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3・小説家の先生
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葉月が終わろうとする、都会ではまだまだ熱気でアスファルトが歪んで見える頃。
避暑地と呼ばれるこの小さな町では、ひやっとした風が頬を撫でる時がわずかに、ある。
今日、初めてそれを感じた。
空気は心地いい。だけど…。
「緋色くん、今日も涙が出ることが多くて、別のお部屋で絵本を読んだりお絵描きして過ごしていました。」
お迎えの際、療育の先生に言われたことを反芻して胃の底が重くなる。
「もう少し、日数を増やせるときっと緋色くんも慣れてくれると思うんですけど…。」
遠慮がちな先生のトーン。
増やしたいよ、日数。ほんとはね。
でも療育の送迎、働いてたら厳しいんだよ。
ましてやシングルマザーだよ?
今日も午前中だけシフト入れて、午後送迎してるんだよ。
精一杯なんだよ。
言っても、思っても仕方のない言の葉たちが、生まれては消えたふりをする。
消えたふりして溜まっていくんだ、きっと。
そして溜まる。ヘドロとかコールタールみたいに。ずん、て。
ーお前が緋色を障害児扱いしてるんだ。
緋色は普通だよ。
普通だよー
黒い記憶がどろっと逆流してくる。
無理矢理封じ込めて、小さな灯りに照らされたすやすや眠る緋色の頬を指のはらで撫でた。
温かい、すべすべの水風船みたいな肌。
生まれた時、頬が真っ赤だったから緋色。
名付けたのはかつて夫だったことのあるあの人だ。
赤ちゃんの頃から寝るのが下手で、
自分も緋色もいつ寝ていたのかいつ起きていたのかわからなかった。
あれからずいぶん経った今も、
夜はわたしの大切な友達で、大敵だ。
ここしばらく眠れないし、少しまどろんでも
胡桃の泣き声で起こされる。
胡桃はここ一年、睡眠が安定しない。
リビングとも呼べない、小さなダイニングに移動して湯を沸かす。
カーテンをめくると、隣家の灯りが消えるところだった。
24時、ぴったり。
電気ポットからコポコポと、自分一人のためだけに淹れる深夜のコーヒーは、慌ただしい日々の唯一息をつける時間だ。
パート先の出入りの業者がお裾分けしてくれた、ブルーマウンテンの香りも溶ける、真っ黒な夜。
この町の夜は、本当の夜。
明日は日曜日。お休みだ。
穏やかに過ごせますように。
祈りながら、目を閉じる。
眠れないとわかっているのに。
結局朝から溜まり切った洗濯や掃除に片付けとバタバタ動いていた。
緋色は家中を走り回っている。
他所の豪奢な別荘に比するとだいぶ小ぶりだが、東京の2LDKの賃貸マンションよりいくぶんか広いし2階建なので、子供にとっては家そのものが遊び場のようだ。
胡桃は大人しくお絵描きしている。
性格が正反対の兄妹なのだ。
こなすべきタスクは多いけど、概ね思い描いていた通りの、穏やかな午前中だった。
お昼にそうめんでも茹でて、午後は少し買い物に出よう。
ほぼ毎日休みなく働いていると、買い物も満足にできないと知った。
たかがパートだけどさ。
高い天井を仰いで、ついでに首をコキコキ鳴らす。
偉い、本当に、心の底から、世の働く全ての人が偉く感じる。
…でも。
専業主婦だった、夫がいたあの頃が今より楽だったかといえばそんなことは全然なかったように思う。
あの頃の、『遺物』。結婚式の引き出物、親戚から送りつけられてきた何か、幼稚園のママ友に合わせて買った雑貨など、処分しきれずに持ってきた有象無象は、まだ開けていない山積みの段ボールに詰まってる。
その段ボールの中のひとつ。
見ないふりをして、伸びをした。
庭に出ると、向かいの家のドアを河村が施錠しているところだった。
「おはようございます、先生!」
わざと声を張り上げてみる。
河村はほとんどその表情を変えずに、眉だけ顰めて、
「先生ではありません。おはようございます。」
「先生って、マスターが。」
「あの人の言うことは真面目に聞かなくて大丈夫です。」
河村はほとんどこちらを見ることなく、カーキ色のカブにヒョイっと乗って走り去って行った。
フォギーナイトだな。
河村の行動は判を押したように毎日同じだ。
隣に住んでいれば嫌でもわかる。
河村は小説家の先生である…というのは隣に住んでいるだけではわからなかったが。
マスターの奥さんから聞いた話だ。
とは言え、売れっ子とか、大きな賞を受賞しているとかそういうのではなくて、旅行誌のwebライターをしたり、たまに寄稿したり、小説を短期連載したりして細々食い繋いでいるらしい。
「別荘は、知り合いに格安で借りてるんですとって。」
とっつきにくい印象が一転、途端に親しみを感じる。
裕福な世帯が多く、「東京24区」なんて呼称さえあるこの小さな町に、
「格安」や「家賃がかからないからとりあえず住んでいる」は似合わない。
だからか。
どちらかと言えば男性が、というか人間が苦手な香子でも、なんだか話しかけたくなる不思議な感覚は。
「ママ、はやく!」
緋色の急かす声が背中に聞こえる。
はいはい。
ハイブリッドのミニバンのスライドドアを閉め、
自身も運転席に乗り込み、エンジンボタンを押した。
都会では苦痛でしかなかった運転も、
必要に迫られて始めたとはいえ、この街なら「間違いなく」できる。
滅多にハンドルを握ることがなかったとはいえ、あの頃はいつもビクビクしながら運転していた。
都会の道にも、助手席の人にも。
避暑地と呼ばれるこの小さな町では、ひやっとした風が頬を撫でる時がわずかに、ある。
今日、初めてそれを感じた。
空気は心地いい。だけど…。
「緋色くん、今日も涙が出ることが多くて、別のお部屋で絵本を読んだりお絵描きして過ごしていました。」
お迎えの際、療育の先生に言われたことを反芻して胃の底が重くなる。
「もう少し、日数を増やせるときっと緋色くんも慣れてくれると思うんですけど…。」
遠慮がちな先生のトーン。
増やしたいよ、日数。ほんとはね。
でも療育の送迎、働いてたら厳しいんだよ。
ましてやシングルマザーだよ?
