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六章 決別
二十五.霖雨
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その日の夜。
突然の雷と共に大雨が降ってきた。
一つの畳で叶兄妹が眠っている。
もう一つの床では、浅葱が横になって、隣りで外を見つめる樟美の事を見ていた。
〈……兄様…〉
昼間見た、兄の涙…震える体。
どんな時にも頼もしく、冷静な兄が見せた…弱々しい姿。
いや……弱い、とは思わなかった。
ただただ、泣かないで欲しかった…それだけだ。
当の樟美は、この雷雨の中立っている父の身を案じていた。
〈…ここの嫡子は義信……しかし諏訪勝頼に跡を継がせたい………〉
難しい問題だ。
〈しかし…何故、嫡子を変えたがる? …変えられる人間は………まだいいではないか〉
ふいに思った。
武家は、駄目だと思えば…嫌なら、嫡子をころころと好きに変えられる。
…だがしかし、〔一族〕は違う。
髪の毛と目の色…それが〝証〟。
その代用は…………いない。
〝代理〟は出来ても、〝嫡子〟には決してなれないのだ。
どう考えても、何をしても嫡子にはなれない。
なれないものを、いつまでも未練がましく思った所で是非もない。
〈……私が嫡子ではないのには、何か意味でもあるのだろうか…?〉
狭霧に行くのは、いつになるのだろうか?
狭霧で、自分にしか出来ない事でもあるのだろうか………不知火ではなく?
〈不知火では…駄目なのか……?〉
そう考えると、悲しくなってくる。
しかし、悲観的になっている場合ではない。
何か、ある筈だ。
狭霧に行っても、父の為に…不知火の為に出来る事が、何か必ずある筈だ。
それを見付けるしかない。
〈まだ先の話だ………今は、出来る事をやろう〉
そう思い、樟美は床に就いた。
雷雨は三日も続き、四日目にやっと雨雲が切れて太陽が顔を出した。
晴信が部屋から出る度に、翔隆は平伏してきた…。
〈…もう、居るまい〉
そう思い信玄は障子を開けた。
―――が、そこには泥まみれになりながらも立ち、こちらを見る翔隆の姿があったのだ。
「…この五日間ずっと同じ場所に立っておいでにござりまする」
近習が少し蒼冷めて告げた。
すると翔隆はバッと平伏する。
「何卒っ!!」
信玄は大きく溜め息を漏らし、腕を組む。
「ふぅ―――……分かった」
「えっ?!」
翔隆はパッと顔を上げた。
「…それ程申すのであれば、まずはあ奴を説き伏せるが良い。これよりは、わしに従うと約束するのであれば……許してやろう」
「はっ!!」
難しいが、何としてでも説き伏せねばならない。そうしなければ、義信はいつか殺されてしまう…。
翔隆は早速水浴びをして着替え、義信が幽閉されている東光寺に走った。
東光寺には、警備兵が居た。
翔隆は手薄な場所を探すが、何処も兵士か僧侶が居て仲々近付けない。
仕方なく《力》で義信の〝気〟を探り、《瞬間移動》をした。
格子窓が一つあるだけの牢獄に似た部屋の中、義信は一人じっと座っていた。
ふと後ろに人の気配を感じた義信は、振り向きもせずに言う。
「…わしの命が欲しくば取るが良い。抵抗はせぬぞ」
「………何と悲しい事を仰せられますか…」
その懐かしい声に、義信は目を見開いて振り向いた。
そして、次の瞬間には笑顔になる。
「翔隆…! お主いつ…」
翔隆は微笑んで正座すると、義信を見つめた。
「…つい、数日前に。お久しゅうござりまする……暫くお会いしない間に、立派になられましたな」
「ふ……それは皮肉か?」
「いいえ。まことの事にござりまする」
そう言ってから、翔隆は真顔になって義信を見つめる。
「謀叛、とは…まことにござりまするか?」
すると義信は苦笑した。
「あれが、謀叛と言うのであれば…そうなのであろうな」
「…義信様……私で宜しければ、お聞かせ願えませんか?」
翔隆が切なげに言うと、義信は溜め息を吐いて話す。
「…わしは、高坂より父上の意見に従うように、きつく諌められた。だが、わしは逆らう様な真似はしておらぬと言っただけだ。ただ…」
「ただ?」
「飯富の邸へ行った。それだけだ…」
そう言う義信の表情は、何か諦めているようだった。
その言葉で翔隆は重要な事を思い出す。
そういえば、その辺りの真相を知らないのだ。
〈聞いてくるべきだった………答えて、下さるだろうか…?〉
翔隆は深呼吸して、再び真剣に義信を見つめた。
「…飯富殿の邸へ行き、何があったのですか?」
「何も。しかし、密議を交わした、と。………わしが今川の娘を娶っておる故に駿府攻めに反対して、父を追い出して乗っ取ろうと画策している、と…疑いを掛けられたのだ」
「なっ―――?!」
考えられない………信玄を追放しようなどと、思う筈も無い!
