夕陽が浜の海辺

如月つばさ

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真実

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母の事を知りたい。そう打ち明けた雫に難色を示したのは海里だ。

「今更やめとけよ」

十月の夜。いつになく冷たい声で言い放つ。

 リィリィリィ 

 チリリッ チリリッ

秋の虫たちの風情ある音と、爽涼な音色の風鈴とは対照的に、三人の間にはずんとした空気が流れていた。

眉間にしわを寄せたまま腕を組んで座っていた海里は、それ以上何も言わずに居間を出て行ってしまった。

「もう、何つんつんしてんねん。ごめんなぁ雫ちゃん」

渚が心配そうに顔色を伺う。

「ううん。大丈夫。そうだよね、ごめんなさい……」

そんなやりとりをしたのは、もう二か月も前の事。

あれからも時々日記や手紙を見ては、何でもいいから母の事を知ろうと探していたが見つからない。

母が何故あんな態度を雫にとるようになったのか。だが、はっきりとした答えは今夜も見つかることは無かった。

重い瞼をこすると同時にあくびが出た。

死んだ筈のこの偽りの身体でも、眠くなったりお腹が空いたりする。悲しければ涙も出るし、寂しければ胸が苦しくなるのだ。

窓の向こうに十二月の静かな海が横たわる。

カーテンの隙間から見える凍て空に、刃物のような鈍い光を放つ三日月が佇む。

凪いだ黒い海の水面を、月明りが妖しく照らしていた。

しんとした一人の部屋に、雫が布団を口元まで引っ張り上げる音だけが聞こえた。

西本と一緒に入った露天風呂。夜の海は嫌いかと聞かれた事が脳裏に蘇る。

真っ暗な海はどこまでも深く、光の無い世界なのだろう。独りぼっちの暗い部屋が嫌いなのは今も変わらない。

だが、不思議とこの部屋は怖くないのだ。大好きな祖父が住んでいた痕跡が沢山残るこの家は、どこに居ても怖いと感じる事は無かった。

月明りを瞼の裏に感じながら目を閉じる。

呼吸がゆったりとなるにつれ、雫の意識も深い眠りの世界へと遠のいて行った。


柔らかな白い朝陽が雫の意識に潜り込む。もう随分と見慣れた祖父の部屋の天井が目に入った。

ぴんと張りつめた朝の冷気に、思わずきゅっと布団を体に巻き付けて窓を背にした時。
祖父の机に、赤い実の植物が飾りつけられた白い袋が置かれているのを見付けた。

恐る恐る手に取ったその中に入っていたのは、鮮やかな赤色のリボンの髪飾りと、大判のピンク色のマフラーだ。

よく見ると袋の隣にはメッセージカードが添えられている。

【メリークリスマス!】

白いひげを蓄えたお爺さんが、赤い服に赤い帽子をかぶって陽気に微笑んでいるイラストが描かれている。

丁度親指を添えていた場所に何やら硬い部分がある。押してみると、なんとも楽し気で軽快なメロディが部屋に響いた。

中身を袋に戻して一階に降りると、海里が朝食を作っているところだった。

まだ六時になったばかりだというのに、居間のテーブルには見た事も無いくらいの品数の料理が並んでいた。

「おはよ!渚はもう少ししたら来るから、先に顔洗って着替え済ませといて」

「あの、これ――」

雫が言いかけた時、海里が慌ててグリルを開ける。「せ、セーフ」と安堵の声を漏らして、切りかけていたトマトに包丁の刃を入れた。

着替えを済ませて再び居間に戻ると、テーブルの中央が不自然に空いている。

その周りには、豆腐サラダやトマトに生ハムが乗った物。新鮮なブリなどの刺身の数々。

慌ててグリルを覗いていたのは、ほっけだったらしい。焦げる事も無く、ふっくらとした身は、見ているだけで食欲をそそる。

野菜スティックもお洒落なグラスに入れられて、手作りのドレッシングも添えられていた。

ポタージュスープは、かぼちゃで作ったものだ。

さっきは無かった、一際存在感を放つこんがりと焼けた鶏の丸焼きに目を奪われていると、いつの間にか帰っていた渚が台所から出てきた。

「それな、精肉店のお爺ちゃんに頼んで作って貰ってん。さっき店まで取りに行って来たんよ。うちオーブン無いし、でもどうしても欲しかったから、今日の朝焼いといて貰えるように頼んでてん」

