夕陽が浜の海辺

如月 凜

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また来年

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「雫、もしかして飽きたか?」

「ううん。寧ろこういうの好きみたい」

「お。それはここで暮らしていくセンスがあるって事だ」

思わず目を細めたくなるような強い陽射しの午後。

灯台の建つ防波堤から海に足を放り出して座る。波が防波堤に当たる度に、たぷんたぷんと甘い音を立てていた。

海を眺めながら昼食用のおにぎりを食べ、釣り糸を垂らして水平線の向こうをただ見つめる静かな時間。かれこれ二時間、何も釣れないままこうして座っているが全く苦では無く、悲観的にもなっていなかった。

「つーか、雫の糸は釣れるわけねぇよな。餌も針もついてないただの棒だもんよ。釣りはジュンさんとやって以来か」

祖父の使っていた竿を使う海里とは対照的に、雫のはそこらに落ちていた流木に紐を垂らし、先に小石をくくり付けただけのものだ。

これは糸を海中に沈める為の重りだ。これなら釣りが久しぶりの雫にとって、いつ当たりが来るかとドキドキしなくて済むので、ゆったりと海を眺めていられる。

時折髪を揺らす暖かい風が、心の中の影をそっと払ってくれるようだった。

青い世界に白い灯台が映えるこの場所は、海里と祖父の想い出の釣りスポットなのだと言う。

糸が波間に揺れる。こうして水平線を眺めていると、何となく祖父を近くに感じられる気がした。

「明後日は花火だよなぁ。すげぇぞ、雫も楽しみにしてろよな」

「うん。すごく楽しみだよ」

遠い記憶の中にある、祖父と並んで見た大輪の花火。

生まれて初めて見たあの時の感動は、今でもはっきりと雫の心に残っていた。

「あのさ」

海と空の境目が曖昧な風景。吸い込まれそうな程の群青が目の前に広がる。

「ここは時間がゆっくり流れてるんだ。だから、雫ものんびりさ。もっと甘えて良いんだぞ。やりたい事とか遠慮なく言えよな」

「うん。ありがとう……」

針の無い糸が、ゆるやかな波にぷかぷかと上下しながら揺れていた。

午後三時。台所に立った海里が、釣った小鯖やイワシを手際よく処理をする。今夜は花火師のマサさんが宿泊に来るのだ。

「おし。とりあえずこんなもんで良いか。マサさんが来るのは六時だし、渚も夕方には来るから、後は任せようぜ。掃除は終わってるし。雫も後は好きに過ごしてて良いぞ」

「あの……海里はおじいちゃんから私の事、何か聞いたことある?」

縁側に座った海里の隣に腰を降ろす。深緑の葉を茂らせる木を眩しそうに見上げて「あぁ、あったなぁ」と、額の汗を首から掛けたタオルで拭った。

「まぁ、雫の置かれてる環境?っても、ジュンさんの憶測が殆どらしいんだけどさ。痩せてるから飯は食わせて貰ってるのか心配だとか、表情が暗すぎるのも家庭環境に問題があるからじゃないかとか。ジュンさんも何度か雫の家に行ったらしいけど、頑として家に入れてくれなかったって。雫の母さんと話をしたり、他にも何とかしようと色々やってたみたいだけど。ジュンさんは自分の娘のせいで孫が苦しんでるって責任感じてさ。生活が苦しくて飯を食わせてやれないのならって言って、お金を送ったりもしてたみたいだ」

インターホンは鳴らないようになっていた。万が一誰かがノックをしてきても雫は出なかった。

何度か母の怖い彼氏が押し掛けてきた事があったのと、普段から出るなときつく言われていたからだ。

知らない人たちが家の様子を見に来ることもあった。

だが、母は雫の事を探られそうな時は決まって愛想が良い。まるで女優の様に人が変わるのだ。

そのせいで、周りの人は雫の事にも気がつかなかったのだと思う。

「手紙も書いてたぞ。届いた郵便物の中に、送り返されたジュンさんの手紙が入ってたんだ。『それ何?』って聞いたけど濁されちまった。菅原って苗字だったから、今思うと雫の母さん宛てだったんだと思う……って、どこ行くんだ?ちょ、雫!」

海里の声を背に階段を駆け上る。ノートが入っていた机の引き出しから、帳簿ではないもう一つノートを開いた。

中身は、手帳の続きと思われる日記だった。



 * * *

 九月二十日

雫のいない家は静かだ。雫もそんなによく喋る子じゃなかったが、たった二か月とはいえ、あの子がいたからこその想い出が多いこの家も、寂しがっているような気がする。あや子は夕方は家に居ない事が多いらしい。

