喫茶うみねこの魔法

如月 凜

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第1章 合挽き肉のナポリタン

《黒田 明弘》

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「体、痛むのか?」

ここ最近の敏美の弱り方は見ていられない。

余命の日を過ぎたって、これじゃあ喜べるもんじゃない。

「ううん、大丈夫。・・・それよりお父さんはご飯食べてるの?随分痩せてきてるんじゃない?」

俺は、頬に手を伸ばす敏美の腕を避けるようにして椅子を立った。

「子供じゃないんだから。飯くらいちゃんと食べてるよ」

敏美に背を向けて立ち、窓の外に目をやる。


病院の広い庭に立つ1本の立派な桜が満開になり、入院患者が細やかな花見を楽しんでいた。

「俊弘の家族もみんな元気かしら」

敏美はベッドのそばにある机から、写真立てを手に取った。

息子の俊弘とアメリカ人の妻。

母譲りのブロンドヘアと、息子に似た目をした5歳の孫娘の写真だ。

アメリカに住む息子家族が広い庭で撮ったらしい写真を、いつも敏美は大事そうに眺めている。

「さぁな。自分の母親がこんな事になっても会いに来ない息子なんか、もう勝手にすれば良いんだ」

「もう。そんな事言わないで。息子が仕事を頑張って、家族を大切にしているのよ。誇らしい事じゃないの」

敏美の言うとおり、それ自体は素晴らしい。

だが、状況というものがあるじゃないか。

敏美だって死ぬ前に我が子に会いたいと思うはずだし、実際にこうして毎日寂しそうに写真を見てるじゃないか。


「こんな時にまで仕事を優先しろなんて、教えた覚えはないがな」

「もう・・・。困った人ねぇ」

そう言いながらも、クスクスと笑う敏美に対して何故か苛立ってしまった。


いつまで生きられるかわからないのに、どうしてもっと我が儘言わないんだ。


帰って来てと息子に言わないんだ。


「・・・今日は帰るよ。また明日来るから」

「はいはい。気を付けてね」

病室を出て、無機質な真っ白の壁を見つめてため息を吐いた。



『仕事が立て込んでて、明日も早いんだ。こっちは夜なんだよ。悪いけど、もう寝るよ』

俊弘の返事はそれだった。

スマホをズボンのポケットに突っ込み、公園の喫煙スペースで、滅多に吸わないタバコに火を点けた。

『偉そうに言うなよ。父さんは婆ちゃんの死に目にも会わなかったじゃないか。母さんとはちゃんと話もしてるし、わかってくれてるから』

俊弘の言葉が甦り、苛立ちを吐き出すようにタバコの煙を空に吐いた。

ふと目を向けた先の自動販売機が目に留まったが、その周りにはレジャーシートを敷いた花見客達が大勢いる。

「・・・楽しそうで良いな」

陽気なあの集団の中には行く気になれないなと諦めかけた時、ふと喫茶うみねこの事が頭を過った。

あそこなら、荒れた気持ちを静めてくれるだろうか。

答えを考える間もなく、俺の足は喫茶うみねこへと向かっていた。



「いらっしゃい。黒田さん、久しぶりじゃないか。珍しい時間だね」

マスターのシンさんは、いつもと変わらない笑顔で出迎えてくれた。

仕事をしていた頃は昼休みに来ていたが、敏美が病気になって休職してからは全然来ていなかった。

店内にはショパンの別れの曲が、会話を邪魔しない、寧ろこれがこの店の空気の一部かと思うくらいの音量で、優しく流れている。

「適当に、お願い」

なんて愛想の無い態度か。

そう思いながらも、この店の不思議な空気にずっと張り詰めていたらしい体の力が抜けるのを感じた。

ぐらりと脱力するように窓際のソファのテーブル席に座った俺に、シンさんは飲んだ事の無い珈琲を出してくれた。


美味しい。


美味しいだけじゃない。


心の中に渦巻いていた氷の棘を溶かすようなぬくもりを感じた。


シンさんに聞くと、ネルドリップという少し変わったやり方で淹れた珈琲らしい。


その時、ようやくカウンター席に見慣れない青年がいることに気がついた。

少し猫背の彼は、静かに本を読んでいた。

時折めくるページの音が心地良い。


気がつけば、誰にも言えずにいた敏美の話を、久し振りに会ったシンさんと、初対面の青年にしていた。

ひとこと言葉にすると、次から次へと溢れてくる。

危うく感情まで溢れだしそうになるのを堪えるように、彼らから顔を背けながら話す。

まるで独り言のように話す俺の言葉を、彼らは黙って聞いてくれていた。

答えを求めなくても、誰かに聞いて貰うことでこんなにも心が軽くなるのか。

そんな自分の中の変化に驚いていると、シンさんがとても旨いナポリタンを作ってくれた。


久し振りに食べるまともな料理をひとくち頬張ると、シンさんの優しさと、あたたかい味に「旨い」という言葉が漏れ、もう堪えられない涙が溢れ出していた。

「駄目だねぇ、本当。確実に終わりが近付いている毎日を過ごすってのはさぁ。気が気じゃないよ。かみさんが居なくなったら・・・どうなるかねぇ、俺も」


店を囲むように立つ木々からの木漏れ日が、テーブルに降り注ぐ。

シンさんが手入れしている鉢植えの花が、春の風に小さく揺れていた。


今日か、明日か。


敏美の命が尽きてしまうその時が怖くて、やり場の無い不安が、いつしか苛立ちに変わっていたのだろう。

俊弘が言っていたように、確かに俺は自分の母親の死に目にも会っていない。

そんな自分が息子の行動に文句を言う資格は無いのかもしれない。

敏美はあいつと何か話をしたんだろうか。


会えなくても納得出来たんだろうか。


考えても考えても答えが出ない。誰が正解なのかもわからない。


・・・このまま店に居ても迷惑か。


纏めて代金を支払う俺を見て、慌てて立ち上がる彼の細い肩を、俺は押し戻すように軽く叩いた。

「人なんて、いつその時が来るかわからないもんじゃないか?」

店を出ようとする俺に、シンさんが静かに言った。

「わからないからこそ、沢山話して、笑って、泣いてさ。特別な事なんてしなくて良いんだよ。奥さんとの時間を大切に過ごせば、その時はきっと、何十年か連れ添ってから来る別れの時とも変わらないよ」

その言葉に、鼓動が大きく跳ねるのを感じた。


あぁ。そうだ。


敏美の時間は残されていない事をわかっているのに。

俊弘に偉そうに言うわりに、俺はどうだ。

敏美との時間を、大切に過ごせていたのか?

不安と恐怖が苛立ちに姿を変え、息子に、敏美にまで冷たい態度をとっていたじゃないか。

「また、いつでも来て下さい」

シンさんの優しさに、もう胸が苦しくて。

わからないように1度深呼吸して、平静を装ってから「あぁ・・・そうだな。ありがとうね」と言って店を出た。




「・・・声、震えてただろうか」

店を出て、服の袖で濡れた目を拭いて空を見上げた。

1時間程前にこの店に入る前に見た空とは違って見える。

肌に触れる柔らかい風も、降り注ぐ陽射しも、桜並木から舞い散る花弁も、全てが美しく生き生きとして見えたのだ。


「よし。戻るか」

小さく意気込んでから、敏美の元へと急いだのだった。

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