と即答した。
え?
「わからない…ですか…」
「僕は地図は読めません。ごめんなさい。」
あちらに交番があります。
そう言って、彼はスタスタと歩いて行ってしまった。
ふわっとした、残り香だけを残して、あまりにも迷いなく。
「…いい匂い…」
いきなり知らないおばさんに話しかけられたら警戒するか。
この辺で声かけられることなんか無いから慣れてないよね。
いや驚かせて申し訳なかった。
こんなことで傷つくわたしの方が悪い。
また空気読めなかった。
あ、それ苦手なんだわたし。
コインランドリーの洗濯機のように、ぐるぐる回る後悔の渦。
ぐるぐる、ぐるぐる…
ネズミの手?
胸に一瞬浮かんだ苛立ちは、
交番の警察官に案内してもらった新居についてすぐらおさまった。
「…カビ臭い…」
聞いてはいたけど、
高級別荘地として売り出されていたこの住宅は、バブル崩壊の折に息子夫婦と折り合いが悪くなった祖母が祖父の遺産をはたいて購入し、移り住み、亡くなってからもう10年放置されていたものだ。
実家に帰ることは許されなかった香子は、この空き家に管理がてら住むことを叔母から提案され、今ここにいる。
わたしは1人で子供を2人育てなければならない。
今はそれだけ。それだけを考えるんだ。
差し当たって、夜までに寝られるように部屋を整えなければならない。
胡桃には軽い小児喘息の気があり、
埃やカビは大敵なのだ。
お金に余裕があるわけではないけど、
今日の夜はテイクアウトにしよう。
緋色は食べられるものが少ないし、あっちゃこっちゃ動くから外食は想像しただけで疲れる。
一心に床を磨いていると、ウッドデッキで遊んでいた緋色が外から窓をダンダン叩いてきた。
庭に出してもよかったのだが、なにせ緋色は目を離すとどこに行ってしまうかわからない。
「ひーくん!やめて!壊れたらどうするの!?」
「さっきあったお兄ちゃんがいるよ」
「え?」
窓から外を覗いてみると、向かいの家の庭に、キャンピングチェアを置いて本を読んでいる人がいる。
足元に炎。あ、焚き火か。
…昼間の青年だった。
長い脚を組んで、長い前髪をいじりながら、こっちに視線をくれようともしない。
落ち着いていた感情の火が、焚き火と共にパチパチと静かに音を立て始める。
お隣さんじゃない。
お隣さんなのにわからなかった…の?
「あの!」
お隣さんは初めて気づいたかのように顔を上げた。
目を丸くさせて。
「今日からここに引っ越してきました、安藤と申します。」
ダメだ、窓から顔出したまま言うことじゃない。
思い直して、スニーカーのかかとをつぶして外に出る。
なんの整備もされていない玄関前の、枯葉や湿った土、木の根っこに足を取られながら。
「子供が2人いるので何かとご迷惑をおかけすることもあると思いますが、宜しくお願いします」
すると青年も、すっと立ち上がってペコリと頭を下げた。
立ち上がると見上げるような背丈に、ぶかぶかの白いシャツ。黒いサンダル。長い前髪。
「初めまして。河村瑞樹です。宜しくお願いします。」
…初めまして…?
緋色がその男をじっと見ながら、つぶやいた。
「初めましてじゃないよ。ひーくん、あの人見たことある。」
…そうだよね。ママも見たことあるわ。
呆れ顔でもう一度青年を見やると、もう椅子に座って読書を再開している。
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私たちなんか、いないかのように。
…それが、河村瑞樹の出会いだった。
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