雫に番号を教えてから、ほぼ毎日電話が掛かってくるようになった。大した話もないのだが、私が釣った魚の話や天気の事、今日の海は穏やかだとか、波が高いとか、そんな他愛の無い話を、雫はとても嬉しそうに相槌を打って聞いている。

あや子が雫を連れて来た時、あまりに痩せている事を聞くと、生活が苦しくて食事を十分に与えてやれていない日もあると言っていたので、今日から僅かだが送る金を増やす事にした。だが、こんな事では何の解決にもならないのかもしれない。



 九月二十七日

あや子は相変わらず電話には出てくれない。出たと思ったら急に切られてしまう。手紙を送ってはいるが、送り返されてしまう。だが封を切られた跡もあるので、今日もまた手紙を書いた。あの子もきっと苦しんでいるのだろう。豊美を亡くしてから自分なりに育ててきたつもりだったが、あや子にとって私は信用するに値しないのかもしれない。私の責任もまた大きいのだ。



 十月十日

今朝も封が切られた手紙が送り返されてきた。内容を確認しても返事が無いのは拒否の意味なのだろう。雫に母親との暮らしの事や、困っている事を聞くが、やはりその話をすると途端に口を噤んでしまう。またこの夕焼けの家に来たいかと尋ねると「うん」と小さく答えた。

あや子にも、ここにまた来られるよう手紙に書いてみよう。この数日、電話があったり無かったりなのでどうしたのか聞いてみると、あや子の恋人が頻繁に家に来るらしい。新しいお父さんになるかもしれないと言われているのだそうだ。近々、家に行ってみようと思う。



 十一月一日

雫の家に行って来た。恋人が来るらしい日時を敢えて選んだ。最初に男が出てきてあや子を呼んだ。お世辞にも愛想が良いとか印象が良いとか思える男では無かった。あや子の父だと伝えるとヤニだらけの歯でわざとらしく笑い、一瞬で真顔になるのだ。

あや子は家には入れてくれなかった。咄嗟に雫を呼んだが、玄関から押し出され、警察を呼ぶと言われたがしつこく居座ってしまい、男が私に怒鳴った。近所の人に怪訝な目で見られ、男が不機嫌になると雫も嫌な思いをすると、追い返されてしまった。



 十一月二日

昨夜からずっと、あや子に言われた言葉を考えていた。あや子は雫が生まれた頃はあんな風じゃなかった。まだ離婚する前、雫が生まれてとても愛していたし、懸命に雫を育てていた。雫の父親が出て行ってから、あや子は変わってしまったのだと思う。

父親が出て行った事で雫につらく当たるのならお門違いだ。昨日あや子は「雫は自分の事は自分で出来る。父親を作る為に、普通の家族を作る為に私も頑張ってるの」と言っていた。

普通の家族とは何なのだ。娘をないがしろにして得る家族に、何の価値があると言うのだろう。



 十二月三十日

色々な人に相談した。電話が繋がったあや子に話もした。あれからもう一度家を訪れたりもしたが、何も状況は変わっていない。数日に一度の短い電話が、あの子と唯一の繋がりを持てる時だ。雫に私が会いに行くから外に出てきてくれないかと話すも断られてしまう。これからどうすれば良いのだろう。

随分と前から体の調子が悪い。遊びに来た渚ちゃんに顔色が悪いと言われ、年末になる前に病院に行って来た。検査結果は年明けになるようだ。



 一月七日

検査の結果が出た。正直言って最悪だった。ここに書き残すのも嫌なくらいだ。通院して薬を飲みながら様子を見ていく事となった。病院帰り、家に入る前に海を見た。今までに見た事の無いくらい美しい海だった。人はもうどうしようもない所まで来ないと、本当の美しさに気付けないらしい。失うかもしれないと思って初めて尊さに気付くのだ。情けない話だが、きっと人というのは、そういうものなのかもしれない。

もう日記を書くのはやめようと思う。その代わりに出来る事を死の間際まで考えよう。

雫がまたここに来た時、夕焼けの家が無くなっていたら悲しむだろう。この海が汚れていたら悲しむだろう。この美しい海と、穏やかな場所を遺せたら。

この日記を見たら、雫はどう思うだろう。不甲斐ない爺さんを恨むだろうか。本当にすまない。そんな言葉じゃ許される事ではないが、これからも出来得る事を一つ一つやっていこうと思う。