しおかぜ通りにある精肉店のお爺さんの姿が浮かぶ。のんびりとしたあの人が、こんなにも豪快で美味しそうな丸焼きを朝から作ってくれたというのだ。

「よし!じゃあ、海里持って来て!」

渚の合図に、台所から出てきた海里は大きなホールのケーキを運んできた。

そこには雫の部屋に置かれていたメッセージカードと同じ赤い服を着たお爺さんがいて、トナカイが引っ張るソリに乗っていた。

「これ……」

「びっくりしたか?やっぱクリスマスパーティーはやっとかないとな!今日は朝から張り切って色々作ったんだぞ」

ケーキをテーブルの中央に置いて、海里が向かいに座る。

ケーキの上のお爺さんが、人の良さそうな笑顔を雫に向けていた。

「くりすます?」

二人が固まった。鳩が豆鉄砲をくらったように目をぱちくりしたまま、雫を見つめている。

「まさか、クリスマス知らねぇのか?」

嘘だろと言うように、海里が恐る恐る尋ねた。

 あれ、変な事言っちゃったのかな

ぎこちなく頷くと、渚が「そんな事って……」と頭を抱えた。

それから二人はクリスマスが何なのかを一から説明してくれた。

雫の記憶の中ではそんなイベントに触れた事も無く、テレビも本も見る機会が殆ど無かったせいのようだ。

実は昨日がクリスマスイブで、その夜にこのケーキの上にいるサンタクロースというお爺さんが子供たちにプレゼントを持って来てくれるらしい。

「じゃあこれって……。本当に貰っちゃって良いのかな」

袋から出した髪飾りとマフラーを膝の上に置く。

海里は「それは雫のだからな」と笑顔を向けた。

朝から豪勢な料理に舌鼓を打ち、渚は満腹になった雫の髪をポニーテールにして赤いリボンの髪飾りを着けてくれた。

長い髪を綺麗に纏めて可愛いリボンを着けて貰って華やかになった雫に、海里が拍手を送る。

「お、良いじゃん!すげぇ似合ってる。気に入った?」

雫が頷くと、渚も嬉しそうに「良かったなぁ。うん、めっちゃ可愛い!」と、慣れた手つきでマフラーを巻いてくれたのだった。

あっという間に年が明け、夕陽が浜の海は灰色の静寂に包まれた物悲しい表情になっていた。



草木は枯れ、青々としていた裏山も今はすっかり色を失っている。

あんなにも秋虫の恋歌に溢れていた縁側も冬に入ってからは虫たちは地中に引っ込んでしまい、ひっそりとしていた。  

今朝はすっかり元気になった渚のお母さんが作ってくれた肉じゃがをおかずに、三人でこたつを囲んで食事をとった。

雫が母の事を知りたいと言った昨年の秋の夜。

あれから海里は変わった様子もなく過ごしていたが、今朝はまるであの夜と同じ顔をしている。

眉間にしわを寄せた海里は口数も少なく、静かに「ごちそうさま」と手を合わせると、手早く片づけを済ませた。

「雫、話があるんだ。渚もそれが終わったらこっちに来て」

台所で食器を拭きながら片付けている二人にそう言うと、海里は居間に戻って行った。

ぽつりぽつりと縁側のガラス戸に雨の筋が出来たかと思うと、次第に本格的な雨が降り始めた。

雨量が増え、庭に水たまりができ始める。雨どいを伝う音が、静かな部屋に一際大きく響き渡る。

こたつに座っていた海里の向かいに、渚と雫も正座をした。

海里が思案するように腕組をして押し黙る。時計の秒針が時を刻むのを心の中で数えていると、ゆっくりと口を開いた。

「もうわかんねぇ。どう言ったって変わらないから単刀直入に言うわ」

海里がゆっくり息を吐く。

「雫の母さんは、生きてるんだ」

予想を遥かに上回ったその言葉に、雫の脳内は思考停止した。

ガラス戸に叩きつける雨の音が、砂嵐のように雫の意識の中に雑音として響き渡る。

「住んでる場所も分かった」

続けて口にした言葉に、雫は部屋を飛び出した。自分の心の中にどういう感情があるのかすらわからない。

覚悟を決めて母の事を知りたいと打ち明けていたはずなのに、いざ母の生存を聞くと、自分の心のコントロールがきかない。

一緒に死んだと思っていた母が生きていた。嬉しいのか。それとも、自分だけが命を落としたという事が悔しくてたまらないのか。

『母』と言うワードと、同じ世界に母が『生きている』という事実が、かつての苦しみをフラッシュバックさせているのか。

靴下のまま玄関を飛び出した。

容赦なく降りつける雨でぐしょぐしょになる髪と服。前髪から滴る雨で視界が滲む。

 胸が苦しい。息が思うように出来ない。

灰色のぼやけた世界をがむしゃらに走り続け、防波堤の先にある灯台までやって来た。

荒れた海がコンクリート壁に打ち付け、激しい音と飛沫を上げる。

ずっしりと分厚い雲がのしかかっているかのように、心も体も重苦しい。

「おかあさん。生きてたんだ」

最後に見た母の姿。だらんと垂れさがる母の指をそっと握った。かつて、薄れてしまう程に遠い記憶の中で、母と手を繋いだように。

 おかあさん、本当はどう思っていたの?本当に愛してくれていなかったの?私がいなくなって、悲しかった……?

溢れる思いと不安が、言いようのない恐怖にも似た感情となって渦巻く。眼下でうねり暴れる海のように。崩れ落ちるように膝をついて、声にならない叫び声をあげた。

口の中に雨が入ってえずく。濡れた服と髪が肌にべったりとへばりつき、冷たい雨が雫の全身に打ち付ける。

涙か雨かも解らないくらいに顔もびしょ濡れになっていた。

ざあざあと体中を流れ落ちる雨がふっと止んだ。傘だ。背後にしゃがんだその動作と共に、大きな手が背中にそっと触れる。

「風邪ひくだろ。何やってんだよ」

海里がバスタオルを雫の肩に掛けて手を差し出す。

「ほら。帰るぞ。渚も待ってる。雫を頼むって言われてんだよ」

「ごめんなさい……」

膝に顔を埋める。身体の震えが止まらない。

狭く薄暗い、空気の澱んだあの家。ゴミと荷物の見分けもつかない荒れた部屋での記憶が、雫の心臓をぎりぎりと鷲掴みにする。

「雫はもう一人じゃない。ここに居るんだ。俺も渚もいる。絶対もうあんな目には遭わせねぇよ。雫の家はここだから。ほら、帰ろう」

海里の大きな手に震える手のひらを重ねる。優しく、だけどしっかりと雫の手を包み込む。 

冷え切った体にぬくもりが伝わって心地いい。体の中の氷がじわりと解けるように次第に震えも治まっていった。

「急にあんな話して悪かった」

浜辺を歩きながら、黙って頷く。

「実は、雫がジュンさんの部屋で日記を見てるのを知った後から調べてたんだ。生きてる事を知った時は、言わないって方が良いって思ったんだよ。俺はもう母親の事は諦めて欲しかったんだ。生きてるなんて知ったら普通は嬉しいけど、雫はそういうわけにはいかないんじゃないかって思ってさ。でも、この家に時々無言電話が掛かって来るんだよ。雫も出た事あるだろ」

