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君は誰よりも美しい(6)
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真琴はその日の午後マンションに帰宅すると、気を静めるために頭からシャワーを浴びた。
平らな腹を流れ落ちるお湯を見下ろしながら、あのあと冬馬と交わした会話を思い出す。
『先生、すいません。夏柊というのはこの街……北陸にはよくある名前なんでしょうか?』
『いいえ、無いと思います。私の名もやはり変わっていますが、夏柊よりは同名の男性は多いでしょうね。ちなみに、父の名は春継、祖父の名は吉秋と言いました』
偶然にしては出来すぎている。高柳夏柊こそが薫の実父なのだろう。
あの葬儀の写真についても説明できる。
(きっと先生のお父さんのお葬式の写真だったんだ……)
つまり、薫にとっては祖父に当たる人物である。
(でも、お義母さんがお父さんと再婚する前の姓は、高柳じゃなくて白岩だったはず……)
だが、それも夏柊が月子と結婚する際高柳ではなく妻の姓を選んだ、あるいは夏柊の死後に月子が薫ともども旧姓に戻しただけかもしれない。
姓についてはどうにか説明がついたものの、まだいくつもの「なぜ」が脳裏をぐるぐると回る。
――月子は父の真之と再婚するまで、東京のホテルで清掃員として働きながら、一人で薫を育てていたと聞いている。中卒で就業経験が少なかったために、働き口がなかなかなかったのだそうだ。
当時まだ薫の祖父に当たる前高柳家当主・春継は存命だった。夭折した長男の一人息子なら、薫は跡取り候補でもあったはずだ。なのに、なぜ孫を迎え入れることも、月子に援助することもなく、親子を苦労させたまま放っておいたのか。
また、真之と月子が事故で亡くなった際、高柳家にも連絡があっただろう。その時点で薫を引き取ることもできた。経済的な問題を考慮すれば、手取りの少ない自分が育てるよりも、薫にとってずっとよかった。
ところが、やはり無情に無視したのはなぜか。両親を亡くした自分たち姉弟の、未成年後見人となってくれた、真之の親友でもあった弁護士は、高柳家とどのようなやり取りをしたのか。なぜ、関係者である自分に何も話してくれなかったのか。
何より、薫はこれらの答えを知っているのだろうか。
胸の上に置いた拳をかたく握り締める。
(きっと知っている……。だから、この街に来たんだ)
いつ、どこで、どのように情報を入手したのだろう。
「……っ」
目の前の曇った鏡に額と両手をつけ、「……どうして?」と呻くように呟く。
なぜ、薫は自分に何も打ち明けてくれないのか。たった一人の家族である義姉で、これから妻になる相手だというのに。
だが、直に問い質すのは躊躇われる。写真を盗み見ただけではなく、外出し、冬馬と会ったことも伝えることになるからだ。
(……先生は何か知っているの?)