 * * *


祖父の文字をそっと撫でる。鉛筆の文字から温度が伝わってくるようだ。

最後のページの端が一部ふやけてよれている。周りより少し紙質が硬くなったその部分を何度も撫でる。

腰かけたベッドにノートを伏せ、開けた窓の向こうの風景に深呼吸した。陽が傾くにつれ黄金色に輝く海が涙を誘う。

天使のはしごとも呼ばれる雲間からの陽光が、空と海を一直線に繋いでいた。

「天国って本当にあるのかな」


 会いたい。ありがとうと言いたい。自分の事をこんなにも想ってくれていたなんて。

かつて民宿に来た望月に言った言葉が過る。

『自分の事を大切に想ってくれている人がいる。それが実感できる中で亡くなった事は、人としてとても幸せな最期だと思います』

「私、今なら……」

 幸せな最期を迎えられるのかな。だけど何故だろうか。まだここに居たいと思ってしまう。

砂浜から一羽のカラスが飛び立った。黒い光沢のある翼を広げて啼いた。それに応えるように、縁側に吊るした風鈴も夏の夕空に一つ鳴いていた。

本棚の上にある段ボール箱を取り、床に置く。中に入っていたのは古い手紙だ。箱の隙間から積もった薄い埃をかぶったそれらは母に宛てた物で、送り返されたものだ。

どの手紙にも雫の事が書かれていた。

雫を引き取りたい。何かできる事は無いか。雫をまたこちらに泊まりに来させることは出来ないか。どの手紙にも雫を案ずることが書かれていた。

それと同時に、母の事も同じだけ心配する言葉、そして謝罪の言葉が書かれていた。

「雫、入るぞ」

ノックをした海里が部屋のドアを開ける。段ボールと手紙の山を見て「ジュンさん、全部残してたのかよ」と、手紙の中身を見ないまま段ボールにそっと戻した。

「おじいちゃん、本当に沢山私の為に頑張ってくれてたみたい。日記でよくわかったの。お母さんとの生活は苦しい事もあったけど、今思えば、こうして必死に何とかしようとしてくれていた人がいただけで幸せ者だったんだと思う。それにね、私がまだ小さい頃はお母さんが私の事を愛してくれていたって言うのは本当だったみたい。私の妄想かと思ってたけど、それがわかっただけでも良かっ――」

ふいに海里の手が雫の背中に回る。触れる身体から伝わる体温があたたかい。首筋、服からは海の香りがした。

「無理にそんな風に思わなくて良い。雫はよく頑張った。小さい体で、心でよく頑張ったよ。もっとジュンさんだけじゃなくて俺も何とかしなきゃいけなかったんだ。謝ったって今更どうにもならねぇけど……ごめんな」

わずかに震えているような優しい声の海里に、雫の心も揺さぶられる。

  あぁ、そうか。この気持ちは。

優しくされる度に、距離が近づく度に。太陽みたいな笑顔を向けられる度に心が高鳴る。

幼い頃、この砂浜で遊んでくれた「まさき兄ちゃん」が大好きだった。

優しくて、雫を一人の人間として真っ直ぐに見てくれる。それがとても新鮮で心地よくて。

短い間の事だったけれど、名前を呼ばれるたびに胸が躍った雫も今では二十歳だ。

その心の意味にようやく気付いて、目の前にある海里の胸にそっと体を預ける。

 でも、私は一年後……

潮の香り。お日様の匂いがする海里に「ありがとう」と、色々な想いを押し殺した声で呟いた。


「晴れると良いんだがなぁ。この感じじゃ厳しいな」

小鯖の竜田揚げを頬張りながら、テレビの天気予報を見ていた花火師のマサさんがため息を吐いた。

夕方戻って来た渚と三人で台所に立ち、小鯖の竜田揚げやイワシのなめろう。モロヘイヤのお浸し、冷奴、トビウオの団子が入った味噌汁を作った。雫はモロヘイヤのお浸しと味噌汁を担当させて貰った。