話している間も傘を雫の方に寄せてくれるせいで、海里の左肩は横殴りの雨で濡れてしまっていた。そっと傘を押し返すも、海里は無言で傘を寄せて来る。

ざんと大きな音を立てて波が打ち寄せた。

「まだちゃんと確認したわけじゃねぇけど……雫の母さんだと思うんだ」 

無言電話の相手が母だった。あの瞬間、電話の向こうで聞こえた息遣いは、母の物だったという事だろうか。

心臓が強く跳ねる。バクバクと激しさを増す雫の鼓動を察したのか、海里が「大丈夫だ」と呟く。

民宿の前に着き、屋根の下で海里が傘を畳んだ。

「母さんの事、知りたいんだろ?」

「……うん」

雫の肩に掛けていたバスタオルをびしょ濡れの頭にかぶせる。優しい手つきで髪を拭いてくれている間、距離の近さに思わず俯いてしまう。

「ここに連絡を取って来る以上、雫には隠しておけないとも思ったしさ。まぁ、何で無言電話なのかはわかんねぇけど」

「雫ちゃん!」

「うわっ、急に出てくんなよ」

突如飛び出してきた渚は、海里を押し退け雫を抱きしめた。

「渚さん、私びしょびしょだから濡れちゃう」

体を離した渚は涙を滲ませ、きつく下唇を噛む。

「そんなんどうでも良いの。お風呂入り!沸かしといたから。ゆっくり浸かるんやでっ」

半ば強引に手を引かれて風呂場へ行くと、既に脱衣所にはバスタオルと着替えがセットされていた。

すっかり温もった雫が居間に戻ると、海里がひとりコタツに入って二個目のみかんを剥いている所だった。

「おかえり。雫も食うか?」

風呂からあがると、机の中央のカゴに積まれたみかんを手に取った海里が「はいよ」と手渡す。

台所からは食器棚を開ける音が聞こえてきた。みかんを一粒口に入れたところで、お盆を手にした渚が暖簾をくぐって出てきた。

「梅昆布茶淹れてん。はい、あったまるよ」

立ち昇る白い湯気から、ふわりと梅の香りが漂う。そっと口をつけると、喉を伝った梅昆布茶が身体の芯まで流れ着く。思わずふぅと声が漏れた。

「ちょっと落ち着いた?」

隣に座った渚がこたつに足を潜らせる。湯呑で両手を温めながら頷くと「良かった」と自分も梅昆布茶をすすった。

まだ午前中だというのに外は相変わらず薄暗い。曇天の下、激しく唸りを上げながら叩きつける雨風に、庭の木が大きく枝を振り乱していた。

「雫、母さんの家行ってみるか?」

縁側の向こうが稲光に白くひらめく。間もなくして大地を割くような音が響いた。

「な、なに言うてんの!なぁ、雫ちゃん。もう気にせんとき。今更無理にそんな嫌な事ほじくり返さんでも」

「行きたい」

雫の一言に、渚が言葉を失う。信じられないという表情を見せたが、すぐに諦めたように肩を落として黙っていた。



母の家は、雫のよく知っている場所のままだった。

ピンクのマフラーに顔を半分まで埋め、赤色のリボンを飾ったポニーテールが歩くたびに揺れる。

目的の場所を目の前に、この日の為に買った黒縁の伊達メガネを鞄から取り出した。

「本当に大丈夫なんよね」

「任せろ。渚たちは黙って座っててくれりゃ良いから。雫、大丈夫か?」

東京という大都会に不釣り合いな、傾きかけた二階建てのアパートを見上げると、色んな記憶がより鮮明に蘇る。

気を抜くとまた逃げ出したくなる衝動にも駆られるが、今は大丈夫だ。海里と渚が隣にいる。

目の前の二人の顔を見て背筋を伸ばす。力強く頷いた雫を見て、海里は「よし」と雫の手を握る。

渚は引き締めた表情で「行こう」と背中にそっと手を当てた。

二階に続くあちこち錆びた鉄の外階段は、踏むごとに冷たく無機質な音を響かせる。

一歩づつ母に近づいている。そんな雫の心を察するように、海里が握る手に力を込める。

茶色く重いドアには『菅原』の表札が掛かっている。赤い色褪せたポストには、相変わらずチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれていた。