冬馬は薫にとっては叔父であり、高柳家の現当主である。「なぜ」の答えをわかっているかもしれない。
「……」
のろのろとシャワーを止め、鏡に映る濡れたおのれの姿を見つめる。その顔色はぞっとするほど青ざめていた。
冬馬と連絡をやり取りした結果、菊乃に着付けをしてもらう日は、金曜日の午後ということになった。
将来のためのコネづくりの一環なのだろう。薫が地元の検察官と飲みに行くことになっており、帰宅は夜九時以降になると聞いていたからだ。
もちろん、今回の件については薫に何も話していない。あなたの叔父と会うなどとは言えるはずがないし、薫が許してくれるはずもないからだ。
その日、冬馬の指名を受けた菊乃は大喜びで、再び寺を訪れた真琴を迎え入れてくれた。着物一式は前日に冬馬が用意してくれており、あとは真琴に着付けをするだけなのだそうだ。
座敷部屋へ案内され服を脱ぐよう指示される。
「ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、ブラジャーも外してちょうだいね。ちゃんと専用の下着があるから。ああ、若い人の着付けなんて何年ぶりかしら。孫娘は着物は苦しいからって嫌がっちゃってね」
ちなみに、冬馬は午後三時ごろにやって来るのだという。
「カメラを持ってくるって言っていたわよ。せっかくなんだし写真をたくさん撮ってもらわないと。彼氏に見せたらきっと惚れ直してくれるわよ」
「そうですね……」
ブラウスとキャミソールを脱いだ真琴を目にし、菊乃は「あらあら」と目を見開いた。
「真琴さん、結構胸があるのね。これはタオルがいるわ」
言われるままに足袋を履き、肌着をつけ、続いてタオルで体型の補正をされる。肌触りのいい長襦袢に腕を通し、いよいよ着物というところにまで来た。
菊乃は腰紐と伊達締めを手際よく締めると、真琴の腰に帯を器用に巻いていった。緊張感はなく鼻歌すら歌っている。
その気安さに今なら聞けると口を開いた。
「あのう、先日高柳先生には早くに亡くなったお兄さんがいると聞いたんですけど……」
「ああ、夏柊さんのことね。もったいなかったわよね。優秀な方だったんだけど」
これと言った緘口令は敷かれてはいないらしく、菊乃は尋ねられるままにペラペラと話してくれた。
夏柊は冬馬とは十歳違いで、T大経済学部を卒業したのち、後継者として高柳産業に入社した。ところが四年後「僕は経営者には向かない」と退職し、この街を出て行ってしまったのだという。
「春継さんは夏柊さんにとっても目を掛けていたのよ。夏柊さんが出て行くまでは自慢話ばかりしていたもの。それがピタリと無くなったんだから、よっぽどショックだったんでしょうね。絶縁に近い形になって、連絡も取ってなかったみたい」
以降、夏柊については噂すら聞かなくなったのだが、昨年になってすでに夏柊が亡くなっていたことを知り、冬馬が今更ながらに墓石に兄の名を入れたのだそうだ。
「春継さんより早くに亡くなっていただなんてね。まだ三十代だったそうよ」
「奥さんやお子さんはいらっしゃらなかったんですか?」
「そんな話は聞いていないわね」
菊乃はこの寺に嫁いできた五十年前から、高柳家との付き合いがあると聞いている。それでも親子二人の名前すら知らないということは、月子と薫の存在は徹底して伏せられているのだろう。
(でも、どうしてなの? 隠すようなことでもないのに。お義母さんに学歴がないから、夏柊さんとの結婚を反対していたとか?)
庶民としてはそんなことでと思うものの、体面を気にする名家であれば有り得ない話ではない。
薫のように推理力があるわけでもないので、それ以外の理由が思い付かずに首を傾げるしかなかった。