マサさんが「うんうん」「美味いな」とぶつぶつ言いながら次々に口に入れていく様子を見ていると嬉しくなる。

 自分が作ったものを美味しいって食べて貰えるのって、こんなに嬉しいんだ。

そんな経験がとても新鮮で、食事風景を眺めているのが楽しくて仕方なかった。

マサさんは雫の熱い視線に気付かないまま、画面いっぱいに表示される週間天気を見て「こりゃあ駄目かもしれんな」と、肩を落とした。

「それにしても大したもんだ。ジュンさんがいないのに、こんなに立派な食事が食べられるなんてな。海里も釣りの腕を上げたな。昔は一分もじっと釣り糸を垂らして座ってられなかったってのに」

「当たり前だろ。俺ももう立派な大人なんだぜ。釣りしながら、世界平和についてだって考えちまうんだから」

得意気な海里に「なに馬鹿言ってんだ」と鼻先で笑いながら、モロヘイヤの入った小鉢を一気にすするようにかき込む。

ようやく陽も沈み、縁側から見える濃い藍色の空には、ひと際輝く星が一つ瞬いていた。

「ジュンさんの親戚なんてのは孫くらいしか聞いたこと無かったなぁ。こんな年頃の女の子がいたなんてなぁ」

氷の入った麦茶を飲み干すと、テーブルにグラスを置いて雫をまじまじと見た。

「そう言えばあの子はどうなったんだろうなぁ。えらく気にかけていたお孫さんだよ。あや子ちゃんも暫く見てないからな」

突然口にした母の名に、身体中の血液が強く脈打つ。

「娘さんって、いつ頃お会いしたんですか?」

咄嗟に尋ねてしまった。自分の知らない頃の母の話。

どんな人だったのだろう。マサさんから母の名前が出た事で一気にあふれ出てしまった。

 リン

縁側の風鈴が夜風に音を奏でる。涼やかな風が頬を撫で、切り揃った前髪をそっと揺らす。

渚と海里は心配そうに雫を見つめていた。

「いつだっけなぁ。あぁ、娘さんを産んで里帰りした時だったか。俺もちょろっとこっちに寄った時でな。急いでたもんで名前も聞きそびれちまったが、可愛かったぁ。まだ小さい女の子の赤ん坊を連れててよ。俺が顔覗き込んだら、ぎゃんぎゃん泣きやがってさ。それがまた可愛いんだが、ジュンさんに『マサさんの熊みたいな顔が怖いんだ』と笑われちまったよ。あの頃はまだあや子ちゃんも幸せそうでさ」

箸を置いたマサさんは「ごちそうさん」と手を合わせた。

「じゃあ、ちょっと風呂でも入るわ。料理どれも美味かったよ。ありがとね」

花火当日は朝から大雨が降っていた。白い雨靄に裏山が飲み込まれている。雨どいを伝う激しい雨音が、今日ほど残念に思った事は無いかもしれない。



「雫おはよう。早いな」

六時過ぎに台所に行くと、既に紺色のエプロンを着けた海里が鮭を焼いていた。まな板の上には、これから使うネギが乗せられている。

昨夜は渚が自宅に戻り、海里が二階の空き部屋に泊まっていた。

海里への想いに気付いてしまった今、すぐ近くの部屋で海里が寝ていると思うと落ち着かず、暫くのあいだカーテンの隙間から見えた細い月を眺めていた。

最後に旅館に泊まった日の事を思い出していたら、いつの間にか眠りに落ちていた。

「何か手伝うよ」

台所へ入ってすぐの所に掛けている海里と同じエプロンを着け、手を洗う。

「じゃあネギ切ってよ。卵焼きに入れるんだ。九条ネギなんだってさ」

青々としてピンと張った立派な九条ネギを指示通りに切っていく。少しツンと沁みた目を、涙をこらえるように上を向いて目を瞬いた。

溶いた卵に混ぜて、みりんや醤油、酒を入れ、熱した卵焼き用のフライパンで焼いていく。焼き網から鮭を降ろす海里と、今にも肩が当たりそうな距離だ。

「どうした?」

慌てて「なんでもない」と、消えそうな声で呟いた。

「上手いじゃん。もう俺より上手くなってきたんじゃね?やばいなぁ。米炊くしか出来なかった所から進歩したと思ったんだけどなぁ。もう雫相手にすら偉そうに出来なくなっちまうじゃん」

