夕陽が浜の海辺

如月 凜

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それぞれの想い

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~渚~

「じゃ、今日は夕飯の支度あるから先に帰るわ。あとお願いね」

海里と雫を民宿に残し、家へ急いだ。

五月後半にもなると随分と日が長くなった。

少し前まではこの時間は空も濃紺に染まり、山の向こうに太陽がすっぽりと沈んでいたのに、今はまだ随分と高い場所にある。

まだまだ明るいパイナップルのような色をした陽光が、渚に降り注いでいた。

母が脳梗塞で倒れて以来、休みの日でも渚が夕飯の用意を担当するようにしている。

自宅のドアを開けると、台所からトントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。

「あれっ、今日は私が作るって言ってたのに。ゆっくりしといてや」

「渚は民宿の方もあるし、お母さんも別に元気やから大丈夫やで。それより海里君は?向こうにおるの?渚も民宿で食べて来るんやと思って一人分しか作ってなかったわ。渚、それ食べ。ほうれん草の胡麻和えも作ろう思てるし、納豆も漬物もあるから」

手を洗ってエプロンを着け、茹でたほうれん草を切る母の隣に立つ。クツクツと火に掛けられたフライパンの中で、メバルが煮つけにされていた。

「あぁ、良いよ良いよ。適当に余ったん食べるし。お昼に梅パスタ作ったんやけど、海里がパスタ茹ですぎてさぁ。食べ過ぎてあんまお腹空いてないねん」

母が切ったほうれん草を絞り、砂糖と醤油、すり胡麻で和える。冷蔵庫から出した柚子大根を小鉢に盛りつけて居間に運び、少し早い夕飯を母と一緒にとる事にした。

「ねぇ、海里のお母さんってどうなってんの?具合悪いん?」

ぽりぽりと柚子大根を噛んでいた母が「あぁ」と眉をひそめた。

「正直に言うとあまり良くないんよね。海里君も知ってるから言うけど、良くなる事は無いかもしれん。私はお見舞いに行ってるけどさ、息子には来て欲しくないみたい。彼には彼の時間を過ごしてほしいってさ。ずっと暴力振るう父親がおる可哀そうな環境で過ごさせてしまった分、今の民宿での生活で沢山笑って欲しいって言ってたわ。その代わり、よう海里君から電話が掛かって来るって言うてたよ。あんなに荒れてたけど、やっぱり海里君は優しい子やわ。お母さんが入院してる時も、渚はしっかりしてるし大丈夫です。俺も守りますって言うてくれてたからねぇ」

「海里が?」

「そうやで。あんたがおらん時に言うてたんよ、ふふっ。あ、メバルも半分食べや」

テレビを見ながら言った母が、含みを持たせて笑う。

「ふぅん」と気の無い返事をして、ほぐしたメバルを食べる。身の締まった淡泊な身に甘辛い煮汁がよく合う。

名前も知らない若い芸人のコントを見ながら、母が肩を揺らして笑っていた。


「私、海里のこと好き。ずっと前から気付いてるやろ?」

昨年の暮れ。民宿からの帰り道そう言った。瀬野の言う通り、小さい頃から海里のお嫁さんになると言いふらしていたし、年頃になってからは流石に言わなくなったが、好きだという気持ちは変わっていなかった。

「あぁ、うん」

少し前を歩く海里が立ち止まり、振り向かないまま大きく息を一つ吐いてから答えた。 

しおかぜ通りを抜けた畦道沿いにある龍見神社の古ぼけた鳥居の前。壮大な茜空が印象的な日だった。

神社へと続く参道は、木々の合間から真っ直ぐに射し込む濃い夕陽の木漏れ日を揺らしている。

森のしっとりとした土の匂いが、重い沈黙が流れるせいかいつもより濃く感じる。

色褪せた朱色の鳥居を見上げた海里が、眩しそうに目を細めた。

「ガキの頃、二人でここの境内でかくれんぼしててさ。渚が迷子になっただろ」

「うん。森の中に入っちゃって迷子になったんよな。暫くして海里が見つけてくれた」

「あん時、めちゃめちゃ怖くてさ。親父があんなんだから、俺に優しくしてくれた人が俺のせいでいなくなったって思ったら、すげぇ怖かったんだ。見つけた時、渚は安心して大泣きしてたけど、心ん中では俺の方が泣いてたんだぜ。良かったって。俺によくしてくれる人達を俺は絶対守りたいって思った。渚の家に住むってなった時、絶対俺が守るって。まぁ、あの頃は精神的に不安定だったし、強くなる事に頭いっぱいで結局迷惑しかかけてなかったけどさ」

海里はいつになく真面目な表情を見せる。渚もそんな海里と向き合い、思わず息を呑んだ。ふっと頬を緩めた海里が口を開いた。

「俺も好きだけどさ。それは彼女とかそういう感情じゃねぇんだ。ごめんな」

「……うん」

そう言われる事はわかっていた。海里は乱暴でがさつな所はあるけれど優しい。渚の事を妹みたいに見ている事には気付いていたが、もうここまで積もり積もった想いをどうしても伝えずにはいられなかった。