それは誰より飯富虎昌自身が…――――。
〈…密議を交わしたなどと、誰が言ったのだ…? 飯富殿が言う筈も無い……ならば〉
「密議を交わした、と父に密告したのは飯富自身が弟の山県三郎兵衛尉に言わせたのだ……と、高坂が申したそうだ」
「?! そんな…事……」
訳が分からない。
飯富虎昌が密議を交わした相手で、密告も飯富などと……何故そうなるのだ?!
「密議を…交わしたのですか?」
そう聞くと、義信は首を横に振る。
「〝灯籠見物を口実に密議し、逆心の恐れあり〟…とな。わしは、確かに様々な灯籠を見た。しかし、断じて父を追い出してまで……いや。確かに今川領へ攻めるのは反対だ」
「………」
「今攻めては、北条との同盟まで破棄となり兼ねんし、上杉の動きが気になる。織田と組むのは良いが……まだ機では無いと思うておるのは事実」
「義信様…」
「数年前より、父とわしとは仲が悪くなっていた。勝頼ばかりを可愛がる父に、嫉妬もした。…父は………勝頼に跡を継がせたくてたまらんのだ。わしが思うままにならぬ故に…追い出す口実を待っていたのやもしれん」
では、ただ邸に行っただけで廃嫡となったというのか…?
じいである飯富が、そんな事を画策したのか?
〈いや! 飯富殿は晴信様に絶対の忠誠を誓って………〉
まさか、誓っているからこそ……廃嫡の手引きを…――――!?
翔隆はそう考え義信を見て、ドキッとしてたじろいだ。
まるで心中を読んでいるかのような、複雑な微苦笑を浮かべてこちらを見ていたからだ。
「あ……」
「隠さずとも良い。飯富は、忠臣故に主の心を読み取り…事を起こした。…そう考えておるのであろう…?」
「あ…いえ、それは……」
否定したい。
だが、そう考えれば飯富が弟に密告させた事も……義信を自刃させずに幽閉している事も、余りに辻褄が合い過ぎて…――――!
〈駄目だ………そうとしか考えられない…!〉
翔隆は考えながら、否定したくて首を横に振る。
すると義信が語り出す。
「…父に愛されぬからといって、四郎や父を恨んだりはしない。ただ……わしは、案じておるのだ…」
「何…を……」
「…あの宿老達が、きちんと四郎を立てていけるかどうか。父は情に溺れて大事な重臣を早くも一人…自害させ、わしに忠誠を誓う者達を誅した……。それが後々、どういう事になるか分かっておられるのか…? こんな…〝廃嫡〟などというくだらない事の為に、今まで築いた輪が崩れ始めている! …己の意のままにならぬからと、斬って捨てる…。それを見た四郎は、それが正しい事だと思ってしまうのではないかっ?! わしは総て間違っており、四郎のやる事は総て正しい、などと………四郎自身が思い込んでしまったら、あの子は武田の総領としての器を失ってしまう…! 甘やかすだけでは駄目なのだ…っ!!」
―――何とも、言い様が無かった。
この人は心底父や弟を愛し、武田家の事を思っている…。
誰も、悪くはない。
しかし………昔の信長のような境遇に置かれてしまった義信を、どう説得しろというのか…!