海里の愛嬌のある笑顔。どちらかというと大人しいとは言えない見た目だが、そんな彼が見せる屈託のない無邪気な表情に思わずどきりとさせられる。

「渚に教わったのか?」

魚用の長方形の皿に焼き鮭を乗せ、お椀を取り出して味噌汁をよそう。

全て流し入れた卵を、奥から手前へ箸を使ってくるくると巻いていく。

「うん。まだまだできない事が多いから、簡単な事からだけど。お浸しとか、この卵焼きとか。マサさんが来た時はお味噌汁も教えもらった」

渚は上手くできなくても『失敗は成功の元だよ!』と励ましてくれるのだ。

初心者の雫から見ても、渚は手際も良く、味付けも技術も中々の物だと思う。

唯一揚げ物が苦手なのだそうだが、それも油跳ねが怖いというだけで、完成した料理は文句一つも出ない程だ。

「あんなんだけど、食堂で働いてるんだぜ。古い大衆食堂だけどさ。時々厨房も手伝ってるんだ。ま、魚捌く腕は俺には敵わねぇけど」

海里はしたり顔でそう言って、こちらに卵焼きを盛り付ける皿を差し出す。

「あそこのかつ丼うめぇんだよ。雫にも食べさせてやんなきゃな」

卵焼き、焼き鮭、味噌汁、納豆の入った小鉢と白ご飯を乗せたお盆を、海里が居間に運ぶ。

いつの間にか起きて、縁側からガラス戸越しに空を見上げていたマサさんが「おはようさん」と笑顔を見せた。

「こりゃあ、もうどうしようもねぇよなぁ」

焼き鮭をほぐしながら庭を横目で見る。土には激しい雨が打ち付け、泥が跳ねていた。

「まぁ、自然の事だからな。また来年があるじゃん。雫にも見せてやりたかったけど、一年我慢した分、来年の花火はすんげぇ感動すると思うぜ」

マサさんは「悪かったなぁ」と、申し訳なさそうに雫に謝った。

 来年。一年後の今頃、花火は見られるのかな。三人で見られたら、良い想い出になるだろうな。

「来年、楽しみにしとけよ」

隣に座っていた海里が、雫の背中をトンと叩く。一度頷いて「楽しみ」と口角を上げて見せた。

また来年。

あと一年は時間がある。

その言葉は同時に、その先は無いのだと突きつけられるようで、自分はここに居るべき人間じゃないのだという事実を雫に知らしめたのだった。



サイダーが弾けるラムネ瓶のような色をした海。強い陽射しを反射して真っ白に輝いていた砂浜。

そんな夕陽が浜の夏の景色も、九月も半ばを過ぎた今は、次第に落ち着きを取り戻したように穏やかな表情を見せていた。

少しずつ流れる風も、さらりとした清々しい肌触りになっている気がする。

それでも今日は気温も高い方で、昼食作りの為に台所に立つ雫と渚の後ろでは、扇風機が首を振っている。

窓には、海里が脚立の上で作業をしているシルエットが浮かんでいた。 

先日来た台風に、古い民宿の屋根はあちこちが吹き上げられ、雨避けに付けられていた勝手口上のトタン屋根が、割れたり剥がれたりしてしまっていた。

もうここまで壊れたのなら危ないのでいっその事取り払ってしまおうと、今朝から海里が大きな音を立てながら一人格闘しているのだ。

「うん、そのくらいかな。一気に炒めちゃって」

渚に言われるがままケチャップの蓋を閉めて、火を強めたフライパンを握る。パスタとケチャップを絡めるように一気に混ぜながら炒めていく。

「最近ちゃんと寝てる?」

冷蔵庫を閉め、雫の顔を覗き込む。

「うん……いや、実はあんまりかな」

「やっぱり!あかん、あかん!寝不足なんて良い事なんも無いで。何か悩んでんねやったらいつでも言うてよ。私、頼んないかもしれへんけど、雫ちゃんの事ほんまに妹みたいって思ってるんやで」