先日、未成年後見人だった弁護士に電話を掛け、両親の死後高柳家とどういったやり取りをしたのか、なぜ当事者である自分に黙っていたのかを詰問したのだが、「守秘義務がある」と繰り返すばかりで何も教えてはくれなかった。
事情を聞き出せそうな人物は、もはや冬馬しか残されていない。
「さあ、終わりましたよ」
菊乃は十歩ほど離れて真琴をまじまじと見つめ、「まあ、やっぱり素敵だわ」と溜め息を吐くと、手招きをして鏡台前の椅子に腰掛けるよう促した。
「冬馬さんったら簪も用意してくださったのよ。口紅はどの色味がいいかしらね? やっぱり少し濃い桜色かしら?」
約三十分後、時計の針が午後三時を刻むのと同時に、ヘアメイクも仕上がりようやく着付けは終わった。
間もなくピンポンと玄関のベルの音が耳に届く。
「きっと冬馬さんよ」
菊乃が慌ただしく部屋を出て行き、次いで廊下から二人分の足音が聞こえた。
「真琴さんったらますます綺麗になって……」
「そうなんですか。真琴さん、失礼しますよ」
襖が開かれる音に振り返る。
「ああ、やっぱり……」
冬馬が驚愕と感動を隠そうともせずに、熱の籠もった目でこちらを見つめていた。
平らな腹を流れ落ちるお湯を見下ろしながら、あのあと冬馬と交わした会話を思い出す。
『先生、すいません。夏柊というのはこの街……北陸にはよくある名前なんでしょうか?』
『いいえ、無いと思います。私の名もやはり変わっていますが、夏柊よりは同名の男性は多いでしょうね。ちなみに、父の名は春継、祖父の名は吉秋と言いました』
偶然にしては出来すぎている。高柳夏柊こそが薫の実父なのだろう。
あの葬儀の写真についても説明できる。
(きっと先生のお父さんのお葬式の写真だったんだ……)
つまり、薫にとっては祖父に当たる人物である。
(でも、お義母さんがお父さんと再婚する前の姓は、高柳じゃなくて白岩だったはず……)
だが、それも夏柊が月子と結婚する際高柳ではなく妻の姓を選んだ、あるいは夏柊の死後に月子が薫ともども旧姓に戻しただけかもしれない。
姓についてはどうにか説明がついたものの、まだいくつもの「なぜ」が脳裏をぐるぐると回る。
――月子は父の真之と再婚するまで、東京のホテルで清掃員として働きながら、一人で薫を育てていたと聞いている。中卒で就業経験が少なかったために、働き口がなかなかなかったのだそうだ。
当時まだ薫の祖父に当たる前高柳家当主・春継は存命だった。夭折した長男の一人息子なら、薫は跡取り候補でもあったはずだ。なのに、なぜ孫を迎え入れることも、月子に援助することもなく、親子を苦労させたまま放っておいたのか。
また、真之と月子が事故で亡くなった際、高柳家にも連絡があっただろう。その時点で薫を引き取ることもできた。経済的な問題を考慮すれば、手取りの少ない自分が育てるよりも、薫にとってずっとよかった。
ところが、やはり無情に無視したのはなぜか。両親を亡くした自分たち姉弟の、未成年後見人となってくれた、真之の親友でもあった弁護士は、高柳家とどのようなやり取りをしたのか。なぜ、関係者である自分に何も話してくれなかったのか。
何より、薫はこれらの答えを知っているのだろうか。
胸の上に置いた拳をかたく握り締める。
(きっと知っている……。だから、この街に来たんだ)
いつ、どこで、どのように情報を入手したのだろう。
「……っ」
目の前の曇った鏡に額と両手をつけ、「……どうして?」と呻くように呟く。
なぜ、薫は自分に何も打ち明けてくれないのか。たった一人の家族である義姉で、これから妻になる相手だというのに。
だが、直に問い質すのは躊躇われる。写真を盗み見ただけではなく、外出し、冬馬と会ったことも伝えることになるからだ。
(……先生は何か知っているの?)