翔隆は俯き、静かに涙を流した。
「…どうした?」
「も……申し訳ありませ……私が愚かでした…!! ただ…義信様が晴信様に従われるのなら、それで収まると思い…説得に参ったのです! ですが……ですが…!!」
泣きじゃくる翔隆を見て微笑すると、義信はその肩をポンと軽く叩く。
「…飯富は…悪くない。わしは、初めから父に逆らう気など無い。ただ…諌めただけだ。今川と北条の両者と同盟している事を忘れぬよう。…………織田は、いずれ美濃を取る。そうしたら織田の方が早く都へ着くであろう。それに、もしも敵対したら上杉と手を結ぶであろう…」
「それは………」
正しく、その通りであろう。
翔隆が口籠もると、義信はふっと笑って喋る。
「ここへ入れられてから、わしは色んな事に気付いた。何故このような事になったのか…わしが先の上杉との合戦で、敵の挑発に乗り敵陣に斬り込んでしまったのが、そもそもの原因。嫡男を敵中へ置き去りにした、と反発の声が上がり……今川の件で対立してしもうた……。それから…廃嫡の噂が流れて家中は、父とわしの二派に別れてしまったのだ…。飯富はわしの為を思って何とか廃嫡を免れようとしてくれてはいたが…山県がそれに気付き、一早く父へ知らせて………こうなった。…飯富が自らの画策を、わざわざ言う筈が無い……」
義信は同意を求めるように翔隆を見た。先程は否定出来なかったが、翔隆は整理してよく考えた後に力強く頷く。
「はい。飯富殿は確かに晴信様へ忠誠を誓っておられますが、それよりも強く、義信様の事を思っておいででした」
真剣に答えると、義信は頷いて続ける。
「わしを殺せば、わしに付いていてくれている者達が争いを起こし兼ねない……故に、幽閉なのだ。こうなってしまうと、わしが自刃するのを待つしかない…一つに、纏める為にも。…そして、四郎に跡を継がせる為にも」
それは、翔隆にも分かる………だが、義信は大切な合戦に出る程、〝嫡子〟として認められている。
それに、そのような事が起こらぬように、勝頼に諏訪を継がせたのではなかったか?
やはり今の信玄は、情に溺れ過ぎて大切なものを見失ってしまっている…!
しかし、翔隆にそれを責める事など出来ない…。
何故なら、自分自身が情に溺れる事が多々あるからである。
義信は片膝を立てて座る。
「仮に、四郎が父の跡を継いだとしよう。だが……四郎は、皆に反対されて娶った女子の子…〝諏訪の祟りがある〟だの〝呪われた子〟だのと言われて生まれた子じゃ…。あの頑固な宿老達は快しとはせんだろう…。忠誠を得るには広き心に大きな器に深き情…寛容と勇気がいる…。最も、四郎がそれだけ立派に育てば別だ。…お主は、どう見る?」
問われて、翔隆は考え込む。
勝頼の母は諏訪の領主・諏訪頼重の娘。
諏訪氏は代々領してきた名族であると共に、宗家は諏訪大社の大祝の一族である。
大祝とは諏訪大社の神職の最高位であり、諏訪明神に連なるお家柄だ。
(ちなみに先祖は奉り神・建御名方命といわれ、神の裔として神姓を名乗っている)
〈…今のままでは、駄目だ……〉
少し我が儘で自己を貫く勝頼では、何か言われた途端に反発して衝突してしまうであろう。
それでも、若き頃の信玄や信長のように、付き従う家臣達がきちんとしていればいい…。
そして宿老を説き伏せられるのであれば…――――。
「……それだけの器に、育てば…四郎…いえ、勝頼様も…」
「随分と自信なさげに言うものよ。四郎に好かれておる癖に、庇わぬのか?」
義信が苦笑して言うと、翔隆は言葉を失う。
「…わしは、武田の結束が崩れるのを黙って見ていたくはない。かというて、父の意見を鵜呑みには出来ん。…故に、ここで考えておるのだ………」
義信は微笑んで俯く翔隆を見る。
「折角参ったのだ。…これを、持っていくと良い」
そう言って義信は懐剣を手渡した。
金銀細工の、とても高価そうな物だ。
「こんな高価な…」
「それは、母上が京より持ってきた品でな」
「! そんな大切な物を…!」
「良いから、受け取ってくれ。お主ならば、大事に使ってくれるであろう?」
「――――…はっ…」
懐剣を手に、翔隆は深く頭を下げた…。
突然の雷と共に大雨が降ってきた。
一つの畳で叶兄妹が眠っている。
もう一つの床では、浅葱が横になって、隣りで外を見つめる樟美の事を見ていた。
〈……兄様…〉