「ありがとう。でも、今は大丈夫。今夜はちゃんと寝るようにするよ。そう言えば昨日の夜、二人が帰った後に電話があったの。前にも一度あったんだけど無言電話で……」

「あぁ、私と海里も出た事あるねん。去年からかなぁ。時々あるんよ。何なんやろ。夜もかかって来てるのは知らんかった。気味悪いなぁ」

焼けるケチャップとバターの香りが立ち昇る。

「あ!焦げちゃうっ。しっかり混ぜてや!」

慌ててフライパンに視線を戻した。ジュッと音を立てて水分を飛ばす。皿に盛り付け、乾燥パセリと粉チーズをまぶしたらナポリタンの完成。

濃厚な色をしたナポリタンは、太い麺がもちもちとしていて見た目から食欲をそそる。

「海里!お昼ご飯やでー」

窓越しに渚が呼びかける。食事をテーブルに運んでいると、暫くして、後片付けを済ませた海里が戻って来た。

ナポリタンにがっつく海里の前髪は汗を拭いて更に手でかき上げたせいか、完全にオールバックになっていた。

そんな海里は空になった皿にフォークを置き、氷たっぷりの麦茶に喉を鳴らす。

「ごちそうさまでした!あー、美味かった。満腹じゃあ」

そのままぱったりと後ろに倒れ、団扇でシャツの中を仰ぎだした。

「もう作業終わり?」

渚が食器を重ねながら尋ねる。

「おう。渚はこれからバイトだっけ」

「ううん。今日は休みやから、雫ちゃんと買い物でも――」

円卓の下に置いてあった渚のスマホが鳴る。表示された名前に、慌てた様子で電話に出た。

「はい、そうです。娘の渚ですけど……え?えぇ!ば、場所は?」

突然動揺し始めた渚に、海里と雫も何事かと目を合わせる。

渚は棚の上にあったペンを取り、メモに走らせる。間もなくして電話を切ると、メモとスマホを握りしめて玄関に走っていった。

「おい、どうしたんだよ!」

靴を履いた渚が玄関を飛び出そうとした所を、腕を掴んで引き留めた。

「お母さんが……」

見た事も無いほどに青い顔をした渚の声は震えている。



さっきの電話は、渚の母親が働く介護施設からだったらしい。仕事中に救急搬送されたというものだった。

「病院行かなっ!」

ハッとしたように慌てて手を振りほどく。握りしめたぐしゃぐしゃのメモを見た海里は、一度スマホを取りに戻った。

「俺も行くから。雫、悪いけど留守番頼む。後で連絡するから」

「わ、わかった」

海里が「大丈夫だ」と背中をさする後ろ姿の渚は頷きながらも目元を擦り、肩を震わせていた。

そんな二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、雫はそっとドアを閉めた。



一週間ほどたったある日の朝。昨夜から降り続いた雨も止み、雲間から秋の澄んだ空がのぞいていた。

「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。夕方には戻るから」

朝食の片付けを終えた渚が、鞄を肩にかける。

「一人で行けるか?」

「もう、子供じゃないんやから平気やって。それにお母さんももう少しで退院できるみたいやし。脳梗塞の後遺症も無いみたいでほんま良かったわ」

渚は「じゃ、行ってきます」と笑顔で出かけて行った。

「よし。俺、ここに居るから雫は休憩して良いぞ」

廊下を挟んだ向かいの客室から、リンと風鈴の音が聞こえてくる。

先日から女性が泊まりに来ていた。少し不思議な雰囲気の小林由紀子という五十代の女性は、横分けの長い前髪で目元も良く見えない。

終始うつむいていて未だにどんな人なのか、頑なに顔すら見せてくれないのだ。

ただ、食事中は「美味しいです」と、とても優し気な声で何度も言っていたのが印象的だった。

悪い人ではない。

雫にはなぜかそれだけは確信が持てた。食後は縁側で庭を眺めていたかと思うと、今は部屋にこもっている。

「あ、でも部屋は禁止だぞ。散歩でもしてきたら?」

二階に戻ろうとした雫に、海里が釘を打つ。

「なんで?」

「一人になると色々考えこんじまうだろ。それに最近顔色が悪いのって、ジュンさんの日記とか手帳とか見まくってんじゃねぇの?考え込んだって答えは出ねぇよ。わからねぇ事をいつまでもぐるぐるしたって、心が参っちまうだけだ」

海里は縁側に座り、空を見上げた。

「あのメモ。貸してくれねぇか?ちゃんと返すからさ」

「これの事?」

ジーパンのポケットから茶色い巾着を出す。中に入っている古いメモを海里に手渡す。

「ありがとう。渚と入院中のおばさん見てたらさ。やっぱ、親ってのはいつまでもいるなんて思っちゃいけねぇんだって気付いたんだ。後悔しないように。俺は俺の中にずっと抱えてたモヤモヤに答えを出す行動に出ようと思ったんだ」