海里が躊躇いなく呼び鈴を押す。がらんとした廊下を、二月の寒風が吹き抜ける。

「はい。誰?」

出てきた女の姿に、雫の心臓は今にも飛び出しそうなほどに鼓動を強めた。覚悟して来たのに、その決意が一瞬で崩れそうになる。

雫の知っている母の姿とは明らかに様子が違っていた。

派手なネイルを施した手で自慢の長い髪をかき上げて、高いヒールの靴を履き、胸や背中が大きく開いた服を着ていた母の姿は無い。

髪が長いのは変わらないが、染め直していないのかあごの辺りまで髪は真っ黒。

首元のくたびれたトレーナーに、爪は噛んでいるのかやけに荒れた深爪だ。

化粧気もない母の顔は、年相応どころか十は上に見えそうな程に老けて見える。

暫く離れて穏やかな暮らしをしていたせいか、雫の額から想定以上の脂汗が滲む。めまいがしそうになるのを堪えるように俯いて目をぎゅっと閉じた。

海里と繋いだ手にもじっとりと嫌な汗が滲む。渚が耳元で「ゆっくり呼吸してごらん」と囁いた。

「菅原あや子さんですよね。夕陽が浜にある夕焼けの家から来ました。ジュンさんの跡を継いであの民宿を続けている者です」

海里と渚が自己紹介をする。顔を上げられないでいる雫の事も「一緒に働いている子」と軽く紹介した。

「あぁ、もう誰もいないのかと思って電話してたから。寒いから入って。散らかってるけど」

ぶっきらぼうに言う母は、三人を部屋の中に招き入れた。

玄関の靴は二足。母と住んでいた頃に見た事のあるスニーカーとサンダルだけだ。

どちらも黒ずんであちこち擦り切れていた。

玄関から入ってすぐの簡素な台所。その向こうには六畳の洋室と、隣に和室があるが、その様子に雫は驚きを隠せなかった。

よく知る家のはずなのに、まるで違う家に来たようだ。

あれほど散乱していたゴミが無いのだ。ツンとした臭いを含む澱んだ空気も、煙草と酒が入り混じった臭いも無い。

がらんとした部屋に、テーブルなどの必要最小限の家具。床に散らかっていた服も全て捨ててしまったのか、今では押し入れの衣装ケースで収まっているようだ。

万年床だった和室も布団がきちんと仕舞われ、古い黄色い畳敷の部屋が佇む。

窓も空気の入れ替えをしていたらしく、少しだけ開いた隙間から新鮮な外気がカーテンを揺らしていた。

「ストーブ点けるわ。そこ座ってて」

窓を閉めた母は、古いストーブを和室から引っ張って来た。

台所に立って何やらぶつぶつ言いながらあちこち棚を漁る。

海里と雫が隣同士、渚は海里の向かいに座って待っていると、グラスに注いだお茶を手に戻って来た。

「これしか無かった」

そう言って三人の前に並べたお茶に、渚と海里は礼を言う。そんな二人をよそに、雫は衝撃を覚えるしかなかった。

こんな姿は見た事がない。そういえばテーブルにはいつも吸い殻が山盛りになった灰皿があったがそれすら無い。

まるで別人のような母は、ちらりと雫を見ただけですぐに目を逸らして渚の隣に座り、背もたれに身体を預けた。

「さっき父の事ジュンさんって言ってたけど、仲良かったの?」

「えぇ、沢山お世話になりました」

海里が答えると、母は「へぇ」と無表情のままパサついた髪を耳にかけた。

手をこすり合わせたり、膝の間に挟んだり、少し落ち着かない様子だったが、イライラしているという様子でもない。

「どうかしましたか?」

母は「あぁ」と苦笑いを浮かべると、ぼさぼさの後頭部をバリバリと掻きむしる。

「煙草、止めてる最中なのよ。最近は無くても平気な時間も増えたんだけど、普段と違う事があると落ち着かなくなるのよね。ねぇ、あんた寒いの?ストーブ、そっちに寄せようか」

雫に話しかけられて心臓が飛び跳ねる。巻いたままのマフラーに顔を埋めて俯いたまま首を振った。

「この子、ちょっと恥ずかしがり屋なんです。すみません」

渚が最初からこの言い訳を考えていたかのように、落ち着いた口ぶりでフォローを入れる。

「早速なんですけど、見て頂きたい物があります」

テーブルの下で差し出された海里の掌にブルートパーズを乗せた。

ここに来る前、海里に合図したら渡してくれと頼まれていたのだ。雫の宝物だから直前までは持ってて欲しいとの事だった。

受け取った海里がそれをテーブルの中央に差し出した。

「見覚えありませんか?」

そわそわと落ち着かない様子だった母が、ブルートパーズを見た途端ぴたりと動きが止まる。

海里の顔と交互に見ながら明らかに動揺した様子に、海里が「やっぱり」と笑みを浮かべた。

「どこで見つけたの?」

「夕焼けの家です。元は菅原さんの物ですよね」

母は一瞬眉間をぴくつかせ、怪訝な顔を見せた。恐る恐るブルートパーズを手に取り、顔の前に掲げる。

窓から入る冬の白い陽に、美しい海色を揺らめかせた。

「どういう事?これは雫が持ってたはずなんだけど」

海里も渚も、雫自身も言葉に詰まる。母に見せた事は無い。常に肌身離さず持っていた物をいつの間に知っていたのだろうか。

「最期、雫が持ってなかったから事故の時にどこかに失くしたのかと思ってた。まぁ、これだけでも残ってたのなら良かった、かな」

ブルートパーズを握ったまま、雫たちの後ろにある和室を指さした。

「そこ、雫の仏壇があるの。お線香あげてってよ」

きちんと押し入れに布団が仕舞われ、がらんとした和室に艶やかな黒い仏壇が鎮座していた。

自分の写真が置かれた仏壇に奇妙な感覚を覚えながら、三人で手を合わせた。

写真は赤ん坊の頃の物だ。それしか無かったのだろう。

それよりも、雫の為にこんな仏壇を用意している事にも驚いた。

そして一緒に亡くなったはずの義父の写真は見当たらない。

「えっと、ご主人は」

「あの人のは良いの。雫にとっては血の繋がりも無いし、父親とも呼べないような男、死んでまで一緒にいたくないでしょ、きっと」

犠牲になったはずの義父の仏壇はおろか、写真も位牌も見当たらない。

確かにあの男が嫌いだった。いつも冷たい目をして、口を開けば汚い言葉を浴びせて来るだけの男だ。

お父さんなんて呼んだ事も無かった。

「この宝石さ。母が生きていた頃に家族三人で行った夏祭りで貰った景品なの。海みたいな色してるでしょ。その後すぐ母が海で死んじゃって、父と夕陽が浜に引っ越してさ。いつまでも自分を責めてる父が大嫌いだった。私の前では普通にしてたけど、ある夜、民宿の居間で独り寂しそうに背中丸めてる姿を見たら嫌になっちゃって。私は漁師として生きてた格好良い父の背中が大好きだったから。ほんと、女が死ぬとあんなにも腑抜けになるのね。そんな父に嫌気がさして、母との想い出だったこのブルートパーズを部屋で投げつけて家出しちゃった」

母は居間に戻り、椅子に腰を降ろした。雫たちも席について、じっと次の言葉を待つ。

ひゅうっと吹きつけた風が、建付けの悪い窓を揺らしていた。

「これ、海の一部を切り取ったみたいじゃない?海の雫みたいで好きだったんだ」

「海の雫、ですか」

雫は思わず声に出してしまった。初めて喋った雫に、母の視線が向けられる。慌てて顔を隠したが、気にしていない様子で鼻で笑った。

「海の雫って、娘も同じ事言ってたって父からの手紙に書いてあったわ。親子ってそういう感性まで似るのねぇ。こんな酷い母親と似るなんて、つくづく気の毒な子だわ」

母は口の端を吊り上げた。

「あの子の名前、そこから付けたのよ。綺麗な海の色。両親との想い出の大切なブルートパーズから」

雫と言う名前に、母の想いがあったなんて知らなかった。

自分は今どんな顔をしているのだろう。やはり、かつての母は自分の誕生を喜んでくれていたのだ。

薄れそうな遠い記憶の中に母の優しい声があったのは、単なる都合のいい妄想では無かった。

その事実は嬉しい筈なのに胸が苦しくなる。

ならば何故あんなにも冷たく当たったのか。祖父が差し伸べる手を払いのけるような事をし続けたのか。

雫のそんな思いを代弁するように、黙って聞いていた海里が口を開いた。

「どうしてそんな娘に今まで散々酷い事をし続けて来たんですか。僕たちも大体の事は把握しています。正直、僕はあなたを母親だと思いたくありません」

終始そわそわしていた母は、貧乏ゆすりを始めた。

隣に座る渚はその足元を見て、不快な表情を浮かべながら窓の方へと視線を逸らした。

「私だって別に母親面なんてするつもりないわよ。あの仏壇は、散々苦しめたあの子への詫びのつもり。許してもらおうなんて思っちゃいないけど。あぁ駄目だわ。ちょっと待ってて」