昼間見た、兄の涙…震える体。
どんな時にも頼もしく、冷静な兄が見せた…弱々しい姿。
いや……弱い、とは思わなかった。
ただただ、泣かないで欲しかった…それだけだ。
当の樟美は、この雷雨の中立っている父の身を案じていた。
〈…ここの嫡子は義信……しかし諏訪勝頼に跡を継がせたい………〉
難しい問題だ。
〈しかし…何故、嫡子を変えたがる? …変えられる人間は………まだいいではないか〉
ふいに思った。
武家は、駄目だと思えば…嫌なら、嫡子をころころと好きに変えられる。
…だがしかし、〔一族〕は違う。
髪の毛と目の色…それが〝証〟。
その代用は…………いない。
〝代理〟は出来ても、〝嫡子〟には決してなれないのだ。
どう考えても、何をしても嫡子にはなれない。
なれないものを、いつまでも未練がましく思った所で是非もない。
〈……私が嫡子ではないのには、何か意味でもあるのだろうか…?〉
狭霧に行くのは、いつになるのだろうか?
狭霧で、自分にしか出来ない事でもあるのだろうか………不知火ではなく?
〈不知火では…駄目なのか……?〉
そう考えると、悲しくなってくる。
しかし、悲観的になっている場合ではない。
何か、ある筈だ。
狭霧に行っても、父の為に…不知火の為に出来る事が、何か必ずある筈だ。
それを見付けるしかない。
〈まだ先の話だ………今は、出来る事をやろう〉
そう思い、樟美は床に就いた。
雷雨は三日も続き、四日目にやっと雨雲が切れて太陽が顔を出した。
晴信が部屋から出る度に、翔隆は平伏してきた…。
〈…もう、居るまい〉
そう思い信玄は障子を開けた。
―――が、そこには泥まみれになりながらも立ち、こちらを見る翔隆の姿があったのだ。
「…この五日間ずっと同じ場所に立っておいでにござりまする」
近習が少し蒼冷めて告げた。
すると翔隆はバッと平伏する。
「何卒っ!!」
信玄は大きく溜め息を漏らし、腕を組む。
「ふぅ―――……分かった」
「えっ?!」
翔隆はパッと顔を上げた。
「…それ程申すのであれば、まずはあ奴を説き伏せるが良い。これよりは、わしに従うと約束するのであれば……許してやろう」
「はっ!!」
難しいが、何としてでも説き伏せねばならない。そうしなければ、義信はいつか殺されてしまう…。
翔隆は早速水浴びをして着替え、義信が幽閉されている東光寺に走った。
東光寺には、警備兵が居た。
翔隆は手薄な場所を探すが、何処も兵士か僧侶が居て仲々近付けない。
仕方なく《力》で義信の〝気〟を探り、《瞬間移動》をした。
格子窓が一つあるだけの牢獄に似た部屋の中、義信は一人じっと座っていた。
ふと後ろに人の気配を感じた義信は、振り向きもせずに言う。
「…わしの命が欲しくば取るが良い。抵抗はせぬぞ」
「………何と悲しい事を仰せられますか…」
その懐かしい声に、義信は目を見開いて振り向いた。
そして、次の瞬間には笑顔になる。
「翔隆…! お主いつ…」
翔隆は微笑んで正座すると、義信を見つめた。
「…つい、数日前に。お久しゅうござりまする……暫くお会いしない間に、立派になられましたな」
「ふ……それは皮肉か?」
「いいえ。まことの事にござりまする」
そう言ってから、翔隆は真顔になって義信を見つめる。
「謀叛、とは…まことにござりまするか?」
すると義信は苦笑した。
「あれが、謀叛と言うのであれば…そうなのであろうな」
「…義信様……私で宜しければ、お聞かせ願えませんか?」
翔隆が切なげに言うと、義信は溜め息を吐いて話す。
「…わしは、高坂より父上の意見に従うように、きつく諌められた。だが、わしは逆らう様な真似はしておらぬと言っただけだ。ただ…」
「ただ?」
「飯富の邸へ行った。それだけだ…」
そう言う義信の表情は、何か諦めているようだった。
その言葉で翔隆は重要な事を思い出す。
そういえば、その辺りの真相を知らないのだ。
〈聞いてくるべきだった………答えて、下さるだろうか…?〉
翔隆は深呼吸して、再び真剣に義信を見つめた。
「…飯富殿の邸へ行き、何があったのですか?」
「何も。しかし、密議を交わした、と。………わしが今川の娘を娶っておる故に駿府攻めに反対して、父を追い出して乗っ取ろうと画策している、と…疑いを掛けられたのだ」
「なっ―――?!」
考えられない………信玄を追放しようなどと、思う筈も無い!