かつての旅館の仲居、西本の電話番号が書かれたメモに視線を落とした海里が、目を細めて微笑んだ。

遠洋から駆け抜けて来た海の匂いを抱いた風が、雫の頬を撫でる。

一部は青空が覗いているものの、まだ雲が晴れる様子は無い。

巾着からブルートパーズを取り出し、海にかざす。先日もまた台風が上陸してきた。

その影響で少し荒れてくすんだ灰味を帯びた海と、鮮やかなブルートパーズは、全く合わさる事の無い色を並べている。

 私、何の為にここに戻って来たんだろう。

本来ならここにいるべき存在では無い。

最近は渚と海里が並んで歩く姿を見るだけで、言い表しようのない感情が雫の心に渦巻く。

今まで親切に接してくれた二人にこんな感情を抱いてしまう事に、酷い罪悪感を感じるようになっていた。

 ここに来たのは大切な人に黒い感情を抱く為じゃない。こんな事なら、もう消えてしまった方が良いのかもしれない。

そう思った雫は、夜な夜な部屋で祖父の日記や手紙を読んでは母の事を知ろうとした。

人は心残りがあるとこの世に留まろうとすると、この間やっていたテレビで見た。

祖父の雫に対する想いを知った今なら幸せな最期を迎えられるかもと思ったのに、それでもまだ消えたくないと願うのは、母に対して晴れない思いがあったからじゃないだろうか。

どうして母は自分を愛してくれなくなったのだろう。少しでも母の気持ちを知れば、あの世に逝けるのだろうか。

母に愛してほしかった。

本当の理由を知れば心残りも無くなって、命日を待たずして天国に逝けるのではないか。

薄くぼんやりと浮かび上がる水平線に、ため息を吐いて足元の砂を蹴る。

汀に打ち寄せて泡立つ波が、雫が蹴った砂も巻き込んで引いていくのを眺めていると、背後から足音が近づいてきた。

「こんにちは」

長い前髪の間から、奥二重の優しい目が微笑んでいる。強く吹き付けた風に、浅緑のロングスカートを抑えながら浜辺に腰を降ろす。

「小林さん……」

「あなたも座らない?」

二人並んで海を眺めて座る。ざぶんざぶんと打ち寄せる波が、泡となって砕けていく。

「人生って、どう生きるのが正解なのかしらね」

海風に溶けるような声で、小林が水平線を見つめて呟く。

「ふふっ。そんな風に思ってるような顔してたから。違ったらごめんなさい。まぁ、私もここに来るまでは思ってたんだけどね」

片膝を立て、そこについた肘で顎を支える。小林がそっと目を伏せると、ふわりと長い髪をかき上げるように風が吹き、白い額、化粧気の無い整った顔が露になった。

「でも、ここに来て確信したわ。きっと、大切な人が心から笑ってくれている事。それを見る事が幸せで、その人の周りにある何気ない日常が私にとっては宝物。色んな境遇を乗り越えて、最後に大切な人の顔を瞼の裏に思い浮かべて笑顔になれたら、幸せなんじゃないかって思うの」

目じりに皺を刻んで微笑む。

彼女が斜めにかけていた小さな鞄でスマホが振動した。だが、暫く画面を見つめてから再びそっと仕舞った。

「出なくて良いんですか?」

小林は俯きながら小さく頷く。顔にかかる髪で横からは表情が読めないが、顔を上げた瞳は、僅かに赤みを帯びているように見えた。

鞄の中では、一度鳴りやんだスマホが再び震えていた。

「私ね。昔、助けてあげたかった子がいたの。でも後から知ったんだけど、私と出会ったすぐ後に亡くなっちゃってね。凄く後悔した。まぁ、事故だからどうしようも無かったんだけどね。人生後悔ばっかりよ。だから、どうせもう先も長くないし行動しようって思ったの。でも、駄目ね。最後の一歩がなかなか……」

「何だよ。先も長くねぇって」

怪訝な表情をした海里が、雫と小林を見下ろしていた。

「なんで出ねぇんだよ。母さん」

ふっと呆れたような笑みを浮かべた海里の手には、スマホと雫が渡したメモが握られていた。

「海里……気付いてたの?」

動揺して咄嗟に顔を背ける小林の隣にお構いなしにどさりとあぐらをかいた海里は、メモをそっとポケットに入れた。

「偽名使って、そんな似合わねぇカツラまでかぶって。別に物心つく前に離れ離れになったわけじゃねぇんだし、母さんの顔も声も覚えてるんだっての。俺の事なんて放って、好きに生きてたって気にしないぞ。親父の事で散々苦労してきたんだから」