部屋の隅にあるくたびれた黒いバッグを漁り、取り出した電子タバコを一口吸う。

「普通の煙草からこっちに変えただけでも進歩なのよ」

煙草を咥えながら席に戻った母は、ようやく貧乏ゆすりも髪を掻きむしる仕草もしなくなった。

「恋人を愛さないと、愛してもらえない。恋人を精一杯愛して父親になってくれたら、普通の家族が作れる。そう思ってたのよ、最初は。雫の父親は、雫が一歳になってすぐに他所の女に子供を作って出て行った。私があの子に付きっきりなせいだとか言ってた。髪の毛振り乱して化粧もお洒落もしない。私は毎日必死だっただけなのに、そんな姿を見て女を捨てたお前に魅力が無くなったんだってさ。離婚して、雫がしっかりしてきた頃に仕事先で恋人が出来たの。それが最初。その頃は恋人が出来ても雫には変わらない愛情を注いでいるつもりだった。そしたら捨てられた。彼にも愛情を注げば父親になって家族が作れるって思ったけど捨てられたのよ。その後からかな、だんだん雫の存在が疎ましくなってきた。いつのまにか男の事しか考えなくなっちゃった」

自嘲めいた笑いを浮かべ、顔にかかった髪をかき上げた母は、家具の殆どが無くなった部屋を見回す。

「毎日、布団の中で寂しがってるのは知ってた。感情も失くして泣く事すら出来なくなってるのも知ってたわ。でもそれを後悔したのもあの子が死んだあと。独りになってやっと気付いたの。でも一度後悔し始めたら、雫が独りで暮らしていた痕跡が残るこの部屋が苦しかった。だから全部捨てちゃったの。私みたいな人間はもう何も持っちゃいけないのよ。最低限の物だけ持って独りで生きていくって決めたのよ」

そう言って煙草に口をつけ、ふぅとため息を吐いた。


「お邪魔しました。色々、話を聞けて良かったです。ありがとうございました」

玄関で海里が頭を下げる。母が「はい」と、ブルートパーズを海里に返した。アパートの廊下に出て、もう一度海里と渚の後ろで雫も軽く会釈をする。

「ねぇ、あんた。電話に出た子よね」

雫はマフラーに顔を埋めて頷く。

「雫の声に似てたからびっくりしたわ。世の中には三人似た人がいるって聞いたことがあるけど、本当なのね」

「そういえばあの電話はやっぱり菅原さんだったんですね。どうして無言電話なんてかけたんですか?」

雫から注意を逸らすように、海里が背中で隠す。

「あぁ。誰もいないと思ってはいたけど、確認の為ね。でも何度掛けても誰か出てくるから、やっぱり誰か住んでるんだって思った。久しぶりにあの海と民宿を見たくなったの。誰もいないなら行きたいと思ってたから。でももう良いわ。あんたたちが住んでるなら、私が行ったって邪魔だから。じゃあね」

母がドアを閉めようとした時、海里が意を決したように引き留めた。

「ジュンさんが一度話してくれたんです、夕陽が浜に引っ越した理由。母親を海で亡くした幼い娘が、漁に出るたびに『行かないで』って泣いてすがるんだって。だからあの民宿で娘を育てていこうと決めたそうです。贅沢な暮らしは出来ないけれど、ゆっくりと流れる時間の中で幼いあなたと過ごした時間は宝物だったと言っていました。だけどあなたは出て行ってしまった。悩んでいる時も、相談して貰える父親になれなかったと悔やんでいました」