それは誰より飯富虎昌自身が…――――。
〈…密議を交わしたなどと、誰が言ったのだ…? 飯富殿が言う筈も無い……ならば〉
「密議を交わした、と父に密告したのは飯富自身が弟の山県三郎兵衛尉に言わせたのだ……と、高坂が申したそうだ」
「?! そんな…事……」
訳が分からない。
飯富虎昌が密議を交わした相手で、密告も飯富などと……何故そうなるのだ?!
「密議を…交わしたのですか?」
そう聞くと、義信は首を横に振る。
「〝灯籠見物を口実に密議し、逆心の恐れあり〟…とな。わしは、確かに様々な灯籠を見た。しかし、断じて父を追い出してまで……いや。確かに今川領へ攻めるのは反対だ」
「………」
「今攻めては、北条との同盟まで破棄となり兼ねんし、上杉の動きが気になる。織田と組むのは良いが……まだ機では無いと思うておるのは事実」
「義信様…」
「数年前より、父とわしとは仲が悪くなっていた。勝頼ばかりを可愛がる父に、嫉妬もした。…父は………勝頼に跡を継がせたくてたまらんのだ。わしが思うままにならぬ故に…追い出す口実を待っていたのやもしれん」
では、ただ邸に行っただけで廃嫡となったというのか…?
じいである飯富が、そんな事を画策したのか?
〈いや! 飯富殿は晴信様に絶対の忠誠を誓って………〉
まさか、誓っているからこそ……廃嫡の手引きを…――――!?
翔隆はそう考え義信を見て、ドキッとしてたじろいだ。
まるで心中を読んでいるかのような、複雑な微苦笑を浮かべてこちらを見ていたからだ。
「あ……」
「隠さずとも良い。飯富は、忠臣故に主の心を読み取り…事を起こした。…そう考えておるのであろう…?」
「あ…いえ、それは……」
否定したい。
だが、そう考えれば飯富が弟に密告させた事も……義信を自刃させずに幽閉している事も、余りに辻褄が合い過ぎて…――――!
〈駄目だ………そうとしか考えられない…!〉
翔隆は考えながら、否定したくて首を横に振る。
すると義信が語り出す。
「…父に愛されぬからといって、四郎や父を恨んだりはしない。ただ……わしは、案じておるのだ…」
「何…を……」
「…あの宿老達が、きちんと四郎を立てていけるかどうか。父は情に溺れて大事な重臣を早くも一人…自害させ、わしに忠誠を誓う者達を誅した……。それが後々、どういう事になるか分かっておられるのか…? こんな…〝廃嫡〟などというくだらない事の為に、今まで築いた輪が崩れ始めている! …己の意のままにならぬからと、斬って捨てる…。それを見た四郎は、それが正しい事だと思ってしまうのではないかっ?! わしは総て間違っており、四郎のやる事は総て正しい、などと………四郎自身が思い込んでしまったら、あの子は武田の総領としての器を失ってしまう…! 甘やかすだけでは駄目なのだ…っ!!」
―――何とも、言い様が無かった。
この人は心底父や弟を愛し、武田家の事を思っている…。
誰も、悪くはない。
しかし………昔の信長のような境遇に置かれてしまった義信を、どう説得しろというのか…!