「雫ちゃんの事、好きなんやろ」

海里の眉が一瞬動いた。動揺しているのだろうとすぐにわかったが、それを隠すかのようにいつもの笑顔を見せた。

「何言ってんだよ、あいつ中身はまだ子供だぞ。そんなわけねぇだろ。ほら帰るぞ」

「雫ちゃん、ほんまにずっとここにおれんの?!そうじゃないかもしれんって、海里も前に言うてたやん。それなら――」

「それなら、余計に言うべきじゃねぇだろ」

呆れたような口調で、それからは何も言わなかった。再び歩き始めた海里の背中を見つめていた。

山の向こうに飛んでいくカラスの鳴く声が、どうしようもなく虚しく、田舎の小さな町にこだましていた。




~海里~

夜の冷気が、眠れない頭を更に冴え渡らせる。

窓際の椅子に腰かけ、咥えた煙草にジッポーライターで火を点けた。ライターの蓋がカチンと閉まる音が一際大きく響いた。

久しぶりに吸う煙草の白い煙が、月明りだけの薄暗い部屋に妖しくゆらめく。

「ジュンさん、たまには良いよな」

ヘビースモーカーだった海里が煙草を辞めるとジュンさんに宣言したのは、本格的に民宿を手伝う事になってからだ。

渚の母親が海里の身体を心配しているとぼやいていたとジュンさんが言っていた。

海里に直接言いたいが、親元を離れての生活に色々と辛い部分もあるのかもしれないと思っての事らしい。

それを聞いた海里は、今手にしている煙草を吸うまではきっぱりと禁煙していた。落ち着かない日もあったが、そんな時は釣りやサーフィンをして紛らわせていた。 

本棚に置いた写真立てに映るジュンさんは、仏頂面で海を真っ直ぐに見つめていた。

一緒に灯台の下に釣りに行った時の物だ。ジュンさんは何も言わなかったが、海里達に内緒で時々どこかに行っているのは知っていたし、みるみる痩せていった事から病に侵されている事には気付いていた。

だがジュンさんがそんな事を打ち明けるはずもなく、海里も渚もわざわざ聞き出そうとも思わなかった。

ただ、いつか来る終わりを確信し始めた時、何気ない日常の姿が急に尊いものに思えた海里は、釣り糸を垂らしている彼の横顔にシャッターを切った。

『何やっとんねん』と睨まれたが、すぐにいつものように鼻で笑われた。

「ジュンさんが雫をここに連れて来たってんなら、やっぱりまた連れて行っちまうのか?ずっとここに居させてやれねぇのかよ」

凜とした風がカーテンをふわりと持ち上げる。雨上がりの濃い土の匂いを含んだ冬の夜風が、髪を撫でる。

今日、雫に母親の事を打ち明けた途端、大雨のなか民宿を飛び出していった。

渚に背中を押されて追いかけたが、荒れた海辺でうずくまる雫の背中を見て、海里は一瞬声を掛けるのをためらった。

吐き出した煙は、澄んだ空に浮かぶ金属質な光を放つ下弦の月に溶けて消える。

「雫の身体が、透明に見えたなんてさぁ……どういう事だよ、ジュンさん。あいつにここで生活させてやりたいって、言ってたじゃねえかよ」

苛立ちに任せて灰皿に押し付けた煙草が、ジュッと小さな音を立てた。




~雫~

がらんとした居間。庭の隅では、植木鉢が朧月の薄ぼんやりした光に照らされている。

時刻は深夜の二時を指していた。

今朝、海里と植えた空色アサガオの種。実物はどんな綺麗な花が咲くのだろう。ガラス戸を開け、縁側に腰を降ろす。

六月を目前にしてもこの時間はまだ冷える。裸足に纏うひんやりとした夜風は、雫に生きているのだと教えてくれているかのようだった。

流れの早い雲が、煙のように風に流れていく。居間の振り子時計の秒針が、静かに時を刻んでいた。

 ここにいる間にしたい事。

縁側の風鈴がリンとひとつ鳴る。

「ホタルブクロ……」

祖父が言っていた。この風鈴の形に似たホタルブクロという花に、本物のホタルを入れたという話。初夏の花だと聞いたが、そうだとすれば来月の終わりくらいには咲くのだろうか。その頃には蛍も飛ぶだろうか。

海里と渚さんに頼んだら、一緒にホタルブクロ探してくれるかな。

規則正しく刻まれる時計の音に、雫の命もまた残された時間を消費している。その事実に、雫はひとり空を仰いだ。

 リン

庭の木も、じっと葉を揺らさない程の静寂に包まれる。寄り添うように風鈴が優しい音を奏でていた。
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