冬馬は薫にとっては叔父であり、高柳家の現当主である。「なぜ」の答えをわかっているかもしれない。
「……」
のろのろとシャワーを止め、鏡に映る濡れたおのれの姿を見つめる。その顔色はぞっとするほど青ざめていた。
冬馬と連絡をやり取りした結果、菊乃に着付けをしてもらう日は、金曜日の午後ということになった。
将来のためのコネづくりの一環なのだろう。薫が地元の検察官と飲みに行くことになっており、帰宅は夜九時以降になると聞いていたからだ。
もちろん、今回の件については薫に何も話していない。あなたの叔父と会うなどとは言えるはずがないし、薫が許してくれるはずもないからだ。
その日、冬馬の指名を受けた菊乃は大喜びで、再び寺を訪れた真琴を迎え入れてくれた。着物一式は前日に冬馬が用意してくれており、あとは真琴に着付けをするだけなのだそうだ。
座敷部屋へ案内され服を脱ぐよう指示される。
「ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、ブラジャーも外してちょうだいね。ちゃんと専用の下着があるから。ああ、若い人の着付けなんて何年ぶりかしら。孫娘は着物は苦しいからって嫌がっちゃってね」
ちなみに、冬馬は午後三時ごろにやって来るのだという。
「カメラを持ってくるって言っていたわよ。せっかくなんだし写真をたくさん撮ってもらわないと。彼氏に見せたらきっと惚れ直してくれるわよ」
「そうですね……」
ブラウスとキャミソールを脱いだ真琴を目にし、菊乃は「あらあら」と目を見開いた。
「真琴さん、結構胸があるのね。これはタオルがいるわ」
言われるままに足袋を履き、肌着をつけ、続いてタオルで体型の補正をされる。肌触りのいい長襦袢に腕を通し、いよいよ着物というところにまで来た。
菊乃は腰紐と伊達締めを手際よく締めると、真琴の腰に帯を器用に巻いていった。緊張感はなく鼻歌すら歌っている。
その気安さに今なら聞けると口を開いた。
「あのう、先日高柳先生には早くに亡くなったお兄さんがいると聞いたんですけど……」
「ああ、夏柊さんのことね。もったいなかったわよね。優秀な方だったんだけど」
これと言った緘口令は敷かれてはいないらしく、菊乃は尋ねられるままにペラペラと話してくれた。
夏柊は冬馬とは十歳違いで、T大経済学部を卒業したのち、後継者として高柳産業に入社した。ところが四年後「僕は経営者には向かない」と退職し、この街を出て行ってしまったのだという。
「春継さんは夏柊さんにとっても目を掛けていたのよ。夏柊さんが出て行くまでは自慢話ばかりしていたもの。それがピタリと無くなったんだから、よっぽどショックだったんでしょうね。絶縁に近い形になって、連絡も取ってなかったみたい」
以降、夏柊については噂すら聞かなくなったのだが、昨年になってすでに夏柊が亡くなっていたことを知り、冬馬が今更ながらに墓石に兄の名を入れたのだそうだ。
「春継さんより早くに亡くなっていただなんてね。まだ三十代だったそうよ」
「奥さんやお子さんはいらっしゃらなかったんですか?」
「そんな話は聞いていないわね」
菊乃はこの寺に嫁いできた五十年前から、高柳家との付き合いがあると聞いている。それでも親子二人の名前すら知らないということは、月子と薫の存在は徹底して伏せられているのだろう。
(でも、どうしてなの? 隠すようなことでもないのに。お義母さんに学歴がないから、夏柊さんとの結婚を反対していたとか?)
庶民としてはそんなことでと思うものの、体面を気にする名家であれば有り得ない話ではない。
薫のように推理力があるわけでもないので、それ以外の理由が思い付かずに首を傾げるしかなかった。
先日、未成年後見人だった弁護士に電話を掛け、両親の死後高柳家とどういったやり取りをしたのか、なぜ当事者である自分に黙っていたのかを詰問したのだが、「守秘義務がある」と繰り返すばかりで何も教えてはくれなかった。
事情を聞き出せそうな人物は、もはや冬馬しか残されていない。
「さあ、終わりましたよ」
菊乃は十歩ほど離れて真琴をまじまじと見つめ、「まあ、やっぱり素敵だわ」と溜め息を吐くと、手招きをして鏡台前の椅子に腰掛けるよう促した。
「冬馬さんったら簪も用意してくださったのよ。口紅はどの色味がいいかしらね? やっぱり少し濃い桜色かしら?」
約三十分後、時計の針が午後三時を刻むのと同時に、ヘアメイクも仕上がりようやく着付けは終わった。
間もなくピンポンと玄関のベルの音が耳に届く。
「きっと冬馬さんよ」
菊乃が慌ただしく部屋を出て行き、次いで廊下から二人分の足音が聞こえた。
「真琴さんったらますます綺麗になって……」
「そうなんですか。真琴さん、失礼しますよ」
襖が開かれる音に振り返る。
「ああ、やっぱり……」
冬馬が驚愕と感動を隠そうともせずに、熱の籠もった目でこちらを見つめていた。
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