今日も午前中だけシフト入れて、午後送迎してるんだよ。
精一杯なんだよ。
言っても、思っても仕方のない言の葉たちが、生まれては消えたふりをする。
消えたふりして溜まっていくんだ、きっと。
そして溜まる。ヘドロとかコールタールみたいに。ずん、て。
ーお前が緋色を障害児扱いしてるんだ。
緋色は普通だよ。
普通だよー
黒い記憶がどろっと逆流してくる。
無理矢理封じ込めて、小さな灯りに照らされたすやすや眠る緋色の頬を指のはらで撫でた。
温かい、すべすべの水風船みたいな肌。
生まれた時、頬が真っ赤だったから緋色。
名付けたのはかつて夫だったことのあるあの人だ。
赤ちゃんの頃から寝るのが下手で、
自分も緋色もいつ寝ていたのかいつ起きていたのかわからなかった。
あれからずいぶん経った今も、
夜はわたしの大切な友達で、大敵だ。
ここしばらく眠れないし、少しまどろんでも
胡桃の泣き声で起こされる。
胡桃はここ一年、睡眠が安定しない。
リビングとも呼べない、小さなダイニングに移動して湯を沸かす。
カーテンをめくると、隣家の灯りが消えるところだった。
24時、ぴったり。
電気ポットからコポコポと、自分一人のためだけに淹れる深夜のコーヒーは、慌ただしい日々の唯一息をつける時間だ。
パート先の出入りの業者がお裾分けしてくれた、ブルーマウンテンの香りも溶ける、真っ黒な夜。
この町の夜は、本当の夜。
明日は日曜日。お休みだ。
穏やかに過ごせますように。
祈りながら、目を閉じる。
眠れないとわかっているのに。
結局朝から溜まり切った洗濯や掃除に片付けとバタバタ動いていた。
緋色は家中を走り回っている。
他所の豪奢な別荘に比するとだいぶ小ぶりだが、東京の2LDKの賃貸マンションよりいくぶんか広いし2階建なので、子供にとっては家そのものが遊び場のようだ。
胡桃は大人しくお絵描きしている。
性格が正反対の兄妹なのだ。
こなすべきタスクは多いけど、概ね思い描いていた通りの、穏やかな午前中だった。
お昼にそうめんでも茹でて、午後は少し買い物に出よう。
ほぼ毎日休みなく働いていると、買い物も満足にできないと知った。
たかがパートだけどさ。
高い天井を仰いで、ついでに首をコキコキ鳴らす。
偉い、本当に、心の底から、世の働く全ての人が偉く感じる。
…でも。
専業主婦だった、夫がいたあの頃が今より楽だったかといえばそんなことは全然なかったように思う。
あの頃の、『遺物』。結婚式の引き出物、親戚から送りつけられてきた何か、幼稚園のママ友に合わせて買った雑貨など、処分しきれずに持ってきた有象無象は、まだ開けていない山積みの段ボールに詰まってる。
その段ボールの中のひとつ。
見ないふりをして、伸びをした。
庭に出ると、向かいの家のドアを河村が施錠しているところだった。
「おはようございます、先生!」
わざと声を張り上げてみる。
河村はほとんどその表情を変えずに、眉だけ顰めて、
「先生ではありません。おはようございます。」
「先生って、マスターが。」
「あの人の言うことは真面目に聞かなくて大丈夫です。」
河村はほとんどこちらを見ることなく、カーキ色のカブにヒョイっと乗って走り去って行った。
フォギーナイトだな。
河村の行動は判を押したように毎日同じだ。
隣に住んでいれば嫌でもわかる。
河村は小説家の先生である…というのは隣に住んでいるだけではわからなかったが。
マスターの奥さんから聞いた話だ。
とは言え、売れっ子とか、大きな賞を受賞しているとかそういうのではなくて、旅行誌のwebライターをしたり、たまに寄稿したり、小説を短期連載したりして細々食い繋いでいるらしい。
「別荘は、知り合いに格安で借りてるんですとって。」
とっつきにくい印象が一転、途端に親しみを感じる。
裕福な世帯が多く、「東京24区」なんて呼称さえあるこの小さな町に、
「格安」や「家賃がかからないからとりあえず住んでいる」は似合わない。
だからか。
どちらかと言えば男性が、というか人間が苦手な香子でも、なんだか話しかけたくなる不思議な感覚は。
「ママ、はやく!」
緋色の急かす声が背中に聞こえる。
はいはい。
ハイブリッドのミニバンのスライドドアを閉め、
自身も運転席に乗り込み、エンジンボタンを押した。
都会では苦痛でしかなかった運転も、
必要に迫られて始めたとはいえ、この街なら「間違いなく」できる。
滅多にハンドルを握ることがなかったとはいえ、あの頃はいつもビクビクしながら運転していた。
都会の道にも、助手席の人にも。
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