強張っていた小林の表情が、堰を切るようにみるみる崩れていく。

展開についていけず、きょとんとしている雫に海里が「あぁ」と苦笑した。

「本名は西本真由美。俺の母さんだよ」

改めて顔を見ると、その目元や温かみのある優しい声は、雫が旅館のロビーに一人居るところに声を掛けてくれた女性の物だった。

「嘘ついてごめんなさいね」

雫にも頭を下げる西本に、慌ててかぶりを振る。

「先も短いってなんだよ」

西本は、眉をひそめる海里と目を合わせないまま海を見る。動きの速い灰色の雲が、海上を次々に流れていく。

雫は沈黙が流れる中、灯台の周りを飛ぶ白い鳥に目を細めた。

 キュイ キュイッ

広がる大きな海に響くその声は、なぜか気が遠くなりそうなほど切なく聞こえる。

「人間に比べたら、あそこを飛んでる鳥なんかはずっと寿命が短いけど、海里は可哀そうだって思う?」

海里の質問に答えるでもなく、西本が尋ねた。

だが海里もそれに怒るわけでもなく、何かを察したように「さぁな」と諦めのような、投げやりのような言葉を返す。

「あんな人と結婚して息子には怖い思いをさせてさ。あいつの影に怯えて海里の傍にもいてやれない。後悔ばかりだったけど、あの人がいなきゃ海里に出会うことはなかった。無理矢理私の側に置いていたら、海里の民宿での笑顔は見られなかった。大切なのは生きる長さじゃなくて、大切だと思える人に出会えることよ。ここに来て、海里の幸せそうな顔を見られて良かった。沢山寂しい思いをさせて本当にごめんなさい。だけど、自分の居場所を見つけてくれたんだって安心したわ。大切な人が笑ってくれるのは、本当に幸せな事だから」

その言葉を雫は自分自身に置き換えた。

毎日無表情で暮らし、生きているだけで精一杯だった自分と、いつも悲しい目をしていた母。

最期の意識の中で見た祖父の顔が浮かぶ。

雫に少しでも笑って人生を終えて欲しかったのかもしれない。

日記には、雫がぎこちなくも笑ったのが嬉しいと書いてあった。

祖父ががそういう想いでこの夕陽が浜での奇跡の時間をくれたのだとしたら。

息苦しい程に、胸の底がきゅっと締め付けられる。

 お母さんの事。もう少しだけ、ちゃんと向き合ってみよう。

それが正解なのかはわからない。

だがこのままでは、心の底から笑顔で来年のその時を迎えられない。

海里と渚に対する想いから逃げる為ではなく、祖父が与えてくれた時間の、その想いに応える為に。

覆っていた灰色の雲にぽっかりと大きな穴が開き、淡い空と太陽が顔を覗かせる。

海に降り注ぐ陽光に反射した波が金色に輝いていた。



「本当にもう帰るのかよ」

荷物をまとめた西本が玄関に立つ。海里が何度も引き留めたが、もう帰らないといけないのだと言う。

「食事もとっても美味しかった。部屋で過ごしながら聞こえてくる三人の声がとても楽しそうで、海里がちゃんとここに馴染めているってわかったから、ほっとしたわ。ありがとうね」

足元の荷物を持った西本は、にっこりと微笑む。

「母さん、あのさ――」

「お見舞いとか来ないでよ」

言葉を遮られた海里は、茫然と立ち尽くしていた。

「海里がここで楽しくやってると思う方が、母さん元気になれるから。海里は海里の時間を過ごしなさい。息子が心配する顔を見るより、幸せな笑顔を思い浮かべていたいのよ」

玄関に突っ立っていた海里は、サンダルを履いて後を追うように飛び出した。

「母さん!俺、もう海怖くない!泳げるようになったし、釣りも好きなんだ!」

しおかぜ通りへと続く道に立つ西本が振り返る。

「良かった!」

満面の笑顔で手を振っている。海里も応えるように大きく両手を振った。

「電話するから!絶対出ろよな!」

海里の叫びに微笑みを返す。再び背を向けて歩き出し、振り返らないまま曲がり角に消えた西本を、海里はずっと見つめていた。

その横顔は頭上に広がる秋の空のように、穏やかな表情と、わずかな愁いをたたえていた。

 西本さんが声を掛けてくれた事。一緒に入った露天風呂。全てが嬉しかった。西本さんが助けたかった子はあの瞬間、確かに救われていたよ。

雫は見えなくなった西本の背中を思い浮かべて、深く頭を下げた。
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