母の眉が微かに動いたのを見た。瞳に動揺が見えたが、さっきまで穏やかだった表情が一転する。

片眉を吊り上げ眉間に皺を刻み、アパートを支える鉄骨に反響する程の声で喚いたのだ。

「だから何なの。もうみんな死んじゃって、どこにもいないの。どうしようも無いのよ。ほら、もう帰って!」

手で払うようにして母はドアをぴしゃりと閉めてしまった。鍵が掛けられる音がそれ以上聞きたくないと拒絶を表すように虚しく響く。

「来てください。夕焼けの家、まだ民宿としてやっていますから!」

雫は咄嗟に重く冷たいドアに向かって叫んでいた。

民宿の縁側から見える裏山は梅の花が咲いたらしく、濃いピンクの艶やかな色を添えていた。



三月も半ばを過ぎたある日。

換気の為に朝から開けていた部屋の窓を閉め、ブルートパーズと電話番号のメモが入った茶色い巾着をポケットに仕舞う。

「準備できたかー?」

階段の下から海里が呼ぶ声に返事をして、鞄を掴んで部屋を出た。

昼食は渚の働く食堂に食べに行くことになっている。海里とこっそり約束していたのだ。

「よっし。行くか」

穏やかな波音を背に日傘をさす。

並んで歩く影がアスファルトに映るのがなんとなく恥ずかしく、海里が話しかけてくれる事にも上手く返せない自分がもどかしい。

ここに来て半年以上経つが、海里や渚、時々訪れるお客さんと接しているのに未だに会話を続ける事が苦手だった。

二人は元々が喋り上手で雫が返答出来なくても話を続けてくれるが、お客さんと話していると気まずい空気が流れる事があるのだ。

「一昨日来たお客さん、面白れぇ人だったな。同じサーファーだから話も盛り上がって、中々寝れなかったもんな」

最近泊まりに来た若い男性客はサーファー歴の長い人で、海里と夜通し話が盛り上がっていた。

雫が途中トイレに起きた時も、二人は缶酎ハイ片手に縁側で大笑いしていた。

あまり見た事も無いくらいの楽し気な海里の姿に、自分もあんな風に話が出来たらと思ったくらいだ。

だが、やはり今こうして二人で話していても、雫は頷いたり相槌を打つくらいしか出来ない。渚のように大きな声で笑う事も出来ない自分に苛立ちさえ覚えた。

「もう少しで着くぜ。どうした、?」

心配そうに尋ねる海里に、雫は強く首を振った。

「何でもない。お腹すいたなぁって」

「ははっ、すんげー美味いからいっぱい食えよな#
白い歯を見せて笑顔を見せる海里に、はにかんで見せた。

「いらっしゃい!えぇっ、雫ちゃん!」

背中を押されて先に入った雫の姿に、渚の声がひっくり返る。

エプロンに三角巾を着けた渚は、料理を運ぼうとお盆を持ったところだった。驚いた拍子にグラスに入った水が大きく波打つ。

慌てて零れそうになったそれを支えた渚は、壁際に座る老女のテーブルに鯖の味噌煮定食を置いた。

食堂のフロアには、もう一人若い男性店員もいる。忙しそうに客の注文を聞いていた。

「おっす、翔ちゃん」

「海里さん!久しぶりじゃないですか」

海里が翔ちゃんと呼ぶ男性店員は、子犬顔の好青年だ。

海里より少し背は低いが、体つきはしっかりとしていて、海里とは対照的な色白だった。人懐こい笑顔を浮かべて挨拶する。

「佐々木翔平。俺の一つ下で、こんな人畜無害な見た目だけど、ガキの時は一緒にここらをバイクで走り回ってた奴なんだぜ。この子は雫。ジュンさんの親戚だよ」

雫が頭を下げると、佐々木も「よろしくね」と微笑む。

「海里さんが渚さん以外の女の子とおるなんて珍しいですね」

口元がにやつく佐々木の背中を、やってきた渚が思い切り叩く。

「なにあほな事言うてんの。ほら、店長が出前行ってって言うてたよ」

「す、すいません。じゃあ海里さん、雫ちゃん、失礼します」

深々と頭を下げると、エプロンを外しながら厨房の奥へと入って行った。

「来るなんて聞いてないで。びっくりするやん!」

「その為に内緒にしてたんだし。何食う?俺はやっぱりかつ丼!」

入り口の隣にあるテーブル席に座った海里が、悩む間もなく言う。

天井近くにずらりと張られたメニューの数はかなりの物だ。

店をぐるりと一周するほど料理名の数々に圧倒されて、気が遠くなりそうになった。

「私も海里と同じので……」

「はーい、かつ丼ふたつね」

おしぼりで手を拭きながら、渚が厨房に消えていく背中を見送っていた
外食をしたことがない雫は、注文してから料理が出てくるまでの速さに驚いた。

かつ丼はボリューム満点で、運ばれてきた時は食べきれるか一瞬不安になるほどだった。

分厚いカツが濃厚なトロトロの卵に包まれている。しっかりした味付けと肉厚の豚肉、サクサクなかつ丼はあまりの美味しさにあっという間にぺろりと平らげてしまった。

海里も黙々とがっついて、雫よりも先にどんぶりを空にした。

「ごちそうさまでした。凄く美味しかった」

「だろ?絶対喜ぶと思ったんだよなぁ」

海里が水をぐいっと一気に喉に流しこむ。

お昼時の食堂には、田舎のお店とは思えないくらい次々と客がやって来る。

老若男女が狭い店の中に吸い込まれるように集まり、渚が忙しそうに注文を聞いて回っては、てきぱきと料理を運んでいく。

レジ打ちまでこなす彼女の向こうで、店長の高齢男性がフライパンを振るいながら食事を終えた客に笑顔で会釈をしていた。

「もうちょっと落ち着いた時間に来てよー」

お釣りを数えながら渚がぼやく。小銭を受け取った海里はポケットに突っ込んだ。

「良いんだって。馬車馬のように働く渚を見ながら食う飯が美味いんだから」

「うわっ、嫌な言い方!別に、私は馬車馬のつもりは無いですから。雫ちゃん、お腹いっぱいなった?美味しかった?」

頷くと、渚は「そっか、良かった良かった」と満足気な笑顔を浮かべた。

帰り道も海里は沢山話をしてくれた。

食堂の店長は実はもう物忘れが激しくて、渚の事もしょっちゅう「お嬢ちゃん」「娘さん」と他人行儀に話してくるくらいなのだが、料理に関しては全く衰えておらず、レシピも見ずに感覚で完璧に作るのだそうだ。

そして、今日はたまたま会えなかったが、年下の奥さんがそんな店長の補助をしているらしい。

途中、道の駅で買い物に寄ると、瀬野が海里の隣に立つ雫に興味津々の眼差しを向けてきた。

会計をしている間も何か言われるのではと落ち着かなかったが、瀬野は淡々と仕事をこなし「ありがとねぇ」とすんなり見送ってくれた。

「ありゃまた変に妄想されてるだろうな」

海里が苦笑しながら買い物袋を持った手を肩に乗せた。背中で、玉ねぎや春キャベツ、絹さやなどが入った袋が、歩くたびにカサカサと揺れる。雲一つない午後の空を仰いで、やれやれと呟いた。

「でも何も言ってなかったよ」

「いんや、あれは目で言ってたね。『あらぁ、彼女出来たの?』って。あのおばちゃん、俺と渚がくっくつのを今か今かと期待してるからな。ゴシップ好きのおばちゃんてのはどこにでもいるもんだよ。まぁ、あの人は色んな人を見てる分、細かい変化にも気付きやすくて、年寄りの多いこの町では役に立ってる部分もあるんだけどさ」

しおかぜ通りのなだらかな坂道を清風が駆け上る。クリスマスに朝から鶏肉を焼いてくれた精肉店のお爺さんは、店の前を歩く雫たちに「こんにちは」と、ショーケースの横に置いた丸椅子に腰かけて手を振っていた。