翔隆は俯き、静かに涙を流した。
「…どうした?」
「も……申し訳ありませ……私が愚かでした…!! ただ…義信様が晴信様に従われるのなら、それで収まると思い…説得に参ったのです! ですが……ですが…!!」
泣きじゃくる翔隆を見て微笑すると、義信はその肩をポンと軽く叩く。
「…飯富は…悪くない。わしは、初めから父に逆らう気など無い。ただ…諌めただけだ。今川と北条の両者と同盟している事を忘れぬよう。…………織田は、いずれ美濃を取る。そうしたら織田の方が早く都へ着くであろう。それに、もしも敵対したら上杉と手を結ぶであろう…」
「それは………」
正しく、その通りであろう。
翔隆が口籠もると、義信はふっと笑って喋る。
「ここへ入れられてから、わしは色んな事に気付いた。何故このような事になったのか…わしが先の上杉との合戦で、敵の挑発に乗り敵陣に斬り込んでしまったのが、そもそもの原因。嫡男を敵中へ置き去りにした、と反発の声が上がり……今川の件で対立してしもうた……。それから…廃嫡の噂が流れて家中は、父とわしの二派に別れてしまったのだ…。飯富はわしの為を思って何とか廃嫡を免れようとしてくれてはいたが…山県がそれに気付き、一早く父へ知らせて………こうなった。…飯富が自らの画策を、わざわざ言う筈が無い……」
義信は同意を求めるように翔隆を見た。先程は否定出来なかったが、翔隆は整理してよく考えた後に力強く頷く。
「はい。飯富殿は確かに晴信様へ忠誠を誓っておられますが、それよりも強く、義信様の事を思っておいででした」
真剣に答えると、義信は頷いて続ける。
「わしを殺せば、わしに付いていてくれている者達が争いを起こし兼ねない……故に、幽閉なのだ。こうなってしまうと、わしが自刃するのを待つしかない…一つに、纏める為にも。…そして、四郎に跡を継がせる為にも」
それは、翔隆にも分かる………だが、義信は大切な合戦に出る程、〝嫡子〟として認められている。
それに、そのような事が起こらぬように、勝頼に諏訪を継がせたのではなかったか?
やはり今の信玄は、情に溺れ過ぎて大切なものを見失ってしまっている…!
しかし、翔隆にそれを責める事など出来ない…。
何故なら、自分自身が情に溺れる事が多々あるからである。
義信は片膝を立てて座る。
「仮に、四郎が父の跡を継いだとしよう。だが……四郎は、皆に反対されて娶った女子の子…〝諏訪の祟りがある〟だの〝呪われた子〟だのと言われて生まれた子じゃ…。あの頑固な宿老達は快しとはせんだろう…。忠誠を得るには広き心に大きな器に深き情…寛容と勇気がいる…。最も、四郎がそれだけ立派に育てば別だ。…お主は、どう見る?」
問われて、翔隆は考え込む。
勝頼の母は諏訪の領主・諏訪頼重の娘。
諏訪氏は代々領してきた名族であると共に、宗家は諏訪大社の大祝の一族である。
大祝とは諏訪大社の神職の最高位であり、諏訪明神に連なるお家柄だ。
(ちなみに先祖は奉り神・建御名方命といわれ、神の裔として神姓を名乗っている)
〈…今のままでは、駄目だ……〉
少し我が儘で自己を貫く勝頼では、何か言われた途端に反発して衝突してしまうであろう。
それでも、若き頃の信玄や信長のように、付き従う家臣達がきちんとしていればいい…。
そして宿老を説き伏せられるのであれば…――――。
「……それだけの器に、育てば…四郎…いえ、勝頼様も…」
「随分と自信なさげに言うものよ。四郎に好かれておる癖に、庇わぬのか?」
義信が苦笑して言うと、翔隆は言葉を失う。
「…わしは、武田の結束が崩れるのを黙って見ていたくはない。かというて、父の意見を鵜呑みには出来ん。…故に、ここで考えておるのだ………」
義信は微笑んで俯く翔隆を見る。
「折角参ったのだ。…これを、持っていくと良い」
そう言って義信は懐剣を手渡した。
金銀細工の、とても高価そうな物だ。
「こんな高価な…」
「それは、母上が京より持ってきた品でな」
「! そんな大切な物を…!」
「良いから、受け取ってくれ。お主ならば、大事に使ってくれるであろう?」
「――――…はっ…」
懐剣を手に、翔隆は深く頭を下げた…。
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