「クリスマスに焼いてくれた鶏肉、とても美味しかったです。ありがとうございました」

雫が言うと、満面の笑みを浮かべて顔の前で手を横に振った。前歯が殆ど抜け落ちてはいるものの、むしろそれが愛嬌を増している。

「ええんよぉ、あれくらい。どうせヒマなんやから。はっはっ」

通りを曲がって雫たちの姿が見えなくなるまで笑顔を浮かべていた。

うららかで華やかな春の気配を感じながら、雫の中にある様々な不安やもどかしい気持ちが渦巻き続けていた。

民宿の鍵を開けた海里が荷物を持って中に入る。靴を脱ごうとした海里の背中を見つめていた雫の心は、もう色んな暗い感情で今にも溢れそうになっていた。

「ねぇ、海里」

廊下に上がろうとした海里が「ん、どうした?」と振り向く。どの気持ちから打ち明けたら良いのかと次の言葉に考えを巡らせる。

「ありがとう。その、楽しかった」

「おう!あ、俺この後釣りに行くけど、雫も来るか?」

「ううん。ちょっと部屋で休もうかと思ってる」

海里は「そっか。じゃあ夕飯用にいっぱい釣って来るわ」と、雫の頭を撫でる。

やはり子供を愛でるような海里に、複雑な気持ちのまま頷くしかなかった。

ベランダから見える海は、波も穏やかだ。

今朝早くに雫が干した洗濯物が春風にはためき、以前海里が張ったロープには、台所で使用する白い布巾が二枚、ぱたぱたと揺れている。

左に見える白い灯台の足元に座って釣り糸を垂らしている海里が小さく見えていた。

母と再会して一か月が過ぎた。

会うまでは祖父の手帳を見ては母の事を知ろうとしていたが、今ではぱったりやらなくなった。段ボールに入った手紙も全く触っていない。

かつては母が雫を愛してくれていた事を知った。

母もまた父の事で苦しい思いをしていた事も知った。

だが、だからと言って母にされた事を無かった事にはできない。母にどんな理由があったと知ったところで、悲しい記憶は消えるものではなかった。

母に愛されていた事を知れば、この世に未練も無くなって祖父と同じ所に行けるのではと思ったが、相変わらず雫の存在は今もここにある。

海里への日々募る想いと、渚と海里の関係に向けてしまう複雑な心。

瀬野が二人は結婚すると思っているくらい、きっと二人は昔から仲が良いのだ。

 あんなに良くしてくれる二人にこんな思いを抱くくらいなら、おじいちゃんの所に行きたいよ。海里を好きになったって、どうせ九月までしかここには居られないのに。

あと半年も無い。胸の奥をチクチクと針で刺されるような感覚に陥る。

早く祖父の元に行きたい。だけどここを離れたくないという感情も同時に芽生えてしまう。

浜に打ち寄せた波が、ざんと砕けて白い泡となる。

『楽しい事が一杯なんだ。こんな地味な場所でもさ、世界一綺麗だーって思える事がいっぱいあるんだぜ。それを雫もこれから沢山経験して行こう。自分の人生は自分でいくらでも変えられるんだ。生きてりゃどうすることも出来ない事もある。誰かに壊された時間があるなら、自分の力でその苦しみの倍の幸せを掴めばいい。どんな事があっても、過去に未来を壊されるほど馬鹿馬鹿しい事はねぇよ。自分を変えるのも、未来を変えるのも、自分だけなんだよ』

二人は雫が九月三日までしかここで生きられない事を知らない。

 苦しみの倍の幸せ、か。

雫にとっての未来はもう少ししか残されていない。ここでやりたい事。それを伝えたら海里は叶えてくれるだろうか。九月には消えてしまう命ならば、いっそわがまま言って甘えてみても良いのだろうか。

何か釣れたらしい海里が竿を上下させながらリールを巻いている。

やがてキラキラと輝く魚が数匹連なっているのが微かに見えた。

「死ぬまでに、やっておきたい事か」

海とは反対側にある裏山からは、ウグイスの美しい声が聞こえていた。



「このわかめ、めっちゃ美味しいんよ。今日暑いし、夜はさっぱり酢の物でもしようか」


五月の午後。山を染めていた桜も散り、青葉が茂る。

急に冷え込むが日あったりと仕舞うタイミングを失っていたコタツも、ここ数日続く汗が滲む日々に慌てて押し入れの奥に片付けた。

道の駅にやってきた渚は、塩漬けにされたわかめの袋をカゴに入れた。

海里は用事があると言って昼食後は家に帰ってしまった。

渚は理由を知っているようだが「私もちゃんと本人から言われた訳じゃないんよ。本人は隠してるつもりみたいやし、そのうち教えてくれると思うよ」と言うだけだった。

キュウリや人参、玉ねぎなどの野菜と調味料をレジに持って行く。前回見た時よりわずかに丸みが増した瀬野が、手際よく商品をレジに通していく。

「最近、海里君おらんけど元気してんの?最後に見たんは、この子と一緒に来た時やったかなぁ」

商品を詰めた袋を渚に渡しながら、瀬野は眉をハの字にして尋ねた。

「あぁ、元気元気。海里から元気取ったら何も残らんやん。なんか忙しいみたいやねん。たまには顔出しやって言とうくわ」

代金をトレーに置いて、からからと笑う。

帰り道も渚が他愛の無い話を次々にしては、雫がそれに相槌を打っていた。

相変わらず大した反応のできない雫に対して、渚は嫌な顔一つせず楽しそうに喋ってくれる。

渚のそういう部分が心地よく、彼女の一方的にも見える話も全く苦では無かった。

首筋に滲む汗をハンカチで拭う。しおかぜ通りを抜けてようやく見えた夕陽が浜の海。

輝く青い海に立つ人。白くうねる波に乗っていたのは海里だ。

「なんや、サーフィンしてたんか。電話してんのかと思ったのに」

鍵を開けながら何気なく口にした渚が、しまったと言うように慌てて口をつぐんだ。

「電話?」

「ううん、何でもないねん。あー、疲れたぁ。ちょっと休憩しよ」

買い物袋を手にして中に入る渚の後を追う。買ったものを仕舞い、冷たい麦茶を一気に飲み、畳に裸足を投げ出して天井を仰いだ。

「海里がサーフィンやってんの久しぶりに見たわ。ジュンさんが亡くなってからは一回もやってるとこ見てへんかも」

祖父が元気だった頃は春先からはいつもああして波に乗っていたらしいが、祖父が他界して精神的に落ち込んだ時期があり、いつしかぱったりやらなくなっていたらしい。

「子供ん時はほんまに泳ぐんも下手でさ。溺れでもせん限り、水に顔浸ける事すら出来んかってん。家に遊びに来た時はお風呂場でもよう練習してたんやで。昔は道の駅の隣に市民プールがあって、よく一緒に行って私が教えててん。まぁ、でもこれがホンマに全然泳がれへんくてさぁ。プールの後、いつも売店で買ったアイス食べながら、ふてくされてる海里慰めてたんやけど、その頃に売店で働いてた瀬野さんが私らの事よう見ててね。当時はちょっとだけ好きな気持ちもあってさ。私が海里と結婚するんやって言うたのを未だに本気にしてるねん。ほんま、迷惑な話やで」

あははと明るく笑う渚に対して、さり気なく顔を背ける。

特に理由なく目を向けた縁側の隅に、小さな紙で出来た袋が置いてあった。

「あさがお?」

雫が手にしたそれを、後ろから渚が覗き込む。

すると思い出したように「あ。もしかして海里、今日はこれ買いに行ってたんかな。ほら」と、庭の隅を指さした。

木漏れ日に揺れる木の足元に、真新しい植木鉢とスコップ、土の入った袋が置いてあった。

ヘブンリーブルー。空色アサガオと書かれたその袋には、名前の通り爽やかで優しい夏の空を思い起こさせるような丸い花の写真が載っていた。

夏の日差しを浴びる朝顔。

これが咲いたらどんなに綺麗だろう。

なんとも素敵な名前が付けられたその花の写真にしばらく魅入っていた。

「雫ちゃんさ。海里のこと好き?」

前触れなく突然出たその言葉に、出したことも無いような情けない声で驚いた。無意識に、朝顔の種が入った紙袋を持つ手に力がこもる。

「あれ?もしかして気付いてないと思ってた?」

言葉を失う雫に、軽い笑い声を立てた。

庭に迷い込んできた蝶々が、塀の傍に生えた紫の小さなニワセキショウの周りをひらりひらりと舞う。頭上に吊り下げられた釣鐘の風鈴がリンと透明な音を響かせた。

「私、実はもうずっと前からそんな気がしてたんよ。これでも密かに応援してたんやで。でもなーんか雫ちゃん、私に気使ってる気がしてさ。もう変な誤解されんのも嫌やから、はっきり言うとこ思ってん」

「誤解?」

雫が言うと、渚は「そうそう」と顔周りにやって来たモンキチョウに目を細めた。

「瀬野さんの言うてた事気にしてるんやろ。あれはあの人が勝手に言うてる事やから。瀬野さんにいらん事言うて言いふらされても嫌やから黙ってたんやけど。私、もうとっくに海里には振られてるんよ。だから別に今は何とも思ってないわけで――」

玄関のドアが勢いよく開く音が響く。同時に「渚!これ持ってって」と海里が叫ぶ声に、二人は急いで玄関に向かった。

「あれ、サーフィンしてたんちゃうん」

玄関に置かれたクーラーボックス。海里はサーフボードを玄関先の壁に立て掛け、やれやれと言ったように前髪をかき上げる。

汗ばんだ額が露になって、ちょっと胸が高鳴ったのを悟られないよう視線を逸した。

「ちゃーんと魚も釣って来たんだよ。ほら、アジだ。今日暑いし南蛮漬け作ろうぜ」

クーラーボックスに所狭しと入れられたアジが、まだぴちぴちと尾を跳ねていた。

「ジュンさんがよく作ってくれた南蛮漬けのレシピ、渚がばっちり教わってるから楽しみにしとけよな。あれ、雫どうした?」

「う、ううん。美味しそうだね」

茫然としていたらしい。慌てて笑顔を作ってアジの入ったクーラーボックスを渚と一緒に台所へと運んだ。



「土に指で穴を開けて、種を入れるんだ。で、土をかぶせたら水を撒く。以上だ!」

よく晴れた日の朝。庭に置いた植木鉢に、海里の指示通り指で穴を開ける。朝顔の種を入れて土をかぶせ、渡されたジョウロで水をたっぷり撒いた。

「よし。毎日朝に土が乾いてるか確認してから水をやるんだ。湿ってたらやっちゃ駄目だぞ。暑い日は夕方も様子見て水やりすること」

「海里がそんな事に詳しいなんて初めて知ったわ」

渚が切り分けたパイナップルの乗ったお盆を縁側に置いて笑う。

日々近づく夏の太陽を彷彿とさせる黄色いパイナップルの、瑞々しくて爽やかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。

海里が土を用意してくれていた朝顔。自分で種を撒いて水をやるだけで何だかとてつもなく愛着が湧く。

「花屋のおばちゃんにやり方聞いて来たからな。雫はこういうのもやった事無いだろ?俺らは小学生の夏休みに朝顔育てて観察日記とか付けてたんだぜ」

フォークにパイナップルを同時に二つ刺して口に放り込む。思いついたように居間の棚を漁り始めた。

「雫もやるか?ほら、新品のノートもあるしさ。後で見返すと案外楽しいもんだぜ」

「うん、ありがとう。やってみる」

大学ノートを受け取った雫は、それを膝の上に乗せたままパイナップルを口に入れる。

植物を育てた事も無ければ、日記も書いた事が無い。

絵を描いてみたら成長がわかりやすいのだろうが、得意とは言えない絵で良いのだろうか。

そんな事を考えながらもこれから朝顔の成長を日々を見られると思うと、明日が来るのが楽しみになる気がした。

「海里、夏休みの宿題とかやってたん?!」

衝撃、とでも言うように渚が口をあんぐりと開けていた。

その日も、昨日から漬けていたアジの南蛮漬けを楽しんだ。一日置いた南蛮漬けは味がよく染みて美味しい。

海里は最近アジをよく釣って来るが、雫はアジの南蛮漬けが大好きだ。

それを伝えると、俺の釣った魚が良い物だったからだと自慢する海里に、私の料理の腕が上がったからだと豪語する渚。

些細な事で大げさな程に言い争う二人の仲の良い掛け合いを見ていると、自然と笑みが零れた。

「ん?雫どうした?」

「ううん。なんだか凄く楽しいなって思って。ここに戻って来られて本当に良かった」

自然と笑えた。その事実が雫にとっては何よりも嬉しかったのだ。

ずっと戻って来たいと思っていた夕日が浜なのに、雫の内気すぎる性格と、二人への感情のせいで笑えないままだった自分に、ようやく少し変化が訪れたのだ。

海里のお陰で母に会う事が出来た。そして渚が雫と海里を応援していると言ってくれたお陰もあるだろう。

普通の子供であれば当たり前の日常。

この穏やかな日々を過ごさせてくれている二人に感謝しながら、ふわりと香る味噌汁に口をつけた。



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